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継続

1


 「もしもし、どちら様ですか?」


 「……ツー・ツー」


 また無言電話だ。

 加奈は首を捻ると、受話器を下ろした。


 今月に入ってから、毎日のようにかかってくる無言電話。

 いつも小田切が居ない時を見計らったかのようなタイミングでかかってくる。

 といっても一日に一度。休日で小田切が居る時にはかかってこない。

 実害はほぼ無に等しいのだが、気味が悪い。


 (この近辺では流行っている悪戯なのかな?)


 電話帳に掲載されている電話番号に無作為に電話をかける悪戯

 なのかもしれない。最近ではかかってくる度に、その番号を

 登録して次回から分かるように設定するが、それでも毎回

 違う番号からかかってくる。


 (警察に相談するほどのことでもないし……。誰か近所の人に聞いて

  みた方がいいのかな。何か対策を教えてくれるかもしれない)

 

 ボーン。ボーン。ボーン。


 柱時計が九時を知らせる音で、加奈は我に返る。

 そろそろ出勤の時間だ。

 

 まだお絵描きに夢中の望に準備するよう促す。

 保育園の服と帽子は既に身に付けているので、後は鞄を取りに行く

 だけの状態だ。早め早めに準備する慎重な性格は、小田切の影響だろう。

  

 望を助手席に乗せ自動車を発進させる。

 小田切とは別に購入した軽自動車は、軽やかな音を立てて、

 住宅街を走り出した。


 小田切家は大学から車で三十分程の位置にある、賃貸のファミリー・

 マンションにある。

 勤務先の大学へは車で三十分程で、近すぎず遠すぎない適度な距離。

 買い物や職場へのアクセスに支障がないこと。

 その割に自然に恵まれた立地環境。

 様々な物件を吟味した結果、二人の意見が一致したのがここだった。

  

 「ママ、今日はお迎え何時頃?」


 「七時ぐらい。遅くなってごめんね」

 

 加奈は塾で英語を教えている。

 父親の仕事の関係で、アメリカに数年滞在していた経験に加え、

 大学も英文学科に進学した経歴から、英語を使う職に就いたのは

 必然と言って良かった。それに加えて、大学時代の伝手で、

 頼まれて翻訳の仕事をするときもある。小中学生を対象とした

 授業なので、勤務時間は午後遅くからが多く、一教科だけという

 こともあり、時間には余裕がある。

 

 小田切の両親も同じ市内に住んでいるので、喜んで

 望の世話を引き受けてくれるのもありがたい。子育てに手を抜くことなく

 仕事にも専念できる環境にあることに、加奈は本当に感謝している。


 それでもあえて望を保育園に預けるのは、一人っ子の望に

 同年代の子どもとの交流の仕方を教える意味合いが大きい。

 もちろん義理の両親に頼りっぱなしには、できないという遠慮もあるが。


 幸い今年3歳になる望は人見知りすることなく、保育園で友人と遊ぶのを

 楽しみにしており、子育ても順調。


 今日も待ちきれないというように、車から降りた望は

 加奈が先生に挨拶している間に、もう運動場で遊ぶ友達の方へと

 駆けだしている。


 「もう、先生に挨拶しなきゃ駄目でしょう!」


 一声かけると、望は遠くから大声で先生に挨拶する。

 加奈が困った顔をして見せると、担任のベテランの保育士は

 慈愛のこもった笑顔で応じてくれる。

 望に触発されたかのように、他の園児たちもわあっと駆けていく。

 それぞれの保護者たちとも、一通り挨拶を交わすと加奈は

 勤務先の塾へ向かった。


 平凡だけれど、満ち足りた日々。

 それがこの日を境に音を立てて崩れていくとは、

 この時の加奈は想像だにしていなかった。

 


2


 ことの発端は加奈が勤めている学習塾にかかってきた一本の

 電話だった。


 いつもはなんだかんだと上手に応対する受付の女の子が、救いを

 求めるように講師室を見つめていた。入口の傍にあるデスクが受付

 であり、講師室は受付の横に位置する。ガラス壁に仕切られているので、

 お互いの動向はすぐに分かる。塾長室は講師室の奥にある個室であるが、

 塾長自らも教鞭を取っているため、今も講師室で授業で使用する

 レジュメのコピーをとっている。まだ時間が早いので、今講師室に

 居るのは塾長と加奈だけだ。


 授業の予習に夢中になっていた加奈の方が異変に気付くのが遅かった

 ようで、塾長は既に異変に感づいていたのか、黙って受付嬢の動向を

 伺っている。堪りかねた受付嬢が手招きで救いを求めると、それを

 予期していたのかスムーズな動きで塾長が近づく。

 

 こちらからは姿は見えるが、話している内容までは聞き取れない。

 見えない相手に対して受付嬢が、必死で何事かを話していることだけが、

 分かる。受付嬢が保留ボタンを押したのを確認して、塾長が声をかける。

 会話中、受付嬢はなぜか加奈の様子をちらりと伺い見た。


 「?」


 先程塾長と世間話で話題にした、無言電話なのだろうか?

 塾長はこの塾には無言電話なんて、めったにかかってこないと

 言っていたけれど。

 

 (それに何か話をしていたようだったけれど……?)


 もし無言電話なら、受付嬢は相手とどんな話をしたというのか。

 それとも、馬鹿げた悪戯を止めるよう諭していたのか。


 受付嬢から受話器を任された塾長は、動揺することもなく

 相手に対応すると、電話を終わらせた。横で見るからにはらはらと

 成り行きを見守っている受付嬢とは対照的だ。

 「さすが年の功」と失礼ながら、加奈は思った。


 電話が終わると受付嬢はすぐに塾長に糺すが、人目を気にするような

 内容なのか塾長は彼女を促し、そっと二人は塾長室に消えた。

 

 (なんだったんだろう。一体……)


 ぼうっと塾長室を眺めていると、外から児童の騒ぐ声が聞こえてくる。

 ガラス壁越しに外を見れば、ランドセルを背負った小学生たちがふざけ

 ながら下校している。


 時計を見れば午後三時半。

 あと一時間で児童がやってくる。

 加奈は予習に戻った。


 塾生の声が聞こえ、授業開始のベルが鳴る頃には、加奈はもうすっかり

 通常の仕事モードに戻り、終業の頃にはすっかり忘却していた。

 

 受験を控えた児童の質問に応えていると、すっかり外は暗くなっている。

 望を保育園に迎えに行く時間が迫り、加奈は帰り支度に追われていた。

 

 「小田切先生、ちょっといいかしら……」


 他の職員同様、とうに帰宅していたと思いこんでいた塾長が呼びとめる。

 白髪をきれいに後ろで結わえた塾長は、学校の先生のように常に職員に

 「先生」と付ける。全体的に所作が上品なところを、加奈は密かに憧れて

 いたりする。塾にも誰よりも早くに出勤し、誰よりも遅くまで仕事している。

 教育者として尊敬すべき人物で、ユーモアもある。

 普段であれば呼びとめられることは、喜ばしいことだ。 

 

 だが今は少し焦っていた。

 一分でも望の迎えが遅れると、延滞料金が発生するのだ。


 「何でしょうか?」


 言いながら塾長室へ入っても、保育園の時間が気になってそわそわ

 してしまう加奈。その様子に「終業間際に引き留めてごめんなさいね」と

 先制されてしまえば、それ以上は何も言えなかった。

 話を促すと、塾長は声を潜める。

 周囲にはもう誰も残っていないと言うのに。


 「個人的な質問ですので、どうしても話したくないのであれば

  無理強いはしません。ですが今後のうちの経営にも関わる

  ことなので、できれば力を貸して頂きたいの」


 あくまで「自発的」に応えることを促しながらも、その目は真剣

 そのもので問題が複雑であることを臭わせていた。


 「お話しを聞かなければ、お答えできませんが……。私に応え

  られることであれば、もちろんお答えしますよ」


 応えられないような質問なんて、頭に全く浮かばなかったが、

 それでもその顔の真剣さから念の為逃げ道を用意しておく。

 質問できる許可をもらったと受け取ったのか、塾長は一呼吸置いて、

 尋ねる。


 「今日の午後に、受付に電話がかかって来たことを覚えていますか?」


 言われて、そう言えば電話の応対をしていた女の子が妙な雰囲気であった

 ことを思い出した。そう告げると、塾長は本題に入る。

  

 「相手の方は名乗らなかったけれど、内容からうちの塾生の

  保護者の方だと思うわ。その方がこうお尋ねになったの」


 『そちらの塾にいらっしゃる小田切先生のことで、良くない噂を耳に

  したんです。旦那さんが酷いアカデミック・ハラスメントをして

    学生さんを一人死なせたと聞いたのですが。本当ですか?もし本当

    ならそんな人の関係者に、子どもに教育を受けさせたくありません。

    今すぐクラスを変更させて下さい』


 「そうおっしゃって。それで一旦確認することで、納得して頂いたの」


 「……」


 飽いた口がふさがらない。

 知らされた加奈は酷く狼狽した。想像もしたことのなかった問い。

 まさか夫の事で自分が窮地に追い込まれるとは予想だにしていなかった。


 「もしそうだとしても、それはあなたには責任がないことは分かっています。

  ただ……保護者を納得させる為には、こちらとしても誠意を見せなければ

  いけません。大事なお子さんをお預かりしているわけですから」

 

 「……そうですよね」


 加奈はどこか他人事のように聞いていた。

 この想像を凌駕した展開に、気持ちが追いついていない。

 その態度を見て、少し躊躇ってから塾長は言い辛そうに続ける。

 

 「実は……今回が初めてではないんですよ」


 少し以前から数件同じ内容の問い合わせがあったのという。

 今回の受付嬢の挙動不審な態度は、怪しい電話に怯えたのではなく、

 幾度も同じ内容の質問を受けて困っていたからだと説明された。


 「いずれにしろ、小田切先生自体に落ち度があるわけではありません。

 塾としても、これが理由であなたを解雇しようとは思っていませんよ。

 ただ経営者として事実確認をする必要があるんです。今後の対応を考え

 なければいけませんから」

 


3


 塾長は保育園の時間を気にしていたのか、要件を告げると
 ぽんぽんと加奈の
肩を叩いて「はい。お疲れ様」と言って帰宅を
 促した。魔法が解かれたかの
ように、我に返ると取り繕うように
 挨拶をして、加奈は塾長室から退出
した。
 
  夫にこの件をどう尋ねればいいのか。

 こんなのは中傷に決まっている。

 でももし本当だったとしたら、自分はどうすればいいのか。

 望にまで影響することはないのか。

 その学生の御両親にどう顔向けすればいいのか。


 突如訪れた疑惑の種に、加奈はなす術がない。 


 加奈の勤めている学習塾は、地元ではその独自性で有名な学習塾で、

 通常の進学コース以外にも、不登校の子どもたちへの特別プログラムも

 用意していることでマスコミにも広く知れ渡っている塾だ。そのため

 こんな噂は営業に大いに差し支える可能性があった。塾長はあくまで

 本当だったとしても加奈には責任はないと言ったが、全国区の塾ではなく、

 地元に特化した塾である以上、その噂がどれほど致命的であるのかが

 分からない程、加奈は無神経ではなかった。

 

 時計を見るとまだ予定の迎えの時間に間に合う時間。


 それでも心の整理をする為には、時間が必要だと直感が告げている。

 配慮してくれた塾長には申し訳ないが、加奈には今から保育園に到着

 するまでの短時間で、いつもの自分に戻れる自信はなかった。

 

 迎えに行く時間は事前に告げてあるが、保育園自体は十時まで

 開園している。理由が理由なので後ろめたい気持ちを持ちながらも、

 自分の直観に従って、加奈は保育園に一時間の延長を願い出た。

 

 電話を切って、息を大きく吐く。

 正面を見ると、誰もいない受付から携帯電話を握っている自分が、

 塾の入口に置かれている大鏡に映る。その姿が何とも小さく見えて、

 心もとない。幸い、今まで一度も遅刻や無理なお願いをしてこなかった

 ことも功を奏したのか、延長はあっさりと認めてもらえた。


 (これで少しは余裕ができる。一時間の間に気持ちを落ち着けないと)


 好きな音楽をかけながらドライブでもして気持ちを落ちつけようと、

 駐車場へ向かう。

 それが最善の策とは我ながら思えなかったが、それくらいしか気を

 紛らわせる方法が見つからない。早足で入口の自動ドアを通ると、

 背後から声がした。 

 

 「あの、ちょっとお時間頂戴してもいいですか?」

  

 そこには昼に電話に対応した受付嬢天原が立っていた。


 (そうかこの娘も、電話の内容を知っているんだ……)


 もともと挨拶だけの関係で、あまり話をしてこなかった子だ。

 何を意図しているのか、理解できなかった。


 天原は遠くの県の出身で、大学からこちらへ出てきた短大生だ。

 まだ新入生で若さにあふれている。その分幼いともいえるが。

 染めた髪をゆるく巻いた髪型は、朝に相当のセットする時間を

 必要としそうだ。服も事務服しか注意して見たことはなかったが、

 今着ている私服はフェミニン系で華奢。

 いかにも女の子といったかわいらしい子。

 いつもどこか舌足らずな話し方が、俗に言う『癒し系』と印象

 づけるらしく、この塾でも男子学生に人気がある。


 誰とも話したくない気分の加奈は、正直面倒くさいと感じた。

 そもそも話すことなどない。

 保育園を理由にすることにした。


「娘の保育園の時間……」


「……は、今一時間延長しましたよね」


 嫌みではなく、にっこり笑ってそう言われてしまうと反論できず、

 結局加奈は天原と少し離れた喫茶店に行くことになった。

 あまり人の耳がないところで話そうと言われ、加奈は一気に緊張する。

 先程の電話についての話だったら、何度も電話を受けた天原にその内容を

 詳しく聞く必要がある。その際、どうせ話をするなら人気がない場所が

 好ましいのは、加奈も同意見だ。

 加奈は自ら車を出すことを申し出た。


「あの、旦那さんって、どういう人か聞いても良いですか?」


 喫茶店で飲み物を注文し、ウエイトレスが遠くへ行ったのを確認して

 から、天原は尋ねた。


「どうって……そんなこと、するような人じゃないと思うわ。

 子どもの遊び相手だって喜んでするし、家事も率先してやってくれるわ」


 塾長が話した内容は、既に知っていることを前提で答える。

 少なくとも、現時点で加奈が思っている事を素直に伝える。

 願望も籠り、口調が熱を帯びる。


「そうじゃなくて、加奈さんにとって、どういう旦那さんなんですかあ?

 子どもにとって良い人でも、奥さんには酷い旦那さんだっているし。

 家事だって、単に自分が好きでやってるだけかもしれないですよね?」


 身近にいる人を「どういう人」かを説明するのは、存外難しい。

 悪いところと同じくらい、良いところも知っているのだ。

 一口で説明するのは難しい。

 答えあぐねていると、天原は突然低い落ち着いた声で言った。

 いつもの声は演技なのかと、加奈は少しとまどう。


「まさかDVとかモラハラとか、受けていないですよね?」


「ええ? まさかそんな。急に言われたから、考えていただけ。

 私にも優しく接してくれる。暴力なんて一度も受けたことないわ。

 心配しないで」


 加奈は慌てて否定する。今の天原の声が、迫力を持っていたのでつい

 気圧されてしまった。するとまたいつものぽやあとした顔に戻った。


「なんだあ、優しい旦那さんなんですね。安心しました。でも、

 それって他の人にもですかあ? 人によって態度が違う人って結構

 いますし。そういう人って、結構恨みとかかいますよ?」


 サービス業の人に対する態度などで、そういう片鱗が分かると、

 ご丁寧にアドバイスまでくれる。

 こんな子どもに何が分かると、加奈は腹が立った。

 表情に出さないだけの分別が、まだ自分にあったことに感謝する。

「こんなのただの悪戯よ。最近無言電話が多いし」


「ならいいですけど。何か悩みがあったらいつでも言ってくださいね。

 私、いつでも相談相手になりますんで。じゃあお先です!」


 軽やかに、天原は去っていった。

 彼女の下宿がこの辺りだと聞いてあえて、歩いて数分で帰ることの

 できる距離の、この喫茶店を選んだのは正解だったようだ。

 また車で送ったりしたら、その間気まずくなってしまう。

 

 天原が帰って気が抜けたついでに、時計を確認する。

 そろそろ保育園に迎えに行く時間だ。

 加奈はぱんと顔を両手で軽く叩いて、車のエンジンをかける。


 顔を母親の顔に戻す。

 うろたえていてはならない。常に娘が安心できる、どっしりとした

 母親でいなくては。


 心とは裏腹に、飲み屋街を楽しそうに闊歩する大学生を見ていると、

 胸の奥が重くなる。あのくらいの年齢の学生を、夫は死に追いやった

 のかもしれない。もし電話の内容が真実であるのなら、それはどんなに

 罪深いことだろう。


 そのまま夢を見るかのように、機械的に車を保育園方面へ走らせる。

 習慣の延長で惰性的に車を運転するが、その目は何も捉えてはいない。

 いつもの道がやけに冷たく感じる。

 それでもなんとか、加奈は望を指定時間内に引き取ることが出来た。


 家への帰り道で、いつものように望の保育園での話を聞く。

 いつも望が好きなように保育園での話をするのを、加奈が聞きながら

 相槌を打つ。今日もいつもと変わらない。

 そのはずだった。だが。

 

 「ママ、お腹いたいの?」


 自分では何とか取り繕っていたつもりだが、望は敏感に母親の異変を

 感じ取っていたようだ。加奈は思わぬ形で、娘の成長を知った。


 「ちょっとここら辺が痛いだけ。大丈夫」

 

 そういって胃の辺りを、指差した。

 嘘ではない。

 事実加奈は、今日の噂で胃が痛くなりそうだ。

 

 「じゃあ晩御飯はお弁当を買って帰ろうよ」


 娘のいじらしい提案に、今の生活を絶対壊させないと加奈は決意する。

 小田切は学会で出張していたので、その日は望の提案に甘えさせてもらう

 ことにした。



4

 

 「今日大学時代の友達から聞いたんだけれど、あなたの研究室で

 自殺した学生さんがいたっていうんだけれど、本当なの?」


 翌日、望が寝静まったのを確認してから、加奈は出張から帰った

 小田切に意を決して尋ねた。


 事実だけをまず確かめることにする。

 

 風呂上がりでリビングで新聞を読み、リラックスるしているのを

 狙って切り出した。

 警戒されないよう、加奈自身も雑誌を読んでいる振りをし、

 あくまで世間話であることを演出する。


 「ああ。一人自殺した学生がいた。僕たちと同級生だったから、

   覚えているよ」


 あっさりと小田切は認めた。本題から切り出さなかった効果があった。

 核心に少しずつ迫っていくことにする。


 「その人はどうして自殺したのか、知っている?」


 そこまで来て不振に思ったのか、小田切は読んでいた新聞から目を離し、

 初めてこちらを向いた。


 「……いや。どうしてそんなことに興味を持つんだ?」


 「……あなたの研究室でのことだったから、ちょっと気になっただけ。

  まさかいじめが原因で自殺とかじゃないわよね?」


 「そんなわけないだろう。……今日は疲れたからもう寝る」


 そういうと読みかけの新聞をテーブルに置いて、小田切は寝室へ向かう。

 さりげなさを装っていたが、そのタイミングが動揺を表しているようにも

 感じた。先延ばしにしていては、また電話がかかってくるかもしれない。

 塾長とも約束した。


 「逃げないで」


 「うん?」と逼迫した加奈の声に、小田切は訝しそうにこちらを見る。


 「ちゃんと答えて。私、職も信頼も失いそうなんだから……」


 今の質問と加奈の言葉の関連性が分からず、言われるがまま小田切は

 ソファーに戻る。自分もソファーに腰掛けると、加奈はテレビを消して、

 真剣に今日の昼間に塾であったことを話した。


 「……どうして初めから本当のことを話さないんだ?」


 「……ごめんなさい。あなたが本当のこと話してくれないと思って」


 「僕が嘘をつくとでも思ったのか?」


 「気づかない内に……ってこともあるじゃない。嘘を吐くとまでは

  思っていないわ」

  

 「まあいい。確かに自殺した学生はいた。確かに大学や研究室での

    いじめが原因ではあるが、そいつが被害者だったわけではない。

    むしろ加害者だった。それで退学処分を受けたのを逆恨みして、

  自殺したんだ。……ある意味確かにアカハラで死んだとは言える。

  それは正しい。だが僕たちが奴に嫌がらせをしていた訳ではない。

  それが誤って誰かに伝わったのだろう」

 

  「自殺した学生がいたことは事実なのね? それがどうしてあなたが

   追い詰めてその人が自殺したみたいな言われ方をしたのかしら?」


  「…… ひどい誤解だな。まあ事実はそういうことだ。そいつが、ある

    学生に嫌がらせを繰り返していたのを咎められて、退学処分になった。

    それからしばらくたって、 自殺した。警察が来たときに、同じ研究

    室のメンバーということで、事情聴取も受けたよ。遺書もあって

  そこには退学処分になったことを逆恨みするようなことが書いて

  あったらしい。そんな噂を流すとすれば、そいつの自殺を納得できない

  関係者としか考えられないな」


  「でも、五年も前のことでしょう?どうして今になってそんな噂が

  流れるのかしら?」


  「さあな。……ともかくその件に関しては、僕は無実だ。これで分かった

   だろう?誤解は解けたんだし、明日塾長にもそう説明しておいてくれ。

   大丈夫。誤解だと分かれば塾長も上手く対処してくれるさ」


  「……本当に誤解なのね? 信じていいのね?」


  「ああ。心配するな」


  加奈は、久しぶりにきちんと夫の目を見て話した気がした。

  誤解でほっとしたのと、張りつめいた気が抜けたので、その晩は

  ぐっすりと安眠できた。

 

  その旨を塾長に伝えると、小田切に尋ねたことを労ってくれた上で、

  たちの悪い誤解を訂正するよう力になると約束してくれた。

  塾長と天原しか知らないことらしく、他のスタッフは誰もその話題を

  知らないようだった。塾長たちの配慮のおかげで職場環境に影響なく

  仕事を続けられることに、加奈は素直に感謝した。


 (これで一段落か)


  安堵しつつも、加奈は今度は別のことが気になって仕方ない。

  相当な怨みを小田切に抱いている誰か。

  なんでも無難にこなす小田切は、だからこそ彼に理不尽に扱われた

  人間の落胆と怒りは激しくなる。自分もそうだから加奈には、分かるのだ。

  天原が指摘したことにも、心当たりはないこともない。


  事実無根の噂を、妻である加奈の職場にあえて伝える。

  そのやり口に、底知れぬ悪意を感じる。

  このまま、相手が鞘を納めるとは到底思えなかった。

 

  そしてそれは的中する。


  加奈の担当クラスから、他の先生のクラスへの移籍を

  申し出る生徒が相次いだ。全部不登校生へのプログラムに

  我が子を通わせている保護者からの申し出だ。

  あの噂も、不登校生プログラムの履修生を中心に広まった

  ものらしい。最終的に、加奈は不登校生プログラムから

  外されてしまった。

   

  事情を知らない他の講師陣は、不思議に思って首を捻っている。

  一度広がった悪評を取り消すのには、思いの他かかりそうだった。

 

  その内に塾生たちにまで噂が広がったようだ。

  加奈をあからさまに非難する子はいないが、塾生たちに「先生、

  大丈夫?」と無垢な瞳で尋ねられるとなんともいえない気持ちになる。

  生徒自身が学校でいじめにあった経験のある子が多いので、

  加奈が家で夫にいじめられているのではと心配してくれているのだ。 


  受付嬢の天原もそうだ。

  あの一件以来、噂に関する対応など塾長と共に、尽力してくれている

  彼女には頭が上がらないが、ことあるごとに本当に家で何も被害に

  あっていないか尋ねてくるのには、困惑した。


  確かに小田切は機嫌が悪いと、無口になる傾向がある。

   それでも怒鳴りつけるよりはましだと思うし、誰だってそんな時はある。

   被害者のように扱われるのは、耐えられなかった。

  腫れ物に触るような扱いは、やはり居心地が悪いものだ。

  

  小田切は大事にするのを嫌がったが、それ以後も問い合わせの電話は

   思い出したようにかかってきたので、加奈にとっては深刻な問題だった。

 

 そうこうするうちに、加奈を取り巻く環境は悪化していった。

  今までの平穏な日々が夢のように崩れていく。

  悪夢は始まったばかりだった。

 


5


 やはり気のせいではない。

 マンションの住人と顔を合わせても、
黙って会釈をするだけで
 親しげに
話しかけてくるものはいない。遠巻きにこちらを見て
 ひそひそ話を
する者たちもいる。

 

 塾にかかって来たあの電話の内容が、ついにマンション内にまで
 広まっているのかと、加奈は暗澹たる気分になる。

 

 保育園にも容赦なく、その魔の手は迫った。

 ママ友だと思ってい た保護者たちも、妙によそよそしい態度に変貌した。

 こちらから話しかけても当たり障りのない答えをしては、すぐに

 その場を離れる。そのくせこちらの様子をじっと観察していたりもする。

 からりとした関係に、カビが生えたかのような湿り気が生じてきた。


 夫に怨みの深い人間がしたことなら、怨みの理由を教えて欲しい。

 誠心誠意謝るのに。夫の代わりに自分の出来ることがあるのなら、

 何でもする。切に加奈は願う。

 あの平穏な日々を取り戻す為ならば、何事をも厭わぬ覚悟はとっくに

 できている。

 

 それでも敵は姿を見せず、当の本人である小田切に現状を訴えても、

 逆に、加奈の説明の仕方が悪いせいだと怒られるだけだった。

 噂では小田切が加害者扱いされているのだから、怒りは当然だが、

 加奈だって自身に関係のないことで生活を危うくされているのだ。

 望にまで被害が及んだらどうするのかと、心配で夜も眠れない。


 粛々と日常の業務をこなしてはいるが、ともすると崩れ落ちそうになる。

 望がいなければ、とうに心が折れそうだった。 


 何よりも夫が加奈の心労を労わるどころか、気持ちを告げる度に苛々

 するのが悲しかった。職場でも何か問題があるのか、このところ

 小田切の機嫌がすこぶる悪い。以前から怒ると無視を決め込む小田切は、

 口数が極端に減った。それでも態度が小田切の苛々する内心を露呈していて、

 いつ暴発するのかと、加奈は内心びくびくしていた。


 孤立無援。


 実家から離れたこの地で、加奈はその文字を噛みしめる。

 週に一度実家に電話するいつもの習慣も苦痛に変わった。

 ともすると感情が零れそうになる。

 本音を言えば、ここから逃げ出したい。


 それでも楽しそうに保育園に通う望を見ていると、別居を切り出す

 こともできない。今のところ、望にまでは被害が及んでいない

 らしいことだけが、唯一の救いなのだ。

 

 それに実家に逃げたところで、その犯人は自分を、小田切の

 妻を許してくれるのか。また同じことが起こるのではないか。

 

 「はあ」

 

 職場であることも忘れ、大きなため息をついてしまった。

 慌てて周りを見回すと、今は授業時間なので他の講師は既に

 出ていた。いるのは次の授業の予習をしている加奈だけ。

 聞かれなかったとほっとすると、後ろから「どうぞ」と声がする。

 

 「小田切さん、元気出してください。お母さんがそんな顔じゃ、

  娘さんだって悲しみますよお」


 相変わらず能天気な声で、天原は言うと、手にしていたチョコを

 「はい」と渡してきた。

 それが妙に勘に触る。

 自分の気持ちなど、分からないくせに。


 「人の噂も75日って言いますし、直ぐにみんな忘れますよ」

 

 「もともと小田切さんが悪い訳じゃないですし」


 「旦那さんも誤解だって言ったのなら、冤罪だったわけだから

  堂々としていればいいんですよお。それに小田切さんの事

  支えてくれてるだから、大丈夫ですよお」


  天原なりに考えての発言だとは分かっているが、どうしても

  腹が立つのが止められなかった。

  前提とされている小田切なんて、自分を責めるばかりだと言うのに。


 「適当なこと言わないで!」 

 

  思わず声を荒げてしまう。

 

  だがここ数日の出来事に、気持ちが溢れ出してしまう。

  ここは職場だと言うのに。

  自分の境遇を誰かに理解して欲しい。

  加奈は堰を切ったように、感情の赴くままここ数日の家での

  様子を語る。言葉が止まらない。

  どこかで冷静な自分が、こんなこと他人に話したところで

  どうにもなるものではないと警告を鳴らす。

  それでもやめられない。


  噂は止むどころか、どんどん広まっていること。

  生徒に動揺を与えて、生徒にも塾長にも申し訳ないと思っていること。

  小田切には支えられるどころか、責められていること。

  居場所がなくて辛いと言うこと。


  呆気にとられていた天原の顔を見て、「ああ、終わったな」と

  加奈は理解した。

  最近ではこの職場だけが、一番気が置けない場所だったのに。


  妙な噂が来たのは確かにここから。

  でも塾長も天原も、事情を知った上で、励ましてくれる。

  特別扱いをしないで、普通に接してくれる。

  でもこんな場面を見せてしまったら‐。

  それも変わってしまうのではないか。

 

 「それでいいんですよ」


  天原が低く落ち着いた声で言った。


 「その気持ちを旦那さんに、ぶつければ」


 「……」


 「小田切さん、旦那さんの前だと遠慮しているんじゃないですか?

  一方だけが我慢する関係は、長くは続きませんよ。時には自分の

    気持ちを理解してもらう努力をしなくては。言わないと分からない

    ことって、結構ありますよ」


 分かった風な口を。

 そう思いつつも、振り返れば加奈はいつも折れていた。

 年上の小田切が言うことは正しいのだと最後には謝っていた。

 

 「今だからこそ、必要なことです」


 そう微笑む天原は、得体の知れない修羅場をくぐったような

 強さがあって説得力があった。



6


 翌日の晩-小田切は客を連れてきた。

 スーツをぴしっと着こみ、薄いがきっちりとメイクした女性だ。

 大学院時代の同級生で、佐々木と名乗った。

 ということは、結婚式にも会ったのだろう。あまり覚えていなかったが、

 出席していたらしい。


 二人が来る二時間前に訪問を告げられたので、急いで用意したものの、

 急ごしらえになってしまい、贅を凝らしたものにはならなかった。

 もっと早めに教えてくれればいいのにと、喉まで出かかったが客の手前

 黙らざるをえない。


 残り物をフル活用して、何とか体裁だけは整えた。

 佐々木は幾つかのおかずを食べられないと言ってまるまる残し、

 感想は一切言わなかった。


 「婚約者に電話したいから携帯貸してくれませんか? バッテリーが

  切れちゃって」


 当然のように携帯を借りようとする佐々木の態度が、料理を残した

 ことと合わさって何とも非常識に思えた。そもそも今日こそ小田切に

 本音をぶつけようと思っていたのに、台無しにされたのだ。


 「どうして私の携帯を?」


 努めて冷静を装ったが、声に怒りが滲み出る。


 「僕の携帯や、家の電話だと、妙な誤解を受けるかも知れない

  じゃないか」


 「……」


 「ああごめん、気が効かなくて。はい」

 

 小田切が勝手に加奈の携帯電話を貸すと、女は鼻からふっと息を吐き、

 「じゃあ借りますね」と遠慮なく持って行った。それが嘲笑に聞こえて

 加奈はやりきれない思いになった。


 追い打ちをかけるように、内密の話だからと、小田切は加奈を二階に

 追いやった。二階で望と遊び相手をしながらも、一階の動向を気にして

 いると、二人は小田切の書斎に入ったまま出てこない。

 加奈は惨めな気分になった。


 望が遊び疲れて眠った三十分後くらいに、佐々木は帰って行った。

 呼ぶまで下りてくるなと小田切に言われていたので、待っていたが

 呼ばれないまま佐々木は帰って行ってしまった。

 そのドアが閉じられて五分ぐらい経過した後に、ようやく小田切は

 加奈を呼んだ。その瞳はいつになく冷たい光を宿している。


 「今日は恥をかいたよ。本当に気が効かないな。佐々木さんも、

  きっと呆れていたぞ。俺の評価に関わるんだ」


 「あの人の方が非常識だわ。人の家に来て料理にけちつけて、

  電話も借りて、礼もしない。挨拶すらしないで帰ったのよ。

  どうしてそんな人の御機嫌を取らなきゃいけないの!」


 「自分の非礼を棚に上げて、随分と偉い身分になったものだな。

  お前に社会常識がないのを教えてやっているのに」


 「常識がないのは、あの人でしょ? 今何時か分かっているの?」


 「大事な話をしていたんだ」


 「だったら飲み屋さんですればいいでしょう。直前に連絡もらって

  準備するこちらの身にもなってよ。迷惑だわ」


 「ここは俺の家だぞ。ほとんど俺の給料でやりくりしているくせに

  偉そうなことを言うな」


 「……」


 この人はこんなことを言う人だったか。

 最近は上手くいってなかったけれど、それでも普段は温厚だったのに。

 この言葉は想像以上に加奈の心を打ち砕いた。

 同時にフラッシュバックのように、過去にひっかかった小田切の行動が

 思い出される。


 今はナーバスになっているだけ。

 きっかけは些細なことで、しかも良くあること。

 気にするまでもない。

 売り言葉に買い言葉。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 暴れ出しそうな心を、懸命に諭す。

 そんな加奈の努力を知ってか知らずか、小田切は朝が早いと

 言って、さっさと寝室に引き上げて行った。


 結局その日は、自分の本音を打ち明けるどころではなかった。

 小田切との関係を根本から見直す必要を、加奈は感じていた。 


 翌日に塾へ行っても、加奈の気分は晴れなかった。

 夫が悪い方へ変わって言っている気がして、環境の変化とあいまって

 先行きが不安で仕方なかった。

 


7


 「小田切さん、ちょっとお話があるのですが宜しいですか?」


 望を迎えに行くと、年少組を担当している担任の先生が小声で言った。

 まだ教室で遊んでいる望を気にすると、担任は副担任の若い先生に、

 しばらく加奈と話をするから遊んでいてと指示した。


 雰囲気は職場に不審電話が来た時と似ている。

 緊張して、手に変な汗をかく。

 

 (まさか保育園にまで。でも今までの経過からみると、あり得ない

  ことではない)


 不安げな顔をいち早く察した担任は、面談室の引き戸を開けると、

 穏やかな声で椅子を勧める。望の組の担任は、経験豊富な四十代の女性で、

  頼りになると父兄の間でも評判だった。


 「あの、望が何か……?」


 「望ちゃんのことではないんです。まずこれをご覧ください」

 

 差し出されたのは一通の封筒。

 表の宛名は保育園の名前が書かれ、裏に差出人の名前はなかった。

 封筒は、ごく普通の白い無地の封筒だった。


 確認するように担任の顔を見ると、静かに促した。


 「どうぞ」


 封は既に切られているので、簡単に中の紙を引き出せる。

 タイプで印字された紙は、これまたコンビニでも売られている

 よくあるA4用紙だった。


 『小田切望ちゃんのお父さんは、浮気をしています。それも仕方ない

  ことです。子育ても家事も、全部お父さんがやっているんですから。

  私は奥様に態度を改めてもらいたいのです。できないなら、私が

  望ちゃんを育てます。今後私が園に望ちゃんを送り迎えすることが

  あるかもしれません。その時は宜しくお願い致します』

 

 「何なのですか、これ?」


 一方的に加奈を批判している。

 しかも身に覚えのないことばかりだ。

 子育ても家事もほとんど全部自分がやっている。

  小田切も手伝ってくれるが、気が向いたときにきまぐれにやるだけだ。

 先程までの不安から一転、怒りが込み上げてきた。

 

 「こんなの嘘です。私はきちんと家事も子育てもこなしています」


 「ええ。それは私どももよく知っています。保育園への送迎もお母さん

  がきちんとなされていますし、遅刻だって一度もありません」


 穏やかに同意をしてもらい、加奈は少しだけ冷静を取り戻す。


 「問題は誰がこんなものを送りつけてきたのかということなのです。

  お尋ねしにくいのですが、……心当たりはありますか?」


 誹謗中傷を送りつけてくるような心当たり‐。

 そんなの一人しかいない。

 小田切の噂を流した人物。

 でもその人物の矛先は小田切ではなかったのか。

 この書き方では、ただの小田切の浮気相手としか思えない。


 「……ないこともないです。ですが、確信はできません」


 「お察しします……」


  担任は加奈が、混乱した頭を整理する時間をじっくりと待ってくれた。

  不安。怒り。言いたいこと。言い辛いこと。

  収集が付かない。


  しばらく間を置いて、ようやく加奈は口を開いた。


 「これはいつ……?」

 

 

 「つい先程。午後の便で届きました」


 「それで、望は大丈夫なんでしょうか?

  まるでいつか望を連れ去るみたいなことを書いていますよね。

  不審な人が保育園に来たりすることは、今までありませんでしたか?」


  急に不安がこみ上げて来て、衝動のままに加奈は矢継ぎ早に担任に

  質問する。だがそこはベテラン。動じることなく、用意してあった

  今までの業務日誌や付近の不審者情報を見せて、加奈が心配するような

  ことは今までなかったことを証明した。


 「ただ望ちゃんの安全の為には、しばらく園を休まれた方が良いかと」


 「それは同感です。しばらく休ませて頂きます。……申し訳ありません

  でした。園にご迷惑をかけて……」


 「迷惑だなんてとんでもない。詮索は致しませんが、小田切さんこそ

  お辛い思いをしていらっしゃるのでしょう」

     

 思わず全部話してしまいそうになり、ぐっと堪える。

 それ以上に涙が込み上げてきた。

 真っ赤になっているだろう鼻を隠すように、ハンカチで押さえると、

 「望が待っていますので」と席を立った。


 そこへ申し訳なさそうに、この手紙を警察に見せても良いかと聞かれた。

 他の園児たちの安全を確保する為に、見回りをお願いしたいのだとか。

 「内容が事実無根であることは、ちゃんと言いますから」と強調してくれた

 が、そんなことを言わなくても、加奈は同意するつもりだ。

 コピーをもらうのを条件に、加奈は承諾した。


 「望ちゃんが元気で登園できる日を楽しみに待っています」

 

 望に聞こえないように、小さく担任は言ってくれた。

 望は当然明日も登園するつもりで、元気で先生に挨拶している。

 

 帰りの車で、望が無邪気に保育園であったことを聞くのが

 辛くて、加奈は涙声にならないよう耐えるのが精一杯だった。



8


 疑い出すときりがない。

 昨日までは思いもつかなかったことが、わずか一日でこうも

 変わるものなのか。


 いけないことと知りつつも、欲求に抗えず加奈は小田切の私物を

 チェックする。するとおかしなことに気付いた。

 携帯に、パソコン、机の引き出しに至るまで厳重に鍵がかけられている。

 最低限のルールだと遠慮していたので、今まで知らなかった。


 (どういうこと?)


 隠し事をしているのか。

 それとも加奈が単純に信用されていないのか?

 単に小田切が用心深いだけ?


 尽きない疑問を胸に、加奈は昼食の支度をする。

 あんな手紙が来た昨日の今日なので、望は当然保育園には行かず、

 大人しく家で遊んでいる。幸運にも今日は仕事が無い日なので、

 加奈はゆったりとした時間を、望と過ごしている。

 

 二人で焼きそばを食べていると、突然玄関扉が開き、

 小田切が駆けこんできた。  


 「どうしたの。あなた?」


 時ならぬ帰宅に、加奈は驚きを隠せなかった。

 いつもなら一旦大学へ出勤した小田切は、八時以降まで帰らないのが

 常であるのに。


 言いたいことが多すぎて、加奈は小田切の突然の行動にどう反応して

 良いのか分からない。


 「お前たち、大丈夫か?何か妙なことが起こったりしてないよな?」


 「何?急にどうしたの?別に何もないわよ。それくらいのことなら、

  電話でいいのに」


 そういいながらも、加奈は久しぶりに小田切が感情を露わにして自分達を

 心配してくれたことが素直に嬉しかった。だが夫はそのまま娘の方に走り

 寄り、思い切り抱きしめると、こちらを全く見ようとはしなかった。


 「パパ。痛いよ。ふふふふふ」


 抱きしめられたまま頬ずりされた望が、擽ったそうに身を捩る。


(そうか……この人が心配なのは望だけなんだ)


 加奈の胸がちくりと痛む。小田切の言葉の一つ一つが、どうにも憎らしくて

 ならない。その原因が自分でも分からなくて、苛々する。


「……それで、何かあったの?」


 さっきまでの喜びも、みるみる萎み、棘のある聞き方になってしまった。

 それでも小田切はまったく怯まない。


 「ああ、いや別にいいんだ。ちょっと大学で妙なことが続いていてな。少し

  気になっただけだ」


 「ふうん……。大学で妙なこと……ね」


 職場の出来事が家庭にまで影響を及ぼすなんて、加奈には例の噂しか考え

 られない。その背景を、小田切の真意を問い詰めたい。薄々頭をよぎるのは、

 あの手紙の背後に潜む女の陰。でも直接は聞けなかった。


「家庭にまで影響が出るようなことって何? まさか前のアカハラ事件

 の件で、狙われているの? それで家族まで?」


「大したことじゃない。あの事件を知った奴が、便乗して何かと悪戯を

 仕掛けているようでな。大学でも妙な嫌がらせが続いていてね。

 家族にまで被害が出ていないか、確認しに戻ったところだ」


 (もう被害が出ていると何度も言ったでしょう)


 怒りを抑えながら加奈は、心の中で冷静に反論する。

 

「……本当は、別の理由じゃないの?」


「別の理由? 他に何があると言うんだ?」


「……」


 それ以上は続けられなかった。自分の口からは言えない。全て証拠を握って

 から、一気に攻め落としたかった。配偶者の浮気を咎めるには、気取られぬ

 よう証拠を固めて現場を押さえるのが常道だ。


「……別に。ただ他にも理由があるんじゃないかと思っただけ」



9


「私、こういうの苦手なんですけれど」

 

「でも悩んでいる女性の助けになるのは、男として当然だろ」


 常川が今日このレストランに優奈を誘ったのは、訳がある。

 小田切の奥さんが夫の浮気に悩んでいるから、相談に乗ってあげる為だ。

 小田切の奥さんというのが、常川が運営していたサークルの

 メンバーの一人だったとか。


 まめな常川は男女問わず人の相談に乗っているらしく、常にメールの

 受信を告げる携帯の着信音が鳴り響く。こちらでまだ友人が少ない優奈は

 少し羨ましくもある。


 当然優奈はは、奥さんとの面識がない。

 加えて苦手な分野の相談ごとだ。

 有益なアドバイスが出来るとは思えない。

 一度は断った。しかし常川は引き下がらない。


 「人妻と二人きりで会ったら、変な誤解をされるかもしれないだろう?

  俺はいいけれど、奥さんが可哀そうだ。それともお前は悩める女性を

  放っておけとでも言うのか? 鬼だなお前。そんな子に育てた覚えは

  ないぞ。考え直せ!今ならタダ飯も食える!」


 今後の小田切との関係を思うと、心労で気が重い。

 あくまで居るだけという条件で、優奈は渋々了承する。

 承諾した以上、常川から絞り取ってやらないと気が進まない。

 

 場所は郊外のこじゃれたイタリア料理店で、自転車しかもって

 いない優奈は、こんな機会でもなければ訪れることのない場所だ。

 奢らせることを確約させ、優奈はどんな高い料理を注文しようかと

 知恵を絞る。


 常川は妙なところでフェミニストなのだ。研究室でも女子学生に

 恭しいとも言えるほど柔らかい態度だし、それがまた男子学生の

 勘に触っているようだ。ただしなぜか優奈は例外なのは言うまでもない。 

 決して青年実業家という外見ではない、どちらかと言えば野性味あふれると

 いった形容が正しいような常川がそれなりに女子学生からの支持があるのは、

 この態度が根底にある。それも一種の処世術なのかもしれない。


 「でも意外です。常川さん、基本男子学生や先生方に嫌われて

  いるのに。小田切先生の奥さんと知り合いだったんですね。

  小田切先生、嫌がりません?」


 正直に優奈は言ってみた。あからさまに避けられている常川がいくら

 鈍感だって、それくらいは気付いているだろう。


 「あいつらツンデレなんだよ。基本俺の事大好きだから。ああやって

  俺の気を引きたがるんだよ」


 「はい」


 あえて冷たく優奈が言う。


 「加奈ちゃん、あ、小田切の奥さんね。……が俺と連絡とっていること

  あいつは知らないよ。連絡を取り始めたのだって最近だし」


 小田切の奥さんの加奈さんは、常川の後輩に当たるのだがサークル

  ではそれほど話さなかったらしい。結婚式の会場で初めて常川が旦那の

  関係者と知ったと言っていた。ここに来て最近旦那の帰りが遅くて、

  素行がおかしい。心配になり、思わず同じ研究室の常川と連絡を取った

 というのが、 常川の説明だった。


 手がけている研究の進行具合によっては、実験で帰りが遅く

 なることは、十分にありうる。そうでなくても自宅に仕事を

 持ち帰らない方針であれば、自分の研究室で遅くまで仕事を

 することもあるだろう。

 しかしここに来て不信に思うのなら、今まではそうではなかったと

 推測出来る。

 

 研究室内での付きあいも限定されたものだ。

 飲み会などは定期的にあるが、毎日のようにあるものではない。

 小田切自身の付き合いも考慮するべきだが、それこそ研究室内よりも

 もっと少ないはずだ。あるとしても大きなイベントの時くらいだろう。


 「常川さんこそ、普段の素行が怪しいんですから気を付けた方が

  いいですよ。それこそ加奈さんとの浮気を疑われる可能性大です」


 常川と小田切。どちらが浮気しそうかと言えば確実に常川だろう。

  小田切はリスクを冒すようなことはしなそうだ。


 「ああいう奴ほど浮気をすると、のめり込むんだよ。……おっ。来た来た」


 「お待たせしてすみません」


 清楚な雰囲気の女性がやってきた。

 制服を着ておらず、服もラフだがおしゃれに心配りをしたものだ。


 「ああ、来たね。久しぶり! 好きな物を頼んで。俺のおごりだから」


 「あ、いえ、私が呼んだんだから私が払います。えっと……」


 「こいつは田中。ぴかぴかの修士1年生」


 少し眉尻を下げて訝しそうな顔をする女性。だが自分達が浮気だと勘違い

 されないようにする為だの、こいつは人脈がないから漏れる心配はないだの、

 研究室の事を探るにはもう一人いた方が良いなどと説得されて、諦めて

 自己紹介を始めた。


 「私、小田切加奈と申します。小田切がいつもお世話になっております」


 加奈は奥さんというよりも、女子大生に見える。ライトブラウンに

 染め上げた髪をセミロングに切りそろえたのが、細面の顔に良く似合う。

 耳元に小さく光るピアスも若々しさを演出している。平べったい鼻と

 少し上向きの唇は、ごくごく平凡な顔立ちだが、きっちりとメイクする

 ことで、清潔感溢れる印象に纏められている。


 コーヒーを頼むと、常川が優奈を指して「もっと頼んで良いよ、

 こいつなんて全く遠慮しない」と言っても、食欲がないと言って

 ゆるく笑って断った。


 一息つくと、常川は本題に入る。

 

「……で、どうして小田切が浮気していると思ったの?」

 

「娘の通っている保育園に、こんな手紙が届いたんです」


 差し出された手紙を常川は、何のためらいもなく読む。

 優奈は遠慮しようとしたが、「お前も読め」と押しつけられたので

 正直好奇心がないわけでもなかったので、渋々従うふりをして読んだ。


 「確かに、いかれた愛人の仕業って感じだな」


 先に読み終えた常川が、感想を漏らす。

 それは同感だが、優奈には疑問がいくつかあった。

 

 「でもどうして自宅じゃなくて、保育園に送ったんでしょうかね?

  普通こういうのって自宅に送るものじゃないですか?……その

  正妻への牽制という意味で」


 「まあ確かにな。保育園経由で、小田切が不倫しているという噂を

  広めるのが目的か?不特定多数に中傷ビラを巻くよりは効果的

  だろうからな。で、他に小田切が浮気をしている兆候らしきものは

  あるのかい?」


 「携帯やパソコンにロックをかけるようになりました。それに最近

  帰りが遅い日が続いているんです。本人はCOEプロジェクトが

  忙しいと理由を付けているんですが、……本当にそうなんですか?」


 「答えてあげたいけれど、俺達小田切とは違うグループに追放された

  身の上だからなあ」


 悪びれもせず常川が答えるので、優奈は慌てて訂正する。


 「ちょっと私まで巻き込まないで下さいよ。私は常川さんに言われて

  仕方なくです。追放されたのは常川さんだけ……ああそうだ! 

  ちょっと待って下さい」


 優奈はスマートフォンを慣れた手つきで操作する。

 研究室のウェブ画面を呼び出して見せる。山瀬研究室のCOE

 プロジェクトと研究室独自のプロジェクトの詳細な日程が示されている。

  これは研究室のメンバーに配られたパスワード無くしては、

 入れないウェブページだ。

 加奈はハンドバックからメモを取り出して、すぐに熱心にメモをとる。


 「研究室のプロジェクトには私も参加しているので、思い出したんです」

  

 「早速役に立ったな!やっぱり連れてきて良かった!」


 親指を立てて良い笑顔をして見せる常川。

 それにうなずいて同意する加奈。

 少しだけ優奈は満更でもない気がした。


 「小田切先生、確かに遅くまで仕事があるみたいですね」


 明るいニュースを口に出したと言うのに、加奈のペンを握る

 手は止まり俯いた。常川はその理由を察した。


 「固定メンバーが多いな。特に佐々木。ほとんど毎回小田切と

  組んでいるな」


 常川の言葉に、加奈が敏感に反応する。


 「佐々木さんを御存じなんですか?」


 「え?ああ。一応あいつもOBだからな。ああ田中、佐々木って

  言うのはうちの研究室のOBで、今はCOEの助教やっている

  奴だ」 

 

 事情に疎い優奈にも、すかさずフォローを入れてくれる。

 きめ細かい配慮はありがたいが、何だか話題がきな臭くなってきた。

 場をやり過ごす為に、優奈は食事に専念することにした。


 「佐々木さんって……どういう人なんですか?」


 「気が強い、見栄っ張り女。以上」


 失礼な人物紹介を披露すると、常川は加奈の質問の意図に気付いた。

 おかげで優奈は、常川の非礼を嗜める機会を失った。


 「もしかして、佐々木のこと浮気相手だと思っているの?」


 「確信があるわけではないんですけれど……はい。疑っています」


 「じゃあいいニュース。それはないよ。あいつ今婚約しているもの」


 「それは知ってます。婚約者に電話をかける為に、携帯貸したこと

  ありますから。でも……」


 加奈は何か思い当たる節でもあるらしく、言葉を濁した。

 

 「女の勘、ですか?」


 「というか、私が彼女に良くない感情をもっているだけかも

  しれません……。ただ佐々木さん以外で、思いつく人がいなくて。

  私が知らないだけかもしれませんが」


 そう言って、加奈は先日の佐々木の来訪時の態度について、

 話した。非礼な佐々木を庇うがごとく、加奈を責めた小田切。

 それに違和感を感じたと。


 「うーん、小田切と佐々木かあ。考えにくいと思うけれど。

  深い関係があるから庇ったわけじゃなくて、学会関係の

  立場を慮っただけだろう。あいつ態度がでかいせいか、謎の

  影響力をもっているんだよな。まあ注意しておくよ」


 優奈は佐々木と面識がないので、何ともコメントのしようがない。

 エビグラタンを黙って口に運ぶ。


 「佐々木に限らず、もし小田切が誰かと浮気をしていたとしたら、

  加奈ちゃんはどうするつもりなの?」


 「それはまだ……。というか実を言うと、浮気をしているかどうか

  が問題ではないんです。浮気相手が誰かが問題なんです‐」


 加奈はここ一連の奇妙な出来事を話した。

 そして誹謗中傷のネタをばら撒いているのが、小田切の浮気相手

 ではないかと推測していること。だから今はその犯人探しをしたい

 ということ。


 優奈は、研究室に届いた怪文書を思い出した。

 あれにも佐々木の名前が書いてあった。

 同一人物の仕業で、それが佐々木のしたことだとしたら、どうして

 自分の名前を書く必要がある?


 非日常としか思えないそれらの出来事に、不謹慎ながらまたもや

 高揚していた。我ながら懲りない性格だ。

 

「小田切本人には、相談してみたの?」


「ええ。もちろんです。でも、事実無根の中傷なんて気にするなとしか。

 心当たりも全くないと言い張っています」


「じゃあ、奥さんなんだから加奈ちゃんは、それを信じてあげなくちゃ。

 ここで俺が噂が正しいと言っても、加奈ちゃんは旦那の方を信じるだろ?」


「……」


「……それだけじゃないでしょ? 加奈ちゃんは人の噂ぐらいで、そこまで

 考えるほど思慮が浅くない筈だ。何か今までもあったんじゃない?」


「……」


 加奈は押し黙ってしまった。ここまで聞いたらプライバシーの侵害だ。

 優奈は慌てて止めさせようとする。人の家のことなど首を突っ込んでも、

 火の粉を浴びるだけだ。


「もういいじゃないですか。人様の家のことをあれこれ詮索するのは良くない

 ですよ」


「ありうるかもしれない。そう思っています……」


 重苦しい雰囲気のまま加奈は言った。優奈は目を見張った。

 常川はまだしも、初対面の人間である自分まで家の内情を聞いてしまって

 良いものなのだろうかと。


「込み入った話なら、私はこれで」と優奈が席を外そうとすると、

「おい、逃げるな」と常川が袖を掴んで行かせまいとする。

 気を使っているのか使っていないのか分かったものではない。

 様子を見て加奈も引きとめる。


「……この際、第三者の方に判断してもらった方が、客観的な

 物の見方が出来るかもしれません。田中さん聞いては頂けないでしょうか?

 夫の人間性を責めているのではないんです。ただもしそれが本当なら、

 私のせいなのではないかと……」


 当人がそこまで言うのに拒絶はできなかった。

 つくづく意気地がないと、優奈は不甲斐なく思う。

 いやそれよりも加奈の様子が気になったのだ。夫が嫌がらせをするかも

 知れないと考えてしまうような、結婚生活を送っているのかと。


「私たち夫婦は学生結婚なんです」


 加奈の回想が始まった。



10


 小田切夫妻は大学在学中に結婚した。小田切が修士2年生、
 加奈が
大学三年生の時だ。


 「妊娠していることが分かったので、それをきっかけに結婚したん

  です。交際期間は1年経つかどうかで、正直戸惑いました。小田切も

  すぐには返事をしませんでしたが、最終的には結婚するという結論に

  達しました。奨学金でなんとか生活している小田切と結婚するのは

  心配でしたが、幸い私も在宅で翻訳の仕事を見つけることができて、

  それなりに幸せな毎日を送っていました」


 1年ほど実家に帰って里帰り出産した後には、小田切は学会から

 学術団体の研究員として博士課程に在籍したまま給料をもらえる

 ようになり、加奈も翻訳の仕事に就いた。


 「結婚した時点で妊娠3カ月目に入っていたので、こちらにいたのは2カ月

  あるかないかでした。それで実家で出産して半年ほど実家にいてから、

  こちらに戻ってきたんです。初めは良かったんです。でもあの子が2歳に

  なったときに……」


 突然死んでしまったのだと言う。何の前兆もなく、昼寝をしていて

 起きないと思ったら、もう息がなかったのだと。


 「すぐに医者に見せました。でももう手遅れだと」


 ここで加奈が紙ナプキンで鼻をかんだ。知らせを受けた小田切はまず

 加奈を責めた。ちゃんと見ていたのかと。気が動転していたのなら、

 無理もない。加奈自身も受け入れられないくらいだ。

 傍にいなかった小田切はなおさらだと。


 だが何日過ぎても小田切は加奈のことを責めた。仕事をしているからだと

 仕事を辞めさせようともした。


 「……お前らのせいでこれまで苦労して来たのに、これでは意味が

  ないじゃないか」


  小田切は言ってはいけない禁句を言ってしまった。

  それは小さな絞り出すような声だったけれど、加奈の耳に届いてしまった。

  その時目が覚めたという。


 「あの人は義務で私たちと家族になったのだと。思い返せば

  思い当たることはいくつもあったのです」


  加奈は続ける。


  義実家に行ったときに、子どもがグラスを誤って割ってしまった時。

  小田切は子どもの怪我よりも、グラスが割ったことで叱責していた。

  子どもが熱を出した時にも、病院に連れていってやれと言うだけで、

  自分は仕事があると別の部屋に閉じこもってしまった。

  余裕があるときだけ、思い出したように子どもの相手をしてくれる。

  それが普通だと思っていた。


  でも……。


  加奈は自分とすら仕方なく結婚したのではと思うことが、

  少なからずあった。それがその時の言葉で思い知らされた。


 「……そう。私たちはあなたにとってお荷物だったわけね。

  仕方なく結婚したと思っているなら、いつだって離婚してあげるわよ。

  今日だって私はちゃんと見ていたんだから。あなたはどうなの? 

  偶にきまぐれに遊び相手をしていただけじゃない。あなたに

  そんなこと言う資格なんてないわ」


  一気に感情が爆発した。加奈は今まで負い目があったのだ。

  仕方なく結婚したのではないかと。

  結婚するまでは、それほど真剣にお互いのことを話したことは

  なかった。


  結婚しても、怖くて本心が聞き出せなかった。

  今更実はやむをえずと言われるのが怖くて、その話題を避けてきた。

  表立って意見することもなかった。


  だからこそ加奈が自分に不満をぶつけるとは想像だにしていなかったの

  だろう小田切は、相当驚いた顔をしていた。

  その怒りを小田切は、とんでもない方向に解釈した。


 「……お前、まさか虐待なんてこと……」


  あくまで加奈に責任を負わせようとする。

  小田切の本性をみた気がした。

  加奈は小田切に平手打ちをすると、その場で号泣した。

  娘の急死を悼む気持ちと、小田切の人間性への情けなさで

  頭がおかしくなりそうだった。


 「出ていって」と喚く加奈に立ち竦む小田切。医師から虐待の

  可能性は全くないことを告げられ、ようやく小田切は加奈の剣幕に

  押される形で、病室から出ていった。その後も加奈を宥めはしたが、

  謝罪の言葉はついぞその口から出ることはなかった。


 だから加奈も、その日以来謝罪に類する言葉を発したことはない。

 これでやっと小田切と対等の立場に立てた気がした。

 力関係で決して負けないことに、力を注いだ。

 愛情などはそれ以前の問題で、もはや全く期待していなかった。


 当然離婚も考えたが、両実家の両親の説得と、小田切が離婚を

 拒否したことで諦めた。離婚調停になると夫の許せない二言だけでは

 離婚事由には当たらない。それに経済的にはいつでも離婚できると思い、

 先延ばしにしているうちに第二子も生まれ、腐れ縁のようにずるずると

 結婚生活を続けている。


 派手な喧嘩もなく、表面的には穏やかで幸せな普通の夫婦に見える

 らしいと、自嘲気味に加奈は言った。


  多かれ少なかれその程度の話は、どこの夫婦にもあるだろうと思ったが、

  優奈が口を出すことはなかった。相談ごとは傾聴することが大事だ。


 「そういう経緯があったから、加奈ちゃんは小田切が嫌がらせとかも

  やりそうだと思っているんだ」


 「嫌がらせをやるというよりは……『他人が嫌がることを自分がした』

  ことを受け入れられないのです。自分の考えと違う人を理解できない。

  それは自分への自信に根ざしている考えだと思います。自分に自信が

  あること自体は良いことなのですが、例え指摘されても間違っている

  ことが理解できない。理解できないのは自分と考えの違うその人間が

  悪いと、そう考えてしまう。だから本人が意図していなくても、誰かを

  追い詰めてしまうことはありうる ……そう思います」


  優奈は小田切のあの人の良さそうな、丸っこい顔を思い浮かべて、

  加奈も多少は被害妄想の気があるのではと感じた。

  小田切との付き合いはごく短いし、夫婦間のことは分からない。

  それでも加奈がそこまで人格を疑うほどの、性悪な人間には到底

  思えなかった。


   それを差っぴいても本当であれば、語るも涙のエピソードを淡々と

  感情を交えず、あくまで客観的に評する加奈の話は、真実味がある。


  グラタンを完食した優奈は、しっかりと聞く体制になる。

  常川はもともと早食いなので、じっくり聞きながらも箸を

  持つ手は休めず、こちらもほぼ完食。

  紅茶しか頼んでいない加奈だけが、そっと湯を自分のカップに

  継ぎ足す。


  ここで一旦紅茶で喉を潤すと、加奈は回想を続ける。


  感想は全て話し終えてからと、決めているようなので、

  優奈と常川はそれに従い、余計な口は挟まない。
 

  次の話は、小田切の性格を表すエピソードだった。



11


 「綾子。久しぶりだな」

 

  そういって小田切に声を掛けられた女性は茫然としていた。


  加奈を隣に、親しく声をかける小田切が言葉を並べるのを途中で遮ると、

  女は冷たい目でこう言った。


 「良く声がかけられたものね。あんたのせいで、どれだけ

  私が傷ついたのか分かっているの? それで今度は嫁自慢?最悪。

   全然変わってないよ」


  加奈は絶句した。そう言った女性は小ざっぱりとした身なりの、

  しっかりとした印象の女性で、その話し方から出鱈目を言っているとは

 思えなかった。

 話の流れからして、昔付き合っていた女性だと加奈は推測した。

 そうだとしたら、結婚したばかりの妻に紹介するのは少し無神経

 ではないか。

  さらに唖然としたことは、小田切の返した言葉だ。


 「そんな昔のこといつまでもしつこく気にするなよ。だからお前

   ふられるんだよ」


  そういってへらっと笑った。

  だがその眼光は明らかに、目の前の女性を下に見る侮蔑に満ちた

  光を帯びていた。


 「あんたが私にしたことを、奥さんの前で全部言ってもいいのね?」


  小田切の許可を待つつもりなど初めからなかったのか、女はつらつらと

  小田切にされた仕打ちを語り始める。

 

  途端に形勢不利と見たのか、小田切は何一つ言い返しもせず、

  加奈の手を引いて彼女から逃げ出した。女が追ってくることはなかったが、

  逃げ出す時に言った言葉を今でも加奈は覚えている。


 「あんたもそのうち分かるわよ」


  その声に狂気はなく、押し殺した気持ちが込められていた。

  人通りの多い商店街まで来ても小田切はまだ辺りを気にしていた。

  女が自分の罪状を読みあげている時にも、傍に知り合いがいないか

  ばかりを気にしていた。


  加奈はまだショックが大きかった。自分の夫が一人の人にあれほど怨まれる

  ようなことをした‐。あの女がいつも監視している気がして怖くなった。


「あの人、どうしてあんなにあなたのこと怨んでいるの?」


  そう聞くと、真剣な声で小田切は言った。


「被害妄想じゃないか。いちいち覚えていないよ」


  第一子が亡くなった時、一瞬この女の呪いではないかと思った程だ。


  それぐらいインパクトがあった。小田切の過去よりも、自分を

  怨んでいる人を知ってもなお正面から向き合わず、馬鹿にして素知らぬ

  ふりをするその態度に恐怖を覚えた。


  小田切が過去に撒き散らした怨嗟の種に、いつ自分が巻き込まれる

  のかと、しばらくは戦々恐々と暮らしていた。それでも二人きりの時には

  相応に御機嫌をとり、暴言や無視をするということはなかった。

  外から見れば、ごく普通の夫婦生活。


  だがこの事件と第一子を失った時点で、溝は確実に広がっていった。


 「あの一人目の子どもが亡くなってから小田切は、子どもへの接し方は

 変えてくれました。最近は本当に二人目の子どもに愛情を注いでいます。

 だから子どもも懐いている。子どもが望むのなら結婚を続けようと

 思ってはいるのですが……。正直一緒にやっていく自信がなくなって

 きました。

 今になっても、これほど誰かに怨まれてもしらをきり通して済ませようと

 しているのであれば。そして、誰かと一緒になって嫌がらせをして自殺に

 まで追い込んだという噂が中傷でなく本当のことで、それでも本気で自分の

 愚行を自覚していないというのであれば、価値観が違いすぎます。子どもに

 悪影響なので、即刻離婚します。だから真実が知りたいのです」



12


  加奈の回想が終わった。


 夫婦で築き上げていく生活には、時には風雨も入れば、地鳴りもある。

 屋台骨さえしっかりしていれば乗り越えられるものだ。

 真っ直ぐな柱だけで建てられた生活こそ、面白味がない。

 それでも小田切家は、柱の内部から侵食されてきている。

 優奈はそんな印象を持った。


 ここまで話し終えて、加奈が化粧室に行く為に席を立ったので、

 優奈は例の怪文書について、加奈に教えるべきではないかと

 常川に打診してみる。

 

 何かヒントになるような有益な情報と言えば、それくらいしかない。

 手紙の差出人と、保育園に手紙を送った人物、ひいては加奈の職場へ

 噂を流したのが同一人物の可能性は大いにある。


 「……ここまで来てしまったら仕方がないだろうな。だが……」


 いつになく歯切れが悪い。

 

 「学校だけでなく、自宅や奥さんの職場にまで迷惑をかけるなんて、

  普通じゃないですよ。私、あの怪文書の事言ってもいいですよね?」


 「……そうだな」


 はっきりしない常川に発破をかけていると、加奈が戻って来た。

 

 これ以上悲しませるのも辛かったが、加奈は真実を知りたがっている。

 優奈はなるべく加奈を傷つけないように配慮しながら、小田切と

 佐々木を名指しする怪文書が届いたことを話した。常川は黙ったままだ。


  加奈は目を丸くしてから、ため息を吐いた。

 大学で嫌なことがあったと小田切から聞いていたけれど、理由が

 分かってほっとしたと、疲れた顔で言った。


 「それで、本当に自殺した人と小田切には何の関係もなかったんですか?」


 「……それは小田切の口から聞かないと意味がない。少なくとも

  死人は出た。それも一人じゃない。それが小田切と関係があるのかは、

  本人に聞かないとな」


  5年前のアカハラ事件については、優奈も断片的にしか知らない。

 怪文書として届いたアカハラ事件の概要も、ちらりと読んだだけ。

 常川も進んで話そうとはしないから、今日の加奈の話で、初めて

 大枠の内容が分かったくらいだ。


 小田切を憎んでいる人物の主張が事実とすると、 

 小田切と佐々木を含む院生たちが5年前に、一人の女子院生に
 嫌がらせの
限りをした挙句、一人の院生の仕業に仕立て
 退学処分にさせた。
その学生はそれを苦に自殺したことになる。

 

 にわかには信じられない内容だ。 

 今の穏やかな研究室に、そんな時代があったなんて、未だに想像できない。

 しかも一人ではないのであれば……。


 「もっと死者がいるということですか?」


 裏返った声で驚く優奈に、しっと口止めする

  常川。周囲の客が一瞬会話を辞めて、こちらをみる。


 「……これ以上は俺も言えない」


 「知っているのなら、もったいぶらないで教えて下さいよ」


 「その時、俺は休学していたからな。ほとんど事情を知らんのよ」


  そう言えばこの人は限界まで休学しまくっていた。

  いなかったほうが多いのだ。


 「つっかえない人ですね。間が悪すぎます」


 デザートのパフェを運びながら、優奈が罵る。

 途端に、常川がパフェのグラスを自分の方に引き寄せようとして、

 取り合いになる。

 それが目に入っていないのか、加奈はため息交じりで話を続ける。


 「小田切は5年前の事件には、自殺した学生が一人でしたことで、

  自分はそれを諫めただけだと繰り返すだけなんです。もう亡くなった

  方から事情を聞く訳にもいきませんし。」


 少し考えてから、小田切は慎重に言葉を選んで言った。


 「5年前に自殺した人間の他に、もう一人死者がいるはずだと

  旦那に聞いてみて。もしかしたら思い出すかもな」


  加奈は真剣な顔でそれをメモをする。


 「でもなあ。知らない方が良いってこともある……」


 「覚悟は出来てます」


 「まあ、無理はしないように。何か不審なことがあったら、

  俺にも電話して。これでも顔は広いんだ」


 「あ、えっと私も協力します。できることなら……」


  優奈の言葉はいかにも付け足したようで格好悪いが、

 嬉しそうに加奈は微笑んでくれた。

 

  一段落すると加奈は、すっきりした顔で、手帳をハンドバックに詰め込むと

  娘を保育園に迎えに行く時間なので、今日はこの辺でと言った。

 

 「それじゃあ、話を聞いてくれてありがとうございました!」


   そう締めくくると、加奈は来た時よりも明るい顔で帰って行った。

  多少は役に立てたようだと、優奈は胸をなでおろす。

   こちらが示した情報は、「5年前に自殺した学生が一人、何らかの

  理由で亡くなった学生が一人いたこと」、「小田切と佐々木を名指しする

  怪文書が研究室宛てに届いたこと」と「小田切の帰りが遅いのは

   プロジェクトの仕事の為だが、なぜか佐々木がいつも組んでいること」

   だけ。

 

   後は加奈が夫に聞きだす手腕にかかっている。

   男女関係に疎い優奈は、不思議に思った。

  

 「小田切先生も、初めから奥さんと腹を割って、話合えば

  良かったことかも知れませんね」


  誤魔化そうとするから、後から襤褸が出て、新たな疑惑を呼ぶ。

  悪循環だ。

 

  「信頼してほしい相手だからこそ、言えないこともある。お前には

  まだ早いか。彼氏いなそうだもんな」


  優奈は反論しようとしたが、事実なので言葉に詰まった。

  学部時代から付き合っている人がいると言おうとしたが、

  今更嘘をつくのもあまりに自分が悲しいので「常川さん

  だけには言われたくない」と言い返すに止めておいた。

 


13


「望の発作が起きて、薬を飲んでも中々良くならないの」


 常川達と話し終えた後、車で義両親の元へ向かった加奈は、

 真っ青になった。

 

 夫の愛人らしき人物からの怪文書が保育園に届いて以降、

 望は保育園を休んでいた。小田切は毎日出勤するので、

 用事がある時には、義両親に預けさせてもらうことにした。

 

 理由をまだ小田切には打ち明けていないので、義両親へは

 今日は保育園が無い日だが、用事があるので預かってくれないか

 と頼んだら二つ返事で引き受けてくれた。


 おかげで常川達に相談もでき、情報とアドバイスをもらえた。

 しかしその引き換えがこれでは……。


 一旦駐車したコンビニの駐車場で、加奈は行きつけの病院の

 名前と場所を告げてそこに望を連れていくよう頼んだ後、

 急いで病院に直行した。

 

 病院へ着いた時には、既に望の処置は終わったところだった。

 駐車場で義両親の車へ向かう望が見える。

 義父と手を繋いで、きちんと自分の足で歩いている。


 「望……!」


 駆けよって抱きしめようとすると、その間を小田切が遮った。


 「何をやっていたんだ!」


 義両親から連絡を受けた小田切の方が、先に病院に着いていた。

 すぐに加奈から、望を引き離すと、怒りに満ちた眼で睨んだ。


 「用事ってなんだ?」


 常川達と小田切の浮気や過去の事件について、相談していたとは

 義両親の手前言えず、加奈は黙り込んでしまう。

 それを疾しいことがあるから答えられないと捉えた小田切は、

 感情が高ぶる。


 「子どもを放っておいて、遊びに行っていたのか?」


 「違う!大事な用事があったの!子どもを連れていけるような

  場所じゃなかったし」


 「どこだ?職場じゃないよな?職場には今連絡して、今日は勤務日

  ではないことを確認したよ。だったらどこだ?なぜ保育園に

  預けていないんだ?」


  一方的に批判されるのに腹が立って、加奈もさすがに反論する。


 「……あなたの浮気相談よ。毎日佐々木さんと遅くまで実験している

  時間はあるのに、私が悩んでいることには耳も貸さないで!

  保育園なんか当分行けないわよ!あなたの愛人らしい人が出した、

  妙な手紙のせいでね!お義父さんとお義母さんの手前だから黙っていた

  けれど、もうたくさん!あなたが私と望の人生を滅茶苦茶にして

  いるの。いい加減気付いてよ!」


  言うだけ言うと、加奈は保育園に届いた手紙を、義両親に渡した。

  小田切も「愛人」の言葉に気がかりの事があるのか、

  一緒に文面を見ている。


 「満夫これは……?」


  義両親にはさすがに動揺が走ったが、小田切はそれをくしゃくしゃに

  丸めた。


  「また嫌がらせとでも言うのか?」


  「何よ。……何なのよ、その目は」


  「言い訳はいい! いくら最近物騒だからと言って、誰でも彼でも

    疑うのはどうかと思うぞ。望まで人間不信になったらどうするんだ!」


   「私はただ望が心配で……。それ以上に『望まで』って何?私が

     人間不信で望に悪影響だって言うの?」


   「最近のお前は異常だよ。昔のことをしつこく穿り返して」


  「……」

 

  言葉が全く伝わらない。

  意味をなしているはずなのに、加奈と小田切との間には

  決定的な断層がある。


   そのまま小田切は自分の車に望を乗せると、義両親の家に

  帰って行った。

   独り家に帰り、加奈は心細さと怒りと、無力感の混じった気持ちを

    持て余す。気分の高揚が収まらず、ソファに突っ伏した。

 

   (私がおかしいのだろうか?)


  もう自分を含めて誰を信じていいのか、加奈には分からなかった。



14

 

 「本当なんですか?」


  加奈は受話器を取り落としそうになった。

  時刻は午後八時。

  その時加奈は一人で夕食をとって、塾で生徒から返された答案を

  採点していた。


  望が義実家で発作を起こして既に一週間が立っていたが、未だ

  小田切は加奈を許す気持ちが収まることはなく、小田切が遅い時は

  義母の家に預けられていた。


  心配している割には、小田切の帰りが遅い日が続いた。

  帰宅時に受けた電話と話している時に、漏れ聞こえた声から、

  相手が佐々木であることがすぐに分かった。


  尋ねてもはぐらかすので、悪いとは思いながらも携帯電話の画面を

  盗み見した。だがやはりロックがかかっていて、中身を見ることは

 できない。悶々としたまま、惰性で日々を送っていた。


  その電話が鳴ったのはそんなときだった。

  この頃は無言電話も、なぜかあまり鳴らなくなっていたのと、

  連日の出来事に気を取られていて、特に躊躇しないで電話に出た。


 「あなたの旦那さんは、人殺しです」


  相手の第一声がそれだった。

  相手の声は確かに女の声だったが、複数の女の声を切り貼りした

  ような統一感の欠けたものだった。

  驚いたものの、すぐにあの噂と結びついた。

  冷静に対処して、可能なら噂を消さなくては。


 「失礼ですが、どちらさまでしょうか? おかけ間違いでは……」


  加奈の声に被せるように、電話の相手は言った。


 「あなたも殺されますよ」


  ガチャ。ツーツー。

 

  もう限界だった。

  加奈は小田切に電話した。

  仕事を邪魔してはいけないといつもは遠慮しているが、

  気にしてなどいられなかった。


 「あなた、私。今変な電話があって……」


 「今大事な話をしているところなんだ。いつもの無言電話か?」


  周囲に人がいるのか、あくまで表面上は愛想良く答えるが、不機嫌な

  気持ちが滲み出ている。いつもは完璧なまでに良い人を演じている

  小田切にしては珍しい。


 「違うの。あなたのこと、『人殺し』だって……」


  それを聞いた途端、小田切の声が荒いものに変わった。

 

 「そんなわけないだろう」


 「……それは分かっている。でも変な電話が自宅まで来るなんて、

   私怖くて」


 恐怖を訴えるが、受話器の向こうからはざわざわと周囲の音が

  妙に聞こえる。小田切が受話器を耳から話しているのか。

  小さな声も聞こえる。

 

 「もしもし、ちゃんと聞いてる? 私もう怖くて……」


 「君の仕事はつまらない噂を消すことだろう。ちゃんと毅然とした態度で

  噂を否定したんだろうな?」


 「それは……」


 「君は一児の母親だぞ。しっかりしてくれないと困る」


  あやすような声を出す。

  明らかに周囲に会話を聞かれていることを意識している。


 (ごめん、遅れちゃって)


  冷静な声が受話器越しに聞こえる。

  あの女の声だ。


 (やっぱり一緒に居るんだ)


  この瞬間、加奈の心の中で小田切の存在が劇的に変わった。

 

  思い出は浪費した時間。

  浮気は取引材料へと。