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1


 「もしもし、どちら様ですか?」


 「……ツー・ツー」


 また無言電話だ。

 加奈は首を捻ると、受話器を下ろした。


 今月に入ってから、毎日のようにかかってくる無言電話。

 いつも小田切が居ない時を見計らったかのようなタイミングでかかってくる。

 といっても一日に一度。休日で小田切が居る時にはかかってこない。

 実害はほぼ無に等しいのだが、気味が悪い。


 (この近辺では流行っている悪戯なのかな?)


 電話帳に掲載されている電話番号に無作為に電話をかける悪戯

 なのかもしれない。最近ではかかってくる度に、その番号を

 登録して次回から分かるように設定するが、それでも毎回

 違う番号からかかってくる。


 (警察に相談するほどのことでもないし……。誰か近所の人に聞いて

  みた方がいいのかな。何か対策を教えてくれるかもしれない)

 

 ボーン。ボーン。ボーン。


 柱時計が九時を知らせる音で、加奈は我に返る。

 そろそろ出勤の時間だ。

 

 まだお絵描きに夢中の望に準備するよう促す。

 保育園の服と帽子は既に身に付けているので、後は鞄を取りに行く

 だけの状態だ。早め早めに準備する慎重な性格は、小田切の影響だろう。

  

 望を助手席に乗せ自動車を発進させる。

 小田切とは別に購入した軽自動車は、軽やかな音を立てて、

 住宅街を走り出した。


 小田切家は大学から車で三十分程の位置にある、賃貸のファミリー・

 マンションにある。

 勤務先の大学へは車で三十分程で、近すぎず遠すぎない適度な距離。

 買い物や職場へのアクセスに支障がないこと。

 その割に自然に恵まれた立地環境。

 様々な物件を吟味した結果、二人の意見が一致したのがここだった。

  

 「ママ、今日はお迎え何時頃?」


 「七時ぐらい。遅くなってごめんね」

 

 加奈は塾で英語を教えている。

 父親の仕事の関係で、アメリカに数年滞在していた経験に加え、

 大学も英文学科に進学した経歴から、英語を使う職に就いたのは

 必然と言って良かった。それに加えて、大学時代の伝手で、

 頼まれて翻訳の仕事をするときもある。小中学生を対象とした

 授業なので、勤務時間は午後遅くからが多く、一教科だけという

 こともあり、時間には余裕がある。

 

 小田切の両親も同じ市内に住んでいるので、喜んで

 望の世話を引き受けてくれるのもありがたい。子育てに手を抜くことなく

 仕事にも専念できる環境にあることに、加奈は本当に感謝している。


 それでもあえて望を保育園に預けるのは、一人っ子の望に

 同年代の子どもとの交流の仕方を教える意味合いが大きい。

 もちろん義理の両親に頼りっぱなしには、できないという遠慮もあるが。


 幸い今年3歳になる望は人見知りすることなく、保育園で友人と遊ぶのを

 楽しみにしており、子育ても順調。


 今日も待ちきれないというように、車から降りた望は

 加奈が先生に挨拶している間に、もう運動場で遊ぶ友達の方へと

 駆けだしている。


 「もう、先生に挨拶しなきゃ駄目でしょう!」


 一声かけると、望は遠くから大声で先生に挨拶する。

 加奈が困った顔をして見せると、担任のベテランの保育士は

 慈愛のこもった笑顔で応じてくれる。

 望に触発されたかのように、他の園児たちもわあっと駆けていく。

 それぞれの保護者たちとも、一通り挨拶を交わすと加奈は

 勤務先の塾へ向かった。


 平凡だけれど、満ち足りた日々。

 それがこの日を境に音を立てて崩れていくとは、

 この時の加奈は想像だにしていなかった。

 


2


 ことの発端は加奈が勤めている学習塾にかかってきた一本の

 電話だった。


 いつもはなんだかんだと上手に応対する受付の女の子が、救いを

 求めるように講師室を見つめていた。入口の傍にあるデスクが受付

 であり、講師室は受付の横に位置する。ガラス壁に仕切られているので、

 お互いの動向はすぐに分かる。塾長室は講師室の奥にある個室であるが、

 塾長自らも教鞭を取っているため、今も講師室で授業で使用する

 レジュメのコピーをとっている。まだ時間が早いので、今講師室に

 居るのは塾長と加奈だけだ。


 授業の予習に夢中になっていた加奈の方が異変に気付くのが遅かった

 ようで、塾長は既に異変に感づいていたのか、黙って受付嬢の動向を

 伺っている。堪りかねた受付嬢が手招きで救いを求めると、それを

 予期していたのかスムーズな動きで塾長が近づく。

 

 こちらからは姿は見えるが、話している内容までは聞き取れない。

 見えない相手に対して受付嬢が、必死で何事かを話していることだけが、

 分かる。受付嬢が保留ボタンを押したのを確認して、塾長が声をかける。

 会話中、受付嬢はなぜか加奈の様子をちらりと伺い見た。


 「?」


 先程塾長と世間話で話題にした、無言電話なのだろうか?

 塾長はこの塾には無言電話なんて、めったにかかってこないと

 言っていたけれど。

 

 (それに何か話をしていたようだったけれど……?)


 もし無言電話なら、受付嬢は相手とどんな話をしたというのか。

 それとも、馬鹿げた悪戯を止めるよう諭していたのか。


 受付嬢から受話器を任された塾長は、動揺することもなく

 相手に対応すると、電話を終わらせた。横で見るからにはらはらと

 成り行きを見守っている受付嬢とは対照的だ。

 「さすが年の功」と失礼ながら、加奈は思った。


 電話が終わると受付嬢はすぐに塾長に糺すが、人目を気にするような

 内容なのか塾長は彼女を促し、そっと二人は塾長室に消えた。

 

 (なんだったんだろう。一体……)


 ぼうっと塾長室を眺めていると、外から児童の騒ぐ声が聞こえてくる。

 ガラス壁越しに外を見れば、ランドセルを背負った小学生たちがふざけ

 ながら下校している。


 時計を見れば午後三時半。

 あと一時間で児童がやってくる。

 加奈は予習に戻った。


 塾生の声が聞こえ、授業開始のベルが鳴る頃には、加奈はもうすっかり

 通常の仕事モードに戻り、終業の頃にはすっかり忘却していた。

 

 受験を控えた児童の質問に応えていると、すっかり外は暗くなっている。

 望を保育園に迎えに行く時間が迫り、加奈は帰り支度に追われていた。

 

 「小田切先生、ちょっといいかしら……」


 他の職員同様、とうに帰宅していたと思いこんでいた塾長が呼びとめる。

 白髪をきれいに後ろで結わえた塾長は、学校の先生のように常に職員に

 「先生」と付ける。全体的に所作が上品なところを、加奈は密かに憧れて

 いたりする。塾にも誰よりも早くに出勤し、誰よりも遅くまで仕事している。

 教育者として尊敬すべき人物で、ユーモアもある。

 普段であれば呼びとめられることは、喜ばしいことだ。 

 

 だが今は少し焦っていた。

 一分でも望の迎えが遅れると、延滞料金が発生するのだ。


 「何でしょうか?」


 言いながら塾長室へ入っても、保育園の時間が気になってそわそわ

 してしまう加奈。その様子に「終業間際に引き留めてごめんなさいね」と

 先制されてしまえば、それ以上は何も言えなかった。

 話を促すと、塾長は声を潜める。

 周囲にはもう誰も残っていないと言うのに。


 「個人的な質問ですので、どうしても話したくないのであれば

  無理強いはしません。ですが今後のうちの経営にも関わる

  ことなので、できれば力を貸して頂きたいの」


 あくまで「自発的」に応えることを促しながらも、その目は真剣

 そのもので問題が複雑であることを臭わせていた。


 「お話しを聞かなければ、お答えできませんが……。私に応え

  られることであれば、もちろんお答えしますよ」


 応えられないような質問なんて、頭に全く浮かばなかったが、

 それでもその顔の真剣さから念の為逃げ道を用意しておく。

 質問できる許可をもらったと受け取ったのか、塾長は一呼吸置いて、

 尋ねる。


 「今日の午後に、受付に電話がかかって来たことを覚えていますか?」


 言われて、そう言えば電話の応対をしていた女の子が妙な雰囲気であった

 ことを思い出した。そう告げると、塾長は本題に入る。

  

 「相手の方は名乗らなかったけれど、内容からうちの塾生の

  保護者の方だと思うわ。その方がこうお尋ねになったの」


 『そちらの塾にいらっしゃる小田切先生のことで、良くない噂を耳に

  したんです。旦那さんが酷いアカデミック・ハラスメントをして

    学生さんを一人死なせたと聞いたのですが。本当ですか?もし本当

    ならそんな人の関係者に、子どもに教育を受けさせたくありません。

    今すぐクラスを変更させて下さい』


 「そうおっしゃって。それで一旦確認することで、納得して頂いたの」


 「……」


 飽いた口がふさがらない。

 知らされた加奈は酷く狼狽した。想像もしたことのなかった問い。

 まさか夫の事で自分が窮地に追い込まれるとは予想だにしていなかった。


 「もしそうだとしても、それはあなたには責任がないことは分かっています。

  ただ……保護者を納得させる為には、こちらとしても誠意を見せなければ

  いけません。大事なお子さんをお預かりしているわけですから」

 

 「……そうですよね」


 加奈はどこか他人事のように聞いていた。

 この想像を凌駕した展開に、気持ちが追いついていない。

 その態度を見て、少し躊躇ってから塾長は言い辛そうに続ける。

 

 「実は……今回が初めてではないんですよ」


 少し以前から数件同じ内容の問い合わせがあったのという。

 今回の受付嬢の挙動不審な態度は、怪しい電話に怯えたのではなく、

 幾度も同じ内容の質問を受けて困っていたからだと説明された。


 「いずれにしろ、小田切先生自体に落ち度があるわけではありません。

 塾としても、これが理由であなたを解雇しようとは思っていませんよ。

 ただ経営者として事実確認をする必要があるんです。今後の対応を考え

 なければいけませんから」

 


3


 塾長は保育園の時間を気にしていたのか、要件を告げると
 ぽんぽんと加奈の
肩を叩いて「はい。お疲れ様」と言って帰宅を
 促した。魔法が解かれたかの
ように、我に返ると取り繕うように
 挨拶をして、加奈は塾長室から退出
した。
 
  夫にこの件をどう尋ねればいいのか。

 こんなのは中傷に決まっている。

 でももし本当だったとしたら、自分はどうすればいいのか。

 望にまで影響することはないのか。

 その学生の御両親にどう顔向けすればいいのか。


 突如訪れた疑惑の種に、加奈はなす術がない。 


 加奈の勤めている学習塾は、地元ではその独自性で有名な学習塾で、

 通常の進学コース以外にも、不登校の子どもたちへの特別プログラムも

 用意していることでマスコミにも広く知れ渡っている塾だ。そのため

 こんな噂は営業に大いに差し支える可能性があった。塾長はあくまで

 本当だったとしても加奈には責任はないと言ったが、全国区の塾ではなく、

 地元に特化した塾である以上、その噂がどれほど致命的であるのかが

 分からない程、加奈は無神経ではなかった。

 

 時計を見るとまだ予定の迎えの時間に間に合う時間。


 それでも心の整理をする為には、時間が必要だと直感が告げている。

 配慮してくれた塾長には申し訳ないが、加奈には今から保育園に到着

 するまでの短時間で、いつもの自分に戻れる自信はなかった。

 

 迎えに行く時間は事前に告げてあるが、保育園自体は十時まで

 開園している。理由が理由なので後ろめたい気持ちを持ちながらも、

 自分の直観に従って、加奈は保育園に一時間の延長を願い出た。

 

 電話を切って、息を大きく吐く。

 正面を見ると、誰もいない受付から携帯電話を握っている自分が、

 塾の入口に置かれている大鏡に映る。その姿が何とも小さく見えて、

 心もとない。幸い、今まで一度も遅刻や無理なお願いをしてこなかった

 ことも功を奏したのか、延長はあっさりと認めてもらえた。


 (これで少しは余裕ができる。一時間の間に気持ちを落ち着けないと)


 好きな音楽をかけながらドライブでもして気持ちを落ちつけようと、

 駐車場へ向かう。

 それが最善の策とは我ながら思えなかったが、それくらいしか気を

 紛らわせる方法が見つからない。早足で入口の自動ドアを通ると、

 背後から声がした。 

 

 「あの、ちょっとお時間頂戴してもいいですか?」

  

 そこには昼に電話に対応した受付嬢天原が立っていた。


 (そうかこの娘も、電話の内容を知っているんだ……)


 もともと挨拶だけの関係で、あまり話をしてこなかった子だ。

 何を意図しているのか、理解できなかった。


 天原は遠くの県の出身で、大学からこちらへ出てきた短大生だ。

 まだ新入生で若さにあふれている。その分幼いともいえるが。

 染めた髪をゆるく巻いた髪型は、朝に相当のセットする時間を

 必要としそうだ。服も事務服しか注意して見たことはなかったが、

 今着ている私服はフェミニン系で華奢。

 いかにも女の子といったかわいらしい子。

 いつもどこか舌足らずな話し方が、俗に言う『癒し系』と印象

 づけるらしく、この塾でも男子学生に人気がある。


 誰とも話したくない気分の加奈は、正直面倒くさいと感じた。

 そもそも話すことなどない。

 保育園を理由にすることにした。


「娘の保育園の時間……」


「……は、今一時間延長しましたよね」


 嫌みではなく、にっこり笑ってそう言われてしまうと反論できず、

 結局加奈は天原と少し離れた喫茶店に行くことになった。

 あまり人の耳がないところで話そうと言われ、加奈は一気に緊張する。

 先程の電話についての話だったら、何度も電話を受けた天原にその内容を

 詳しく聞く必要がある。その際、どうせ話をするなら人気がない場所が

 好ましいのは、加奈も同意見だ。

 加奈は自ら車を出すことを申し出た。


「あの、旦那さんって、どういう人か聞いても良いですか?」


 喫茶店で飲み物を注文し、ウエイトレスが遠くへ行ったのを確認して

 から、天原は尋ねた。


「どうって……そんなこと、するような人じゃないと思うわ。

 子どもの遊び相手だって喜んでするし、家事も率先してやってくれるわ」


 塾長が話した内容は、既に知っていることを前提で答える。

 少なくとも、現時点で加奈が思っている事を素直に伝える。

 願望も籠り、口調が熱を帯びる。


「そうじゃなくて、加奈さんにとって、どういう旦那さんなんですかあ?

 子どもにとって良い人でも、奥さんには酷い旦那さんだっているし。

 家事だって、単に自分が好きでやってるだけかもしれないですよね?」


 身近にいる人を「どういう人」かを説明するのは、存外難しい。

 悪いところと同じくらい、良いところも知っているのだ。

 一口で説明するのは難しい。

 答えあぐねていると、天原は突然低い落ち着いた声で言った。

 いつもの声は演技なのかと、加奈は少しとまどう。


「まさかDVとかモラハラとか、受けていないですよね?」


「ええ? まさかそんな。急に言われたから、考えていただけ。

 私にも優しく接してくれる。暴力なんて一度も受けたことないわ。

 心配しないで」


 加奈は慌てて否定する。今の天原の声が、迫力を持っていたのでつい

 気圧されてしまった。するとまたいつものぽやあとした顔に戻った。


「なんだあ、優しい旦那さんなんですね。安心しました。でも、

 それって他の人にもですかあ? 人によって態度が違う人って結構

 いますし。そういう人って、結構恨みとかかいますよ?」


 サービス業の人に対する態度などで、そういう片鱗が分かると、

 ご丁寧にアドバイスまでくれる。

 こんな子どもに何が分かると、加奈は腹が立った。

 表情に出さないだけの分別が、まだ自分にあったことに感謝する。

「こんなのただの悪戯よ。最近無言電話が多いし」


「ならいいですけど。何か悩みがあったらいつでも言ってくださいね。

 私、いつでも相談相手になりますんで。じゃあお先です!」


 軽やかに、天原は去っていった。

 彼女の下宿がこの辺りだと聞いてあえて、歩いて数分で帰ることの

 できる距離の、この喫茶店を選んだのは正解だったようだ。

 また車で送ったりしたら、その間気まずくなってしまう。

 

 天原が帰って気が抜けたついでに、時計を確認する。

 そろそろ保育園に迎えに行く時間だ。

 加奈はぱんと顔を両手で軽く叩いて、車のエンジンをかける。


 顔を母親の顔に戻す。

 うろたえていてはならない。常に娘が安心できる、どっしりとした

 母親でいなくては。


 心とは裏腹に、飲み屋街を楽しそうに闊歩する大学生を見ていると、

 胸の奥が重くなる。あのくらいの年齢の学生を、夫は死に追いやった

 のかもしれない。もし電話の内容が真実であるのなら、それはどんなに

 罪深いことだろう。


 そのまま夢を見るかのように、機械的に車を保育園方面へ走らせる。

 習慣の延長で惰性的に車を運転するが、その目は何も捉えてはいない。

 いつもの道がやけに冷たく感じる。

 それでもなんとか、加奈は望を指定時間内に引き取ることが出来た。


 家への帰り道で、いつものように望の保育園での話を聞く。

 いつも望が好きなように保育園での話をするのを、加奈が聞きながら

 相槌を打つ。今日もいつもと変わらない。

 そのはずだった。だが。

 

 「ママ、お腹いたいの?」


 自分では何とか取り繕っていたつもりだが、望は敏感に母親の異変を

 感じ取っていたようだ。加奈は思わぬ形で、娘の成長を知った。


 「ちょっとここら辺が痛いだけ。大丈夫」

 

 そういって胃の辺りを、指差した。

 嘘ではない。

 事実加奈は、今日の噂で胃が痛くなりそうだ。

 

 「じゃあ晩御飯はお弁当を買って帰ろうよ」


 娘のいじらしい提案に、今の生活を絶対壊させないと加奈は決意する。

 小田切は学会で出張していたので、その日は望の提案に甘えさせてもらう

 ことにした。



4

 

 「今日大学時代の友達から聞いたんだけれど、あなたの研究室で

 自殺した学生さんがいたっていうんだけれど、本当なの?」


 翌日、望が寝静まったのを確認してから、加奈は出張から帰った

 小田切に意を決して尋ねた。


 事実だけをまず確かめることにする。

 

 風呂上がりでリビングで新聞を読み、リラックスるしているのを

 狙って切り出した。

 警戒されないよう、加奈自身も雑誌を読んでいる振りをし、

 あくまで世間話であることを演出する。


 「ああ。一人自殺した学生がいた。僕たちと同級生だったから、

   覚えているよ」


 あっさりと小田切は認めた。本題から切り出さなかった効果があった。

 核心に少しずつ迫っていくことにする。


 「その人はどうして自殺したのか、知っている?」


 そこまで来て不振に思ったのか、小田切は読んでいた新聞から目を離し、

 初めてこちらを向いた。


 「……いや。どうしてそんなことに興味を持つんだ?」


 「……あなたの研究室でのことだったから、ちょっと気になっただけ。

  まさかいじめが原因で自殺とかじゃないわよね?」


 「そんなわけないだろう。……今日は疲れたからもう寝る」


 そういうと読みかけの新聞をテーブルに置いて、小田切は寝室へ向かう。

 さりげなさを装っていたが、そのタイミングが動揺を表しているようにも

 感じた。先延ばしにしていては、また電話がかかってくるかもしれない。

 塾長とも約束した。


 「逃げないで」


 「うん?」と逼迫した加奈の声に、小田切は訝しそうにこちらを見る。


 「ちゃんと答えて。私、職も信頼も失いそうなんだから……」


 今の質問と加奈の言葉の関連性が分からず、言われるがまま小田切は

 ソファーに戻る。自分もソファーに腰掛けると、加奈はテレビを消して、

 真剣に今日の昼間に塾であったことを話した。


 「……どうして初めから本当のことを話さないんだ?」


 「……ごめんなさい。あなたが本当のこと話してくれないと思って」


 「僕が嘘をつくとでも思ったのか?」


 「気づかない内に……ってこともあるじゃない。嘘を吐くとまでは

  思っていないわ」

  

 「まあいい。確かに自殺した学生はいた。確かに大学や研究室での

    いじめが原因ではあるが、そいつが被害者だったわけではない。

    むしろ加害者だった。それで退学処分を受けたのを逆恨みして、

  自殺したんだ。……ある意味確かにアカハラで死んだとは言える。

  それは正しい。だが僕たちが奴に嫌がらせをしていた訳ではない。

  それが誤って誰かに伝わったのだろう」

 

  「自殺した学生がいたことは事実なのね? それがどうしてあなたが

   追い詰めてその人が自殺したみたいな言われ方をしたのかしら?」


  「…… ひどい誤解だな。まあ事実はそういうことだ。そいつが、ある

    学生に嫌がらせを繰り返していたのを咎められて、退学処分になった。

    それからしばらくたって、 自殺した。警察が来たときに、同じ研究

    室のメンバーということで、事情聴取も受けたよ。遺書もあって

  そこには退学処分になったことを逆恨みするようなことが書いて

  あったらしい。そんな噂を流すとすれば、そいつの自殺を納得できない

  関係者としか考えられないな」


  「でも、五年も前のことでしょう?どうして今になってそんな噂が

  流れるのかしら?」


  「さあな。……ともかくその件に関しては、僕は無実だ。これで分かった

   だろう?誤解は解けたんだし、明日塾長にもそう説明しておいてくれ。

   大丈夫。誤解だと分かれば塾長も上手く対処してくれるさ」


  「……本当に誤解なのね? 信じていいのね?」


  「ああ。心配するな」


  加奈は、久しぶりにきちんと夫の目を見て話した気がした。

  誤解でほっとしたのと、張りつめいた気が抜けたので、その晩は

  ぐっすりと安眠できた。

 

  その旨を塾長に伝えると、小田切に尋ねたことを労ってくれた上で、

  たちの悪い誤解を訂正するよう力になると約束してくれた。

  塾長と天原しか知らないことらしく、他のスタッフは誰もその話題を

  知らないようだった。塾長たちの配慮のおかげで職場環境に影響なく

  仕事を続けられることに、加奈は素直に感謝した。


 (これで一段落か)


  安堵しつつも、加奈は今度は別のことが気になって仕方ない。

  相当な怨みを小田切に抱いている誰か。

  なんでも無難にこなす小田切は、だからこそ彼に理不尽に扱われた

  人間の落胆と怒りは激しくなる。自分もそうだから加奈には、分かるのだ。

  天原が指摘したことにも、心当たりはないこともない。


  事実無根の噂を、妻である加奈の職場にあえて伝える。

  そのやり口に、底知れぬ悪意を感じる。

  このまま、相手が鞘を納めるとは到底思えなかった。

 

  そしてそれは的中する。


  加奈の担当クラスから、他の先生のクラスへの移籍を

  申し出る生徒が相次いだ。全部不登校生へのプログラムに

  我が子を通わせている保護者からの申し出だ。

  あの噂も、不登校生プログラムの履修生を中心に広まった

  ものらしい。最終的に、加奈は不登校生プログラムから

  外されてしまった。

   

  事情を知らない他の講師陣は、不思議に思って首を捻っている。

  一度広がった悪評を取り消すのには、思いの他かかりそうだった。

 

  その内に塾生たちにまで噂が広がったようだ。

  加奈をあからさまに非難する子はいないが、塾生たちに「先生、

  大丈夫?」と無垢な瞳で尋ねられるとなんともいえない気持ちになる。

  生徒自身が学校でいじめにあった経験のある子が多いので、

  加奈が家で夫にいじめられているのではと心配してくれているのだ。 


  受付嬢の天原もそうだ。

  あの一件以来、噂に関する対応など塾長と共に、尽力してくれている

  彼女には頭が上がらないが、ことあるごとに本当に家で何も被害に

  あっていないか尋ねてくるのには、困惑した。


  確かに小田切は機嫌が悪いと、無口になる傾向がある。

   それでも怒鳴りつけるよりはましだと思うし、誰だってそんな時はある。

   被害者のように扱われるのは、耐えられなかった。

  腫れ物に触るような扱いは、やはり居心地が悪いものだ。

  

  小田切は大事にするのを嫌がったが、それ以後も問い合わせの電話は

   思い出したようにかかってきたので、加奈にとっては深刻な問題だった。

 

 そうこうするうちに、加奈を取り巻く環境は悪化していった。

  今までの平穏な日々が夢のように崩れていく。

  悪夢は始まったばかりだった。

 


5


 やはり気のせいではない。

 マンションの住人と顔を合わせても、
黙って会釈をするだけで
 親しげに
話しかけてくるものはいない。遠巻きにこちらを見て
 ひそひそ話を
する者たちもいる。

 

 塾にかかって来たあの電話の内容が、ついにマンション内にまで
 広まっているのかと、加奈は暗澹たる気分になる。

 

 保育園にも容赦なく、その魔の手は迫った。

 ママ友だと思ってい た保護者たちも、妙によそよそしい態度に変貌した。

 こちらから話しかけても当たり障りのない答えをしては、すぐに

 その場を離れる。そのくせこちらの様子をじっと観察していたりもする。

 からりとした関係に、カビが生えたかのような湿り気が生じてきた。


 夫に怨みの深い人間がしたことなら、怨みの理由を教えて欲しい。

 誠心誠意謝るのに。夫の代わりに自分の出来ることがあるのなら、

 何でもする。切に加奈は願う。

 あの平穏な日々を取り戻す為ならば、何事をも厭わぬ覚悟はとっくに

 できている。

 

 それでも敵は姿を見せず、当の本人である小田切に現状を訴えても、

 逆に、加奈の説明の仕方が悪いせいだと怒られるだけだった。

 噂では小田切が加害者扱いされているのだから、怒りは当然だが、

 加奈だって自身に関係のないことで生活を危うくされているのだ。

 望にまで被害が及んだらどうするのかと、心配で夜も眠れない。


 粛々と日常の業務をこなしてはいるが、ともすると崩れ落ちそうになる。

 望がいなければ、とうに心が折れそうだった。 


 何よりも夫が加奈の心労を労わるどころか、気持ちを告げる度に苛々

 するのが悲しかった。職場でも何か問題があるのか、このところ

 小田切の機嫌がすこぶる悪い。以前から怒ると無視を決め込む小田切は、

 口数が極端に減った。それでも態度が小田切の苛々する内心を露呈していて、

 いつ暴発するのかと、加奈は内心びくびくしていた。


 孤立無援。


 実家から離れたこの地で、加奈はその文字を噛みしめる。

 週に一度実家に電話するいつもの習慣も苦痛に変わった。

 ともすると感情が零れそうになる。

 本音を言えば、ここから逃げ出したい。


 それでも楽しそうに保育園に通う望を見ていると、別居を切り出す

 こともできない。今のところ、望にまでは被害が及んでいない

 らしいことだけが、唯一の救いなのだ。

 

 それに実家に逃げたところで、その犯人は自分を、小田切の

 妻を許してくれるのか。また同じことが起こるのではないか。

 

 「はあ」

 

 職場であることも忘れ、大きなため息をついてしまった。

 慌てて周りを見回すと、今は授業時間なので他の講師は既に

 出ていた。いるのは次の授業の予習をしている加奈だけ。

 聞かれなかったとほっとすると、後ろから「どうぞ」と声がする。

 

 「小田切さん、元気出してください。お母さんがそんな顔じゃ、

  娘さんだって悲しみますよお」


 相変わらず能天気な声で、天原は言うと、手にしていたチョコを

 「はい」と渡してきた。

 それが妙に勘に触る。

 自分の気持ちなど、分からないくせに。


 「人の噂も75日って言いますし、直ぐにみんな忘れますよ」

 

 「もともと小田切さんが悪い訳じゃないですし」


 「旦那さんも誤解だって言ったのなら、冤罪だったわけだから

  堂々としていればいいんですよお。それに小田切さんの事

  支えてくれてるだから、大丈夫ですよお」


  天原なりに考えての発言だとは分かっているが、どうしても

  腹が立つのが止められなかった。

  前提とされている小田切なんて、自分を責めるばかりだと言うのに。


 「適当なこと言わないで!」 

 

  思わず声を荒げてしまう。

 

  だがここ数日の出来事に、気持ちが溢れ出してしまう。

  ここは職場だと言うのに。

  自分の境遇を誰かに理解して欲しい。

  加奈は堰を切ったように、感情の赴くままここ数日の家での

  様子を語る。言葉が止まらない。

  どこかで冷静な自分が、こんなこと他人に話したところで

  どうにもなるものではないと警告を鳴らす。

  それでもやめられない。


  噂は止むどころか、どんどん広まっていること。

  生徒に動揺を与えて、生徒にも塾長にも申し訳ないと思っていること。

  小田切には支えられるどころか、責められていること。

  居場所がなくて辛いと言うこと。


  呆気にとられていた天原の顔を見て、「ああ、終わったな」と

  加奈は理解した。

  最近ではこの職場だけが、一番気が置けない場所だったのに。


  妙な噂が来たのは確かにここから。

  でも塾長も天原も、事情を知った上で、励ましてくれる。

  特別扱いをしないで、普通に接してくれる。

  でもこんな場面を見せてしまったら‐。

  それも変わってしまうのではないか。

 

 「それでいいんですよ」


  天原が低く落ち着いた声で言った。


 「その気持ちを旦那さんに、ぶつければ」


 「……」


 「小田切さん、旦那さんの前だと遠慮しているんじゃないですか?

  一方だけが我慢する関係は、長くは続きませんよ。時には自分の

    気持ちを理解してもらう努力をしなくては。言わないと分からない

    ことって、結構ありますよ」


 分かった風な口を。

 そう思いつつも、振り返れば加奈はいつも折れていた。

 年上の小田切が言うことは正しいのだと最後には謝っていた。

 

 「今だからこそ、必要なことです」


 そう微笑む天原は、得体の知れない修羅場をくぐったような

 強さがあって説得力があった。




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