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新緑の季節

1


 時は皐月。透き通るような青空に響く鳶の声が何とも清々しい。

研究室へ向かう自転車を漕ぐ足も、心なしか軽やかに感じる。白い

シャツの下にジーパンと言う平均的学生を体現したような装いは、

学内の質実剛健の雰囲気に、すっかり溶け込んでいる。

少なくとも彼女はそう信じている。


田中優奈が和琴大学の大学院に入学して既に一月。


他大学から新たに和琴大学へ進学した外部進学組なので、

内部進学組と比べて人脈や研究室の慣行に関する知識の面で

どうしても後れを取る。

大学院入学前にはいろいろと気を揉んだものだが、いざ入って

しまえば、研究室内の規則や雰囲気に慣れるのに、それほど時間を

必要としなかった。


 各大学にはカラーがあるものだが、ここ和琴大学の学生は質素

かつ自分のスタイルを貫くという特色が学内外の共通認識である。

その点、優奈が学部時代を過ごした前の大学の華やかな校風と比べたら、

過ごしやすくなった気持ちすらする。


周囲の学生に合わせようと茶色に髪を染め、バイトで貯めたお金で

高価な上着を購入し、インナーに安いものを使うなど工夫していた

学部時代の苦労から解放された。偶にあの華やかな校風が懐かしくなる

時もないではないが、今の研究生活に全く不満はない。


今までに購入した四季に応じた上着は、特別なイベントの時だけに使用し、

インナーは普段着としての出番が増えた。髪の色はまだ茶味がかっているが、

生えてきた黒髪の方が増えてきている。


 小柄で目だけがくりくりしている優奈は、友達からはハムスターに

似ていると言われる。鼻や口の形が凡庸な分、目が目立つらしい。

全体的に童顔なので、学部の新入生と間違えられてサークルの勧誘

チラシをもらうことも未だにある。全体的に以前よりも垢抜けなくなった

のと、童顔の相乗効果でますます年齢が低く見られつつある。


その事実すら、むしろこの大学のカラーに染まったようで、誇らしい

と優奈は思っている。現に今通りすがる学生達も、皆機能性を重視

した服装ばかりだ。


 行きかう学生の群れを縫うように走り抜け、買ったばかりの新しい

自転車は大学院棟の前の自転車置き場に辿りつく。ここまで来ると、

人波も途切れ、部室を持たない小さなサークルの面々が細々と活動

しているだけで静かなものだ。研究棟の周囲では騒音は厳禁とされて

いるので、何かと賑やかしいメインキャンパスと比べて落ち着いている。


自転車を止めて呼吸を整えつつ、研究棟を見上げる。

赤レンガが歴史の重厚感を際立たせ、その脇の記念碑に生えた苔が過ぎし

年月を示している。記念碑は大学の象徴にもなっており、新入生用の

パンフレットにも大きく掲載されている。これを見る度に、優奈はこの

大学の一員になれたことを実感し悦に入る。


現役受験生時代に受験したが失敗。

どうしても諦めきれずに大学院を受験して、やっと入学したこの大学。

学歴が欲しかった訳ではない。

その分野の第一人者である教員から、どうしても教えを請いたかったのだ。

早くからその道を志していた優奈にとって、山瀬隆文は憧れであり崇拝の

対象であった。実際山瀬の門下に入ることは、この分野での出世を約束

される。だから優奈の現状は至極満ち足りたものである。


 今年の研究室への新入生は優奈一人だが、先輩たちは皆穏やかで

親しみやすい。教員陣も穏やかな人が多く、ゼミに臨む時にも緊張は

少ない。学業に関しては、院試の準備の際にかなり勉強したので、周囲に

比べて遅れを取らない自信もあった。もちろん学ぶことの方が遥かに

多いが、十分付いていける内容で、優奈は自分の進路が間違いでは

なかったと実感している。


「おはようございます」


もうとっくに昼に近い時間だが、夜型が多い学生にとっては十分朝と言える

時間帯だ。こんな時間であるが、ほぼ毎回優奈が研究室への一番乗りである。

だから声をかけても返事が返ってくることはほとんどない。


まだ新参者ということで、娯楽の場所にも不慣れなので、時間が有り余って

いるのだ。趣味にしても、学部生の時から活動していたサークルを継続

している内部進学生とは異なり、優奈の場合サークルに新入生として一から

入らなければならない。初々しい学部生とは異なり、大学生としては

トウのたった優奈には、一から始める勇気はなかった。


そんなの気にしないという外部生もいるのかもしれない。だが優奈には、

年下の学生に気を使い、気を使われてまで趣味を作ろうとは思えなかった。

それならせっかく入学したこの大学で、研究に邁進した方がずっと

自分にとってプラスになる。


 新しい生活に慣れてからと、アルバイトもまだ雑誌とネットでの
 情報収集に留めている。いきなりあれもこれもというのは、

慎重な性格の優奈には、正しい選択とは思えない。


この判断には進路の問題も絡んでいる。

  研究室への新修士学生は、優奈一人であるが、学科全体では
 幾人も進学
している。彼ら内部進学の同級生たちは塾の講師のバイトに、
 サークル、
それぞれの交友関係で忙しいようだ。先輩たちの場合、
 それに就職活動も
入るので忙しく、修士課程で卒業し民間企業への
 就職を志す先輩のうちの
何人かは、未だに優奈は会ったことがない。
 基本的に大学院進学組は、
大学の教員もしくは研究職を目指しているが、
 もちろん技術職として
民間企業や公務員試験に挑戦する者もいる。
 
 修士学生の就職志望者の
就職活動は一年生の秋には始まるので、
 修士学生も半年後には皆更に
忙しくなることを覚悟しなければならない。
 優奈は研究職志望であり、
この研究室ではそれが有利に働くとは聞いて
 いたが、それでも何がどう転ぶか分からない。民間企業にいつでも進路
 変更できるような備えは大切だと考えている。

 いろいろと理由を付けてはいるが、要するに小心者なのだ。
 それ故に行動力がないと、自省することもある。
 そこら辺もハムスターに似ているのかもなあと、自分でも偶に思う。
 それはともあれ、この研究室では朝から夕方まで規則正しく、
 毎日来ているのは優奈くらいだった。


 だが今日は特別だ。


 研究室では、毎週第一月曜日にはミーティングがある。

 十時からなので、朝が遅い学生達もこの時ばかりは集まる。

 議題は共同実験の計画とう役割分担、学会イベントの紹介も兼ねる。

 イベントは後からメーリングリストでも知ることは出来るが、

 分担は欠席すれば自分の予定が狂う可能性もあるので、皆欠席することは

 ありえない。できるだけ来るようにという緩い義務なのだが、こればかりは

 かならず出席する。現金なものだ。


 四月の一日が月曜日かつ、入学式だったのでこれが優奈にとって初めての

 参加となる。他の研究室との共同会議室があるのだが、そこを使用しての

 会議をするのが通例と聞かされた。


 他の授業の状態と同じなら、皆直前まで来ないのだろうと、誰もいない

 ことを予測して、優奈扉を開ける。


 だが今日は見慣れない男が一人-先客がいた。



2


  十畳ほどのそれほど大きくない会議室は、中央にある大きな机でほぼ

 空間を占拠されている。先客は、ドアを開けてちょうど対角線上の

 上座に当たる位置に座っている。


 その見知らぬ男は、自分の所有物らしきラップトップを前に置き、

 なにやら懸命に打ち込んでいる。この人も見たことのない先輩の

 一人なのだろうかと、キーを叩く音が止んだ頃合いを見計らって

 優奈は挨拶を試みる。


  既にドアを開けてから数分が経過していてタイミングが悪いかとも

 思ったが、男は真実優奈の存在に気付かなかったようで、

 「ああ」と気さくに挨拶を返してきた。


  少し緊張しながらも男に近寄り丁寧に挨拶をする。

  「初めまして……ですよね。4月から修士課程に入学しました田中です。

   外部から来たのでまだ分からないことも多いですが、宜しく

  お願いします」


  軽く一礼をすると、男は少し驚いたような顔をした。振り向いた顔には

  無精ひげがあごにまばらに生えていた。眉毛も濃い目で全く整えられて

  いない。全体的に毛深い。今風の太いフレームに濃い茶色の眼鏡は、

  ファッションの為というよりも、純粋に視力を補うためにかけている

 と思われる。


  眼鏡の奥の瞳は意外に鋭い。

  黒髪も短く刈っただけ。

  髭によれよれの黒シャツは、元は上質の品だったようだが今は見る影もない。

  同じく黒のジーパンも使い込まれていた。

  こちらは同じような品を安売り店で見たことがある。

  上と下でひどくアンバランスな印象だ。

  だが黒で統一しようとしていることから、少しは洒落っ気があるのかも

  しれない。首には無造作に金のネックレスをかけている。


 「まあそう固くならないで。俺は常川聰。博士の学生だ」

 

  そう言うと右手を差し出してきた。慣れない動作に優奈は一瞬

 戸惑った後、おずおずと右手を差し出した。その手をがっちりと掴むと、

 常川は上下に振るように力強く握手をする。


  二の句を思いつかない優奈は、場を繋ぐ方法を考える。

 考えつく質問と言えば、「常川さんは博士何年生なんですか?」と

 いうものだった。これは当然の疑問だ。

 博士でも留学をしたり、学外のプロジェクトに参加でもしていない限り、

 雑務や実験で毎日のように実験室に顔を出す必要がある。

 しかし優奈は四月の入学以来、一度も常川を見たことがなかった。

 余程怠惰な学生なのか、特別な事情があるのか。


 「俺? 何年生になるのかな?」


  (いやこちらに聞かれても……)


 優奈は心の中で呟く。

 自分の学年も分からないなんて、一体どういう人なんだと謎が膨らむ。


 「まあ、そんな細かいことどうでもいいだろ。ま、これから宜しく」 


 不信感が募り、優奈はなんとも味気ない返事しか返せなかった。

 

 「……はあ」


 何と返していいのか分からず、かといって良く知らない先輩に突っ込む

 ほど優奈には度胸がなかった。それにしてもおおらかと言えば、聞こえは

 いいが、どちらかと言うと雑然とした印象が漂う。


 なんとなく間が持たなくて、誰か来ないかと助けを求めてしきりに

 辺りを気にする優奈を尻目に、常川は再びラップトップに注意を向けた。

 どんな研究をしているのか好奇心が湧いた優奈が、後ろから画面を

 覗きこむと何やら細かい数字の羅列と、グラフが画面に所狭しと映っている。

 

 「これが常川さんの研究ですか」と話題を見つけてほっとした優奈が

 聞こうとすると、カチャという金属音が新たな入室者の到来を告げた。

 三人ほどの研究室の先輩達だ。

 先輩学生達は土日以外はほぼ毎日研究室に顔を出すので、優奈には

 見慣れた顔だった。挨拶をしようと声を発する前に、事前に約束でも

 あったのか彼らは優奈には目もくれず、常川の周囲を取り囲む。

 

 無言の圧力に促され、優奈は鞄から他の授業の資料を取り出し、予習

 している振りをする。もちろん全身を耳にして、背後の会話に集中する。


 「それで引き受けてくれるんですか?」


 「引き受けてやってもいい。……ただし条件がある」

 

 常川が挑発するように言い切ると、研究室が一瞬しんと静まりかえった。

 優奈も読んでいる振りをしているレジュメを手に、全身で常川の動向を

 探る。

  

 「条件、ですか?」


 「当たり前だ。どうせ厄介払いしたかっただけだろ。俺だってしたくて

  するわけじゃない。どうしてもと言うなら、こっちの好きにさせてもらう」


  忌々しいとでも言いたげな周囲の視線をむしろ楽しむかのように、

  常川は続ける。 


 「俺が断ったら、他に人間はいないだろ?」


  歯噛みしながら、先輩の一人が口を開いた。


 「で、条件とは何ですか?」


 「田中を俺の補助に付けること。それが条件だ」

 


3


   いきなり自分の名前が呼ばれて、優奈は思わず振り向いた。

  先輩たちの視線が、優奈に向けられている。

  皆優奈と同じく、なぜと疑問符を体現したような顔をしている。


  常川だけが、自信に満ちたどや顔だ。

  会ったばかりの優奈をなぜ指名するのか。

  常川の意図がさっぱり読めない。


 「でも、あちらは博士課程の学生を一人だけという要請ですから。

  勝手に人数を増やすことは出来ません。予算の問題もあるでしょうし。

  無理を言わないでください」


 「じゃあ、お前らの内の誰かがやれば?この条件を飲まないなら、

  俺は絶対にやらない」


 「俺たちはもう山瀬先生のプロジェクトの人間なんです!」


 「じゃあこの話は断ればいいだろ。誰もやりたくないのなら

  仕方がない」


 先輩三人は露骨に眉尻を下げて、ひそひそと話し合った後、

 一人はどこかに電話をかけ始めた。もう一人は何とか常川を説得しようと

 試みるが、常川は聞く耳を持たずパソコンの世界へと既に戻っている。

 諦めた先輩たちは、無給で常川の補助になってくれないかと優奈に

 懇願し始めた。どうしても断れない事情でもあるのだろうか。

 

 「あの、何か事情があるのなら、私はお金を頂かなくても……」


 優奈の言葉に、ほっとする先輩達。


 「それは駄目だ!」

 

 バンと乱暴にラップトップの蓋を閉めると、常川はひどく不快そうな

 顔で吐き捨てた。


 「常川さん……?」


 先程までと打って変わった態度に、不思議そうに言葉を発する優奈。

 先輩たちはむしろその言葉にあからさまにむっとした。


 「元はと言えば、常川さんが変な条件を付けるから、話がこじれている

  んですよ」


 「そもそも俺が引き受けなければ、話が進まないことが前提になって

  いるのがおかしくないか? 俺はうちの研究室のプロジェクトに

  関わる情報すらもらえなかったんだ。余所の研究室なら

  無理やりにでも関わらせるってのがもうね。信頼を損ねるよ」


  そこまで言われると、二人は悔しそうに俯いたたものの、それ以上

  何も言えなかった。それと対照的にもう一人が、嬉しそうな声を上げる。


 「本当ですか? ありがとうございます!……はい。無理を言って

  申し訳ありません。……はい。失礼します」


  電話を終えると、先輩は言った。

 

 「あちらがもう一人を付けることを検討してくれるそうです。修士学生

  でも通るように、何とか向こうの先生に打診すると言ってくれました!」


 「……随分とあちらさんは人が良いようだな」


 捨て台詞を吐きながらも、今度の常川は少し驚いていた。

 

 「これで文句はないですよね?」


 なぜか自信たっぷりに反撃を開始する先輩たちに、常川は牽制する。


 「まだ検討するだけだ。……だが、うん。まああちらさんの事は

  気にいった。おい田中!」


 「は、はい」


 いきなり名前を呼ばれて、優奈は動揺する。


 「いざとなったら、俺が個人的に雇ってやる。明日からは

  お前は俺の助手だ」


 まだ優奈は自分の意見を言っていないが、そういうことになって

 しまいそうだ。流されやすい性格なのは損だと、改めて思う。

 先輩たちも同情と安堵が入り混じった顔をしている。


 (何だか良く分からない事に巻き込まれたけれど、

  こんなに押しの強い人と上手く渡り合っていけるかな?)


 プロジェクトの内容すら分かっていないこと以上に、

 優奈は先行きが不安になった。



4


  ミーティングの後は、皆が集まったのが幸いと山瀬のプロジェクトの

  研究を進めるのが通例だ。今日もそのご多分にもれず、常川と優奈

  以外のメンバーは、実験室へ行ってしまった。特殊な機械を必要とする

  実験なので、通常使用している研究室では、実験を行うことが出来ない。

  修士二年生も参加しているプロジェクトなので、結局研究室へ戻ったのは、

  常川と優奈だけになってしまった。


 「どうして私を選んだんですか?」


 「どうして山瀬先生のプロジェクトから外されているんですか?」


 「どうして無給で働くと言ったときに、怒ったのですか?」


  いくつも聞きたいことはあったが、パソコンに目を血走らせている

  常川に、優奈はなんとなく聞きあぐねる。


 (そうだ!)


 「COEのプロジェクトでは、どんなことをするんですか?」と尋ねて

  みてはどうか。優奈は当たり障りのない質問で、会話のきっかけを

  作ることにした。これから先共に同じプロジェクトに関わるのなら、

  相手のことを少しでも知る必要がある。


 「全く知らない」


  会話終了。

  常川はまたパソコンの中の世界へと戻ってしまった。

  これ以上会話を続ける気もないようだ。

 

  仕方なく研究室内でできる実験をとりあえず進めようと、優奈は

  闇雲に手を動かす。

  時刻は既に午後一時。

   朝方の陽光が影を潜め、雨音が今にも聞こえてきそうだった。


  ルルルルル。

 

  三十分も過ぎた頃だろうか、研究室の共用電話が鳴り響いた。

  実験のため手袋をしているので、手が空いているはずの常川を見る。

  だが、常川は音が聞こえていないのか、知っていてあえて無視を

  決め込んでいるのか動く気配がない。

   仕方なく優奈が実験に使用した手袋を脱ぎ、電話に出ることにした。


  ……。


 「御親切にありがとうございました。失礼します」


  数度会話をした後、礼を言った優奈は、急いで共用パソコンの前に

  座り、キーボードを叩き始める。


 「で、何だった?」


  あれだけ電話を無視していた常川が、内容だけは気になるのか、

  相変わらずラップトップの画面を見ながら、尋ねてくる。

  今度は優奈が答えない。


  突然キーボード操作を止めた優奈は、今度はスクリーンを前に

  固まっていた。信じられないモノを見たかのように、一度クリック

   してはその内容を確認している。


 「常川さん。大変です。とんでもないことになってます……」


 「どうした?」


 「これ……」


 デスクトップの前の席を優奈に譲ってもらうと、そこには1本の

 論文が映し出されていた。名前からしてこの研究室の助手、小田切の

 ものだ。

 

 「これが?」


 論文検索サーチや大学サイトに登録あれば、論文は誰でも閲覧できる。

 最近は有料化したり、会員登録を必要とする論文もあるが、ほとんどの

 論文は無料で公開するサイトに登録されることが多い。


 「これまだ書きかけの論文なんです。それなのにネットで公開されてます。

  これだけじゃありません。小田切先生の個人的なファイルらしいものが、

  ネットに流出しているみたいです!」


 カチ、カチとクリックすると、大学の授業関係の名簿、

 研究室メンバーの住所録、一般公開講座の志願者の質問に答えた

 個人的なメールの内容までがネットから閲覧できるようになっている。

 

 「ウイルス感染ということか?」


 優奈は黙ってうなずいた。

 もし小田切が感染したパソコンで第三者にコンタクトをしていたら、

 他の人間にも影響を及ぼす可能性がある。

 現段階で小田切が管理している、学生や一般公開講座受講生の個人情報が

 漏れているのだ。

 既に大問題に発展しかけている。


 先程の電話の主は、ファイルの内容から小田切の名前と所属を発見して、

 親切にも忠告してくれたのだと、優奈は説明した。

 

 「わ、私小田切先生を呼んで来ます!」


 数分後優奈は、小田切を連れてきた。

 画面を見ると、小田切は真っ青になった。


 「そんな馬鹿な」とクリックを繰り返すが、自分の個人情報とおぼしき

 ファイルが次から次に検索結果に出てくる現実を、小田切は認めざるを

 得なかった。

 茫然自失する小田切。

 それを正気に戻したのは、常川だった。


 「落ち込んでる場合じゃない。他の人へ感染している可能性も考えろ」


 学生が教員に対する言葉としては乱暴にすぎる。

 優奈はぎょっとした。


 「まさかメールを誰かに送信したりしてないだろうな? メーリング

  リストになんて送ったら大変なことになるぞ」


 「昨日送った……。プロジェクトの重要事項だから、それには連絡先

  として各人のメールアドレスと電話番号が書いてある……」


 弱々しく答える小田切。

 常川の乱暴な口調は、気にしていないようだ。


 「誰に送った?俺が今からそいつらに絶対にメールも添付ファイルも

  見ないよう、メールする。田中は電話が捕まるやつだけでも、

  連絡しろ」


 連絡先名簿を取り出すと、すぐに優奈は電話をかけ始める。

 小田切は未だ信じられないと言うように、ぼうっとデスクトップを

 見つめている。


 それほど大所帯でない研究室の事、すぐに全員に連絡が取れた。

 中には既にファイルを開けてしまった学生も何人かいたが、今のところ

 彼らの保存した情報の漏洩は確認されなかった。

 メーリングリストに送信した時点では、ウイルス感染はしてなかった

 らしい。

 ひとまず学生に被害が出てなかったことに安堵する一同だったが、

 小田切はさすがにまだ堪えていた。


 「いつからウイルスに感染したのか、何が原因なのかを

  突き止めて、関係各所に謝罪と警告する必要があるな。この事実は

  公表した方がいいだろう」


 「それは困る。絶対に駄目だ。信用問題に関わる」


 「二次被害にあう可能性のある者のことを考えろ。もうお前一人の

  問題ではないんだ」


  いやに自信満々で諭す常川に、気弱になった小田切は弱々しく尋ねる。  

 

 「常川、お前の会社はIT系だったよな?だったらこういう問題に

  強いんじゃないか?」


 「うちはセキュリティに関しては専門の会社に一任している。

  セキュリティ・スペシャリストは数人しかいなんだ。

  システムの管理でいつも手が塞がっている。

  セキュリティの専門会社かメーカーに頼んだ方がいいだろう。

  多少高くつくが被害を拡大しないためだ」


 業者への修理依頼、これからの関係各所への謝罪、

 当然山瀬からの叱責もあるだろう。これから訪れるであろうもろもろを

 考えると、小田切は今にも倒れそうだ。


 反対に、常川はてきぱきと準備を進める。

 打ちひしがれている小田切を放置し、小田切の研究室にある

 デスクトップ型パソコンを見に行くので、ついてこいと優奈を

 連れていく。もちろん小田切の部屋の鍵が無いと開かないので、

 小田切も渋々付いてきた。


 小田切に部屋の鍵を開けさせると、常川はまずはLANケーブルを抜く。

 パソコンを学内のネットワークから切り離すことが、先決だと常川は

 ケーブルを無造作にデスクに置きながら説明する。同時に小田切に

 メーカーの保証書と取扱説明書を持って来させると、パソコンを学生用

 研究室で少し試してから、後の対処を決めようと提案した。

 問題解決の為には、インターネット上の情報も不可欠なので、学生

 研究室の他のパソコンで情報を参考にしながら、対処方法を決めると

 言う。小田切はコンピュータには不慣れなようで、常川の指示に大人しく

 従った。


 小田切のデスクトップ型パソコンは、スクリーンが大きいタイプで、

 その分重量がある。常川の独断で、常川がスクリーンを、優奈が

 キーボードを持つことが決定する。荷物持ち要員として、連れてこられた

 らしい。

 

 「とりあえずお前が私用で使っているパソコンも持ってこい。

 もしかしたらそっちからウイルスが感染した可能性もある。俺たちは

 このパソコンを研究室に持って行って業者への連絡をする。急げ」


 IT会社での経験があるらしい常川の独断場だ。

 小田切はドアを閉めると小走りで出て行った。

 研究室に戻った後も、優奈が見守る中、常川はあれこれ試したが、

 原因の特定や自力での問題解決には至らなかった。

 諦めた常川は、メーカーへ修理依頼する手順と、どこに修理を

 依頼するかを、取扱説明書と共用パソコンを使って調べ出した。


 当然門外漢の優奈はなす術もなく、邪魔にならぬよう、

 ただぼんやりと常川の行動を見守る。

 何の助けにもならぬことは分かっているが、奮闘している

 常川を無視して自分の作業に取り掛かる訳にもいかず、

 優奈は何となく気まずい時間を持て余す。

 他の学生達は、自分達にそれほど被害がないことを確認した後、

 すぐにプロジェクトに戻っている。

 綿密に役割分担が振られているようで、例え心配でもとりあえず

 プロジェクトを進行させることを選択したようだ。


 その時。

 

「お手伝いしましょう」


 第三者の到来を告げる声がした。

 


5

 

 戸がいつのまにか開け放たれ、見知らぬ男が立っている。


  ボディービルでもやっているのか、筋肉質な体が服の上からでも分かる。

  いわゆる細マッチョ体系だ。目立たない程度にダークブラウンに

 染めた髪を長め伸ばしワックスで毛先を遊ばせている。仕立ての良い黒の

 シャツとパンツで覆った体躯は、ほど良い筋肉のかげでシルエットが映える。

 傍を通ると男性用香水の匂いがふわと香った。

 常川とは違う意味で、院生らしくない。


 「誰だ、お前?」


 常川の礼儀の欠片もない挨拶を気にすることなく、男は丁重に接する。

 

 「申し遅れました。情報処理研究科所属、戸山研究室の焔と申します。

  こちらとの共同プロジェクトの一員ですよ」 


 朝に揉めたCOEプロジェクトの研究員ということかと、優奈は

 合点した。


 だがどうしてここにと不思議がっていると、男はCOEプロジェクトの

 共同研究者として必要な書類を持って来たのだと答えた。

 

 「ちょっと失礼します」

 と断ると、共用パソコンに近づき、常川にどんな被害が出ている

 のかを尋ねる。


 常川に席を代ってもらうと、マウスを忙しく動かし、時折キーボードを

 叩く。パソコン系は最低限の知識しかない優奈は、ただただ見守っている。


 「このファイルが感染源となって、皆のパソコンに送られたんですね。

  これは暴露型ウイルスです。ハードディスクだけでなくコンピューター

  内の情報を漏らし、情報は半永久的にネットの海を彷徨うことになります」


 プライベートまでも曝け出されては、小田切もたまったものではない

 だろう。動揺する優奈に対して、常川は知識がある分予想の範囲内の

 答えだったのかさもありなんと頷くだけだった。

 

 実際的な解決方法として、全ての記録媒体をチェックして感染源を

 チェックする必要があると、焔は忠告した。

 USBなどの記録媒体が感染源になることもあるのだという。

 すぐさまその旨を携帯メールで、小田切に送る常川。

 返事がないところを見ると、小田切はまだ車中の人なのだろう。


 「気付かずとはいえ、発生源となった以上、小田切先生には全ての

  記録媒体を提出して頂く必要があります。僕の所属する研究室では、

  最新型のウイルスに関する研究をしている戸川先生と、ウイルス

  セキュリティの専門企業との連携もありますので、現物さえ提出して

  頂ければ、現段階までの被害に留めることが出来ます」


 「大がかりになるが、止むを得ないな。他の者もウイルスが潜伏して

  いる可能性があるから、疑わしいファイルはチェックしてもらった方が

  いいかもしれない」

 

 「そうですね。できればお願いします。では僕は戸川先生に事情を

  話してきますので、後から小田切先生のパソコンと記録媒体を持って

  きて頂けますか?」


  丁寧な口調でそう指示すると、そういうと、焔は颯爽と帰って行った。

 

   その後ろ姿を優奈はほうとため息をつきながら見守る。

  問題解決をさっとする有能さ、清潔感漂う外見、何より常川と比較

  してだからかもしれないが、人当たりの良さ等、優奈にとって今まで

  会ったことの無い種類の人間だった。

  どれか一つでもこれらの美点があれば、それが傲慢さを生みだし、

  他の一つは欠けていくものだと思い込んでいた。


 「ああいう人もいるんですねえ」


  うっとりと優奈が言うと、常川は呆れたように「なんだお前ああいう

  タイプが好きなのか」とつまらなそうに言う。

  大して興味がなさそうなのも気に入らない。

 

  何か言い返す言葉を考えていると、どこかで聞いたことのある電子音が

  鳴った。遠い昔に歌っていた子ども用アニメの主題歌だ。

  なぜこんな曲がと不思議に思うと、常川が平然と携帯電話を

  手にしていた。どうやら常川の携帯の着信音だったらしい。

  選曲の基準、感性など突っ込みどころが多いが、緊急事態なので

  あえて触れない。


  興奮した調子の大声が受話器の外まで響く。

  相手は小田切のようだ。

 

 「全部か? だが家に置いてある媒体まではいいだろう? 

  あれは無関係のはずだ」


 「全部だ。気になるなら、中身を消してもいい。だが余計なことを

  すると、関係の無いファイルまで影響があるかもしれない。全部だ。

  これはもうお前独りの問題ではないんだ」


 なぜか渋る小田切に、常川は追い打ちをかける。

 だが事態がこうも逼迫してしまっては仕方がない。

 小田切は最終的には首を縦に振らざるをえなかった。

 


6

 

 渋る小田切からパソコンと記録媒体一式を受け取ると、常川と優奈は

 情報処理学科の大学院棟へ向かった。


 「どうして田中もついて来るんだ?」


 「常川さん一人だけじゃ心配ですから。それに情報処理学科って

  前から興味あったんです」


  パソコンの技術があればいいなあと思ったことはあるので、嘘では

  ないと優奈は自己肯定した。


  情報処理研究科は比較的新しい学科なので、銀色の光沢が照り輝く

   研究棟は近未来の建物のようだ。シャープな形を組み合わせたモダンな

   建築は、優奈と常川の所属する大学院の歴史の色濃い建物とは対照的だ。


 「良く来てくれました。歓迎しますよ」


 そういうと焔は小田切のパソコン一式を自分の研究室に運び入れ

 鍵をかけると、小奇麗な共同休憩室の隅の台所で湯を沸かして、

 三人に紅茶を淹れた。
 

 一旦焔と戸川教授がパソコン内を確認して修復を試みてから、

 それでも駄目なら業者に回すと、紅茶を淹れながら焔が説明する。

 傍を通るたびに香る匂いを、優奈は嬉しそうに嗅いでいる。

 声も自然といつもより一オクターブ高い。


 皆の分の紅茶を淹れ終わると、焔は優奈が正式に研究員として認められた

 ことを教えてくれた。


 「期間は二年。色々スケジュール的に大変なこともあると思いますが、

  協力して乗り越えましょう」


 「あの、私今日いきなり決まったので、何をするかとか全く分からない

  んです……」


 焔がこれだけ書類など準備していることから、このプロジェクトはこの

 研究室では力の入ったものなのだろう。それなのに自分も常川も全く

 内容を知らないことに、優奈は申し訳なくて語尾が小さくなる。

 今は俄然やる気であることを伝えたかった。

 焔に出会った後に、決めたことだが。


 言葉を濁す優奈に、焔は優しく期間内に一定の成果をだせば、問題ない

 ので、スケジュールはそちらに任せ、研究進展を強要することはないと

 安心させた。義務と言えば、定期的に研究の進行状態を報告する位だ。


 優奈が言いだしたことではないにしろ、常川の我儘を

 聞いてくれた上、焔というオプションもある。優奈のモチベーションは

 否がおうにも高まる。

 

 「へえ。思ったよりも気楽にできそうだな」


 どこか他人事の常川に、「すみません」と常川の非礼を代りに

 優奈が謝る。


 「……今日は元々常川さんと田中さんに説明する必要があると思って、

  そちらの研究室にお邪魔したんですよ。研究室が異なるメンバーは

  どうしても、情報の共有が難しくなりますからね」


 柔らかな笑みを浮かべながら、人懐こそうに話す焔は大人を体現した

 ような人物だ。それに比べて……と常川を見ると、がぶがぶと紅茶を

 のどに流し込み、クッキーを音を立てて食べている。

 食べるのに忙しいのか、相槌すら打たない。

 常川のせいで、自分の好感度まで下がりそうで、優奈は冷や冷やしていた。

 

 一息入れて、焔はCOEプロジェクトにおける常川と優奈の役割の

 具体的内容を話しだす。優奈は紅茶の残りを気にしながら、耳を傾けると、

 察した焔が湯を入れてきてくれた。


 焔が言うには、この共同研究は大学内の複数の学科にまたがる

 学際研究で、山瀬研究室の所属学科を含む4つの学科で構成されている。

 各学科から選抜された大学院生が、共通のテーマで交流する共同研究

 プロジェクトで、時折外国からも招聘研究者が招かれることもある。

 プロジェクトは更に内部で7つにチームが分かれており、各研究科の

 7人の教員が各プロジェクトの代表を務めている。


  代表者がその所属学生をプロジェクトに入れることを承諾すれば、

  所属できる。そのため元々の研究室の指導教官には制限がない。もちろん

  自分の研究室の指導教官のプロジェクトに入る方が何かと効率が良いし、

  普通はそうしている。だが常川はなぜか山瀬の研究プロジェクトには

  は所属していない。それどころか情報すらもらえなかったと言っていた。

 それが山瀬との確執なのか、単純に常川の研究テーマと関連するもの

 なのかは、優奈には分からない。


 研究室に所属している博士学生は、修士学生と違って、基本的に必修なのは

  山瀬の担当ゼミだけだ。博士学生は自分の研究を完成させるのがメインと

 なるが、その実験も山瀬の実験の一部を構成することが多い。

 更に山瀬が代表のCOEプロジェクトに参加しているともなれば、

 その関係性は一層密になる。


  常川以外は、独自研究をしている博士学生も、COEでは山瀬の担当

 プロジェクトを選択する。山瀬が常川をプロジェクトに入れることを

 許可しないのか、単に研究室の情報に疎いだけなのかは分からないが、

 外から見ると指導教官と上手くいっている印象はない。

 

  傍若無人に見える常川の立場は、意外と脆いものなのかもしれない。

 急に横に居る常川が、小さく見える。先程から常川の口数が異様に少ない

 のも気がかりだ。心もとない優奈の気持ちを知ってか知らずか、焔は

 こう締めくくった。


 「学際研究は初めての試みですが、楽しみです。これを機会にお互いの

  研究室同士の交流も深まるといいですね」

 

  「まあ宜しく」とやる気が見当たらない常川を遮るようにして、

 優奈は「はい」と元気よく賛同した。



7


 調査の結果、院生を含む学生の名簿と住所録と、一般公開講座の

 参加希望者と小田切間で交わしたメール本文と、その住所、氏名、

 電話番号、小田切がハードディスク上に保存していた文書全部、

 そして自分の名前が所有者と記された画像ファイル‐焔の短時間での

 ネット上での調査によると、これが現時点での流出情報の全てだった。


  院生のメールアドレスから院生の所属も漏れており、研究室のホーム

 ページと照らし合わせれば簡単に誰のアドレスか分かる。

 院生なので、当然自身のメールアドレスを公開している人も多いが、

 それでも一般に公開はしていない学生もいる。

 それに加えて、小田切が指導していた、まだ公表していない院生の

 研究成果も含まれる。企業との共同研究をやっていた学生などは、

 真っ青になっていた。


 そんな学生たち以上に、小田切のショックは計り知れなかった。

 何しろ常日頃から、自分はパソコンに疎いことを自覚して、

 セキュリティには細心の注意を払っているつもりだったのだ


 だからこそ個人情報の流出が度々話題になる中で、小田切は

 自分がその当事者になるとは想像もしていなかった。


 個人情報の流出と同じくらい、保存していた画像の中に、猥褻画像が

 混ざっていたのが解せない。

 私用のパソコンならともかく、大学のパソコンで、勤務時間内にそんな

 画像を見ていれば、どんな火の粉が降りかかるのか分からない。


  ネットワークに疎い小田切は、管理部門にチェックされそうで

 学内のネットワークには気を遣って、閲覧先にも細心の注意を払っていた。

 どうして自分名義でこんな画像がと、名誉を汚されたようで、

 地味に堪えている。勤務時間内に何を見ているのだと、女性たちからの

 視線は一気に冷たいものとなった。


 だがこれはあくまで小田切の私情であり、大学側からしたら最もダメージ

 となったのは、やはり個人情報の流出である。


  一般参加希望者には当然学外の人間が含まれていたので、外部から

 指摘があったこともあり、大学広報が世間に公表する運びになった。

 当然小田切には大学本部からの、叱責と信用の低下は免れない。

 それは順風万般な研究者生活を送って来た小田切にとっては、

 不名誉他ならず、他者が思う以上に心に突き刺さる。故意によるものでは

 ないので、口頭での厳重訓告だけ。民間企業に比べれば甘すぎる程の処分でも、

 小田切には大いに不満であった。

 

 どうしても他者による作為を感じる。悪意を。

 じゃあどうやってと言われれば、コンピュータに疎い小田切に説明が

 出来ようはずもないのだが。


 小田切は握った拳を机に叩きつけた。

 思い通りにならない状況は初めてで、感情がまとまらない。

 それでも起こってしまった以上、何とかするしかない。

 

 (大丈夫。今まで通り何とかできるはずだ)


 小田切は、幾度も自分に言い聞かせ、平常心を保とうと試みた。



8


  焔がパソコンの中身をチェックした後、外部の業者よりも学内委託

 している業者に頼む方が割引特典を使えるし、学内の規定にもいろいろ

 通じていることでメリットがあるとアドバイスを受けてから、常川と

 優奈はそのままを小田切に伝えたが、小田切は頑なに拒絶した。

 

 小田切は個人情報の詰まったパソコンを、業者に委託するくらいなら

 新しいパソコンを購入すると粘り、最終的には自費で新しいパソコンを

 購入することで落ち着いた。あれだけの騒ぎになった為、さすがに

 公費で購入する神経はなかったようだ。私用パソコンには全くウイルス

 感染が見られないと焔に太鼓判を押してもらったと伝えられた時には、

 心底ほっとした顔をしていた。


 この頃になると、ウイルス感染事件も収束に向かっていた。

 小田切は処分や弁明など、いくつかの関門がまだまだあるようだが、

 少なくとも研究室内では、その話題をあえて口に出す者は、もうほとんど

 いない。小田切と接する態度も、以前と変わらない。そこら辺は大人

 なんだなと優奈は感心している。今回被害を多少なりとも被った院生が

 いることを知っているからだ。


 各研究プロジェクトも、小田切の不始末への対応に追われ停滞していた

 ものも完全に復旧した。今日も研究室には、優奈と常川だけ。それ以外の

 院生は全て山瀬の研究プロジェクトに駆り出されている。

 少し寂しく思いながらも、優奈は実験する手を動かしていた。


 三十分程経過した後だろうか‐。

  

 コンコンとドアをノックする音がして、続いて常套句を機械的に

 告げる声が後に続く。

 常川はソファーに横たわったきり、眠りこけており、動く気配がない。

 仕方なく優奈が実験に使用した手袋を脱ぎ棄て、ドアに向かう。


 「今日の分の郵便です」


  大学構内の配達人が手紙を数枚渡してきた。

  研究室宛ての郵便は、おおむね優奈が受け取ることが多い。


  受け取ると宛名の書いてあるものは、その人の机に置き、それ以外の

  広告などは研究室共用の棚の上に置く。基本的に研究備品のカタログや

  学術雑誌関連の書類であることが多い。

  一応各研究室ごとに簡単な郵便ボックスが、研究室のドアに付いている

  のだが、中に人の気配がする時には、こうして直接渡してくれる。


  礼を言って優奈が受け取ると、今日は宛名の書いていない封筒が一枚

  混ざっていた。


 「これは……?」

 

  宛名には「山瀬研究室様」としか書いていない。勝手に開けても

  いいものだろうか。優奈は躊躇った。白い無地の便箋にをひっくり

  返しても、差出人の名前は書いていない。宛名もタイプライターで

  打ってある割には、広告であることを示す企業名もない。

  どう見ても私用に届けられた郵便物だ。

 

  優奈が考えている間に、いつのまにか起きていた常川が封筒を

  ひったくると、勝手に開けてしまう。

 

  「常川さん?起きていたんですか?」

 

  突然現れた常川に、優奈が驚きの声を上げる。

 

 「今起きた」

 

  ぼりぼりと頭を乱暴に掻き毟り、あくびを一つする。

  その乱暴な動作のまま、封筒を逆さに振ると、中からは

  更に二枚の写真が出てきた。

 

   一枚には、手鏡を後ろ向きにして、後面の模様がしっかりと

  見えるように映っている。もう一枚は少しカメラを離して、

   手鏡の全体像が分かるように撮影されている。

   それぞれ一枚に一つずつ。


  「これ、何かの広告でしょうか?」


   返事を期待せずに常川に聞く優奈。

  常川は真剣な顔で写真を見つめている。

 

  「何か紙が入っているぞ」


  言われて引っ張り出した小さな便箋の中央には、

 「オダギリミツヲ、ササキメイ。5ネンマエノツミガユルサレルト

  オモウナ。アカハラサツジンシャ」と赤字で印字されていた。


 読みにくい全てがカタカナの文章が、不気味極まりない。

 優奈は文章を小声で朗読するが、一読では意味が分からなかった。

 小田切と知らない女性の名。

 次に「5年前の罪が許されると思うな」という警告。

 

 (アカハラサツジンシャ……?)

 

  「……何でしょう、これ?」

 

   嫌がらせにしては手が込んでいる。

   常川は文面を見つめ息を飲んだ。

  何かを飲み込んだかのように、喉が鳴る。

 

  「……誰にも言うな。俺が処分しておく」


  常川は写真を元の封筒に納めると、自分の鞄の奥にさっさと

 しまった。だが内容が内容だ。優奈はせめて小田切やこのもう一人の

 名前を書かれた女性の耳には入れて上げた方がいいのではないかと

 提案したが、常川は駄目だと拒絶するだけだった。

 

  「小田切先生には言っておいた方がいいんじゃないですか?

   もしかしたら心当たりがあるかも知れません」


   逆恨みにせよ、この手紙と写真を送ってきた人物はおそらく

  小田切を憎んでいる。

   今回この手紙を勝手に処分してしまえば、無視されたと腹を立てて

   更に行為がエスカレートするかもしれない。


  「……いいから黙っておけ」


  何故か常川はそれが最善と考える。

 優奈が更に口を開こうとした時に、研究室の扉が開いた。

 珍しく早めにやってきた先輩たちの顔が覗く。

  だがその内の一人が、常川の顔を見ると「あ……」と言ってひっこんで

  しまった。他の先輩たちも共に姿を消す。だが常川が気を悪くした素振りは

  なく、全く怯まない。


  「ああ、面倒な奴らが来たな。よし田中、昼飯でも食べに行くか」


  優奈は既に家で食事を済ませてある。


  「いえ、家で食べて来ました」


  「じゃあ水でも飲めばいいだろ。行くぞ」


 右腕を掴んでそのまま研究室から引っ張られる。先程の先輩たちが

 気の毒そうに見つめる中、優奈は常川に引きずられて行った。



9

 

   既に3構目が始まっている時間だが、学生食堂は未だ賑わっている。

  構内に学食はいくつもあるが、山瀬研究室の学生たちは、大学院棟と

 渡り廊下で繋がっている学生食堂を利用することが多い。


 この食堂は学部生が演習で使う棟にも近く、比較的遅い時間まで

 営業していることもあり、自炊をしない学部生も多く利用している。

 幾度も 塗り直して修繕した外観はロッジのようで、大きな窓からは

 燦々と太陽光が降り注いで、学生の若さ溢れ明るい雰囲気に華を添える。


  メニューは基本的にカレーや麺類、季節の惣菜を基本とし、それに

  季節ごとのフェアを行う。優奈も四月には新入生歓迎フェアの

 メニューを楽しんだ。


  常川は水でも飲んでおけと言ったが、いざ食堂に来ると、空腹を

 感じる。優奈はデザートコーナーで売っているフライドポテトと

 ジュースを頼むと、先に壁側の席について常川が戻ってくるのを待った。

 常川は大盛りのかつ丼をプレートに乗せて、ほくほくとした顔で

 戻ってくる。


 いざ対面すると、何から話題を始めて良いのか分からない。そもそも

 他のメンバーと連携の取れてなさそうなこの人と行動を共にすることが、

 新入生の優奈にとってマイナスになるのではないか。

 腹黒い計算もしてしまう。


 それでも先程の手紙の件は気になる。

 言葉が生まれない時間、優奈はフライドポテトを消化することに

 専念する。


 「俺、修士を2年留年して、博士も2年留年しているんだよね。だから

  研究室では一番古株になるんだ」


  学生というにはトウが経ち過ぎているとは思っていたが、これで

   謎が解けた。下手をすると、小田切とも同級生なのかもしれない。

   

  そういえばと、「お前の会社IT系だろ」と言っていた小田切の

  言葉を思い出した。

 

 「IT系の会社で、働いていたんですか?」  

 

  ポテトを口に含みながら、優奈は会話を続けるためだけに口を開く。

  それほど関心がある訳でもない。


  「そうそう。俺の本業はそっちだからさ。そっちが忙しくて、

  あんまり研究室には来ていなかったんだ。俺、こう見えても

  社長やってるの」


 「社長さんですか?」


   驚いて常川を見直す。その割に服装はなんとも安っぽい。

  

  あの言葉は、ここから来た話だったのだなと、優奈は納得した。

  

  「ああ。結構儲かっている。大学院は会社が軌道に乗るまでの居場所

    として居させてもらっていたんだ。俺にとって研究は趣味の延長

  みたいなものでな。メインは金もうけ」


  悪びれもせず、そう言い切る常川。これでは研究室の他のメンバーの

   不興を買うはずだ。奨学金やバイトでかつかつで研究を続けている

   学生にとっては、不愉快極まりない話だ。下手に返事をしたら言質を

   取られそうで、優奈は言葉が出てこない。愉快そうに話していたが、

  ふっと声を潜めて言う。


  「だから俺は研究室には染まっていない。中立の立場だ」


  「はあ……」


  話が急に飛んだ気がする。だが常川にとっては十分話は繋がって

  いるようだ。常川がそれ以上言葉を継ぐことはなかった。

  優奈は自分から、話題を提供することにする。

  先程届いた封筒。あれを見て常川の態度は明らかに変わった。

  それに関して、何か知っていることがあるはずだ。


  「さっき書かれていた名前の人……常川さんは小田切先生じゃない方

  の人も知っているんですか?」


  「ああ。今はうちのCOEの助教をしている。研究室のOBで、

   小田切とは同級生になるな」


   食べながら常川は言った。


 「もしかしてあの二人……。それで小田切先生の奥さんか、

  その女の人の旦那さんが怒って。そういうのもありえますよね?」


 非日常の予感に不謹慎にも興奮を抑えきれない優奈。

 その様子を呆れたように眺める常川も、自分の説を披露し始めた。


 「そういう関係とは思えんがな。だが差出人にとって、この組み合わせに

  何がしかの意味があることは確かだろうな」


 「便箋に書いてあった言葉に、何かヒントがあるんじゃないですか?」


 確かあの文面には、「5年前のことを許されると思うな」とあった。

 あの手鏡には何の意味があるのか?


 「罪が何を示しているのかで、差出人の見当がつくかもしれませんね」


 まだ知り合って日が浅い小田切の行動を思い起こし、素人推理を頭の中で

 巡らす。呆れたように常川が見ている。


 まだ入学して一月の優奈であるが、小田切と顔を合わせることは存外に

 多かった。山瀬に書類仕事の大部分や学生への実験指導を一任している

 為、顔を合わせる機会は多い。

 

  小田切はポスドク氷河期時代に、博士課程を卒業後すぐに助手になれた

  運の良い人間だ。それも山瀬の後ろ盾あってのことであるのは明白だ。

  丸っこい鼻と細い目を眼鏡でカバーした容貌は、地味ながら誠実さを

  出しているように感じる。事務仕事や日常のこまごまとしたことは着実に

  こなしてくれる。研究者としての力量はそれほど目立っていないが、

  単位についてもそれほど厳しくないことから、学生受けも可もなく

 不可もなくという平均的な人間だ。悪く言われることはまずない。

 事務関係に関してはそつがない分、信頼に足る人間であると言えよう。


 とすると何か犯人に関わるトラブルに関わっているということか。


 「第一候補が浮気で、後は逆恨みしている山瀬研究室の元関係者ですかね。

  学部の授業やゼミも含めると容疑者は膨大な数になります。どうやって

  犯人を絞りましょうか……」


 「おい、妙なおせっかいはやめておけよ」


  今しがた食べ終わり箸をタンとプレートに置くと、常川は言った。


 「……不審な手紙が来るぐらい、そう珍しいことでもないだろう。

  いちいち警察に行っても相手にしてもらえないぞ。文字は物騒だが、

  何か脅迫されている訳でも、強要されているわけでもない。

  被害は今のところ何もないんだ」


 「でも、万が一何かあったらどうするんですか。巻き添えで山瀬先生

  にも、迷惑がかかるかもしれない」


  冷たく感じる常川の言葉に興奮した優奈は、両手を机の上に置き

  身を乗り出す。

  振動でコップが揺れ、倒れた。

    水が手にかかり、優奈は我に返る。
 罰が悪そうに「すみません」と謝る優奈に、呆れたように常川が
 追い打ちをかける。

 「お前さあ、どんな幻想抱いてこの研究室に来たのか分からないけれど、

   そんなに接触もないおっさんのこと、良くそんなに心配できるよな。

   恨みを持たれるなら、それなりに理由があるんだろ。だったら殺され

   ようが、知ったことか」


 「だったらせめて怨まれている事だけでも教えてあげましょうよ」


  馬鹿にされたように感じた優奈は、必死で食い下がる。


 「いたずらだ。大事にするな。……それに奴らも、何とも思わないはずだ。

   言うだけ無駄なんだよ」


  常川は最後の言葉を特段大きな声で言った。


 「そんなの常川さんにどうして分かるんですか!」


 「……分かるさ。良く知っているんだ。あいつらのことはな」

 

 「犯人探しのようなことは、やめておけ。こいつらに心当たりがあるのなら、

  普段から自分の身を律すればいいだけのことだ。それが出来ない

  人間ならこの手紙の事を知ったところで、何も行動しないだろうよ」


 「知らずに人を傷つけている人だっています。言われないと

   分からない人もいるんですよ」


 「だとしてもそれを含めて自己責任だ。忘れろ」

 

 常川はそれ以上、この件に関して何も言わなかった。

  


10


  今度は不思議そうな顔をして、常川が聞き返した。


 「お前一体なんだってそんなに山瀬たちのことを心配するんだ?そんな奴

   うちの研究室でもほとんどいないぞ」


  それは常川が非常識なだけで、他の院生だってあの手紙を見れば、

 きっと心配するはずだ。そう信じている優奈はこの常川の言葉を黙殺した。

 だが常川は気にせずまた質問する。


 「お前そもそもどうしてうちの研究室に来たんだ?周りから止められ

   なかったのか?」


  家族は喜んで送り出してくれたし、友人も望みが叶って良かったと

 共に喜んでくれた。やましいことは何もない。

 だから優奈は胸を張ってその通りに申告する。

 すると目を丸くして常川は言った。


 「お前、外部からだったな。それじゃあ知るわけがないか」


  見込み違いだと言うように、大声を出した。

  その態度に優奈はますますむっとする。


 「外部からではいけませんか?」


   外部からというので、疎外感を感じることも稀にある。余所から

   来たからと言って、いろいろ言われるのは当事者からすれば

   傷つくものなのだ。


 「ああ、ごめん。悪く取らないでくれ。……それなら、そうだな。

   これは先輩としての俺からのアドバイスだが」


  そう前置きすると、おもむろに


 「無難に乗り切ることだけを考えろ。妙な正義感は身を滅ぼす。

   媚びても駄目だ。ただ課程を終えることだけを考えろ」


 「だったら、常川さんはなぜそんな研究室に居続けるのですか?

   辞めればいいじゃないですか」


  出世コースを外されて妬んでいるのかもしれない。そもそも社長だと

  いうのも自己申告に過ぎない。怪しい。


 「俺は存在自体が奴らにとって脅威になる」


  周囲の晴れ晴れとした景色と比較して、なんとも形容しがたい

 空気がまとわりつく。


「それだけだ。俺がここの院生を続ける意義はな」

 


11

 

 小田切が学内郵便で受け取った封筒は、ごく普通の定型封筒

 だった。


 仕事柄大量の郵便を受け取る小田切は、ルーティンワークとして

 慣れた手つきで、その封筒の中身の処理にとりかかる。

 だが中を見て、小田切はその認識を改めた。

 

 中には伝票や領収書をコピーしたものが入っていた。


 それは良い。

 問題はその表題が「科学研究費不正流用についての証拠」と

 題されていることだ。


 慌てて小田切は、封筒をひっくり返すが何も書かれていない。

 せめて差出人のヒントに繋がるような物が入っていないかと、

 封筒を逆さに振る。

 

 あった。

 

 文献一覧をホッチキスで止めた紙束に重なっていた、一枚の便箋が

 ひらひらと落ちる。


『5年前のアカデミック・ハラスメントへの関与と、一人の院生に

 全ての罪をなすりつけた経緯を、ご自身のSNS上で公開される

 ことを要求します。さもなければ、小田切満夫と佐々木芽生の

 科学研究費流用について、しかるべき機関に告発します』


(今になってこんな……)


 小田切はデスクに拳を叩きつけた。



12


 小田切は気を落ち着かせる為に、電気ポットで湯を沸かし、

 コーヒーを淹れる。コーヒーの臭いがふわりと部屋を充満すると、

 少しだけ小田切の気持ちも安らいでいく。

 

  あれは5年も前の話だというのに。

  5年前の事件は、小田切の人生を決定的に変えた。

 その時の関係者が今になって意趣返しを企んでいるというのか。

 どうして今になって‐。

 

   あれはもう終わったことで、学内での審理は既についている。

  裁判でももう訴えられる期間は終わったはずだ。

  今更古い記憶を掘り起こしたところで、何になる。

 

  5年前だって、被害者家族が学校を相手取って行動を起こし、

  望み通りではない結果で終わったではないか。

   それを今更。また同じことだ。

  山瀬が第一線に居る限り、絶対に負けはしない。

 

  (どうせ何もできやしまい)


  そう高を括りつつも、不安は残る。

   送られてきた証拠書類が、全部正真正銘の本物のコピーだったことが

  小田切を絶望的な将来観測へと導く。

  相手が本気になって警察なり、国税局なりに告発すれば、

  確実に捕まる。

  大学当局に告発したって、処分は免れない。


 (要求通り5年前の事件を公表してしまえば、告発を免れるという

  のなら、容易いことだ。アカハラごときで、刑事罰などめったに

  課されない)


  自他共に認める慎重派の小田切は、万が一に備えて、名指し

  されているもう一人、佐々木芽生と口裏を合わせることにする。

  彼女のほうでも異変が起きているかもしれない。

   それなら二人で情報交換をすれば、差出人の特定に繋がる可能性も

  ある。差出人さえ押さえてしまえば、何も不安に思うことはない。


   早速連絡を取る為に、佐々木の携帯番号を呼び出す。

  メールでは跡が残りそうで嫌だった。

  前回のようなパソコントラブルで、内容が流出したら一大事だと

  踏んでのことである。


 「はい。佐々木です」


  高めの明るい声が応答する。

  佐々木の余所行き用の声だ。

   番号を確認せず、婚約者と間違えたのかもしれない。


 「何?何の用?」


  携帯に出て相手が小田切と分かると、佐々木は途端に高慢な

   態度に変じる。この女はいつもそうだ。

   山瀬に目をかけられていることを傘に着る。

  口には出していないが、小田切は佐々木のこんなところが鼻について、

  苦手だった。あれ以来その態度はますます増長している。

  だが今は非常時だ。気にしている余裕はない。

  すぐに本題に入る。


   郵便物の内容について話すと、佐々木の余裕に溢れた態度は

  怒りに代わる。感情が負の方向に揺れる時、佐々木はいつも

  怒りだす。

  相変わらず感情の起伏が激しい、と小田切は一層辟易する。


 「馬鹿らしい。今更蒸し返して何になるって言うの?」


  佐々木は見えない敵に向かって毒づく。


 「不正経理の覚えなんてないことだし、堂々と無視していれば

  いい。下手に気弱になったら、その変質者の思うがままだわ!」


  それはまさしく正論だが、頷くことのできない小田切がいた。

  言い辛そうに小田切は、切りだす。


 「……偶に行われる業者の接待。あれは業者にプールしたお金に

  よるものなんだ。だから君が意図しようがしまいが、君も不正経理の

  共犯者と言える。調査が入ったら、君も有責だ」


 「……何それ。知らない間に、私は不正に加担していたってこと?

  どうしてそれが規則違反だって教えてくれなかったの? 

  知っていたらそんな危険なことする訳がなかったのに」


  佐々木はますます激昂する。

  当然だ。

  小田切は気を利かせたつもりでも、事が露見すればとんでもない

  スキャンダルになる。金銭方面で特に苦労をしていない佐々木に

  とっては、必要のないリスクを背負ってまですることではない。


  「今になって、こんなこと言われても。私だって被害者みたいなものよ。

   勝手に犯罪の方棒を担がされて」


  佐々木に関しては、送られてきた伝票にも数枚しか書かれていない。

  佐々木は唯小田切の指示に従って、事務手続きをしただけだ。

  ひとしきり怒ると、佐々木は感情が高ぶりすぎて疲れてしまったのか、

  静かな声で尋ねる。


 「それよりも、小田切君。強請られるほどの金額の流用をしていたの?」


 「……」


  小田切の立場は危ういものだった。

  一応山瀬の後継者候補に潜りこめているが、それに業績が追いつかない。

  山瀬がネームバリューがある分、並みの業績では許されない。

  そんな不安が科学研究費を上手く運用することで、評価を上げる

  戦略を思いつかせた。


  山瀬自身の研究費は当然自分で管理している。

  しかしCOEプロジェクトに必要な研究費は、小田切に任されている。

  金庫番としての役割を山瀬から授かっているので、山瀬の検閲など

  殆どなしで金銭管理を任されてきた。これも信頼あってこそだ。


  その信頼を、科研費を業者にプールさせることで節約してきた。

  プロジェクトに必要な金を引き出すのが上手だという評価は、

  無くてはならない人物という評価にもつながる。

  実績で失敗した場合の、生き残りを賭けて行ってきた。

  今まで外部に露見したこともない。

  ただ研究費を節約するくらいに考えてきた。


 「ちょっと研究費を浮かせるつもりだったんだ。業者もそういう人は

  いくらでもいるって言うし。外部に露見することもまずないって

  言うから」


   佐々木の問いに答える代わりに、とりなすように話を続ける。

  

 「悠長なことを言っている場合? もし科研費の件が表に出たら、

  学内処分だけじゃない済まないかも。刑事罰の可能性もあるのよ」


  金額だけが問題ではない。

  不正経理は厳罰が下されるのが常だ。

  大学を騙して入手した金なのだから当然だが、それは研究者生命の

  終焉も告げる。

  やってしまったことの恐ろしさに、言葉も出ない。

 

  「5年前の事件のこと、もう公表してしまおうか?もう時効だし。

  この脅迫者が誰か知らないけれど、要求を飲めば……」


 「駄目!私は婚約を控えているの。評判が第一な職業の人と。

  そんなマイナス・イメージが付くことは許さない!」  


  この言葉は、今まで燻っていた小田切の我慢の導火線に火を付けた。


 「冗談じゃない!家族にあの事件と関わりがあると思われるだけ

  でも嫌だ。あれだって、できれば私はやりたくなかった。君たちが

  暴走して。そもそも初めから知らぬ存ぜぬで済んだ話を、余計に

  ややこしくしたんだろ!」


 「私たちのせいだって言うの。だったらどうしてそのときに言わないのよ。

  ……大体今の地位は、その時のおかげでしょ?今更被害者面しないでよ」


  正論だ。

  分かっている。それでも小田切は、己の罪状について言い訳を留める

  ことが出来なかった。 

 

 「……ごめん。言い過ぎた」


  小田切の態度の変化に、佐々木は渋々態度を軟化させた。 


 「……とにかく、どちらの要求も飲むことは出来ない。何とか二人で

  協力して解決に導きましょう。内部情報をもっている人間だから、

  特定は難しくない筈。いまさら妙に騒ぎ立てられて、今の生活を

  壊されたくないわ」


 「たぶん業者に繋がっている奴がしたことだ。早急に誰かを

  特定しよう。名前を隠してこそこそ動いている奴だ。特定して

  口止めすれば、大事にはならない。連絡を取り合おう」


  勇ましく計画を発表した後で、小田切は急にトーンを落とす。


 「ただ僕は家族には内緒にしておきたい。最近少し関係が微妙

  なんだ。こんなことが知れたら、完全に家庭がおかしく

  なってしまう。だからその辺は配慮してくれないか?」


 「分かった……。私も今結婚を控えているし、表沙汰にはなって

  欲しくないわ。お互い気をつけましょう。どうせただの悪戯だとは

  思うけれど。気をつけるにこしたことはないものね」


  鍵を閉めた密室での会話。

  聞かれるはずのないその会話が、しっかりと録音されていることを

  二人が気付くことはなかった。


   小田切の研究室のコンセントに嵌められた、小型盗聴器。

  その内容を別室で耳を凝らして聞いているものの存在など。

  その時の二人は知る由もなかった‐。   

  

13


 「郵便物をお届けに参りました。」


  その日、午後の便で来た郵便物の中に、差出人の書いていない

  角2型の封筒が混じっていた。前回の怪文書を思い出して、

  嫌な予感に襲われながらも優奈は中を確認する為に、注意して

 鋏で封を切る。


 中には数枚の紙をホッチキスで留めたものと、別に小さめの封筒が

 入っており、そこには小田切の名前が宛名として書いてあった。

 小田切は教員なので個人でメールボックスがある。そのため

 学生の研究室に小田切宛の郵便物が送られてくることは、めったにない。

 小さめの封筒にも、やはり宛名はなかった。


 代わりに、前回と同じく手鏡の写真が貼り付けられていた。

 シール代わりにしては大きすぎるし、なぜ封筒の中に入れないのか

 理由が分からない。

 

 前回の封筒に入っていた紙切れに書かれていた、呪いにも似た文書を

  思い出させる。なぜ差出人はあえて学生の研究室に郵送するのか。

  そこら辺からして、底知れない理由がありそうで、気持ちが悪い。

  同時に、優奈の好奇心が擽られたのも事実である。

  前回は常川の邪魔が入ったが、今日はまだ常川は居ない。


 封筒はさすがに私文書なので中を検める訳にはいかない。

 剥き出しの書類の方に、目を通すことにした。こちらには宛名がない以上、

 研究室宛ての筈だ。


 5年前にアカハラで、山瀬研究室の女子院生が被害を受けていたこと。

 小田切と佐々木がハラスメント加害者であること。

 それにも関わらず、一人の男子院生だけがその責任をとって

 退学処分となったこと。


 これらの事が、新聞記事のように、淡々と事実だけが書かれていた。


 (これは、本当にこの研究室であったことなの?)


 同封された文書が真実であるのなら、差出人はアカハラの被害者と

 考えると筋が通る。それならどうして大学を相手取って、責を問わない

 のだろうか。上手いやり方とは思えなかった。

 前回の常川の態度からして、何か事情があるのかもしれない。


 常川は前回怪文書が届いたときに、本人に知らせるのをなぜか嫌がった。

 だがあれからしばらく罪悪感に駆られていた優奈は、今回は常川が

 いないこともあり、小田切に渡すことにした。今回ばかりは宛名が

 書いてある以上、勝手に処分する訳にも行かない。


 二回の空振りを経て、なんとか優奈は封筒を小田切に渡すのに成功した。


 小田切は中を、特に手鏡の写真を見ると、小さく悲鳴を上げた。

 心配する優奈に、幾度も中身を見たのかと確認する。

 文書の方は既に全部読んで、実はスキャンして保存していたりするが、

 それは内緒だ。「全く見ていないですけれど、何の手紙ですか?」と恍けて、

 部屋を後にした。


 二時間ほどして常川がやって来ると、他の学生が掃けるのを待って、

 待ちかねたように優奈は早速先程来た手紙のことを話した。


 「この研究室で本当に、あんなことがあったんですか?」

 

 「ああ。本当だ。俺はその時には休学していたから、詳しいことは

  言えないが」


 学外には漏れていないが、人の口には戸は立てられず、少なくとも

 学部内ではある程度噂になった。その影響で未だにその噂が残っている

 代の学生達は、山瀬研究室に来たがらないのだ。

 さらっと事実を肯定した常川は、そう説明した。

 

 その頃小田切は手鏡の写真を凝視して、放心していた。


(どうしてこれが……?関係者の仕業か?)


 手で破った封筒から取り出された便箋には、前と同じく5年前の

 アカハラとの関連を公表すること。それともう一つ。全ての罪を背負い

 亡くなった男子学生の名誉の回復を求めるものだった。

 

 不正経理の証拠を握っている以上、やはり解雇されたあの営業マンが

 一枚かんでいるのは間違いない。そして共犯者は、5年前のアカハラに

 関係ある者。


(やはり何がなんでもあの営業マンを探して、吐かせるのが一番だ)


 アカハラの関係者の人脈を辿るよりも、明らかに関係のある人物を

 追った方が遥かに効率が良いはずだ。小田切はスケジュール帳を睨み、

 営業マンを負うべく計画を調整することにした。