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這いよる裂線

1


 その日も後援会を回っていると、いつもと同じく十時までかかって
 しまった。選挙を控えたこの時期は、東京での業務の忙しい父親の
 名代として、矢越が代役を買って出ることは恒例となっていた。
 もちろん将来の来るべき立候補も視野に入れている為、自分の名前を
 売ることも忘れない。自分にとっても、父親にとっても重要な仕事だ。
 
 勧められた酒のおかげで、良い具合にほろ酔い気分で事務所に帰ると、
 最後まで残っていたのは、矢越と同じく秘書の田勢だった。
 矢越よりも2歳ほど年若い田勢は、民間企業から移転して来た変わり種だ。
 その分仕事を覚えようと人一倍仕事をしている。

  必然的に一緒に過ごすことが多くなった。

 仕事が遅くなった時には、矢越が田勢を駅まで送ってやっている。

 仕事熱心な田勢は、そんな時までも仕事の話だ。

 ほろ酔いとは言え、自身もワーカホリックな矢越はこの会話すらも

 楽しめる。神経質で仕事熱心だが、仕事以外では抜けているところもあり、

 一緒にいるのは楽しい。歳が近いせいかもしれない。


  今も荷物を取りに来たついでに来ただけのつもりが、他愛もない

 話題で話し込んでしまう。

 携帯が鳴らなかったら、もう少し続けていただろう。

 着信を告げるメロディに、急いで相手を確認すると芽生だった。


 半年後の結婚式の衣装合わせについての相談だ。


 矢越にとっては瑣末なことに過ぎなかったが、女性にとって

 どれほどの意味があるのか分からないほど無知ではない。

 次の日曜日に、ウエディングドレスの衣装合わせに行くことを

 約束して、電話を切った。


「……婚約者さんから、ですか?」


「ああ。結婚式の衣装合わせに付き添えってさ。面倒だけれど」


 そう言いながらも矢越は嬉しそうだった。

 ドレスなんて全部似合うに決まっている。それよりも結婚すると言う

 事実の方が重要だった。


「結婚、本当にするんですか?」


 矢越の言葉を遮るように田勢が尋ねる。


「……うん? ああ。当たり前だろ」


「澄真さんは、本当にその人のことを知っていますか?」


 「矢越さん」と名字で呼ぶと、父親と混同して紛らわしいので、

 事務所では下の名前「澄真(とうま)」と呼ばれている。


「……何のことだ?」


「もう一度よく考えた方がいいかもしれません」


「お前が芽生の何を知っているんだ?」


 思わず怒鳴りつけてしまった。職場で滅多に声を荒げる事などないのに。

 だが芽生は婚約者だ。婚約者を侮辱されて黙っている男などいるだろうか?


「……一般論ですよ」


 だが田勢は少しも怯まない。


「僕ももうすぐ結婚するんです。式は挙げませんがね」


  先程までの朗らかな雰囲気はどこへやら、田勢はそれだけ言い捨てると、

 「失礼します」とやけに他人行儀な科白を残して、さっさと帰ってしまった。


  いきなり途切れた歓談の場に、矢越は気分を害したというよりも、

 狐に包まれた気分になる。

 田勢はあまり感情を表に出すタイプではないのだ。

 いやそれ以上に、結婚するという報告に驚いた。

 全く浮いた話がなかったのに。

 色々な意味で衝撃的で、ふわふわとした頭のまま、矢越は帰路についた。

 

  帰宅してメールをチェックすると、芽生から2通メールを受信していた。

  衣装合わせが楽しみだということ。

  最近仕事で忙しくて会えないから、結婚して毎日会いたいということ。

  絵文字を使った文章に、添付ファイルで今日作ったという煮物の写真も

 送ってくれている。


(後悔なんてするはずがない)


 矢越は改めてそう思った。

 


2


 田勢も気まずかったのだろう。

  翌日、田勢は自分と他のスタッフ一人で残業をすると言い張り、

  半ば強引に帰るよう押し切られた。

 納得しにくい理由だが、素直にその日は早めに帰ることにして、

 矢越は久しぶりに芽生の家に行くことにした。


 芽生の家は事務所のある街の中心部から、歩いて三十分ほどの

 マンションで独り暮らしをしている。

 芽生は今月から既にアカデミックのポストに着任し、

 引き続きCOEプロジェクトに参加しているのでそこそこ多忙だが、

 事前にスケジュールが決まっている。

 不規則な矢越のスケジュールに彼女が合わせてくれたほうが、

 効率が良いので、今日の急な来訪にも芽生は嫌な顔をしなかった。


「初めて作るからあんまり自信がないけれど、どうぞ!」


 謙虚なことを言いながらも、言葉の調子だけは威勢が良い。

「悪くないよ」と返す。大げさに喜んだ芽生は、そのまま最近

 あったことなどをとりとめなく話し続けた。

 それに織り交ぜるように、さりげなく尋ねてみる。


「……芽生は、本当の俺のことを知っている?」


「うん!? 何それ?」


 出会って三年。お互い交友関係は広いので、それを辿って

 紹介されているうちに知り合った。初めはノリがあって一緒に

 いると楽しくて。何度か会ううちにどちらともなく二人だけで会う

 回数が増えていった。

 

 何事にも手を抜かないその姿勢にも共感できた。

 芽生は、大抵のことは要領よく何でも人並みにこなす。

 だから料理も決してまずくなることはない。


「知っているよ。それとも何か秘密でもあるの?」


「そうじゃないけれど。……芽生はどうなんだ?」


「実は……」


 いきなり深刻そうに俯く芽生。


「まさか……」


「なんてね。何もないよ。残念だけれど。毎日あったことを

 話しているじゃない」


 やはり田勢は自分を妬んでいるだけだったんだ。安堵の余り芽生を

 抱きしめる。

 鼻先をかすめる髪からは甘い香りがした。


 ピピピピピ。


 芽生の携帯電話が鳴った。芽生は送信相手を確認すると、隠す

 ように携帯を無造作にハンドバックに突っ込んだ。


「ごめん。学部の学生の子。さっき話したでしょ? 私今学期から

 学生のハラスメント相談員を担当しているの」


 先ほどまでの雰囲気はどこへやら、芽生はさっさと外出の支度を始める。


「それでもこんな時間にまで携帯電話で、相談をもちかけるなんて

 非常識じゃないか?」


 時刻は既に十一時を指そうとしていた。

 

「本当にごめんなさい。緊急なの。この埋め合わせはまた今度」


 その後姿を見て、矢越は芽生の将来どんな教師になるのか見える

 気がした。

 


3


芽生のマンションで食事をしてから数日後。


 いつもと同じ朝。

 変わらない職場。

 それが一変した発端は、田勢の挨拶からだった。 


「おはようございます。先生が応接室でお待ちです」


 いつも通りの澄ました声で、田勢が要件を告げる。

 今でも矢越は忘れない。

 ドアの向こうに覗いた世界は、不信と悪意が渦巻く世界への

 入口であったと。


  入室して早々に、父親は開口一番切り出した言葉に、

 矢越は驚いた。


「お前は芽生さんがどういう人間かちゃんと分かっているのか?」


 意味が分からず戸惑っていると、父親はドアを開けて田勢を

 部屋に呼んだ。数日前の帰りに田勢が言った言葉が蘇る。


「本当にその人のことを知っていますか」


 芽生が何をしたと言うのか。

 芽生は自身が職業を持っているので、事務所の仕事を手伝うことは

 稀だ。それでも結婚したらきちんと支えてくれるだろうし、

 そう信じている。それが不服とでもいうのか。

 矢越の不安を余所に、田勢は予め用意をしてあったUSBメモリを

 パソコンにセットする。


 音声だけが再生された。

 内容は二人の男による質疑応答で、二人の役割は固定していた。

 答える役割の男の声で語られるのは、一人の女子院生に対する

 ハラスメントの数々。

 ハラスメントの加害者であることを認めた男は、他の加害者の一人

 として芽生の名前を挙げた。


 「こんなの唯の中傷ですよ。誰だか知らないけれど、この男が自分だけ

  罪を被るのが嫌で、無理やり芽生を巻きこんだに違いない。こんな

  酷いことをする訳がない。お父さんだって芽生に会ったことがあるの

  だから分かるはずです。だから結婚を許してくれたんでしょう?」


 「賢く立ち回れるし、外見も悪くない。いささか表に出過ぎる

  嫌いはあったが、お前の選んだ相手だし無難な選択だと思ったんだが。

  これは良くない。意味は分かるな?」


  椅子のアームにおいた指を、人差し指だけ上下に動かしている。

  苛々している父の癖だ。

  相当不機嫌なことを、矢越は理解した。


 「……本当だったとしたら、確かに問題です。でもそもそもこれは

  どこから手に入れたんですか? 信頼できる情報なんでしょうか?」


  父が合図をすると、田勢が小さな白い封筒を応接机の前に置く。

  父親の東京の議員会館に届いたと説明を受ける。

  封筒を宛名だけで、差出人は書いていなかった。

  

 「これだけではない。他にもある」 

 

  父の言葉を受けて、田勢が無言のままパソコンを操作すると、

  個人用ブログの画面が出てきた。

  今聞いたばかりの、5年前のアカハラを追求するのを目的とし、

  その細かい経緯が掲載されている。

  加害者として告発されている小田切、佐々木、芹沢の犯した

  ハラスメント行為とその経緯を、時系列を追って書かれている。

    

 「このブログにも、同様の音源があり、誰でもダウンロードできる

  ようになっています。ただしネットの方は、個人名や大学名などは

  音声処理されております」


  名誉毀損で告発されることを恐れて、ぎりぎりの線で

  告発しているのでしょうと、田勢が説明する。


 「インターネットの情報だけでは、怪しいものですよ。偽の情報を

  ネットで流す愉快犯だっています。これだけで決めつけるなんて、

  お父さんらしくありませんよ!」


 「そこまで言うなら、お前が嘘だと証明しなさい。それが出来るまでは

  結婚は延期だ」


 「選挙前にご迷惑をおかけして申し訳なく思います。ですが、

  いくらお父さんでも僕の結婚にまで口を出されるのは……」


 「選挙のことはこの際いい。本当だったとしても、反省している

  ならそれで良い。過去ではなく、今がちゃんとしていれば何も

  恥じることはない。だがもし真実かつ反省もしていないようなら、

  私は……その人間を心から軽蔑する」


  父親は真っ直ぐな性格故に、若い頃は世の中の汚れた部分を受け入れ

  られず、随分と苦労した。年齢を重ね、ある程度の折り合いを付けられる

  ようになっても、根っこの部分は変わらない。

  こんなに感情的になっているところを見るのは、久しぶりだ。

   

  「真実かどうかが問題じゃない。こんな噂が流れること自体が

   問題なんだ。結婚したいのなら自分で解決しろ」


  幸せから一転、矢越は窮地に立たされることになった。

  今日は国会議員の父親自ら後援会回りをやるので、付き添う必要が

  ある。父親の監視の下、その音源について触れられないかびくびく

  しながら後援会回りをした。


  いつも正々堂々と生きてきた矢越にとって、後ろめたい気持ちで

  他人に接するだけですっかり疲れ切ってしまった。


  家に帰っても父親がいると思うと憂鬱で、事務所で伸びていると、

  田勢が帰って来た。

 

 「今日も残業か?」


 「ええ。やることはいくらでもありますから。それよりも家に帰ったら

  どうですか? 久しぶりの親子水入らずでしょう」


 「いいよ。あんな話聞かされた後じゃ、水入らずも何もない」


 「そんなに気になるのなら婚約者さんに、直接尋ねればいいのでは?」


 「明日会う予定だから、その時に聞くよ」


 「信じてはいらっしゃらない?」


 「そうじゃない。ただの中傷だ。そう思っている。その後の処理だよ。

  自分のことならともかく、他人の事だ。どんな背景があるか、どんな

  考えをもっているのか。そこから始めないといけない。この忙しい

  時期に。タイミングも最悪だ」


  珍しく愚痴を吐く矢越に、目を丸くする田勢。

  その顔を見て、何事か思い出した矢越はバツが悪そうに謝る。


 「……この間は悪かった。田勢はあの音源の事知っていたんだな。

  それで俺に忠告してくれていたんだ。知らなかったとはいえ

  怒鳴ったりして悪かったよ」


 「いえ。お気になさらず」


 機械のように、作業を開始する田勢。

 こいつは本当に感情がない奴だな。

 そういえばもうすぐ結婚すると言っていた。

 そのことを尋ねると、少し恥ずかしそうに「そうです」と言った。

 

 「相手は誰なんだ。俺の知っている人か?」


 「秘密です」


 「なんだよ。教えろよ」


 友人同士でふざける調子で詰め寄ると、田勢は言った。

 

 「また前と同じ失敗は繰り返したくないんですよ」


 何かを決意したかのように田勢はそう言った。 



4


 待ち合わせの時間に芽生のマンションに行く。

 元気に「は~い」と応答すると、すぐに扉を開けてくれる。

 芽生の顔が覗くと共に、シチューの温かな匂いが鼻に届く。

 いつもと全く変わらない快活な様子で、椅子を勧める。


 てきぱきとテーブルをセッティングする手に迷いはなく、

 どこにも疾しいところがあるとは思えなかった。

 

 (やはりあの噂はデマじゃないのか?)


 昨晩、自宅で確認したあの音源の内容を思い出す。

 芽生と二人の男子学生が一人の女子学生に、嫌がらせをしていたこと。

 中でも芽生は、彼女の持病を理由に強圧的な態度をしていたこと。

 甲斐甲斐しくシチューをお椀によそっている芽生が、そんなことを

 するとはとても思えない。普段から子どもが好きだと言ったり、

 かわいらしいキャラクターが好きな芽生に、そんな一面があるなんて。


 だがわずか数週間前に出来たばかりのブログの閲覧者は

 急ピッチで伸びていて、何者かの意図を感じずにはいられない。

 少なくとも芽生を公然と非難しようと憎む人間は、確実に存在する。


 質問自体が芽生に失礼な気すらする。

 さっさと質問を終わらせて、解放されたい。

 芽生は笑い飛ばしてくれるはずだ。

 それともそんな酷い中傷を受けたことに、泣いてしまうか。

 矢越は芽生が否定した時に、どう対処するかだけを考えた。


 食事の用意を手伝い、一緒に食卓を囲む。

 相変わらず料理の腕は確かだった。

 おいしいし、見た目も悪くない。

 食事を終えて、食後のコーヒーを飲む。

 とりとめのない話をしては、笑い声を上げる芽生との空間。

 

 この雰囲気を壊さないように、と矢越はあくまでさりげなく

 尋ねる。


 「昨日ネットで妙なページを見つけてね。君の知っている人の事が

  出ていたんだ」


 「ふうん」


  芽生の反応を観察するが、特に異変はない。

  普通に目の前のクッキーを摘まんでいる。

  その様子にほっとしつつ、尚も矢越は押す。

 

 「ちょっと一緒に見てくれないか?」


  返事を待たずに、矢越は自然な動作でアイフォンを鞄から取り出し、

  昨夜見たあのサイト画面を呼び出す。

  またもや閲覧者数が飛躍的に伸びている。

  芽生の方に画面を向けて、中身を確認させる。


  芽生は真剣な面持ちで画面をスクロールするが、その表情からは

  何も読みとれない。熱心に見てはくれているが、感想は言わなかった。

  矢越も感想を聞くのが、芽生の気持ちを知ってしまうのが怖い。


  芽生の気持ちを聞かないままに、矢越はあらかじめmp3に

  落としておいた音源を再生する。

  念のため後日ブログから削除されないように、

  デスクトップに移しておいたのだ。

  一緒に聞くのは心苦しかったが、生の反応を知りたかった。


  芽生は自分の名前が出た時だけ、小さな声で「え」とも「あ」とも

  つかぬ半分ため息のような声を出していたが、取り乱すことはなかった。

  それが余計に緊迫感を生みだす。


 「……これは本当の事か?」


 「嘘のところと、本当のところがある」


  矢越の質問に、極めて冷静に芽生は答えた。

  大声で取り乱されたりはしなくて、ほっとした。

  落ち着いて話し合うことが出来る。


 「本当のところは、一人の学生、この芹沢君が女子学生をいじめて

  いたこと。その時に仕事を押し付けたり、病気のことをからかって

  いるのは見たことがあるわ。これだと私が言ったことになっている

  けれど」


 「じゃあ嘘の部分は……?」


 「私と小田切君の部分。私と小田切君は見ていただけなのに、

  一緒になって土岐等さんにひどいことをしたみたいに言われてる。

  5年も前の事件だから、証拠を出せと言われると困るけれど」


 「じゃあどうして見ていた時に、止めなかったんだ? そうしたら

  この女子学生の病気も悪化して死ぬことはなかったんじゃないか?」


 「それは、確かに悪いと思っているわ。……でも芹沢さんという

   人は本当に怖くて、私も小田切君もいつも怖がっていたの。もっと

   勇気を出せばとは今でも悔やんでいるわ」


 (ほら、やっぱり!)


  矢越はほら見ろと、父親と田勢の顔を思い出しながら思った。


  「やっぱり、芽生はひどい誤解をされていただけだったんだな。

   ごめん。こんなのを聞かせて。それにしても芽生は大人だな。

   こんなの突然聞かせられたら、俺だったら怒り心頭だよ」


  「知っていたから」


  「知っていたって? 前にも誰かに教えてもらっていたのか?」


  「うん。大学でも一部の人は今でも噂しているもの。この録音は

   小田切君が脅されて言わされたもので、信憑性がないものなのに。

   もう5年も前の話だから、本当の証拠も、嘘の証拠もないから

   言いたい放題になってきているみたい」


   そう言って芽生は顔を曇らせた。

   

  「それは酷いな……。小田切君とやらは、誰に脅されて

   言わされたんだ?」

 

  「分からないって。電話がかかってきて脅されて、録音された

   ものだから。犯人とは面識がないって。……それに犯人探しは

   いいの。こっちが騒ぐのが面白くてやっているのだから。それに

   一度ネットに流れた以上、全部回収するのは難しいわ」


   胡乱な瞳で机の中央辺りを見ながら、努めて冷静に話す

   芽生の目には水滴が溜まっていく。


  「そうか……大変だったんだな。ごめん、気付いてあげられなくて。

   この一緒に嫌がらせをしたって言われている小田切君とやらと、

   力を合わせてなんとかできないのか?」

 

  「つい最近亡くなったわ。自殺だった。三人の中で生きているのは、

   もう私一人。独りではどうしようもなくて。

   しかも今私、学生アドバイザーも担当しているから、会議の時には

   デマとは言え肩身が狭い思いをしているわ」


  「俺、何か助けることできないかな?こういう時に助け合ってこそ

   夫婦ってものだろう?」


   そういうと芽生はようやく笑顔を見せて、嬉しそうに言った。


  「ありがとう。でも気が早いよ」


   少し照れて、矢越は頭をぼりぼりと書く。

  

  「とりあえず親父には、芽生が無実だってことは言っておくよ。

   他にも何か考えついたら、やってみる! だから芽生も選挙とか

   気にしないで、どんどん頼ってくれよな」


  芽生は答える代わりに、コーヒーカップにコーヒーを入れると、

  それをグラス代わりのように前に掲げた。

 

  「疑いの晴れた記念に、乾杯!」


  いたずらっぽく言うと、矢越もそれに便乗する。


  「仲が深まった記念に、乾杯!」


  そういうと、二人は微笑みながらカップを互いの顔の前でぶつけた。

 


5


 いつもはそのまま夜遅くまでいるが、その日の矢越はコーヒーを
 飲んで三十分もすると帰ると言いだした。
 芽生は「聞くこと聞いてもう用済みってわけ?」と憎まれ口を
 叩きながらも、笑って許してくれた。

 事実明日にでも東京へ帰ってしまう父に、矢越はどうしても今日の
 成果を報告したかった。

 家に帰ると、父親は東京へ帰り支度をしているところだった。
 間一髪間に合った。
 人払いをすると、矢越は父親に芽生への疑惑は濡れ衣だったことを
 誇らしげに報告した。

 だが父親は、「弱いな」と答える。

 「どういう意味ですか?」

 「本人の口からやっていませんと聞いたからと言って、信じる
  人間なんてお前くらいだ。他の人間からも証言を取ってこい。
  できれば証拠が欲しい」

 「しかし、5年も前の証拠をどうやって……」

 大学は人もモノも入れ替わりが激しい。
 父親の予想外の言葉に、矢越は怯んでしまう。

 「前にも言った通り、私は元々議員の世襲と言うのは好きじゃない。
  お前がどうしてもというから地盤を譲る候補の一人にはしているが、
  見込みがなければ直ぐに他の有能な人間に任す」

 評価されるどころか、自分の能力を危ぶまれてしまった矢越は、
 項垂れながら父親の後ろ姿を見送った。
 父はコネ、金、地盤が何もない状態から、自力で国会議員まで登りつめた
 男だ。それを尊敬しているし、近づきたいと思っているが、その意思の
 強さと実行力を目の当たりにすると、やはり自分なんかの志は低いのでは
 と度々卑下してしまう。

 その晩矢越は、父に課された新たなる課題にどう立ち向かうかを

 考えつつ、眠りに落ちた。



6


  矢越の車が発進した音を確認して、芽生は急いで服を外出用に着替える。

 もう一度窓から矢越の車が居ないことを確認すると、外出用のハンドバックを

 手に、夜の街へと消えた。

 

「また例の客です。オーナーそろそろ……」


 その客について、従業員から報告を受けるのはこれが初めてではない。

 新人が連日指名をとれるのは喜ばしいことだが、この客に限っては

 そうではない。

 ただ会話を楽しむだけではなく、何やら熱心に口説いており、新人は

 明らかに嫌がっている。


 当初はまだ新人が業界に慣れていないだけと、あしらい方をアドバイス

 しようと先輩従業員が会話に耳を澄ませて、事態が発覚した。


 犯罪の証拠をもみ消せと迫っているのだ。

 

 周囲に配慮して核心的な言葉は使わないが、新人にも確認して分かった。

 分かって以降は、他の先輩従業員を付けようとするのだが、指名料を

 支払ってでもこの新人を指名する。それで今日という今日は断固たる

 態度を取らねばと、以前から相談していたオーナーの判断を仰いだ

 という訳だ。

 

 「そろそろ頃合いだな……」


 「はっ?」


 「終業後、彼をオーナー室に呼んでくれ」


 

 その日も、芽生に不正経理の証拠を取り下げるように懇願され続け、

 いい加減疲れた晴人が、オーナー室に控えめなノックをした時には、

 時計は既に翌日になっていた。


 「晴人です。失礼します」


 「ああ、待っていたよ。とりあえず座って」


 恐縮しながら座る晴人に、焔はウーロン茶を勧める。


 「どうだい。少しは仕事に慣れたかな?前の仕事とは大分勝手が違うと

  思うけれど」


 「はい。皆さん親切にして頂けますし。お客さんも良い方が多いので、

  仕事は楽しいです。本当に……拾って頂いて感謝しています」


 この仕事を始めるまでは、晴人は自分に自信がなかった。

 がんばっているのに、認めてもらえない。

 正義感は融通の利かない詰まらない奴と蔑まれる要因となり、

 一生懸命が空回りした挙句の口下手ぶりは、要領が悪い奴と評された。

 それが今では、全て長所に置き換えてくれる。

 純朴で嘘が付けないから、安心して遊べると客や先輩が言ってくれるので、

 それは給料以上の価値を持った。


 「それで、どう? 佐々木芽生はまだしつこく証拠を渡せと詰め寄って

  来ているみたいだけれど」


 「向こうも相当焦っているみたいです。大学内での調査も着々と進んでいる

  ようなので、何とか証拠を揉み消したいのでしょう」


 「もう少し引き出させてから……処分する。それまでは頼めるかな?」


 焔が唇だけで笑みを浮かべて、頼む。

 もちろん答えは決まっている。晴人が焔に否ということはあり得ない。


 「はい。もちろんです」


 「仕上げはこちらでする。君はただ僕の言う通りに動けばいい」


 ともすると傲慢にも聞こえるその言葉も、恩人の唇を借りれば、

 頼もしい響きに変換される。晴人はオーナーの計画に寄与できる

 ことを、誇らしく思った。

  


7


 気が付くと、朝になっていた。
 一晩中考えるつもりだったが、あっさりと寝入ってしまったらしい。

 悔やんでも仕方が無いので、朝になってクリアになった脳で、
 矢越はまずは仕事に専念する。
 仕事も疎かなようではますます能力を疑われる。
 大きな失敗など今までしたことはないが、いつも以上に矢越は
 仕事に集中した。
 
 仕事を終え、程良く回転している頭のエンジンが温かいうちに、
 矢越は5年前のアカハラ事件について考えた。

 
アカハラの事実確認としては、大学のハラスメント相談室が
 最適だろう。だが相談の機密を守る場所なので、情報提供を求めるのは
 不可能に近い。それに芽生本人に知られてしまう可能性もある。

 
 一番いいのは、あの音源で答えていた張本人である小田切に、
 真偽を問うことだが、彼はもう鬼籍に入っている。
 こういった方面では素人の矢越は、早くも壁にぶち当たってしまった。
 どうしたものかと悩んでいると、母親が自分を呼ぶ声がする。
  
 「澄真さん、お手紙が届いていますよ」

 母親が夜食と共に、持ってきてくれたのは、
何か固いものが入った
 白い封筒だった。

  

 「なんだこれ……」


 表面に書かれていたのは自分の名前だった。

 中を開けるとCD-ROMが出てきた。

 どこにでも撃っているシンプルなタイプだ。

 そっとパソコンにセットすると、中から出てきたのは

 芽生が誰かと話す会話だった。


 会話の内容から、相手は亡くなった小田切らしい。

 

 「今更バレたら困る」

 「せっかく金持ちになれるのに」

 「勝手に死んで、こっちこそ迷惑……」


 責任転嫁。

 他人を利用価値で推し量る。

 散々自分勝手をした挙句の被害者意識。


 数分聞いて、もう電源を乱暴に切った。

 こんなに不快な音源は初めてだ。


 死者を罵倒し、保身に終始し、自分を金づるとしか見ていない。

 この言葉は、本当にあの可愛らしい芽生の唇から生まれたもの

 なのか。


 もっているCD-ROMにも複製すると、

 封筒に入れて、芽生のマンションの住所を書く。

 中には一枚だけメモ用紙に、「この会話は何だ?」

 とだけ入れ、翌朝一番に郵送した。

 

 それからしばらく矢越は芽生にメールすら返事を寄越さなかった。

 芽生。あいつは一体何なんだ?  

 田勢の言うとおり芽生の本性をまるで分かっていなかった。


 矢越は芽生の正体を調べることにした。

 まずは興信所に頼む。できれば自分の力で調べたいが仕事は今が正念場だ。

 ここでいい加減な仕事ぶりをしたら、父の言うとおり今後に関わる。

 まずは普段の生活を維持することが肝要だ。

 

まずは小田切と、死んだ芹沢について調べることにする。

ネットで調べてみても、大した情報は得られない。生きた情報を

得るにはプロを雇うしかない。

外部には漏らしたくないので、そこは大いに葛藤したが、

仕事があるので個人で調査するには限界がある。思い切って決断した。


芽生との関係を一週間後の調査結果待ちにした矢越は、

この一週間を選挙に捧げることに努めた。

 


8


 「申し訳ありませんが、個人情報につきお答えすることはできません」

 判で押したような想定内の反応に、調査員はやはりと大人しく
 引き下がるしかなかった。

 5年前のアカハラ事件を探る為に、ハラスメント相談室に来ては
 みたものの、全く埒が明かない。典型的なお役所仕事だ。
 もっとも個人情報保護に厳しくなってきた昨今、そんなにすんなり
 いくとは期待していない。

 当初の計画通り、当時の関係者から事情を聞くしかないようだ。
 調査員は待ち合わせのメモを鞄から取り出し、まだ在学している人物に
 話を聞くことにする。対象者と現在同じ研究室に在籍しているのだから
 慎重に行かなければ。
 再度構内見取り図を確認すると、その人物が待つ食堂へとゆっくり
 歩いて行った。
 

 調査員の動向を覗き見ていた女は、すぐさまメールを送信する。
 相手の名は、「協力者」。
 メールを受け取った男は、すぐに行動を開始した。

 
坂道をメインキャンパス方面に引き返していると、運動部の掛け声が
 聞こえてくる。若さが溢れる音が遠い昔の学生時代を思い出させ、
 珍しくノスタルジックな気分で調査員は脚を運ぶ。
 目当ての大学院棟まで来ると、掛け声も聞こえなくなり、調査員の
 脳は仕事モードに切り替えた。


 待ち合わせの食堂に向かうと、ターゲットは待ち切れなかったのか

 既に食事を始めていた。呼んでいない筈の女子学生まで、ちゃっかり

 同じテーブルに座っている。


(まあ、聞き取りできる人数は多い方がいいが……)


「あ、きたきた、こっちこっち!」


 男の方がかつ丼を食べながら手を振っている。


「お先に頂いています。すみません、私まで」


 謙虚なことをいいながらも、女子学生の前の2つのトレイには、

 ここぞとばかり食べ物を乗せている。

 刺身。ステーキ丼。パフェ。肉じゃが。


(独りで全部食べるのか?)


 背が低く、痩せた型なのに、たべっぷりは気持ちが良い程だ。

 男の方も、かつ丼の大盛りの横に、いくら丼とてんぷらを置いている。


「いえいえ、大勢の方がいろいろと……」


「そうだぞ、せっかくの機会なんだから、がんがん食べろ。この人が

 全部払ってくれる」


 一緒に食事でもしながらお話を伺いたいと言ったし、

 話してくれる以上昼食代くらいは支払う気持ちはあった。

 だが無関係の女子学生にまで払う気は、全くなかったのだが。

 

「本当にありがとうございます!今日は吐くまで食べます」


 奢りだと信じ切っている目を、失望させる訳にはいかず、

 仕方なく、調査員は全学支払う覚悟を決めた。


(これって経費で落ちるのだろうか……)


 調査員は絶対に元をとる決意をした。


 二時間後‐。

 思ったよりも収穫があったことで、痛んだ懐分は元をとることが出来た。

 目を付けた人選が良かったことが幸いした。

 自画自賛しながら調査員が駐車所へ向かうと、

 駐車場の脇から現れた男が一人、声をかけてきた。
 街灯の影になってはっきりと顔が確認できないが、
 まだ若い。学生のようだ。
 
 「5年前の事件について調べていらっしゃるのでしょう? 協力して
  差し上げますよ」

 「あんたは、誰だ?」

 「僕は5年前の事件の生き証人ですよ。教えてあげますよ。
  あかりさんのことも、主犯たちの事もね」


9


 「5年前のアカハラ事件は、例のブログの通りの経過を辿っていました。

    被害者は亡くなりましたが、直接の死因は持病なので、それほど

    大きな騒ぎになりませんでしたが、芹沢さんへの公的な処分が出たので、

  大学でその記録に当たることができました」

 

   確認の為に書類を見せてもらうと、やはり公的な記録には、

  芹沢以外の名前は出されていない。一方的に芹沢が土岐等に嫌がらせを

  しかけて、他の者たちはそれに気付いてはいたが、皆芹沢が怖くて

  言い出せなかったと理由を付けられている。芽生の主張と同じだ。

  教員達は気付かなかったことが悔やまれると、述べている。

  

 「退学処分後、芹沢さんはフェリーから投身自殺を図って亡くなりました。

  遺書には、退学処分を受けて将来を悲観したことが自殺理由として

  書かれていたそうです」

 

  家族にも調査を試みたが、息子が迷惑をかけたにも関わらず最期まで

  良くしてくれた山瀬研究室に感謝していた、と調査員は暗にこの家族が

  復讐を企むなど考えられないことを仄めかす。

    

 「それに対してこれが……被害者遺族が大学当局側に提出した、

  アカハラの具体的な内容と、その経緯です。当時の被害者を知る

  人物から入手しました」

 

  細かな記録が、ハラスメントの悲惨さを浮き彫りにする。

 そこには芽生や小田切が、芹沢以上にアカハラ行為を積極的に行っていた

 と記されている。芹沢が関与していたことには変わりはないが、芽生と

 小田切の印象がまるで違う。音源での会話とほぼ同じだ。 

 

 「それと小田切さんが脅されて例の録音を行われたと言われましたが、

  その時脅されていたのは、小田切さんだけではありません。芽生さんも

  脅されていました。こんなものが無記名で研究室に送られてきた

  そうです」

 

 小田切の名前と芽生の名前。それに『アカハラサツジンシャ』と

 書かれている。『サツジンシャ』という言葉に重みがする。

 

 「結論としてはどちらを信じるのかは、矢越さん次第です」

 

 当然矢越は公式発表を信じたいが、細部まで記述された証拠にも

 信憑性がある。少なくとも後者が正しいと信じて、芽生を怨んでいる

 者が存在する。

 
 「引き続き調査を続行しますか?」

 

 「……お願いします。次は現在の芽生について」

 

 いつまで、どんな結果が出るまで自分は調査を続けるつもりなのか。

矢越は自分が婚約破棄の決定的な理由を探したいのか、芽生という人間を

もっと知りたいだけなのか、自分でも分からなくなってきた。

見極め時が分からないまま、ただまだ終わっていない気がして、

調査の続行を命じる。

 

アカハラ。本音らしき下世話な会話。不正経理。

匿名の郵便で知らされたことからして、悪意を感じる。

綿密に計画された悪意に、芽生が捕らわれただけだとしたら。

止めを刺そうとしている矢越は、非情な断罪者に他ならない。

芽生は、哀れな冤罪の贄。

 

外野を気にして、愛する者を切り捨てるのなら、ハラスメントを

する卑怯な人間たちと変わらない。

無記名で機を図って芽生に不利益な証拠を送って来る人間が、信用するに

足る根拠は何か。それこそ単なる嫌がらせではないのか?

常識的な脳は、婚約者を信じよと諭しているのに、

次から次へと現れる証拠は、芽生への疑惑を膨らませる。

矢越の考えはまとまらない。

 

 更に一週間後。

 

 つかの間の平和の日々に感謝しつつ、矢越は次の報告を待った。

 調査員が報告する。

「芽生さんは、不正経理に関与していた可能性があります」

 

 最近自殺体で発見された小田切が、大学内で不正経理疑惑で処分を

 受けており、その際の再調査により芽生にも関与が疑われているらしい。

 その後に調査員は、あくまで学内での調査段階ですが、と慎重に断りを

 入れた。

 

 「小田切さん死後、助手に着任したのが芽生さんです。今芽生さんは

  当時の元業者の営業マンに、何とか証拠をもみ消してもらえないかと

  口説いているようです」


 そう言って、その元営業マンが小田切の讒言によって退職した経緯と、

 小田切の不正経理問題についての資料を渡してくれた。隠蔽を試みている

 以上、いくらかの真実を含んでいるのだろう。少なくとも不正経理への

 関与は疑わしい。


 調査はここで一旦停止することにする。

 これまでの調査結果から二人のこれからについて、矢越はゆっくり考えて

 みることにする。


 芽生の方は、そんな余裕などあるものかとばかりに、連日パソコンにも

 携帯にもメールが来る。

 「誤解だ」「話を聞いてほしい」「自分も脅されていて怖い」と

 繰り返すが、自分が金づる扱いされて、矢越にはとても出る気には

 なれなかった。

 

 「今まで黙っていたけれど、小田切君と一緒に脅されていたの。私怖い。
  時間があったら少しでいいから会って下さい」

 

 これは本当だろうか? 信じてもいいのだろうか? 動かぬ証拠を

 見つけられて隠滅を図っただけなのでは? 何とか言いくるめて結婚に

持ち込もうとしているだけなのかもしれない。

 こうして待っているだけだと疑心暗鬼はどんどん膨らむ。

 一度気持ちを確かめるために、矢越は芽生に会うことにした。



10


 九時にいつもの和食レストランで待ち合わせる。

 芽生はいつも以上に着飾って現れた。

 だがその表情は暗い。

 

 食事をしながら芽生は涙を見せる。

 ハンカチでそれを拭う様も計算なのではと思いながらも、

 もし本当であるなら無慈悲なことをしたと罪悪感もする。

 しゃくりあげながら芽生は近況報告をする。


 特におかしなことは起こっていないこと。

 それでも小田切の件が怖くて戸締りには気をつけていること。

 会えなくて心細かったこと。いつもメールに書いてくることを

 そのままなぞっているような内容だった。


 件のCD-ROMについて尋ねると、まるで別人のように

 感情的になった。


 「確かに私の声だけど、編集して繋げてあると思う。あんな会話

  した記憶がないもの。私は被害者なのよ。幸せをぶち壊そうと

  狙われているの。相手が誰かも分からない。怖くてたまらないの」


 前の音声データを聞いても冷静に対応した芽生とは思えない程、

 弱々しい。矢越はそれでも聞くべきことは聞かねばと、あえて心を

 鬼にして聞いてみる。


 「じゃあ、どうして警察に相談しないんだ?」


 「それは……余計なことをすると逆上させてしまいそうで……」


 矢越には理解できなかった。

 逆上した時のことを考えて、警察に行くべきだろう。

 芽生はその言葉を覆うように、急に切れ出した。


 「ずっと怖くて悩んでいるのに。それなのに私を慰めもしないで、

  こんな大変な時に距離を置くの? 自分が巻き込まれたくないから?

  前言った夫婦になる為に助け合うって嘘だったの?」


 強い調子で詰る。いつもの甘えるような猫なで声の面影はなく、

 きんきんと頭に響くがなり声に身が竦む思いがする。

 周囲の客に迷惑にならないか、矢越はひやひやした。

 実際何人かが、野次馬根性丸出しで、こちらの様子を伺っている。


 矢越が期待していた反応を見せなかったことに不満だったのか、

 芽生はぐすぐすと、しゃくりあげた。

 今までにない芽生の様子に、さすがに冷たすぎたかと反省する。

 だが一方で。

 

 (勘弁してくれよ……。どうせこれも演技なんだろ?)


 そう思ってしまう。

 あんなに矢越が幸せ唯中に居ると信じていた頃、芽生は自分を

 裏切るような発言をしていたのかもしれない。

  

 「それじゃあ誰が芽生にこんなことをするんだ? 芽生の言う通り

  だとすると、こんな悪戯相当悪質だぞ。こんなことされる

  心当たりはあるのか?」


 「……ない。ないわ」


 「じゃあ横恋慕している男でもいるのか?」


 婚約者にストーカー。

 それはそれで薄気味悪いが、今の状況から考えると

 その方がずっと気が楽だった。

 

 「何、ヤキモチ妬いていたの?」


 急に機嫌が良くなり、涙が引っ込む。

 思っていたよりも愛されていると勘違いしたようだ。

 また泣かれると困るので、話題を変えつつ、近況を探る。


 「本当に嫌がらせはしていないんだな?それじゃあ小田切君とは

  どうして度々会話をしていたんだ?何か打ち合わせでもする必要

  があったんじゃないのか?」


 音声を切り貼りしたものだとしても、全体で3時間はゆうにある内容だ。

 そういえばつい最近まで芽生はCOEの仕事を理由に、帰宅が遅かった。

 今だってCOEに入っているのに、帰りはずっと早い。

 あの時間は小田切と会っていたというのか。


 「COEの仕事で、遅くまで残っている時。昔からの知り合いだから

  話が弾むことだってあるでしょう?」


 「それはまあそうだけど。その人とは何も関係はなかったんだな?

  死んだ人の事を疑いたくはないんだけれど、一応確認のために」

 

 「それはない。絶対にない」


  笑いながら芽生は言った。

  「だってあの人結婚していたのよ」と。


  その日は結局、次の約束をさせられた。

  疑問はまだ残ったままだったが、芽生のペースにはまり

  うまく聞き出せなかった。

  議員になるには答弁の技術も必要だというのに。

  父親から及第点をもらうには、まだまだ道のりは遠そうだ。

  矢越は更なる精進を決意した。

 


11

  

  事の始まりは、山瀬の実験補助を引き受けたことに端を発する。

  一週間に一日だけ。

  しかも尊敬する山瀬教授直々に、実験を任せてもらえる。

  優奈がこれに飛びつかない訳がなかった。

  

  今まで担当していた先輩が、好条件で就職することになり立った

  白羽の矢。

  周囲の学生達は既に様々な職についているので、入学したての

  優奈にもチャンスが回って来た。その内容を聞くなり、優奈はすぐに

  承諾した。


  普段から山瀬への尊敬の情を隠さない優奈には、山瀬もご満悦のようで

  優奈はその日をいつも楽しみにしていた。業務もそれほど難しいもの

  ではなく、COEの仕事にも差し支えることはない。

  仕事のある日は、山瀬が昼食を奢ってくれる慣行もあるようで、

  一気に距離が縮まった気がして、優奈にとっては理想の職場環境だ。

    

  仕事が始まって三回目くらいの頃だろうか。

  山瀬と学生食堂でご飯を食べていると、佐々木がトレイを持って

  混ざって来た。そして二人が中が良くて羨ましいと優奈を嬉しがらせた

  上で、佐々木は提案した。

 

  「先生、この子に私の授業の手伝いもお願いしていいかしら?」


  COEの仕事もあるので一旦は断ったものの、佐々木は「労働時間は

  それ程多くないからと強引に誘い、山瀬もそこまで言うのならどうか

  などと言うので、成り行きで引き受けることになってしまった。


  後で常川に聞くと、時間単位の給料は高いが、定期的に拘束される

  ことと他の職種の方が割がいいことで誰もやりたがらないバイトだ

  と言う。山瀬の前で良い恰好をするのではなかったと、早くも優奈は

  後悔し始める。


  業務内容は主に佐々木の授業の補助。授業にも出席して授業の進行を

  手伝ったり、学生の相談を請け負ったりもする。

  話を聞く限り、気抜けする程やることは少ない。

  時間も少なく、COE仕事に影響することもなさそうだ。


 (先生たちの信頼が買えたと思えば、悪くはないか……)


  そう思いなおした。

  自分の勉強にもなり一石二鳥のはずなのだが、すぐに苦痛になって来た。

  原因は佐々木の態度の急変だ。

  


12


それはアルバイト初日から始まった。


あまり話したこともなかったこともあり、緊張しながら授業が

行われる教室に行った。時計で確かめると、授業の始まる10分前。

念のため持って来たのは筆記用具と、時計、プリントなどを取り

まとめるホッチキス。実験をする授業ではないと聞いていたので、

これだけ準備してあれば大丈夫と踏んでのことだ。


 佐々木がそろそろ来たので、お辞儀をすると、昨日とは打って

 変わった渋い表情。何か悪いことをしたのかと不安に思っていると、

「鍵は?」と言われた。


山瀬の前では、詳しいことは明日から説明するから何も準備しなくても

良いと言われていた。大学では教室を使用した後に施錠する決まりに

なっているので、その時間ごとに教室を予約して鍵を取って来るのが決まり。

言わなくてもやるべきだろうとやっておいた。事務局の側でも他に教室を

使う人もいなかったし、間違いないと確認した上でのことだった。


「どうぞ」


 そう答えると、あきれ果てたとでも言いたげな短い嘆息をすると、

 手元から鍵を出した。


 「それじゃない。今日はいつもと違う教室でやるの。今日は私が持って

  来たからいいものの、次からは気を付けてよね」


 「……」

 

 佐々木が苛々しながら説明するには、教室が代ったのは前回の授業中に

 決まったことで、いちいちメーリングリストでは連絡していないとの

 ことだった。それ位は言わなくても確認しておけと小言を加えた後で、

 吐き捨てるように、言う。


 「それから、その鍵他の人が困るから、早く返しに行って」

 

 確かにそうだと急いで鍵を事務に返しに行きながらも、佐々木の前回

 とのあまりの態度の違いに戸惑いを禁じえなかった。

その予感を裏切らないかのように、教室に戻っても佐々木の不機嫌は

治らない。優奈に対してだけ。

学生には笑顔を振りまいて授業をするのに、ぼそっと優奈に対してだけ

きつめの言葉を呟く。


「パソコンとスクリーンの用意は?」


もちろんこの指示も今まで言われていない。


「すみません、すぐやります」


言われて、慌てて準備しようとすると、またもや馬鹿にしたようにに言う。


「それくらい言わなくても、普通分かるでしょ?」


小さな声で吐き捨てる。

学生に愛想が良い分、その落差が身にしみる。


何が気に障ったのだろうか‐ 優奈はその授業中これ以上怒られない

ようにすることだけに集中した。

 

「田中さん、バイトと言ってもお金もらっている訳だから、きちんと

 準備しないと駄目だよ」


あまり言葉を交わしたことのない先輩から、突然優奈は忠告された。

なんのことか分からず、単純にバイトへの心構えだと思い

「気を付けます」と答えたが相手の薄い反応に嫌な気配がした。


自分の反応が気に入らなかったのか、明らかに不愉快だと言いたげな

表情が、嫌な予感をもたらす。

 その日から研究室の様子が変わっていった。

 挨拶はしてくれる。でも何かが違う。昨日までの関係性が決定的に違う。

 それが何かは、分からないけれど。


 僅かな雰囲気の違い。


 些細な変化だからこそ、理由を聞くことができない。

 

「お前、大丈夫か?」


 誰もいなくなった研究室で、常川が唐突に尋ねてくる。


「何がですか?いつもと変わりませんよ」


 核心を疲れた気がして、つい苛立ってしまう。

 口にしたら真実になりそうで、絶対にそれを漏らしたくはなかった。


(気のせいだ。なんでもない。今になって少しホームシックなだけだ)


「あまり無理するなよ。愚痴があるなら聞いてやらないでもない。

 ただしお前のおごりで」


「何でもないです。しつこいですよ」


 常川だけはいつもと変わらない。

 でもそれも今のところ。明日になったら常川も変わってしまうかも

 しれない。常川は他につるんでいる者もいないと安心していたけれど、

 一番の古株。謎のネットワークを学内に持っている。


 常川すら疑わしく感じる今、山瀬と居る時だけは前と同じでいることが

 出来た。佐々木のバイトを疎かにはしなかったけれど、山瀬と居る

 時間が自然と多くなっていた。山瀬の傍で嫌なことを言う人はいない。

 研究室で人目に触れぬ場所で、違和感に触れる方がずっと

 嫌だった。

 

 佐々木の授業がある日は本当に憂鬱だった。

 初日の失敗は慣れてないゆえの失敗であり、自分にも原因があると考え、

 丁寧にメモを取っては、同じ失敗をしないように、優奈は気を付けた。

 佐々木が教員になってから初めての授業補助とは言え、配慮の足りない

 自分が悪いと反省して、毎回万事に備えた。

 

 だが万全に備えて授業の運営に関して、何も言うことがなくなると、

 それ以外のことで文句を付けるようになった。

 

 丁寧に機材を扱えば、「やることが遅い」と怒られる。

 練習して手早く操作すれば、「いい加減に操作するな」と小言を言われる。

 授業の内容を記録するのも優奈の仕事なのだが、それも毎回言われた

 ことを直しても、なんだかんだ言ってケチを付けられる。指示が正反対の

 こともしばしばで、何を信じて良いのか分からない。

 

 それでいて山瀬や他の院生の前では、優奈と仲の良い振りをする。

 その一方で、陰で優奈への不満を誇張して言いふらしているらしくて、

 一方的に悪く思われている。優奈自身入学してまだ間が無いので、今までの

 信頼の貯蓄で矛先を逸らすことができない。

 

 佐々木が何を意図しているのか全く分からなくて、優奈は佐々木にひたすら

 恐怖を感じていた。



13


  佐々木が優奈に対して理不尽なまでに厳しく当たってくる。

  いろいろ理由を付けてくるが、一貫性がなく優奈に八つ当たりをして

  鬱憤を晴らすことが目的としか思えない。


  社会に出たらそういうこともあるだろうと我慢していたが、

  ゼミ学生まで便乗してくるようになり、優奈の気は重くなるばかり

  だった。


  佐々木は事あるごとに優奈を引き合いに出しては嘲笑したり、義務では

  ない労働を押しつけたりしている。かわいらしい声音で、明るめのトーンで

  言っているので、それほど深刻な雰囲気にはならないが、

  本人的にはかなり堪える。

  その落ち込んでいる姿を見て、また「これくらいのことで落ち込む

  なんて」と追い打ちをかけてくる。

  見かねた一部の良心的な学部学生がやると申し出ても、

  これも仕事内容の一部だと言い張って、やらせる。

 

 「いくら入学したばかりと言っても、こんな簡単な質問にも答えられない

  ようだとゼミの運営に支障を来すんだけれど。さすが学部の入学試験では

  入れなかっただけあるわね」


  授業終了後、学部生が帰って行ったのを見計らって、佐々木はいつもの

  ように決定的に底意地の悪いことは学部生に聞こえないように、

  細心の注意を払って優奈にだけ聞こえるように言う。

  アカハラに厳しくなってきた昨今、やり過ぎると第三者に証拠として

  言われてしまうことを理解しての行動だ。


 「ちゃんと授業内容に関する質問には答えています。勉強不足は

  謝りますが、答えられないのは授業と関係の無い質問ばかり

  じゃないですか。学部生の前で馬鹿にするのは止めてください。

  それこそ授業の雰囲気が悪くなりますから」

 
  この言葉が佐々木の
気に触った。
  いつもなら黙って何も言い返せないのに。生意気だ。
  優奈も一度ははっきり言うべきことだと思っていたので、思い切って
  言ってはみたものの、その後の佐々木の反応に戦々恐々とした。


 「そんなに文句があるなら、バイト辞めれば?」


  辞められるものならとっくに辞めている。

  そもそも佐々木自らが、優奈を任命したのではないか。

  一旦は気に入ったが、宛てが外れたと落胆させたのだろうか。

  優奈には、佐々木の考えていることがさっぱり理解できない。

  それに一旦手続きをしてしまった以上、契約終了の一学期間は

  辞められない。

    

 「規約で辞められないんです。能力不足というのなら、事前に勉強する

  べき内容を教えてください。」


  常よりも口数が多いのも腹がたった。

  持っていたペンを、思い切り優奈に向かって投げつける。


 「質問を予測して勉強するのもゼミの勉強の一つなの。あえて勉強させて

  あげているのに。そんなことも分からないの? ありがたく思って

  欲しいくらいのに、恩を仇で返された気分だわ」


 「毎日指示が違うのも戸惑います。統一してくれないと、理解できません」


 「毎回あなたが違うミスを犯すからでしょ! 特別に教えてあげて

  いるのに。でも、まあこの調子じゃあ、給料分の能力があるとは

  言えないわね。事務にいって今までのあなたの失態を知ってもらう。

  もちろん今の生意気な会話も含めてね。時間が出来そうだし、休学

  して留年したほうがいいんじゃない?」


 「脅す気ですか? お金はともかく能力不足でバイトをクビとなったら

  私の将来にどれほどマイナスになるのか分かって言っているのですか?」


 「クビになりたくなければ文句を言わずに、私の指示に従うのね」


 ここまできて優奈の目が潤み始めた。周囲には人影はいないが、

 廊下の窓の外に同じ研究科の教授が通るのが見える。まずいと判断した

 佐々木はすぐにその場から離れた。

 


14


 「本当に女って怖いな。ああいう二面性のある奴が、一番性質が悪い」


  常川は階段の手すりにもたれかかり、下の階で涙目の優奈に向かって

  話しかけた。まさか常川がいるとは思ってもいなかったので、乱暴な

  仕草で涙をふく。


 「お前の様子がおかしいんで、来てみたんだ」


  恥ずかしいところを見られて気まずいような、心配してくれて

  嬉しいような。とにかく優奈は、常川の顔をまともに見られなかった。

    最近は会ってもあまり話していない。

  疑心暗鬼の優奈が、一方的に距離を取っていた。

  それなのに。

  話すとしゃくり上げそうで黙っていると、常川は了解したのか一人で

  話し始めた。


 「研究室の皆も、お前には同情している。でもなあ、悲しいかな

  院生は将来を握られているから、表立って反抗するのは難しいんだ」


  全院生に平等に迷惑をかけているのであれば、堂々と告発できる。

  だが一人だけ集中攻撃されている場合には、自分がリスクを背負ってまで

  味方になる奴はいないと。


 「ま、俺には関係ないことだ。とことんお前の味方するから覚悟しろ」


  そいうと常川は先程から手に持っていた小さな機械のボタンを押す。

  すると先程までの優奈と佐々木の会話が再生された。

  

  「おっし、ちゃんと録れているな。これハラスメント相談室に

   もっていこうぜ。これで一発アウトだ」


   常川は抜かりなくICレコーダーに録音していたのだ。

   金に飽かせて無駄に高性能なのが、幸いと言うか不幸というか。

   優奈は自分の問題であるにも関わらず、面倒なことになったと

   心配になる。


   学部生と違って、院生はハラスメントが解決したから「はい終わり」

    では済まされない。専攻を変えない限り、ずっと人間関係は続いていく。

    社会人学生の常川にはその辺りの機微が分からないのだろうか。


  「ちょ、常川さん? そんな簡単に……。すごい騒ぎになりますよ。

   最近小田切先生が妙な亡くなり方をしたばかりなのに」


  「そうだな。昔は所属学科で一旦審議してから、全学審議会で再審査

   していたから、もみ消せたけれど今はもう無理だからな。いきなり

   全学審議会へ持っていける。相当な騒ぎになるだろうな。自業自得だ」


  どこか嬉しそうに常川は、レコーダを振り回した。

  優奈はこれから起こるであろう騒ぎを予感して、めまいがした。

  


15


 張り切ってハラスメント相談室へ向かう常川を何とか押しとどめて、

 優奈は考える時間をくれと常川に言った。

 まだ決めていないが、常川と違って優奈は学問の世界で

 生きていくかもしれない。変な恨みはかいたくなかった。


  渋々矛を収めた常川に感謝しつつも、新たな問題にまたもや

 優奈は頭を悩ませる。

 だが気持ちとは関係なく、COEの仕事は待ってはくれない。

 無気力ながら実験を続ける優奈に、珍しく常川が積極的に

 手伝ってくれるのは素直にありがたい。

 おかげで夕方には途中経過報告書の作成が済んだので、

 優奈はそれを持って研究班の中枢である情報処理学科に

 向かった。

 いつもなら嬉しい任務だが、今はこんな憔悴した顔を

 焔に見られたくない。


 (さっと行って、すぐに帰ろう)


 本部になっている研究室をノックすると、焔が顔を出す。

 すぐに受け取り、中身を確認するから座って待っていて欲しいと

 椅子を勧める。


 相変わらず静かな研究室だ。

 皆必要最小限の会話のみで、後はパソコンをカタカタと操作

 する音だけが響いている。


 「大丈夫、OKです。お疲れさまでした」


 にこりと笑うと白い歯がちらりと見える。

 昼間の佐々木との態度の違いに、感極まりそうになる。

 

 「失礼します」


 あからさまに変なタイミングで、研究室を後にする。

 あのままいたら、言わなくてもいいことを話してしまいそうだ。

 

 (でも焔さんなら。別の研究室だし実害はないかも……)


 一瞬思ったが、規模は大きいが同じCOEの一員であることに

 変わりはない。未だに佐々木はCOEに深く関わっている。

 念には念を。とりあえずトイレの個室に入って、

 気持ちが落ち着くのを待った。


 あらかた気持ちが落ち着いたところで、トイレを後にする。

 すると誰もいないと思っていた場所に、焔が立っていた。

 トイレの個室から出てきたばかりの優奈の目は真っ赤で、

 泣いていたことがばればれだ。恥ずかしくて顔を逸らす。


院生にもなって、泣いているところを他人に見られるのは居心地が

悪かった。挨拶もそこそこにその場を去ろうとする。

 

 「何かあったの? とりあえずこっちの休憩室で話そうか」


 焔は共同休憩室に招き、いつものように紅茶を入れる。

 もう夕方も遅い時間であるせいか、誰もいない。


 「はい。何があったか知らないけれど、とりあえずこれを飲んで

  落ち着いて」


 紅茶と一緒に、どこからか茶菓子も出した。

 この前優奈がおいしいと喜んだものだ。

 

 (私の言葉、ちゃんと覚えていてくれたんだな……)


 さりげない心遣いに感心する。

 それでも自分の胸の内を明かすのは怖かった。

 どこでどんな人間関係が繋がっているのか分からない。

 

 「田中さんも、まだ新入生でいろいろ気疲れすることも

  あるんだろうね。そっちで疲れたらいつでもおいで」


 そう言って焔は、クリープを入れたコーヒーをかき回す。

 

 「あ、あの……」


 思い切って言ってみよう。

 そう思ったが、言いかけて優奈は途中でやっぱり思いなおした。

 言ったところで愚痴を話すだけになる。

 他学部である焔にはいかんともできない問題なのだから。

 

 「うん?」


 せっかく聞く気モードになっている焔には悪いが、

 愚痴を聞かせて嫌な思いをさせるだけならと、優奈は言いなおす。


 「……何でもな……」


 「助手の佐々木芽生に、学部ゼミでぼろ糞に嫌がらせを受けています」


 突然後ろから、核心をつく言葉が聞こえて、心臓が跳ね上がる。

 聞き覚えのある声にまさかと思って振り向くと、やはり常川がいた。


 「なんだよ。まどろっこしい。がんがんぶちまけて、あいつを居づらく

  させてやればいいんだよ。向こうだってそうしているんだから、

  お互い様だろ」


 勝手に会話に参加すると、常川は優奈の隣に腰を下ろした。

 焔にコーヒーを持ってくるよう催促する。

 嫌な顔をせずに、素直にコーヒーを用意する焔を見ながら、優奈は

 小声で常川は諫めた。


 「どういうつもりですか?私が悪口を広めているって本人に伝わったら

  どうするんですか!」


 「本当のことだからいいだろ。これは闘いなんだ。戦いの基本は情報戦。

  あいつお前の事自分の都合のいいように、言ってるんだぜ。お前の側

  からも真実を発信すべきだ」


 普通のトーンで返事が返って来る。


 (せめて小声で話して下さいよ……) 


 この人に気付かれたのは、間違いだったと優奈は頭を抱える。

 焔にコーヒーをもらった常川は、それを飲むことでようやく口を

 閉じた。だが焔にすっかり事情を知られてしまい、優奈はいたたまれない。


 「それは聞き捨てなりませんね。佐々木先生と言えば、そちらの学部の

  学生アドバイザーを担当しているはず。本来学生を守るべき人間が、

  そういうことをしているというのは見過ごせません」 


 「そうだったんですか……」


 優奈はまったく知らなかった。

 そういう情報は、実際に自分に問題が起きなければ気にしない情報だ。

 しかしそれが本当だとすると、自分の立場は絶望的なのではないか。

 ますます優奈は落ち込んだ。


 「全くどの面下げてやってるんだって話だ。自分の学部の学生が

  相談に来たら、握りつぶすつもりかよ。まっ、でも今はいきなり

  全学審議会持っていけるんだろ?」

  

 「それが……内部規定にただし書きがあって、全学に持って行くには

  複数の学部にまたがった嫌がらせでないと全学審議会にいきなりもって

  いくことができないんです。ですから同一学科内のハラスメント事案は

  旧態依然と言っていいでしょう。システムは全く変わっていません」


  だから優奈が事例を全学審議会に持って行っても、学部のハラスメント

  相談に差し戻されるのだと、焔が申し訳なさそうに説明した。


  優奈は段々と絶望的な気持ちになる。

  小田切に嫌がらせをしていた犯人の言ったことが本当だとしたら、

  怨む気持ちが良く分かった。


 「で、田中さんはどうしたいんですか?」


  焔が優しく質問する。


 「勝ち目がないなら、我慢します……」


 「そうではなくて、佐々木先生に罰を与えたいのか。それとも

  田中さんへの態度を改めさせるだけでいいのか?」


 「え……?」


 (でも、それだと審議会に話が通ることが前提になるのでは?)


 「両方!」


  常川が元気よく、代わりに答えた。


 「やられっぱなしは、つまらないですよね?」


  いたずらっぽく、焔も笑う。

  

 「でも、どうやって……?」


  絶望的な説明をしたのは焔なのに。

  

 「できますよ。しかるべき手を使えば。ただ田中さんと常川さんの

  協力が必要ですが」


  焔は優奈に、常にICレコーダーを携帯して佐々木の言動を録音

  することを勧めた。常川は研究室内で、佐々木が他の院生と優奈に関して

  話したことを逐一メモする。できれば録音することを約束させる。

  

 「おっしゃ、とことんやってやろうぜ」


 「でも、勝ち目はあるんでしょうか……」


  ここまでやって負けたら、それこそ退学することになるかもしれない。

  

 「大丈夫ですよ。僕も学生アドバイザーですから」


  そう言って、焔はまた笑った。

 


16

 

 CD-ROMが送られてきて以来、矢越の態度が急変した

 会える時間が圧倒的に少なくなった。

 電話やメールへの返信率も格段に下がった。

 

 あのCD-ROMの内容が原因だということは推測できる。

 誤解だと毎日のように「説明」を並び立てるが、

 矢越は全く信じてくれない。


 あの会話は全部小田切や芽生の研究室内で話したことだ。

 あんな個人的な会話がなぜ流出するのか。 

 誰が芽生を陥れようとしているのか。

 小田切にあの音声を取らせた人間に違いない。

 

 ここへ来て真剣に、芽生は犯人を特定しようと考える。

 小田切の考えでは、私怨を持った元業者と年前の事件の関係者が

 手を組んでいると推理していた。

 業者があの事件に拘る理由がない。


 小田切を告発した元業者が告発者として大学に来ていたのを

 幸運にも尾行することが出来て、

 何とか再就職先を突き止めることが出来た。

 

 それ以来もみ消してもらう為に毎日のように店に通うが、
 全く要求を聞いて
くれる気配はない。
 芽生はただ金を落とすだけの、店側にとってのカモ
に成り下がっている。
 5年前の事件についても、彼は殆ど知らないようだ。

 それともあれは演技とでも言うのか。


 不安を増幅するかのように、自宅にまで異変が生じていた。

 最初は電話。音声を機械で変えた、暗い男の声で一言


 「人を一人殺しておいて、自分だけ幸せになれると思っているのか? 

   絶対にさせない。復讐してやる……」


 急いで途中で切った。

 どこか聞き覚えのある声。

 冥土からの伝言のように、冷え切った声。

 

 「誰なの?いい加減にしなさいよおおお!」


 布団を頭から被り絶叫すると、隣の部屋からドンと壁を叩かれた。

 

 家だけでなく、大学にも容赦なくその魔の手は伸びている。   

 芽生の助手就任以降も、大学の学生側の研究室に怪文書が

 不定期に送られてくる。

 

 表面には『山瀬研究室様』と宛名書きされ、中を開けると芽生の宛名

 付きの封筒が更に入っている。直接芽生宛てではないので、学生も

 その度に律儀にその封筒を渡す。その横に、芽生が5年前にしたアカハラ

 の内容をかいつまんで記述してある。

 

 学生はただ黙って封筒を渡し、中も見ていないと言い張っているが、

 見ている可能性の方が高いというのが本当だろう。

 

 大きめの封筒に入っている、要求と脅迫内容だけの芽生宛ての

 小さな封筒。毎回精神的にプレッシャーを与えるためか、

 5年前のアカハラの内容を纏めたものも、芽生宛ての封筒とは

 別に入っていた。

 

 封筒の中身は常に変わらない。

 5年前のあの事件への関与を自ら明らかにして、謝罪せよという要求。

 さもなければ不正経理の更なる証拠を、提出すると脅すのも

 忘れない。


(遺族なの……?)


 怪文書を持ってくるのはいつも同じ学生-田中優奈なので、

 他の学生までもが知っているのかは分からない。

 もし知っているのなら、

 いつ誰が当時の事件を訴求しようと乗り出すのか分かったものではない。 

 不安で苛々が募り、学部のゼミでは自分でもわかる程の八つ当たりを

 してしまう。


 あの怪文書を持ってくるのが、優奈。

 顔を見ると怪文書を連想させてしまう程に。

 だからその学生を否定することで、なんとなく怪文書自体を否定

 できた気になってくる。

 他にも理由はあるが、根本的な解決になる訳が無い事実は変わらない。


 そして今日も矢越はそっけない。

 無視はしない。

 返信率は少ないが、必ず返事はくれる。

 それでもあのCD-ROMについて尋ねられて以来、

 決定的に矢越は変わってしまった。 

  会えない時間は、疑いとあらぬ想像ばかりが膨らむ。


 耐えきれなくて、芽生は他の人間に縋ることにした。

 とても独りでは抱えきれない。

  

 (あの人なら、自分の気持ちを分かってくれるはず。私を不安にさせた

  澄真が悪いだから)


 芽生が携帯を取り出して、呼び出したのは「山瀬」の名前だった。

  


17

 

 久しぶりに、芽生は山瀬と眠った。

 矢越と付き合い始めてからも、その関係はずっと途切れることはなかった。

 芽生の中では、全く別の関係性なので罪悪感もない。

 それでも山瀬が芽生が婚約をしたのを機に、体裁を気にしてその

 関係はあくまで師弟関係だけになった。

 芽生の側も身辺調査などをされて、破談にでもなったらとこの時期に

 付き合いを減らすのには同意した。

 

 矢越の態度が冷えつつある今。

 誰でも良いから頼りたい。

 そう思うのは自然なはず。そう思っての誘いを、

 ちゃんと山瀬は乗ってくれた。

 

 (やはりこの人は私のことをわかってくれる)

 

 今まで小田切と二人だけの秘密にしていた、謎の脅迫者に関しても

 横たわって指を絡めたまま打ち明けた。

 

 その直後、山瀬は跳ね起きて、真剣な顔で問いただした。


 「どうして、今まで何も言わなかったんだ?」


 「だって連絡を取ったら、先生まで狙われちゃうかもしれないでしょ?」


 これは確かに理由のひとつだが、もう一つのほうが大きい。

  5年前に決着をつけた筈のアカハラ問題が再燃し、その加害者

 として自分と小田切だけが槍玉に挙げられている。

 そんな状態で山瀬に話せば、二人とも切り捨てられる。

 

 だから内々に処理して、全部終わってから報告して、反対に評価を

 上げようと小田切と画策していたのだ。

 そんな緊張感をおくびにも出さずに、さも当然のように芽生は言う。


「……そんなに私を信用していなかったのか?」


「そうじゃない。巻き込みたくなかっただけ」


「じゃあもう解決したことなんだな」


「それは……まだ。小田切君も亡くなっちゃったし。私怖くて」


「怖くて私に頼ることにしたのか。さっきの私を巻き込み

 たくないというのは嘘か」


「だって女一人で、そんな良く分からない奴に脅されているのよ。

 誰かに頼りたくもなるでしょ?」


「婚約者はどうした?」


「迷惑をかけたくないの」


 プライドが邪魔して芽生はどうしても、関係が冷え切ってきたとは

 口に出せない。


「私には迷惑をかけて良いのか?」


 そのまま起き上がろうとする山瀬。

 失言に気付いた芽生は、慌てて山瀬の腕を取る。


「ごめんなさい。本当は変な音源が矢越さんのところに、送られて

 怪しまれているの。関係も冷えてきて、結婚も危ういの」


 言っているうちに泣けてくる。

 それを冷ややかに見つめると、山瀬は冷たい目で言った。


「私との仲ももう十分すぎるほど、冷え切っている。もう分かっている

 だろう? 今日で終わりにしよう」


 そう。気づいていないふりをしていたけれど、婚約が機で距離を置く

 というのは言い訳。

 本当はかなり前から、二人の関係はぎこちなくなってきていた。

 これを機に戻せるんじゃないか。

 そんな風に心のどこかで計算していた。


「私を切るの?」


「じゃあな」


 いつの間にか服を着替えた山瀬は、振り向くことなく出て行った。

 別れの挨拶は、肯定を意味することが、痛いほど芽生には分かった。



18


 山瀬が締めたドアに枕を投げつける芽生。

 ルルルル。

 急に鳴りだしたので、携帯電話を投げつけるのを諦める。

 出てみると、またもや恨み言と、罪の告白の要求。

 

 「いい加減にしてよ!」


 今度こそ携帯電話を布団に投げつける。 

 だが落ち込んだところで、事態は変わらない。


(味方を一刻も早く確保しなければ。5年前の例の件に関わった

 人間で、連絡を取れるもの。小田切君は死に、山瀬先生には

 見捨てられた。……あとは朋谷君。同じCOEだけれど、他大学で

 講師をしているあの人なら味方になってくれるかも)


 夜遅いから早速PCメールで連絡を取ってみる。

 朋谷も既に脅迫を受けているのかもしれない。

 他にも脅迫を受けている人間がいることを知らないから、

 黙っているだけなのかも。

 そう希望的観測を持つと、少しだけ芽生は希望が湧いてきた。

 その晩は朋谷からの返事が待ち通しかった。


 「数ヶ月前から私と小田切君は、正体不明の人物に5年前の

  事件を盾に、脅されています。今更そんなことを話したところで

  意味がないので、小田切君と二人で対処していました。ですが

  ご存じのように、その最中小田切君が亡くなりました。その内

  あなたのところにも脅迫が来るかもしれません。一緒に力を

  合わせて対決しませんか? 良いお返事を待っています」

  

 一方芽生から連絡をもらった朋谷は、心底うんざりとした顔をした。

 5年前も周りがするからやむを得ず、土岐等あかりへの嫌がらせに

 加担していたが、楽しくてしたのではない。そもそもあんな女なんて

 どうだって良かったのだ。


 あれは朋谷自身にも類が及ぶのではと考えての行動だった。

 もともとは山瀬がしていたことを、腰巾着の佐々木が率先して真似を

 していたことが発端だ。佐々木といることで山瀬の評価を得ようと

 していた小田切も、地味に嫌がらせに加担していた。

 自殺した芹沢はどちらかというとこの二人にけし掛けられて仕方なく、

 嫌がらせには加担していた。

 回数的には佐々木と小田切のほうが遥かに凌いでいる。

 どうやって事実を知ったのかは知らないが、遺族に恨まれるのも

 分からないでもない。


 だが自分は違う、と朋谷は断言できる。

 数も行いも段違いに少ないはずだ。

 同類扱いしないで欲しい。

 面倒事は御免だった。


 「久しぶりの手紙ありがとうございます。私のところには今のところ

  脅迫などありません。5年前の事件が何のことかは分かりませんが、

  私よりも詳しい方とご相談することをお勧めします」


 (これで当たり障りがない文章になっただろうか?)


 これでこのメールが何らかの証拠となっても、自分は問い詰められる

 ことはないはずだ。厄介払いのつもりで、こう返信すると、朋谷は

 芽生のメールをゴミ箱に移動させた。


 これで終わった‐そのはずだった。


 だが他に縋る人間がいないのか、芽生は必死だった。

 メールに電話攻勢。

 果てはCOEの行事を餌に、何とか接触を持とうとする。


 (どうしてこういう連中は、自分の尻拭いも出来ないのか?)


 今現在も朋谷は、上司にあたる教授からアカハラのもみ消しの

 協力を頼まれている。

 その教授が学生の修士論文の内容を盗用しようとした挙句、

 盗用疑惑を払拭する為に、修士論文の論題を変更しなければ

 学位を与えないことを仄めかして、大学当局に訴えられたのだ。

 完全に自業自得なのだが、その学生との仲立ちを頼まれている。


 朋谷は正義感が強い方ではないが、自分の尻拭いを人にさせる

 奴らには常々怒りを感じていた。

 とばっちりで怨まれたのでは割に合わない。


 (いっそはっきり断れる理由があればいいのに)


 朋谷は今日幾度目か知れないため息を深くついた。 



19

  

 「教授室にいます」

 

  久しぶりの山瀬からのメールを受け取った芽生は、喜び勇んで

  山瀬の研究室へ向かった。ノックして、慣れた手つきで扉を開けると、

  優奈がいた。山瀬と仲良くお菓子を分け合っている。

 

 「あの、私にメールを……?」

 

 「そんなの出してないが。勘違いじゃないか?」

 

  そのやりとりを聞いていた優奈が確かに、嗤った気がした。

  芽生の頭にかあっと血が上る。

 

  「失礼しました」と出て行ってからも、怒りは収まらない。

  あんな小娘に馬鹿にされた。

  普段の佐々木の行動に対する仕返しのつもりなのか。

  何か意趣返しをしなくては、済まなかった。

 

  翌日学部の授業で、芽生の優奈に対する態度はいつもの3倍近く

  厳しいものだった。すっかり神経がすり減った様子の優奈が、

  おずおずと通勤簿を出す。

  

  そこに印鑑を押してもらい事務に提出して初めて、給料がもらえる。

  手伝っているのは佐々木であっても、雇っているのは大学なのだ。

  雇用に関する手続きは全て事務を通して行われる。

  だが芽生は印鑑を出すのを拒否した。

 

  「あなた昨日私にあれだけのことをしておいて、よくも平然と

   要求出来るものね。大した腹黒さだわ」

 

  「何のことですか?心当たりがありません……。でもお気を

   悪くしたのなら謝ります」

 

  そんな殊勝ぶった態度も腹が立った。

  恥をかかせてその上、人格まで否定するつもりか。

 

  山瀬にも、今度という今度は修羅場を見せてやるのも

  いいかも知れない。芽生が結婚するからヤキモチを焼いているのだ。

  確かに矢越のことは好きだが、山瀬はまた別。

  これはどうしようもない。これからも関係を続けることだって

  構わないのに。

 

  「良い子ぶって、私に見せつけたいんでしょ? いいわ

   そっちがその気なら、私も印鑑を絶対に押さない。事務には

   あなたの仕事能力が最低だからと言っておくわ」

 

  「そんな……」

 

  ヒートアップしていると、「ちょっといいかな?」とノックの音と同時に、

山瀬の声がした。教員棟は部屋が隣り合っているので、ちょっとした用事

ならメールでやり取りせずに、直接交渉する。

 

 「授業で学部生と上手くいかなくて、落ち込んでいるみたいなんです。

  それでその相談を聞いていたんです」

 

  勝手にドアを開けてはいってきた山瀬に、佐々木は取り繕う。

山瀬は素直に信じたようだ。

優奈が手にしている書類を見て、山瀬は自分も優奈に給料を払う

為には印鑑が居ることを思い出した。


「後から私も印鑑を押すから、相談が終わったら来てくれるかい?

 印鑑を用意しておくよ。あまり思いつめないようにね」


言い置くと、帰って行った。

 

  その言葉が優奈を擁護しているように感じて、反射的に芽生は

優奈の頬をひっぱたいた。

 

 「色目を使ったのね」

 

 「……何のことですか?」


 叩かれた頬を抑えながら、涙目で優奈は何とか冷静に努めた。

 

 「白々しい! 妙な脅迫状を送っているのも、本当はあんたなんでしょ?


「違います!……どうして私がそんなことを」


佐々木が激怒するスイッチを教えてしまったことを自覚した優奈は、

これ以上いても印鑑がもらえないと悟り、一旦退出することにした。

 「出直します」と優奈が帰ろうとする。

 

 「このまま山瀬先生のところに、行くの?」

 

 「はい。先生に声をかけて頂きましたから」

 

  頬は痛むが、釣られて気分を高揚させては駄目だとあくまで冷静に

  優奈は答える。

  すると不機嫌そのものの表情で、芽生は言い捨てる。

 

 「余計なことは言わないでよ。仕事の能力がましになったら、印鑑だって

  なんだって押してやるんだから。頭を冷やして反省しなさい」

 

 山瀬に密告されると警戒したのだろう。

 言い訳がましく、釘を刺す。

 

 「……失礼します」

 

 優奈は一言だけ挨拶を残し、この最悪な会見を終わらせた。



20

 

 午前十時、学生相談審議会定例会議が始まった。

 一月に一度のこの会議では、全学審議会で上げられたハラスメント

 相談と各学部の審議会で上げられた問題で、全学審議会で取り上げる

 べきと判断された問題を話し合う。


 実際には各学部ごとに独自の慣行があったりして、各学部から全学部へ

 問題を上げることはほとんどない。

 全学審議会で取り上げるような学部をまたいだハラスメントなど

 めったに起こる訳もなく、事実上体制作りの見直しなど抽象的な

 議論でお茶を濁すことが多い。


 審議委員は教授職から、その窓口となる学生アドバイザーは各学科の

 教員もしくは大学院生から選抜される。全学審議会直属の学生

 アドバイザーだけ、心理学の教員のみと限定されている。

 

 相談したい学生は、まずは学生アドバイザーに相談することになる。

 その際に教員のアドバイザーに相談するのか、院生のアドバイザーに

 相談するのかは自分で決めることができる。アドバイザーには平等に

 権利があるので、アドバイザーが審議すべきと判断した事案のみを

 証拠と共に審議会に委託するというシステムだ。


 アドバイザーの任命は各学科に一任され、その訓練は全学審議会が

 定期的に外部の講師を招いて一斉に実施している。これも受ける、

 受けないはアドバイザーの意思に任されている。

 学科の自治を重んじた結果のシステムと言えるが、それゆえに機能にも

 差が大きい。


 型通りの事案報告が求められると、一際明朗な声で「はい」と挙手する

 者がいた。


 「情報処理学科の学生アドバイザーの焔と申します。今日は特殊な事案で

  あるが故に、全学審議会にかけるべきであると考えられる事案を提示します」


 優奈と常川は会議室の外側のソファで、自分の出番を待っていた。

 焔が説明する声が、ときおりこちらまで聞こえてくる。

 呼ばれるまで待てと言われたので、緊張して優奈は落ち着かない。

 これで認められなければ、佐々木にどんなことをされるのか。

 一方常川は朝食を食べ忘れたと、固形の栄養食をぼりぼりかじっていた。

 

 ガタン。


 会議室の扉が開く。

 焔が顔を出すと、手招きをする。


 (来た……!)


 緊張して手に持ったUSBメモリを落としてしまう。

 常川がさっと拾って、優奈の掌に押し付ける。


 「落ち着け。お前がしくじっても俺が説明するから大丈夫だ」


 口の端についた食べカスが何とも頼りないが、優奈は

 首を縦に振って頷くと、常川と共に会議室に向かった。


 会議室には教授陣が揃っていて、威圧感がある。

 萎縮しながらも、焔が質問することに答えるだけで良かったので

 思ったよりも楽に説明が出来た。

 第三者の意見として常川の証言と、集めた証拠が功を奏した。

 常川は自分だけの証言では弱いと、学部生の証言も録音していた。

 それに普段佐々木が研究室で先輩たちに、優奈の悪口を言っている

 内容も記録し、それが一度や二度ではなく反復して執拗にされている

 証拠も突き付けた。


 同時に優奈の勤務態度についての学部生や他の第三者の評価も提示

 することで、佐々木の評価が誤っていることも証明する。


 「この田中優奈さんの事例は、加害者が学生アドバイザーという地位を

  持っていることから、学部内でもみ消される可能性が恐れが高い。

  よって、全学審議会にかけるべきであることを提案します。賛成の

  方は挙手をお願いします」


 焔の言葉に、審議委員たちがどう反応するのか。

 優奈は怖くて目を瞑る。

 

 ぽんと常川に背を叩かれ、目を開ける。

 すると優奈の学科の教授以外、全員手を上げていた。


 その教授は最後まで公正に自分の学部で審議すると粘ったが、

 多数決により、全学審議にかけられることになった。


 「そしてもう一つ。皆様に提案します。ハラスメントの隠蔽に協力

  した者にも、処分を下すという規定を設けることです」


 焔は今回のように、学生アドバイザーなど審議と関わる者たちが

 ハラスメント加害者と昵懇だった場合について考えを巡らせた上で、

 考えついた提案だと説明した。

 これにはさすがに審議委員全員が、動揺する。

 

 「賛同できないという皆さまには、是非理由をお聞かせ願いたい」


 強気の焔に、優奈の方がハラハラしてしまう。

 常川は面白そうに、にやにや笑いながら、ちゃっかりこの様子を

 録音している。

 議長は周囲の様子を察して、投票に持ち込もうと提案する。

 直接は反対しにくい案であることを考慮してのことだ。


 「私はこれに賛同します」


 焔の隣に座っている教授が、さっと立つと大きく賛成と書いた

 紙を見せ、それを折りたたむと投票箱に投じた。

 他の教授陣も中身は見せないまでも、投票用紙に記入して

 入れて行く。


 「多数決で可決となりました。今後の審議会で詳しい規定は詰めて

  行きたいと思います」

 

 その時、焔が最初に賛成票を投じてくれた教授と顔を見合わせて

 笑った顔は、優奈が今まで見た中で最上の笑顔だった。