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善なき義務

1


「任せておけ。俺が何とかしてやる」


 確かに朋谷は言った。

 学生はそれを信じた。

 朋谷ができるかぎりの対処をすることを。

 秘密を漏らさぬことを。

 朋谷の人格を。

 

 その結果-学生は窮地に追い込まれることになった。

 学生に落ち度があるとすれば、朋谷を信頼に足る人物と

 信じたことだけ。

 しかし朋谷に罪の意識はなく、むしろ上手に世渡りできない学生に、

 苛立ちさえ覚えていた。


 遡ること約一週間前。

 

 「どうして論文を横取りされて、修士論文のテーマを変更しなければ

  ならないんですか?締め切りまであと2カ月しかないんですよ。

  本当に教授と話し合いをしてくれたんですか?」


  学生は指導教官に修士論文のドラフトを提出した。

  もちろん内容を指導してもらう為に提出したのに、

  なぜか指導教官はそれを自分の論文として学術雑誌に

  投稿することに決めてしまった。

  もちろんこのままでは盗作であることが丸分かりになってしまう。

  そこで指導教官は、学生に修士論文のテーマを変更するよう

  圧力をかけてきた。

  言うことを聞かなければ、論文を取り下げると、学位を盾に

  脅しをかけてきた。


  当然修士学生‐有徳は納得ができない。

  締め切りはあと二月。

  新しく他のテーマで書き始めるには時間がなさすぎる。


 「したよ。その結果が今回のことを招いたんだ」

 

  学生相談所のないこの大学で、有徳は初め事務に相談をした。

  それをどこからか聞き付けた教員が、この朋谷だったのだ。

  突然相談を聞くとメールが来た時には、有徳も怪しんだ。

  そもそも聞き付けた出所はどこなのか。

  その時点で怪しいが、他に頼むべき人もいないので、有徳は

  朋谷を信じてしまった。


  その結果、未だに現状を受け入れられない学生は、取り急ぎ違う

  テーマで書けという指導に応じておらず、このままではあとわずか

  2か月で書きあげなければ、修士論文を受理しないと圧力を掛けられる

  はめになっていた。常識的に考えて、2か月ではとても間に合わない。

  

 「黙って留年しろと言うんですか? 留年をしたら奨学金も打ち切られるん

  です。そんな余裕ありません。アカデミック・ハラスメントであると

  あなたが学内行政に訴えれば、処罰されるのは教授のはずです」


  「そういうのが迷惑なんだ。分かってないのは君だ。ここは学校で

   教授はいわば社長なの。君は会社に入って自分の成果だからって、

   社長にもそう主張するつもりか?社会ってものが分かってないな」


  「今度こうなったのは、あんたが告げ口したからか? おかしいだろ?

   あんたに相談してから俺の立場は一層不利になったんだ。あんたが

   漏らしたとしか考えられない」


  「妄想で適当な事言わないでくれ。どこにそんな証拠がある? 

   大体その論文だって君が書いたって証拠はないだろ?」

 

  証拠のCDRは教授に既に渡してしまった。

   だが学内行政宛てに事務に提出だけでもしてみるか。


  「前渡したあのCDRは? あれ返せよ」


  「さあ、そんなのもらった記憶はない」


  「はあ? ふざけているのか? アレがどれだけ大事なものか

   知って言っているのか?早く返せよ」


  朋谷のふざけた態度に業を煮やして、学生は朋谷に詰め寄った。

  だがこれがいけなかった。朋谷はこの瞬間を待っていたのだ。


  教授が入ってきた。横に副査の教授も連れている念の入れようだ。


  「朋谷君に、何をしているんだ?」


  「これは……」


  「狂言をいうだけでなく、教師に乱暴をするとは。これはもう厳重な

   処分が必要でしょうな」


  副査が今日中に追従するように言う。

  学生は罠にはまったことを瞬時に悟った。



2

 

 (今回も嫌な仕事だった。はあっ)


 自分にアカハラのもみ消しを依頼してきた宗教授は、普段は

 傍若無人のくせに悪だくみの頭だけは回る。外から見ると、

 その悪だくみで使うの頭の良さすら、知的に感じるらしい。

 不公正なことだ。

 まあ協力している朋谷には、言えた義理ではないが。

 

 (あの学生、俺の事きっと憎んでいるだろうな……)


 人情として、元凶だが直接のコンタクトをしない人間よりも、

 直接交渉して悪い結果を出してきた媒介人の方が憎らしく感じる。

 イメージがしにくいからだ。

 それを理解した上での宗の行動は、本当にあくどい。


 つくづく自分は教員運がないと、朋谷は感じた。

 他の教員はこういった要請を受けたことすらないだろう。

 宗はそれを良く知っているから、そういう教員に頼むことはない。

 直接の部下かつ、自己保身が第一の朋谷だからこそ立てた

 白羽の矢だ。ありがたくないことだ。


 先程の学生は、ゼミでは孤立しがちだが、実際の友人関係など

 分かったものではない。

 そういうのもちゃんとリサーチの上での、宗の行動だと

 信じたいところだ。


 あの学生はもう留年したから、また来年も同じことが起こる

 かもしれない。今度こそ訴訟になるかも。そう思うと明日のCOE

 会議の発表資料にすら、集中して読み込むことが出来ない。

 

 「本当、早く死んでくれないかな」


 宗を頭に思い描いて、物騒な独りごとを漏らした。


 ルルルルル。


 携帯電話が鳴る。


 「はい」


 不機嫌な気持ちそのままに出ると、相手は名乗らずにこういった。

 

 「佐々木の居場所はどこだ……」


 朋谷はとっさに携帯を投げ捨てた。

 

 (あいつがどうして……?)


 相手が通話を切ったのをおそるおそる確認してから、

 ようやく朋谷は携帯を切る。

 発信番号は、公衆電話からだった。



3


  翌日、朋谷はCOE会議の為に朝早く、母校の和琴大学へと
  向かった。
  指導教官だった山瀬の人脈で、他大学に籍を置いているにも
  関わらず、COE教員として参加している。
  山瀬研究室OBとしての付き合いのようなものだ。
  必然的に山瀬研究室OB達と定期的に会うことになる。
    
  先日から5年前の事件を引き合いに、執拗に連絡をとってくる
  佐々木のことを考えると、億劫になる。
  最近は佐々木からの攻勢が止んだとはいえ、
  直接コンタクトを仕掛けてくる可能性もある。
  あの事件の事は正直忘れたいのに、はた迷惑なことだ。
  
  関係者の一人だった小田切が、不審な死を遂げたのも薄気味悪い。
  佐々木に至っては、政治家一家の跡取りと結婚する為に、
  過去の悪行のもみ消しを図ろうと躍起になっているのだろう。
  いずれにしろ自分一人でやるべきだ。

  都合のいい時だけ頼み込んでくるなど、友人でもなんでもない。
  テストの時だけ近づいて来る学部時代の知り合いのようで、
  その下卑た根性が、気持ち悪い。
  今日ははっきりと言った方がいいだろうなと、朋谷は決意した。

  今日のCOE会議で中心となるのは、もちろん各自の研究発表だが、
  その日は内部規定や海外の協力校との日程スケジュールも確認
  する予定だ。少々退屈そうなプログラムではある。

  その席で耳を疑うような規定が発表された。

 『共犯処罰規定』
  
  「わが校の全学審議会で決められた共犯処罰規定により、アカデミック・
   ハラスメントをした者はもちろん、その実行及び隠蔽に加担した者は
   処分されます。このCOE内プロジェクトにおいても、当然これは
   適用されます。具体的な処分内容について、今日は暫定的な処分内容
   について議論したいと思います……」

  説明しているのは、年若い男。
  まるで自分は正義の体現者とばかりに、堂々と説明する姿は
  朋谷にとっては厭味ったらしいものに他ならなかった。

  (気に入らないな) 
 
  加担したくてする訳ではない者もいる。
  世の中はきれいごとだけではないのだ。
  佐々木などはさぞかしこの規則に反対しているだろうなと探すが、
  今日はその姿を見せていなかった。
  小田切の件が頭をよぎり、いなければいないで気になる。

  長ったらしい会議が終わった後、顔見知りから佐々木について
  聞こうと探す。

  「あの、佐々木先生はどこに?」

  規定についての議論が終わり、発表の段になってから
  会議場に入って来た顔見知りの後輩に声をかける。
  今年入学したばかりの田中は、朋谷から見ると子どもにしか
  見えない。

  「佐々木先生、ですか?……」

  何故か答えにくそうな田中。
  何をそんなに困っているのか分からず、諦めて他の人に尋ねようとする。
 
  「佐々木は、失踪中だ」

  「常川さんっ」

  研究室にもまともに来ないこの男が、COEに来ているなんて
  想像もしていなかった。
  いやそれ以上に、今までの必死の形相で連絡を取ろうと
  していた佐々木の失踪。
  悪い予感がする。

  「失踪?何か原因らしいものはあるのか?」

  「アカハラで処分されたから、不貞腐れているんだろ。
   怪文書が届いていたから、単に姿を消しているだけかもな」

  その言葉に朋谷はどきりと目を泳がせる。
  朋谷はまさに今現在アカハラの共犯者だ。

  それに以前佐々木は自分と小田切が、5年前の事件を盾に
  脅されていると言っていた。
  先日の悪戯電話もそうだとするのなら、佐々木は妙な
  ことに巻き込まれているのかもしれない。

  「お前ら、何か隠しているだろ?」

  常川は、朋谷の気持ちなど気にせず、ずけずけと聞いて来る。
  聴講者用の椅子に腰を下ろし、頬をついてあけすけに聞いて来る。

  「佐々木さんが失踪したことも知らなかったのに、
   何を隠すと言うんだ?」

  「5年前の事件」

  「知らない。お前もあの顛末は全部知っているだろう?」
 
  「皆が知っている事実と、真実が違うんじゃないか?」

  「俺は土岐等さんとも、芹沢ともそれほど親しくなかったから、
   良くは知らないよ」

   常川はもちろん当時の人間関係に関して、ある程度把握しているので、
   見るからに疑わしい視線を寄こして見せる。


  「
アカハラ関係での揉め事は、尾を引くからな。適切な処分がなされても
   文句が出るご時世だ。理不尽な終わり方だったら、禍根が
   残るのも考えられる。お前も気を付けろよ」


  「余計な御世話だ。佐々木さんが姿を消したって言っても、

   実家に帰っているだけだろう。処分されたのが本当なら、

   遊んでいる訳にもいかないだろう」


   不気味な予感に震える心を奮い立たせる為に、

   あえて希望的観測を述べる朋谷。


  「大家さんによると、マンションはそのままで、突然姿を

   消したらしい。中は綺麗に片付いていて、財布や保険証の

   類も無くなっていることから、自分からいなくなったと今の

   ところ考えられている。

   マンションの管理会社へ実家から問い合わせがあったくらいだから、

   実家にも帰っていないはずだ」


   ますます気味悪くなる展開に、朋谷は鳥肌が立つ。

   小田切と佐々木の身の上に起きた異変について聞いて、

   朋谷も件のブログをチェックした。

   確実にに裏で何かが動いている。

   ひたひたと忍びよる不気味な気配に、しばしの沈黙が訪れる。

   
  「……塔堂。あいつ生きていたんだな。お前そのこと知っていたか?」


   声を抑えて常川が囁く。

   声が届くなり、朋谷は大袈裟な程に反応した。


  「そんな訳がない!」

   急に朋谷が大声を出して立ち上がったので、優奈は息を飲んだ。
  
  「……あいつは姿を消しただけなんだ。姿を現したのなら喜ばしい
   ことじゃないか?」

  「これだけ長く見つからないから、死んだと思っただけだ」

  「何か知っているんじゃないか?」

  「何も知らないといているだろう!」


   これ以上詮索しても、朋谷の怒りを増すだけだ。

   常谷はそう判断したのか、それ以上追及はしなかった。

   会話が途切れ、遠くから聞こえる学生達の話声が耳に届く。

   廊下で一人、この会話に耳を澄ませる者は、自分の存在が

   悟られないよう、柱の陰に身を隠した。

   

  「佐々木さんは殺されているかもしれない」


   ぽつりと放った朋谷の一言は、不吉極まりない。

   それでも小田切の結末を知っている一同にとっては、

   ありえない話と、一笑に伏して終わることのできないだけの

   リアリティを持っていた。


  「小田切が自殺したからか? あいつは自分で……」


  「佐々木さんにもしものことがあったら、

   すぐに警察に通報してくれ。俺と山瀬先生にもすぐに連絡しろ」


  「言われなくてもそうするだろ。お前まだ何か隠しているな。

    5年前に何があった?」


  常川は小田切と佐々木宛てに届いた、怪文書のことを朋谷に話した。

  朋谷は自分の名前が書かれていなかった事に安堵しつつも、

  怪現象の影に隠れたその手紙の存在が気味悪く思えた。


  「お前に言えた義理か。お前だって土岐等さんを見殺しにした一人

   じゃないか」


  「……」


  ぐっと常川は言葉に詰まる。

  教室の傍で、隠れて会話を聞いていた人物の目が見開かれる。


  「山瀬先生はそのこと知っているのか?」


  「さあ?佐々木は山瀬に見捨てられたからな。それまでは

   何とか裏から手を回そうとしていたみたいだが。ボスが

   そういうんなら仕方ないよな。お前も見限られないように、

   気を付けろよ」


  「山瀬先生さえいいと言えば、すぐにでも警察に行け」


  「何だそれ」


  「山瀬先生が全てを教えてくれるはずだ。俺が話したことは内緒に

   してくれ。じゃあな」


  もうこれ以上話すことはないと、その場を去ろうとした朋谷に
  常川は更に詰め寄る。


  「何だよ。勝手な奴だな。本当のことを話す気になったら、

   教えてくれ。お前の身もヤバいのかもしれないぞ


  ぶうぶう文句をたれる常川。

  だが朋谷の深刻な様子に、優奈は不安を隠しきれない


  

  隠れていた焔が、頃合いだろうと姿を現した。


  「お話し中、すみませんが、これを朋谷先生に」


  そういうと先程までのあの忌々しい共犯罰則規定についての説明だった。

  

 「朋谷先生、わが校の新規則について説明したものを用意しました。

  先生は他大学で勤務されているので、ご存じないこともあると思います。

  COEに関しては、先生も拘束される内容ですのでよく読んでください」


  先程のこざかしい正義つらした男が、パンフレットを渡す。

  街中で配られるチラシを見る目つきで、それを受け取った。


 「まるで取り締まりだな。いつからここは監視体制になった?」


 「当たり前のことを御存じない方が、偶にいらっしゃるんですよ」


 「君はその忠実なる手先と言う訳か」


 「規律を守るためには、憎まれ役も必要です」


  (ますます面白くない)


  朋谷はイライラを隠すことなく、適当に鞄にチラシを詰め込むと

  今度こそ帰ってった。



4


 「そのままでいいのですか?」


居酒屋で管を巻いた後、閉店になり仕方なく一人で帰る帰り道。

ふと朋谷に似た体形の中年を見かけて、腹が立ち小石を蹴る。


「くそ、あのクズ!」

 

 石に当たっても気は晴れず、近くの公園のベンチに座る。

 大学に持参している水筒を出すと、ぐいっと飲んだ。

 たくさん飲んだが本気で酔えない。

 風鈴の音が聞こえて夏の訪れを感じる。

 

 もう何度目になるか。

 要領がわるいのだろうな。 

 今もこんなありえない不幸に押しつぶされそうだ。

 

 最低限の事だけをこなして、何もやる気が出ない。


 「動くのなら、早い方がいい。あなたは一週間も無駄にしてしまった」


 近づいてきた黒衣の男が言った。

 先程から居ることは知っていたが、まさか自分に用事があると

 思っていなかった学生は慌てた。


 「あんた俺の事知っているのか?」


 「はい。あなたの論文が盗用されそうなこともね」

 

  あっさりと言うと、男は「ここいいですか」と断りを入れて、

  学生の隣に座る。どこか酒の匂いがする。

  この男もどこかで飲んできたのかもしれない。


 「大学の皆は誰も信じてくれないけれどな。俺が盗用したことになって

  いるよ。学生の言うことよりも、先生の言うことを聞くのが普通だから

  仕方ない」


 「……それで、あなたは盗用したんですか?」


 「していない!するわけがないだろう!大体俺、先生の研究を盗もう

  だなんて考えたこともなかったよ」


 「……じゃあ、やることは一つですね」

 

 それからたっぷり二時間程、学生は男と話した。

 周囲の景色は少しだけ色を取り戻した。



5



翌日から学生はとにかく書き続けた。

  CDRがない今、資料を片手に再現する。同じ内容にならぬよう

  多く補足をつけては、毎日とにかく書き進める。

  大学で書き進めているが、機にさとい先輩たちからは、

  あからさまな手のひら返しを受けているが、それを

  気にする余裕もない。


  卒業論文の受け取りを盾に、理不尽な研究結果を

  横どりされたのが一週間前。

  修士論文の締め切りは二か月後。

  論文に要した時間は一年半。

  横どりされた論文を、教授が投稿する学術雑誌の締め切りは一か月後。

  既に提出されていたら、もう間に合わない。


 今は一瞬でも時が惜しい。  

  

  無駄な努力であっても、許せない物は許せない。

  友人たちは教授との話し合いを付ければいいと言っていたが、前みたいに

   どうせ騙されるだけだ。盗作に甘んじようが、どうだろうが、

   卒業論文で不利益な扱いを受けることは目に見えている。

   やるだけやって実績づくりをするのが先だ。

 

   その様子を院生たちから聞かされるたびに、朋谷は落ち着かない。

  腐るのでもなく、憤るのでもなく、前向きに努力する。

  その真っ直ぐさと、まともに向き合えない。

 

  反省はしていない。

   仕方なくやったことだ。

   それでも学生が眩しくて、自己嫌悪が募る。


  先日もらったあのプリントも頭を過る。

   朋谷のCOEに参加しているが、この大学では唯一人。

  『共犯処罰規定』。

  この言葉が頭から離れない。  

 

   通常はCOEのメンツとも顔を合わせる機会自体少ない。

  それでも何とも胸がざわつく。

  この流れが遠く、この大学まできたのなら、自分は処罰されるのだろうか。

  当の宗教授は、気にすることもなく、着々と学生の論文を盗用する準備を

 始めているが、本当にこのままでいいのか。

 正義感だけではない。

 自己防衛本能が、警告を鳴らしているのに、耳を傾けるべきか。

 朋谷は深く悩む。




6


 

「こちら山階新聞の記者の山根と申します。そちらの大学の宗教授の

 論文に盗作疑惑が持ち上がっているんですけれど、コメントを

 頂けましたらと」


  朝一番に大学広報部にかかって来た電話は、まさに嵐をおこした。

 すぐに本人への聞き取りが行われることになり、大学は事実確認へと

動いた。つい最近学生の起こした詐欺事件で、世間に悪いイメージが

ついてしまった最中のこと。この手のダメージは最小限にしたい。


すぐに調査が始まり、本人のところにも一時間後には連絡がいった。

 朝一番の電話はひどく心臓に悪く、宗は青ざめた。

 早期に手を打たなければ。独りごちると、すぐにどこかにメールを

 打ち始めた。


 「本当ですか?」 

 

 事務ではもう受理したという。

 

 「はい。行き違いがあったようで、改めて確認したところ前回の

  内容で修士論文の執筆を進めるようにと連絡がありました。

  これまでの経緯は責任をもってこれから調査します。

  お手数をかけて申し訳ありませんでした」


 今までの冷たい対応とは真反対のその電話を、

 有徳は信じられない気持ちで受けた。


 「おっしゃああ」と誰に言うわけでもなく、一人暮らしのマンションの

  一室で雄叫びをあげていた。念のため実家に帰らずここでふんばった

  甲斐がある。


 辛かった。

 あの公園で会った男のアドバイスを聞いておいて良かった。

 心底そう思った。

 

 何があった? いや何でもいい。理由なんてどうだっていい。

 あのままの内容でいいというのであれば、有徳はすぐにでも

 論文を提出できる。

 希望があれば、締切などどうということはなかった。


 翌日‐。


 「どうして私が事情を聞かれなければならないんですか?」


 朋谷は大学事業部に呼ばれていた。

 理由を聞かされずに呼び出された為、不安はあったがそれは想像以上の

 ものだった。


「あなたが学生の修士論文を故意に学術雑誌編集部に渡し、

 学生に盗作の疑惑をかけて、学生を退学に追いやろうとした

 という報告が来ているんです」


「虚偽の報告? その学生は教授の書いた論文を自分の書いたものだと……」


 宗のアカハラを協力したのは事実だが、率先して進めた事実はない。

 追求された時のストーリーも既に、宗との間に出来ていた。

 まるで事実のように、その物語を聞かせる。

 証拠となるCDRもこちらが握っている。

 あちらがバックアップを取っていたとしても、同じ内容が2つあれば

 条件は五分五分のはず。

 朋谷は臆することなく話す。こういうことは院生時代にもあった。

 堂々としていればたいていの事は受け入れられる。

 

「教授と意見が食い違いますね」


 事務の人間によると、宗はあなたに担当を割り当てていた論文を

 もらって共同研究として引用しようとしたところ、不審な点が

 あり確認したと。


 「そうしたら学生の修士論文を朋谷さん、あなたが盗用して自分の

  業績にしようとしたとか。彼の退学騒動もことの露見を恐れて、

  仕組んだと、先生は言っています。これについてはどう思いますか?」


 切られた。

 

 朋谷が教授から見放され、むしろ身代わりにさせられたことを理解する。

 同じような末路の奴を確かに、朋谷は知っていた。

 だがこのまま濡れ衣を着せられるわけにはいかない。


 「宗教授です。教授が其の学生の論文を盗用しようとして、

  私にそうするよう仕向けたのです」


 「何か証拠はあるんですか?」


 証拠……はない。証拠が残らないように口頭でお願いされただけだし、

 詳しい内容も全て密室での会話だ。用心深い宗に指示されて素直に

 それに従った。


 やった。やっていない。

 これでは水掛け論だ。宗もそこまで分かっていて、あくまで朋谷が

 自主的に犯罪行為を行っているように仕向けたのだ。


 「……証拠はないようですね。判断は上層部が出しますので、それまでは

 謹慎処分となりました。……マスコミが動いています。ご自身の行動には

 くれぐれもご注意下さい」

 


7


 当然朋谷は宗に、抗議に行った。
 いくらなんでも自分の咎を全て人のせいにするなど
 やっていいことと悪いことがあるはずだ。
 倫理的にどうこうだけでなく、「盗用」というのは性的犯罪
 と同じくらいの致命傷になることを知らない訳ではないだろう。
 
 これ以上の面倒事はごめんだと、朋谷は抗議に向かう。
 ややこしいことは避けてきたが、さすがにこれはないだろう。
 マスコミに晒されれば半永久的に傷が付くこともありうる。

 直接宗の研究室を尋ねると、宗は罰の悪そうな顔をして 
 席を勧めた。

 「私に怒っているのだろうね?」

 「当然です。私一人に責任を押しつけるつもりですか? 
  先生の論文盗用疑惑は既に調査が始まっています。今までの件も
  全て露見します。潔く認めたらどうですか?」

 「それはできない。あと数年で退職なのに、ここで退職金を逃しては
  家族に面目が立たない。それに今まで私は盗用などしていない。今回
  が凌げれば問題はない」

  朋谷が講師として採用されて、数年。
  その間にも確かに宗は学生から成果を奪ってきて、朋谷はその度に
  協力して来た。半ば慣習と言って良い。発表されていない論文なら
  いくらでも言い訳が出来る。学生が論文を先に作成したと言う証拠だって
  余程騒がなければ闇に葬られてしまう。事実今までそうやってきた。
 
 「俺はどうなるんですか? こんな不名誉なことで処分されたら、今後に
  響くんですよ」

 「悪かった。だが私は強要はしていない。君個人の自由意思で乗った
  話だ」

  そう。確かに宗は何かを盾に、協力を迫った訳ではない。
  それでも主犯のこの男に、何の罰も与えられないなんて。
  朋谷は誓約書を出した。
 
 「今回は罪を被ります。その代わり対価を下さい」

 「そんな後に残ることは御免こうむるよ。そんな証拠を残すのは
  君にとっても不利なんじゃないか?」

 「……じゃあ今まで先生のしてきたことをマスコミに話します。事務にも
  話します。こうなったら一蓮托生です。俺だけ処分されるなんて冗談
  じゃない」

  宗は険しい顔で朋谷を睨み、威嚇するが、朋谷も引くことは出来ない。
  人生がかかっているのだ。
  数分の思案の後、宗は渋々その誓約書にサインをした。

  誓約書をもらうと、朋谷は急ぎ大学事業部へ急いだ。
  こういうことは時間が命だ。
  先程事情聴取をした係員を呼び出し、大至急話したいことがあると
  申し出た。彼はこのスキャンダルの担当に任命されたようで、
  忙しそうだったがすぐに話を聞こうと、部屋を用意してくれた。

  朋谷は先程の誓約書を取り出し、見せたうえで今まで宗と協力して
  宗の学生からの盗用に協力して来たことを話した。
  抜かりなく、まるで宗に学内上下関係によって強要されたかの
  ようなニュアンスを漂わせることを忘れない。

 「……分かりました。この資料も参考にさせていただきます」

  (これで形成逆転だ!)

  朋谷はやっと人心地ついて、朝食を食べる気力を取り戻した。


8


  裁定は翌日出された。
  
 「件の教授は脅されていただけであり、盗用していたのは
  朋谷講師である。彼は教授が編纂している本の該当部分の為に、
  学生の修士論文を盗用し、それを教授に看破された。それが誤解
  されて伝わったものである。その後も教授に圧力をかけて、
  誓約書を強要までした。よって強要罪と論文盗用の件で、
  停職3カ月する」

 (どういうことだ……。どうして、どうして俺だけが罪を被る?)

  直接言っても埒が明かない。
  宗と事務方の双方に、抗議のメールをする。
  マスコミには既に報道されているらしく、名前は表に出ないものの
  学校の公式発表にはそのまま掲載されてしまった。

  事務からはすぐにメールが来た。
  しかし内容は処分を執行する為の手続きと、公式発表の内容が
  淡々と書かれていただけ。
  宗に至っては、無視を貫いている。
  大方昨日約束した、なんとかもみ消そうと努力すると言う約束も、
  全くやっていないのだろう。代わりに自己保身をしたことは直ぐに
  分かった。その結果がこの判決だ。

  処分が下った後、家で作業するのに必要なものを取りに行っても
  同僚たちの態度は酷くよそよそしいものだった。
  温厚な人柄の多い同僚たちは、いつもの態度に少し余所余所しさが
  感じられるだけで、その話題を持ち出す者もなかったが、義憤に
  駆られている教員も数人いて面と向かって説教をくらったりもした。
  当然大学側からの叱責もある。
  
  それを遠くから申し訳なさそうな、自分だけ助かって良かったと安堵
  しているのか良く分からない、曖昧な笑いを浮かべた宗が見ている。
  それがひどく不快で‐しばらく自宅で作業をすることに決める。
  
  朋谷は自分の研究室に逃げ込むと、2か月分の事務仕事に集中した。
  もうしばらくは学校に寄りつきたくもなかった。
  全部終わるころには夕方になっていた。
  事務が終わる直前に、何とか出すことが出来た。
  帰ろうとすると、事務に「ちょっと待って下さい」と言われ、
  数分して男がやってきた。
  見覚えのある男だ。

  (あの時の正義面した奴!)

  「COEの焔と申します。今回の件はうちのCOE内でも
   事案にあげて行こうかと思います。今日はその件で
   事情を尋ねに参りました」

  「何?俺は無実……ではないが、主犯ではない! あの規定だと
   COE内部の問題だけを事案にするんだろ?これはうちの大学内部
   だけの問題だ」

  「ですが今回は既にCOE内部の問題にまで発展しているのです」

  そこで件の学生、有徳が現れた。

  「どうして君がここにいる?」

  いや自分の学科だからいてもおかしくはないのだが。
  タイミングが良すぎる。

  「先生、俺COEに入ったんっすよ。二週間ほど前からね。だから
   俺があんたを訴えた」
  

  焔は事務方の人間ではないし、そもそも他大学の院生にすぎない。
  でも一連の流れはどうみても不自然だった。
  共犯処罰協定に、COE内規則の設置。
  自分は嵌められたのか。
  朋谷は目の前の人間たちが、グルとしか思えない。

 

 

 「……正体を見せろ」


  泣きっ面に蜂の報告に、俯きながら朋谷は呻くように言う。


 「正体を見せろおお」


 大音声で焔の胸ぐらをつかもうとする。


 「もうやめて下さい」


  女性の事務員が異変を察して、悲鳴を上げる。

  年配の男性事務員が出て来て、その手を掴みおごそかに言った。


 「先生、学生に暴行するのは見過ごせません。ご自分の将来を真剣に

  考えてはいかがでしょう」

  

  朋谷は圧倒的に分が悪いことを自覚して、首を掴んでいた手を下ろす。

  焔は乱れた服を正すと、「ご覚悟ください」と切れ長の目で朋谷だけに

  聞こえる声で言った。


  やはりこの男は、食えない。

  直感は正しかったと、朋谷は再認識した。




9


 「切る」と一旦判断されると、大学内の動きは速い。

  自宅で大人しく仕事をしている朋谷の下にも、なんだかんだ

  と遠回しに、辞職を勧めてくる。学校の評判を落とす教員は不要だと

  いうことか。


 (こうなったら意地でも居座ってやる……。どの道再就職は難しいんだ)


  朋谷は次の為、使える時間を全て論文執筆に宛てている。

  学校に行かないので実験は出来ないが、概論的なものであれば何とか

  いけるはずだ。海外への雑誌であれば、日本の学界での議論の流れを

  知らせる物でも良い。


   それには予定していたCOE内での発表も含まれる。

  学生にも話し合いを持ちかけた。

  二人で組めば、もしかしたら宗の供述を翻すことができるかもしれない。

  あの学生だって、元凶が宗であることはとうに知っているはず。

  証拠にならぬよう、メールでも留守電でもなく、直接電話をかける。

 

   「もしもし?」


  一度目は名乗った途端、「お話することはありません」とだけ言って

  切られてしまった。それ以降はずっと留守電だ。

  迷惑行為にならないよう、電話は辞めてメールで一緒に事情を話して

  欲しいことを書いた。


  山瀬にもとりなしを頼んだが、COE内の人権規定には現在のところ

  残念ながら関われないと言われた。以前話していた共犯処分規定が

  ここでも生きている。


  時間の概念も忘れ、とにかく執筆に没頭する。

  何日目の頃だろうか。

 

   メールが届いた。

  COE本部から、アカハラ事件のことで処罰規定が適用されると。

  既に処分がなされているので、それに対する罰則規定だけ。


 「2年間の発表、論文掲載、カンファレンスの参加の禁止処分とする」


  COEの期限は2年。

  実質もうCOEには、朋谷は関われないことになった。

  研究発表拠点と決めていた朋谷の研究計画は大幅に変更を余儀なく

  される。

 

   電話が鳴った。

  事務か。マスコミか。

  いずれにしろ煩わしい。


  だが心配している家族だったら?

  念のため待ってみる。

  留守電に設定してあるので、迷っている間に切り替わる。

  だが相手は何も言わない。


  良く聞くと、小さくしゃくり上げるような声が聞こえる。

  母親が泣いているのか?

  心配をかけたくなくて、電話に出る。

  途端に「声」は異界の女の声となった。


 「やっぱりいたんだ。ふふふふふ……はははははは」


 (何だこれ……。気持ち悪い)


 ハンドフリーでの通話にしたので、驚いて尻もちをついても

 相手の声は聞こえる。

 様々な音源をつなぎ合わせた不自然なイントネーション。

 共通しているのは「女の子」の声ということだけ。 


 「ねえ、佐々木芽生はどこにいったの? 逃がしたの? それとも

  ……あなたが、殺しちゃったあ?」


  一呼吸置いた後の声が、急に大きくなったので、ひいと朋谷は

  小さく叫んだ。


 「し、知らない。知らない。本当に知らないんだ」


 今度こそ、朋谷は電話を切った。


 この日を境に、怪文書が自宅あてに届くようになった。


 大学にもメールボックスはあるのに、あえて自宅に郵送されてくる

 あたり、大学内部の事情に通じている者の仕業としか思えない。


 内容は5年前のアカハラ事件への関与を認めることと、自殺した芹沢に

 他殺疑惑があるが、それを覆すだけの証拠はあるのか確認するものだった。

 既にアカハラで処分を受けている朋谷に、脅されるような内容はない。

 当然一方的な要求は無視していた。


 だがある日郵送されてきた封筒に入っていたものを見て、

 朋谷は顔面蒼白になる。

 これが露見したら、アカハラ処分どころではない。

 朋谷はその日以来、家からちょっとした外出でさえも

 細心の注意を払うようになった。

 


10



 朋谷の事案は成立してすぐの適用、かつ他大学の人間にも適用
 しうるという前例を作ったことから、大きな注目を浴びることになった。
 もちろん賛成だけではなく、管理的になると反対の声も上がっている。
 学内自治の問題とも絡む。
 発案者の焔はその波に、必然的に立ち向かうこととなった。
 
 その日、優奈が月例の研究報告へ焔の研究室へ行くと、
 中から別のメンバーが出て来て口に人差し指を宛てて、
 静かにしろと合図をした。
 「月例報告です」とそっと書類を手渡すと、自分では分からないので
 申し訳ないが出直してくれないかとドアを閉められた。
 珍しいこともあるものだと、書類を鞄に戻す。
 ドアの向こうからは、興奮して話している男性の声がした。
 切れ切れに聞こえる声は、焔のものだ。
 
 (これは居ずらいな。締め切りはまだだし、後から行くか)

 ところどころ聞こえる内容からして、ハラスメント規定の厳格化
 について男は怒っているらしい。

 やむをえず、研究室に戻る。
 少し前にやって来た常川が、朋谷から佐々木の行方がもしかしたら
 COEの本部に連絡が行っているかもしれないから聞いておいてくれと
 言われたと面倒くさそうに言ってくる。
 朋谷自身は「いろいろ問題」がある為、聞けないのだと言う。

 「聞けと言うなら聞いてきますよ」と返すと、常川はやっぱり一緒に
  行きたいと、後を付いてきた。ちょうど小腹が空いたから、
 あそこの研究室のクッキーが食べたいそうだ。
 一時間ほど時間を潰してから、訪ねると焔が少し疲れた様子で出てきた。
 
 「さっき来てくれたのに、無駄足をさせてしまってすみません」

 声の張りはいつもと変わらない。
 さっと書類を受け取り目を通すと、「大丈夫です」といつもの型通りの
 言葉を言って、踵を返そうとする。

 「あの、さっき何かあったんですか? すごい声がしていたから。
  頼りにならないかもしれないですけれど、私の時に聞いてくれたから
  良かったら。話を聞かせてくれませんか?」

 ずうずうしいことを申し出てしまったかと、優奈は少し緊張したが
 焔は秘密にするでもなくさらっと教えてくれた。

 「例の規約のことですよ。あれが適用されると、いろいろまずい人たちが
  なんやかんや会議以外の場で、言ってくるんです。審議会に入って
  いない人たちは、自分の知り合いの伝手を頼るか、自分自身で実力
  行使するかの二択しかないですからね。必死になるのも頷けます」

 「納得している場合じゃないですよ。私よりもひどいことをされて
  いるんじゃないですか?」

 「初めから承知の上ですよ。何かを変えるには抵抗がある。当たり前
  のことですよ」

 「でも私の事件がきっかけですよね……」

 「田中さんのせいではありません。いずれ議論すべき話だとは思って
  いたんです。良い機会をもらって、礼を言わねばならないくらいですよ」

  いつものごとく紅茶をそっと入れると、例のお菓子と一緒に
  出してくれる。

 「ああいう人がまだいるんですね」

  佐々木を想像して、優奈は陰鬱な気分になる。
  
 「さっきの先生はハラスメント加害者じゃないですよ。学内の自治について
  の持論を言っていただけ。少しヒートアップしていたけれど。
  他の人ももっともらしいことを言って、要するに自分のしたことを
  隠したい人もいます。結構面白いですよ」

 黙ってクッキーを既に5つは腹に納めた常川が、流れをぶったぎって
 要件をいきなり切り出す。

 「そんで思い出した。佐々木が今どこにいるか、COEの事務局で
  分かるかな?私物を置いたまま連絡が取れないし、マンション
  にも帰って来ないから、参っているんだよ。佐々木の友人の、
  朋谷って奴、あいつも探していて、皆知らないんだよな」

 「まさか、自殺……」

 優奈は、向こうに非があるとはいえ、自責の念に駆られる。

 「あいつが自殺する性格かよ。どっかに行方くらましている
  だけだろ。でもなんかひっかかるんだよな。あいつ外面良く
  するのに命懸けているから、研究室もマンションもそのまんまって
  いうのが、解せないんだよな」

 「う~ん、僕たちの研究グループは、佐々木先生とは違いますからね。
  どちらかと言えば、山瀬先生のグループの方の方がご存じなのでは?
  もし正式に住所を変えられたのであれば、COE本部にも住所変更の
  連絡が必要ですし、事務方も連絡を取ろうとする筈ですよ。この
  番号ですから、電話してみてください」

  そういうと、研究室に戻って電話番号のはいった書類をファイルから
  取り出すと、前に置いた。常川は早速電話してみる。
  時刻は午後四時三十分。
  結構ぎりぎりだ。
  その間に、優奈は焔に話しかける。

 「そういえば、婚約者さんも一度来たことがありましたね。山瀬先生も
  毎日のように心配されています……」

  優奈はいかにも自信にあふれたスーツ姿の男性を思い出している。
  佐々木の婚約者なんて、どれだけ怖い人なんだろうと想像していたが、
  会って見たその人は、礼儀正しく穏やかな人だった。
 
 「そうですか。はやく見つかるといいですね……本当に」

  「本当に」と言った時の焔の目が意味深で、優奈は一瞬びくっとする。  
   得体の知れない不安が湧きあがる。

 「知らないってよ。全くヒントとかなしかよ」

  常川の言葉で我に帰った。


11


 芽生の遺体が見つかった。

 

 絶景で有名な寺院のふもとに位置する崖の下だった。

 行楽シーズンに備えて、崖の傍には転落防止の柵が張り巡らされており、

 万が一落下した時の為に、救命用の網も用意されているのだが、

 有名ポイントを外しての落下だった。


 紅葉を見る観光客も落ち着いてきた頃だったので、目撃者はなく、

 場所も観光ポイントからは外れていたので、事故死として処理された。

 大学にも一応警察が調べに来たのだが、一連の不祥事に関与していると

 分かってからは、自殺であろうと、事故死であろうと同じであろうと

 判断したのであろう。


 観光客への注意を踏まえて、新聞にごく小さく掲載されたこのニュースに、

 朋谷は震え上がった。

 転落死として処理されたことが信じられない。

 

 たった半年の間に、一つの研究室から死人が2人も出ている。

 そして皆二人とも脅迫を受けていた。

 それにはどうやら5年前の事件が関わっているらしい。

 これほど怪しい条件が揃っているのに、周囲をスキャンダルで固められて

 自殺をしてもおかしくはないという舞台を用意されている。

 

 誰かが絶対に裏で暗躍している。

 思い浮かんだ人物は‐。

 

 (ありえない。そうならない為に、俺たちは‐)


 教え子が二人も命を落としても、山瀬は 動かなかった。

 脅迫について知らないのだろうか。

 まだ脅迫が届いていないのかもしれない。

 朋谷よりは山瀬に対しての怨みの方がはるかに深いはずだ。

 それは自信を持って言えるが。

 誰をどんな順序で仕留めるのかは、それこそ脅迫者の自由。

 自分の身は自分で守るしかない。


 朋谷は行動を開始した。

 やられる前にやらなくては。

 朋谷は警察に出頭して、全てを告白することを 決意した。

 もう大学でのハラスメント行為も甘んじて引き受けた後だ。

 今すら何を怖がる必要がある。

 

 朋谷は脅迫に屈しない決意をした。

 


12


 5年前の事件。

 元はと言えば山瀬が自己保身のためにやったこと。

 小田切も佐々木も自分達の罪が露見するのを恐れていたみたいだが、

 自分の命にかかわるのならそんなこと微細な問題だ。

 手をこまねいている場合ではない。

  

 否そうではない。

 本当の闇は他にある。

 常川など部外者は、さっさと罪を認めよと他人事だからこそ

 訳知り顔にふるまえる。

 真実をしったら、それこそそんな涼しい顔はしていられないくせに。

 

 妙に聡い連中が警察を呼び、それが一時露見しそうになった。

 あの時にいっそ全てが白日の下に晒されていれば、今の状態は

 招かなかったのかもしれない。

 重い過去と引き換えに手に入れたのは、今も尚業を引き受ける

 因果な家業。実に馬鹿らしい対価だ。


 (もう自由になりたい)

 
 
山瀬にメールを送信する。
 またもや無視されるのかもしれない。

 願うような気持ちで。

 それでも山瀬自身分かっているはずだ。

 ずっと無視を続けていればやり過ごせる相手ではないと言うことに。


 その時メールの着信を知らせる音がした。

 意外な相手からだった。


 

 「よお。まさかお前が招いてくれるとはな。他に人も連れて

  来たけれど、まあ構わないだろ。おじゃましまあす!」


 常川が連れてきたのは、大人しそうな年上の女性だった。

 和琴大学でハラスメント相談所の職員をしていると自己紹介をする。


 誰かが自分を狙っている以上、外に出るのは危険だった。

 話の内容を聞かれるのもまずい。

 そうなると必然的に、芹沢は常川たちを招くしかなかった。

 奴らも、佐々木と小田切と順番に死んだことと、5年前の事件とに

 関連には、前々から気付いていたらしい。


 佐々木の婚約者との繋がりで知り合ったと言う女性は、

 野坂と名乗った。


 「とりあえず酒でも出してくれ。あ、そいつは酒癖悪いから

  水な」

 

 そういうと常川はどかっとソファに腰を下ろした。

 当の野坂はというと、慣れているのか少しも気にする仕草もなく、

 ソファーの端っこに座った。


 「この写真を見て下さい」


 朋谷はその写真を見るなり、様子が変わった。

 弾き飛ばされる写真。

 とっさに優奈が拾った写真には、古ぼけた手鏡が映っていた。


 「お前、芹沢が死んだ時、その場に居たな?」


 「何言っているんだ。あいつはフェリーから飛び降りてで自殺したん

  だぞ。その時もう大学を退学していた。

  どうして俺が……」


 「それじゃあどうしてそんなに怯える? これは小田切が初めて

  受け取った手紙に同封されていたものだ。自殺件場に置かれていた

  ものなんだ。知っていること言うことは、その自殺に関与している

  ことを意味するんだぞ」


  写真の手鏡は、芹沢の祖母の形見で、普段は机の引き出しに大事に

  閉まわれていたと言う。死亡後は芹沢を可愛がっていた叔母が、

  つい最近まで保管していたと言う。今では仏壇の前に供えられているが、

  


  「自殺後にこの手鏡を知っている可能性は3つしかない。

   1つは、芹沢が生きている間に、見せてもらった。

   2つ目は、自殺した時点のことを知っていた。

   3つ目は、つい最近芹沢家にお参りに行った場合。

   お前の場合は、2つ目しか可能性はありえない」


  静かに座っていた女が、野坂がここで口を開いた。


  「和哉は、その鏡をそれは大事にしていましたから、生前に

   見せることはありえません。つい最近にお参りに来た友人が

   来たらしいですけれど、その方はあなたとは全く異なる外見

   だったとのことですし。それ以外で、仏前であの手鏡を見た方は

   いないはずです」


  「……」


  反論できないのか、朋谷は押し黙った。

  同時に手鏡の事を詳しく知る野坂は、何者なのかといぶかしむ。

  

 「お前たちが都合の悪い事実を被せて、和哉を殺したってことも

  考えられるんだよ」


 「違う。それは絶対に違う!」


 「小田切と佐々木が脅されていたのは、俺と田中もずっとその経緯を

  見ていたから事実だ。相手が持ち出すのは5年前のアカハラ事件に

  関係していたことを、認めさせることだった。お前には本当に何も

  脅されていないのか? もしそうなら同じ内容か?」


 「そうだ。でも俺は今ちょうどそのことを警察に、告白しようと

  思ったところだ。アカハラは警察の管轄外だが、身辺の

  保護をしてもらう必要がある」


 「脅迫がここまで来たんだな」


 「ああ。俺はこのままやられたくはない。アカハラだってやりたくて

  やったんじゃない。ここまできて山瀬先生も知らんぷりを

  決め込んでいる。

  だから言われた通りの事をやって、一人だけでも助かりたい」


 「なんて脅されているんですか?」


 「アカハラの事実を認めて、関係者を特定すること。芹沢を殺したなら、

  自首すること。そうでないなら自殺事件をもう一度、殺人の観点で

  再捜査をお願いできる程度の証拠を提示すること」


 一度確定された以上、簡単にそれを覆すことはできない。

 噂程度では駄目なのだ。

 確固とした証拠。もしくは自供が必要だ。


 「本当に俺たちは、芹沢を殺していない」


 「土岐等あかりさんの件は? 誰の指示によって行われたんですか?」


 「あれは確かに俺達が追い詰めた。でも初めにやりだしたのは

  山瀬先生だ。段々、ゼミの中でもそういう立場でいいんだっていう

  雰囲気が出来て来て、孤立しないでいる為には、それに多少は関与

  しないとやっていけなかった。

  自分の将来を投げ打ってまで、身を呈して助けるなんて普通は無理だ。

  そんな人間はいないんだよ。お前だって分かっているだろう?」


 「山瀬先生がそんなことする訳がありません!」


  今まで静かにしていた優奈が、叫ぶ。

  今まで佐々木や小田切に送られてきた怪文書にも、山瀬の責任を

  問う文面はなかった。

  優奈は到底納得できないという態度だったが、他の二人は

  そんなことは了承事項だと、優奈の反論を無視して話を続ける。   


  「佐々木と小田切が口封じで殺されたとしたら、お前は本当に

   大丈夫だと言えるか?」


  「もちろんだ」


  野坂も畳みかけるように、問いかける。


  「真実がどうではなくて、その犯人にあなたがどう思われている

   のかが大事なんですよ」


  「まさか山瀬先生が口封じで殺して回っているとでも

  言いたいのですか?」


  「その可能性はありますが、同じくらいの確率で、あなたが犯人で

  ある可能性もあります」


  野坂の視線が鋭くなる。手元の携帯をぐっと握る。


  「違うなら違うと、その理由をお聞かせ下さい」


  「……警察で話します。身の安全を確保されないと話せないんです」



13


 

 「それと、もう一つだけ質問に答えて。当時在学していた学生さんで

  もう一人ハラスメント行為を受けた学生がいたはずです。その方に

  対するハラスメント行為も明らかにするべきだわ」


  怒りで顔を紅潮させながら、野坂は言った。

  ハラスメントを取り締まる側の、人間なのでアカハラ事件の話題自体

  許せないのだろう。


 「少なくとも俺は知らない。常川、お前は知っているか?」


 「いや。だが塔堂に対するアカハラはあったかもしれないと疑っている。

  どうなんだ?そこら辺はお前の方が詳しいだろう?」


  塔堂のお調子者の性格は、加害者にも被害者にもなりうる両極端の

  可能性がある。被害者側なら、失踪して復讐の機会を狙っている

  可能性がある。加害者なら、もっと大きな罪を犯して隠れている

  かもしれないと、常川は推理する。


 「例えば、芹沢を自殺に見せかけて殺したとか……」


  野坂は息を飲む。

  

 「違います。その人は被害者です」


  やけに力説する野坂。

  

 「それはない」負けじと朋谷も断言する。


 「探しても見つからない。見つかる訳が無い」

 

 やけに確信をもって朋谷は言った。


 「お前、奴の居場所を知っているのか?」


 「……もうよせ。変に嗅ぎまわると後悔することになるぞ」

 

 「私はその方が、生きていることを知っています」


 この会話は、野坂の持参した盗聴器を通じて、「協力者」に伝えられる。

 野坂は自分が「協力者」に貢献できて、誇らしく思う。

 

 「厄介なことをしてくれた……」


 だが野坂の正義感は、「協力者」の正体を晒す危険な物に他ならない。

 盗聴器からの音源を確認しながら、舌打ちする「協力者」の存在など

 想像すらしていない、野坂は得意げに重要情報を聞いた「敵」の反応を

 楽しむ。


 「もし生きているとしたら、それは……。いやそれより、あんたは

  誰なんだ?ただの大学の職員だからって、来た訳ではないだろう?」


 野坂が、芹沢の叔母だと打ち明けると、朋谷は驚きを隠せなかった。


 「本当に犯人を探しているんですか? あなたは別に狙われていないでしょう?」


 「犯人を探しているのではありません。私は真実を知りたいだけ」


 「どうせ警察で話すことだ。良いだろう。……塔堂なら死んだ」


 「どうしてお前が知っている?遺体が見つかっていないんだぞ」


 「殺されたんだ」


 「……」


 野坂は訝しそうな目で、朋谷を見る。

視線を感じた朋谷は、野坂の視線を避けるように顔を逸らした。


 「誰に?」


 「それは警察で言う」


 もしもの時の為に、自分の知っていることを伝える目的は果たした。

 もうこの珍客たちは用済みだとばかり、朋谷はあからさまに帰宅を

 促した。家主に急かされては仕方がない。三人は気まづい雰囲気のまま

 帰路に着いた。


 野坂は自分の軽自動車で、常谷は優奈を助手席に乗せて来た、

 三人で駐車上へ向かう時、野坂はぽつりと言った。

 

 「あの人は嘘を言っています。私は塔堂さんが生きていることを

  知っています」


 「ど、どうして知っているんですか?」


 優奈は驚いて尋ねる。

 優奈だって、山瀬がアカハラに関与しているとは思いたくないが、

 反論するだけの証拠は今ここにない。


 「誘われたんです。一緒に復讐をしないかと」


 場合によっては脅迫罪に加担したことにもなりかねない内容を

 あっさりと野坂は打ち明ける。


 「ですから少なくともその人は生きています。

 ……ひどくアカハラ加害者の方たちを怨んでいることは確かです」

 

 野坂もその復讐に手を貸した以上、不安で告白できなかったと伝えた。

 朋谷もその一人である以上、口にできなかったと言う。


「信用できません。警察に何を言うつもりか分かりませんが、嘘をついて

 いるのかも。あのハラスメント加害者として、名前が出ていたのが2人

 だけというのも、おかしくないですか?どうしてあの男は入っていない

 のです?」


 野坂が言うには、朋谷は犯人と一緒になって仲間を粛清していったが、

 最後に仲間割れを起こして、自棄になっているだけだと推理した。


「でも、それだと自分のやったことまで警察でばれてしまいますよ」


「警察に殺人罪で捕まるよりはいいのでしょう」


 野坂は自分の推理に絶対的な自信をもっているようだった。



14


 あの晩のことは忘れもしない。


 深夜2時に鳴り響く携帯の音。

 要領が良く泣き言等一度も言ったことのない姉の、泣きじゃくる声。

 第一報は、甥が投身自殺を図った可能性があるというものだった。


 場所はフェリーで、甲板の上に遺書と靴、そして大事にしていた

 鏡が落ちていたという。

 遺留品の中に和哉のものとおぼしき学生証が出てきたことや、

 自宅に帰って来ていないことから断定されたと言う。

 最近は以前ほど頻繁には会っていないと言っても、

 自分の息子のように可愛がっていた甥だ。

 相当のショックだった。


 更にショックを与えたのは、和哉がアカデミック・ハラスメントを

 後輩にしていて、その後輩は。それを責められて退学処分をされていた

 ということだ。学生証の返還も要求されていたらしい。


 だが大学側は知らなかったのだ。野坂が和哉の叔母であることを。

 一連のアカデミック・ハラスメントの実情を把握していることを。

 もちろん和哉がハラスメントに関わっていたのは事実だ。

 だがなぜ和哉だけが死ななくてはならない?

 他の加害者は。一番の加害者の人間はのうのうと生きていると言うのに。


 新しく室長となった山瀬に会うたびに、憎しみを抑えるのに精いっぱいだ。

 和哉が亡くなったのは、アカハラ被害者とされる女性の家族が学校側と

 対談してから数週間後のこと。それまでには証拠は改ざんはしなかったものの、

 都合の悪いものは全て廃棄させられた。野坂は甥が関わっていることもあって、

 率先してその作業をした。数週間後に後悔するなどとは知らず。

 それでも表立っては立てつけなかった。このご時世心理士として

 職に就くのは至難の業だ。経験がいくらあっても、職を賭してまで

 山瀬に立てつくことはできなかった。姉夫婦も和哉自身が原因となった

 ことなら、文句を言える立場ではないと腹をくくったようだ。


 長いものには巻かれろ。理不尽でも頭を下げて事が終わるなら、

 事を大仰にするべきではない。

 学部生ならまだしも、大学院生は将来を教員陣に握られている。

 いくらその罪を訴えても、一時的なカタルシスが得られるだけ。

 訴えられるような人間はそもそも倫理規定など守る気すらない。

 勝手な言い分をでっちあげて、その学生を学界から追い出すだけだ。

 全てその学生に罪を圧しつけて。大学側も面倒事を起こす学生の追放には

 協力的だ。だから処世術として野坂は、保身を勧めてきた。

 学生の気持ちに寄り添う努力はした。でも上手くやれない人間が悪いと

 心の片隅で思っていた。実際あくまでそれに応じない者は皆大学を去る

 しかなかった。それは間違いではなかったと今でも思う。処世術は社会に

 出ても重要なこと。

 

 それでも山瀬の顔を見るたびに、己の無力さに腹が立つ。

 本当は怒鳴りつけてやりたいほどなのに。

 でも一番許せないのは、こんなに許せないのに愛想笑いをして

 その場をやり過ごして保身を図っている野坂自身。

 フラストレーションは汚泥となりその域を拡大して、

 野坂は身動きが取れなかった。