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  黒檜の仏壇の前で手を合わせる男の姿に、湯呑みを載せた茶盆を

  手にした婦人は目を細めた。開け放した窓からそよぐ薫風が、庭の

  若葉の匂いを運ぶ。線香から立ち上る白檀の香りが、優しくそれに

  寄り添った。男が目を開けたのを見計らって、婦人は男の傍に座り

  茶を勧めた。若々しい装いだが、目の下や口もとに刻まれた窪みが

  婦人の生きてきた年数が決して短くないことを示している。


 「最近は、あの子の為にお参りに来てくれる人もいなかったから。

   来て頂いて本当に嬉しいわ」


  そう顔を綻ばせる婦人に、男も笑みを返す。


 「お伺いしたかったのですが、返ってご迷惑になると思い遠慮して

  おりました」


  婦人の瞳の光がすうと消え、虚ろになる。

  声のトーンは変わらなかったが、内面の変化は容易に見て取れた。


 「……あんな亡くなり方をしましたから、内々で密葬させて頂きました」


  事情を知っているのかと尋ねると、男は言いにくそうに

 「多少耳に入りました」と答えた。


 「お辛かったでしょうね」


 「……ええ。その当時は本当に」


  そういうと婦人はどこか懐かしむような顔を見せる。


 「あれほどご迷惑をかけたと言うのに、研究室の方たちに

   本当に良くして頂いて。励ましの手紙や香典を頂きました。

  ありがたいことです」


 「……」

  

  男の眉間にかすかに皺が寄る。それは微細な変化で、ハンカチで

  目頭を押さえる婦人が気付くことはなかった。


  泣いてるのを誤魔化すかのように、婦人は言葉を続ける。


 「本当に馬鹿な子です。死ぬくらいなら、生きて出来ることが

  いくらでもあるはずです。それくらい少し考えれば分かることなのに」


 「……それほど追い込まれていたのでしょう」


  言葉を選んで男は言う。


 「そうですね。私たちがもっと早く気づいていれば……」


  婦人は感情が込み上げてきたのか、喉の奥が震えるのを懸命に

  堪えようと、ハンカチで口元を押さえる。唇の端から、小さく

  振動が吐息で伝わってくる。

 「すみません」と謝りながら一頻り泣く婦人を、その感情の波が

  落ち着くまで、男は静かに待った。


  婦人が大分落ち着いたのを見計らって、男は独り言のように

  尋ねた。答えを期待してと言うより、会話を継ぐために言葉を発して

  くれていると、婦人は感じた。

  

「きれいな手鏡ですね」


  仏壇の手前の小さな文机に線香立てと一緒に、木彫りの支えに

  置かれていた。

  直径十センチ程の黒塗りの丸い手鏡。

  独り言に近いとは言え、男が興味を示したことに気を良くした婦人は、

 その手鏡を支えから外して、男に裏側も見せてくれた。

  黒を背景に蓮の花が描かれた、和風のテイストだ。


  「現場に落ちていたそうです。……今はこうして形見として仏壇に

    供えているのです」


 「現場に……ですか」


  男は、合点が行かぬという感情を体現したような表情をして見せる。

  鏡を持ち歩くとすれば、普通はもっとコンパクトなサイズであるか、

 ほこり取りや化粧とセットになった蓋付きのものではないか。

 直径10cmの手鏡を鞄に入れて持ち歩くには、布などを自分で誂えて

 表面を保護する必要がある。第一少々大きすぎる。

 

 「この手鏡に思い入れでもあったのでしょうか?」


 「ええ。あの子はおばあちゃん子だったんです。私の母にそれはもう

   良く懐いていて、亡くなった時に形見分けであの子に与えたのが、

   この鏡です。大事にいつも自分の机にしまって、偶に取り出しては

   眺めていました」


 「そうだったんですか。気持ちの優しいところが、ある人でしたからね。

   今頃は天国で、お祖母さんと会っていることでしょう」


 「……そうですね。そうだと良いのですが……」


  しんみりとした母の言葉に、男は言葉を継がず、静寂が仏間を支配した。

  遠くで聞こえる鳥の声が、先ほどよりも大きく耳に届く。


  その後婦人はひとしきり故人の思い出を語り、男はそれにところどころ
 相の手を入れながら、聞き役に徹した。


  話している間に気が晴れたのか、婦人はすっかり笑顔になり、

  その頃には男が仏前に座ってから既に2時間が経過していた。


  「お引き留めしちゃってごめんなさい。またいつでも寄って下さいな」


   人の良い婦人の笑顔を見て、男もまた顔を綻ばせ、家を後にした。


  数分後-。

  鼻歌を歌いながら夕飯の支度を始める婦人とは対照的に、

  男の双眸は黒い光を宿していた。

 


1


 時は皐月。透き通るような青空に響く鳶の声が何とも清々しい。

研究室へ向かう自転車を漕ぐ足も、心なしか軽やかに感じる。白い

シャツの下にジーパンと言う平均的学生を体現したような装いは、

学内の質実剛健の雰囲気に、すっかり溶け込んでいる。

少なくとも彼女はそう信じている。


田中優奈が和琴大学の大学院に入学して既に一月。


他大学から新たに和琴大学へ進学した外部進学組なので、

内部進学組と比べて人脈や研究室の慣行に関する知識の面で

どうしても後れを取る。

大学院入学前にはいろいろと気を揉んだものだが、いざ入って

しまえば、研究室内の規則や雰囲気に慣れるのに、それほど時間を

必要としなかった。


 各大学にはカラーがあるものだが、ここ和琴大学の学生は質素

かつ自分のスタイルを貫くという特色が学内外の共通認識である。

その点、優奈が学部時代を過ごした前の大学の華やかな校風と比べたら、

過ごしやすくなった気持ちすらする。


周囲の学生に合わせようと茶色に髪を染め、バイトで貯めたお金で

高価な上着を購入し、インナーに安いものを使うなど工夫していた

学部時代の苦労から解放された。偶にあの華やかな校風が懐かしくなる

時もないではないが、今の研究生活に全く不満はない。


今までに購入した四季に応じた上着は、特別なイベントの時だけに使用し、

インナーは普段着としての出番が増えた。髪の色はまだ茶味がかっているが、

生えてきた黒髪の方が増えてきている。


 小柄で目だけがくりくりしている優奈は、友達からはハムスターに

似ていると言われる。鼻や口の形が凡庸な分、目が目立つらしい。

全体的に童顔なので、学部の新入生と間違えられてサークルの勧誘

チラシをもらうことも未だにある。全体的に以前よりも垢抜けなくなった

のと、童顔の相乗効果でますます年齢が低く見られつつある。


その事実すら、むしろこの大学のカラーに染まったようで、誇らしい

と優奈は思っている。現に今通りすがる学生達も、皆機能性を重視

した服装ばかりだ。


 行きかう学生の群れを縫うように走り抜け、買ったばかりの新しい

自転車は大学院棟の前の自転車置き場に辿りつく。ここまで来ると、

人波も途切れ、部室を持たない小さなサークルの面々が細々と活動

しているだけで静かなものだ。研究棟の周囲では騒音は厳禁とされて

いるので、何かと賑やかしいメインキャンパスと比べて落ち着いている。


自転車を止めて呼吸を整えつつ、研究棟を見上げる。

赤レンガが歴史の重厚感を際立たせ、その脇の記念碑に生えた苔が過ぎし

年月を示している。記念碑は大学の象徴にもなっており、新入生用の

パンフレットにも大きく掲載されている。これを見る度に、優奈はこの

大学の一員になれたことを実感し悦に入る。


現役受験生時代に受験したが失敗。

どうしても諦めきれずに大学院を受験して、やっと入学したこの大学。

学歴が欲しかった訳ではない。

その分野の第一人者である教員から、どうしても教えを請いたかったのだ。

早くからその道を志していた優奈にとって、山瀬隆文は憧れであり崇拝の

対象であった。実際山瀬の門下に入ることは、この分野での出世を約束

される。だから優奈の現状は至極満ち足りたものである。


 今年の研究室への新入生は優奈一人だが、先輩たちは皆穏やかで

親しみやすい。教員陣も穏やかな人が多く、ゼミに臨む時にも緊張は

少ない。学業に関しては、院試の準備の際にかなり勉強したので、周囲に

比べて遅れを取らない自信もあった。もちろん学ぶことの方が遥かに

多いが、十分付いていける内容で、優奈は自分の進路が間違いでは

なかったと実感している。


「おはようございます」


もうとっくに昼に近い時間だが、夜型が多い学生にとっては十分朝と言える

時間帯だ。こんな時間であるが、ほぼ毎回優奈が研究室への一番乗りである。

だから声をかけても返事が返ってくることはほとんどない。


まだ新参者ということで、娯楽の場所にも不慣れなので、時間が有り余って

いるのだ。趣味にしても、学部生の時から活動していたサークルを継続

している内部進学生とは異なり、優奈の場合サークルに新入生として一から

入らなければならない。初々しい学部生とは異なり、大学生としては

トウのたった優奈には、一から始める勇気はなかった。


そんなの気にしないという外部生もいるのかもしれない。だが優奈には、

年下の学生に気を使い、気を使われてまで趣味を作ろうとは思えなかった。

それならせっかく入学したこの大学で、研究に邁進した方がずっと

自分にとってプラスになる。


 新しい生活に慣れてからと、アルバイトもまだ雑誌とネットでの
 情報収集に留めている。いきなりあれもこれもというのは、

慎重な性格の優奈には、正しい選択とは思えない。


この判断には進路の問題も絡んでいる。

  研究室への新修士学生は、優奈一人であるが、学科全体では
 幾人も進学
している。彼ら内部進学の同級生たちは塾の講師のバイトに、
 サークル、
それぞれの交友関係で忙しいようだ。先輩たちの場合、
 それに就職活動も
入るので忙しく、修士課程で卒業し民間企業への
 就職を志す先輩のうちの
何人かは、未だに優奈は会ったことがない。
 基本的に大学院進学組は、
大学の教員もしくは研究職を目指しているが、
 もちろん技術職として
民間企業や公務員試験に挑戦する者もいる。
 
 修士学生の就職志望者の
就職活動は一年生の秋には始まるので、
 修士学生も半年後には皆更に
忙しくなることを覚悟しなければならない。
 優奈は研究職志望であり、
この研究室ではそれが有利に働くとは聞いて
 いたが、それでも何がどう転ぶか分からない。民間企業にいつでも進路
 変更できるような備えは大切だと考えている。

 いろいろと理由を付けてはいるが、要するに小心者なのだ。
 それ故に行動力がないと、自省することもある。
 そこら辺もハムスターに似ているのかもなあと、自分でも偶に思う。
 それはともあれ、この研究室では朝から夕方まで規則正しく、
 毎日来ているのは優奈くらいだった。


 だが今日は特別だ。


 研究室では、毎週第一月曜日にはミーティングがある。

 十時からなので、朝が遅い学生達もこの時ばかりは集まる。

 議題は共同実験の計画とう役割分担、学会イベントの紹介も兼ねる。

 イベントは後からメーリングリストでも知ることは出来るが、

 分担は欠席すれば自分の予定が狂う可能性もあるので、皆欠席することは

 ありえない。できるだけ来るようにという緩い義務なのだが、こればかりは

 かならず出席する。現金なものだ。


 四月の一日が月曜日かつ、入学式だったのでこれが優奈にとって初めての

 参加となる。他の研究室との共同会議室があるのだが、そこを使用しての

 会議をするのが通例と聞かされた。


 他の授業の状態と同じなら、皆直前まで来ないのだろうと、誰もいない

 ことを予測して、優奈扉を開ける。


 だが今日は見慣れない男が一人-先客がいた。



2


  十畳ほどのそれほど大きくない会議室は、中央にある大きな机でほぼ

 空間を占拠されている。先客は、ドアを開けてちょうど対角線上の

 上座に当たる位置に座っている。


 その見知らぬ男は、自分の所有物らしきラップトップを前に置き、

 なにやら懸命に打ち込んでいる。この人も見たことのない先輩の

 一人なのだろうかと、キーを叩く音が止んだ頃合いを見計らって

 優奈は挨拶を試みる。


  既にドアを開けてから数分が経過していてタイミングが悪いかとも

 思ったが、男は真実優奈の存在に気付かなかったようで、

 「ああ」と気さくに挨拶を返してきた。


  少し緊張しながらも男に近寄り丁寧に挨拶をする。

  「初めまして……ですよね。4月から修士課程に入学しました田中です。

   外部から来たのでまだ分からないことも多いですが、宜しく

  お願いします」


  軽く一礼をすると、男は少し驚いたような顔をした。振り向いた顔には

  無精ひげがあごにまばらに生えていた。眉毛も濃い目で全く整えられて

  いない。全体的に毛深い。今風の太いフレームに濃い茶色の眼鏡は、

  ファッションの為というよりも、純粋に視力を補うためにかけている

 と思われる。


  眼鏡の奥の瞳は意外に鋭い。

  黒髪も短く刈っただけ。

  髭によれよれの黒シャツは、元は上質の品だったようだが今は見る影もない。

  同じく黒のジーパンも使い込まれていた。

  こちらは同じような品を安売り店で見たことがある。

  上と下でひどくアンバランスな印象だ。

  だが黒で統一しようとしていることから、少しは洒落っ気があるのかも

  しれない。首には無造作に金のネックレスをかけている。


 「まあそう固くならないで。俺は常川聰。博士の学生だ」

 

  そう言うと右手を差し出してきた。慣れない動作に優奈は一瞬

 戸惑った後、おずおずと右手を差し出した。その手をがっちりと掴むと、

 常川は上下に振るように力強く握手をする。


  二の句を思いつかない優奈は、場を繋ぐ方法を考える。

 考えつく質問と言えば、「常川さんは博士何年生なんですか?」と

 いうものだった。これは当然の疑問だ。

 博士でも留学をしたり、学外のプロジェクトに参加でもしていない限り、

 雑務や実験で毎日のように実験室に顔を出す必要がある。

 しかし優奈は四月の入学以来、一度も常川を見たことがなかった。

 余程怠惰な学生なのか、特別な事情があるのか。


 「俺? 何年生になるのかな?」


  (いやこちらに聞かれても……)


 優奈は心の中で呟く。

 自分の学年も分からないなんて、一体どういう人なんだと謎が膨らむ。


 「まあ、そんな細かいことどうでもいいだろ。ま、これから宜しく」 


 不信感が募り、優奈はなんとも味気ない返事しか返せなかった。

 

 「……はあ」


 何と返していいのか分からず、かといって良く知らない先輩に突っ込む

 ほど優奈には度胸がなかった。それにしてもおおらかと言えば、聞こえは

 いいが、どちらかと言うと雑然とした印象が漂う。


 なんとなく間が持たなくて、誰か来ないかと助けを求めてしきりに

 辺りを気にする優奈を尻目に、常川は再びラップトップに注意を向けた。

 どんな研究をしているのか好奇心が湧いた優奈が、後ろから画面を

 覗きこむと何やら細かい数字の羅列と、グラフが画面に所狭しと映っている。

 

 「これが常川さんの研究ですか」と話題を見つけてほっとした優奈が

 聞こうとすると、カチャという金属音が新たな入室者の到来を告げた。

 三人ほどの研究室の先輩達だ。

 先輩学生達は土日以外はほぼ毎日研究室に顔を出すので、優奈には

 見慣れた顔だった。挨拶をしようと声を発する前に、事前に約束でも

 あったのか彼らは優奈には目もくれず、常川の周囲を取り囲む。

 

 無言の圧力に促され、優奈は鞄から他の授業の資料を取り出し、予習

 している振りをする。もちろん全身を耳にして、背後の会話に集中する。


 「それで引き受けてくれるんですか?」


 「引き受けてやってもいい。……ただし条件がある」

 

 常川が挑発するように言い切ると、研究室が一瞬しんと静まりかえった。

 優奈も読んでいる振りをしているレジュメを手に、全身で常川の動向を

 探る。

  

 「条件、ですか?」


 「当たり前だ。どうせ厄介払いしたかっただけだろ。俺だってしたくて

  するわけじゃない。どうしてもと言うなら、こっちの好きにさせてもらう」


  忌々しいとでも言いたげな周囲の視線をむしろ楽しむかのように、

  常川は続ける。 


 「俺が断ったら、他に人間はいないだろ?」


  歯噛みしながら、先輩の一人が口を開いた。


 「で、条件とは何ですか?」


 「田中を俺の補助に付けること。それが条件だ」

 


3


   いきなり自分の名前が呼ばれて、優奈は思わず振り向いた。

  先輩たちの視線が、優奈に向けられている。

  皆優奈と同じく、なぜと疑問符を体現したような顔をしている。


  常川だけが、自信に満ちたどや顔だ。

  会ったばかりの優奈をなぜ指名するのか。

  常川の意図がさっぱり読めない。


 「でも、あちらは博士課程の学生を一人だけという要請ですから。

  勝手に人数を増やすことは出来ません。予算の問題もあるでしょうし。

  無理を言わないでください」


 「じゃあ、お前らの内の誰かがやれば?この条件を飲まないなら、

  俺は絶対にやらない」


 「俺たちはもう山瀬先生のプロジェクトの人間なんです!」


 「じゃあこの話は断ればいいだろ。誰もやりたくないのなら

  仕方がない」


 先輩三人は露骨に眉尻を下げて、ひそひそと話し合った後、

 一人はどこかに電話をかけ始めた。もう一人は何とか常川を説得しようと

 試みるが、常川は聞く耳を持たずパソコンの世界へと既に戻っている。

 諦めた先輩たちは、無給で常川の補助になってくれないかと優奈に

 懇願し始めた。どうしても断れない事情でもあるのだろうか。

 

 「あの、何か事情があるのなら、私はお金を頂かなくても……」


 優奈の言葉に、ほっとする先輩達。


 「それは駄目だ!」

 

 バンと乱暴にラップトップの蓋を閉めると、常川はひどく不快そうな

 顔で吐き捨てた。


 「常川さん……?」


 先程までと打って変わった態度に、不思議そうに言葉を発する優奈。

 先輩たちはむしろその言葉にあからさまにむっとした。


 「元はと言えば、常川さんが変な条件を付けるから、話がこじれている

  んですよ」


 「そもそも俺が引き受けなければ、話が進まないことが前提になって

  いるのがおかしくないか? 俺はうちの研究室のプロジェクトに

  関わる情報すらもらえなかったんだ。余所の研究室なら

  無理やりにでも関わらせるってのがもうね。信頼を損ねるよ」


  そこまで言われると、二人は悔しそうに俯いたたものの、それ以上

  何も言えなかった。それと対照的にもう一人が、嬉しそうな声を上げる。


 「本当ですか? ありがとうございます!……はい。無理を言って

  申し訳ありません。……はい。失礼します」


  電話を終えると、先輩は言った。

 

 「あちらがもう一人を付けることを検討してくれるそうです。修士学生

  でも通るように、何とか向こうの先生に打診すると言ってくれました!」


 「……随分とあちらさんは人が良いようだな」


 捨て台詞を吐きながらも、今度の常川は少し驚いていた。

 

 「これで文句はないですよね?」


 なぜか自信たっぷりに反撃を開始する先輩たちに、常川は牽制する。


 「まだ検討するだけだ。……だが、うん。まああちらさんの事は

  気にいった。おい田中!」


 「は、はい」


 いきなり名前を呼ばれて、優奈は動揺する。


 「いざとなったら、俺が個人的に雇ってやる。明日からは

  お前は俺の助手だ」


 まだ優奈は自分の意見を言っていないが、そういうことになって

 しまいそうだ。流されやすい性格なのは損だと、改めて思う。

 先輩たちも同情と安堵が入り混じった顔をしている。


 (何だか良く分からない事に巻き込まれたけれど、

  こんなに押しの強い人と上手く渡り合っていけるかな?)


 プロジェクトの内容すら分かっていないこと以上に、

 優奈は先行きが不安になった。



4


  ミーティングの後は、皆が集まったのが幸いと山瀬のプロジェクトの

  研究を進めるのが通例だ。今日もそのご多分にもれず、常川と優奈

  以外のメンバーは、実験室へ行ってしまった。特殊な機械を必要とする

  実験なので、通常使用している研究室では、実験を行うことが出来ない。

  修士二年生も参加しているプロジェクトなので、結局研究室へ戻ったのは、

  常川と優奈だけになってしまった。


 「どうして私を選んだんですか?」


 「どうして山瀬先生のプロジェクトから外されているんですか?」


 「どうして無給で働くと言ったときに、怒ったのですか?」


  いくつも聞きたいことはあったが、パソコンに目を血走らせている

  常川に、優奈はなんとなく聞きあぐねる。


 (そうだ!)


 「COEのプロジェクトでは、どんなことをするんですか?」と尋ねて

  みてはどうか。優奈は当たり障りのない質問で、会話のきっかけを

  作ることにした。これから先共に同じプロジェクトに関わるのなら、

  相手のことを少しでも知る必要がある。


 「全く知らない」


  会話終了。

  常川はまたパソコンの中の世界へと戻ってしまった。

  これ以上会話を続ける気もないようだ。

 

  仕方なく研究室内でできる実験をとりあえず進めようと、優奈は

  闇雲に手を動かす。

  時刻は既に午後一時。

   朝方の陽光が影を潜め、雨音が今にも聞こえてきそうだった。


  ルルルルル。

 

  三十分も過ぎた頃だろうか、研究室の共用電話が鳴り響いた。

  実験のため手袋をしているので、手が空いているはずの常川を見る。

  だが、常川は音が聞こえていないのか、知っていてあえて無視を

  決め込んでいるのか動く気配がない。

   仕方なく優奈が実験に使用した手袋を脱ぎ、電話に出ることにした。


  ……。


 「御親切にありがとうございました。失礼します」


  数度会話をした後、礼を言った優奈は、急いで共用パソコンの前に

  座り、キーボードを叩き始める。


 「で、何だった?」


  あれだけ電話を無視していた常川が、内容だけは気になるのか、

  相変わらずラップトップの画面を見ながら、尋ねてくる。

  今度は優奈が答えない。


  突然キーボード操作を止めた優奈は、今度はスクリーンを前に

  固まっていた。信じられないモノを見たかのように、一度クリック

   してはその内容を確認している。


 「常川さん。大変です。とんでもないことになってます……」


 「どうした?」


 「これ……」


 デスクトップの前の席を優奈に譲ってもらうと、そこには1本の

 論文が映し出されていた。名前からしてこの研究室の助手、小田切の

 ものだ。

 

 「これが?」


 論文検索サーチや大学サイトに登録あれば、論文は誰でも閲覧できる。

 最近は有料化したり、会員登録を必要とする論文もあるが、ほとんどの

 論文は無料で公開するサイトに登録されることが多い。


 「これまだ書きかけの論文なんです。それなのにネットで公開されてます。

  これだけじゃありません。小田切先生の個人的なファイルらしいものが、

  ネットに流出しているみたいです!」


 カチ、カチとクリックすると、大学の授業関係の名簿、

 研究室メンバーの住所録、一般公開講座の志願者の質問に答えた

 個人的なメールの内容までがネットから閲覧できるようになっている。

 

 「ウイルス感染ということか?」


 優奈は黙ってうなずいた。

 もし小田切が感染したパソコンで第三者にコンタクトをしていたら、

 他の人間にも影響を及ぼす可能性がある。

 現段階で小田切が管理している、学生や一般公開講座受講生の個人情報が

 漏れているのだ。

 既に大問題に発展しかけている。


 先程の電話の主は、ファイルの内容から小田切の名前と所属を発見して、

 親切にも忠告してくれたのだと、優奈は説明した。

 

 「わ、私小田切先生を呼んで来ます!」


 数分後優奈は、小田切を連れてきた。

 画面を見ると、小田切は真っ青になった。


 「そんな馬鹿な」とクリックを繰り返すが、自分の個人情報とおぼしき

 ファイルが次から次に検索結果に出てくる現実を、小田切は認めざるを

 得なかった。

 茫然自失する小田切。

 それを正気に戻したのは、常川だった。


 「落ち込んでる場合じゃない。他の人へ感染している可能性も考えろ」


 学生が教員に対する言葉としては乱暴にすぎる。

 優奈はぎょっとした。


 「まさかメールを誰かに送信したりしてないだろうな? メーリング

  リストになんて送ったら大変なことになるぞ」


 「昨日送った……。プロジェクトの重要事項だから、それには連絡先

  として各人のメールアドレスと電話番号が書いてある……」


 弱々しく答える小田切。

 常川の乱暴な口調は、気にしていないようだ。


 「誰に送った?俺が今からそいつらに絶対にメールも添付ファイルも

  見ないよう、メールする。田中は電話が捕まるやつだけでも、

  連絡しろ」


 連絡先名簿を取り出すと、すぐに優奈は電話をかけ始める。

 小田切は未だ信じられないと言うように、ぼうっとデスクトップを

 見つめている。


 それほど大所帯でない研究室の事、すぐに全員に連絡が取れた。

 中には既にファイルを開けてしまった学生も何人かいたが、今のところ

 彼らの保存した情報の漏洩は確認されなかった。

 メーリングリストに送信した時点では、ウイルス感染はしてなかった

 らしい。

 ひとまず学生に被害が出てなかったことに安堵する一同だったが、

 小田切はさすがにまだ堪えていた。


 「いつからウイルスに感染したのか、何が原因なのかを

  突き止めて、関係各所に謝罪と警告する必要があるな。この事実は

  公表した方がいいだろう」


 「それは困る。絶対に駄目だ。信用問題に関わる」


 「二次被害にあう可能性のある者のことを考えろ。もうお前一人の

  問題ではないんだ」


  いやに自信満々で諭す常川に、気弱になった小田切は弱々しく尋ねる。  

 

 「常川、お前の会社はIT系だったよな?だったらこういう問題に

  強いんじゃないか?」


 「うちはセキュリティに関しては専門の会社に一任している。

  セキュリティ・スペシャリストは数人しかいなんだ。

  システムの管理でいつも手が塞がっている。

  セキュリティの専門会社かメーカーに頼んだ方がいいだろう。

  多少高くつくが被害を拡大しないためだ」


 業者への修理依頼、これからの関係各所への謝罪、

 当然山瀬からの叱責もあるだろう。これから訪れるであろうもろもろを

 考えると、小田切は今にも倒れそうだ。


 反対に、常川はてきぱきと準備を進める。

 打ちひしがれている小田切を放置し、小田切の研究室にある

 デスクトップ型パソコンを見に行くので、ついてこいと優奈を

 連れていく。もちろん小田切の部屋の鍵が無いと開かないので、

 小田切も渋々付いてきた。


 小田切に部屋の鍵を開けさせると、常川はまずはLANケーブルを抜く。

 パソコンを学内のネットワークから切り離すことが、先決だと常川は

 ケーブルを無造作にデスクに置きながら説明する。同時に小田切に

 メーカーの保証書と取扱説明書を持って来させると、パソコンを学生用

 研究室で少し試してから、後の対処を決めようと提案した。

 問題解決の為には、インターネット上の情報も不可欠なので、学生

 研究室の他のパソコンで情報を参考にしながら、対処方法を決めると

 言う。小田切はコンピュータには不慣れなようで、常川の指示に大人しく

 従った。


 小田切のデスクトップ型パソコンは、スクリーンが大きいタイプで、

 その分重量がある。常川の独断で、常川がスクリーンを、優奈が

 キーボードを持つことが決定する。荷物持ち要員として、連れてこられた

 らしい。

 

 「とりあえずお前が私用で使っているパソコンも持ってこい。

 もしかしたらそっちからウイルスが感染した可能性もある。俺たちは

 このパソコンを研究室に持って行って業者への連絡をする。急げ」


 IT会社での経験があるらしい常川の独断場だ。

 小田切はドアを閉めると小走りで出て行った。

 研究室に戻った後も、優奈が見守る中、常川はあれこれ試したが、

 原因の特定や自力での問題解決には至らなかった。

 諦めた常川は、メーカーへ修理依頼する手順と、どこに修理を

 依頼するかを、取扱説明書と共用パソコンを使って調べ出した。


 当然門外漢の優奈はなす術もなく、邪魔にならぬよう、

 ただぼんやりと常川の行動を見守る。

 何の助けにもならぬことは分かっているが、奮闘している

 常川を無視して自分の作業に取り掛かる訳にもいかず、

 優奈は何となく気まずい時間を持て余す。

 他の学生達は、自分達にそれほど被害がないことを確認した後、

 すぐにプロジェクトに戻っている。

 綿密に役割分担が振られているようで、例え心配でもとりあえず

 プロジェクトを進行させることを選択したようだ。


 その時。

 

「お手伝いしましょう」


 第三者の到来を告げる声がした。

 



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