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始動

登場人物


 田中:和琴大学修士1年生。COEの戸川のプロジェクトに所属。
 常川:和琴大学博士?年生。COEの戸川のプロジェクトに所属。
 焔: 和琴大学博士2年生。情報処理学科。
    COEの戸川のプロジェクトに所属。
 戸川:和琴大学教授。焔の指導教官。
 山瀬:和琴大学教授。田中の指導教官。
    田中と同じCOEの別のプロジェクト責任者。
 小田切:和琴大学助手。山瀬のプロジェクトに所属。
     山瀬研究室所属かつOB。
 佐々木:和琴大学COE助教。
山瀬のプロジェクトに所属。
     山瀬研究室OB。

 芹沢:山瀬研究室に所属していたが、アカハラ加害者として退学処分。
 塔堂:山瀬研究室に所属していたが、失踪。

 小田切加奈:小田切の妻。塾講師。
 小田切望:小田切の娘。保育園に通っている。
 天原:加奈と一緒の塾の受付嬢。
 
 
矢越代議士:矢越の父親で、国会議員。
 矢越澄真:佐々木の婚約者。矢越代議士の秘書。
 田勢:矢越代議士の秘書。
 
 宗:梅乃崎大学教授。朋谷の上司にあたる。
 
朋谷:梅乃崎大学助教授。山瀬のプロジェクトに所属。
    山瀬研究室OB。
  有徳:梅乃崎大学修士学生。宗に研究成果を取られ、朋谷に相談。

 
土岐等:5年前のアカハラ事件の被害者。
     当時山瀬研究室で修士課程に在籍していた。
 嘉納:アカハラ事件に巻き込まれ退学処分となる。
    当時学部2年生。
 
 土岐等浩輔:土岐等の祖父。
 
  菜取:和琴大学を取引先とする会社の営業課に所属。


1


  黒檜の仏壇の前で手を合わせる男の姿に、湯呑みを載せた茶盆を

  手にした婦人は目を細めた。開け放した窓からそよぐ薫風が、庭の

  若葉の匂いを運ぶ。線香から立ち上る白檀の香りが、優しくそれに

  寄り添った。男が目を開けたのを見計らって、婦人は男の傍に座り

  茶を勧めた。若々しい装いだが、目の下や口もとに刻まれた窪みが

  婦人の生きてきた年数が決して短くないことを示している。


 「最近は、あの子の為にお参りに来てくれる人もいなかったから。

   来て頂いて本当に嬉しいわ」


  そう顔を綻ばせる婦人に、男も笑みを返す。


 「お伺いしたかったのですが、返ってご迷惑になると思い遠慮して

  おりました」


  婦人の瞳の光がすうと消え、虚ろになる。

  声のトーンは変わらなかったが、内面の変化は容易に見て取れた。


 「……あんな亡くなり方をしましたから、内々で密葬させて頂きました」


  事情を知っているのかと尋ねると、男は言いにくそうに

 「多少耳に入りました」と答えた。


 「お辛かったでしょうね」


 「……ええ。その当時は本当に」


  そういうと婦人はどこか懐かしむような顔を見せる。


 「あれほどご迷惑をかけたと言うのに、研究室の方たちに

   本当に良くして頂いて。励ましの手紙や香典を頂きました。

  ありがたいことです」


 「……」

  

  男の眉間にかすかに皺が寄る。それは微細な変化で、ハンカチで

  目頭を押さえる婦人が気付くことはなかった。


  泣いてるのを誤魔化すかのように、婦人は言葉を続ける。


 「本当に馬鹿な子です。死ぬくらいなら、生きて出来ることが

  いくらでもあるはずです。それくらい少し考えれば分かることなのに」


 「……それほど追い込まれていたのでしょう」


  言葉を選んで男は言う。


 「そうですね。私たちがもっと早く気づいていれば……」


  婦人は感情が込み上げてきたのか、喉の奥が震えるのを懸命に

  堪えようと、ハンカチで口元を押さえる。唇の端から、小さく

  振動が吐息で伝わってくる。

 「すみません」と謝りながら一頻り泣く婦人を、その感情の波が

  落ち着くまで、男は静かに待った。


  婦人が大分落ち着いたのを見計らって、男は独り言のように

  尋ねた。答えを期待してと言うより、会話を継ぐために言葉を発して

  くれていると、婦人は感じた。

  

「きれいな手鏡ですね」


  仏壇の手前の小さな文机に線香立てと一緒に、木彫りの支えに

  置かれていた。

  直径十センチ程の黒塗りの丸い手鏡。

  独り言に近いとは言え、男が興味を示したことに気を良くした婦人は、

 その手鏡を支えから外して、男に裏側も見せてくれた。

  黒を背景に蓮の花が描かれた、和風のテイストだ。


  「現場に落ちていたそうです。……今はこうして形見として仏壇に

    供えているのです」


 「現場に……ですか」


  男は、合点が行かぬという感情を体現したような表情をして見せる。

  鏡を持ち歩くとすれば、普通はもっとコンパクトなサイズであるか、

 ほこり取りや化粧とセットになった蓋付きのものではないか。

 直径10cmの手鏡を鞄に入れて持ち歩くには、布などを自分で誂えて

 表面を保護する必要がある。第一少々大きすぎる。

 

 「この手鏡に思い入れでもあったのでしょうか?」


 「ええ。あの子はおばあちゃん子だったんです。私の母にそれはもう

   良く懐いていて、亡くなった時に形見分けであの子に与えたのが、

   この鏡です。大事にいつも自分の机にしまって、偶に取り出しては

   眺めていました」


 「そうだったんですか。気持ちの優しいところが、ある人でしたからね。

   今頃は天国で、お祖母さんと会っていることでしょう」


 「……そうですね。そうだと良いのですが……」


  しんみりとした母の言葉に、男は言葉を継がず、静寂が仏間を支配した。

  遠くで聞こえる鳥の声が、先ほどよりも大きく耳に届く。


  その後婦人はひとしきり故人の思い出を語り、男はそれにところどころ
 相の手を入れながら、聞き役に徹した。


  話している間に気が晴れたのか、婦人はすっかり笑顔になり、

  その頃には男が仏前に座ってから既に2時間が経過していた。


  「お引き留めしちゃってごめんなさい。またいつでも寄って下さいな」


   人の良い婦人の笑顔を見て、男もまた顔を綻ばせ、家を後にした。


  数分後-。

  鼻歌を歌いながら夕飯の支度を始める婦人とは対照的に、

  男の双眸は黒い光を宿していた。

 


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