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  姉の電話からこっち、感傷にふける傾向にあるようだ。
 時刻を確認すると、既に午後二時を回っている。
 慌てて写真を手帳のポケットに仕舞い、パソコンにログインする。
 起動するまでの間を有効利用しようと、午後便での郵便物を手に取った。
 
 広告に混じって封筒が1つ出てくる。
 封を切ると、中から手紙が出てきた。

 「初めまして。私は山瀬研究室の元院生です。和哉さんが在籍して
 いた当時在籍しておりました。当時の状況も鮮明に記憶にあります。
 和哉さんは、山瀬隆文一門によるアカデミック・ハラスメントの
 全責任を押しつけられて自殺しました。確かに彼はハラスメント
 加害者の一員です。ですが首謀者は彼ではない。あなたもご存じの
 通り、ハラスメント首謀者は山瀬隆文です。もみ消しの為に和哉
 さんはスケープゴートにされた。私自身も彼らから嫌がらせを
 受け精神を病み、研究の道を断念した者です。最近になりようやく
 病状が回復してきました。あなたさえ覚悟がおありなら協力いたします」

 最後には差出人として「協力者」と書いてあり、メールアドレスが
 記載されている。アドレスの末尾からフリーメールであること以外は、
 差出人の正体に繋がるものは見当たらなかった。

  封筒はごく普通の茶封筒であるし、文面も全て印字されたものだった。
 それでも
俄然女は興味を抱いた。この差出人の正体は知れない。
 だがあれだけ皆が見捨て、和哉の両親でさえ最終的には諦めたと言うのに。
 この差出人はまだ和哉のことを覚えていてくれる。

 執念深いだの忘れろなど、痛みを知らない人間が散々投げかけ傷つけてきた
 言葉が思い出される。和哉という名前を口にするだけで、今の女にとっては
 耳を傾けるに足る人物であった。


 だが一方で差出人が、山瀬研究室の関係者の可能性もあった。

 和哉との血縁関係は知られていないが、調べて判明し口封じにきた

 可能性もある。女が未だに遺恨を持っているのかどうか調べる為に。

 もし本当にただ協力しているとしても、この差出人に何の利益があると

いうのか。和哉の死について何か確信があってのことなのか。

女はひどく動揺した。


(もし本当に復讐ができるのだとしたら。私は‐)


 それでも女の持つ証拠は、生前の和哉の証言のみ。

 その和哉も亡くなり、五年も経過した今ではもう‐。

 自信がなかった。

 和哉が本当に首謀者で、自責の念がない故に他の人間も同様だと

 言い訳している可能性だって否定できない。


 結論を決めるのは、「協力者」と連絡を取ってから考えても良い。

 職場を知っている以上、あらかたの女の個人情報は既に入手している

 はずだ。今更逃げても仕方がない。

 それに女が後に残ることを意識した上でメールをやり取りし、

 そのメール履歴を保存しておけばいざという時に証拠にもなる。

 普段はヴァーチャルだけの付き合いは信用しないが

 今度ばかりはオンライン上の接触を、女は望んだ。

 

 何より当時の和哉のことを聞きだしたかった。

 不祥事で退学になった和哉のことを、あれこれ研究室の人間に

 尋ねるのは躊躇われ、結局聞けずじまいだったのだ。


 一瞬考えたのち、女は「協力者」と同じフリーメール・アカウントを

 作り、新アカウントからメールを送信した。 



3


  帰宅してメールを確認すると、「協力者」からの返信があった。

 緊張しながら、女は内容を確認する。


「お返事を頂き嬉しく思います。

 いきなりで信用できないのは当然です。

 まずは当時の和哉さんの事からお話ししましょう。

 彼は確かに加害者グループの一人でしたが、グループ内で

 立場が弱かったのです。その原因は私には分かりません。

 ですから証拠に残りやすい嫌がらせは、彼に手を下させていた。

 私の時もそうでした。証拠は近日中にお送りします。その上で

 ご決断ください 協力者」


 二日後送られてきたものは、DVDと数枚の紙だった。

 そこには一人の学生に嫌がらせをする複数の声が、

 和哉に対して無理やり実験結果を奪うよう嗾けるものだった。

 後から免罪符にするつもりなのかふざけた調子で言っているが、

 その声音には明らかに強要する響きがある。

 扇動者は明らかに、他の人間だった。

 同時に女の身体中の血が沸き立つ。

 

 間を置いて別の日時の会話が再生される。

 そこでも和哉は従っているだけだ。

 その内容は丁寧に紙に、タイプされている。

 日時もあるので、訴えれば証拠になるのかもしれない。

 

 (これで甥の無念を晴らせるかもしれない)


 名誉回復を裁判所に訴えることはできるはずだ。

 更には同罪の人間たちの責任を問うことが出来る。


 共に裁判を起こそうと「協力者」に書きこむ。

 加害者親族と被害者。

 立場の違いはあれど、共通の敵がいる。


 だが帰ってきた返事はなんともつれないものだった。

  

「お返事ありがとうございます。ですがアカデミック・ハラスメントは

 3年で時効を迎えてしまいます。私やもう一人の被害者が嫌がらせを

 受けていた時から既に5年が過ぎています。

 今からお金をかけて訴えたところで、奴らに処罰を与えることは

 出来ない。判決の結果により名誉回復は出来るかもしれませんが、

 強制力はありません。損害賠償すら請求できないのです。

 それに裁判の結果と学内人事はまた別。

 大学側は結局、何も処罰をせずにおくことでしょう」


 「……」


 希望が前に示され、女は既に名誉の回復だけでなく、加害者たちの

 社会的制裁をも望むようになっていた。名誉の回復だって、

 裁判自体を知らなければ風化されてしまう。

 

 裁判を起こせば、訴訟期間中は奴らを拘束できる。

 それに被告という立場を思い知らせることが出来る。

 それで、それだけで満足すればいいじゃないか。

 弱気になり、そう返事をすると「協力者」は話にならないというように、

 醒めた言葉を送って寄こした。


「それだけでは生ぬるいですよ。そうではないですか?

 社会的に抹殺するべきです。

  あのような輩は反省など絶対にしません。

 手加減は無用です」


 激しい言葉が並ぶ。

 画面の向こうの人間は彼らに人生を奪われた被害者なのだ。

 想うところは多いだろう。

 だが正直女は少し引いてしまった。

 「協力者」の報復が行き過ぎる可能性を考え、戦慄した。

 

 甥が嫌がらせを強要されたことに憤ってはいるが、

 モラルや法律を犯してまで仇を討とうという激しさは

 持ち合わせていない。

 もう終わりにしよう。

 ここまででいい。

 和哉のことを忘れないでくれている人間がまだ

 いることで良しとしよう。


 そう考えた女は返信をせずに、パソコンをシャットダウンしようとすると、

 メールの着信を知らせる音がする。


 「       」


 そのメールを見た女は驚き、何度も画面を確かめる。

 それが本当だと分かると、すぐに返信を始める


 「協力します。必ずあいつらを地獄の底に」


 目に見えてはいないけれど、女は画面の向こうの人物がにやりと

 笑っているのが見えたような気がした。



1


 「もしもし、どちら様ですか?」


 「……ツー・ツー」


 また無言電話だ。

 加奈は首を捻ると、受話器を下ろした。


 今月に入ってから、毎日のようにかかってくる無言電話。

 いつも小田切が居ない時を見計らったかのようなタイミングでかかってくる。

 といっても一日に一度。休日で小田切が居る時にはかかってこない。

 実害はほぼ無に等しいのだが、気味が悪い。


 (この近辺では流行っている悪戯なのかな?)


 電話帳に掲載されている電話番号に無作為に電話をかける悪戯

 なのかもしれない。最近ではかかってくる度に、その番号を

 登録して次回から分かるように設定するが、それでも毎回

 違う番号からかかってくる。


 (警察に相談するほどのことでもないし……。誰か近所の人に聞いて

  みた方がいいのかな。何か対策を教えてくれるかもしれない)

 

 ボーン。ボーン。ボーン。


 柱時計が九時を知らせる音で、加奈は我に返る。

 そろそろ出勤の時間だ。

 

 まだお絵描きに夢中の望に準備するよう促す。

 保育園の服と帽子は既に身に付けているので、後は鞄を取りに行く

 だけの状態だ。早め早めに準備する慎重な性格は、小田切の影響だろう。

  

 望を助手席に乗せ自動車を発進させる。

 小田切とは別に購入した軽自動車は、軽やかな音を立てて、

 住宅街を走り出した。


 小田切家は大学から車で三十分程の位置にある、賃貸のファミリー・

 マンションにある。

 勤務先の大学へは車で三十分程で、近すぎず遠すぎない適度な距離。

 買い物や職場へのアクセスに支障がないこと。

 その割に自然に恵まれた立地環境。

 様々な物件を吟味した結果、二人の意見が一致したのがここだった。

  

 「ママ、今日はお迎え何時頃?」


 「七時ぐらい。遅くなってごめんね」

 

 加奈は塾で英語を教えている。

 父親の仕事の関係で、アメリカに数年滞在していた経験に加え、

 大学も英文学科に進学した経歴から、英語を使う職に就いたのは

 必然と言って良かった。それに加えて、大学時代の伝手で、

 頼まれて翻訳の仕事をするときもある。小中学生を対象とした

 授業なので、勤務時間は午後遅くからが多く、一教科だけという

 こともあり、時間には余裕がある。

 

 小田切の両親も同じ市内に住んでいるので、喜んで

 望の世話を引き受けてくれるのもありがたい。子育てに手を抜くことなく

 仕事にも専念できる環境にあることに、加奈は本当に感謝している。


 それでもあえて望を保育園に預けるのは、一人っ子の望に

 同年代の子どもとの交流の仕方を教える意味合いが大きい。

 もちろん義理の両親に頼りっぱなしには、できないという遠慮もあるが。


 幸い今年3歳になる望は人見知りすることなく、保育園で友人と遊ぶのを

 楽しみにしており、子育ても順調。


 今日も待ちきれないというように、車から降りた望は

 加奈が先生に挨拶している間に、もう運動場で遊ぶ友達の方へと

 駆けだしている。


 「もう、先生に挨拶しなきゃ駄目でしょう!」


 一声かけると、望は遠くから大声で先生に挨拶する。

 加奈が困った顔をして見せると、担任のベテランの保育士は

 慈愛のこもった笑顔で応じてくれる。

 望に触発されたかのように、他の園児たちもわあっと駆けていく。

 それぞれの保護者たちとも、一通り挨拶を交わすと加奈は

 勤務先の塾へ向かった。


 平凡だけれど、満ち足りた日々。

 それがこの日を境に音を立てて崩れていくとは、

 この時の加奈は想像だにしていなかった。

 


2


 ことの発端は加奈が勤めている学習塾にかかってきた一本の

 電話だった。


 いつもはなんだかんだと上手に応対する受付の女の子が、救いを

 求めるように講師室を見つめていた。入口の傍にあるデスクが受付

 であり、講師室は受付の横に位置する。ガラス壁に仕切られているので、

 お互いの動向はすぐに分かる。塾長室は講師室の奥にある個室であるが、

 塾長自らも教鞭を取っているため、今も講師室で授業で使用する

 レジュメのコピーをとっている。まだ時間が早いので、今講師室に

 居るのは塾長と加奈だけだ。


 授業の予習に夢中になっていた加奈の方が異変に気付くのが遅かった

 ようで、塾長は既に異変に感づいていたのか、黙って受付嬢の動向を

 伺っている。堪りかねた受付嬢が手招きで救いを求めると、それを

 予期していたのかスムーズな動きで塾長が近づく。

 

 こちらからは姿は見えるが、話している内容までは聞き取れない。

 見えない相手に対して受付嬢が、必死で何事かを話していることだけが、

 分かる。受付嬢が保留ボタンを押したのを確認して、塾長が声をかける。

 会話中、受付嬢はなぜか加奈の様子をちらりと伺い見た。


 「?」


 先程塾長と世間話で話題にした、無言電話なのだろうか?

 塾長はこの塾には無言電話なんて、めったにかかってこないと

 言っていたけれど。

 

 (それに何か話をしていたようだったけれど……?)


 もし無言電話なら、受付嬢は相手とどんな話をしたというのか。

 それとも、馬鹿げた悪戯を止めるよう諭していたのか。


 受付嬢から受話器を任された塾長は、動揺することもなく

 相手に対応すると、電話を終わらせた。横で見るからにはらはらと

 成り行きを見守っている受付嬢とは対照的だ。

 「さすが年の功」と失礼ながら、加奈は思った。


 電話が終わると受付嬢はすぐに塾長に糺すが、人目を気にするような

 内容なのか塾長は彼女を促し、そっと二人は塾長室に消えた。

 

 (なんだったんだろう。一体……)


 ぼうっと塾長室を眺めていると、外から児童の騒ぐ声が聞こえてくる。

 ガラス壁越しに外を見れば、ランドセルを背負った小学生たちがふざけ

 ながら下校している。


 時計を見れば午後三時半。

 あと一時間で児童がやってくる。

 加奈は予習に戻った。


 塾生の声が聞こえ、授業開始のベルが鳴る頃には、加奈はもうすっかり

 通常の仕事モードに戻り、終業の頃にはすっかり忘却していた。

 

 受験を控えた児童の質問に応えていると、すっかり外は暗くなっている。

 望を保育園に迎えに行く時間が迫り、加奈は帰り支度に追われていた。

 

 「小田切先生、ちょっといいかしら……」


 他の職員同様、とうに帰宅していたと思いこんでいた塾長が呼びとめる。

 白髪をきれいに後ろで結わえた塾長は、学校の先生のように常に職員に

 「先生」と付ける。全体的に所作が上品なところを、加奈は密かに憧れて

 いたりする。塾にも誰よりも早くに出勤し、誰よりも遅くまで仕事している。

 教育者として尊敬すべき人物で、ユーモアもある。

 普段であれば呼びとめられることは、喜ばしいことだ。 

 

 だが今は少し焦っていた。

 一分でも望の迎えが遅れると、延滞料金が発生するのだ。


 「何でしょうか?」


 言いながら塾長室へ入っても、保育園の時間が気になってそわそわ

 してしまう加奈。その様子に「終業間際に引き留めてごめんなさいね」と

 先制されてしまえば、それ以上は何も言えなかった。

 話を促すと、塾長は声を潜める。

 周囲にはもう誰も残っていないと言うのに。


 「個人的な質問ですので、どうしても話したくないのであれば

  無理強いはしません。ですが今後のうちの経営にも関わる

  ことなので、できれば力を貸して頂きたいの」


 あくまで「自発的」に応えることを促しながらも、その目は真剣

 そのもので問題が複雑であることを臭わせていた。


 「お話しを聞かなければ、お答えできませんが……。私に応え

  られることであれば、もちろんお答えしますよ」


 応えられないような質問なんて、頭に全く浮かばなかったが、

 それでもその顔の真剣さから念の為逃げ道を用意しておく。

 質問できる許可をもらったと受け取ったのか、塾長は一呼吸置いて、

 尋ねる。


 「今日の午後に、受付に電話がかかって来たことを覚えていますか?」


 言われて、そう言えば電話の応対をしていた女の子が妙な雰囲気であった

 ことを思い出した。そう告げると、塾長は本題に入る。

  

 「相手の方は名乗らなかったけれど、内容からうちの塾生の

  保護者の方だと思うわ。その方がこうお尋ねになったの」


 『そちらの塾にいらっしゃる小田切先生のことで、良くない噂を耳に

  したんです。旦那さんが酷いアカデミック・ハラスメントをして

    学生さんを一人死なせたと聞いたのですが。本当ですか?もし本当

    ならそんな人の関係者に、子どもに教育を受けさせたくありません。

    今すぐクラスを変更させて下さい』


 「そうおっしゃって。それで一旦確認することで、納得して頂いたの」


 「……」


 飽いた口がふさがらない。

 知らされた加奈は酷く狼狽した。想像もしたことのなかった問い。

 まさか夫の事で自分が窮地に追い込まれるとは予想だにしていなかった。


 「もしそうだとしても、それはあなたには責任がないことは分かっています。

  ただ……保護者を納得させる為には、こちらとしても誠意を見せなければ

  いけません。大事なお子さんをお預かりしているわけですから」

 

 「……そうですよね」


 加奈はどこか他人事のように聞いていた。

 この想像を凌駕した展開に、気持ちが追いついていない。

 その態度を見て、少し躊躇ってから塾長は言い辛そうに続ける。

 

 「実は……今回が初めてではないんですよ」


 少し以前から数件同じ内容の問い合わせがあったのという。

 今回の受付嬢の挙動不審な態度は、怪しい電話に怯えたのではなく、

 幾度も同じ内容の質問を受けて困っていたからだと説明された。


 「いずれにしろ、小田切先生自体に落ち度があるわけではありません。

 塾としても、これが理由であなたを解雇しようとは思っていませんよ。

 ただ経営者として事実確認をする必要があるんです。今後の対応を考え

 なければいけませんから」

 


3


 塾長は保育園の時間を気にしていたのか、要件を告げると
 ぽんぽんと加奈の
肩を叩いて「はい。お疲れ様」と言って帰宅を
 促した。魔法が解かれたかの
ように、我に返ると取り繕うように
 挨拶をして、加奈は塾長室から退出
した。
 
  夫にこの件をどう尋ねればいいのか。

 こんなのは中傷に決まっている。

 でももし本当だったとしたら、自分はどうすればいいのか。

 望にまで影響することはないのか。

 その学生の御両親にどう顔向けすればいいのか。


 突如訪れた疑惑の種に、加奈はなす術がない。 


 加奈の勤めている学習塾は、地元ではその独自性で有名な学習塾で、

 通常の進学コース以外にも、不登校の子どもたちへの特別プログラムも

 用意していることでマスコミにも広く知れ渡っている塾だ。そのため

 こんな噂は営業に大いに差し支える可能性があった。塾長はあくまで

 本当だったとしても加奈には責任はないと言ったが、全国区の塾ではなく、

 地元に特化した塾である以上、その噂がどれほど致命的であるのかが

 分からない程、加奈は無神経ではなかった。

 

 時計を見るとまだ予定の迎えの時間に間に合う時間。


 それでも心の整理をする為には、時間が必要だと直感が告げている。

 配慮してくれた塾長には申し訳ないが、加奈には今から保育園に到着

 するまでの短時間で、いつもの自分に戻れる自信はなかった。

 

 迎えに行く時間は事前に告げてあるが、保育園自体は十時まで

 開園している。理由が理由なので後ろめたい気持ちを持ちながらも、

 自分の直観に従って、加奈は保育園に一時間の延長を願い出た。

 

 電話を切って、息を大きく吐く。

 正面を見ると、誰もいない受付から携帯電話を握っている自分が、

 塾の入口に置かれている大鏡に映る。その姿が何とも小さく見えて、

 心もとない。幸い、今まで一度も遅刻や無理なお願いをしてこなかった

 ことも功を奏したのか、延長はあっさりと認めてもらえた。


 (これで少しは余裕ができる。一時間の間に気持ちを落ち着けないと)


 好きな音楽をかけながらドライブでもして気持ちを落ちつけようと、

 駐車場へ向かう。

 それが最善の策とは我ながら思えなかったが、それくらいしか気を

 紛らわせる方法が見つからない。早足で入口の自動ドアを通ると、

 背後から声がした。 

 

 「あの、ちょっとお時間頂戴してもいいですか?」

  

 そこには昼に電話に対応した受付嬢天原が立っていた。


 (そうかこの娘も、電話の内容を知っているんだ……)


 もともと挨拶だけの関係で、あまり話をしてこなかった子だ。

 何を意図しているのか、理解できなかった。


 天原は遠くの県の出身で、大学からこちらへ出てきた短大生だ。

 まだ新入生で若さにあふれている。その分幼いともいえるが。

 染めた髪をゆるく巻いた髪型は、朝に相当のセットする時間を

 必要としそうだ。服も事務服しか注意して見たことはなかったが、

 今着ている私服はフェミニン系で華奢。

 いかにも女の子といったかわいらしい子。

 いつもどこか舌足らずな話し方が、俗に言う『癒し系』と印象

 づけるらしく、この塾でも男子学生に人気がある。


 誰とも話したくない気分の加奈は、正直面倒くさいと感じた。

 そもそも話すことなどない。

 保育園を理由にすることにした。


「娘の保育園の時間……」


「……は、今一時間延長しましたよね」


 嫌みではなく、にっこり笑ってそう言われてしまうと反論できず、

 結局加奈は天原と少し離れた喫茶店に行くことになった。

 あまり人の耳がないところで話そうと言われ、加奈は一気に緊張する。

 先程の電話についての話だったら、何度も電話を受けた天原にその内容を

 詳しく聞く必要がある。その際、どうせ話をするなら人気がない場所が

 好ましいのは、加奈も同意見だ。

 加奈は自ら車を出すことを申し出た。


「あの、旦那さんって、どういう人か聞いても良いですか?」


 喫茶店で飲み物を注文し、ウエイトレスが遠くへ行ったのを確認して

 から、天原は尋ねた。


「どうって……そんなこと、するような人じゃないと思うわ。

 子どもの遊び相手だって喜んでするし、家事も率先してやってくれるわ」


 塾長が話した内容は、既に知っていることを前提で答える。

 少なくとも、現時点で加奈が思っている事を素直に伝える。

 願望も籠り、口調が熱を帯びる。


「そうじゃなくて、加奈さんにとって、どういう旦那さんなんですかあ?

 子どもにとって良い人でも、奥さんには酷い旦那さんだっているし。

 家事だって、単に自分が好きでやってるだけかもしれないですよね?」


 身近にいる人を「どういう人」かを説明するのは、存外難しい。

 悪いところと同じくらい、良いところも知っているのだ。

 一口で説明するのは難しい。

 答えあぐねていると、天原は突然低い落ち着いた声で言った。

 いつもの声は演技なのかと、加奈は少しとまどう。


「まさかDVとかモラハラとか、受けていないですよね?」


「ええ? まさかそんな。急に言われたから、考えていただけ。

 私にも優しく接してくれる。暴力なんて一度も受けたことないわ。

 心配しないで」


 加奈は慌てて否定する。今の天原の声が、迫力を持っていたのでつい

 気圧されてしまった。するとまたいつものぽやあとした顔に戻った。


「なんだあ、優しい旦那さんなんですね。安心しました。でも、

 それって他の人にもですかあ? 人によって態度が違う人って結構

 いますし。そういう人って、結構恨みとかかいますよ?」


 サービス業の人に対する態度などで、そういう片鱗が分かると、

 ご丁寧にアドバイスまでくれる。

 こんな子どもに何が分かると、加奈は腹が立った。

 表情に出さないだけの分別が、まだ自分にあったことに感謝する。

「こんなのただの悪戯よ。最近無言電話が多いし」


「ならいいですけど。何か悩みがあったらいつでも言ってくださいね。

 私、いつでも相談相手になりますんで。じゃあお先です!」


 軽やかに、天原は去っていった。

 彼女の下宿がこの辺りだと聞いてあえて、歩いて数分で帰ることの

 できる距離の、この喫茶店を選んだのは正解だったようだ。

 また車で送ったりしたら、その間気まずくなってしまう。

 

 天原が帰って気が抜けたついでに、時計を確認する。

 そろそろ保育園に迎えに行く時間だ。

 加奈はぱんと顔を両手で軽く叩いて、車のエンジンをかける。


 顔を母親の顔に戻す。

 うろたえていてはならない。常に娘が安心できる、どっしりとした

 母親でいなくては。


 心とは裏腹に、飲み屋街を楽しそうに闊歩する大学生を見ていると、

 胸の奥が重くなる。あのくらいの年齢の学生を、夫は死に追いやった

 のかもしれない。もし電話の内容が真実であるのなら、それはどんなに

 罪深いことだろう。


 そのまま夢を見るかのように、機械的に車を保育園方面へ走らせる。

 習慣の延長で惰性的に車を運転するが、その目は何も捉えてはいない。

 いつもの道がやけに冷たく感じる。

 それでもなんとか、加奈は望を指定時間内に引き取ることが出来た。


 家への帰り道で、いつものように望の保育園での話を聞く。

 いつも望が好きなように保育園での話をするのを、加奈が聞きながら

 相槌を打つ。今日もいつもと変わらない。

 そのはずだった。だが。

 

 「ママ、お腹いたいの?」


 自分では何とか取り繕っていたつもりだが、望は敏感に母親の異変を

 感じ取っていたようだ。加奈は思わぬ形で、娘の成長を知った。


 「ちょっとここら辺が痛いだけ。大丈夫」

 

 そういって胃の辺りを、指差した。

 嘘ではない。

 事実加奈は、今日の噂で胃が痛くなりそうだ。

 

 「じゃあ晩御飯はお弁当を買って帰ろうよ」


 娘のいじらしい提案に、今の生活を絶対壊させないと加奈は決意する。

 小田切は学会で出張していたので、その日は望の提案に甘えさせてもらう

 ことにした。




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