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1

 
   姉から弔問客があったことを電話で聞かされた女は、ひどい寂寥感に
  苛まれていた。あれからもう
5年が経つ。

  白い壁に囲まれた一室で、女は独り一枚の写真を見つめていた。

  夜の帳がとうに下りているというのに、女はテーブルランプを灯している

  だけだった。薄暗がりで女の面長の顔の輪郭と、濃い緑のサマーセンターの

  袖が、薄ぼんやりと照らしだされる。


 他の人には見られないように、誰にも触れられないように、この写真を

  眺める。これは日課であり儀式でもある。

 写真の中の青年は、いつだって柔和な笑顔を女に向けてくれる。


  この瞬間だけ女は彼岸にある魂との邂逅を果たす。それは至福であり、

  同時に残酷な拷問でもあった。


女の魂は既に死んでいた。可愛がっていた甥が五年前に亡くなってから

完全に生きる目的を失っていた。ただ惰性で生きている。


 姉の一人息子だった和哉は共働きで構ってもらえなかった

両親よりも、比較的時間に融通の利く仕事をしていた彼女に懐いていた。

もともと子どもにあまり構わなかった両親よりもずっと肉親のような

存在だったと女自身自負している。周囲が結婚する中でも寂しく

なかったのは、一重に和哉の存在が大きかった。


 はにかみ屋で内向的なところもあったが、女の誕生日プレゼントは欠か

さなかった。いつも「大好き」と言ってくれたのを折に触れ思い出す。

さすがに年頃になるとあけすけには言わなくなったが、それでも信頼関係は

昔のままだった。……少なくとも女はそう思っていた。


それが五年前に全てが失われた。


 自殺。

 運行中のフェリーから投身しての壮絶な死。

 それだけでも受け入れがたいのに、後に現場検証と関係者からの

 事情聴取を終えた警察から、和哉が同級生に暴行と重なるハラスメント

 行為をしており、それがもとで彼女は‐。

 それを悔いての自殺であると、遺書から判断された。

  既に大学も退学処分を受けていたと。

 指導教官や同級生たちの証言から、遺書の内容を裏付ける事が

 できると警察は言った。


  自分も含めて身内の悲嘆は大きかったが、和哉に非があると公に

 認められている以上、憔悴している様子すら他人に見せるのを躊躇った。

  親しい人に理由を話すこともできない。

  姉夫婦も人目を忍ぶように密葬して甥を見送ることにした。

  未だに事情を知らない地元の人間たちには、曖昧に「急死」とだけ

  答えている姉夫婦。

 その苦しみは女が察してあまりある。


  だが女の場合、事が起こる前から事情を知っていた。

 研究室のほぼ全員があかりに対して無視や暴言を吐いていたことを

 和哉の口から聞いて知っていた。

 

 和哉は言った。

 自分が嫌がらせに関わっていることを肯定した上で。


 「仕方ないよ。先生や皆と上手くやれない方が悪いんだ。それに

   これくらいのこと社会に出たらいくらでもあるだろ?」


  躊躇いもなくそう答えた言葉。それは呪いにも似て、発した本人に

  帰っていった。嫌がらせの主犯は和哉一人ということになっている。

  女がもっと真剣に事情を聞いていれば、解決に尽力すれば和哉は死なずに

  済んだのか。今となってはもう遅いが、悔やんでも悔やみきれない。

 

   和哉の話では、教授含め複数の研究室メンバーが関わってはずだ。

  傍観しているだけで、何のアクションを起こさなかった者だって、

  広い意味では加害者だ。

  それが主犯は和哉だけで、他の人間は全くお咎めなしの

  無罪放免というのは納得ができなかった。


  スケープゴート。

  前後関係は明らかにそれを示唆している。    


 「和哉も悪いけれど、他のメンバーだって同じようなことをしたから

   同罪だ」という本音は今も燻っている。


  やり場のない怒りは、自身を苛むだけだ。

  懊悩は続く。


  未練を断ち切ろうと、ずっと手元に置いておいた和哉の遺品を

  姉の元に返したりもした。

  女は自分でもこのまま過去に沈んでいるのが、良いとは思っていない。

  それでも依存する対象が、写真に変わっただけだった。

  以前は写真も辛くて見られなかったのだから、少しは成長した。

  そう思いたいが、心境は大して変わっていない。


  いつしか女は、ただ目的もなく生き続ける無限地獄に堕ちていた。

  出口のない罪悪感と恨みは、永劫の生き地獄を生みだし拡大していく。

  出口は一つしかないけれど、その勇気は未だ女にはなかった。

 


2


  姉の電話からこっち、感傷にふける傾向にあるようだ。
 時刻を確認すると、既に午後二時を回っている。
 慌てて写真を手帳のポケットに仕舞い、パソコンにログインする。
 起動するまでの間を有効利用しようと、午後便での郵便物を手に取った。
 
 広告に混じって封筒が1つ出てくる。
 封を切ると、中から手紙が出てきた。

 「初めまして。私は山瀬研究室の元院生です。和哉さんが在籍して
 いた当時在籍しておりました。当時の状況も鮮明に記憶にあります。
 和哉さんは、山瀬隆文一門によるアカデミック・ハラスメントの
 全責任を押しつけられて自殺しました。確かに彼はハラスメント
 加害者の一員です。ですが首謀者は彼ではない。あなたもご存じの
 通り、ハラスメント首謀者は山瀬隆文です。もみ消しの為に和哉
 さんはスケープゴートにされた。私自身も彼らから嫌がらせを
 受け精神を病み、研究の道を断念した者です。最近になりようやく
 病状が回復してきました。あなたさえ覚悟がおありなら協力いたします」

 最後には差出人として「協力者」と書いてあり、メールアドレスが
 記載されている。アドレスの末尾からフリーメールであること以外は、
 差出人の正体に繋がるものは見当たらなかった。

  封筒はごく普通の茶封筒であるし、文面も全て印字されたものだった。
 それでも
俄然女は興味を抱いた。この差出人の正体は知れない。
 だがあれだけ皆が見捨て、和哉の両親でさえ最終的には諦めたと言うのに。
 この差出人はまだ和哉のことを覚えていてくれる。

 執念深いだの忘れろなど、痛みを知らない人間が散々投げかけ傷つけてきた
 言葉が思い出される。和哉という名前を口にするだけで、今の女にとっては
 耳を傾けるに足る人物であった。


 だが一方で差出人が、山瀬研究室の関係者の可能性もあった。

 和哉との血縁関係は知られていないが、調べて判明し口封じにきた

 可能性もある。女が未だに遺恨を持っているのかどうか調べる為に。

 もし本当にただ協力しているとしても、この差出人に何の利益があると

いうのか。和哉の死について何か確信があってのことなのか。

女はひどく動揺した。


(もし本当に復讐ができるのだとしたら。私は‐)


 それでも女の持つ証拠は、生前の和哉の証言のみ。

 その和哉も亡くなり、五年も経過した今ではもう‐。

 自信がなかった。

 和哉が本当に首謀者で、自責の念がない故に他の人間も同様だと

 言い訳している可能性だって否定できない。


 結論を決めるのは、「協力者」と連絡を取ってから考えても良い。

 職場を知っている以上、あらかたの女の個人情報は既に入手している

 はずだ。今更逃げても仕方がない。

 それに女が後に残ることを意識した上でメールをやり取りし、

 そのメール履歴を保存しておけばいざという時に証拠にもなる。

 普段はヴァーチャルだけの付き合いは信用しないが

 今度ばかりはオンライン上の接触を、女は望んだ。

 

 何より当時の和哉のことを聞きだしたかった。

 不祥事で退学になった和哉のことを、あれこれ研究室の人間に

 尋ねるのは躊躇われ、結局聞けずじまいだったのだ。


 一瞬考えたのち、女は「協力者」と同じフリーメール・アカウントを

 作り、新アカウントからメールを送信した。 



3


  帰宅してメールを確認すると、「協力者」からの返信があった。

 緊張しながら、女は内容を確認する。


「お返事を頂き嬉しく思います。

 いきなりで信用できないのは当然です。

 まずは当時の和哉さんの事からお話ししましょう。

 彼は確かに加害者グループの一人でしたが、グループ内で

 立場が弱かったのです。その原因は私には分かりません。

 ですから証拠に残りやすい嫌がらせは、彼に手を下させていた。

 私の時もそうでした。証拠は近日中にお送りします。その上で

 ご決断ください 協力者」


 二日後送られてきたものは、DVDと数枚の紙だった。

 そこには一人の学生に嫌がらせをする複数の声が、

 和哉に対して無理やり実験結果を奪うよう嗾けるものだった。

 後から免罪符にするつもりなのかふざけた調子で言っているが、

 その声音には明らかに強要する響きがある。

 扇動者は明らかに、他の人間だった。

 同時に女の身体中の血が沸き立つ。

 

 間を置いて別の日時の会話が再生される。

 そこでも和哉は従っているだけだ。

 その内容は丁寧に紙に、タイプされている。

 日時もあるので、訴えれば証拠になるのかもしれない。

 

 (これで甥の無念を晴らせるかもしれない)


 名誉回復を裁判所に訴えることはできるはずだ。

 更には同罪の人間たちの責任を問うことが出来る。


 共に裁判を起こそうと「協力者」に書きこむ。

 加害者親族と被害者。

 立場の違いはあれど、共通の敵がいる。


 だが帰ってきた返事はなんともつれないものだった。

  

「お返事ありがとうございます。ですがアカデミック・ハラスメントは

 3年で時効を迎えてしまいます。私やもう一人の被害者が嫌がらせを

 受けていた時から既に5年が過ぎています。

 今からお金をかけて訴えたところで、奴らに処罰を与えることは

 出来ない。判決の結果により名誉回復は出来るかもしれませんが、

 強制力はありません。損害賠償すら請求できないのです。

 それに裁判の結果と学内人事はまた別。

 大学側は結局、何も処罰をせずにおくことでしょう」


 「……」


 希望が前に示され、女は既に名誉の回復だけでなく、加害者たちの

 社会的制裁をも望むようになっていた。名誉の回復だって、

 裁判自体を知らなければ風化されてしまう。

 

 裁判を起こせば、訴訟期間中は奴らを拘束できる。

 それに被告という立場を思い知らせることが出来る。

 それで、それだけで満足すればいいじゃないか。

 弱気になり、そう返事をすると「協力者」は話にならないというように、

 醒めた言葉を送って寄こした。


「それだけでは生ぬるいですよ。そうではないですか?

 社会的に抹殺するべきです。

  あのような輩は反省など絶対にしません。

 手加減は無用です」


 激しい言葉が並ぶ。

 画面の向こうの人間は彼らに人生を奪われた被害者なのだ。

 想うところは多いだろう。

 だが正直女は少し引いてしまった。

 「協力者」の報復が行き過ぎる可能性を考え、戦慄した。

 

 甥が嫌がらせを強要されたことに憤ってはいるが、

 モラルや法律を犯してまで仇を討とうという激しさは

 持ち合わせていない。

 もう終わりにしよう。

 ここまででいい。

 和哉のことを忘れないでくれている人間がまだ

 いることで良しとしよう。


 そう考えた女は返信をせずに、パソコンをシャットダウンしようとすると、

 メールの着信を知らせる音がする。


 「       」


 そのメールを見た女は驚き、何度も画面を確かめる。

 それが本当だと分かると、すぐに返信を始める


 「協力します。必ずあいつらを地獄の底に」


 目に見えてはいないけれど、女は画面の向こうの人物がにやりと

 笑っているのが見えたような気がした。



1


 「もしもし、どちら様ですか?」


 「……ツー・ツー」


 また無言電話だ。

 加奈は首を捻ると、受話器を下ろした。


 今月に入ってから、毎日のようにかかってくる無言電話。

 いつも小田切が居ない時を見計らったかのようなタイミングでかかってくる。

 といっても一日に一度。休日で小田切が居る時にはかかってこない。

 実害はほぼ無に等しいのだが、気味が悪い。


 (この近辺では流行っている悪戯なのかな?)


 電話帳に掲載されている電話番号に無作為に電話をかける悪戯

 なのかもしれない。最近ではかかってくる度に、その番号を

 登録して次回から分かるように設定するが、それでも毎回

 違う番号からかかってくる。


 (警察に相談するほどのことでもないし……。誰か近所の人に聞いて

  みた方がいいのかな。何か対策を教えてくれるかもしれない)

 

 ボーン。ボーン。ボーン。


 柱時計が九時を知らせる音で、加奈は我に返る。

 そろそろ出勤の時間だ。

 

 まだお絵描きに夢中の望に準備するよう促す。

 保育園の服と帽子は既に身に付けているので、後は鞄を取りに行く

 だけの状態だ。早め早めに準備する慎重な性格は、小田切の影響だろう。

  

 望を助手席に乗せ自動車を発進させる。

 小田切とは別に購入した軽自動車は、軽やかな音を立てて、

 住宅街を走り出した。


 小田切家は大学から車で三十分程の位置にある、賃貸のファミリー・

 マンションにある。

 勤務先の大学へは車で三十分程で、近すぎず遠すぎない適度な距離。

 買い物や職場へのアクセスに支障がないこと。

 その割に自然に恵まれた立地環境。

 様々な物件を吟味した結果、二人の意見が一致したのがここだった。

  

 「ママ、今日はお迎え何時頃?」


 「七時ぐらい。遅くなってごめんね」

 

 加奈は塾で英語を教えている。

 父親の仕事の関係で、アメリカに数年滞在していた経験に加え、

 大学も英文学科に進学した経歴から、英語を使う職に就いたのは

 必然と言って良かった。それに加えて、大学時代の伝手で、

 頼まれて翻訳の仕事をするときもある。小中学生を対象とした

 授業なので、勤務時間は午後遅くからが多く、一教科だけという

 こともあり、時間には余裕がある。

 

 小田切の両親も同じ市内に住んでいるので、喜んで

 望の世話を引き受けてくれるのもありがたい。子育てに手を抜くことなく

 仕事にも専念できる環境にあることに、加奈は本当に感謝している。


 それでもあえて望を保育園に預けるのは、一人っ子の望に

 同年代の子どもとの交流の仕方を教える意味合いが大きい。

 もちろん義理の両親に頼りっぱなしには、できないという遠慮もあるが。


 幸い今年3歳になる望は人見知りすることなく、保育園で友人と遊ぶのを

 楽しみにしており、子育ても順調。


 今日も待ちきれないというように、車から降りた望は

 加奈が先生に挨拶している間に、もう運動場で遊ぶ友達の方へと

 駆けだしている。


 「もう、先生に挨拶しなきゃ駄目でしょう!」


 一声かけると、望は遠くから大声で先生に挨拶する。

 加奈が困った顔をして見せると、担任のベテランの保育士は

 慈愛のこもった笑顔で応じてくれる。

 望に触発されたかのように、他の園児たちもわあっと駆けていく。

 それぞれの保護者たちとも、一通り挨拶を交わすと加奈は

 勤務先の塾へ向かった。


 平凡だけれど、満ち足りた日々。

 それがこの日を境に音を立てて崩れていくとは、

 この時の加奈は想像だにしていなかった。

 


2


 ことの発端は加奈が勤めている学習塾にかかってきた一本の

 電話だった。


 いつもはなんだかんだと上手に応対する受付の女の子が、救いを

 求めるように講師室を見つめていた。入口の傍にあるデスクが受付

 であり、講師室は受付の横に位置する。ガラス壁に仕切られているので、

 お互いの動向はすぐに分かる。塾長室は講師室の奥にある個室であるが、

 塾長自らも教鞭を取っているため、今も講師室で授業で使用する

 レジュメのコピーをとっている。まだ時間が早いので、今講師室に

 居るのは塾長と加奈だけだ。


 授業の予習に夢中になっていた加奈の方が異変に気付くのが遅かった

 ようで、塾長は既に異変に感づいていたのか、黙って受付嬢の動向を

 伺っている。堪りかねた受付嬢が手招きで救いを求めると、それを

 予期していたのかスムーズな動きで塾長が近づく。

 

 こちらからは姿は見えるが、話している内容までは聞き取れない。

 見えない相手に対して受付嬢が、必死で何事かを話していることだけが、

 分かる。受付嬢が保留ボタンを押したのを確認して、塾長が声をかける。

 会話中、受付嬢はなぜか加奈の様子をちらりと伺い見た。


 「?」


 先程塾長と世間話で話題にした、無言電話なのだろうか?

 塾長はこの塾には無言電話なんて、めったにかかってこないと

 言っていたけれど。

 

 (それに何か話をしていたようだったけれど……?)


 もし無言電話なら、受付嬢は相手とどんな話をしたというのか。

 それとも、馬鹿げた悪戯を止めるよう諭していたのか。


 受付嬢から受話器を任された塾長は、動揺することもなく

 相手に対応すると、電話を終わらせた。横で見るからにはらはらと

 成り行きを見守っている受付嬢とは対照的だ。

 「さすが年の功」と失礼ながら、加奈は思った。


 電話が終わると受付嬢はすぐに塾長に糺すが、人目を気にするような

 内容なのか塾長は彼女を促し、そっと二人は塾長室に消えた。

 

 (なんだったんだろう。一体……)


 ぼうっと塾長室を眺めていると、外から児童の騒ぐ声が聞こえてくる。

 ガラス壁越しに外を見れば、ランドセルを背負った小学生たちがふざけ

 ながら下校している。


 時計を見れば午後三時半。

 あと一時間で児童がやってくる。

 加奈は予習に戻った。


 塾生の声が聞こえ、授業開始のベルが鳴る頃には、加奈はもうすっかり

 通常の仕事モードに戻り、終業の頃にはすっかり忘却していた。

 

 受験を控えた児童の質問に応えていると、すっかり外は暗くなっている。

 望を保育園に迎えに行く時間が迫り、加奈は帰り支度に追われていた。

 

 「小田切先生、ちょっといいかしら……」


 他の職員同様、とうに帰宅していたと思いこんでいた塾長が呼びとめる。

 白髪をきれいに後ろで結わえた塾長は、学校の先生のように常に職員に

 「先生」と付ける。全体的に所作が上品なところを、加奈は密かに憧れて

 いたりする。塾にも誰よりも早くに出勤し、誰よりも遅くまで仕事している。

 教育者として尊敬すべき人物で、ユーモアもある。

 普段であれば呼びとめられることは、喜ばしいことだ。 

 

 だが今は少し焦っていた。

 一分でも望の迎えが遅れると、延滞料金が発生するのだ。


 「何でしょうか?」


 言いながら塾長室へ入っても、保育園の時間が気になってそわそわ

 してしまう加奈。その様子に「終業間際に引き留めてごめんなさいね」と

 先制されてしまえば、それ以上は何も言えなかった。

 話を促すと、塾長は声を潜める。

 周囲にはもう誰も残っていないと言うのに。


 「個人的な質問ですので、どうしても話したくないのであれば

  無理強いはしません。ですが今後のうちの経営にも関わる

  ことなので、できれば力を貸して頂きたいの」


 あくまで「自発的」に応えることを促しながらも、その目は真剣

 そのもので問題が複雑であることを臭わせていた。


 「お話しを聞かなければ、お答えできませんが……。私に応え

  られることであれば、もちろんお答えしますよ」


 応えられないような質問なんて、頭に全く浮かばなかったが、

 それでもその顔の真剣さから念の為逃げ道を用意しておく。

 質問できる許可をもらったと受け取ったのか、塾長は一呼吸置いて、

 尋ねる。


 「今日の午後に、受付に電話がかかって来たことを覚えていますか?」


 言われて、そう言えば電話の応対をしていた女の子が妙な雰囲気であった

 ことを思い出した。そう告げると、塾長は本題に入る。

  

 「相手の方は名乗らなかったけれど、内容からうちの塾生の

  保護者の方だと思うわ。その方がこうお尋ねになったの」


 『そちらの塾にいらっしゃる小田切先生のことで、良くない噂を耳に

  したんです。旦那さんが酷いアカデミック・ハラスメントをして

    学生さんを一人死なせたと聞いたのですが。本当ですか?もし本当

    ならそんな人の関係者に、子どもに教育を受けさせたくありません。

    今すぐクラスを変更させて下さい』


 「そうおっしゃって。それで一旦確認することで、納得して頂いたの」


 「……」


 飽いた口がふさがらない。

 知らされた加奈は酷く狼狽した。想像もしたことのなかった問い。

 まさか夫の事で自分が窮地に追い込まれるとは予想だにしていなかった。


 「もしそうだとしても、それはあなたには責任がないことは分かっています。

  ただ……保護者を納得させる為には、こちらとしても誠意を見せなければ

  いけません。大事なお子さんをお預かりしているわけですから」

 

 「……そうですよね」


 加奈はどこか他人事のように聞いていた。

 この想像を凌駕した展開に、気持ちが追いついていない。

 その態度を見て、少し躊躇ってから塾長は言い辛そうに続ける。

 

 「実は……今回が初めてではないんですよ」


 少し以前から数件同じ内容の問い合わせがあったのという。

 今回の受付嬢の挙動不審な態度は、怪しい電話に怯えたのではなく、

 幾度も同じ内容の質問を受けて困っていたからだと説明された。


 「いずれにしろ、小田切先生自体に落ち度があるわけではありません。

 塾としても、これが理由であなたを解雇しようとは思っていませんよ。

 ただ経営者として事実確認をする必要があるんです。今後の対応を考え

 なければいけませんから」

 



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