閉じる


交錯する過去

1

 

  客が持ち込んだ緊張感のある話題に、心底疲弊した朋谷は、

  彼らの帰宅により漸く人心地がついた。

  ソファーに座った姿勢から、そのまま横向けに倒れ込み、

  目を閉じる。

  最近寝つきが悪いせいか、数分横になっただけで、もう意識が

  遠のいていく。ベッドに戻るのも億劫で、朋谷はしばしの仮眠を

  取ることにした。


  「苦しい。息が。薬を」


  そこは5年前の研究室。

  死んだはずの土岐等が、自分の席で胸を押さえ苦しんでいる。

  発作を起こしたようだ。

  それを朋谷は少し離れた場所から見ている。

  土岐等の周囲には、少し若い佐々木と小田切がいる。

  奴らは指をさして何がおかしいのか、土岐等の苦しむ様を嗤っている。

  

  (ああ確かに昔、こんなことがあった)


  これは夢だとすぐに朋谷は分かった。

  先程、あんな話をしていたから、その影響が夢に出たのだろう。

  こいつらはこの悪行のせいで、将来命をもって償うことになる。

  愚かなことだ。


  朋谷は土岐等に、かばんのどこに薬が入っているのかを聞きだし、

  素直に薬を渡す。それが気に入らないのか、二人は今の内に研究

  データを盗ってしまえとけしかける。


  本当の朋谷は、多分言われた通りに嫌がらせに加担していた。

  細かくは覚えていないが、当時の自分に「断る」という選択肢は

  なかった。でも未来を知っている今、こんな危険な選択はできない。

  それにこんな奴らに利用されるの馬鹿らしいことに、気付いたのだ。

  どうせいざとなったら自分を売るのだ。

  どうして忠義立てる必要があろう?

  

  「嫌だ。断る。お前たちがどうなろうと知ったことじゃないが、

   こっちまで巻き込まないでくれ」


  毅然と言い放つ朋谷に、二人は目を丸くする。

  もともと理不尽な要求なのだ。

  正論をかざされると、一気に萎んでしまう。


  くるりとドアに踵を返すと、肩に手を乗せる者がいる。

 

  「自分だけ逃れられると思うなよ」


  こいつの顔は……。

  

  

  ピンポーン。ピンポーン。

  玄関ブザーが一定間隔で鳴るで、目が覚める。

  時計を見ると三十分ほど針が進んでいた。

  

  ピンポーン。

   

  またもブザーが鳴った。

  もう夜も遅い。一体誰だと、眠気が冷めぬままに、玄関の

  インターホンに出る。


 「すみません、忘れ物をしてしまって。ちょっと宜しいですか?」


  モニターに映しだされたのは、野坂だった。

  必要な言葉は交わしたし、もう相まみえることもないだろう相手。

  忘れ物をしたならば、確かに返す機会はない。


 「何か分かれば持って行きますけれど?」


 「薬です。ちいさなケースに入った。ソファーのところにあると思います。

  すみませんが、お水ももってきて頂けますか。薬さえ飲めば直ぐ良く

  なるんですけれど……」


  言われてみれば、どことなく体調の悪そうな声だ。

  朋谷が持って行った方が楽だろう。

  ついでに薬を飲む為に水を持って行った方が良いだろう。


 「分かりました。じゃ、そこで待っていて」


  数分後降りてきた朋谷は、オートロックの扉を開けると、

  野坂の姿は見られなかった。

  呼びだしておいて、どういうことだ?

  眠い目を擦りながら、周囲を見回すと、野坂は駐車場にある

  軽自動車の中で眠っている。


 (先程は具合が悪そうだったが、まさか)


  急いで野坂の眠っている運転席側の窓を叩くが、起きない。

   

  携帯電話番号も知らないので、電話で起こすわけにもいかない。

  良く見ると助手席側だけロックがしていないので、そこを開けて

  起こすことにした。朋谷は助手席に乗り込み、持って来たペット

  ボトルの水を分けようとする。


 「大丈夫ですか、野坂さん?お薬。持って来ましたよ」


  膝だけ乗り出しても、まだ起きない。

  朋谷は、より運転席に近い場所の方へ座り直す。

  薬とペットボトル左手に持ち直して、右手で野坂の肩を揺する。


 「野坂さん!大丈夫ですか?」

 

  カチ。

 

  いきなり全部ドア・ロックされた。


  何が何だか分からない朋谷が狼狽えていると、急に起きた野坂が

  車を急発進させる。慌てて朋谷が尋ねる。

 

 「ちょっとどこ行くんですか?」


 「まだ分からないのか?」


  後部座席からの声と、首にスタンガンを押しつけられたのは同時だった。


 「これが最後のドライブだ。楽しみだだな」



2


 目が覚めた時には、全てが終わっていた。

 誰もいない車内。

 先程までいたはずの朋谷も、後ろの男も。

 そっと後部座席を確認するが、誰もいない。


 トランクに潜んでいる男が頭を掠めたが、

 それを確かめる勇気は、野坂にはなかった。


 最後に思い出せる光景は-。

 横で震えている朋谷。

 左腕で羽交い締めする後ろの男が握るスタンガン。


 そして―指定された場所に辿り着いた途端に、

 電気の弾ける音と共に、訪れた強い衝撃をくらった。

 同時に訪れた暗転。


 正直何が起こっているのか、知るのが怖い。

 怖々周囲を見回すが、やはり先程と変わらぬ郊外の

 墓地だった。

 冷静に考えれば、運転席に野坂が眠りこけているのだから、

 移動していないのは当たり前だが。


 急いで110番をしようと携帯を探すが、どこにもない。

 抜かりなく取られてしまったようだ。

 祈るようにカーライトを使って、車のキーを探すと幸い

 エンジンに刺さっていた。

 再度車のロックを確かめて、野坂はゆっくりと車を動かす。


 フロントライトが照らし出したのは、

 意識が無くなる前と同じ場所-車は墓地を見下ろす

 小高い丘の上に駐車してあった。

 自然と墓地を見下ろす格好になる。


 朋谷を探すが、深夜に差し掛かっている時間帯のこと。

 周囲に街灯なんて気の利いた物はなく、様子はほとんど分からない。

 薄くつけたヘッドライトだけが、ぼんやりと前を照らす。

 丘と斜面の下にある国道とをつなぐのは、一本の舗装していない小道のみ。

 両側にガードレールもない小道だから急いでいても、慎重に前進する。

 ここで車が側溝にでも落ちたら、何の意味もない。


 車の斜め前ら辺にある林で、何かが影が動いた気配がした。


 ライトが届かなくて、良くは見えない。

 道幅は車二台がやっと通れるもの。まだ右に幅はある。

 車を少しだけ右側に傾けると、ライトはそれを照らしだした。

 宙に浮くヒトの体だった。

 着衣から直ぐに朋谷と分かった。

 首はダランと垂れ下がり、目に光はない。

 

 野坂は次の瞬間、絶叫しながらアクセルを思い切り踏み込んだ。

 とにかく前だけを見て運転した。

 やっと人家の灯りが見えるところまで来ても、鼓動は治まらず、

 独りでいることがとにかく恐ろしくて、ひたすら灯りを目指す。


 レストランの立ち並ぶ国道沿いまで来て、野坂は漸く少し落ち着いた。

 大きめのファミリー・レストランに車を停め、公衆電話の場所を聞く。

 そのレストランには電話が設置されていたので、通報した。

 恐怖と興奮で落ち着かない気持ちをを押し殺して、第一発見者としての

 証言や、調書を取るのに付き合っていると、すっかり明け方になって

 しまった。

 

 翌朝‐やっとのことで解放された野坂は、朋谷が亡くなったことを

 再認識した野坂は怖れと焦燥で、とても自宅に帰る気にはなれなかった。

 そこで費用はかかるが、ビジネス・ホテルに宿を取り、部屋に着くなり

 待ちきれないというようにベッドに飛び込み、横になる。

 

 でも一番恐ろしかったのは、男が知った顔だということだった。



3


  ホテルの薄いベッドマットに横たわっても、

 興奮しているのか目が覚めてなかなか眠れない。


 寝返りを打っていると、警察署で調書を取っていた時ことを思い出した。

 

 警察と共に再度現場に戻った野坂は、

 朋谷が縄を木にかけて、首を吊っているのを確認した。

 大木にかけた丈夫なロープで首を括り、足元には台代わりの

 古い木箱が転がっている。

 

 今日会ったばかりの人間が、夜には遺体で発見される。

 野坂は衝撃がまた

 遺体の状態はもちろん、朋谷が限りなく他殺なのではと直感したからだ。

 

「協力者」がターゲットにした人間が、次々に不幸に見舞われ、

 命を落として行く。野坂も何のおとがめもなくのうのうと生きている

 ターゲットたちを忸怩たる思いで見てたのだから、

 その転落に胸がすく思いがしていた。

 しかし良心が咎めて自ら死を選んだのではなく、殺されたのだとしたら。

 話は違ってくる。


 小田切は山で毒草を煎じた茶を誤飲したことによる自殺。

 佐々木は崖からの転落死。

 そして朋谷は首吊り自殺。


 野坂は、知らずにとんでもない罪を背負わされているのではないか。

 協力自体、罪深いものではないか。

 自分の行動を省みて、恐ろしくなり、顔面が蒼白になる。

 警官は怯える野坂を、遺体を発見したショックだと解釈し、

 気遣いながら、調書を書いてくれた。


 小田切と佐々木は、それぞれ自殺をしてもおかしくないような

 理由を持っていた。だからこそ野坂もその結末に納得をした。 

 それでは朋谷はどうか?

 確かに朋谷はハラスメント加害者として、処分されている。

 だがそれを理由に自殺するだろうか。

 

「遺体を発見した経緯を教えて頂けますか?」


 当然の質問だった。


 野坂が目覚めた時に居たのは、郊外にある古い墓地の駐車場。

 郊外とはいえ、交通の便が悪く、人家からも距離がある。

 街から墓地に通じる車道は狭く、その先は山に繋がり、林業関係者

 くらいしか利用しない。その為街灯も道沿いに二本あるだけで、夜に警察

と実況見聞に付き添った時には、墓地全体が暗闇に閉ざされていた。

普通なら地元の人間でも、あんな時間に近づくことなどあり得ない。

不審に思われても仕方がない。


しかし後部座席の男の顔を思い出すと……。


中々口火を切らない野坂を、警察官がゆっくりでいいからと励ます。

出されたお茶を飲んで少し落ち着いた野坂は、机の木目を数えるように

下向きのまま口を開いた。


「実は……」


 


4


 その朝、常川と優奈は携帯メールをもらった。

 差出人は野坂。


 一つ目は、朋谷が亡くなったと言うショッキングなもの。

 もう一つは、一連の事件の犯人が分かったので会いたいという

 内容だった。

 

 重要なニュースが二つも含まれていて、興奮さめやらない優奈を

 常川は学生食堂に連れて行った。山瀬のCOEプロジェクトに関わっている

 者‐つまりは研究室のほぼ全員は面識がある人間が自殺したという

 ショッキングなニュースは、軽々しく研究室内では話せない。   


 「おかしいですよね……。朋谷さん、昨夜は確かに誰かに怯えて

いましたけれど、自殺するような雰囲気ではなかったと思うんです。

むしろ生きることを諦めたくないって強い意思すら感じたのに」


朋谷は、自分や小田切たちを脅している人物に心当たりがあるようだった。

頑として口を割らなかったが、すぐにでも警察に保護を頼むと言っていた

矢先のことだ。


 「私昨日の事を警察に……」

  他殺の疑いがあれば、警察に情報提供すべきだ。
  今までの小田切や佐々木の死も、タイミング的におかしい。
  それも3人目となれば、おかしいと感じるのが普通だろう。


 「駄目だ」

 「どうして!あんなに怯えていたじゃないですか!何かあったんですよ」

 朋谷が怯えていた事情を知る者は、朋谷の職場にはいないはずだ。

 同級生で秘密を共有していた仲間たちも既に亡くなっている。

 なにより以前から解せなかったのだ。
 常川はいつも脅迫の件に関しては、なかったことにしようと努める。

 常川はなぜ言わない?

 たまに見せる正義感の強さと矛盾して、今日こそは問い詰めてやろうと

 優奈は語彙を強めた。


 「……一連の事件が自殺ではなく、犯人があの事件の関係者だとしたら、

  俺はとっ捕まって処罰されろなんて思えない。奴なりの正義で

  動いているんだ。それが社会通念では間違っていたとしても。最初に

  非道なことをして罰も受けない奴らを制裁した気持ちはわかる」


 「でも、皆がそんなことをしていたら、世の中滅茶苦茶になりますよ。

  もし人殺しで報いを受けさせていたのだとしたら。脅迫だって立派な

  犯罪なんですよ」


 「分かっている。でも俺は逃げた人間だから、そいつに意見する権利は

  ない。そいつは真っ直ぐに戦っている。自分を誤魔化していない。

  だから掴まって欲しくはない。

  その前に一緒に協力して、改悛させる別の方法を考えたい。

  俺だって加害者の一人だからな。知っていて逃げ出した。それは

  一生代えられない事実だ」


 優奈はとても賛同できなかったが、一旦保留にする。

 野坂が犯人を知っているのなら、それを聞いてから行動しても

 遅くはない。待ち合わせの三時まで、あらゆるシチュエーションを考えて

 やきもきした。


 場所は、恐ろしくて家に居られないという野坂が現在滞在している

 ビジネスホテルを指定して来た。その場所と部屋番号を教えてもらい、

 常川と二人で向かう。

 ホテルは正面に大きな川の見える五階建ての幅の狭い構造だった。


「野坂さん?」


 時間通りなのに、ノックをしても野坂は出てこない。

 部屋番号はあっているのに。念のためにドアノブを回すと呆気なく開いた。


「おかしいな。あれほど怯えているような文面だったのに、開けっ放しなんて」


 中の様子を伺いながら、中の動静を探る。優奈がきゅと常川の袖を引く。


 「様子がおかしいですよ……。警察に通報した方がいいかも……」


 常川は構わず、さっさと中を検める。

 優奈は中で野坂が倒れているのではないか。その犯人が傍で隠れている

 のではないかと、戦々恐々としながら、こわごわトイレとお風呂を

 確かめる。当然のように誰もいない。


 中は12畳ほどのベッドルームとテーブルが兼用の部屋と、トイレと

 バスルームだけの簡素な部屋。隠れるようなスペースはない。

 玄関からは短い廊下があって、その横にトイレとバスルームがある。

 その奥がベッドルームになるが、玄関からは、机しか見えない。角に

 当たる部分にベッドとテレビが置いてある。常川がどんどん奥へ入りこむ

 のと対照的に、優奈はまだ靴も脱がず玄関に立ちつくしていた。


 キイ。


 突然後ろのドアが開き、人が入って来た。


 「焔さん?」


 入って来たのは焔だった。

 

 「あのどうしてここに?」


 確かに一連の事件を少しばかりは聞きかじってはいいるだろうが、今回の

 話は人が死んでいる。それも限りなく他殺と思える方法で。此の事件は

 あくまで山瀬研究室内部で起こっていること。それを外部に漏らしても

 いいものなのか。


「置き手紙があるぞ」


 奥から常川の呑気な声がする。


 『警察の方から朋谷さんのことでお話しを聞きたいと言われましたので、

 申し訳ありませんがお茶でも飲んで、ここでお待ち下さい』


 テーブルの上には、確かに小さな盆の上に湯のみが3つと、この地方の

 名産のお茶のティーパックが添えられていた。ドアが開けっぱなしという

 のは不用心だが、貴重品も置いていないようだし、警察に呼ばれたのなら

 しかたないだろうと、皆茶を飲み待つことにする。


 「ああ。焔も少しは事情知っているもんな。そんなに深い因縁があるのなら

 初めから教えてくれればいいのに。水臭いな」


 「……」


 今日の焔は大人しいと言うよりも、死んだように話をしない。

 疲れているようにも見えないが、なんだか動作の一つ一つが億劫に感じる。

 優奈の嫉妬がますますあり得ない方に由来で行く。

 季節は既に秋だが、駅から歩いて来ると少し汗をかくというものだ。

 すぐに二人も用意されたお茶を飲んだ。


 数十分後、すっかり眠くなった二人はそのまま倒れ込んだ。

 ベッドの空いたスペースを分け合うように、常川と優奈は二人とも

 ほぼ同時に倒れた。少しだけ意識が無くなるのがおそかった優奈は、

 二人が倒れたのを確認するとゆらりと立ちあがるのをみた。


 そのまま優奈は意識を失った。

 


5


 優奈が起きた時、そこは病院のベッドだった。

 簡素な鉄パイプのベッド。

 少し殺風景な見覚えのない小部屋。


「良かったですね。怪我がなくて」


 看護師が親しげに話しかけてくる。


 「……どういうことですか?」


 体を動かすとなんだか固定されているようで、動かしにくい。


 「まだ動いては駄目ですよ。重症ではないですが、火傷を

  しているんですから」


 「他にも人がいたと思うのですが、その人たちは大丈夫ですか?」


 「ええ。お二人とも大丈夫ですよ。お一人はあなたよりも重症ですが、

  命に別条はありません。もう一方も奇跡的に軽微な怪我で済みました」


 優奈は、昏睡する前の焔の顔を思い出した。なにかを強烈に
 恨むような鋭い顔。
 
 「私たちはどうして病院に運ばれることになったんですか? ホテルの
  部屋で人を待っていただけなんですよ。それがどうして‐」

 看護師を問い詰めるが、上から口外しないように言われているのか、
 「詳しいことは分からないので説明は他の者がします」の一点張りだった。
 それでも少しは何か知っているだろうと粘ると、二人ずれの男が入って来た。
 病室は共同部屋だったから、他の患者の家族かと思ったが、真っ直ぐに
 優奈のベッドに向かってくる。

 「睡眠薬を飲まされた上、部屋に火を付けられたんですよ」

 見知らぬ訪問者は、さらっと物騒な言葉を挨拶代わりにやって来た。
 看護師はやっと解放されたと、すぐに別の業務に向かった。
 
 「……どなたですか?」

 男たちは警察の名刺を渡した。
 病室で話す内容ではないのか、場所を変えて話そうと提案して来た。

 「あなたと常川君、それに焔君は野坂さんにビジネスホテルに呼び出され、
  待っているうちに眠くなった。それで合っていますか?」

 「でもその後の事は全く覚えていません。私が知りたいくらいです。
  気が付くと病院で、何がなんだか分からない気分です……」

 「……あなた方は、睡眠薬を飲まされて昏睡させられていたようです。
  体内から睡眠薬が検出されています」

 優奈はあのお茶を思い出した。

 「その後で、火をつけられましたが、幸い早くに気付いた人がいまして、
  消火活動が進み、助かりました」

 そこで、と刑事は一旦話しを止めた。

 「あなたが部屋で待っていた人物の名前を、教えて頂けませんか?」
 
 この答えは重要な意味を持つのではないかと危惧しながらも、素直に
 優奈は野坂の名前を出した。

 他に野坂との関係を聞かれた。
 一連の脅迫に関わる騒動を話すべきかと迷ったけれど、
 とりあえず自分の大学のハラスメント相談所のスタッフであるとだけ
 簡潔に答えた。

 更に突っ込まれたら、小田切や佐々木の話をせざるを得ない。
 常川がなぜか隠したがるこの話題を勝手に話しても良いものか。
 緊張しながら、適切な受け答えをシミレーションする。
 
 しかし幸運にも案じていた割には、すぐに納得してた刑事は
 「分かりました」とあっさりと帰って行った。

 翌日、野坂がホテルに放火したと自供し、逮捕された。
 

6

 
 野坂が自首した‐。

 (野坂さんは初めから、私と常川さんを殺そうとして
  あのホテルに呼んだということ?)

 短い期間だったけれど、その間の野坂の性格を鑑みて、
 それはありえないと常川に相談しにいった。
 あのホテルで焼きだされた患者は皆ここで入院していると
 聞いていたので、看護師に尋ねるとすぐに教えてくれた。
 常川自身も優奈の安否を気にしていたそうで、
 どのみち看護師は居場所を伝えるつもりだったようだ。
 看護師によると、常川は男性患者の個室に収容されていた。

 「なんだ死んでなかったのか?」

 相変わらずの常川に、優奈はほっとしたような、懐かしいような
 不思議な感情になり、「はあ?」と強めに答えておいた。
 常川の身体は包帯がいたるところに巻かれており、見た目は
 結構痛々しい。

 先程新聞で見たことを告げると、常川も怪しんだ。
 
 「ありえないよな。どうして自分で放火した奴が、自分で消防に
  助けを呼ぶんだよ」

 悪態をつくように、常川は言った
 
 「そうなんですか?」

 警察はそんなことを、優奈に一言も行ってなかった。
 
 「自分で調べたんだよ」

 常川は嘯いた。

 「じゃあ誰かを庇ってるんでしょうか?」

 脳裏にあの焔の顔が思い浮かぶ。

 「警察もそれを睨んでいるけれど、本人の証拠と内容が全部一致
  してしまってるから、認めざるを得ないという方針だそうだ。
  今までの脅迫事件も全部自分がやったことだと認めたらしいし」

 「そんな!確かに野坂さんは芹沢さんのことで、大学側に恨みは
  ありますよ。でも殺して全部がチャラになるようなことでも
  ないんじゃないですか? むしろ謝罪して欲しいというスタンス
  だったはずです」

 「それも全部証拠を握っているんだよ。そんなに一度に
  いろんなことを、研究室と普段関わりの無い野坂さん一人で
  出来るとは思えないんだよな」

 どこか遠くを見ながら常川は言った。
 割り切れないものを感じているのは、優奈だけではないようだ。  

 
「昨日言っていた真犯人って、野坂さん自身の事だったん
  ですかね?」

 「現時点ではそうとしか推測できないな」

  納得できないながらも、現状を客観的に考慮した上で意見を言う。
  優奈はあの時感じた違和感について、意見を求めたかった。

 「やはり誰かをを庇っているのではないでしょうか?
  ……焔さんとか」

  意識が薄れる中映った、焔の形相がずっと忘れられない。

 「なんで焔が出て来るんだ?」

 「焔さん、私たちと野坂さんを待っていたんですよね。でも
  今回の火事でほとんど怪我もないし、全然顔を出さない。
  そもそも野坂さんとの関係だって、不明瞭だし」

 「焔とは学生アドバイザーの講習会で、野坂さんが講師をやっていた
  ときからの、知り合いだと言っていたよ」

 常川が自分よりも情報をもっているのを癪に思いながらも、
 不審に思う。

 「それだけの関係の人が、なぜ昨日呼ばれたんでしょうか?」

 「今までの罪を告白しようとでもしたのかな。学校側にもいつか
  ばれる日が来るからな。あいつは学生アドバイザーだし、最近は
  中心的に活動している。そっち関係に顔が利くからかもな。
  ……もしくは男と女の関係かもな」

 「違いますよ。駄目です!」

 「駄目ってお前。そんなの本人たちの勝手だろ」

  いずれにしろ納得はできない。
  常川の意見もおかしくはないのだが、もっと深い関係が
  二人の間に横たわっているとしか考えられない。
  あれこれ考えるが、全て常川に却下されていった。
  常川だって野坂の事を、深く理解している訳ではないのだが。
  あれこれ言い合っていると、以前病室に来た刑事がやって来た。

 

「こんにちわ。仲が宜しいですね」

  年配の方の刑事が、穏やかに話しかけてくる。
  野坂のことを聞くなら今かもしれない。
  満足できる答えを引き出すには、こちらも求められる質の
  答えを用意しなければと、気を引き締める。
  仕事なのだから、意図があるから病室を訪ねたに決まっている。

 「野坂さんのことですか?」

 「はい。放火についての動機がどうにも曖昧でして。
  甥御さんの事件で大学側に怨みを持っていたのは
  確かですが、5年経過した今になってどうしてか。
  ちょっと分からないのです。あなた方との関係もね」

 「俺たちは5年前のアカハラ事件の起きた、山瀬研究室の
  人間だからな。当時の生き証人かつ公正な物の見方をできる学生は
  俺だけだし」

  そういうと牢刑事はぐいっと前に身を乗り出して、ベッドに座る常川

の顔をじっと見つめた。

 「あなた5年前の事件当時、いました?」


  じろじろ顔を観察されるが、負けるものかと常川は睨み返す。


  「休学していたが、籍はあった」


  十分観察したのか、刑事は顔を離して豪快に笑う。


 「失礼、失礼。私も先輩と二人であの時の事件の捜査を担当して

いましてね。ほら、あのとき学生が腹を蹴られたとか、階段から

着き落とされたとか訴えていました事件」


 「ああ……」


  常川は思い出したことを肯定する返事をする。


 「土岐等さんを蹴ったり、階段から突き落とした人がいたんですか?

  酷い!酷すぎます!病人に暴力をふるうなんて。まさかその事件が

  うちの研究室で起こったんですか?」


  むしろ刑事の方が驚く。


 「この方、田中さんでしたか。5年前の事件の事はあまりご存じ

  ないようですねえ」

  


7

 

 佐々木や小田切が5年前に行ったと言われている行動に関しては、

 例のホームページで確認している。だが実際に物理的暴力を振るったと

  言うのは見かけなかった。言葉による誹謗中傷、研究成果の奪取、仕事の
  押しつけ。これらを佐々木と小田切、朋谷も加担していたこと、そして
  自殺した芹沢が行っていたのは知っている。
  刑事が何か言いかけたのを、常川が目で制した。
 察した刑事はさりげなく次の質問へと移る。

 

 「どうも情報が偏っているようですな。ですが大変参考になりました。

  それで田中さん、常川さん。お二人は野坂さんとどういう関係なのですか?」


  今度こそ隠す訳にはいかないだろう。

 何も後ろめたいことはないのだが、助けを求めるように常川の方を見る。

 

  「佐々木がこいつにアカハラした時に、知り合ったんだ。

  それまでは全く接点はなかった」


 嘘ではない。

 野坂はハラスメント相談室で働いているので、この説明に無理はない。

 若い刑事はまた出てきた「アカハラ」の言葉を不審に思う。

 

 「アカハラってそんなに頻発するものなのでしょうか?」


 5年前にもひどいアカハラ事件が起こったのであれば、自浄作用が働いて

 しかるべきと考えるのが普通だ。老刑事も同じ感想を持ったようだが、

 話が逸れるので、軌道修正をする。


 「常川さんは、5年前のアカハラ事件、どんな立ち位置だったのですか?」


 一瞬優奈を気にしてから、常川は珍しく言い淀む。

 

 「……俺も加害者の一人だ。5年前のアカハラ事件はいきなり始まった

  訳ではない。土岐等が入学して半年ほどで始まったんだ。

  だから休学する前、当然俺は知っていた。土岐等がどんな嫌がらせを

  受けているのか。ずっと黙殺していた……。だから傍観者という

  意味で、紛れもなく俺は加害者なんだ」


  修士課程入学当時の常川は、学問の道を志していた。

  アカハラにはすぐに気付いたが、下手に介入して将来が

  潰されるのを恐れて、見てみない振りをしていたのだと

  打ち明けた。

  

 「アカハラを止められない自分の無力さを痛感した俺は、

  死に物狂いで努力して、起業した。あんなところ一秒でも居たくない

  その一心だった。それでも失敗した時の保険代わりに、籍だけ

  置いていた。ひどく中途半端な存在だった」


  今では経済力と最高学年である事実が、客観的な物の見方をある程度

  容認される立場になったので、客観的な見方を野坂に提供できたはずだ

  と、常川は締めくくった。

  そのときの関係者を全て知っているし、大学側に阿る必要もないからだ。

   ほぼ自分語りの内容だったが、刑事たちは真剣にメモを取る。


 「そうなるとここ半年の間に、小田切さん、佐々木さん、朋谷さんが

  皆自殺しているのが気になりますね。特に朋谷さんの自殺現場の場合

  彼女が第一発見者だ」


 「それなんですけれど、どうして野坂さんが第一発見者になったんですか?

  朋坂さんと野坂さんはほとんど面識がないんですよ」


 「野坂さんの供述によれば……」と前提を付けた上で。

  野坂はあの晩、5年前のことをひどく反省していると言って、朋谷に

  呼び出された。そして現場となった墓地に行くよう指示され、

  反省の証として首を吊ったのだと。


  老刑事は手帳を確認しながら説明する。


 「でも、目の前で自殺しようとする人が居たら、普通止めるのでは

  ないですか?」


 「墓地についてからしばらく野坂さんは眠っていたそうです。

  朋谷さんから水をもらったと言っていましたから、その中に

  睡眠薬が入っていたのかもしれません。自殺の邪魔をされないように」


  ありえない状況に、常川と優奈は絶句する。


 「警察としても、頭から信用している訳ではありません。しかし現場検証

  によると、野坂さんが朋谷さんを首吊り自殺に見せかけて殺すことは

  不可能です。あの暗闇の中、女性一人で実行するのは無理だとのことです。

  協力者がいたという有力な情報もありません」


 「野坂さんは何と言っているんですか?」


 「何も。放火についての動機も、『自分がやった』としか話さないのです。

  ほとんど黙秘を貫いていますが、理由は芹沢さんだけが責任を取ったこと

  に対する腹いせだと見ていいでしょう。

  後は先程の3人への嫌がらせも全て自分がやったことだと自供しています。

  その一方で、3人の自殺への関与については、何も話さない。どこか

  ちぐはぐな印象を受けるんですよね」

 


8


  嫌がらせと言っても、被害者から告発もない。

  小田切の件に関しては、狂言誘拐を利用した強要罪が成立すると

  言えないこともないが、小田切自身がそう判断しなかったのか

  訴えられることもなかった。

  だが自殺に関与しているとなれば、殺人罪だ。

  事情は大きく異なる。


 「野坂さんの説得によって、3人とも良心の呵責に耐えかねて自殺した。

  ……そうは思えませんがね。3人とも、何というか……様々な不正を

  続けていた訳でしょう?。反省しているとは、ねえ?」


  アカハラのターゲットになった優奈もそれは疑問だ。

  少なくとも佐々木は全く反省していなかった。


 「一人、足りませんよね?それがどうも引っ掛かるんですよ。

  本丸を倒さずして、自首というのがね。不自然ですよねえ」


 「本丸? まだ誰かいるんですか?」


  またもや常川が目配せをする。

  老刑事と常川の間には確かに通じるものがあるみたいだった。


 「それでは今日は田中さんはこれくらいで結構です。

  怪我をしているのに、ご協力ありがとうございました」


  半ば強制的に追い出されてしまった優奈は、ひどく不愉快だ。

  これでは何も知らない子ども扱いだ。


 「現場にはあなたたちしかいなかったのですか?」


  刑事によると、宿泊客の中に死傷者はいないとのことだったが、

  常川たちのように外部からきた客間では確認が出来ていない。


 「あなたたちを部屋の外に運んだ人間がいるんです。宿泊客たちも

 確認しています。そうでなければ出火元にいたあなたたちが、

 軽傷で済むはずがない」


 焔のことだ。

 

 だが常川は言いだそうとはしない。

 話してもよいものかどうかを考えているようだ。

 焔の思い詰めたような顔を思い出すと、とても言い出す

 気持ちにはなれなかった。


 「若い男性だったと証言があります。心当たりはありますか?」


 「知りません」


   即座に常川が否定する。

   優奈は真実をいうべきかと苦しみながらも、一方だけが知っていると

   妙な疑いがもたれると、常川の意見に控えめに肯定した。


 「その男性が火を付けたと思っているんですか?」


 「いやいや。放火して殺そうとするのであれば、わざわざ助ける

   必要はないです。助けた後も名前も告げずに、姿を消してしまった

   と言うし。面倒事に関わりたくないが、見て見ぬふりもできなかった

 と言うだけでしょう。私はただ、助け出すときに、不審人物を

 見たのではないか聞きたかっただけですよ」


さらっと交わしたが、そこに何か意図があるのは明らかだ。

人の良さそうな顔をして、案外食えない性格なのかもしれない。

優奈は気を引き締めた。

  


9


  「アカハラの犠牲者は、もう一人いたんだ」


   それが学部生の名だと常川は、アイスを頬張りながら言った。

  優奈も持参したアイスを口にしながら、補助椅子に座って

  常川の次に出てくる言葉を待る。


  昨日自分だけ5年前の事を知らなかったことが幾つかあることに

  拗ねた優奈は、今日は午前からずっと常川の部屋に居座っている。

  六人部屋に入院している優奈と比べて、金を持っているだけあって

  常川の個室はゆったりできるというのも理由の一つだ。

 

  「今の事件には関係ないことだ」と突っぱねていた常川だが、

  昨日の刑事との話で思い出したことがあると言って、出た言葉だ。


  孤立無援の土岐等の只一人の味方がいた。

  5年前アカハラを追求して、退学処分になった学生。

  彼はまだ当時学部生だったが、土岐等がアカハラにあったと

  最後まで学校側に訴え、自分自身も大学を追われることになった

  学生。


 「物理的なハラスメントを受けたのは、その学生だ」


 「その人も小田切先生たちを怨んでいるんでしょうね」


 「……不思議には思っていた。土岐等の弔い合戦というのなら、

  一番に名乗りを上げるはずのそいつがいない。俺も当時休学

  していたから、伝聞でしかないんだが。教えてくれた学生が

  言っていたよ。土岐等の味方がいてほっとしたと」


  常川も同感だった。

  孤立無援でアカハラの挙句、亡くなってしまったなんて後味が悪すぎる。

  その時は罪悪感が少しだけ薄まった気がした。

  当時の常川たちには、研究室の中枢部を敵に回して、自分の将来に

  リスクを背負ってまで、土岐等を助ける正義感はなかった。

  その時彼は確かに、常川たちにとっても、救世主だったのだ。


 「野坂さんが庇っているのは、その人なんでしょうか?」


 「だが野坂は当時ハラスメント相談室で、土岐等の事件をもみ消した

  側の人間だぞ。言ってみればそいつの敵だ」


  今回自分のハラスメントの解決に尽力してくれた審議会に感謝している

  優奈は、ハラスメント相談室は一番のハラスメント被害者の味方と考え

  ていた。そこが率先して火消しに回るなんて考えられない。

  ごく普通の判断だと思う優奈の考えは、常川に打ち消される。


 「それは建前だ。大学だと教育委員会が指導する訳でもない。

  ひどい刑事事件でも起きない限り外に漏れることもなければ、

  介入もできない。自浄に期待するしかないのは昔も今も同じだ。

  当時は今以上に表に出なければなかったことになると、とにかく

  隠蔽されていた」


  膿を出して適切に処分することで、学校の質を上げようとする方針は

  この大学ではつい最近のことだと、常川は言う。

  アカハラ自体が認識されてまだ間が無いことも指摘する。


 「当時は表立ってその件に触れられない分、裏で情報が錯綜して、

  いろいろなデマや噂が飛んでいた。妙な噂が増えると、その分真実

  から遠ざかる。もやもやとしたまま忘れ去られらていったんだ」


  曰く、土岐等が芹沢を一方的に好きになった上での三角関係だった。

  曰く、退学後、学部生は自殺した。芹沢はそのたたりで自殺した。

  曰く、行方不明になった塔堂が実は主犯である。

  曰く、むしろ塔堂は真実を知って恐ろしくなり逃亡した。

  曰く、土岐等あかりは殺された。


 「なんだか滅茶苦茶ですね。死者に口なしって、好き勝手な

  ことばかり」


 「ではもう一人の裁かれるべき人って誰ですか? 塔堂さんのことですか?」


 「本当に野坂さんが全てしたことなら、この件はこれで終了だ。

  お前が気にすることじゃない」


 「でも、野坂さんがその人を庇って、代わりに自首したかもしれない。

  事件は終わっていません!」


 「……お前、焔を庇っているって推理していなかったか?」


 「ええ。二人でも構わないじゃないですか! とにかく野坂さんが

  単独で犯行をしたなんて思えません」


  優奈は拗ねた口調で付け加える。


 「それに常川さんは、焔さんのことを警察に言いませんでした。

  話すとまずいと判断したからではないのですか?5年前の事も

  いろいろ知っているみたいだし。常川さんだって怪しいと言えば

  怪しいんですからね」


 「余計な事は言わなかっただけだ。連絡が取れ次第、話合うつもりだ。

  それまでは口を噤んでいろ。で、お前は焔とは連絡取れたのか?」


 「いえ。ずっと圏外です……」


 「……治ったら二人を調べる必要があるな」


 「ええ。常川さんも含めて」


 冗談ぽく言ったつもりだったが、意外と優奈は本気だった。

 いきなり自分をCOEに入れたことだって、未だに応えを聞いていない。

 5年前の加害者に対しては憎しみを持っている一方で、

 事件を表沙汰にすることを厭う。

 

 人が一人亡くなったインパクトは呪いのように、

 無責任な関係者たちに等しく不幸を与えて行く。


 これが人の手によらないのであれば、この世には超自然的な力が

 いるのだろう。だが優奈にはそんなことは信じられない。


 (そんな訳がない。絶対に黒幕が居る)


 探して見せると決意した。  

 


10


「全部被る気なの、あの人?」


「らしいな」


「いいの、それで?そういうの一番嫌いだったはずでしょ?」


「……本人の意思だ。尊重すべきだろう」


「でも……!何とも思わないの?」


「所詮はあれも加害者だ。利用しただけのこと」


「本気でそう言っているの?見損なった。私だけでも助けに行くから。

 ……早く目を覚ましてよね」


 (騒々しい女だ)


 一方的に切られた電話をポケットにしまい、煙草に火を付ける。

 まだ怪我が痛むので、焔はここのところ自宅で静養している。

 店には顔を出しているが、研究は家でも出来るので、次の

 COE会議までは休むことにしてある。


 自分の選択は間違っていない筈だ。

 あの時のことを思い出しながら、焔は断言する。


  あの時、睡眠薬で常川と優奈が倒れて行く中。

  呼びだし方など不審な点を感じていた焔は、用心してお茶を飲まなかった。


  三十分しないうちに、その判断が正しいことが分かった。


  騙されたと分かり、怒りが湧いた。

  所詮あちら側の人間だったと言うことか。


  焔たち3人を昏睡させることで得られる物を考えると、口封じしかない。

  焔はトイレに移動し、次に起こることを待った。

 

  しばらくしてドアが開く音がする。

  そっと足音を忍ばせて入って来た人物が、ごそごそと何事かしている。

  水の音と、きな臭い臭い。


 (灯油をまいたのか!)


  その人物がドアを閉める音がしたのを確認すると、

 焔はすぐに寝室へ向かい常川と優奈を運び出す。

 火の回りは早く、火災警報装置はなぜか作動しない。

 とても消防やフロントに電話している時間はない。

 二人を救助しながらも、焔は大声で火事だと叫び続けた。

 気付いた宿泊客に一縷の望みをかけるしかない。


 煙に巻かれながら、なんとか二人をドアの外に運び出した時、

 他の宿泊客たちは既にホテル側に誘導されて逃げ始めていた。

 逃げる彼らと逆方向に、こちらに向かってくる人がいる。

 

 野坂だ。


 焔が「協力者」であることを知らない野坂は、

 ぎょっとして立ちすくむ焔を無視して、今来た部屋へ入って行く。

 中が火の海であることを悟ると、その場にへたりこんだ。


 館内の誘導をしているスタッフが、焔と野坂に気付いて

 早く外に出るよう促す。

 仕方なく共に外へ向かう野坂。

 二人分担いでいる焔には、優奈を引き受けましょうと担いでくれた。

 憔悴しつつも、野坂は今昏睡しているのが、優奈と常川だと知って、

 涙を流して喜んだ。


 すぐに二人を安全なところへ運び出す。

 ホテルには、あの部屋で何か異変が起こっているかもしれないから

 見て来て欲しいと言う匿名の電話があったとスタッフが言った。

 おかげで早めに火事に気付き、客たちの避難誘導が

 すみやかにおこなわれ、被害はほとんどなかった。


 面倒なことになりそうだ。

 焔は野次馬に紛れて、姿を消した。


 車に乗ってから、すぐに野坂にメールをする。

 こういう時、メールだけのやりとりはまどろっこしい。

 返事はなかなか返ってこなかった。

 やはりホテルで消防などに捕まっているのだろうか。


 「どういうつもりだ?」


 野坂はあっさり電話に出た。


 「あなたこそ私を騙していたのでしょう?あなたは塔堂なんかじゃない」


 「……」


 「責めているんじゃないの。これを機会に私もそろそろ罪を償うわ。

  5年前のことも含めて。あなたも私が恨めしいでしょう?」


 「自首するのか?」


 「私は放火犯ですもの。それにハラスメントの加害者でもある。

  償いをするわ。あなたもそれを望んでいるはず」


 「十分償ったと僕は認識している。今まで十分協力してくれた。

  それに今日の火事は……」


 言葉を被せるように、野坂は言う。


 「私がやりました」


 「なぜ?」


 「全てを無に帰すため。でも敵わなかった。だから潔く自首する。

  やっと決心がついたの。これが今まで目を背けていた自分への罰。

  ……もう決めたことなの。野暮なことはやめてよね」


 それが野坂との最後の交信となった。



11


 常川と優奈が退院して初日。


 野坂が逮捕されたことは、朋谷の自殺と関連付けられて

 研究室でも話題になっていた。

 例のブログに挙げられているらしき人物たちが、

 次々と亡くなっているらしいことは、既に学内でも噂に

 なっている。


 ブログを作成した人物に殺されたのではないか。

 5年前のハラスメント関係者が、今になって復讐を開始

 したのではないか。1つの研究室で行われたことでもあり、

 山瀬研究室には野次馬が押し寄せて、困惑している。  


 それともここ最近の厳しい審議会のここ最近の審議会の

 厳しい裁断が切っ掛けで何か道を踏み外したのではないかとも、

 学科内では憶測を呼んでいる。


 当然アカハラへの厳しい措置を提案した焔にも、風当たりが強く

 なっているようだ。肝心の焔は学校には出てきてないらしい。


 後悔して自分も自殺しているんじゃないか。

 恥ずかしくて、大学に顔を出せないんじゃないか。

 

 好き勝手な噂で、優奈は腹をたてる。


 「関係ないですよ。当人たちは、学生を自殺を思うほど痛めつけ

  てきたんですから。自分が少し痛い目を見たからと言って、

  自殺したところで何の同情もしません。どうして焔さんが怒られ

  なければならないのですか?」


 「まあまあ、そんなに怒るな。でもこいつらが皆自殺するって

  確かにおかしな話だよな?噂になったのが遅い位だ。

  そんな奴らじゃない」


  野坂の供述通りだと、野坂はただ手紙を送りつけて罪悪感を

  上付けただけで、殺してはいないと主張している。


 「……もし誰かが殺したのなら、やっぱり5年前の事件の被害者の

  関係者ということになりますよね。私なら殺してしまうよりも、

  ずっと生きて反省し続けて欲しいですけれど」


 「土岐等か、芹沢の家族か。会ったことあるけれど、とてもそんな感じで

  はなかったけれどなあ。土岐等の家族は、怒っていたけれど、あくまで

  法律で裁くことに拘っていたし、芹沢の家族も息子が加害者だって

  信じ込まされていたから」


 「真実を知ったらまた変わって来るんじゃないですか?

  それにもう一人のハラスメント被害者は……? そうだ常川さん、

  その被害者の学生さんに会ったことはあるんですか?」


  この頃になると、常川がこの事件に関して独自の主張を持っている

  ことに気づいていた。芹沢家や土岐等家にも顔を出しているし、

  この被害者にも何らかのアクションを起こしたと考えてもおかしくない。

  

  自殺説など様々な憶測が流れているその学生。

  遺族が学内での話し合いで主張を退けられて以来、彼は姿を消した。

  あれほど大学当局側を怨んでいた彼の、沈黙。

  これが自殺説を裏付けたのだろう。


  「ない」


  「でも常川さん、この事件にはすごく反応するのに。もしかして

   この人も、行方不明か自殺したんですか?」


  「そうじゃない。怖かったんだ。そいつの行く末を知ってしまうのが。

   今とんでもなく悲惨な暮らしをしているとして、どうやって償えば

   いい?」


  「……もし人生が狂ってしまったとしたら、きっと小田切先生たちが

   何事もなく暮らしていたことが絶対許せないでしょうね。野坂さん

   からしたら、相談員として不正に加担したわけなんですから、罪悪

   感で協力したり、庇ったとは考えられませんか?」


  「一理あるな。昔に怨みがあることが、弱みに繋がることもある」


  「その学生さんを探しませんか?向きあう勇気があるのなら」


  「仕方ない。非常事態だ」


   そういうと常川は携帯メールを押し始めた。

 


12


 「嘉納君だ」


  それが学部生の名字だと老人は、大分小鳥に食われた

 木越しに遠い山を見ながら応えた。

 ここに至るまでの道のりは長かった。


 手始めに常川のメールによる、元院生たちへの調査を開始し、

 優奈は各研究室の名簿を調べた。


 院生と学部生の距離は思ったよりも大きい。

 何か特別な係をしていない限り、接触を持つこと自体ない。

 常川は後輩にも調査対象を広げた。

 途中で退学した学生は、名簿からひっそり削除されてしまうので

 名簿からは足跡を辿れない。

 大学内の事件は、多くの場合名前が公表されることはないので、

 新聞からも辿ることはできない。


 各教員に尋ねようとも、教師受けのすこぶる悪い常川が聞いても

 調査は捗らない。優奈も新入生なので、先生に質問する程の

 人脈が無い。調査は難局を極めた。


 「もう野坂さんに、直接聞いてみようぜ」


 「庇っているのは誰ですか、って聞いて素直に教えてくれると

  思いますか?」


 「そうじゃない。そいつもハラスメント相談室に行った可能性がある。

  だから記録があるんじゃないか?刑事さんでもいいけれど」


 「自首したんだから、拘置所にいるんですよ。どうやって連絡を

  とるんですか?どのみち刑事さんと連絡とらなければいけないなら、

  刑事さんに聞いたらどうですか?」


 「そいつとは、警察を介入させる前に会いたいんだ。それは困る」


  我がままだと困りつつ考えて、優奈は言った。


 「土岐等さんのご家族はご存じじゃないでしょうか?」


  退学処分を覚悟してまで、独りで土岐等の味方をした学部生だ。

  土岐等が入院している間に、一度も見舞いに来ていないとは

  考えられない。


  常川は難しい顔をする。


 「まだ命日は先なんだがな」


 渋っていた割には、すんなりと住所録を出してきた。



 土岐等あかりの祖父、浩輔と面会できたのは、それから3日後の事だった。

 車で2時間ほどかけて到着した土岐等家は、政令指定都市から1時間ほど

 離れた田園地帯で、土岐等家自体大きな田圃を持っていた。

 田圃の中にぽつんと建つ日本家屋の平屋建て。

 都市部で生活して来た優奈には、新鮮で思わず見惚れてしまう。


 「命日にはまだ早いのに、よく来てくれたね」


 「はい。言い辛いのですが、今日はお願いがありまして……」


 普段とは違う常川の丁寧語を聞いて、優奈が思わず目を見張る。

 最大限の礼を尽くした言葉で、もう一人の被害者についての情報を

 教えてくれないかと尋ねる。


 「何か大学であったのかい?」


 常川は5年前のアカハラ事件の関係者が3人も、不慮の死を遂げたことを

 話す。いずれも自殺して処理され、遺族の意向もあり、新聞には掲載

 されていない。祖父は大いに驚いた後、悲しげな顔をする。


 「野坂さんだけでなく、他に誰か背後にいると。そう君は思うのかい?」


 「確かではありません。でも万が一そうであるなら、今度こそ……」


 「君にまでそう力まれては、ミイラ取りがミイラになってしまう。

  しかし、そうか。まさかそこまで……」


  開け放した引き戸から、秋の風が吹いて来る。

  近所で草を焼く匂いが、どこか懐かしい。


 「それであかりさんの味方をしていた学部生の方の、今どこに

  いるのか御存じであれば、教えて頂けないでしょうか?」


 「……あの子にはもうこんなことに関わって欲しくない。

  そう思って今まで黙っていた。これからもそうであって欲しい」


 「では、知っているんですか?」


 初めて優奈が会話をした。


 「すまんが、今の居場所は知らない。あれから私たちの前からも

  姿を消してしまった。死ぬ前には会いたいと願っているんだが」


 「じゃあ、せめて名前だけでも」


 もうよせと常川が言う。


  「失礼しました。すみません。悲しいことを思い出させてしまって。

  帰る前に、仏壇に手を合わせても宜しいでしょうか?」


 「ああ、もちろん。ありがとう」


  別室にある仏壇は先祖代々を祭っているらしく、大きな檜塗りの

  大型のものだった。

  仏前には綺麗な仏花が供えられている。


 「きれいなお花ですね」


 「ああ。月命日には必ず墓に供えてある。たぶんあの子なんだろう。

  私が勝手にそう思っているだけだが。それでも嬉しくてな。

  まだあかりの事を思い出してくれる人がいることが。

  ……常川君。あんたも毎年来てくれる。ありがとうな」


 「いえ、加害者の俺にお参りさせて頂けるだけで感謝しています」


  優奈も仏前に座り手を合わせる。

  線香の立ち上る香りにどこか見覚えの感じた。


 「一つ聞きたい。もし野坂さんに協力していた人が、あの子だったら

  君たちはどうするつもりだ?」


 「分かりません。ただ謝って、一緒に考えたい。そう思っています」


 「それは贖罪の為か?」


 「いえ、自分の為です。ただそうしたいだけです」


 「そうか……」


 それきり二人は黙ってしまい、そのまま土岐等家の車庫に置いてある車

 まで送ってくれることとなった。


 その時にふいに歩みを止めた浩輔は、空を仰いで言った。


 「嘉納君だ」


 「土岐等さん……!」


 「嘉納君を宜しく頼む。田淵とかいう先生のところに所属していたはずだ。

  そしてどうか伝えて欲しい。私たち家族は今でも嘉納君を、家族のように

  思っているから、いつでも帰って来て欲しいと」


  そういうと浩輔は頭を下げた。

 

 「約束します」


  常川も負けじと頭を下げて、二人はこの美しい田園地帯を後にした。



13


 田淵研究室へ問い合わせると、住所録と集合写真を渡す代わりに、

 もう金輪際アカハラ関係では関わってくれるなと念を押された。

 共犯罰則規定が余程怖いのだろう。

 

 二人で行って見ると、その住所地に立っていたのは新築の和風建築だった。

 御殿のようにすら見える。

 

 表札は「嘉納」と出ているので、間違いはないとインターホーンを

 押してみる。中から出てきた女性に、探し人の名前を告げると

 「あんた誰?」と疑わしい顔で言い放つ。

 

 とっさに答えられないでいると、さっさと戸を閉めようとするので、

 脅迫されているかもしれないと訴えた。あれ以降外の世界と断絶して、

 それで自分達に危害を加えることだけを糧に生きてきたのかもしれない。

 十分成り立つ仮定だ。

 

 「あの子はここにはいませんよ。今どこに居るのかも分かりません。

  死んでるのかも生きているのかも」

 

 「あなたが母親じゃないんですか?」

 

 「まさか。あれの母親はとっくに死にましたよ。殺されてね」


  女は、さも迷惑だとばかりに「もういいでしょ」と言い捨て、

  音を立ててドアを閉めてしまった。


  そのまま学校の中央図書館に行って、過去の新聞のバックナンバーを

  漁る。


 「ありました!」


  二十三日午後十一時ごろ。……丁目の自宅リビングで、この家に住む

  嘉納薫さん(四二才)が、血を流して倒れているのを帰宅した長男が

   発見し、119番通報した。薫さんは搬送先の病院で出血多量による死亡が

   確認された。

  刃物のようなもので全身を数十か所を刺され倒れていた事から、

  殺人事件と断定し、捜査本部を設置。司法解剖をして、詳しい死因などを

  調べている。捜査本部によると、部屋に荒らされた様子はなく、凶器も

  見つかっていない。薫さんは長期間入院しており、当日は無断で帰宅した

  ところで、事件に巻き込まれた可能性がある。

 

 「この長男の人が、その学部生なんでしょうか?」


 「……これ続報あるのか?犯人は捕まったのか?」


  その後数時間費やしたが、結局続報は見つからなかった。


  犯人だとしたら同じ場所に住んでいる訳はなく、

  犯人ではないなら一層住み続けるのは気持ち悪いだろう。

  先程の様子も合わせて元の住所には、この学生は住んでいないと

  考えるのが普通だろう。

  あまり上手くいっているようには見えない、あの女性にもう一度

  聞くべきだろうか。結果が既に推察されて、見通しは暗い。


  既に外は暗く、物悲しい音楽が館内を流れる。


 「続きは明日にするか。今日はもうこれ以上何もない」


  グー。


  ここまで来て、夕御飯を食べていないことに気付いた。

  時刻は夜十時。

  空腹なのも当たり前だ。

 

 「豪快な音だな」


 「十時の時報ですよ」


  その日は、近所の定食屋で食べることにした。

 

  こうして食事をしていると、ここ最近の日常から遊離した出来事が

  本当にあったことか疑わしい。確かに関わった人たちは皆姿を消して

  いるが、それも日を過ぎればすぐ慣れる。

  自分がある日突然いなくなったとしても、こんなものなのかなと

  焼き鮭を食べながら、少しだけ優奈は無常感を感じる。


  一方常川は情緒の欠片もなく、かつ丼の大盛りに食らいついている。

  そこへ例のアニメの主題歌が流れる。

  周囲の学生やサラリーマンが一斉にこちらを見る。

  優奈は恥ずかしくて、他人のふりをする。

  常川は平然と「お、メールだ」などと言いながら、携帯をいじる。


 「これは……」


  画面を見て絶句している常川。

 

 「何なんですか?」


 「いや、お前は見なくていい」


  そう言いながら携帯を操作して、何かに気付いた。

 

 「あ、でもお前にも送られているのか。いいか、今日のメールの

  添付ファイルは全部消せ」


 「は?」


 「もうお前は巻き込まない。悪かったな、今まで」


  急に常川がそんなことを言うものだから、優奈は気が削がれてしまった。


 「どうしたんですか?今までの所業を反省したのなら、いいですよ。

  許してあげます」


  いつものふざけた調子で返しても、常川の顔は真剣なままだ。


 「俺はお前が、あちら側の人間だと思っていた。違うと分かった以上は、

  監視する必要もない。それだけだ」


 「あっち側って……」


  COEに引き入れたのも、アカハラ事件のことを話したのも、全部

  優奈の行動を見張る為だったと言う。


 「俺は、相手の怨みの深さを、絶望を力に変える力を分かっていなかった。

  二人も亡くなった今、お前は俺に付きあう必要はない」


 「そんな、ここまで来て!気持ち悪くて寝られません!」


 「お前、寝られないどころか、永眠するかもしれないんだぞ」


 「大丈夫です!たぶん……」


 「途中から気弱になるなよ。……まあ、巻き込んだのは俺だしな。

  その代わり危なくなりそうになったら、すぐに戦線離脱だ。分かったな?」


 「はい」

 


14

 

 

 常川の警戒していた意味は、家に帰ってから判明した。

 田淵研究室から送られてきた、嘉納の写真。

  

 ようやく手に入れた集合写真に写っていたのは、大人しくて、

  気難しそうな少年だった。周囲の明るい笑顔が、彼の纏う気の異質さを

  際立たせている。


  その身を覆う薄暗さが何に起因するものかは分からない。

  何かが決定的に違うことだけは伝わって来る。

  仕上げの整えられた、同じ器を知っている気がする。

  優奈はその器の形を、描こうと懸命に記憶の海を探す。


 「焔さん……?」


  今の焔とは正反対の人物像。

  朋谷の言うとおりだとしたら、復讐の為に焔は生まれ変わった

 とでもいうのか。

  外見も人格も変えて。

  その執念は一体-。


「焔さんがあの学部生、だったんですね」


 現在の温厚で有能な大学院生像と、

 あの暗い目をした少年が同一人物だとは思えなかった。

 

 焔には、確かに得体の知れないところがある。

 人を詮索することもないが、自分の事は話さない。

 服装も妙に高価な物を身につけ、研究室内とはまた違った交友関係を

 保っているようだ。一方で研究室内に中途入学にも関わらず、

 研究室内に大きな勢力をもっている。同年代と比較すると、

 妙に大人びた口調もどことなく得体の知れない人生経験をもって

 いることを仄めかす。


 (そういえば私、焔さんのこと何も知らない……)


 何より優奈の件がきっかけとはいえ、ハラスメント業務に対する

 執念のようなものを感じる。熱心と言うよりは、執着。

 それも5年前のアカハラがきっかけとすれば、納得のいく説明になる。


 今日は常川と待ち合わせて、昨日と同じく嘉納が昔住んでいた

 家に向かっている。周囲に聞きこみなんて探偵みたいで、

 緊張するし、罪悪感がある。あの写真を見る限り、それはおそらく

 焔が消したい過去。それを暴くことが本当に良いことなのか。


 「嘉納」の表札の家を、再び訪ねる。

 昼間の明るさで見ると、本当に大きな家だと分かる。

 この辺りの地主でもしているのか。

 出てきたのは昨日と同じ女性だった。

 優奈と常川を見るなり、苦虫を潰したような顔を見せた。


 「あの子のことは、本当に知らないんですよ。自分の母親が死んでから

  連絡もしないで、勝手にどっか余所に行ってしまいましたからね」


 「それって、お母さんが殺された事件のことですか……?」


 更に険しい顔になると、彼女は何も言わずにドアを閉めた。


 「アンタッチャブルな話題だったみたいだな」


 頭上で腕を組み、常川はどこか他人事で言った。

 仕方なく車に戻ろうとすると、100mくらい向こうから

 手招きするおばあさんがいる。

 先程の家からの視線を気にしつつ、傍に行くと、

 何を調べているのか。場合によっては協力すると持ちかけてきた。

 分かりやすい情報屋だ。

 

 焔と分かった以上、迷惑はできるだけかけたくない。

 おそらく焔はこの近辺に今の居場所を知られたくはないだろう。

 困ったと思っていると、常川が爽やかに嘘を吐く。

 

 「僕たち嘉納君の友人なんですけれど、あの家に行っても

  知らない人がいるだけで、困っていたんですよ。昔の友人

  なんですけれど、何か事件に巻き込まれたことをつい最近

  知ったものですから」


 「ああ、あれね。5年前の事件!宥君は本当に可哀そうな子だったわ。

  小さい頃からお母さんが厳しく当たっていてねえ。近所でも評判に

  なっていたの」


  おばあさんは嘉納の祖母より、少し若い位の年代で、嘉納一家のことを

  良く知っていると言った。新しく移り住んでいるのは、一族の者だが、

  母親が存命の時には寄り付きもしなかった親族だと怒りをあらわにしていた。

  嘉納はその一族に家を奪われた形になったらしい。


 「では事件以来、姿は見ていないんですね?」


 「そうなの。当時、県内で不審死が相次いだでしょう?だから薫ちゃんの

   事件もその内の1件じゃないかって。でもねえちょっとタイミングがねえ。

  薫ちゃんは以前から慢性疾患を患っていたんだけど、自宅療養が許可された

  矢先に死んでしまうなんてねえ。それも嘉納が退学になった頃に合わせて

  みたいに。タイミングが良すぎると思わない?

  ちょうど自分が家を出たいと思ったときに、ずっと目の上のたんこぶ

  だった母親が死ぬなんて」


    ご婦人の怒りは、今現在嘉納家を陣取っている一族だけではなく、

  嘉納自身にも向けられているようだ。

  後味の悪い形で、聞き取りを終了する。

  ご婦人は有益な情報を得られなかったばかりか、自分だけが

  貴重な情報を漏らしただけの結果となったことに酷く不満の

  様子だった。


 「警察の方の言うとおりだと思います。退学したばかりの心細い時期に、

  お母さんを殺す動機がありません」


 「その直後に嘉納は姿を消している。積年の恨みをここぞとばかりに

  晴らした可能性もあるわけだ。それだけじゃない。もしかしたら、

  こいつは連続殺人事件を起こして、これを埋もれさせようとしていたと

  言う可能性もある」


 「まさか。一件の事件を隠すために、無関係の人間を殺すと言うのですか?

  いくらなんでもそれは無茶ですよ」


 「無茶で大胆だからこそできるんだよ。あの男は何もない状態から、

  自分で金と地位をたった5年で作り上げたんだ。思い切った手段が

  必要だったはずだ。なにしろ5年前の時点で、あの男には、人脈も

  資金も、学歴もなかったんだから」


 「どうやって手に入れたのでしょうか?」


 「さあな。いつも言っているバイトが関係あるかもな。接客業だって

  言っていたから。ともかく奴は対人関係スキルを身に付けた。

  誰に聞いても嘉納は陰気で人を寄せ付けない性格だったらしい

  からな。今では研究室で一番の社交家だ」


 「人ってそんなに変わるんでしょうか? とても同じ人物に見えませんよ。

  人間不信だった人物が、その不幸の真っただ中で変わる勇気など」


 「決意をすれば人は変われる。奴は決めたんだ。別人になると。そして

  強くなる為に、邪魔な人間を殺した」

  

 「そこまでして、どうして土岐等さんに忠誠を尽くさねばならないのです? 

  婚約していたわけでもない。ただ恩義を感じていただけで」


 「大事な人間も百人いれば、その分気持ちも薄まる。だが奴には一人

  しかいなかった。それだけだ。だからその人物のために平気で人を手に

  かけられるんだ。お前にとっての家族、恋人、友人全部を集めた分の

  気持ちを、たった一人に向けていたんだろう」


  幼少期から家にも学校にも居場所がない。

  そんな中で独りだけ、自分を見出してくれた人がいれば、

  その人は神にも等しい存在だと。

  絶望故に、例えようもなく深い情が生まれる。

  考えられることではある。


 「二十年近く生きてきて、一人しか大事な人がいなかった

  ということですか?」


 「寂しい人生だな」


 「でも、それだけ大事な人を失うことへの、怒りは分かった

  ような気がします」


  それに寂しいとは違う。

  優奈は思った。

  それほどまでの想いを抱く人がいるのは、この上なく幸せなこと

  ではないかと。

  脳裏に一人の女性が、思い浮かぶ。

  彼女も幸せだったのだろうか。

  もはや知り得ない答えに、少しだけ優奈は想いを馳せた。

 


15

 

   監視気味なおばあさんのおかげで、思いがけない嘉納の幼少期を

 知ることが出来た。母親の殺人事件が、嘉納を容疑者まがいの視線を

 受けるようになり、家まで乗っ取られた。大学だけでなく、家庭、いや

 近隣までも安住の地が無い絶望。その中で、どうやって今の状態まで。


 「嘉納だけで調べていると情報が少ない。あの連続殺人事件という枠で

   調べれば、何か分かるかもしれない」


 「また図書館で作業ですか?」


  昨日を思い出して、うんざりする。

  昨日と同じ時間まで調べたと言うのに、結局続報やその後の嘉納に

  繋がる記事は何も見つからない。ネットの情報すら全くない。

  ただこの地域での殺人に関係があるのかもという情報だけ。

  リークする者などない。


「直接僕に聞いたらどうですか?」


「うわああ」


 二人の調べているスペースにいつの間にか、焔が居る。

 いつもと変わらない澄まして落ち着いた態度。

 その態度の裏には、あんな無残な過去があるのか。

 尊敬に似た想いを持つ。


「今日は僕の店に招待しますよ」



16


「今日は随分可愛い子を連れているのね」


  店に入ると、すぐに傍のテーブルで若い店員を侍らせた

  女性から冷やかされる。

  かわいらしいが、全体的にこどもっぽい。というかゴスロリ

  ファッションだ。

  しかも年齢は不詳。十代と言われればそんなもんかと思うし、

  三十代と言われればそうかもとも思う。何かがアンバランスな雰囲気が、

  危うい魅力になっている。特にその舌足らずな声は、彼女の存在を

  ミステリアスにする。


 「今日はすみません」


 恭しく女性に謝罪している焔を押しのけて、常川が叫ぶ。

 

 「あの声優の金澤サヤカさん、ですよね?」


 「あら、私のこと知っているの?嬉しいわ」


 特に気分を害した様子もなく、女性は笑った。

 常川は携帯を取り出していつものあの着信音を鳴らしてみせる。

 

 「この曲の大ファンなんです。辛い時にはこれを聞くと元気になって。

  それで、サインもらっていいですか?あ、紙が無い。じゃあ、この服に

  マジックで!」


 常川の携帯の着メロは、この女性が歌っていた歌だったのかと納得する。

 が、あのアニメはかなり古いアニメのはず。

 この女性の年齢は……聞かない方がいいのか。

 あまりのテンションの上がりっぷりに、優奈が恥ずかしくなる。

 こういうファンが多いのか、女性の常川をあしらう態度は手慣れていて、

 大人の余裕を感じた。

 そもそも他の客たちも、裕福そうな女性ばかり。

 男性の常川と、貧乏学生の優奈は思い切り浮いていた。 

 

  中のアダルトな内装。店員たちの服装。客の層。


 「あの、ここって……」


 「ホストクラブです」


  連れて行かれた席には、酒の代わりに、紅茶を運ばせた。


 「お前、酒癖悪いからな。良い判断だ」


  常川はくさしながら、紅茶をグビット飲んだ。


 「それにしても、見事に女がいないな」


 「ホストクラブですから」


 「お客様には素敵な方が一杯いらっしゃいいますよ。でも今日は

   お客様なので、ゆっくり楽しんでください」


  こうしている間にも、他の客から指名が次々に入る。


 「少し待って下さい」


  そういって挨拶をしてくる。挨拶も様になっている

  その間は、若い従業員が相手をしてくれる。


 「すみません。オーナーはお客様に人気があるので」

 

 「そうでしょうね。恰好いいですもの。あの、特定の人とかいるんですか?」

 

  こっそり店員に聞く。普段なら絶対に聞けないが、こういうお店だ。

  それくらい聞いても良いだろう。


 「オーナーはそう言う人はいないし、つくりもしないそうです。

 そういうお堅いところがまた人気の秘訣なんですよね。俺も尊敬してるんすよ」


  焔とは大分感じの違う男のたわごとだ。


 「なんだなんだ、男にも人気なのか?」

 

 「そりゃそっすよ。俺なんか一目ぼれっすよ」


 「そりゃすごいな。どうして惚れた?」


 「その頃俺馬鹿やっていて、置き引きして逃げたのはいいんすけれど、

   捕まりそうになってそんで、原付のシートの中に鍵ごと入れて、

   ロックしたんすよ。その場で開けられないから捕まらないかと思って。

   もちろん相手は怒ってすぐに鍵屋を呼ぶから待っていろとか言いだして。

   その隙に逃げようと思ったんですけれど、その時にオーナーに会ったンす。

   オーナーはすぐに鍵を開けて、持ち主に返していました。

   かなり怒っていたけど、説得して、起訴は免れた。そんでれみて

   好意ったんす「馬鹿やってないで、自分で稼げ。やるきがあるなら

   雇ってやるって」


 「なんだかお前みたいだな」


 常川が揶揄する。


 「何、優奈さんもオーナー好きなんすか?」


 「え?ち、違いますよ。いえ、嫌いと言う訳ではなくて、

  好きだけれど、深い意味ではないというか」


 「ち、面倒くさい。どうでもいいよ」


 「かっこいい人ですよね。オーナーは他にもいろいろ能力や

  技術があるんすよ。そういうところもミステリアスで

  かっこいいですよね。毎日通っていたら、少しずつ教えて

  くれるかも知れないっすよ」


 おかげで男は、今では店でもムードメーカー的役割だ。

 天真爛漫な性格は、男女関係なく盛り上げることが出来る。

 なるほど焔の目利きは確からしい。


  挨拶が終わりこちらへ向かってくる焔。

 それを目ざとく見つけると、「おまちかねのオーナーですよ」と

 爽やかに席を立った。

 

  


17


  「おまたせしました。それではご質問を伺いましょう」


  「あの、焔さんが、5年前のハラスメントの被害者だったんですか?」


  「そうですよ」


  あっさりと悪びれもせずに、答える。

  動揺することもなく、紅茶のお代わりを注いでくれる。


  「でも名前は嘉納さんではないですよね?」


  「いろいろ方法があるんですよ」


  「それで、その……退学処分の後の」


  「なるほど。それで当時の住所辺りで探偵ごっこをしていた

   わけですか」


  全部知られていた。

  あくまで紳士的に応対する焔は、全てを既に掌握しているようで、

  恐ろしくなる。


  「母親が殺された件でしょう。あの当時は容疑者にされかかりました

   からね。近所での評判は芳しくないでしょうね。もうお聞きになった

   でしょうけれど、僕は幼いころから母にも祖父母にも冷遇されて

   いましたからね。大学も退学処分されて、行き詰まった若者が家族に

   鬱憤を晴らすと言うのは、分かりやすい筋書きですからね」


  さらさらと流れるように説明するその内容が、哀しくて、

  二人は何も言えない。


  焔はその反応にも大して気にも留めず、紅茶を飲みながら、

  当時を思い出す。


  山瀬への襲撃を諦めた日。

  後始末として自分の名義から、家を書き換えたことを知った

  母親が帰って来ていた。玄関から灯りが見えて、げんなりとする。

  末期と言えどある程度体の事由のある母親は、その衰えと共に

  権力が親族に渡っていても、まだ過去の栄光にすがろうとしていた。

 

  それを許せない親族は嘉納に家と母親の治療費だけを体裁の為に渡し、

  体裁の為だけの金を渡していた。病の進行と自身の我の強さも相まって、

  それを受け入れられない母親は、何かにつけ自分の不遇は、

  全て嘉納の不甲斐なさに原因を見つけようとするのだ。

  いくらアルバイトを増やしても、修繕費と学費、母親の手慰みに

  全てが費やされて行く。

 

  またあの生活に戻るのか。嘉納は心底疲れ果てていた。

  だが帰ったその広間は。

  鮮血で染められていた。

 

  嘉納は夢を見る。幾度も幾度も。肩の荷が下りた安ど感。見知らぬ殺意。

  今しがたまで自分が山瀬に同じことをしようとしていたのに、恐ろしくなって

  家を後にした。

 

  誰なんだ。

 

  まさか。

 

  思い当たる顔が幾つも浮かんでは消える。

  それから後、警察を呼んで実況見分してもらった。

  当然のように、普段から冷遇を受けている自分に容疑の目が

  向けられる。

 

  もうどうでも良かった。

  

  ここはなんて腐った世界‐。

 


18


常川と優奈はしばらく言葉が出ない。

 焔は気を悪くしたようではないが、何か物想いをふけっている。

 そう。焔がそこまで堕ちたことの、そもそもの始まりは

 アカハラ事件に収束するのだ。

 あの事件は様々な悲劇の裏になり表になり、常に繋がっている

 メビウスの輪。それを断つことはできないのか。


 「幸いアリバイを証明してくれる人がいましてね。潔白は証明

  されたものの、住む家と財産を失ったので、それなりに大変

  でした」


 過酷な昔話をさらっと語る。

 

 「全部あのアカハラに端を発するんだよな」


 「……そういうことになりますね」


 カップを見ながら、こともなげに焔は返す。

 焔は意を決したかのように、喉から絞り出すように言った。


「嘉納さ、焔さんは、今まで復讐を考えたことはないのですか?」


「もしそうだとして、そうだと打ち明けると思いますか?」


「……仮定の話ですが、もし復讐を考えたことがあるのなら、

 どうして5年もかけてまで、土岐等さんの為にするのですか?

 自分の人生を復讐に捧げる程なんて、忠誠を誓った主君みたいです」


「俺は土岐等の忠実なる味方と聞いている。他の奴らも味方なんて

 誰もいないと高を括っていたから、そんな存在が居ることを知って

 驚いていたよ。あんな状態だったから、誰も土岐等のプライベートなんて

 知ろうともしなかったからな」


「ひどい……」


「そうだな。本当に許されないことだ」


 嘉納だったころの焔は、ほとんど自分の事を語らない人間で、結局誰も

 二人の本当の関係性なんて分からなかった。


 それは間違いなく嘉納の成育歴に由来する。

 嘉納の母親はいつか結婚するつもりで嘉納を生んだが、

 結局それが実現することはなかった。

 母親は嘉納がいるせいで、結婚に踏み切れないと思い込み、虐待を

 繰り返していた。祖父母も娘が捨てられた証拠としか、嘉納を

 見ていなかったので、嘉納は優しいおじいさん・おばあさん像を

 見た事がない。学校でも親族の子らが中心となって、陰で

嫌がらせばかりをされていた。

 母の薫が、裕福な家の一人娘だった為、政略結婚の話もあったが、

 それも母親が蹴っていた。

 他の親族たちもこぞって財産目当てにやって来た。

 母親が病に倒れてからは、借金だけを押しつけて、金は全て

 掠め取られてしまったこと。

 

 「あの人に会うまでは、人生は苦行でしかなかった。人が信頼し合うことが

  夢物語だけの世界だと思っていた。少なくとも私の周りではそうだった。

  家にも学校にも居たくなくて、図書館で勉強していた時に現れたのが、

  彼女だった。彼女は僕に勉強を教えてくれ、奨学金の相談にも乗って

くれた。人との交流が苦手で話題だってほとんどない僕の話も、黙って

聞いてくれた。信用できなくて、好意を素直に受取れなくても

許してくれた。僕にいいことがあると、一緒に喜んでくれた。

その人に会って初めて生きていて良かったと感じた」


一言でこの関係性を説明することは出来ない。

恩人。尊敬。友人。先輩。

陳腐な言葉で片付けられるほど簡単なものではない。

 


19

 

 常川と優奈はしばらく言葉が出ない。

 焔は気を悪くしたようではないが、何か物想いをふけっている。

 そう。焔がそこまで堕ちたことの、そもそもの始まりは

 アカハラ事件に収束するのだ。

 あの事件は様々な悲劇の裏になり表になり、常に繋がっている

 メビウスの輪。それを断つことはできないのか。


 「幸いアリバイを証明してくれる人がいましてね。潔白は証明

  されたものの、住む家と財産を失ったので、それなりに大変

  でした」


 過酷な昔話をさらっと語る。

 

 「全部あのアカハラに端を発するんだよな」


 「……そういうことになりますね」


 カップを見ながら、こともなげに焔は返す。


 「随分苦労したんだな」


 「人並み程度には」


  当時大学二年生だった焔は、既定の単位を取得していたので

  他大学への編入が可能だった。

  学資がないので、通信教育の大学で学士号を取得してから、

  大学院で和琴大学に舞い戻ったのだと、大して感慨もなく

  説明する。

  その冷静さに優奈は感服し、常川はなぜか下を向いて

  黙り込んだ。


   もう他に聞くことはないかと焔が促すと、

  常川は意を決したかのように、喉から絞り出すように言った。


 「俺が、土岐等を殺したんだ」


  常川はそういって顔を覆った。

  焔の顔はこちらからは見えない。

  常川はその顔を見て、心底怯えているところからして、

  すさまじい顔をしているのだろう。


 「理由を言え」


  いつもとは違う言葉使い。


 「あの日、俺は土岐等に呼び出されたんだ‐」


  常川はその時、休学していた。

  その分研究室とつながりが少ないとも言える。

  偶に来ても、土岐等への風当たりの強さを諫めることなどなかった。

 

  それでも土岐等には、研究室の内情を知った上で、協力をして欲しい

  人がいた。山瀬との話し合いの後、土岐等は常川と地下二階で会う

  約束をした。


 「劇薬についてとだけ言った。あとは詳しく話すからと」


  俺はその頃既に、塔堂から劇薬が不自然に減っていることを知っていた。

  塔堂から聞いていたから。そして塔堂は姿を消した。


 「皆が奴の失踪に気付く前から、俺は知っていた。少なくともあいつが

   自分から姿を消した訳ではないことを」


  だから劇薬に関することで、何かヤバいことにクビを突っ込んだのだなと、

  ピンと来たよ。だからちゃんと行くつもりだった。

  それでも仕事でどうしても抜けられない用事ができて、ちゃんと携帯に

  連絡した。返事はそれでもなくて、あいつ怒っているのかと急いで行ったら、

  救急車で運ばれた後だった。


 「すまない。俺が時間通りに行っていれば。ごめん。この通りだ」


  土下座して謝る常川。

  それを見下ろす目がどんなものか、優奈は知りたくないと思った。


  傍に会ったゴミ箱を思い切り蹴飛ばすと、


 「気が変わらないうちに、目の前から消えろ」


 と言い捨て、それきり後ろを向いてしまった。



20


 許されないと分かった上で、常川は土下座をして謝った。

 罵倒も非難も甘んじて受ける覚悟だった。

 それぐらいのことをした。


 その時の常川には、初めからなかったことにする厚かましさも、

 黙って罪を抱える覚悟もなかった。

 悪かったから謝る。

 思いつく償いの方法はそれだけしかなかった。


 「……いつか。いつか仕返しをしに来る者がいるかもしれない。

  その時には、そいつに、そいつの人生を返してやってくれ」


 その人は許すとも、許さないとも言わなかった。

 言えなかったのだ。

 常川がその復讐者にあるべきものを返すまでは。

 還らない魂を償うには、ただ役目を果たすしかないと常川は覚悟を決めた。

 

 「それで常川さんは」


 「加害者を反省させず、罰することもできず、ただ犯罪者として

 処罰されれば、そいつは一生加害者も世の中も憎むだけだ」


 「復讐に協力するつもりだったのですか?」


 「協力はしないが、犯罪者になることを防ぎたかった。

 正当な方法で加害者に思い知らせてやりたかった。

 俺は出来た人間ではないからな。迷うことの方が

 多かった」


この件が起こる前から、常川は人脈を活かして、当時の状況について

聞き込みをしていた。


  当時修士課程にも数人学生がいた。

  5年前の状況を聞く為に、奔走していると、一人が言った。

  員が進学せず、民間企業や官公庁に就職している。


 「あの時の雰囲気はかなり、異常でした。土岐等さんには本当に

  悪いことをしたと思っています。先輩なので、僕らも面と向かって

  失礼なことをしたりはしませんでしたが、細かなところで失礼を

  働いた覚えはあります」


  強要されたわけではないが、土岐等あかりを庇い立てできない

  雰囲気であったことは認めた。


 「研究室へは必要最小限しか行かないようにしていました。

  自分が何かされたわけではありません。先生が主導でやっていたこと

  ですから、注意なんてできる状態ではありませんでした。

  他方で土岐等さんを庇わなかった事にも、

  罪悪感があってとにかく関わらないようにするのが精一杯でした」


  もう一人のOBも言う。


 「雰囲気が最悪だったのは確かだった。常に土岐等さんの悪口を言って

  結束を固めているような雰囲気で。だから土岐等さんがいなくなると

  困った訳です。だからか 何かに付けて呼び出しては、いたぶっている。

  ある意味皆、土岐等さんに依存していたんです。そうでないと均衡が

  壊れてしまう。そんな脆さがあった」


  土岐等が恒常的にアカハラに遭っていたこと、加害者は複数いたこと、

  山瀬が主導していたことの証言はとれた。

  しかしこれは結局無意味だった。

  被害者として告発する人間がもういないのだから。

  遺族も大学側の態度にすっかり諦めて、諍いを望んではいない。

  そうこうしているうちに、訴訟可能な期間が過ぎてしまった。


 「俺も逃げた一人だ。土岐等が壊れて行くのを見ていられなかった。

  弱かったんだ。慰めることも、止めることもできなかった。

  土岐等でなりたっているその均衡を壊すことで、自分が代わりの

  生贄になるのが怖かったんだ」


  休学と言っても、その頃ビジネスに集中する為に節約のため、

  休学届を出していただけの常川。完全にノータッチだったわけではなく、

  少なくとも今よりも向上心のあった常川は、定期的に大学にいっては

  必要な業務をこなしていたようだ。


 「俺はその時まだ修士学生だったから、面と向かって批判することが

  できなかった。異様だったよ、あの雰囲気は。学部ゼミではあんな

  雰囲気ではなかったのに。目の前で明らかに無実の人が壊れて行く。

  無力感に耐えられなかった」


  常川は当時は大人しくて、他人事には我関せずの性格の学生だった。

  塔堂の所在を突き止める為に実家に電話した時にも、母親が随分変わった

  のねと電話越しに分かるくらいだ。相当の変化を遂げたのだろう。

  それがアカハラだとしたら、皮肉なことだ。

   

 「土岐等は、俺に救いを求めていたんだ。俺だけじゃない。修士の学生

  皆に求めていた」


  その時既に土岐等は学生相談所に提訴していて、その関係で証人が

  必要だったこともある。それでも誰も名乗りでなかった。


 「俺は見捨てたんだ。ビジネスは忙しかったけれど、自分が創業者

  なんだから時間の融通は工夫次第ではなんとかなったはずだ。

  学費もビジネスも後付けだ。俺は単にあそこから逃げたかった」


  そのことをずっと悔いているし、おそらく一生許されることではない。

  常川は自覚している。

  だからこそ初めから一貫して土岐等の味方に立っていた、人間を

  応援したいし、許しを請いたい。

  この罪悪感を埋める為ならばなんでもする。

  そう誓ったのだ。   


 「でも焔さんはもう」


 これまでの推理が正しければ、取り返しのつかない罪をいくつも

 犯している。

 どう助けることができるのか。どうすれば彼の気が済むのか。


 「まだ出来ることはあるはずだ。俺はもう静観し、やり過ごして後悔する

  ことだけは、絶対に嫌だ」


 常川の顔はいつもと同じに戻った。