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決戦

1


 

 「僕は研究者生命を賭けて、この告発をします。学会から追放

  される覚悟は既にできております」


  焔は演壇で堂々と宣言をした。

  今日は山瀬が中心的役割を果たす学会。
  特に今日の学会は一月後の学会長選を前にした、
  貴重な場である。全ての発表の後には、会長候補者たちが
  会長選にあたっての抱負を話すのが恒例となっており、
  今日はいつも以上に重鎮が多い。その分発表者の緊張も
  高まっているようだ。

  他学部である焔は、懇意にしている教授二人の推薦をもらい、
  学会の趣旨に沿った題目の学会発表をする予定であった。
  直前まで常川と優奈も知らなかったので、学会会場で会って
  驚いた。焔は学科が異なるし、参加するにしても公聴するだけ
  だろうと思っていたら、講演者の発表者の名前にさりげなく
  混ざっていたので、そのチャレンジ精神には感服した。
  
  初めて聞く焔の発表に期待して、第一声がこんな不穏な始まり。
  これから焔が紡ぐ言葉に戦慄すると同時に、何が起きるのかと
  期待する。周囲もこの風変わりな始まりに、驚きを隠せない。

  
焔は続ける。

  自分は他の職に就くので、もう研究者の立場は不要だ。

  これはあくまで焔自身の意思であり、指導教官には何の責任もない

  ことを念を押すように強調した。

   

 「会長選投票直前のこの学会。私の発表を聞いてから、是非

  ご自分の投票を考えて頂きたい」


  この前置きはこのような学会発表の場ではあり得ない口上で、聴衆は

  顔を見合わせる。学会内部での選挙は、狭いコミュニティなので、

  投票と言ってもほぼ決定事項。投票はパフォーマンスのようなものだ。

  今回の学長選も立候補者は山瀬ともう一人の二人だけだが、ほぼ山瀬と

  決まっている。


   ざわめく聴衆。

  皆あれは誰だと顔を見合わせるが、発表者は事前の審査を経て認可

  された内容のはず。今になって拒否することは許されない。

  嵐の訪れを予感しながらも、聴衆には大人しく聞くことを選択した。

   

  焔の報告は各研究グループの結果発表ではなく、個人の発表

  ではあるが、その内容の目新しさからか参加者は多い。

  焔の題目を事前に知らなかったのか、出席者の一人が前列から、

  出口へ向かおうとする。


 「……山瀬先生、どうしました? 聞いていかれないのですか?」


  報告者が、参加者の行動を直接咎めることは、ありえない。

  他の聴衆までもがざわめきだす。


 「他に用事がある」


 「聞いて下さい。この報告は他人事ではない。あなたは是非

  聞いていくべきだ」


 「時間がないんだ」


 「あなたの次の予定は学会長選の挨拶だけのことは確認済みです。

  言い訳は見苦しい。聞きなさい」


  一学生が教授に話す言葉供思えず、一気に会場の緊張が高まる。

  外国からの聴衆だけが、傍に居る通訳に事情を聞いている。


 「続けます。この事例は、教授が一女子学生に対して行ったハラスメント

  事例です。内容をリストアップしました」


  パワーポイントを使った詳細な事例に、聴衆からため息が出る。

  内容の悲惨さに「ひどい」「何これ、犯罪じゃない?」などと

  口々に呟く声がする。

  証拠を隠滅する周到さ、圧力でねじ伏せる傲慢なやり方は、聴衆に

  負のイメージを植え付けるのに成功したようだ。

  もちろん証拠の音声や写真、診断書も抜かりなく紹介する。


 「今日はこの場にいる主犯者の名前を、皆さまに公表します。

  これだけのことをしても大学構内で当時は無罪になったのです。

  皆さまもう一度思い出してください。今庫の発表で我々はアカデミック・

  ハラスメントに関しては、断固たる態度をとるべきことを確認しました。

  そこで私は、このハラスメント加害者の無期限追放、詳細な調査報告と

  その公表、その協力者に対する処罰を徹底することを提案します」


  この場に加害者が居ると明言され、会場内に動揺が走る。

  今までの流れから優奈は、まさかと悪い予感がした。

  予感と言うより、予測。

  おそらくこの予測は合っているが、認めたくない。

  横に居る常川は、「面白いことになってきたな」と目を輝かせ

  ながらペットボトルの茶を飲む。

 

  「そこで今回は、このハラスメントの加害者であり、現在当学会の

   学会長選に立候補している山瀬教授について、その資質を問う為

   過去に犯した罪を公表しました。その善悪の是非を皆様に委ねたい」


  堪らず学界当局側から、待ったがかかる。


  「ここは、学会であって、裁判の場ではありません。そういうことは

   会議の時に……」


 「それではあなたたちは、内々に物事を進めてしまうでしょう。

  いくら体系を整備しても、絵に書いた餅では無意味なのです」


  この学会にはハラスメント加害者に対する制裁措置がないので、

  時勢に合わせて議論が始められたばかりだ。つまり現時点では

  何の措置もないことになる。


  聴衆は当日参加費を払えば、基本的に制限はないので、他大学からも

  学生や教師人が来ており、今日の学会の態度如何によっては

  大きな波紋となるのは間違いなかった。

  もちろんその余波は、焔自身にも訪れることは間違いない。

  それでも焔は全く恐れていない。

  事務を制して、自分のペースに持って行く。


 「ここに私は、5年前の女子学生殺人未遂の真犯人、山瀬教授の罪状に

  ついての大学における公開審問を願い出ます。後日警察にも告発します。

  殺人未遂ですから、5年ではまだ時効にはなりませんよね」


  会場が和琴大学キャンパス内なので、スタッフから参加者まで

  この大学の人間が多い。

  今この瞬間の山瀬の行動を、反応に目を光らせる。


 「学内では一度判決の出た事案に、再審理は認められないはずだ」


  反論はでなかったが、やはり口で言い負かすつもりか。

  そんな反応など焔の想定内だとばかりに、すらすらと焔は反論する。


 「ええ。その悪しき習慣もいずれは廃れるでしょうが。犯罪が関わって

  いますからね。再審理は世論の力を使ってでも実現させます。

  そして何より、あなたには学会からの永久追放を申請します」


  ここで焔は、山瀬に向かって指を指す。

  これに釣られて聴衆は皆山瀬の方を向く。

  その視線に居たたまれず、山瀬はせめてもと更なる反駁を行う。


 「余所者のお前に、そんな権限はない。これは名誉毀損だ。こっちこそ

  訴えてやる」


  ここで焔は両腕をバンとデスクに置いて、身を乗り出すようにして

  言った。

 

 「権限ならあります。僕はその時の被害者の一人である、当時の学部生

  嘉納宥宗です」

 

 みるみる山瀬の顔が青ざめていった。

 


2


  思わぬ展開に絶句していた山瀬だが、すぐに気を取り戻した。
 
 「あれは院生が犯人だと調べて分かったはず。本人もそう言って

  いただろう。それを苦に自殺したのは可哀そうだが、自業自得だ」


 「確かにその学生も嫌がらせに加担しました。ですが主犯格が無罪放免

  など、許されることではないでしょう」


 「こんな屈辱は初めてだ。絶対にこのままでは済まさない。その時は

  お前の指導教官も道ずれにするからな」


  ヒートアップする論戦に、ここで待ったがかかった。

 

 「いい加減にしなさい!」


  後ろから威厳のある声が聞こえる。

  声と共に背筋をしっかりと伸ばした初老の紳士が、演台の方へ

  歩いて来る。年の頃は山瀬よりも一回り以上上だろう。

  年齢に遭わずしっかりとした物言いは、まさに紳士然としている。

  痩せた体躯はぴんと張った背中が、彼を大きく見せている。


 「お義父さん……」


  山瀬が信じられない物をみる目で、呟く。


 「私の教育が間違っていたようだ。焔君、君に送ってもらった研究書を

  読んで、省みた。もう遅いかもしれないが、私も教員時代にやってきた

  ことを、今になって反省している。多くの学生の前途を奪ってきた。

  言われるまでは気がつかなかったことを、大きく反省しているよ。

  それを当たり前のように見てきた山瀬君だから、自分の誤りを

  気付けないのだろう。これは私の責任でもある。申し訳なかった」


  老紳士はそこで焔に向かって、深々と頭を下げた。

  義理の父の登場に、山瀬は何とも居心地が悪そうにしている。


  優奈は、山瀬との会話を思い出す。

  山瀬の奥さんは、恩師の娘さんで、嫁実家には頭が上がらないと

  言っていたことを。

  ということは、あの老紳士は、この学会の重鎮ということになる。

  専攻分野なので彼の名前は、この学会に名を連ねる者なら誰でも

  知っている。確かこの学会の創設者の一人のはず。

  会場内の空気は一気に引き締まる。


  老紳士は十分すぎるほどに、頭を垂れると、向き直って山瀬の方を向く。


 「山瀬君、これはいい機会なんだ。私くらいの年齢になる前に

  気付いたことはラッキーだ。君ならまだやり直せる。間違いだと

  判断したら、直せばいい。まだ現役の君にしか出来ないことだ」


 「私は本当に何も……」


 「見苦しいぞ。君は、この状態でまさかとは思うが、まだ学会長選に

  出馬しようなどと思っている訳ではないだろうね。私が訳を話して、

  それは無効にしておいた。君はしっかり自分のした事の大きさを

  受け止めなければならない」


  助けを求めるように周囲を見るが、大重鎮の登場に逆らってまで

  山瀬に味方しようとする者はなく、山瀬は腹を括るしかなかった。


 「分かりました。学会の判断にお任せします……」


  義父であり、学会の重鎮である老紳士の言葉には逆らえず、

  山瀬は一礼すると、今度こそ会場を後にした。



3


 「山瀬先生……!」


 打ちひしがれ、会議場を後にした山瀬を追ってきたのは、優奈独りだった。

 

 「ああ、田中君か」


 心ここにあらずといった夢見るような目つきで、山瀬は優奈を振り返る。

 そこに自信にあふれた、昨日までの山瀬の姿はない。

 

 「先生」

 

 「いいよ。もういいんだ。君もあの男の話を信じるのだろう?」


 「信じ……たくなかったです」


 焔の証拠は完璧で、少なくとも5年前のアカデミック・ハラスメント

 事件を山瀬が主導していたこと。学生に責任を押しつけて、自分の

 処分を免れたこと。あかりへの殺人未遂と証拠隠滅。焔、いや嘉納への

 暴行傷害。全て優奈にとって、現実のものとは思えないものばかり。


 あかりの持病の薬を奪って、更に携帯電話を盗んでまで証拠を隠滅

 しようとした件については、衝撃的だった。

 相手が誰であろうと許せるものではない。

 

 目撃者が自分だけだったので、焔は証拠を集めるのに骨が折れたようだ。

 初めからアカハラを疑っていた焔は、あかりの携帯電話の記録を盗難に

 遭う前にしっかりと自分の携帯に移動させていた。

 倒れている間に消された記録があるかもしれないので、データの復旧も

 試みた。


 あかりの入院先の看護師や、見て見ぬふりをした学生たちの証言を

 得るのにも時間が必要だったと言っていた。

 特に大学関係者の隠蔽体質は強固で、ありとあらゆる手を使って

 証言を出させた。


 事件から5年。

 焔はおそらく今日のこの瞬間だけの為に生きてきた。

 

 接客業で覚えた人との付き合い方も。

 努力して手に入れた盗聴器や、鍵開けの技術も。

 余所の大学を卒業して、再び和琴大学大学院に入学する為

 学び続けたことも。


 全部が今日の。今日だけの為。

 他を全て捨て去り、人生を捧げる程の情熱を全て復讐に

 使ってきたのだ。

 焔をそこまで追い詰めただけの理由を創り出したのは、

 他ならぬ山瀬たちだ。

 怨嗟を育てた者たちには、それだけの責任がある。 

  

 それでも。

 優奈は山瀬を信じたかった。

 許される訳はないけれど、山瀬なりに理由があると。

 

 誰かを庇っているのではないですか?

 脅されて止むを得ずしたことではないですか?


 止むに止まれぬ、高尚な理由が。

 それを堂々と反論してほしかった。


 無言で丘を下る小道を急ぐ、山瀬。

 その背中は、はっきりと優奈を。人を拒絶している。

 それでも。

 今日は小さく見える背中を支えたくて、優奈は追いかける。

 

 「理由が。何か大きな理由があるんじゃないですか?」


 「君の想像しているような、きれいな理屈ではないが。

  少し昔話に付き合ってもらえるか?」


 さすがの山瀬も、慰めが欲しかったのか、意外と素直に

 口を開いた。示されて、小道の脇のベンチに座る。

 今日は土曜日なので、道行く人もほとんどいない。


 雲が2,3個流れて行く静かな空を眺めながら、山瀬は

 苦い思い出が結晶となる物語を始めた。

 


4


 「先生、今度の飲み会なんですけど、趣向を変えてロシア

  レストランにしようかと思うんです。予算は1500円くらい

  だから、そんなに高くないし。それで初めてなので、下見に

  行こうと思うんです。一緒に付いてきてくれますよね?」


  二十年前、まだ助教授だった頃の山瀬は、社交的で若く

  独身ということもあって、当時は女子学生の間でも人気があった。

  几帳面な性格もあって身ぎれいな装いに、自信に満ちた講義は

  学内外からの評価も高かった。それに加え、元指導教官からも

  内外に後継者としてのお墨付きを半ば公認で与えられていた為、

  その権勢は学内で比類ないものであった。


  自信は傲慢さを、堂々たる態度に、軽薄な心根を親しみやすいと

  好意的に転換してもらえた。いずれも若者にはよくある症状であるし、

  妬む人々が口を極めても、ものともしない程の基盤もあった。


  まさにわが世の春。

  後は結婚のみが関心事項といったところ。

  当然玉の輿を目指す女子学生たちは血眼になってその座を

  競いあった。それを高見の見物している山瀬を、疎ましく思う

  男子学生も多数いたが、それすらも女子学生からしたら只の

  僻みと見なされるだけだった。


  とりわけ今山瀬を誘った女子学生、正射結衣は積極的だった。

  意思の強さを体現したように眉毛を濃い目に描いた大ぶりの瞳と、

  筋の通った整った小ぶりの鼻は、顔立ちを派手に魅せる。

  対照的に服装は清楚なお嬢さんというように、ワンピースを

  基調としている。

  

  友人同士で話す時には、高く柔らかな声を楽しげに張り上げて、

  常に人生を謳歌しているかのようだった。

  良くも悪くも今時のお嬢さんで、我慢するくらいなら、

  自己主張を通そうとするが、その愛嬌ゆえに誰からも悪くは

  言われない。

  そんな学生だった。


 他の女子学生もなんだかんだと理由を付けては繋がりを持とうと

 していたので、彼女だけが特別な訳ではない。その中には大人しい

 なりにアタックしてくる事務員もいれば、派手な交友関係をバックに

 繋がりを持とうとしようとする業者の女性もいた。


 山瀬自身この状況を楽しんでおり、気分しだいで適当に付き合う。

 ただ結衣の積極的な態度には、いささか辟易していた。

 余程自信があるのか、無理に機会を作っては、隠すどころかそれを

 アピールする。少し距離を取った方が良い。そう考えていた矢先の

 誘いだった。


 「そのレストランなら、帰路にある。自分で見てくるよ」


 「私も見てみたいんです。幹事なんだから、どんなところか把握しておく

  必要があります」


  それではどうしていつもの飲み屋から変えたのだと思うのだが、

  その辺の事情は後付けなのだろう。飲み屋を開拓したいというのが、

  結衣の表向きの理由だ。


 「でもなあ。女子学生と二人きりというのは誤解されると良くない」


 「いいですよ。誤解されても。というか誤解でなくすれば

  いいんじゃないですか?」


 「……困ったことを言うな、君は」


  女子学生に慕われて、満更でもなかったが、一線を超える勇気はなかった。

  遊びくらいなら良いが、当時の山瀬には交際に発展しそうな女性がいた。

  恩師の次女の芙美だ。

  度々自宅を訪問する内に、自然とそうなっていた。

 

  交際し始めたのはごく最近で、明確にお互いに意思表示をして

  なかったので、正直山瀬自身交際していると明言して良いのか、

  良く分からなかった。

  

  だが結婚を拒む理由もなかったし、むしろメリットしかない女性。

  漠然とこのまま結婚するのだろうと思っていた。余計な誤解は受けたくない。


  だが結局結衣に押されて、行くことになってしまった。

  自分が断られるなんて夢にも思っていない若い女は、とても積極的だ。

  それにゼミの学生の中心的人物となっている女を無碍に扱うことは、

  ゼミ運営の在り方にも関わる。止むを得ず仕事の一環と割り切る。


 「つまらなそうですね」


 「……そんなことはないよ」


  ここら辺は芙美の職場と近い。

  余計な詮索をされても面倒だと思ったのだ。

  視線が定まらない。結衣は目聡く山瀬の態度を評する。


 「何をそんなに気にしているんですか?」


 「気にしてないよ。ただ明日は早いから今日は早めに帰るよ。

  さっさと食べて帰ろう」


 「……先生、私、先生の事……」


 「ああ注文が来た。おいしそうだな」


  あえてその間を壊す。これ以上聞いてはいけない。

  かといってはっきりと断ってしまえば、面倒なことになる。

  とにかくもめごとは嫌だ。せっかく手に入れたこの輝かしい未来を

  詰まらないスキャンダルごときで、潰されてたまるか。


  とにかく相手に話をする隙を与えぬよう、山瀬はとにかく話し続けた。

 「じゃあ、気を付けて帰るんだよ」


 「送って行ってくれないんですか?」


  時刻は九時。遅いと言えば遅いが。それでも結衣は甘えていると感じた。

  先程の話を蒸し返されても困る。

  これ以上付きまとわれても困る。

  早めに諦めさせるのが良いのかもしれない。

  お互いに。


  翌日、登校した結衣を待ちうけていたのは、山瀬が結婚を前提に

  交際している女がいるという噂話だった。

  残念がる女子学生もいたが、そこまで真剣だったものは皆無だった

  ようで、ぶつくさ恨み事を言いながらも、現状を受け入れていた。


  結衣以外は‐。

 


5


 「先生、本当なんですか?結婚する相手がいるなんて」


  恒例のゼミ終了後の飲み会で、酔狂な会話の切れ間に、

   打って変わって重苦しい雰囲気で、結衣が恨み事を告げる。


 「ああ。気恥しくて、皆には言っていなかったが。いずれは

   結婚するつもりだ」

 

  男子学生が狙っていた女子学生にこれで、アタックできると

   安堵したのか、冷やかし半分の声を浴びせる。だが結衣の表情

  だけが場違いに真剣そのものだ。


 「……そんなこと今まで言わなかったじゃないですか?」


  普段と違い、心細げに呟く結衣。


 「誰も私のプライベートを知りたいと言う物好きがいるとは

  思わなくてね」


  あくまでも受け流す山瀬。

  

  昨夜の一件を良い機会と、正式に芙美と付き合いたいと

  言ったのは、昨夜の事。曖昧な関係に一応の蹴りを付けた。

  結婚したいというのは本心だが、婚約の手順は未だ踏んでいない。


  今までの女性との付き合いは短期間で終了する傾向にあった。

  その中でも芙美は例外的に長続きしている。

  芙美はあまり自分から求めない。

  意思がないのではなく、人を自分の理想像という型に嵌めようと

  強要しようとはしない。常識的でおっとりしているようで、

  外出の際 には下調べをしっかりし、曖昧な注文を的確に処理してくれる。

  それでいて押しつけがましくない。気遣いの出来る人だ。


  外見は今まで付き合ってきた女性たちと比べると、いささか地味だが

  贅沢ではないところも好ましく思う。その父親と言い、自分には

   最高の縁談だろう。結婚のタイミングと言うのは、案外こういうもの

   なのだなと自分で納得していた。

 

  酔いのまわった顔をまだ冷たい夜風が、酒精を運ぶ。

  浮き立つその香りが山瀬の前途を祝福してくれている。

  珍しく山瀬は二次会まで、顔を出しほろ酔い気分を楽しんだ。

 

  その頃、帰路では酔いつぶれた結衣が、同級生の女子学生に介抱されていた。

  いつもは介抱する側の結衣がめちゃくちゃな飲み方をするのは珍しい。


 「大丈夫?私結衣ちゃんがこんな酔い方するのは初めて見た……。

  どうしたの?何かあった?」


  いつもは門限だの何だと煩い結衣が、今日に限ってはそんなことも意に

  返さないようだった。そして突然しゃくりあげる。突然の泣き上戸に

  女子学生は、戸惑いを隠せない。

 

 「実はね……」

 

   結衣は重々しく口を開いた。


6


 一週間後。


「身に覚えのないことです。正射君に話を聞いてみてください」


 山瀬は教授会で、身の潔白を訴えるはめになった。

 降ってわいたセクハラ疑惑。当時はハラスメント委員会なんて

 気の利いたものは設置されていなかった。故に全ての「問題」は

 教授会が審議し、沙汰を下していた。


「君、入って」


 言われて結衣が入って来た。

 その顔は何を考えているのかさっぱり読みとれない無表情だ。


「私はこの山瀬先生に、幾度も関係を強要されました」


 山瀬は絶句した。

 

「どうしてそんな嘘を……」


 今まで事あるごとに自分にまとわりついてきた結衣の言葉とは

 思えなかった。

 教え子の信じられない反逆に戦慄く山瀬をそのままに、

 尋問する役割を急遽振られた教授は、こういった場に慣れているのか

 事務的に事を進める。


「それは本当ですか?」


「はい」


「誰か証人か、証拠となるものはありますか?」


「ありません。私の証言を信用して頂く外はありません」

 

 芙美の父親である恩師は、外国へ招聘教授として招かれて居り不在。

 その為、山瀬の立場は圧倒的に不利だった。

 普段の行いが真面目な結衣の告白に、ほとんどの学生は結衣についた。

 ゼミは重苦しい緊張感に包まれた修羅の場と化した。

 学生達からの敵意が痛いほど伝わる。


 教師同士は災難だったなと言うが、女性教員陣の自分を見る目は明らかに

 変わった。前途洋洋たる未来はかくも無残に消え去った。いま辞職となれば

 他の職業への転職は難しい。


 そこでも助けとなったのは芙美だった。

 父親不在の中、彼女は山瀬の精神的支えとなり、無実の証拠を探そうと、

 仕事の合間を縫って独自に奔走してくれた。

 山瀬の側の人間であることを伏せて、特に女子学生からの話を

 聞くことに集中した。


 結局限りなく黒だが証拠不十分という、痛み分けの結果に終わった。

 

 処分はないが、学内での立場は微妙になり、今まであからさまな嫉妬を

 向けていた輩が声高に山瀬を批判するようになった。大勢からの圧力を

 脅威に感ずることなど、今までなかった山瀬にこれは効いた。


 学生時代にはどちらかと言うと、クラスのお調子者たちを

 先導する役割であった自分が、まさかこんな目に遭うとは。

 山瀬は立場の変化を受け入れることができなくて、

 これだけ助けてくれた芙美にも何度も八つ当たりをした。

 それでも芙美が離れることはなかった。

 上手く距離を図り、自分に尽くしてくれた。

 この時の感情は今でも忘れない。


 当時は、何より学生が怖かった。


 今まで友人のように接して来た学生達の手のひら返し。

 当然結衣に説明を求めた。

 学内では接近制限を受けていたので、電話で尋ねる。


「先生だけ幸せになるなんて許さない」


 結衣は一言こう言った。


 意味が分からなかった。

 実際に気のある素振りをしたり、深い関係だったのならまだしも、

 一方的にアプローチを受けていただけだ。

 それも面倒だから軽く受け流していた。少しくらい遊んでも良いかと

 思ったけれど、保身を考えて控えてきたのだ。こんな言われかたをされる

 道理はない。これではただの子どもの我儘だ。


「僕が君に何をしたって言うんだ。君の嘘のおかげでとんでもない目に

 遭っているんだぞ」


「反省しました?」


「は?」


 会話にならない。

 結衣は山瀬が悪いと一方的に思いこんでいる。

 それも悪意ではなく、本気で。

 気を取り直して、諭すことにする。


「今ならまだ許してやるから、本当のことを言ってくれ」


「まだご自分の立場を分かっていないようですね。先生は加害者。私は

 被害者。命令できるのは私です」


「何が目的なんだ。結婚を取りやめればいいのか?」


「はい。そして私と結婚すると宣言してください」


 滅茶苦茶だ。


 こんな経緯があった人間と普通に結婚できると本気で考えているのか。

 たとえ芙美と別れても、結衣と結婚する気にはなれない。


「それ以外に先生に勝ち目はないですよ」


 結衣は痴話喧嘩の範囲であると主張すれば、話はこれ以上

 大きくはならない。結衣が当てつけに騒いだだけだと言える。

 だからそうしろと強要しているのだ。

 こんなむちゃな要求をしてくる時点で、人間としての基本的な信頼関係が

 破壊されていると言うことが結衣には分からないのだろうか。

 

 こんな馬鹿げた提案を受け入れられるわけがない。

 山瀬は、結衣がいつどこで、ハラスメントにあったと証言しているのかを

 尋ね、それを一つ一つ冤罪であることを証明することで、この難局を

 乗り切った。芙美の地道な調査が、功を奏したことは言うまでもない。

 

 冤罪は晴れた。

 当然のごとく問題人物扱いされるようになったのは、結衣の方だ。

 だがもう卒業間近の彼女にとってはそれほど問題ではなかった。

 学生同士の結びつきは学部時代の友人同士の結びつきは、脆いものだ。

 

 この一件を機に絆が深まった芙美とはそのまま結婚し、山瀬は娘にも

 恵まれた。


 だが誤解したままの人もおり、何かのついでに思い出したように陰口を
 叩かれるのは辛いものがあった。問題が出た時には大々的に伝わる一方で、
 解決したものにはそれほど興味を持たれない。

 しかもこれで終わりではなかった。
 結婚したからと言って、結衣が諦めたわけではなかったのだ。

 結婚後は、ターゲットを芙美に絞り、勤務先に誹謗中傷を繰り返し、
 辞めさせた。それがきっかけで芙美は心を病み、外出できなくなって
 しまった。復讐すべきは結衣だが、関連の無い会社に就職した結衣を
 力で黙らせることは不可能で、何事もなかったように社内で結婚相手を
 見つけると、さっさと寿退職してしまった。

 それ以降は嫌がらせはない。
 精神的に安定したのだろう。

 だが山瀬は忘れない。忘れられなかった。
 山瀬にしたこと。
 芙美にしたこと。
 ずっと腹の奥で燻っていた。
 放置したさやかな火が、わずかな燃料の投下で
 とてつもなく燃え広がるのを、自分でも知らずにいたのだ。


7

 

  優奈は黙って、山瀬の昔話を聞いていた。


  物語と違い、密かに慕う想い人に見出されるどころか

  互いに憎しみをぶつけあう割り切れない結末。

  山瀬も辛い道のりを思い出したのか、少し言い淀む。

     

 「土岐等君は、その子に良く似ていたんだ」


  初めは他人の空似だと思った。

  性格も全然違う。

  ただ顔が似ているだけだと。

  そう自分に言い聞かせて、不平等にならないように心を配った。

  でもある日、知ってしまった。

  彼女の母親の旧姓が、あの子と同じだと言うことを。

 

   突如山瀬には目の前の女子学生が、化け物に思えた。

  あの子のように、また山瀬を冤罪に落とす気ではないか

  山瀬の家族を、ぼろぼろにする腹積もりなのではないか。

  言葉や態度には出さなくとも、疑心暗鬼になった。

 

  そんな時に佐々木から聞いた。

   土岐等が、山瀬をセクハラで訴えようとしていると。


  以前のように濡れ衣を着せられるのは、ごめんだった。

  断固たる態度に出よう。

  そう決意した。

 

 「ただ自分と家族を守りたかった。嫌がらせを率先して

  やろうとは思ってはいなかった」


  だんだんと坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと、感情がエスカレート

  していった。ただそれだけの理由。

  つまらないが、問題を育てるには十分な種は、不幸にして

  すくすくと育っていった。

 

  周囲も誰も止めない。

  むしろ山瀬の行為に付いてきてくれる。

  やはり土岐等は、誰にとっても問題がある人間だったのだ。

  他の人間もやるから罪悪感も薄まる。

  土岐等が泣きそうな顔をすると、まるであの女子学生を

  懲らしめたような気分がして、すかっとした。


  山瀬が切々とその頃の自分の心情を吐露する。

  当時の想念を取り戻したのか、つらつらと並べ立てるその理由は

  並々ならぬ憎悪に満ちている。


 「『そんなつもりじゃなかった』というのは言い訳にはなりません。

  あなたも学生相談室の室長をしていたのなら、ご存じでしょう?」


  人通りの少ない裏庭のベンチに、いつの間にか校舎の影に焔がいた。


 「そんな馬鹿げた理由で、人を死に追いやって、被害者面ですか。

  大した根性だ」


 世間話でもするかのように、当然のごとく真っ直ぐに二人の前に

 歩いてくる。


 「お前は。よくも私の人生を滅茶苦茶にしてくれたな」


 優奈は山瀬と焔のいつもと違う物言いに、度肝を抜かれている。

 一方で、焔は全く気にせず、笑みすら浮かべている。

 これが此の男の本性だと既に知っているので、驚くに値しない。


 「とんでもない。あなたの破滅は始まったばかりですよ」

 

 よっと横の一人掛けのベンチに座る。


 「それよりもそんなくだらない理由で、あかりさんを殺したんですか?

  嫌がらせが昂じて殺してしまった。そうではないですよね?

  真実は大体掴んでいますが、あなたの口からお聞かせ願いたい」


 ちらと後ろを見ると、常川が待機している。


 「……殺してはいない。彼女は持病で亡くなった」


 携帯電話と薬が盗難されたことを、既に学会で証明した焔に、

 こんな言い訳が通じるはずもない。すぐに反論する。


 「まず、あなたの研究室で毒物が盗まれたのが発端ですね。

  本来は警察に届けるべきなのに、あなたは監督責任を恐れて

  届けず、内部で調査していた。その内にそれを持っている人物を

  つき留めた。それは……」


  「すまなかった」


  突然、山瀬が土下座した。

  優奈は唖然とする。

  あの気位の高い、尊敬すべき師が躊躇もなく土下座をしている。

  ひどくショックを受けた。


  「それだけは……。家族の命がかかっているんだ」


  「僕の知ったことではありません。保身のためにあかりさんの命を

   犠牲にしたあなたに拒否権など認めない。早く真実を言って下さい」


  常川がこちらに歩み寄る。

  焔の手には、ICレコーダーが握られている。

  

  「言えない」


  「拒否権はないと言ったでしょう。往生際の悪い男だ。それなら

    僕が言いましょう。あなたは芹沢和哉が当時この近辺で起こっていた

   連続殺人犯であったことを知っていましたね?」


  最後の質問の直前に、ICレコーダーのスイッチを入れる焔。

  今からの会話は全て、証拠に使うつもりだ。

  レコーダーに怯えているのか、質問が鋭すぎるのか、

  山瀬の顔は蒼白になり、何も答えない。

  常川と優奈は、只々絶句する。

  

  「芹沢にアカハラの責を全て押しつける見返りに、あなた方は

   彼が自殺したと見せかけることに協力した。違いますか?」


  「……」


 「芹沢が自殺とされた根拠は、フェリー航海中に行方不明になった
  為です。遺書と靴、祖母の形見の手鏡が甲板で発見され、自殺とみて
  捜索が開始されましたが、結局は見つからなかった。この場合、
  特別に海難事故として死亡届が特別に受理されます。
  
状況から判断して生存率が極めて少ない時には死亡届が
  出せるのです。
フェリーの航路上の渦が大きくて、遺体が通常
  あがらないことを知っていたあなた方は、これを悪用した」

  必死で焔の話の流れに付いてきた優奈が、ここで疑問が浮かんだ。
  遺体が見つからなければ、自殺ではなく行方不明者になるのでは
  ないか。


 「待って下さい。行方不明者の場合は何年か経過しないと、裁判所に

  死亡届を出すことができないんじゃないですか?」


 「これは特殊事例なんです。だからこそあなた方は利用した。なぜか?

  早急に死んだことにする必要があるからです。七年も待っていられ

  なかった。」


  常川がそこで思いついた。


 「殺人犯の候補から外れる為か!」


  焔は黙って頷いて見せる。


 「当時乗船した客の中には、開かずの間で姿を消したはずの塔堂の

  名前が記載されていたそうです。これはどういうことですか?」


  先程から無言を貫いている山瀬に、今度は名指しで焔は問う。


 「知らない。そんなこと私が知る筈がないだろう」


 「行方不明の学生と、自殺志願者の学生が二人仲良く同じフェリーに偶然

  居合わせたというのですか?」


 「フェリーの会社の人も、二人に関連があるとは思っていないようでした。

  遺書や靴が発見されたのは、下船時のことなので、その後に海上巡視船に

  連絡を取ったとの話でした。もちろん下船した客にもいろいろ聞いて

  回ったようですが、誰も知り合いと名乗り出る者はいなかったと言って

  いました」


 「乗船リストを一般人の君が閲覧できる訳がない。嘘をつくな」


  山瀬が逆襲するが、すぐに焔が一枚の紙を出す。

  携帯電話の着信履歴。そこにフェリー会社の名前が載っていた。


 「塔堂が失踪した後も、携帯電話の契約は続けていたんです。その明細から

  居場所が特定できる可能性がありますからね。そこでこの電話番号が

  最後の着信になった。そこで分かったそうです。当時ご両親は、

  離れて暮らしていた息子の交友関係まではご存じないようでしたので、

  息子が自殺した訳ではないことを知って不謹慎だが、少しほっとしたと

  言っていました」


 「となると、二つ可能性が考えられるな。一つは、塔堂が芹沢を連れ出して

  フェリーで逃亡を図ったが、芹沢が自殺した。二つ目は塔堂が芹沢を

  連れ出して遺書をかかせ海に突き飛ばし殺害した」


 「三つ目は芹沢が塔堂を連れ出して、海に落とし、自分の遺書を

  書き、自殺を偽装した……」


  焔はフェリーの航路に、大きな渦があることを指摘する。当然海洋

  巡視船による調査は行われるが、それでもその海域では遺体が見つからない

  ことが多い。


 「四つ目は、全くの他人が塔堂の名前を騙って乗船した。これも証拠が

  あるんですよ」


  メールをコピーしたもの。そこにはフェリーからの購入レシートで、

  名前は塔堂となっている。


 「これは小田切のメールボックスを復旧させて、取り出したものです。

  おかしいですよね? どうして彼が塔堂のフェリーチケットを購入

  しているのか」


 「それが目的でパソコンの修理を引き受けたのか」


  常川が感心する。


 「もしかして、お前あのウイルス騒動自体、お前が仕組んだんじゃ……」


 意味真ににやりと笑うと、焔は答えなかった。

 それが答えだと優奈は確信した。

 ホスト達の噂を思い出す。


 「オーナーは得体が知れない知識が一杯あるんすよ」と。



8


 「密葬には参列したが、棺桶の中までは見られないようになっていたな。

  余程状態が悪いのかと、遠慮していたんだが。あれは遺体自体が

  なかったんだな」


 常川は当時を思い出して納得する。

 

 葬儀の時に死因を溺死と説明されたので、あまり顔を人に見せたい状態

 ではないと思っていた。参列者も好き好んでみたがる者はいないし、

 遺族の嘆きも一方ならず、場の空気を悪くしてまで詮索する者もいなかった。


 「自殺を偽装したということですか……。でも、それは芹沢さんが自分で

  やったことかもしれないじゃないですか?山瀬先生たちは知らなかった

  んじゃないですか?」

 

 縋るように優奈は、山瀬を見る。

 是か否か分からない目の泳ぎ方をする山瀬。


「証拠があるんです。小田切先生のパソコンから、その日のフェリーの

 チケットを塔堂の名前で購入した証拠のメールが出て来ました。

 あなたはこの期に及んでも、自分の手を汚さない。卑怯な人だ」


 焔が証拠らしきA4サイズの紙を見せるが、山瀬は観念しているのか

 じっくり見ようともしなかった。代わりに手に取った常川が言う。


 「そこまでして知らない訳が無いよな。小田切が塔堂に為りすまして、

  フェリーに同道したのか」


 軽く頷いて肯定を示すと、焔はチケットの赤丸の付いている箇所を

 見せるように、付きだす。


  「芹沢は徒歩で。小田切は塔堂の名を騙って、塔堂の車を運転して

  カーフェリーに乗りました。二人は示し合わせて自殺を演出して、

  カーフェリー用の通路から下船し、チェックの際には係員に

  見つからないように隠れていたのでしょう」


 チケットには確かに、塔堂の名前と電話番号、車検についての記載が

 残されていた。後は推して知るべしと、常川が続きを引き受ける。


 「歩行者の下船口には現れないから、チケットを確認した時に人数が

  足りなくてスタッフに捜索される。そこで演出された自殺現場を見て、

  海上巡視船に捜索を依頼するって寸法か!」


 それを焔が更に補強する。


 「探しても渦が強い海域だったら、巻き込まれたと断定されやすい

  ですからね。もちろんそれを期待した上での所業でしょう」


 「でも塔堂さんは、その時点で既に行方不明なんですよね。どうして

  小田切先生が塔堂さんの車検証を持っているんですか?もしかして」


 山瀬の方にくるりと優奈は向き直る。


 「もしかして、先生たちは塔堂さんも行方不明扱いにしただけで、

  本当は居場所を知っていたんですか?」


 澄んだ目で見つめられて、山瀬は思わず顔を背けて視線を逸らす。


 「あなたの口から話すべきだ。意味は分かりますよね?」


  意味が分かりすぎるのか、一層顔色を無くして、山瀬は震え始める。

  壊れたように下を向き「許してくれ」と幾度も繰り返す。

  せめて時間でもやろうと考えたのか、焔はそこは飛ばして、

  話を続ける。

 

 「この時に嫌な役を果たした小田切への見返りが、助手の地位です。

  ゆくゆくは教授職も視野に入れてのことでしょうね。そうでないと

  説明がつかないのです。同じくらいの業績で、どちらかと言えば

  他の三人よりも、「良い子」な分突出したところのなかった小田切が、

  抜擢される理由など。それにそこまでの秘密を共有するなら、

  手元に置いておかなければいつ手を噛まれるのか、分かりませんからね」


  ここで一旦切って、焔は山瀬の顔を見た。

  山瀬はまだ根本的な疑問に答えるだけの勇気が形成されていないようだ。


 「だからこそ小田切は絶対に、今回のことを知られたくなかったのか。

  芹沢が死んだように仕向ける決定的なことをしたのは、自分なのだから

  その後の芹沢の行動によっては犯罪の方棒を担いだことになる。

  それに能力もないのにポストをもらった自分が、その事件を上手く

  処理できていないことがバレたら、山瀬に失望されて、ポストも剥奪

  されてしまう。だからこそ弟子である佐々木と一緒に内々に解決

  しようとした」


   焔の説明でおおまかのことを理解した常川が、後を引き受ける。


 「それを見越して山瀬と朋谷との間を分断したんだな。自分が狙いでは

  ないと知れば、あえてこの連中が死地に飛び込む訳がない!」


  見事にその作戦は当たった訳で、協力してことに当たられては、全ての

  作戦も駄目だったのかもしれない。

  5年間「敵」を観察し尽くしてきたことだけはある。


  一旦動き出したら、どちらかが力尽きるまで止まらないのが復讐。

  失敗は許されない。それだけの覚悟の上での作戦に、不正の砂上で

  足元を塗り固めただけの加害者たちが、敵う訳が無いのだ。


  それでも直ぐに負けを認めるのが悔しいのか、山瀬はなおも抵抗する。


  焔の表情は変わらない。

  日常を淡々とこなすかのように、整った容貌は皺ひとつも変化は

  なかった。ただ歩を進める。

 

  貴重な青春時代の5年間を犠牲にして復讐に全てを捧げた男。

  ここまで来ても山瀬に改悛の気持はなかった。
  問題が表面化したのは、やり方がまずかっただけ。
  問題を複雑化させた、土岐等と焔には純粋に憎しみしかない。

 

 「上手く周りに合わせることが出来ない方も悪いだろう。
  病気がちなのに、無理して研究室に入られても迷惑だ。

  こちらはもっと大きな問題を抱えているのに、問題を

  複雑にしたのも、元はと言えば……」


  子どもが悪事が露見して開き直ったような態度。

  人前で断罪された経験のない山瀬は、学会以降止める間もなく

  批判された鬱憤をここぞとばかりぶつける。

  だが焔は、そんな不快な文言を最後まで言わせない。

 

  「当たり前の事をせずに、詰まらない隠蔽に終始しているからだ。

   逆切れせずに、真摯に反省すべきだ


 言い訳も切れてきたのか、突如山瀬は殴りかかって来た。

 あっさりとかわす焔。

 5年前に階段から突き落とされたひ弱な体躯は、見違えるほどに

 鍛え上げられ、反対に焔はその手を交わすと、素早い動作で

 喉元を掴み、ベンチに押し付けた。



9


 あの時、山瀬は進退きわまっていた。正直土岐等あかりになど、

 構っている余裕はなかった。それぐらい簡単に片を付けられる。

 土岐等は体が弱い。思いきった行動などできまい。

 

 生意気にも権利を振りかざしハラスメントと訴えてくるが、

 学生達も証人になってやる訳が無い。恐れるに足りない存在だ。

 思いもかけず、粘るものだから、面倒なだけで。

 微細な問題に過ぎなかったのだ。


 それよりも頭を悩ませる大きな問題があった。

 保管庫からの、劇薬の盗難‐。

 一度ではなく定期的に。少量ずつ盗まれている。

 本来は発覚次第、すぐに保健所に届けなければならない。

 同じころに頻発していた連続殺人事件と、関連付けられれば面倒だ。

 山瀬は監督責任を問われるのではないかと、気が気ではなかった。


 それなのに。

 土岐等があんなことを言いだすものだから。

 

 「先生が公にしないと言うのであれば、劇薬の件は大学本部に

  告発します。……私に対するハラスメントも外部へ訴えます。

  覚悟してください」


 いつになく強気で断言されて、山瀬は土岐等を前にして初めて狼狽する。

 土岐等に対する自分の接し方が不適切であると、山瀬が自省したことは

 この時点まで一度としてなかった。

 確かに気に喰わないのが先立つことは認める。

 だが、これくらいのことをしている教員はいくらでも見てきた。

 訴えるなどいちいち大げさだ。面倒くさい。今まで籍を置いてやったのに。

 第一誰も山瀬に対して意見をしなかったではないか。

 なぜ山瀬だけ反撃を食らわねばならない。


 気に入らないのにいつまでたっても大学に居続ける、

 放逐することはできないのに、いつまでも目の前から消えない。

 そもそも他教室から教員の都合で移動してくるのでなければ、

 入門すら許さなかった。目障りだが、思い切った行動を

 とるつもりはなかったのだ。自滅していくのをただ待っていた。

 それなのに‐。


 劇薬の事さえなければ。

 ハラスメントなど口封じをしてしまえば良い。

 どうせ証拠などない。

 

 土岐等に思い切った行動をとらざるを得なくなったのは、

 ひとえに彼女が劇薬がなくなったことに気付いたことにある。

 

 普段は厳重に管理されている劇物保管庫。特別な実験でない限り、

 普段は使うこともない。その為薬品の点検は、使用する度にするのが

 慣例となっていた。

 それで大事には至らなかったし、問題は一切なかった。


 手続きは一括して、年度初めに管理責任者である山瀬が研究員

 全体に許可とカードキーを渡し、使用した後に使用量と、氏名、

 用途等を記入することになり、それに基づき月に一度確認する

 ことになっていた。


 内新面白くはないが、その劇薬の使用無くしては、土岐等の実験は

 全く進まなくなることが明確であり、それまで拒絶しては実験そのものを

 拒否することになる。

 数名だが他の研究室からの使用者も存在するので、土岐等を

 あまり邪険に扱って、面倒なことになってもつまらない。

 それこそアカハラのレッテルを張られてしまうので、さすがに

 そこまではできない。山瀬は渋々許可を出していた。


 そこであかりは見つけてしまった。


 劇物が一定量ずつ減少していること。

 そしてそれは少量ずつだが、全て合わせれば何十人をも殺せる

 だけの量であることを。

 

 いつもは自分が山瀬の気に障っていることを感じてか、近づこうとも

 しない土岐等だが、こればかりは報告せずにはいられないのか

 メールでその件を訴えてきた。他の学生にも訴えたのかもしれない。


 だが山瀬の普段の行動の賜物か、学生達が劇物のことを気にかけている

 ようすは一切ない。いつも通り土岐等に対しては無視を繰り返している。

 とても訴えられる状態ではないだろう。

 そのまま捨て置けばよいものの、山瀬に訴えてきた。

 それどころか他の教員にも訴えるかもしれない。

 

 仕方なく、後日呼び出すことにした。実際にその薬品は少しずつ

 無くなっていた。確実に一定量ずつ。

 規定により、基本的に劇物保管庫の鍵は、山瀬研究室が管理している。

 保管庫を使用したいものは、研究室にある使用許可証に記入し、

 山瀬と事務の承認を経て、初めて使用することが出来る。


 土岐等の話では、毎日のように劇薬を使用する実験をし、使用者の

 劇物使用量をチェックしてもおかしなところはなく、外部の第三者が

 使用許可証もなしに、無断で劇薬を使用している可能性が高いと

 指摘した。


 「これは盗難です。すぐに警察に届け出をするべきです」


 誰にも口外しないことを約束させようと言ったにもかかわらず、

 土岐等は劇薬の盗難だけでなく、今までのハラスメントの事実も含めて

 届け出ると明言した。


 薬品の紛失が、何らかの事件に発展するかもしれないのだから、届ける

 べきだと言って譲らなかった。確かに一定期間内に届け出るのは義務だ。

 

 だがその時山瀬には、それが出来ないだけの理由があった。

 数年後に行われる学会長選。

 それに向けて、わずかでも不利益になることは排除しなければ

 ならない。その布石として、ハラスメント室長にも立候補した。

 学会長には実績だけではなく、人格も求められる。

 面倒事などアカハラなんてもっての他だ。

 こんな些事で挫折するわけには。


 だから山瀬は‐。



10

 

 遡ること、5年と少し前。

 

 県全域に渡って、殺人事件が散見するようになった。

 被害者の年齢。性別。職業。発見場所。

 全て統一性がなく、それぞれ別件で捜査されていた。

 それをこの頃から警察は、関連性があることも視野に入れ、

 同一犯の通り魔的犯行の可能性を示唆して治安強化に勤めていた。


 同一犯だと仮定した場合、なにしろ犯人には「拘り」がない。

 怨恨、動機、嗜好が見当たらない。

 ただ殺したいから殺した。

 ある意味純粋過ぎる程の理由で、犯行を重ねている。


 象徴的なのが一年前に起こった、別荘での一家心中事件。

 当初は心中と考えられたが、心中の動機がない。

 不審者が侵入した形跡はないものの、付近では連続殺人が頻発している。

 違和感を感じた警察の調べで、遺体から毒物が発見されたことが、

 報道された。人体には殆ど骨になる程の激しく燃え、そこにも第三者

 による介入が示唆された。


 土岐等が山瀬に毒物のことに気付いた時点でも、警察は一件の

 殺人事件を追っていた。

 いつものごとく、被害者に怨恨の線は見られない。

 

 この事件を受け、あかりは真っ先に山瀬に劇薬の盗難として届けるべき

 だと促した。

 学内、いや研究室内に犯人がいる可能性もあると。


 山瀬は躊躇した。


 あの実験室に入るにはカードキーが必要だ。

 それを持っているのは山瀬の研究室だけ。

 万が一その劇物が保管庫から持ち出されたものであるなら、とんでもない

 責任問題となる。

 新聞には未だその毒物の入手ルートが特定されていない。

 大学街でも入手できないことはないものだが、時期と場所を考えると

 関連付けるのが普通だ。

 

 「うちの研究室に殺人鬼がいるのかもしれない。それでも

  放っておくんですか?もしかしたら捜査に大きな進展が見込めるかも

  しれないのに」


 「それを判断するのは私だ」


  そう告げると、土岐等は心底あきれ果てた顔をして言った。


 「明日までに警察に行かないというのであれば、私はハラスメント案件と

  共に、このことも告発します。これはさすがに無視することはできない

  でしょう。マスコミにも伝えます。今までと同じだと思ったら大間違いです」


  今までにないあかりの強気にたじろぐ。

 

 (小生意気な)


 そのまま踵を返すあかり。

 これまでにない焦燥感。

 防衛本能のまま、山瀬は行動した。

 芹沢に電話を。

 

 「私はこの時点で、芹沢君が殺人犯だということを知っていた」



11


 実は劇薬が少しずつ減少している異変に、土岐等よりも前に気付いた

 者がいたのだと、山瀬は呻くように言った。


 「塔堂君だ」


 常川が広めた噂話はあながち嘘ではなく、塔堂が殺人現場に

 肝試しに行ったことが発端だったという。


 「その時のことは俺の方が良く知っている。塔堂と俺は、研究室の

  外では意外と仲が良かったんだ」


  肝試しに行くと行った時も、その実況をネットに上げた方が

  面白かろうと提案したのも常川だった。その肝試し実況は

  中々好評だったが、結局何も起こらなかったことで文句を言われ、

  お調子者の塔堂は、他の殺人現場まで足を延ばしてしまった。


 「そして途中で更新が途切れた」


  その類のネット実況では、面白がられる展開に、「あいつやるなあ」

  と常川はその演出に素直に感心していた。何人かのネット閲覧者は

  本気で塔堂を案じて、ネット内で待機している。

  半日経っても戻ってこないので、さすがに電話して見ると、

 

  「俺、とんでもないものを見てしまったかもしれない」


  何を見たのか聞いても、間違いかもしれないから、今は言えない。

  証拠が必要だとしか言わない。


  それから連絡の取れない時期が続き、

  最後のメールを最後に完全に消息が途絶えた。


  「確認した。劇薬保管庫で話をつける」


  そのメールを最後に、塔堂は姿を消した。

  ずっとその日に起こった真実を知りたかったと、常川は唇を噛みしめる。


  その続きを山瀬は知っていた。


  「塔堂君も、土岐等さんのように私に劇薬が少しずつ減少しているようだ

   と報告してくれた。その時も私はしばらくは伏せておくようにと

   指示した」


  焔のあからさまな侮蔑の視線に、山瀬は言い繕う。


  「勘違いかもしれないし、良く調査してからでも、遅くはないと

   判断したんだ。塔堂君も、調べるのに協力してくれると約束してくれた」


  これが悲劇の切っ掛けになった。

  

  「連絡を受けて劇薬保管庫に行った時には、塔堂君は冷たくなっていた。

   横には芹沢君が、平気な顔をして立っていた……」


  思い出すだけで戦慄するのか、山瀬は震えている。


  その日は遅くまで実験のある日で、研究棟に残っていたのは

  佐々木と小田切、芹沢、塔堂、朋谷だけだった。

  備品を取りに行った芹沢。

  トイレ休憩のはずの塔堂。

  実験は佳境を迎えており、山瀬達3人は手を休めなかった。

  その時に山瀬の携帯にメールが受信された。


  「芹沢の仕業。今確認」


  メールを受け取った山瀬がすぐに、塔堂の意図していることを

  察すると、実験に関わっていた全員で見に行く。

  しかし着いた時にはもう。

  芹沢が獲物を屠った後だった。

  ぐったりとした塔堂の横で、冷酷な笑みさえ浮かべている芹沢は、

  その華奢な顔つきが月明かりに照らされて、場違いに美しかった。


  「それで皆さん、どうします?」

  

  芹沢は今話題の連続殺人の犯人であることを、得意げに自ら告白した。

  どのみち現行犯で塔堂を殺したのだ。言い逃れはできまい。

  犯行を見られ言い逃れできなくて怯えるなどということはなく、

  芹沢は取引を持ちかけた。


  自分の要求を飲めば、今ここから生きて返してやると。


  彼の地位はこの時を境に一変した。
  その場を切り抜けても、芹沢は自分の存在自体が皆の枷となることを
  よく理解していた。

  「芹沢君の要求は唯一つ。自殺を偽装して、死んだ人間になりすます
   ことだった」

  土岐等も気づいたことで、山瀬に降ってわいたアイデアが、
  ハラスメント事案の責任を被ってもらうことで、代わりに自殺を
  偽装する両者が納得する筋書きだった。

  5年前から全く連絡は取っておらず、今どこで何をしているのか
  すら分からないという。

  「それが、
それがお前たちが余計な過去を穿り出したせいで、
   警察が嗅ぎつけたと感じて、証人を殺して回っているんだ。

   余計なことをしてくれた。寝た子を起こしてしまったんだ」



12

 
 「全部お前の自己保身が招いたことだ。同情の余地はない」

 冷たく言い放つと、焔はまだ地べたに座り込んでいる山瀬の
 顎を持ちあげて、警告する。

 「散々その地位を利用して嫌がらせを繰り返した揚句に、
  芹沢の件が露見しそうだからと、無実のあかりさんを死に
  追いやった」

 激昂する訳でもなく、冷静な言葉の端々に本気の怒りを
 滲ませる。

 
「すまない。申し訳ない。本当に悪かったと思っている」
 
 軽蔑と怒りを宿した焔の目に恐怖を感じて、山瀬は再び土下座する。
 もう人目を気にしている余裕はなかった。

 「今更謝罪だけで済むと思うな。お前のその場限りの謝罪に
  何の効力も信憑性もない」

 ぐいっと山瀬の襟元を持つ手に力を込める。

 「足りないな」

 「どうすれば許してくれる?どう償えば満足する?私に死ねとでも
  言うのか?」

 焔は土下座する山瀬の頭を思い切り、足で踏みつける。
 
 「お前のようなクズが、死のうが何の感情も湧かない。
  たとえようもなく不幸になれ。惨めったらしく生地獄を
  のたうちまわれ。それが僕の、お前の被害者の生きる糧となる」
 

 

 もう十分だと軽く山瀬の頭を蹴飛ばすと、表情を変えることもなく、

 歩を進める。数歩進んだ先で一度立ち止まり、念を押すように言った。

 

 「……死んだくらいで、許されると思うな」


 頭上から響く声に、おずおずと顔を上げた山瀬は、焔の底冷えするような

 双眸に肝を冷やして、顔を情けなく歪める。

 

 「これからだ」


 泣きそうな顔で哀願するその顔は、焔に充実感しかもたらさない。

 勝ち誇った顔で焔は告げる。


 「これからお前の本当の地獄が始まる」


 これから何が起こってしまうのか。
 これ以上山瀬を追い詰めるようなら、そろそろ助けに動かないと。
 戦々恐々と見ていた優奈だが、焔はもう気が済んだのか、
 振り向くこともなくその場を去った。

 常川も優奈に帰ろうと促す。
 優奈は山瀬が心配で迷ったが、山瀬自身もこれ以上惨めな姿を、
 教え子の前で晒したくないだろうと常川に諭されて、
 その場を後にする決心がついた。

 山瀬はしばらくその場に座り込んでいたが、周囲から人影が
 なくなると、漸くよろよろと帰路についた。

 圧倒的な憎悪を直接ぶつけられ、山瀬は消耗しきっていた。
 
自分の不幸を本気で願う人間の存在。
 数年かけても萎えないその怨嗟に、恐怖を感じる。
 
厳しく断罪された経験のない山瀬にとっては、衝撃だった。

 だが本当の地獄は、まさにこれからだった。
 
 連日の大学からの呼び出し。
 ネット経由で、今までのアカハラの内容が晒されているらしく、
 公表している研究室の電話番号には、内外から批判の電話が
 鳴り響いた。
 厳しくなったアカハラに対する処罰規定により、
 退職を前にして懲戒免職の危機にあるのも屈辱的だ。
 警察からも事情聴取を要請される。
 今まで金魚のフンのように付いてきた者たちは、
 態度を一転させ、口を極めて人格攻撃をしてくる。

 それでも山瀬は謝罪をするつもりはなかった。
 謝罪をしてしまえば、認めたことになる。
 すなわち負けを認めることだ。
 絶対に受け入れる訳にはいかなかった。

 膠着状態が続いた末に、山瀬は殺人容疑で立件される
 可能性が出て来た。大学側は当然のように自首を奨めるが、
 山瀬はこれも当然のように拒否した。

 (ついに、殺人犯扱いか……)
 
 動揺冷めやらぬまま、車を運転するハンドルを切る。
 自宅駐車場になんとか車を停める段になって、
 ようやく山瀬は落ち着きを取り戻してきた。

 目を閉じ、深呼吸をする。
 週末なのだから、その間に調子を取り戻し、策を練れば
 まだ戦うことは出来る筈だ。
 山瀬の力はそれほど脆弱なものではない。
 
  プラスのイメージ・トレーニングをすると少しだけ自信が
 戻って来る。車を降り、駐車場の鍵を閉める。
 いつもの動作が家庭での安心感を与えてくれる。
 山瀬が自宅の玄関の戸に手をかけると、「先生」と後ろから
 控えめな声がした。

 田中優奈だ。

 実験補助のバイトを、楽しそうにしてくれる女子学生。
 佐々木のように、見返りを要求しない。
 妻のように、必要なことをさっとこなすだけではない。
 田中の純粋すぎる程の尊敬の念は、まぶし過ぎるくらいで。
 それに応えなくてはと、倫理の圧力すら生み出す。
 先程の過去の告白を最後まで聞いたのであるなら、山瀬に
 さぞかし幻滅したのだろうと、顔を真っ直ぐに見ることが
 できない。

 今、一番会いたくない人物。

 そんな山瀬の心境を知ってか知らずか、
 いつも以上に田中は遠慮がちだ。

 田中は何とか山瀬と話し合って、自首を勧めたいと
 いう一心で迷惑を承知でやってきたと、なぜか
 頭を下げながら言い訳した。
 間違えたら謝ってやり直せば良いと。
 まぶし過ぎる言葉で、一生懸命かき口説く。
 
 そういうのは逆効果だ。
 山瀬は反省も後悔もしていない。
 ただ面倒な相手に捕まってしまった己の運の悪さを、嘆くだけだ。
 格下と舐めていた人間からの思わぬ逆襲に驚いただけ。
 
 響くはずもない正論を吐く田中の声は、興奮して大きく
 なっていく。内容からしてこれはまずいと判断した山瀬は、
 仕方なく家に上げることにした。
 
 今日は娘も早めに帰ってきて、妻も家に居る。
 今までのことをどう説明していいのか、
 頭が痛いことばかりが続く厄日だ。

 田中に聞こえないように、山瀬はため息を吐いた。
 


13


 「ただいま。お客さんを連れてきたよ」

 家族に心配をかけぬよう、平静を装って声をかける。
 応答はない。
 既に大学での不始末を知って、出て行ってしまったのか。

  芙美の性格として、それはありえないが、山瀬はつい気弱に

 なってしまう。


 自分から来たくせに緊張している、優奈をリビングに座らせると、
 お茶の用意をしに行く。


 「!!」


 そこで、山瀬は変わり果てた姿の芙美を発見した。

 いつものエプロンをつけたまま、仰向けに横たわっている。

 目は見開かれ、下半身は血に染まっていた。

  
 何か叫んだ気がする。
 が、山瀬は覚えていなかった。
 警察、いやとにかく優奈に異変を知らせようと、リビングに戻る。
 優奈はソファに崩れ落ちている。
 
 (……!!)


 またもや出そうな叫び声を必死で押しとどめたのは、

 この下手人が傍にいると感じたから。

 大声を出して興奮させてはいけない。

 とっさに防衛本能が働く。


 確かなのは、山瀬が今危険の真っただ中にいること。
 家の据え置き電話を使うこと自体、時間が惜しい。
 とにかく外に出る必要がある。

 異変を知らせる為に玄関へ向かう。


 「久しぶりですね。先生」

 そこには手に四角い機械のようなものを持った、男がいた。
 
 「塔堂君、いや芹沢君……」

 「先生が悪いんですよ。約束を破るから」

 5年前の約束。
 あの時、山瀬と大学院生たちと、芹沢との約束。
 研究室側は、芹沢が一連の連続殺人の犯人であることを漏らさないこと。
 芹沢はアカデミック・ハラスメントの責を全て引き受け、芹沢が
 盗んだ劇薬を返すこと。
 芹沢の自殺を演出することで、全ては丸く収まり、後は口を
 閉じていればいいだけ。それを乱したのは焔だ。

 「悪かった。でもあれは僕らがしたことじゃない。仕組まれたんだ」

 「言い訳はどうでもいい。結果が全てなんですよ。おかげで俺は全国
  的に指名手配されてしまった。仕事がやりにくくて仕方ないんです。
  意味、分かりますよね?」

  あの事件以来一度も会っていない芹沢が、塔堂の顔に整形しているのには

  驚いた。別人になり済まさないと生きていけない事情があるのだろう。

  戸籍上死人となっている芹沢がどんな仕事をしているのかは、分からない。
  ただ芹沢の日常が犯され、とてつもない怒りを持っていることは分かる。
  昔の恩師と言うことで丁寧語を遣ってはいるが、言葉の端々にみられる
  強さで、怒りが伝わって来る。  

 「それで報復の為に、妻を殺したのか?」

 「殺したのは先生です。俺じゃない。警告はしたはずですよね?」

 「どうすればいい? 今日大学でアカハラ事件の事、君の犯罪を隠していた
  ことを訴追された。警察もそのうちここに来るだろう。私にできる
  ことはもうないんだ」

  山瀬は時間を引き延ばす。
  警察がそのうちやってくる。それまで話しを引き延ばせば。
  
 「こいつを車へ運んで下さい。騒いだり、つまらない真似をすると
  娘さんが可哀そうなことになりますよ」

  こういうセリフは慣れているのか、投げやりのような恫喝するような
  言葉には貫禄がある。こちらの意図を見通したような物言い。
  山瀬は従うしかなかった。
   
 「娘は? 娘は大丈夫なんだろうな?」

 「無駄口を叩くと、大丈夫ではなくなりますよ」

  言われた通りに、山瀬は優奈を運んだ。
  午後九時。まだ夜には早い時間だが、住宅街は既に静まりつつある。
  山瀬は、芹沢の指示通り駐車場にある自分の車に、優奈を運ぶ。 
  こうしているところを隣人が見つけて、異変に気付いてくれればと
  期待したが、人目に付くことはなかった。

  隣人は小さな子どもがいる息子夫婦と同居しているせいか、
  音が漏れないように最大の努力をしている。
  その為その数々の工夫が、こちらの音をも遮断している。
  裏側にすむ住民は高齢者夫婦で、体は元気だが補聴器が手放せず、
  早くに休む。目で見て、異変を察知してもらう他ない。
  ゆっくり動作をしたはずだが、すんなりと終わってしまいそうだ。
  
  優奈の身体を後部座席に横たえたと同時に、芹沢がするりと反対側の
  ドアから後部座席に滑り込み、ドアを閉める。
  山瀬に小声で、前に乗れと指示した。
  言われた通りに前に乗ってドアを閉めてから、尋ねる。
  
  「娘はどうした?」
 
  「ある場所で監禁させてもらってます。言うことをちゃんと聞いて
   くれたら、解放してあげますよ。早く車を出してください」

  芹沢の指示通りに車を運転しながら、山瀬は説得を続ける。
  皮肉なことだが警察が自分を追っている以上、助けは遅かれ
  早かれ来る筈だ。

  「随分と悟ったようなことを言いますが、先生も俺と同じ。
   人殺しですよ。人の将来を何人も殺してきたじゃないですか。
   小田切たちが死んだのだって、元はと言えば先生のせいだ。
   同類なんですよ。俺達」

  芹沢の今いる世界は、罪の重さで評価される。
  シリアルキラーではなく、人脈がある。だから心配には
  及ばないと嘯く。思いつく限りの説得は全く心に届かない。
  優奈は意識があるのかないのか、長いドライブの間中、ずっと
  目を閉じていた。
  


14


 「約束を先に破ったのはそっちだろう」

 

  ナイフを手にやってくる男。

  おそらく芹沢と名乗っていた男。


  5年前の写真で見た華奢な青年の面影はなく、修羅場を

  かいくぐった野生の血を感じるほの暗い目つき。

  なによりその体つきまで変化していた。


 「約束は反故にされた。だから罰を与えに来た。俺は土岐等とは

  違う。馬鹿にされるのが一番腹が立つんだよ。俺だけ地獄に

  堕ちてたまるか」


 デスクワークばかりの超えた山瀬に勝てる見込みなどゼロに等しく、

 もはや逃げることもわすれ、必死で命乞いをする。


 「そんな理由で芙美、私の妻まで、殺したのかっ。」


 山瀬だって妻を奪われたのだ、怒り心頭に達している。


 「今度の件は、私たちが故意に情報を流した訳ではない。

  あの時のアカハラ事件の関係者が起こしたことだ。

  私たちは関係ない。被害者なんだ」 


 「関係ねえな」


  思い切り、斧の刃先を山瀬の前に叩きこむ。

  一撃で男は静かになる。

  そんな山瀬を芹沢は楽しそうに見つめている。

  優奈からは陰になって口元しか見えないが、雰囲気だけは伝わって来る。


  優奈には今はさして関心がないのか、目覚めた時には別室で

  眠らされていた。床で寝たので体が痛むが、それよりも山瀬の

  安否が気遣われた。


  男は残酷な宣言をした。


  「もう終わったか?」


  「現世への名残惜し身だよ」


  いまにも爆笑するかのような笑顔を見せると、男は手にしたナイフを
  一気に山瀬の首をめがけた振り下ろした。


15


  優奈が出て行って、三時間が経過した。
  事前に約束したように、三時間が経過しても優奈からの
  連絡がないので、焔は様子を見に行くことにした。
  

  

  大学側にその旨を告げると、了承した。

  この場合ももし一時間して連絡がなければ、すぐに

  通報する構えだ。


  大学側としても、刑事事件に教員が絡むなどあっては

  ならない事態。できれば穏便に自首させたかったので、

  この提案にすぐに乗ってくれた。

  

  焔が自分の車に乗り込むと、常川もなぜか当然のように

  共に乗り込む。

  ちらと焔は横眼で牽制するが、常川はいつもと同じく

  全く気にしない。仕方なく一緒に山瀬邸に行くことにした。

  

  山瀬邸‐。

   

  着いた先にあったのは、主婦らしき女性の遺体。

  そして二階では‐高校生の娘が息絶えていた。

  山瀬と優奈はいない。

  

  すぐに大学に電話して、通報してもらった。
  
  山瀬自身の微罪がどうこうよりも、山瀬自身の保護を
  優先する。今までの経緯から芹沢が山瀬の家族を狙った
  可能性が高い。

  緊急配備がかけられ、山瀬が見つかったのは一夜明けて
  翌朝のことだった。

  見つかったのは、山瀬宅から車で二時間ほどの山中の崖下。
  死因は崖からの転落死。
  ついで崖の傍の山小屋から、男の死体が発見される。
  念入りに調べられ、男が芹沢だと断定された。

  唯一人の生存者である優奈は山小屋の側を通る国道沿いを
  歩いているところを、保護された。わずか一日足らずの
  逃避行であったが、ひどく衰弱していたので、
  病院に入院することになった。

 「この男の人が、私たちを山小屋に連れて来ました。5年前の
  事件が表沙汰になったことへの逆恨みだと言っていました。
  ……はい。もう一人仲間がいました。二人で落ち合って
  私たちに危害を加えようとしましたが、仲間と言い争いに
  なり反対に殺されました。……はい。もちろん、怖かったですが、
  そちらに集中しているその隙を見て、先生と二人で
  逃げようとしました。
  でも追って来たので、先生が私を庇って崖から落ちて‐。
  私のせいです。私の‐」

  男が5年前に死んだとされていた人物であったこと。
  アカデミック・ハラスメントが背景にあることなどが、
  話題を呼び、マスコミが熱心な報道合戦を繰り広げる。

  優奈の証言ももちろん匿名で取り上げられていた。
  その雑誌の一つを捲っては、常川は横に居る焔に独りごとの
  ように、呟く。
  
 「終わったな」

 「はい」

  何かを達したという顔も見せず、淡々と焔は言う。
  これで仇を打ち倒したと爽快な顔など見せない。

 「復讐して本当に良かったと思っているのか?後悔して
  いるんじゃないのか?」

 「良いとか悪いではなく、やらねばならないことだったんです。

  それ以上でもそれ以下でもない」

 「ほら、よく怨みなんて忘れて自分が幸せになるのが最高の
  復讐だなんて言うだろ? お前もここに来てそう思えてきたのか 
  と思ってさ」

 「僕の幸せは、奴らを潰すことでしたから。間違いなく、今の僕は
  幸せです。無力なあの頃よりも、遥かに。確実に幸せです。
  後悔も、悔恨も、許しもしない」

  言葉は強いけれど、初めて焔が自分の言葉を話した。
  上っ面ではなく、黒い芯を隠そうともしない焔は、ぞっとする程
  尖っていて、それでいて哀しい。

 「次にやること見つけたら、絶対に俺にも教えてくれよ。一人で
  考えるよりも、絶対に面白くなるから」

  焔はいつもの嘯いた笑顔を完全に無くし、不思議そうな顔で
  常川を見る。でも常川は決めてしまった。
  
 「俺はしつこいからな。お前がどんなことをしても、絶対に突き離して
  やらない。覚悟しろよ」

  常川の宣告に、焔は珍しく困ったような顔をする。
  思案の末に、焔はやっと言葉を絞り出す。
  
 「仕方ないですね」
 
  少しだけ焔は微笑んだ。



16


 爽やかな朝風の中を、鼻歌交じりに優奈は歩いている。

 大学近くにはまだ緑がたくさん残っているので、朝に散歩するには

  うってつけだ。


 「田中さんがやったのでしょう?」


 いつのまにか後ろにいた焔が尋ねた。

 

 「……」

 

 歩みを止めたものの、前を向いたまま、優奈は何も語らない。


「どうして?」


 確信していたのか、焔は答えを待たずして尋ねる。


「大事な人だから」


 そう言って優奈は、振り向いた。

 好物を尋ねられて応えるかのように、その目に曇りはない。

 あたかもそうすることが必然のように。


 近くの境界から讃美歌が聞こえる清浄な空気の中、それは行われた。

 その時山瀬と優奈は、どこか人里離れた建物の地下に監禁されていた。

 どこからか讃美歌をうたう声がしたのをよく覚えている。人は以外にも

 近くにいるのかもしれないとうっすら思った。


 殺意が生まれたのは、芽生のことを聞いてから。


「許せなかった。一途であることを尊敬していたのに。それを一番汚い

 やり方でぶち壊した」


 優奈は思い出す。


 父親が不在がちなのをいいことに、男を連れ込んでいる母。

 それでもいつも心にあるのは一人だけ。その男の話を寝物語に

 聴かせてくれた。

 物語のその男は、いつも自信に充ち溢れ、余裕があって、

 何より一途だった。

 だからこそ母は振られてしまったのだろうけれど、それでも

 母は彼の話を辞めることはない。むしろ誇らしく繰り返す。

 

 その男は、きっと父親の若い頃だと信じていた。

 今の父は、他の母の男友達と同じ。

 皆その場凌ぎの日和見主義者。

 芯がない。

 

 でも物語の男には、確固とした信念がある。

 信念を守ることが、男を磨き、それが自信となっている。

 母が、唯一心から愛した人間。

 こんなに母が愛している男が、きっと優奈の父親の本当の姿

 なんだとずっと思っていた。

 そういうと、母はいつだってめったに見せない笑顔で、

 「そうだ」と答えてくれる。だから信じた。


 でも成長して知ったのは、残酷な真実。


 「お母さんはね、理想の王子様に捨てられて、ずっと

  待ち続けている哀れな村娘なんだよ。王子様は

  とっくに幸せにお姫様と暮らしているのにね」


 それでも優奈の思いは変わらなかった。

 哀れだなんて思わない。

 そこまで思われるような良い男なのだと思った。

 

 それが芽生の存在で一度に、ひっくり返った。

 妻子がありながら浮気をし、学生に嫌がらせをした上げく

 殺してしまうなどと。

 王子様を。

 山瀬を目標に生きていた自分の人生を否定された気がした。


 だから‐。

 これ以上の汚濁を恐れた。


 警察の手に渡ってしまったら。


 あの殺人犯の手によって死ねば被害者として、その過去が

 暴かれてしまう。

 生きて戻れば、孤独と厳しい世間の目に晒されて生き地獄の

 檻に捕らわれる。


 それならいっそのこと自然死。事故死にすれば。

 それ以上詮索されることはない。

 ましてや過去のゴシップなど。

 

 だから手を‐離した。


 これ以上の汚れを纏わぬように。

 美しいままで。


 未だ聞こえる讃美歌が、優奈の不浄なる行為を洗い流して行った。

 


17


 焔には分かってしまうと、予感はしていた。
 優奈は全く動じない。

 

 「私もこちら側に来てしまいました」


 無邪気に微笑む優奈の、その顔に嘘はない。

 だから‐焔も仮面を脱ぎ、偽りのない素顔を露わにする。


 「……全力で憎め。僕はそれだけのことをした」


 「言われなくとも。あなたは、私の目標を、人生を奪ったんです」


 優奈の笑みは消え、いつもの控えめな物言いではなく、淡々と決意を

 表明する。瞳は真剣そのものだ。

 今までで一番明朗とした、物言い。

 これが本来の優奈の姿なのだろう。

 憎しみが自分の力を最大限に引き出す活力となる。

 どんな理屈よりも、それを救いとするのは必ずしも悪ではない。 

 

 そのまま真っ直ぐに歩いて来る優奈。

 眼前50cmの距離まで近づくと、見上げる。

 次の動作を予測して、焔は目を閉じる。


 だが、優奈が動くことはなかった。


 「何もしやしませんよ」


 言われて目を開けると、以前に焔が上げたネックレスを

 掲げている。

 導かれるまま焔は右手を差し出す。

 優奈は両手ではさみこむようにネックレスを掌の上に置くと、

 自分の手で蓋をした。


 「これはもう、私には必要のないものです」


 そのままくるりと後ろを向くと、言った。

 焔は優奈の表情を読むことが出来ない。


 「私は決して自首することはないし、あなたのしてきたことを

  訴えることもしない。代わりに、あなたは一度も罰を受ける

  ことなく、自分の罪に苛まれ続ける。未来永劫。死ぬまで。

  それが私の復讐です」


 「思い知らせてやりたいとは思わないのか」


 「あなたが自分のしたことにどう決着を付けるのか。私は残りの人生

  全てをかけて、見届けさせてもらう。あなたは聡い人だから、それが

  一番堪えるでしょう」


 「もとより告発する資格などない。……長い闘いになるな」


 「覚悟の上です」


 「生殺しとも言える」


 「あなた次第でしょう」


 時は二人の出会いから既に一巡している。

 それを示すかのように、薄く色づいた山桜が風にそよいだ。

  

 これからまた、澱となった情念は新しく形を変え、続いていく。

 来るべき浄化の日の為に。 

 


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