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神隠し

1


 その日小田切が帰宅すると、応接間ではしゃいでアニメのビデオを

 見ている望の傍で、全く内容が目に入っていないかのように放心

 している加奈が座っていた。リビングを照らす明るい光とは対照的に、

 加奈の座るテーブルには、豆電球しか付いていない。


 「何をしているんだ。電気も付けずに」


 「これ……何?」


  応接間の机の上に置かれた封筒は、今朝大学に送られてきたものと全く

 同じだ。まさかと中を検めると、やはり同じものが入っていた。

 差出人不明の封筒は、あれから不定期に郵送されてきており、

 なぜか学生の研究室宛てに封筒が届くので、同封されている文書が

 学生に見られているのではないかと、毎回冷や汗をかく。

 文書の内容は送って来る度に、内容がより細かく、小田切の罪を

 暴いていく。今加奈が手にしているのは、最新の文書と全く同じ

 内容。その内容は5年前の小田切の罪を詳述してあった。

 

 「こんなもの嫌がらせだ。気にするなと言っただろ」


 声を荒げる父親に、娘の望が怯え出した。


 「どうしたの? 喧嘩はだめええ」


 「ああ、ごめん、ごめん。パパが悪かったね。ごめんね」

 

 最近はすっかり娘に甘くなった小田切は、すぐに態度を変えた。

 だが今日は加奈の、勘に触るだけだった。


 「これは本当なのかどうかだけでも、答えて頂戴」


 内容は土岐等あかりに対するアカデミック・ハラスメントについて。

 その後の大学側との交渉の経緯と、その結果一人の院生が罪を

 全て被ったことが淡々と事務的に書かれていた。

 どこかの機関へ提出する為に、経緯を纏めたもののようだ。

 極力主観は排してあるが、その分静かな怒りが感じられる。


 これが塾で問い合わせが合った内容かと、加奈は隅から隅まで

 読んだ。読み進めるにつれて、保護者の気持ちが共感できる。

 この内容が広まっていたのだとしたら、加奈を恐れる気持ちが分かった。

  

 「違う。前にも言っただろうこいつはひどい暴力事件を起こ

  して退学したのを、逆恨みして自殺しただけだ。私たちはただ

  こいつの行動を諫めただけだ」


 「それじゃあ、どうしてこの人はあなたたちの名前を書いているの? 

  やったことだって細かく書いてあるわ。あなたが女子学生にした

  ことは、無視、暴言、実験結果の横どり、集団での吊るし上げと

  書いてあるけれど。まさか本当のことなの? この女子学生は

  どうなったの? この人まで亡くなったんじゃないでしょうね?」


  「落ち着いてくれよ。たちの悪いいたずらだと言っているだろう。

    嫌がらせの為にはいくらだってエネルギーをつぎ込む暇人だって

    いるんだ。ほら、望だって心配しているじゃないか……」


  こんなときにまで、娘をダシに使うところも卑劣だと

 加奈の怒りは増すばかりだ。


  「まま、喧嘩だめ」


  裾を引っ張る望。愛らしさと不憫さで泣けてくる。

   だが今は落ち込んでいる場合ではない。


  「望、今大切な話をしているの。ちょっと待ってね」


  望の為に、新しいアニメをつけると、それを見るように言った。


  「ごまかさないで。……この女の人はどうなったの?」

 

  「知らない。入院している場所へ一度見舞いに行っただけだ」

 

  「入院……。入院させるようなことをしたの?」

 

  「その人はもともと体が弱かったんだ。だから私たちのせいではない」

 

  「それじゃあ、体の弱い人に嫌がらせをしていたの?」

 

   絶句する。

  

  「そもそも嫌がらせなどしていない。見舞いに行ったのがその証拠だ」

 

 「そんなの何の証拠にもならない! 今すぐこの人たちに謝りに行き

    ましょう。死んだ人は無理でも御遺族の人たちの前へ引きずってでも

    あなたを連れて行く。土下座して謝罪してもらうわ」


  「僕は悪いことなど何もしていない。こんないたずらを真に受けて行く

   必要などない。家族よりもこんな怪文書の方をお前は信じるのか。

   それにどうして僕がこんな逆恨みを受けていると思うんだ。お前たちを

   食わせていかなければならないから、嫌なことでも我慢して引き受けてきた

   からじゃないか。僕の苦労がお前に分かるか」


  「……あなたそれ本気で言っているの? 私たちがいたから人を殺す

    ようなことを平気でやったって。……もう無理。あなたはそうやって

    一生自分の罪から目をそむければいい。でも私たちまで巻き込まないで」


   加奈は望を連れて、家を小田切家を出ることを今度こそ決意した。

 

2


 加奈はともかく、望には愛情があった小田切は、親権だけは頑として

  譲ろうとはしなかった。幼子の場合、余程の過失がない限り、子どもは

  母親が親権を持つことになる。小田切は加奈が虐待をしている可能性が

  あると言い張り、無理やりにでも連れて行こうとした。


 「お前は虐待している可能性があるからな。望の将来の為にも、

    俺は絶対に親権をもらう」


 「濡れ衣も大概にして。あなたみたいな卑怯で陰険な人の下に、

    望を預けることなんてできない。殺されてしまう」


 いつもは脅したり賺したりして、なんとか加奈を丸めこむ小田切だが、

 ここまで不満と疑惑が入り混じった加奈を、誤魔化すことはできない。

 結局「親権は絶対に譲れない」と言い残して、その日は家を後にした。

 実家にでも寄るのだろう。


 息子に甘い義両親からの干渉が、予測されたが、それもどうでも

  良いことだ。

 訳が分からずぽかんとしている望を抱きしめて、

  加奈は心が軽くなったのを感じた。


 (小田切から離れれば、普通の生活に戻れる)


 それこそが加奈の願いだった。


 別居して一週間。小田切がいないだけで、平凡な毎日が続いていた。

 いたずら電話も治まった。

 塾への告げ口電話もない。

 保育園にもあれ以降、異変は起こっていないようだ。

 それでも警戒して、望を保育園に行かせていない。


 小田切の言い分を鵜呑みにしている義両親は、頻繁に電話をかけて

 望と会わせて欲しいと懇願する。以前と比べて何かと気を遣うように

  なった義母だが、息子の言い訳を鵜呑みにして、様々な理由を並べ

  立てては、復縁を迫る。

 これにはうんざりしたが、望が会いたがるので止めるわけにもいかない。

 

 小田切が加奈と顔を合わせるのを避けているので、望を義両親に預けて

 仕事に向かう状態が続いている。父親不在で不安になっている望をこれ以上

 傷つけたくなかった。

 小田切が加奈と顔を合わせないのは徹底していて、

 自分の私物も、加奈がいないときに、こっそり取りにきているようだ。

 そんな子どもっぽい態度にも、愛想が尽きてくる。


 ただ来るべきものが来ただけ。

 加奈はむしろ気が楽になった。

 これからは普通に戻れる。


 その矢先のことだった。

 

 -望が姿を消した。

 


3


「そろそろ奥さんも怒りだすころじゃないの?」

 

 珍しく佐々木が、人の家庭に気を回す。


「気にしないでくれ。それよりも、早くあの男を見つけないと……」


 その日も小田切は、佐々木と共に元営業マンを探して、唯一の

 手がかりであるスーパーの駐車場で張り込みをしていた。

 小田切は手にしている名刺を眺めるが、そこには会社の所在地と

 電話番号、そして「菜取晴人」と名前が書いてあるだけ。

 やはり手掛かりが少なすぎる。


 大学との取引を生業とする業者の営業マンであった彼は、

 その融通の利かなさから、小田切のクレームによって解雇されてしまった。

 小田切を怨むには十分な理由を持つ男である。

 同時に、不正取引の内情を知る人間でもある。

   

 不審な手紙を受け取ったのが二週間前。


 5年前の事件をSNSに晒すなど、到底受け入れられない小田切は、

 相手がゆすりのネタとしている、不正経理の証拠を握りつぶそうと

 画策している。


 気弱だった営業マンは、杓子定規が故に、上手く小田切に便宜を

 図ることができなかった。彼が首を切られる可能性があることを

 承知の上で引導を渡したのは、確かに小田切だ。

 便宜の図り方が要領悪くて、本社の方にクレームを入れた。


 前任者と違って、こちらの意をくむのが下手な男だった。

 要領が悪い割に妙な正義感があるのも、こちらの痛む胸を見透かしている

 ようで、腹ただしさが増した。


 不正経理が露見すれば、業者にも税金の関係上、何らかの

 制裁が下されるはず。

 証拠の隠滅はたやすいと思っていた。

 

 だが一度大学側に申告したものを取り消すことは出来ない上に、

 業者側が言うには手元にある書類の改ざんは可能だが、

 もし元社員がコピーやスキャンしていたら、それはもう手の

 施しようが無いと言われた。

 例え追求されてもあくまで担当者が独断でやったことと、しらをきる

 つもりなのが透けて見えた。


 顧客に向かってその態度は何かと言うと、新たな担当者は言った。

 最近は不正経理に対する目も厳しくなってきた。

 リスクを負ってまでも大学側に恭順を示すか、不正は絶対に

 手を貸さないという方針の、どちらに組するかを明確にするべき

 だと議題にあがったと。

 業者としても不正経理に加担していたと言う評判はマイナスに

 なりうるのだ。

 世の中、金に貪欲な者ばかりではない。リスクよりも安定を求める

 人間の方がはるかに多いのだ。


 新たな社の方針は、きっぱりと不正経理から手を引く路線。

 会社のイメージダウンをさせるわけにはいかない。新たな担当者は、

 過去の経緯を全て知った上で、今後は以前のような便宜は図れないと

 低姿勢ながらも、はっきりと宣告した。

 

 その目が自分を蔑んでいるようで、気に入らない。

 前任者は不服を言いながらも便宜を図ろうと努力はした分、

 可愛げがある。

 そこで思い出したのが、前任者の言っていた、最後の言葉。

 

 「先生のうちの近くのスーパー、僕の実家の近くにあるんですよ。

  よく利用しています」

 

 それはしっかり覚えている。


 だからこそ小田切は毎日のように、特段用事もないのに、

 そのスーパーに立ち寄っている。郊外型の大きなスーパーで、

 駐車場にも何百台も車を駐車することが出来る。

 車内で入口を監視するのが、最近の日課となって来た。


 以前送られてきた不正経理の証拠。

 明らかに原本をコピーしたものだった。

 業者が自身で自分の不正を暴露することはありえない。

 やはりその業者が持っていると考えるのが、自然だ。


 佐々木も名を上げられ、故意でなかったせよ、いつ捕まるのか

 分からない状態で、何とか前任者に告発だけはやめさせてもらうため、

 付き添っている。弁明したいことが一杯あるのだろう。


 5年前のハラスメント事件にも二人とも関わっているので、最終的には

 それを暴露されてもいいのではと相談したりもしている。

 もちろん佐々木は常にその暴露だけは反対している。

 今でも自分が悪いとはみじんも考えていないと、明言している。


 ともあれ2つの用事が交錯して、二人はここ最近ほぼ毎日のように、

 共に行動していた。


 プロジェクトの実験を形だけ進めては、小田切は佐々木と毎日不正経理

 の証拠を持って逃げた元営業社員を探しまわった。もう離職したので、

 会社に行っても、会うことは叶わない。

 人事に行っても、プライバシーを理由に、実家の住所までは

 教えてもらえない。

 今二人に残された証拠は、最後の言葉。

 実家住まいで、最寄りのスーパーが同じであること。

 それに全てを賭けるしかない。

 何がなんでも元営業マンを見つけて説得する必要がある。


  大学での仕事は遅くても6時には終わる。

  その後の時間を捜索に当てた。小田切宅の近所であるし、帰宅には

  それほど困らない。稀に近所の顔見知りの人に会い、好奇の眼差しを

 向けられたりもしたが、 気にしている場合ではない。


 不正経理の容疑が成立してしまえば、刑事罰を受けてしまう。

 二人とも必死だった。


 だからこそ終業後の為、共に外食をしたり、スーパー近くで

 近隣の住民に目撃されるというような外聞の悪いことにも、

 耐えているのだ。

 全ては逮捕を免れ、平穏な家内安全を実現する為。

 

 それなのにー。


 小田切の意志に逆らうかのように、妻は小田切の過去の罪を責めるような

 言動ばかりする。加えて、娘の望への態度も気にかかる。

 一人目の子どもの時の疑惑が再度持ち上がる。

 そんな自身の行動を省みず、最近では佐々木との浮気までをも示唆

 してくる妻には愛情が冷えつつある。

 こちらの意志も分からずに、ただ自分の意思を押しつける様子に

 小田切自身も限界だった。


 こうなる要因は前から燻っていたと、妻は言う。

 小田切は全く理解できない。

 一人目の子どもが亡くなったのも。

 最近の怪異も。

 自分はいつだって被害者だったのに。

 別居が決まってなお、小田切は分からない。

 妻が変わってしまった理由が。



4


 その日、加奈は塾に勤務している間、望を義両親の実家に預けていた。
 保育園からは不審なことは何も起きていないと聞かされているが、
 それでも油断はできない。
 小田切と別居する直前まで、変事は続いたのだ。

 
小田切が加奈を疑うように、加奈も小田切の人間性を疑っている。
 望を会わせるときは、必ず義両親も同席している時間にしか会わせて
 来なかった。

 小田切は自分を否定する加奈に、会おうとはしない。 
 だから義両親宅で、小田切が加奈と会う為には、加奈は席を外さないと
 いけない。
 会いたいなら、本来小田切が折れるべきなのだが、そこら辺は望の
 気持ちを尊重した。

 授業が終わり、講師室で一息つく。
 コーヒーを飲んでいると、携帯のバイブが鳴り、
 PCメールを受信する。
 加奈はPCメールも携帯に転送する設定にしているので、
 セールスメールも合わせて、頻繁に鳴り響く。
 またセールスかとうんざりしながらチェックすると、
 小田切からだった。

 『望はこのまま引き取る』

 
こんなのは小田切らしくない。
 少し調べれば、例え親権者でも別居中の相手の元に居る子どもを
 無断で連れ去れば犯罪になることくらい分かるはずだ。
 それほどまでに追い詰めてしまったのか。

 すぐに小田切の携帯に、電話をかける。

 「どういうこと? 望をあなたが引き取るって?」

 「……今まで望と十分一緒に居ただろう。母親だからと言って、
  勝手に望を連れて行ったが、虐待される可能性を考えてこちらで
  預かることにした」

 「そんな!勝手にそんなことをしないで!これからのことは
  話しあいで決めることにしたでしょう!」

 「とにかくこちらで預かる。居場所は分かっているのだから、
  面会くらいは許可してやる。それじゃあ」

 一方的に話し終えると、小田切は電話を切ってしまった。

 義実家に預けるときに、その不安が皆無だった訳ではない。
 万が一に備えてネットで調べもした。
 
 強引な子どもとの同居は、裁判の心証が悪くなる。
 それでも年数が経過すれば、養育実績となり、親権を争う時に
 不利になる可能性が無きにしも非ず。
 
 確かそう書いてあったはず。
 だとすると……。
 
 (みすみす見逃すと、絶対に後悔することになる!)

 頭よりも体が動いた。

 
 加奈は荷物を持って、ヒールの踵が痛むのも構わず
 車に向かって走りだした。
 

5


 その日小田切は少し緊張していた。
 望を加奈から、引き離す。
 その為には多少強引な手も必要だった、
 
 加奈は二人きりでは会わせてもらえないが、両親と同席なら
 許可してくれる。そこをついて、望を連れだし、そのまま
 こちらに引き戻す計画だ。養育実績を創り出す為なら、多少の
 強引な手段も辞さない構えだ。大事な娘が虐待されるかもしれない。
 そう考えればこれは緊急避難的措置とも言える。

 居場所を伝えれば、大事にはならないはず。
 
 おそらく怒った加奈から、電話がかかってくるだろう。
 煩わしいが、ここできちんと話をつけないと誘拐罪に問われかねない。
 緊張感を漂わせながら仕事をするが、なかなか捗らない。
 
 ルルルルルル。
 
 予想通り電話がかかってくる。
 出てみると、案の定加奈からだった。
 あらかじめ考えておいた科白を伝えると、すぐに電話を切る。
 通話を終えると、今までの寂しかった気持ちが少しだけ晴れた
 気がした。

 そろそろ両親が、望をこちら側に引き取ったことを知らせてくれる頃。
 望を長女の二の舞にはさせない。

 ルルルルルル。

 携帯の着信音が鳴り響き、小田切は待ってましたと画面を
 確認する。
 相手はやはり両親からだった。 
 望を車に乗せて、ひとまず小田切の祖母の住む家へ連れて行く
 計画だったから、その報告だろう。
 望を祖母宅まで移動させたら、連絡をもらう約束だった。
 まずは第一段階はクリアしたなと、ほっとしながら受話ボタンを押す。
 
 「大変なの。ごめんなさい。私が買い物しようとしたばかりに……」

 慌てふためく母の声。
 状況が分からない。
 受話器の向こうから、父が「俺が代わりに話すよ」と母に話す声がする。
 
 「一体どうしたんだよ?」

 「落ち着いて聞いてくれ。望がいなくなったんだ。ちょっと
  目を話した隙に……」

 父は望がいつ、どこでいなくなったのか説明していたが、もう
 小田切の耳には入らない。
 
 望がいなくなった‐。

 「しっかりしろ。ショックを受けている場合じゃない」

 はっと気が付き、小田切は焦る頭をフル回転させて、父親の
 説明を聞いた。

 車で移動している途中、スーパーで買い物をしている間に
 望を車内に残しておいたら、帰ってきたらいなくなっていたと。
 母親が泣きながら言った。
 駐車場には防犯カメラが設置されていなかったので、犯人は分からない。
 
 「加奈には望をこちらで預かるって連絡したのか?」

 「いや。おふくろの家についてからという約束だったからな」

 「じゃあ、加奈じゃないな。こんなことをしても意味がない」

 「警察に通報する。望に万一のことがあったらいけない」

 「……」

 だが本当にそれでいいのか。
 警察で詳しく事情を聞くことになったら、当然加奈が出てくる。
 そうしたら望を強引に引き取ろうとしたことが、ばれてしまう。
 それに今までの経緯から考えて、こんなことをする犯人には大方
 目星がついている。
 
 (こんなことをするのは、あいつしかいない……)

 小田切は、心当たりがあるからと、父親に決して警察には通報しない
 ように念を押すと、研究室を飛び出した。
 
 

6


 父親からの電話の後、小田切は心当たりの場所を必死で車で回った。
 これがあの脅迫者のやったことなら、望は何をされるのか分かった
 ものではない。
 
 (やっぱり加奈に手伝ってもらうか……)

 携帯電話を持ち、加奈の番号を呼び出す。
 いざ通話ボタンを押そうとすると、最後に加奈が自分を罵倒した
 科白が再現される。

 「駄目だ。自分で解決しないと、本当に望は……」

 携帯の蓋を閉じる。
 電話をかけるために停車したコンビニの駐車上で、ハンドルに
 頭を預け、最善の策を考える。
 今まで要領良く世を渡って来た頭脳は、こんな時全く役に立たない。
 苛々してダッシュボードを拳で叩く。

 ルルルルル。

 小田切の脳内を見透かしたかのように、加奈からの電話だった。
 
電話に出る小田切。
 だが
相手は聞いたことのない声の、男……だと思った。

 (どういうことだ?)

 

 ボイスチェンジャーを使用しているのか、機械的な声だ。

 相手の生の声は分からない。

 だが加奈の携帯電話を使用しているのなら、加奈と関係の深い

 人物なのだろうか。

 小田切の困惑を余所に、相手は話を続ける。


 「あなたが警告を無視するからですよ。娘さんを預かりました。

  返して欲しければ、要求を飲みなさい」

  

  ボイスチェンジャーで声を変えているが、話し方の特徴で何かヒントに

 なることはないか。小田切は必死で、相手の正体を掴もうと試みる。

 その間にも男は、淡々と要求内容を告げる。

 

 「こちらの質問に全て、嘘偽りなく答えること」


 要求自体はシンプルな内容だ。

 それでも相手の正体分からないのに要求を飲むことで、どんな

 不利益が降りかかるのか知れたものではない。

 小田切は返事を渋った。


 「拒否すれば大事な娘を失う。娘の命はそちらの回答次第。

  要求を飲まななら、あなたが殺したのと同じこと。後悔する

  ことになりますよ」


 相手は尚も強要する。

 口調は落ち着いたものだが、今まで何のリアクションも起こして

 こなかった小田切に苛立っているのだろう。


 「……」

 

 言ってしまったらこれから続く自分の人生はどうなる?

  今罪を認めてしまえば、男が今後どんな攻撃材料に仕立ててくるか

  分かったものではない。

 ここまで来ても小田切には迷いがあった。

 

 「子どを見殺しにするんですね。可哀そうに親に見殺しに

  されるとは。あなたは今までそうやって他人を見殺しに

  してきたから、今更何とも思わないのでしょうが」


  男は待ちきれないのか、苛々とした感情を隠そうともしない。


   「せいぜい後悔するがいい」


  男は埒が明かないと判断したのか、会話を切り上げることにしたようだ。

 

  「待ってくれ!」


  ここまで来て、やっと小田切は決心がついた。

  このままでは本当に望は殺されてしまう。

  実感して、目が覚めた。


 「頼む。望は関係ない。そちらの要求を聞こう。だから望だけは」

 


7

 
  小田切が要求を飲む意思表示をすると、男は自分の質問に嘘偽りなく全て
 答えるよう再確認する。相手はかなり慎重に物事を進めるようだ。

 
小田切が承諾すると、何かボタンを押す音がした。
 録音しているのだろう。

 何に使われるのか、用途が分からない不安が再び湧きあがるも、

 小田切はともかく必死だった。


 「5年前に土岐等あかりという大学院生が、山瀬研究室で嫌がらせに

  あっていたのは本当か?」


 「……はい」

 

 「どんな嫌がらせをしていた?」


 「研究室の仕事を押し付けたり、変わった所がある人だったのでそれを

  からかうこともしていました。今では悪いことをしたと反省して……」


 「言い訳はいい」


  不機嫌丸出しの男の声に、ヒッと小田切は息を詰める。

  例え回答したとしても、男が機嫌を損ねて望に危害を加えてしまったら

  本末転倒だ。小田切は回答するだけでなく、答え方にも気を付ける

  必要があることを理解した。


 「嫌がらせの一つとして、土岐等さんに研究室内業務を過剰に押しつけ

   たということですね?」


  次の質問では、すぐに前の淡々とした口調に戻る。

 小田切は少しほっとした。


 「はい……」


 「それでは研究成果を承諾もなしに奪ったことは、ありましたか?」


 「そんなことは……!」


 「ありましたか?」


  小田切は以前研究室に送られてきた、当時のハラスメントに関する

  資料を思い出した。あれを送りつけてきたのが、この男だとすると

   つまらない嘘は危険な状況を招くだけだ。

   相手は全て知っていて確認をしているだけだ。

  小田切は、相手の威圧的な口調に、素直に答える。


 「はい」


 「誰に命じられたのですか?」


 「……僕の独断でやりました」


 この会話がどう使われるのか分からない以上、勝手に人を

 巻き込む訳にはいかない。常に小田切は将来を考えて行動

 するのだ。


 「……嘘は吐くなと言ったはず。もう一度だけ聞く。土岐等さんの

  実験資料を取り上げるよう指示した人がいるのではないですか?」


 「いいえ。僕が。僕だけがやりました」


  求めていたのとは異なる回答で、男は苛立っていたようだが、

 小田切が自分の罪を認めたことで、良しとしてくれたようだ。


 「……まあいいでしょう。では土岐等さんをからかったと

  言いましたが、具体的にどうからかったんですか? 嫌がるような

  ことを故意に言っていたのですか? それとも無視をしていたの

   ですか?」


 「僕は……言っていません。ただ知っていて見て見ぬふりをしていました」


 「土岐等さんから話しかけられた時は、どうしていたのですか?」


 「……聞こえないふりをしました」


 「つまり助けを求められても無視していた傍観者と言う訳ですね? 

  それ以外にしたことは、ありますか?」

 

 「ない。ありません」


 「これらの事項はアカデミック・ハラスメントに該当します。

  事実土岐等さんは生前何度もハラスメント相談室に訴えています。

  それについて自分達のしたことについてどう思いますか?」


 「……土岐等さんがそこまで追い詰められていたとは知りませんでした。

  少し悪ふざけをしただけのつもりだったんです」


 「今更それで済むと思っているのか?」


 突然生の男の声が聞こえて、小田切の身が竦む。


 「人が一人殺されているんだ。お前らにな」


  恐怖で口を噤んでいると、男は前の口調に戻った。


 「佐々木芽生は、何をしたんですか?」


 「仕事を押し付けたりするのは、私と同じです。土岐等さんとは

  同級生でしたが、サバサバした人なので直接注意することも

  ありました。捉え方によっては、きつく聞こえたのかもしれません」


 「注意と言うと、土岐等さんに非があったかのように聞こえますね。

  そうではないでしょう。どんな場面でどんな注意をしたのか、具体例を

  出してください」


 「土岐等さんが病気を理由に欠席した時に、『怠けるなら大学を

  辞めろ』と言っていたのは聞いたことがあります。彼女なりに発破を

   賭けていたのでしょうが、人によってはきつく聞こえます」


 「土岐等さんが心臓発作の持病を持っていたのは、皆知っていた

   はずですよね。それなのにどうしてそんな酷なことをあえて言うん

   ですか?」


 「それは……病気を理由に甘えないようにと言う配慮でしょう。

   あまりに欠席が続くと、皆にも迷惑で悪印象を持たれますから」


 「ですが私の記録によりますと、土岐等さんが休んだことは一学期に

  二回程です。多いとは言えませんね。それにそんなことを言いながらも

  あなたたちは仕事も押し付けている。試しにこの佐々木さんと土岐等

  さんの仕事量の違いを比べてみました。完全に佐々木さんの方が休み

  が多いですよね。言う資格はないと思いますが……」


 「それは僕には……何とも」

 

 「少なくとも土岐等さんは入学時に、自分の病気の事を公表しています。

  しかもそれを利用して特別扱いを申し出たことは一度もないはず。

   他にも病気を理由にして、嫌がらせをしていたのですか?」


 「特には……ないはずです」


 「薬を隠したりとかは?」


 「そんなことは絶対にしません!」


 ここで相手はしばらく思案しているような間が入った。

 数分の間に続いて、質問を続ける。


 「それでは土岐等さんが学内で、薬がないが為に緊急状態に陥ったのは、

  他の人が薬を盗んだと言うことで宜しいですね? 状況からして

   明らかに研究室内の者の仕業としか思えないのですが」


 「それは土岐等さんが偶々持っていなかったのではないですか?」


 「それはありえません。証拠もあります。研究室に行く直前まで持って

  いた物が、気絶する直前になくなっている。おかしいですよね?」


 「本当に知りません……」


 「本当ですね?あとから知っているというのは、許さない」


 許さないの一言に力が篭り、小田切は見が竦む。

 時折私情が入るのか、くずれる敬語が妙に凄みを感じる。


 「本当に知らないんです」


 「それがどうして芹沢さん一人の責任になったんでしょう?自分から

  名乗りを上げるべきですよね?  自分と同じ研究室の仲間が一人だけ

   責任を押し付けられて何とも思わなかったんですか?」


 「悪いとは思いましたが、自分から名乗りを上げる勇気があり

   ませんでした。芹沢君も退学処分になると言う噂を聞いて尚更

   無理でした」


 「彼はそれを苦に自殺したわけですが、それに関してはなんとも

  思わなかったのですか?」


 「怖かったです。反省もしてます。でも自分も処分されるのではと

  怖くて出来ませんでした」

 

 「芹沢さんが自殺したのは、退学処分を受けて3か月後。ご家族は

  すっかり芹沢さんが一方的に大学に迷惑をかけていたと信じ込んでいた

  わけですが、どうやってあなたたちは自殺の事実を知ったのですか?」


 「警察の方から自殺の原因に関する聞きこみがあったので。

  ……それで僕らも罪悪感もあって、お焼香に」


 「それでは自殺現場は見てなかったということですよね?」


 「それは当然……」


 「ではどうしてあなたは手鏡の存在を知っていたんですか?」


 「……」


 「手鏡の写真を見た時に、慌てて佐々木さんに電話をかけました

  よね? 自殺現場にいなければ分からないことだ。

  あの手鏡は、芹沢さんの自殺現場にあったのだから。

  ここから大分離れた海を運航するフェリーに、あなたたちの

  内の誰かが、偶然乗り合わせたとでも言いますか?それとも

  警察が到着する前に、芹沢さん宅へ行って見たことがあると

   でも言うのですか?」


 「知らない」


 「苦しいわけだな。それならその続きは警察で聞こうか?」

 

 「じゃあどうして警察に今娘が誘拐されたことを通報しない?

  昔のことがばれるからじゃないのか?」


 「違う」


 「山瀬は関わっていないのか?指導教官がまったくこの事件を

  知らないということは ありえない。芹沢さんは山瀬を庇って

   自分だけ切り捨てられたのではないか?」


 「……」


 「答えなさい。さもないと娘が」


 「……僕と、芹沢君、佐々木さんがしたことだ。先生も、それ以外の

  人間も関係ない」


 小田切はこの電話すら録音されている危険性を考えた。

 もし小田切が予想している人間が犯人だとするなら、とうに

 答えは知っているはずだ。それでもあえて答えを導こうとしている。

 それなら目的は証拠集めだ。


 (その手にはのるか……!)


 「いない。僕と佐々木君二人だけだ」


 ここで一旦カチッと音がして、男が言った。


 「いいだろう。娘は旧劇薬物保管庫だ」


 そこで電話は切れた。

 問いに答えるので精一杯で、結局相手が誰なのかは分からなかった。


 このまま彼は望を返してくれるのか。

 不安が募るが小田切には信じるしか道はない。

 小田切は大学へ向けて、車を飛ばした。

 


8


「……ちょっと常川さん。いいですか?」


 息切れした優奈が研究室のドアの取っ手を回すのももどかしい様相で、

 部屋に飛び込んできた。常川からすれば、会社のクライアントとの

 打ち合わせの日程を調節するためのスケジュール調整をしていたところ

 なので、邪魔された形になる。


「なんだよ?」


 例にもれずここのところ毎日学校に来ている常川は、大学でも研究よりも

 仕事に追われていた。研究は待ってくれるが、ビジネスは時間が命だ。

 これはあくまで比較対象であって、もう最終学年にもなろうかという

 常川は今年中に論文を出さなければ、課程博士の学位を授与できる権利を

 失うと優奈は聞いている。


 優奈も実験動物の飼育や実験の担当がある時は、遅い時間まで残っている。

 今日も優奈は任された実験を粛々とこなしている。


「……今備品室に行ったら、変な音がするんです」


「学部生でも騒いでいるだけじゃないか?」


「そうじゃなくて……。誰かが泣いているような……。

 不気味な声なんです。しかもその声、備品室の隣の締め切りに

 なった部屋から聞こえてくるんですよ」


「怖い話でも読んだのか? 今はまだ8時だぞ」


 世間的にはまだ遅い夕食を取っている人がいてもおかしくない時間帯だ。

 飲み屋街など大いに賑わっていることだろう。院生の大半が夜型だが、

 用事がない場合は皆それぞれの所用の為帰っていく。


「怖いから付いてきて下さい」


 上目づかいで見つめる優奈。

 女性誌によると、男性に頼みごとをする時には効果的……のはずだった。

 が、常川には全く効果はなかった。


「怖いならもう行かなければいいだろう。明日になれば誰か来る」


「駄目なんです。今日中にやらないと、計画に支障がでてしまうんです。

 COEのプロジェクトだから、常川さんだって関係あるんですよ。

 私のせいで皆に迷惑なんてかけられませんよ」


「じゃあ般若心経でも唱えながら行けばいいだろう」


 前から思っていたのだが、常川は優奈と他の女子学生との扱いの差が

 ひどい。不公平だ。


「意地悪しないで付いてきて下さいよ。それに空き部屋から物音なんて

 泥棒かもしれないですよ」


「盗られる物なんか何もないだろ。否むしろ、学生同士が何か

 秘密のことをしているのかもな。見つかるか見つからないかと

 言うのが、スリルがあっていいんだよ」


 赤面する優奈。にやける常川。


「仮にそうだとして、あそこの鍵をどうして普通の学生が持っているん

 ですか?何がある部屋かは知りませんが、使われていない倉庫か何か

 なんですよね?」


「まさか備品室の隣の、廊下の突き当たりの部屋か?」


「はい……廊下の角を曲がった奥の部屋です。角が備品室になっている。

 廊下では聞こえないんですが、備品室の中だと横から聞こえるんです。

 でも、あの部屋は普段は入れないですよね?確か管理室から鍵でも持って

 こないと……」


「すぐに行くぞ」


 部屋を特定すると先程までのお茶らけた雰囲気はなりを潜め、常川は

 率先して備品室にむかった。


 足音を忍ばせて入る。

 耳を澄ませると鼻をすするような音がする気もするが、

 壁が厚いのかはっきりとは聞こえない。壁に耳を宛てていると、

 男子学生が三人部屋に入ってきた。

 優奈も名前は知らないが顔だけは見知っている、

 同じ学科の他の研究室の院生だ。

 備品室と実験施設を共有しているので、顔を合わせることも

 幾度かあるのだ。他の研究室の学生はさすがに常川の顔を見て

 不満げな表情をすることはなかった。


 「隣から変な声が聞こえてくると聞いたんだが」


 常川が尋ねると、学生の内の一人が答えた。

 

 「はい。さっき僕が備品室で実験の準備をしていたら、妙な物音がして……」


 「たぶん私が聞いたのと同じです!」

 

 なんとなく心霊現象っぽいことは言いたくなかった。

 ここは理系の研究施設だ。

 非科学的にならないよう、優奈は気を付ける。


  三人が優奈よりも前に入った時にも、誰かが泣いているような声が

  聞こえたという。それで警備員に事情を話して、戻って来たところだ

 と言った。


 少し話していると、初老の警備員がやってきて、件の部屋のドアを

 開けるべく鍵を差し込む。

 皆一旦備品室から廊下に出て、警備員の動向を見守った。

 この部屋は既に役割を果たしていないとばかりに、ガムテープが

 統一性なく、乱雑に貼られている。

 

 カチ。

 

 確かに手応えはあるが、開かない。

 警備員は幾度も鍵についたタグを確認するが、間違いはない。

  もう一度挑戦してみるが、開かない。

 動揺する一同。


 鍵も合わず、ドアも開かないとなると、最終的にはドアを破壊

 するしかないわけだが、それも叶わない程に頑丈そうなドアなのだ。

 地下なので、窓を壊して侵入する訳にもいかない。


 「……鍵が間違っているんじゃないですか? それか鍵を新しく変えた

  ということはないですか?」


 優奈の言葉に、警備員は直も鍵をガチャガチャと弄りながら、

 それはないと返答する。


 「ここは随分前から使用されていないんだ。数年前に閉鎖されたままの

  状態で、物置としてすら機能していない。鍵を変える程の価値のある

  物も、中にはないんだ」


  バリッ。

 

 常川がガムテープを次々に、剥がし始める。

 

 「ちょっと、何しているんですか?常川さん!」


 常川の行動は相変わらず予測がつかない。

 皆の奇異の目を、優奈が代弁する。

 

 「鍵はちゃんと合っている。だから考えられるとしたら……あった!

  ここだ!」


 常川が剥がしたばかりのガムテープの下から、ドアの色とは異なる

 平べったい長方形の板が出てきた。

 

 「誰かが鍵を増やしたんだ」


 常川が言うには、これはドアの内側に本体がある電子錠で、

 解錠するには専用のリモコンが必要なのだと言う。

 最近似た鍵を社内に取り付けたので、見覚えがあると常川は言った。

 他の院生も、バイト先で使われているのを思い出していたので、

 その業界では有名なものなのだろう。

 

 「ぐすっ。……コホン。コホン」


 想定外の事態に一瞬静まり返ると、中から子どもの泣く声と続いて

 咳をするような音が聞こえる。

 

 「君、大丈夫か?」


 警備員さんがドアを叩きながら、中へ呼びかける。


 その時。

 階段から、誰かが駆けてくる足音が響いた。

 足がもつれかねない程の駆け足で、その人はこちらへやって来る。


 「小田切先生!」


 突然現れた小田切は、必死の形相で周囲の全員に問いかける。

 

 「望は、この中か?」


 「小田切先生のお子さんだったんですか? どうして……」
 

小田切が急かすように聞いたその場の者たちの話によると、

中から子どもの泣く声や咳をする声が聞こえると言う。

望は喘息の気がある。
 薬もなしに、中に閉じ込められていたら、どうなるか知れない。

 

(ここに来たら、すぐに助け出せると思っていたのに……!)

 

すぐに小田切は脅迫者が使用していた電話‐つまり加奈の携帯に

電話するが、幾度かけても同じアナウンスが流れるだけで繋がらない。

小田切の懊悩は増すばかりだ。

 

「皆に迷惑をかけてすまない」

 

その場に居た者には、都合の悪い部分は伏せて、娘がここに
 迷い込んだかもしれないとだけ伝えた。ここに来た理由は、

子どもの声を聞いた人から、連絡があったということにした。

 

「小さな子どもの鍵トラブルは、良くあることですよ」

 

皆をなだめるように、警備員がフォローしてくれる。

警備員も音の正体らしきものが分かって、少しほっとしたらしい。

 

「電子錠は異常事態になると止まってしまうことがあるんです。

その時に娘さんが入ってしまったのなら、自分で中から開けられなく

なる可能性も考えられます」


もちろん電子錠があらかじめ開いていたことが前提だ。

電子錠は普段は閉まらないようにセットしておいて、外出するときにだけ

施錠するように設定を変えることが出来るものがあると言う。


 警備員の説明によると、何者かによって新たに電子錠が設置されていた

 可能性があると言う。この警備員の説明なら、脅迫者の存在を告げずに、

 話を進めることができる。

「開いていた電子錠付きのドアを望が開けて入り、自分で

 締めてから出られなくなった」と筋書きを作ることが出来る。

    

そうだとしても、誰が何の為に、使われていない部屋にわざわざ電子錠を

取り付けたのかは、謎のままだ。 「学生が悪戯でやったことだろう」説に

落ち着きそうなのがせめてもの救いだ。


これで言い訳は成り立つ。

今は望の救出が最優先だ。

ハッと気が付き、小田切は知恵を募る。

 

「電子錠なら、電気を消したら解錠されるかもしれません」

 

思いついた若い警備員が電気制御盤のブレーカーを落とす。

 真っ暗の廊下で、勢い込んで院生たちでドアを押したり引いたり

  してみるが、びくともしない。

  期待した分、皆落胆してしまった。

 「すみません……」項垂れる若い警備員を、先輩警備員が慰める。

 

  年長の警備員が言うには、電子錠には停電時に施錠されるタイプと、

  解錠されるタイプに分かれる。このタイプは、偶々施錠されるタイプ

  だっただけのこと。だから考えの筋としては良いと、フォローする。

 

先輩警備員は後輩をフォローすると同時に、中の子どもをいち早く

助ける緊急性を理解し、救急に連絡をとってドアを壊してもらって

救出することを提案した。

しかし小田切はその申し出を渋る。


口止めはされていないが、脅迫者を刺激しない為には、

あくまで事件性がないように振る舞う必要がある。

機嫌を損ねて、せっかく居場所が分かったのに、望を危険な

目に晒すことはしたくなかった。


「子どものしたことだ。大げさにしてもらっては困る」

 

不審に思われないだけの上手い言い訳が思いつかず、小田切は

拗ねるような理由を付ける。

そう言われても他に出来ることは、鍵屋を呼ぶか、工務店に連絡する

くらいだ。工務店は終わっている時間なので、警備員が仕方なく

鍵屋を調べに詰所へ向かおうとする。


 その時だった。

 「ぎいあああああああああ」
 
 と、急に部屋から断末魔の
ような悲鳴が聞こえた。
 その高い声からおそらく子どものもの。

 一瞬にして場の緊張感が高まった。

 


9

  

「救急なら応急措置もしてくれる。早く119番しろ」

 

只ならぬ悲鳴の後だ。

 一刻も争う余地が無い。

「駄目だ。できない」

これ程取り乱しているのに、頑なに救急を拒否する小田切に対処

しかねて、警備員は携帯電話で詰め所に居る同僚を呼び、相談する。

 

こうして迷っている間にも、望は衰弱しているかもしれない。
 小田切は警備員の申し出を自分で断っておいて、望が心配でならない。

しかし理由を周囲に伝える訳にも行かず、ひどく狼狽していた。

人命がかかっているので警備員たちも必死で小田切を説得するが、

小田切は苦々しい表情を見せつつも、どうしても首を縦には振らない。

 

いつまでも決断しない小田切に見切りをつけたのか、ちっと

舌打ちすると常川はどこかへ走って行く。

優奈はそれに気付いたが、警備員と一緒に小田切の説得をするのに

忙しくてそれどころではなかった。

他の院生3人は、中の子どもに向けて、懸命に呼び掛けている。

 

「チェーンソー持って来たぞ!」

 

 常川が誇らしげに、チェーンソーを掲げて見せる。

 後ろには高校生くらいの男の子が、居心地が悪そうに付いてきている。

常川に無理強いされたことが、簡単に見て取れた。

 

 地下では窓もなく、外から工事用機械で壊すことも出来ない。

 そして厚いドア板。

 確かにチェーンソーで少しずつ削るしか、手はなかった。


「これで文句はないだろう!」


「それは駄目です!絶対に許可することはできません!」


 警備員は真っ青な顔で反対する。

 素人がチェーンソーでドアを開けて、中の人間に怪我を負わせる

リスクを考えれば、とてもゴーサインを出すことはできない。


「あんた、人の親だろう!何か事情があるみたいだけれど、子どもの

 命よりも大事なものがあるのか?」


 初老の警備員が、いつまで経っても最善の手段を取ろうとしない

 小田切にしびれを切らして、怒鳴りつけた。


 救急に頼もうとしない小田切に、疑問を含んだ視線が寄せられる。

 小田切はひたすら視線の意味に気付かない振りをする。

 小田切から脅迫者に発信をすることはできないのだから、ただ守りに

 徹するしかない。


 小田切の行動は、全てを把握した上で口を噤むことに決めたのだ。

 当然望のことは心配だ。

 喘息の発作で病院に運ばれたのはついこの間の事だ。
 薬も吸入器もなしで、カビ臭い部屋に閉じ込められたらどうなるか

 知れない。


 それでも何も言わない小田切に、もはや呆れかえった警備員は

 「鍵屋を呼ぶしかないでしょう。すぐにでも電話しましょう」と

 次善の策を提案する。

 そこまで来てやっと小田切は口を開いた。


 「救急をお願いします……」


 蚊の泣くように小さな声だったが、警備員は「良く決断してくれました」

 と小田切の勇気を労い、すぐに119番して事情を説明した。

  


10


 救急の行動はその道のプロだけあって、迅速だった。

 すぐに駆けつけた救急救命士4人は、ドアが開けないことを事前に

 知らせてあったため、特殊な機材を搬入していた。

 エンジンカッターと言われるその大型の機材は電子音を唸らせ、

 厚いドアを少しずつ破壊していく。


 集中する救命士の傍で、皆は中にいる子どもに向けて声をかける。

 

 「開いたぞ!」


 勇んで駆けこむように中に入った小田切と救命士。

 中に居たのは‐ヒトではなかった。

 

 開いた中には……パソコンが一台点滅しているだけだった。

 

 それ以外は、ごく僅かの機材を残して、全ての設備が撤去されている。

 その端には、ぽつんと置かれたパソコンが一台。

 それが泣き声の正体だったらしい。

 

 院生たちは呆気に取られ、救命士たちはタチの悪いいたずらだと

 激昂する。

 小田切は床に座り込んでしまった。

 ここに望はいなかった‐。

 では犯人はどうやって望を返してくれるというのか‐。

 

 小田切はすっかり放心状態に陥っていた。

 望が帰ってこないまま、自分の弱みを晒しあげてしまった。

 これからは佐々木も味方にはなってくれないだろう。

 どうすればいいのか。

 

 「小田切先生、魂が抜けたみたいですね。無理もないけれど」

 

 「さっさと消防か警察に言えば良かったんだ。どうせ通報したら殺すって

脅すのは唯の威嚇なんだから。自分の体裁ばかりを考えたあげく

こうなっても自業自得だ」

 

 相変わらず小田切に冷たい常川だが、娘の事はこれでも心配している

 ようだ。

  

 悪戯と分かった後は、当然のように小田切に警察に通報するよう、

またもや一同で説得する。


小田切によると、娘を大学に連れて来てから行方が分からなく

なったと言う。それなら事件ではなくても、どこかで不慮の事故に

あって動けなくなっているかもしれない。

それに喘息もちだったら、どこかで倒れている可能性もある。


だがいくら説得しても一層頑なに通報することを拒む。

事情はおろか、いつどこで娘がいなくなったのかさえ、口を噤んでいる。

何か訳ありなのだろうとは推測出来るが、公共機関の助けを

一切借りないと言い張られては助けようもない。


かといって放っておくわけにも行かず、警備員は館内を巡回しながら

子どもを探す。気が変わったら詰め所に連絡してくれと言った。

あくまで警察に頼むことが一番だと警備員は何度も、小田切に噛んで

含めるように伝えた。院生たちも大学院棟内を調べに行く。


今日のメンツはどうやら面倒見の良い人間が集まったようだ。

当然常川も優奈も探すことにする。

放心し何も話そうとしない小田切を見限って、警備員や他の院生が

調べていない場所を、考える。


小田切自身は学校で望とはぐれたかのように、説明したが、実際は

大学から離れた駐車場内でいなくなったことを知っている。だから

小田切は本気で大学構内で望が見つかると信じていた訳ではない。

一人取り残された小田切は、脳をフル回転させて考えた。


それならどこを探したらいいのか? 


相手が車に望を載せてどこかへ移動したとするなら、

もうどこだか分からない。


 ピピピピ。

 悲嘆にくれた小田切の耳に響く場違いな電子音が。

 小田切の携帯にメールが入ったことを告げる音。


 小田切は吉と出るか、凶と出るか恐る恐る画面をチェックする。

 送信者は加奈。


(さっきまで電話しても着信拒否していたのに……)


 そこには携帯メールで、『研究室のメールボックス』とだけ書かれていた。

 見るや否や小田切は自分の研究室へ向かって、走り出した。

 その様子に優奈と常川も、後を追う。


 普段では考えられない早さで猛ダッシュをした小田切に、

 ようやく追いついたのは、小田切の研究室前だった。

 小田切はメールボックスから、長方形の物体の入った小さな封筒を

 手にしている。


 「おい、何だよそれ?」

 

 常川の問いを無視して小田切が封を開けると、そこには携帯電話が

 入っていた。


 「これは加奈の携帯……!」


 ずっと着信拒否にされていた加奈の携帯電話だった。

 あの脅迫電話も、この電話からかかって来たことになる。


 驚いていることから、常川と優奈は、封筒の中身を事前に

 小田切は知らなかったことが、見て取れた。

 

 (ということは今の加奈は、新しい携帯電話を持っているのか)


 加奈は持病を持っている望と自分の体調管理に、毎日携帯電話の

 アプリを利用している。加奈にとって、携帯電話は日常生活の

 マストアイテムなのだ。ということは。


 ゆっくりと宝物を扱うように、唯一残された手掛かりを扱う。

 わざわざ送って来たということは、何か意味があるはずだ。

 細心の注意を払って、携帯電話を調べる。 

 アドレス帳を確認すると、『新しい携帯電話』と書かれた欄がある。

 

 (これだ!)


 小田切はその電話番号に、かけてみた。   



11

 

 小田切が祈るような気持ちで思い切って電話をかけてみると、

 「もしもし」と呑気な声をした加奈が出た。


 相手が小田切だと分かると、烈火のごとく怒りだす。


 「どうして私の携帯電話を持っているの? あなたが盗み出したのね?

  警察にも盗難届を出したのに。あなたって言う人は、望を実家から

  どこかへ連れ去ろうとしただけではなく、私にまで嫌がらせを

  しようっていうの?全部犯罪になるのよ。全部警察で話してくる!」


 堰を切ったように怒りをぶつける加奈に、小田切は唖然としながらも

 不思議な事に気付いた。


 (なぜ加奈は自分が望を連れ去ろうとしたことを知っているのか?)


 小田切は望を預かるとは言ったが、預かり先は自分の実家と思わせる

 ニュアンスで言った。実際は祖母の家にしばらく匿う予定だったが、

 それについて一言も言っていないし、両親にも口止めをした。


 (おかしい)


 その時電話の向こうで、ずっと焦がれていた声がした。


 「ママ、パパとお話ししてるの?変わって!」


 随分あっさりと探し人が見つかり、安堵のため息が出る。

 一時は最悪の事態も想定していたのだ。


 「望がそこにいるのか?どういうことだ?」


 「ずっと私が預かっているわ。当てが外れて残念ね」


 「お前が望を誘拐したのか? いや初めから犯人グループとグル

  だったんだな?」


 「何言っているの。誘拐犯はあなたたちでしょ!そもそも誘拐された

  と思っていたなら、どうして私に連絡しようとしなかったの?どうせ

  親権を争う時に不利になるとでも考えていたんでしょ? 今度のことで

  完全に愛想が尽きた!離婚します。あなたが同意しないなら裁判を

  してでも。それじゃあ離婚届はあなたの実家に送るわね。それじゃ」


  捲し立てるように話す加奈に、すっかり圧倒される。

  ともあれ望が無事だったことで、小田切は気が抜けてその場にへたり

  込んでしまった。

  


12


 「何だ、無事だったのか……。良かった……」

 喜び勇んで、小田切は警備員と他の研究室の院生たちに、
 娘が無事だったことを、自ら伝えに行く。
 幸いにして、皆が望が見つかったことを喜んでくれ、
 妻に娘を預けていたのをうっかり忘れていた人騒がせな
 男の事を快く許してくれた。結果的には事件性もなく、
 警察を呼ぶまでもなかったので、不信がられることもなかった。

 約一名を除いては‐常川だけが不審な目つきで、詰問する。

 「どうして旧劇薬保管庫に娘がいると思った? 誰から聞いた?」

 しつこく聞いてきたので、小田切は疲れていることを理由に黙殺した。
 実際、疲れがピークに達している。
 緊張の糸が切れ、安心感で一気に眠気が襲ってきた。
 望を案じて、右往左往している間にもう深夜の時間だ。

 最後の気力を振り絞って、小田切は両親に連絡をとり望の無事を
 知らせると、そのまま迎えに来てもらうことにした。
 家に帰ると、スーツのままベッドに倒れ込み、死んだように眠る。
  
 ほぼ一日中眠っただろうか。
 すっかり気分良く起きると、先日までの騒動はまるで悪夢のようだ。
 全く現実感が無い。

 また今日から仕事が始まる。
 望を奪還することは叶わなかったが、チャンスはいくらでもある。
 また機をみつければ良い。
 

 十分に睡眠欲を満たした小田切は、すっきりとした頭で大学へ出勤した。

 未だ望は加奈の保護下にあり、件の営業マンの行方も知れない。

 順調とは言えない現状。

 それでも望が無事ならば、仕切り直しが出来るはず。

 脅迫者の要求は飲んだのだから、もう不正経理については

 気にしなくて良いはずだ。


 (それにしても、あの電話の主は誰なんだ?)


 不正経理の証拠さえ押さえれば、現状で不利になることはないはず。

 だからこそ不正経理の証拠をもみ消す為に、元営業マンの行方を追って

 いたのだ。5年前のアカハラのこともどこからか聞いた噂話を恐喝の

 ネタにしようとしただけだと。

 だとしても、相手はハラスメント事件に執着している。

 取引材料以上の価値を置いていると感じる。

 

(誰か協力者がいるはずだ。5年前の事件の関係者か?それとも

 その家族か……?)


先に正体を知った方がこちらに有利な戦略を立てられる。

要求を飲む、飲まないではなく、そろそろ敵の正体を知る段階に来ている。


(今日から正体に繋がるものを探すことにするか。もうやられっぱなし

 ではいない)

 

 攻めに転じると決めると、心がいきり立つ。

 勢いのまま、小田切は新たな気持ちで、自分の研究室のドアを開ける。

 修理して以来怖くてあまり触っていないパソコンは避けて、

 自分のスマートフォンで興信所を探し始めた。


 コンコン。


 ノックがしたので、慌ててネット接続を解除しようとしていると、

 優奈が珍しく返事を待たずに部屋に入って来た。

 慌てて妙なキーを押してしまい、

 常になく慌てている小田切を見て「先生、大丈夫ですか?」と尋ねる。


 遅れて常川も入って来る。

 こちらはノックなどはなからしない。

 用件だけを述べる。


 「お前、……大変なことになっているぞ」


 意味が分からない小田切に、常川はデスクトップのスイッチを

 入れるよう促す。ネットに接続すると、常川は勝手にマウスを操作

 して、あるホームページに辿りついた。


 「何だこれ?」


 『5年前の大学アカデミック・ハラスメント事件を許さない!」

 と題されたこのページ。そこには5年前の土岐等あかりに対して

 行われた行為を、事こまかに綴ってある。さすがに実名は書いて

 ないが、イニシアルと大学の所在地情報から、関係者が見れば

 自分であることは丸分かりだ。


 そこのあるボタンを常川がクリックした。


 「やったのは……君と、僕と、……君だ」


 肝心の人名はさすがに音声処理が施されているものの、これはあの時

 犯人とおぼしき人物と小田切が交わした会話だ。犯人の声は録音時

 以上に機械的なものに置き換えられている。


 「音声朗読ソフトを使ったんだな。これでは相手の声は分からない」


  他人事のように常川が解説する。

  小田切の顔はまさに蒼白だった。

  やっと目覚めたのに、またもや悪夢に引き戻されたように、

  血の気が無い。

  相手はまだ小田切を許していない。

  いやこれが当初の目的だったのか。

 

 それでもこの時点では、小田切はなんとかなると踏んでいた。

 数多くの人間がブログやらSNSを乱立するこの時代に、興味のない

 人間にとって退屈極まりない告発ホームページをわざわざ探し出して読む

 者がそれほど居るとは思えない。

 すぐにこの音源とホームページを管理者に言って削除させれば、

 それほど問題はないはずだ。


 「このサイト、ブログのランキングで上位に入っているんです。

  それにアカハラと関係ありそうなコミュニティに宣伝を貼りつけ

  まくっているから、少しずつ知られているみたいで。わずか数日なのに、

  かなりアクセス数を稼いでいます」


 「俺もブログやっているから、何人かに聞かれた。この内容は

  本当かってこととか、お前の普段の態度のこと聞かせろって」


 「……まだ研究室の他の皆さんは気付いていません。でも時間が経てば

  知られることです。ご自分で説明された方がいいのでは?……ここに

  書かれているのは当然嘘なんですよね? だったら堂々と言えば大丈夫

  ですよ。まずは山瀬先生に……」


  優奈は誰かに誤解を受けて中傷されていると、未だに信じていた。

  今まで届いた怪文書が何度も小田切の罪を告発しているが、

  優奈はこの1ヶ月間で実際に見た小田切の人となりを信じた。

  つきあいは短いけれど、音源に入っているようなことはするはずが

  ないと。山瀬の名前を出されて、小田切は心底困った顔をする。


  「考えさせて欲しい……」


  「過去の代償か。高くついたな」


  常川は慰めているとも、諫めているとも分からない声音で言った。

  


13


 「これは名誉毀損だ!このページを書いた奴を訴えてやる!」


 ショックを怒りで昇華しようと、息巻いて感情を吐き出す小田切に、

 常川は勝手にしろとばかり、出て行ってしまった。

 優奈は小田切の様子を伺いながらも、特に役立つことはないと

 判断したのか、気まずそうに常川の後を追う。

 

 相変わらずパソコンには疎い小田切。

 当然のごとく、ページを書いた人間にどうやって抗議するかなんて、

 やったことも、やろうとしたこともない。

 なんだかんだで、常川が手伝ってくれるものと思っていた。

 

 (知らせたのなら、責任とって教えるくらいしてくれてもいいのに)


 恨めしく思いながらも、ネットサーフィンをしながら、有益そうな情報を

 探す。探してみればそれほど難しいことではないことが分かり、小田切は

 早速サイト管理者にメールで連絡を取ることにした。

 

 メール画面を開いて、文面を推敲していると、研究室の電話が鳴る。

 自分を告発するホームページを発見した直後だ。

 緊張しながら、電話に出る。

 もし脅迫者だったら、約束が違うと、恫喝してやる。

 それくらいの気概を持って、小田切は電話に出た。


 恐怖に反して、電話の相手は、かわいらしい声の女性だった。


「小田切先生ですか?時間が空き次第、すぐに大学本部までお越しください」


 どんな用件かと言っても、女性は理由は後からと繰り返すばかりで、

 要領を得ないまま会話を終えることになった。

 午後一番に授業がある身の上なので、今すぐにでも本部へ向かうことを

 告げる。


 昨夜騒がしてしまったことが原因かもしれないと、少し気弱にある。


 (余計なことを……!)


 昨夜あれほど親身になって望を探してくれたというのに、今になって

 評価が変わる。我ながら現金なものだ。


 面倒事はさっさと処理するに限る。

 小田切はすぐに本部に向かった。

 普段は小規模な会議などに使用される部屋に通されると、

 年配の男性二人が遅れて入室する。

 二人は小田切と対面するように、隣り合って座ると、

 いきなり本題を切り出した。

 

 「小田切先生、あなたに不正経理の疑いがかかっています。

  今から事情を伺った後に、そのまま研究室へ向かってそこで

  証拠探しも行います。既に調査委員会も設置されて、今日の

  この事情聴取も研究室の調査も、委員会での決定事項です」


 小田切は昨夜と同じく、その場にへたり込んだ。


 (そんな馬鹿な……。昨晩言われた通りに話をしたのに……)


 調査委員会の委員らしき男たちは、小田切の不正経理については

 既に数週間前から発覚しており、調査委員会も発覚から一週間後に

 作られた。その後は告発者の証言を取入れて、少しずつ内偵を進め、

 告発者がゴーサインを出したので、今日の事情聴取に応じたのだと。


 (そんな前から、手を打たれていたのか……)


 脅迫者は初めから、約束を守る気などなかった。

 それなのに奴の行動に一喜一憂していた自分‐。

 本当に馬鹿みたいだ、と小田切は泣き笑いのような声を出す。

 

 「それでは、告発者は誰なんです?」


 「それは言えません。あなたは聞かれたことだけに、お答えください」


 丁寧だが、あくまで引く気はない口調。

 小田切は自分が、『被疑者』として扱われていることを痛感する。  


 文句をいいたくとも、脅迫者が昨夜使用していた旧携帯電話は、

 今や小田切の手の中にある。どう連絡をつけていいのか分からない。

 一方的な関係にすぎない。


 元営業マンの消息すら掴めなかった小田切には、反駁するだけの材料はない。

 大学当局の調査に素直に応じるしか、道はなかった。



14

 

「小田切先生に、私は架空の伝票を切って金をプールするように

 頼まれました。断ると、本社に報告すると脅されました」


あれほど探していた営業マンとようやく会えた時、彼は告発者として

小田切の前に現れた。昔のおどおどと顔色を伺っていた様子は一掃され、

目は憎しみで燃えていた。


細かく計上された今までの小田切の経費の流用。

被疑者の小田切に許される発言は、全て己の弁護の為に用いるのが

精一杯で、時間をかけて用意された証拠を握りつぶすことなど

到底できなかった。


同時期に、小田切がアカハラを5年前にしたというネット情報は、

関係者の間であっという間に広まった。

学部内では公然の秘密だったその裁判についての、噂が再燃する。

これは学部にとっては黒歴史そのもの。

火消しにかかったが、一度ネット上に出回ったものを回収することは

不可能だ。


不正経費と同時に、これらの問題も取り上げざるを得なかった。

この頃になると、学内の運動家たちも、教員に相応しくないのではと

大学当局を付き上げて来るようになってきた。


不正経理に対して厳しくなってきたこの時勢に、アカハラという爆弾も

抱えている小田切は、あからさまに学部に取って不要な存在であることが

浮き彫りになった。特に山瀬にとっては、小田切の問題の監督責任を

追求され付き上げられることが増え、口には出さぬがその機嫌は日ごとに

悪くなっていく。小田切は見捨てられまいと必死になった。


 後日、小田切は再び事情聴取を求められた。


 「まずはこれを聞いてもらいます」


 用意されたパソコンから、あの日の小田切と脅迫者との会話が流れ出す。

 ネットで流れたのとは異なり、実名に処理が施されていない。

 

 「これは小田切先生の声ですね?」


 「はい……」


 まぎれもない自分の声に、小田切は否定することはできなかった。


 「これはどういう経緯で録音されたものですか?」


 「脅されたんです。娘の命を危険にさらすと。それで言わされただけです。

  本当のことではない」


 不正経理のことも露見した今、犯人を庇う意味などない。

 告発した元営業マンへのせめてもの意趣返しとばかりに、

 小田切は堂々と真実を告げた。

 あの怪文書の送り主は、この告発者と繋がりがあるはず。

 それなら娘の狂言誘拐にも一役かっているはずだ。


 「それは変ですね。奥さまの証言だと、小田切先生が奥さまの下から

  娘さんを攫ったと聞きました」


 (加奈にまで調査の手が伸びているのか!)


 加奈にまで捜査の手が伸びていることに、小田切は驚きを隠せない。

 最後の電話のテンションだったら、小田切の事をどう評したのか想像が

 つく。


 「それは……親権の為に焦って。でも、その後に娘が攫われたと脅された

  のは事実です!」


 「……ここに警備員から提出してもらった記録があります」


そこには、もちろん小田切は被害者として書かれたが、当時の挙動に

不審な点があったことが指摘されていた。


「小田切先生が娘さんを攫われたと思い込んでいた為に、不自然な対応に

 なったことは分かりました。それでは脅している相手とは誰なんですか?」


「僕を告発した奴です!」


「それはありえません」


既に予期されていた答えだったのか、その日の元営業マンの行動は、

全て男が自ら報告し、裏も取れていると告げられた。


「それ以外では?」


「……分かりません。でも5年前の事件の関係者はどうです?

 土岐等さんと芹沢の家族は?今になって逆恨みしている可能性が

 あるのでは……?」


小田切は主犯が元営業マンで、彼の誘いで5年前の事件の関係者が

乗せられたと推理していた。二人で協力すれば、あの誘拐事件の時間

関係者が主犯に代わって例の電話をかけることもできる。

だが誰かまでは特定できていない。


いや頭に一人の人物が思い浮かぶのだが、それはありえないはずだ。


「何か証拠はあるのですか?」


「……いえ」


ここで一旦調査委員は、警備員による続報を知らせた。

警備は今回のような悪質な悪戯を防ぐために、犯人を探そうとしたことを

告げた。警備員が後日パソコンの型番号から所有者を探すが、

その所有者はとうにそのパソコンを廃棄しており、

リサイクルショップに売り払ったと報告した。

ネット契約をするわけでもなく、レジに顧客情報を入力する機械もない

簡素な店だった為、客の足取りはつかめない。

ドアに付けられたリモコン錠も、メーカーで作成されたものだったが、

それもネットオークションで手に入れたものなのか、記録されていた

所有者には怪しい点がなかった。


「これほど周到に準備するような相手に、本当に心当たりがない

 のですか?」


力なく「はい」と肯定する小田切に、調査委員は呆れたように、

後日処分を決めるとだけ告げた。

誰が脅迫していようと、不正経理の事実は変わらない。

ここまで事態が進んでは、今更元営業マンに詰め寄った所で

益はない。


例の件は昨日全て義務は果たしたと言うのに……。

 騙されたと独りごちる小田切に目もくれず、調査委員会の委員たちは

 事情聴取が終わるや否や、すぐに小田切の研究室へと移動する。

 彼らは実に精力的に職務をこなしていく。

 研究室の前では、異変に気付いた教員たちが、その様子を遠巻きに

 眺めていた。


  調査委員が出て行ってからも、小田切はソファーに座りこんだまま

  動くことができなかった。目は正常に機能しているはずなのに、

  周囲の景色を映さない。眼下に浮かぶのは、唯在りし日に小田切が

  犯した過ちのみ。


  今更嘆いたところでどうにもならないが、あの日の自分を殴り飛ばしたい。

  どうしてもっと上手くやらない?

  どうして後の禍になることを考えない?

 

  現実を引き戻したのは、一本の電話だった。


 「お前の罪、償う時が来た」


  公衆電話からの着信だ。それでも声は相変わらずの人工的な物。

  ざまあみろと言いたいらしい。唯それだけの為に電話をかけたのか。

  それだけで済ますかと、周囲に聞こえない程の音量で小田切は叫ぶ。


 「約束は守ったはずだ。どうして裏切った!ちゃんとお前の疑問に答えた

  はずだ。どうして研究費のことを!」


 「それはSNSに自分の罪を告白した場合だ。お前はそれを無視した。

   その報いを受けたのだ。疑問に答えたから、娘は無事でいたんだろ」


 「どのみち娘は、加奈のもとにいたから、無事だった。騙したな!」


  ツー。ツー。ツー。


そのとき、唐突に気付いてしまった。


(常川が黒幕ではないか?)


 そう考えれば説明がつく。

 5年前の事件を良く知っていること。

 不正資金を調査できる立場に合って、なおかつ自分に被害が及ばない人物。

 妻と顔なじみで、携帯も入手が可能な人物。

 この研究科等に出入りして、細工してもおかしくない人物。

 全ての手掛かりが此の男を指している。


 すぐに学生研究室にいる常川の元へ急ぐ。

 

「これで意趣返しのつもりか?とんでもないことをしてくれたな……。

 お前が仕組んだんだろう?そう考えればつじつまが合う。

 妻とも面識があるし、ずっと傍で俺のことをほくそ笑んで

 いたんだろう。最近になって大学に来るようになったのも

 小細工する為だったんだな」


「……お前らがCOEを押しつけたんだろうが。それに俺は今年

 最終学年だぞ。なりゆきとはいえ、学位くらいは取っておきたいからな」


 癇癪を起した子どもを宥めるように、落ち着いた返事をする常川。

 その余裕ある態度がさらに火を付けたのか、小田切は尚も続ける。


「こんなことをしたところで、今更何も変わらない。

 ハラスメントに関しては、誰も罰せないし、反省もさせられない。

 死んだ人間は戻ってこないし、失った時も帰ってこない。

 お前のしたことは全くの無駄だ」


「何を勘違いしているのか大体分かるが、俺じゃない」


「お前は他に逃げる場所があるから、そう言えるんだ。逃げ場のない

 人間はそこにしがみつくしかない。……お前みたいなきれいごと

 だけではやっていけないんだよ」


 黙って聞いていた常川は、珍しい生き物を見るかのように小田切が

 話すのを見ていた。あらかたの主張を聞き終えると、ただ一言

 ぽつりと言った。


「お前、可哀そうな奴だな」

 


15


 翌日は、優奈は常川に連れられて、加奈に会いに行った。


 望を連れた加奈は、以前よりどこか吹っ切れたように見える。

 髪型が短くなってきりっとしたせいかもしれない。


「久しぶり。どう、調子は?」


「はい。おかげさまで、小田切とも思い切って別居してからは、

 何だかすっきりしました」


「望ちゃんがいなくなったって、小田切大騒ぎだったんだぞ」


 加奈の膝の上で、絵本を読んでいる望の頭を撫でながら

 常川は言う。


「大騒ぎって……良く言いますよ。私から望を連れ去ろうとしていた

 くせに。そのくせ、望がいなくなったと分かっても電話もしようと

 しなかったんですもの。自分勝手な人だと言うことが良く分かりました」


 加奈は小田切が、望を連れて別居した加奈から、何とか親権を奪い取る

 為に望を連れ去ろうとしたことを話した。


「それで、望ちゃんは一体どこにいたんだい?」


「親切な方が連れて来てくださったんです」


 加奈はその日の事を話してくれた。


 塾で授業が終わってのんびりしていると、小田切から「望をこちらで

 預かる」というメールが届いた。確認の為すぐに電話をかけると、望を

 義実家で預かると一方的に通告して、切られてしまった。


 慌てた加奈が車へ向かうと、天原から電話が入り、塾に小さな女の子を

 連れた人が加奈を探していると告げられて、急いで引き返したそうだ。

 戻ると、スーツを着た若い男が望の手を引いて、事情を話してくれたという。


「この娘さんが、駐車場の車内に一人でいたんです。どうも様子がおかしい

 ので、ドアをあけるとキーが掛かっていなかったのか、すぐに開きました。

 それで『ママに会いたい』と何度も言っていたので、誘拐の可能性もあると

 思い、差し出がましいかもしれませんが、すぐにそのまま自分の車に

 乗せて、望ちゃんの持っていたバッグからあなたの場所を探しだした

 というわけです」


 その男は爽やかに笑う。恰好は夜の男だが、良い人そうだ。

 その車の特徴を聞くと、どうやら義両親の車に乗せられていたようだ。

 先程の電話での応対といい、小田切が勝手に連れ去ろうとしていたのを

 了解した上で、協力したのだろう。

 小田切からいつか望をとられてしまうのではないか。

 不安で苦しくて、望を抱きしめながら泣いてしまった。

 つい先頃まで愛人らしき女からの、電話も止むことがなかったのだ。

 

 驚いた男性は、ハンカチを差し出してくれた。

 清潔感のある男性のハンカチが、小田切と比べて新鮮だったのを覚えて

 いる。


 望は疲れてしまったのか、さっきまではしゃいでいたのがすっかり

 眠りこけている。仕方なく移動させる。礼がしたかったので、ささやか

 ではあるが食事に招待した。仕事終わりの天原も一緒だし、誤解される

 こともないだろう。


「宜しかったら、どうぞ。一週間程気分転換されてはいかがですか?」


 そう言われて出されたのが、ホテルの宿泊券だった。大人二人分だ。


3歳以下の御子さんなら無料で同伴できますし、設備もあるはずですよ。

 もしお時間があるというのなら、そちらのお嬢さんと一緒に行かれても

 よろしいですし。相手が急にいけなくなってしまったので、払い戻しを

 しようと思っていたんです。せっかくなので使ってみてはいかがですか?」


「うわあ、ここ高いホテルじゃないですか?行かないなら私がもらいますよ!」


 このまま家にいたら、居場所が知られている以上、またいつ望を連れ

 去られるのか分からない。もうあの家の人間は信用できない。

 愛人らしき女にも狙われている今、保育園にも預けられない。

 仕事もあるし、と心配する。

 場所は街から程良く離れた海辺で、来るまで一時間ほどの場所。

 通勤する分にはそれほど大変ではない。

 ホテルのパンフレットを見ると、子どもを預ける場所もある。


「子どもを預かる場所もありますし、どうでしょう?」


 まさに渡りに船。

 躊躇しないわけでもない。

 タイミングが良すぎはする。

 でも断る理由はなかった。


 「できすぎているな」


 話を聞き終えた常川の感想だ。

 優奈もなんだか腑に落ちない。

 ちょうど義両親の車に居合わせた。

 ちょうど大人二人分のホテル券を持っていた。

 うさんくさい。

 意図的なものを感じる


 「どんなやつなんだ?その男は?」


 「すっごく素敵な人。明るくて気さくで。見た目ももちろん良いん

  だけれど、まあそれにも増してトークがたつの。話していて全く

  飽きないわ」



16


「あと数日で君の処分が決まる。先に大学に知れただけ儲けものだ。

  今ならやり方次第でダメージを減らすことができる。小田切君、

  退くのも勇気だよ」


 山瀬の忠実なる部下の田淵がアドバイスをしかけてきた。

 田淵に一斉送信以外のメールをもらったのは、何年前だろうか?

 山瀬の覚えがめでたい頃には、小田切の事を褒めちぎっていたくせに、

 現金なものだ。いやもしかしたら山瀬が言わせているのかもしれない。


 あの件以来目に見えて機嫌の悪い山瀬に、小田切自身迷惑をかけている

 負い目で遠慮していることもある。メールも電話でも相談して見たものの、

 全く返事はない。完全に切り捨てられたと言うことか。


 脅迫者に脅されても山瀬の関与を否定したと言うのに、この仕打ち。

 こんなことなら一蓮托生にするべきだった。

 小田切は自分の忠誠を悔やむ。


 (今辞職してダメージを最小限にするか?それでも刑事罰は免れまい。

   それに今まで僕がやって来たことは、この職にしがみつくことでは

   なかったのか。懲戒解雇処分が出ない限り、粘っていれば、また日の目を

   見ることもあるはずだ)


 小田切に処分が下ったのはそれから数日後のことだった。

 

 停職2ヶ月。

   山瀬は管理責任を取って、同じく訓告処分を受けた。

 なぜか佐々木の責任は不問。 

   今回の不正経理事件は、全て小田切一人の責任となり、幕引きとなった。


  やはり民間企業と比べると、少ない位だが、小田切にはそれなりに利いた。

  履歴書から消えない汚点。

 出世の為には、大きな障害になるだろう。

 

 それでも。

  それでも、これで全部終わった。

  処分が出て、むしろ小田切はほっとした。


  長い休みと捉え、この時間に加奈との関係をはっきりさせる。

  終わってしまったことは、取り返しがつかない。

  だが夫婦関係のひび割れはまだ修復できる。

  前回の騒動で、夫婦関係の歪みで他人を巻き込んだ人間だと

  思われている醜聞だけでも消すのだ。

  

 家族関係を盤石にしていないから、今回の失態を起こしたとも言える。

 

  修復できれば最上、できなくても望はもらう。

  決意して自宅に帰る。


  電気は暗く誰もいなかった。

  一度だけ通じた携帯電話にかけているが、あれ以降全く出てくれない。

  加奈の本気の怒りを感じる。


(もう取り戻すことは出来ないのか……。こういうときこそ助け合うのが

  夫婦というものだろう。都合が悪いからと言って、捨てるなんて。所詮

  その程度の人間だったのか)


  家の中は荒らされていた。

  自宅に届けられた不審な手紙や、保育園に届けられた怪文書まで、机の上に

  出されている。家探しでもしたかのような、荒れようだ。


(これは、加奈がやったのか?)


  心がすさんで望に危害でも加えていたら一大事だ。

  慌ててどこかに加奈か望がいないかと、探しまわる。


「ようやく会えたな」


  振り向く前に小田切の視界は暗転し、その場に崩れ落ちる。

 

 翌日以降、小田切の姿を見た者はいなかった。 



17


「これからどうするんですか?」


 ホテルのラウンジで待ち合わせた男と、加奈はお茶を飲んでいた。

 望もプリンを食べてご満悦な顔をしている。


「しばらく実家に帰ります」


「確か遠方だったとか……」


「ええ。でも小田切の元にはもういられません。望のことも

 そうですが、一度家に戻った時に、家の中がしっちゃかめっちゃかに

 なっていたんです。例の事件の事に関する書類だけが机の上に乗って

 いて、それ以外は本当に家探しでもしたかのように。あんな状態の

ところへ戻るなんて、怖くてできません」


望の事で怒り心頭だった加奈だったが、さすがに不祥事がぼろぼろと

出てきた小田切を哀れに思い、一旦家に帰って小田切に一時休戦を

申し込もうとしたらしい。

しばらく留守にしていたので、掃除をして好物でも作ってやろうと

部屋に入ると、そこはカオスであったと。


合いカギはいつも所定の位置に隠してあるので、小田切はいつでも

入ることが出来る。家に帰った小田切が気持ちに任せて一人暴れていた

としたら、その矛先は加奈たちにもいずれ向かうかもしれない。


そう考えると、一気に哀れみも、引っ込んだ。

それ以降も小田切からは、助けを請いたいのか、よりを戻したいのか

何度も着信があるが、気味が悪くて出られない。

感情をぶつける相手が欲しいだけなのではと、恐ろしくなると

加奈は言った。


「そういうときこそ佐々木さんを頼ればいいのに」


吐き捨てるように、加奈は言う。


小田切と佐々木がしばしば近所で目撃され、近隣で噂の的に

なっていた。近隣や保育園での保護者の様子がおかしかった原因は、

それだったのかと知ったばかりなので、無理もない。

周囲の様子がおかしかったのは、余所様の家庭に口を出すのを遠慮

していただけだった。別居したのを見て、既に浮気の事実を突き止めたと

判断した隣人たちが打ち明けてくれた。


(あの噂のせいではなかったんだ……)


ほっとすると同時に加奈は激怒した。


当時は塾への妙な電話のせいで疑心暗鬼になって、周囲が敵だとばかり

思っていたけれど、敵は小田切一人だったのだ。

例の噂だって小田切の行為あってこそ。


思い出して腹が立って来たのか、眉間を寄せて加奈は唇を噛みしめる。


 男は静かに相槌を打ちながら、その話を聞いている。


 そうしている間にも、加奈の携帯が鳴る。

 うんざりした顔で、さっさと電源ボタンを二度押しする。


 「自分がピンチの時だけ、助けを求めるなんて、都合が良すぎるのよ」



18


「失礼します。学内新聞なんですけれど、取材お願いしてもいいですかあ?」


 学部生らしい女子が二人程、研究室にやってきた。

 皆何事だと彼女たちの説明を聞いてみると、現在学内新聞で夏の心霊

 特集の記事集めをしていて、例の開かずの部屋のことが話題になったという。


 あの場にいた大学院生が口を滑らせたのだろうか。それとも既に学内では

 話題になっていたことなのか。いずれにしろ迷惑なことだ。


「それで、つい最近も小田切先生が開かずの部屋に入って、

 行方が分からなくなったと聞いたので、本当か聞きに来ました!」


 皆顔を見合わせる。


 小田切が失踪して既に一週間が過ぎた。

 小田切の両親からの問い合わせで、失踪が分かったが経緯が経緯なので

 自分の意思で失踪したと思われていた。

 不正経理の件では国税局も動き出している。


 これ以上の不祥事は困ると、大学としては失踪の件を外部に

 漏らさないようにお達しがでているのだ。

 失踪したところで調査を免れる訳ではないが、それを苦に

 身柄の拘束を恐れて逃亡したとは考えられる。

 いずれにしろ外聞の悪いことであり、既に周囲には知られてしまって

 いるが、勧んで広めて良い話ではない。


「……今現在失踪している人がいるんです。無遠慮に尋ねてもいい

 話題ではありませんよ」


 ややきつすぎると思ったが、それでもこれ以上詮索されたら面倒なこと

 になる。この言葉に、彼女たちは黄色い悲鳴を出して、むしろ喜んだ。


 「じゃあ、本当だったんですね。うわあこれ、記事になりますよ。

  大スクープです!」


 「いや、説明はできないって」

 

 「いなくなったことが本当なら、まずはOKです。それで、こっちが本題

  なんですけれど、何年か前にこの研究室で、居なくなった人いましたよね?

  あそこの開かずの部屋に入ってから。あれってここの研究室の院生だって

  聞きましたけど。本当ですかあ?」


 「院生なんて、すぐに居なくなる生き物だからな。誰の事言ってんだ?」

 

  常川が代わりに答える。

  答えられないのか、面倒なのかスポークスマンの役割をさっさと任せて

  他の院生は自分の持ち場に戻ってしまった。

  横に居た別の女の子が、メモを見ながら答える。


 「何年か前に、肝試しをしてから、様子がおかしくなって、その後あの

  部屋に入って出てこなくなったとか」


 「ああ、塔堂のことか。良く調べたなあ。確かにそいつなら、俺が休学

  から戻ったら、居なくなっていたな。その時誰かがそんなこと言って

  いた。確かにその頃にそいつの両親からも電話かかってきたから

    覚えているよ」


 「随分長く、大学いるんですねえ。詳しく教えてもらってもいいですかあ?」


 「長く」と言う言葉に若干反応した常川だったが、まあ昔のことだしと

  話し出した。


  その学生は数年前に山瀬研究室の大学院生だった。

  お調子者で周りの反応を読むのが上手い学生。

  そいつがある日話題作りの為に、一人で殺人現場に肝試しに

  行ったんだ。


    当時この辺りでは連続殺人事件が起こっていてな。
  そのうちの一つが、ある別荘での集団殺人だった。
  期間はそれほど近くない。
  手口もバラバラ。ただ殺される理由が見当たらない人間ばかりが
  殺されている点で、共通していた。
  
  殺される前に何か異変が生じていた訳でもなく。
  人間関係のしがらみも、周囲の証言では見当たらない。
  人生で不遇な状況下にあったわけでもない。

  だから警察もそれぞれが通り魔的な単独犯の場合と、模倣犯を

  含めた複数による犯行とで区別して捜査していた。

  
  で、そいつがそこから帰って来てから、様子がおかしくてなった。
  異常に怯えているんだよ。誰かに見られている気がする。

  そんなことをいつも言うようになった。

  でもそいつがお調子者っていうのは皆知っていたから、雰囲気を

  出して、怖い話っぽくしたがっただけなんだろうと。
  だからあまり皆気にしなかったらしい。
  気が引きたいだけなんだと、そう思っていたという。
  
  そしてあの部屋に入った‐。

  「本当にそれ以降、姿が見られないんですか?」

  「それは本当だ。アパートにも帰っていないようだと

   両親から大学に問い合わせがあったからな」

  「それでその人は……」

  「退学になったかな? 休学届を期間全部使うまで待っていたんだが、
   結局帰ってこなかった。ご両親もいないのに授業料を払っても仕方
   ないからと、退学したよ」

 「その人は未だに見つかっていないんですか?」


 「さあな休学してから退学したからな。そこまでは知らん」

   

  これだけの情報でも彼女たちにとっては満足するに値するものだった

  らしく、ほくほくと帰って行った。

  一方で機嫌よく話していた常川は、憑かれたかのように物想いに

  ふけっていた。

                            

 


19


  

 「俺はあの部屋が、5年前のハラスメント事件の鍵になって

  いると思っている」


  新聞部の学生達が帰って三十分ほど経過した頃、常川は

  優奈以外いなくなった研究室で、ぽつりと言った。


  怪談に登場する院生が失踪したのも、ハラスメント事件で

  土岐等が入院する直前のことだという。

   常川はその学生も良く知っていた。


  今回小田切に5年前の事件を公表せよと迫った犯人も、

  開かずの間に娘がいると、詐称した。

  これは偶然なのか、あの部屋であることに意味があるのか‐。

  
  「あの当時うちの研究室に所属していて、ハラスメントに

   関わっていない訳がない。加害者か被害者かは分からないけれど。

   そういう雰囲気だった。あいつはどっちにもなる可能性のあった

   奴だ。だからもし被害者だとしたら、いなくなった理由も……」


  「嫌がらせから逃れる為に、失踪した可能性があると……」

   

  「普通なら、そんな状態なら退学した方がいいだろう。

   借金をしているわけでもなし。あえてその道を選んだのだとしたら

   復讐に人生を賭けることもことも考えられないわけでもない。

   ……いや最悪の場合、いやさすがにこれはあり得ないか」


   常川が最後に漏らした言葉の意図は分からなかったが、

   もしその人物が復讐に回ったのだとしたら、説明が付く気が

   した。


  「じゃあ、その人が失踪してどこかにいて、小田切先生を脅していた

   と言うんですか? でも、流された噂では、土岐等さんと芹沢さんの

   ことしか聞いていませんでしたよ? もし復讐したいのなら、自分に

   したことへの言及をまずは要求するんじゃないですか?」


  「犯人は5年前の事件の真相を知り、その上でその内容を広めたがっている。

   この条件に合う人間の一人に過ぎないというだけだ。思った以上に闇の

   深い事件かもな」


   小田切への攻撃は単なる序章にすぎないのかもしれない。

   常川は空恐ろしい宣託をする。


  「ま、なんにしろ、成功だったな」

  

  急にくだけた口調で小田切は言う。


 「?」


 不思議そうな顔をして見せると、常川は馬鹿にした目つきで言う。


  「まだ分からないのか? この怪談噺を作ったのは俺なんだよ」


  「はあ?」


  驚きが怒りに変わる優奈。

  それではさっきの取材に常川オリジナルの捏造話をしたということか。

  瑣末な記事だが、それでも嘘は駄目だろう。

  優奈が咎める視線を寄こすと、常川は慌てて否定する。


 「嘘じゃない。本当にあそこの部屋に入ってから、そいつは消えたんだ。

  それだけだと皆の記憶から忘れられるだけだ。だから怪談話に仕立てて

  忘れられないようにしたんだよ」


 「怪談として残しておけば、ずっと忘れないで伝わって行くだろ。

  そうしたら誰かが真実を解明しようとするかもしれない。

  そう思った。例え自分が解決できなくても」


 常川は満足そうに、そう告白した。



20


 

 小田切が失踪した分増えた仕事は、山瀬がカバーすることになり、
 山瀬が研究室に顔を出すのは一層減って行った。


 「山瀬先生は、本当に良い先生ですよね。あの事件の事にも触れず、

  黙って小田切先生の尻拭いをしてあげるなんて。なかなか出来ること

  じゃないですよ」


 常川は呆れたように言う。


 「お前は本当に山瀬を気に行っているんだな。老け専か?」


 「はあ? 変なこと言わないでください。私は尊敬しているだけですよ。

   そのために何年もかかってこの大学に入学したんですから。それから

   指導教官を呼び捨てにしないで下さい」


 「お前なあ。あまり理想を押しつけると、後で泣きをみるぞ」


 「常川さんみたいに、理想も何もない人間の方が可哀そうですよ。

  尊敬する人もいないでしょ?」


 「俺は俺を尊敬しているからな」


 心底うざったそうに常川の相手をする優奈。

 当然研究室内での会話なのだが、誰も会話に入ってこようとはしない。

 小田切失踪当初は、大いに動揺していた研究室だったが、

 小田切不在の研究計画を新たに練り直したのか、今では滞りなく全ての

 業務が進んでいる。

 

 偶に誰かが、「今頃どうしているのだろう?」と呟くくらいだ。

 そんな中、常川は独自に小田切の行方を探していた。


 「別に小田切の為ではない。あくまで加奈さんの為だ」と嘯く。


 小田切の失踪以来、加奈はすっかり自責の念に苛まれている。

 自分が冷たくしたせいだと落ち込み、ご飯も喉を通らない。

 幾度も着信があったのに、無視してでなかった。

 そのせいで小田切は将来を悲観して自殺しているんじゃないかと。

 義両親ともそのことで揉めていると、零していたと常川は言っていた。


 居場所を知っていそうな人間の第一候補は、佐々木だった。

 あれだけ一緒に居て、佐々木は不正経理の責を問われないだけでなく、

 今や小田切の代役まで果たしている。

 怪文書の記述が正しいのだとすると、佐々木は5年前のハラスメント事件

 にも大部分で関わっているはず。

 小田切が自分の意思で失踪したにしろ、脅迫者に攫われたにしろ

 何かを知っていると考えるのが自然だ。優奈も常川の読みには賛同する。


 だが何度聞いても佐々木は知らないと言うし、むしろ公表された

 小田切と犯人の会話のせいで、迷惑を被っていると主張したらしい。

 

 「脅していた奴の目的は果たしたんだ。これ以上小田切に危害を加えた

  ところで、リスクしか生じない」


 心当たりを全て探しても小田切が見つからず、半狂乱の加奈に、

 常川はそういって慰めていた。

 縁もゆかりもない土地で、一から人生をやり直しているのなら、

 見つけようがない。探すだけ探したら、後は小田切が連絡する

 気になるのを待って、祈ることしか加奈はできなかった。

  

 その数週間後、小田切は発見された。

 他県の山奥深く。

 登山姿のまま山道に倒れていた。


 登山客に発見された遺体は、鑑定によって小田切のものとされた。

 死因は中毒死。

 山に自生している有毒の植物を煎じた茶が、水筒に入っていて

 それを飲用したことによる中毒死だった。


 遺書もないが、争った形跡もない。

 一連の職場での不祥事や、家庭問題でも悩んでいたとの証言から、

 自殺と断定された。

 

 時は流れ、あの自殺した学生のように人々の記憶は曖昧となり、

 大学は次の候補者を探した。下で待機している候補者は山ほどいる。

 その中で結局選ばれたのは、山瀬研究室OBの佐々木が後釜に座った。

 既に学内の同じCOEの助教でもあり、山瀬の強い推薦から手続き上は

 さしたる障害もなく就任した。


 佐々木は山瀬教授の下修士、博士と学位を進めてきた女性で、

 着任と同時に、ハラスメント相談員を兼職することとなった。

 心理士ではないが、大学内について詳しいと言うことで抜擢

 されたらしい。

 

 アカデミック・ポストを狙っているポスドクはいっぱいいるので、

 佐々木は相当運が良い。後継者を迎え、時は何事もなかったかの

 ように流れていく。

 

 新緑の季節は深まり、すこしずつ季節は巡っていく。新たな季節が

 始まろうとしていた。



21


 老人が柄杓と桶を、墓場に続く細道を歩く。

 いつものように既に墓には花が生けてあり、焼け落ちた線香の残骸が

 残っていた。墓の周囲の草も綺麗に抜かれている。

 また来てくれたのだなと、老人は頬を緩めた。


  その日の夜-。


 明るすぎる太陽が眠りにつく頃を盛りとする、夜の社交場では、

 今日も嬌声がそこかしこから聞こえる。

 焔はオーナーだが、店が忙しかったり、昔の馴染みから指名されれば、

 フロアに顔を出すこともある。


 「ねえ、前のどうだった? 好評だった?」


 グラスで乾杯をした後に、女は急かすように問う。

 当然答えは、一つしか認めないつもりだけれど。

 

 「ええ。大好評でした。やはりサヤカさんに頼んで良かった」


 目をじっと見つめて言うと、女は頬を染めて下を向く。

 

 「そっか。良かった」


 気合いを入れた服が、通い慣れた客でないことを示している。

 

 「ちょっと電話が。失礼します」


 「女の人?」


 「まさか仕事の相手ですよ」


 むくれるサヤカに苦笑しながら、焔は代わりにと新顔を紹介する。

 

 「彼は元々営業畑にいたのを、僕がスカウトしたんです」


 慣れない仕草で名刺を渡したのは、紛れもなく大学の調査委員会で

 小田切を告発した男だ。今は焔に誘われ、夜の繁華街で第二の人生を

 歩んでいる。

 情けないだの散々罵られた顔は、繊細な顔として、女性客からの

 人気も上々だ。


 サヤカも直ぐに気に入ったらしく、すぐに隣に座らせた。

 二人が話し始めるのを見届けると、焔は自室へ移動した。 

   

 「上手くいきましたね」

 

  自室のソファーに座って、ナンバーを確認するとかかって来た

  電話は、天原からだった。

  誰もいない自室だが、念のため声を潜める。

  自室に営業スマイルは必要ない。

  本来の仏頂面に戻る。


 「お前の番はこれからだ」


  最小限の一言で切ろうとすると、珍しく天原は食い下がる。


 「あの人には会わせてくれないの?」


 「必要が無い。必要以上の接触はトラブルの元だ」


 「……そういうことにしておきましょう」


 「油断するな」


 「はいはい。そっちこそ盗聴器の回収は終わったんでしょうね?」


 「当たり前だ」


  押し殺したような笑い声が、なんだかむず痒くて、焔は今度こそ

  携帯電話を切った。

  そして天原と初めて会った時のことを思い出す。

  ただ天井だけ見ていた頃の面影は、今はない。

  口には出さないが、焔は天原の強さには一目置いている。


 (あれが笑うようになるとは)


  感慨深いものを感じながら、ポケットに携帯を仕舞うと

  待ち人に会いに向かった。


  今日もまだまだ夜は長い。