閉じる


<<最初から読む

6 / 11ページ

盲目少女/白縫いさや

 盲目少女は七歳のときに光を失った。菌が眼球をすっかり虫食いにしてしまったのだ。痛みはなかった。

 涙と思っていたものは融けたガラス体だった。ねえおかあさん、と母親の方を向き直ったとき母親はすぐには助けてくれなかった。母親の息を呑む音で理由が判ってしまった。哀しかった。そのときにはもう何も視えなかったけれど、窪んだ目の穴に残った水溜りみたいなガラス体に夕陽が反射して、きらきらと、ちくちくと、とおい昔に両親に連れられて行った岩場の浅瀬をぼんやりと思い出すのだった。

 岩場の浅瀬。バケツいっぱいにあさりとざりがにと綺麗な石を拾った。波の音なんて少しもしなくて、びょおうびょおうと風が吹くばかりで、見上げた父の顔は夕陽の陰影に隠れていたけれど微笑んでいたのは確かだった。

 ――、おいで!

 母親に呼ばれて盲目少女は浅瀬に足を入れ脛まで濡らす。水はひんやりと冷たかったがすぐに肌に馴染んだ。ビーチサンダルは水の抵抗で重く、磯の香りは一層強くなる。ようやく辿り着き、私を抱き上げた母が見せてくれたのは水平線ぎりぎりを横切るタンカー。いつまでも横切り続けていた――。

 鍋が泡を吹く。夕飯はあさりの味噌汁だ。

 ねえおかあさん。

 おかあさん。

 いつまでも、ずっと、盲目少女は母親を呼んでいたような気がする。


マンホールの見た夢/圓眞美

 深夜、胸騒ぎがして寝つかれず夜の散歩に出る。ぽつぽつというような音がして雨が降ってきたのかと案じ、しかしよく聞けばそれは誰かの泣き声のようだ。辺りを見回してみても人っ子一人居ないのにいったいぜんたい誰が泣いているのだろうと思えば、それはマンホールなのだった。私の足下のマンホールが静かな泣き声を上げている。踏んでしまったことに気がつかないでいたせいかと思ってそろそろと足をどかしてみたがいっこうに泣き止まない。それで私はちょっとしんみりしてしまって、マンホールに泣いているわけを訊ねてみた。

 可哀相な女の子のために私は泣いているのです、とマンホールは存外にはっきりとした口調で言った。女の子は今、私の下を流れる下水とともに川に向かっています。殺されて捨てられた可哀相な女の子です。

 私はマンホールの蓋を開けようと試みたが、マンホールは固く閉ざされていて開かないのだった。どうにか開けることが出来ないかとマンホールに訊ねてみても、マンホールはただ雨音みたいな声で泣くばかりだった。私はとにかくどうにかしてマンホールの蓋を開けるか、それとも近くの川に走るべきかを考え、考えているうちに自宅の蒲団のなかで朝を迎えていた。

 いそいそとポストにゆき、届けられたばかりの新聞をくまなく読んでみたが、殺されて捨てられた可哀相な女の子が発見されたという記事はどこにもなかった。だからあれはきっとマンホールの見た夢だったのだろうと私は安堵し、新聞を抛って朝の珈琲を淹れる準備を始めた。


汚穢の川/立花腑楽

 橋から川面を見下ろす。

 世界の汚穢全てを溶かし込んだような真っ黒な水が、瘴気のアブクを吐き出しつつ、流れるともなく澱んでいる。その水面には廃油が膜を張り、夏の日差しをぎらりと七色に反射していた。

 暑くなると、このドブ川の悪臭は一層堪え難くなる。工業排水と残飯と排泄物と、使用済みの避妊具から零れた内容物と、どこからか流れてくる猫の胎児とがどろどろに混じり合い、醗酵していく臭い。私は、うぇっとえずいた口元を抑えながら、一気に橋の向こうまで走り抜けようとした。

 と、その時、一人の婦人が、橋の向こうからこちらに歩いてくるのが見えた。日傘を差した着物姿が、陽炎にゆらゆらと揺れている。落ち着いた銀鼠色の着物を纏ったその人は、胸に藤色の風呂敷包みを抱いていた。熱気と悪臭で停滞しきったこの世界にあって、その風呂敷の色合いだけが、カーンと冴え渡っている。

 このドブ川が象徴しているように、ここら一帯は、決してガラの良い場所ではない。こんな良家の妻女風の女性など、場違いも甚だしくて、思わず立ち止まって無遠慮に眺めてしまった。ぞっぷりと下着まで汗みずくになっている自分と、日傘の下で涼し気な顔をしているその上品な女性――両者が、不潔極まりない川風に吹かれながら、今まさに擦れ違おうとしているのが、何だかちぐはぐで、現実味を欠いた光景のような気がした。

 もし、ここで……。

 ぶくりと、川面に浮かぶアブクがはじける。

 もし、ここで、私がこの人を思い切り突き飛ばし、川の中に叩きこんだとしたら、どうなるだろう……。

 まるで天啓のように、突如として、そんな嗜虐的な妄想が私の全身を駆け巡った。

 高級そうな着物が、たちまちドブ泥に濡れ、そこかしこに汚い染みをつくる。訳のわからない驚愕と不快感で、醜く歪む顔。先ほどまでの涼し気な面影はどこにもない。あの大事そうに抱えていた風呂敷包みは高級な進物だろうか。それがずぶずぶと、黒い泥濘に飲み込まれていく。慌てて拾い上げようとしても、もう遅い。全身を汚泥に濡らし、川底にへなへなと座り込みながら、その人はきっと、童女のように泣くのだろう。

 何だか、下腹部から、ぞわぞわとした感触が立ち上ってくる。性的感覚に酷似して、それよりもずっと熱くて重い感触だった。太陽は一層高くなり、ドブ川に浮かぶ廃油をぎらぎらと輝かせている。

 その時、天から地へ、息を呑むほど綺麗な藤色が、すぅっと落下していくのが視界の端に見えた。

 ぼちゃり。重く粘ついた水音が大きく鳴り響き、突如として私は我に返る。

 視界が一変している。

 いつの間にか、私は橋の下に居て、その身を川の水に浸からせていた。先ほどまでのぞわぞわは、あれは日差しで熱された汚泥が、下半身に纏わり付く感触だった。

「あら、大変。落としてしまったわ」

 声が降ってきた方を見上げると、あの人が橋の上からこちらを見下ろしている。その表情は逆光で見えないが、きっと赤い唇をきゅぅっと吊り上げ、涼しげな微笑を浮かべていることだろう。

「ねぇ、そこのあなた、拾ってくださらないかしら。それは大事な――」

 そのほっそりとした指が指し示す先では、あの藤色の風呂敷包みが、今まさに汚泥の中に飲み込まれようとしていた。

「とても大事な品物なんですよぅ。これから、▊▆▇▅▊▃▄までお届けしないといけないのに、これでは叱られてしまいます。ねぇ、拾ってくださらないかしら」

 戯れ歌を歌うような軽薄な声色なのに、何故だか圧迫感にも似た強制力を感じてしまう。私は慌てて泥を掻き分け、その風呂敷包みが浮かんでいる辺りまで辿り着こうとするが、その瀟洒な藤色の物体は、すんでのところで泥濘に没してしまった。

「あらあら、すっかり沈んでしまいましたわ。川はこんなに真っ暗々なんですもの、きっともう、あなたでは見つけることなんてできやしないでしょうね」

 相変わらず切迫性が微塵も感じられない、小馬鹿にしたような口調――。

 それなのに、私は罪悪感と無力感に苛まれたまま面を上げることさえできず、ただ消え入りそうな声で「すみません……」と呟く他はできなかった。

「いいんですよ、いいんです。あとは私が探しますから」

 えっと思って、橋の上を見上げる。欄干まで登ったあの人が、着物の裾を捲り上げつつ、まるで競泳選手さながらに、こちらに向けて飛び込みの姿勢を作っているのが見えた。その顔はやっぱり逆光で見えないが、きっと相変わらず涼し気な表情のままなんだろうなと、そんな気がした。


陽炎/白縫いさや

 幼い頃のある夏の日。十歳になったばかりのAちゃんに手を引かれて遊びに出た。

Sちゃんも仲間に入れたげる」

 振り返ったその顔は逆光でよく見えなかったが、麦わら帽の輪郭だけは鮮やかだった。彼女に選ばれたということが嬉しかった。

 青臭い茂みのトンネルを抜けると小さな池のほとりに出た。だがそこに辿り着くまでに僕は全身を蚊に刺されてしまい、体中が痛痒かった。びぃびぃと声を上げて泣いた。すると彼女は、しょうがないなぁ、と言って池に腕を突っ込んだ。引き抜いた手には液体の虫刺され薬。滴る水は空色のワンピースの裾で拭った。Aちゃんは、僕の腕や手の甲、ふくらはぎに薬を塗りたくる。それはひんやりとしてとても気持ち良かった。

「他に痒いところはない?」

 問いかけながらAちゃんは太腿の内側をいやに丹念になぞる。垂れた薬が靴下を濡らしてしまうほどに。

 蝉の鳴き声、陽炎が立つほどの熱気、入道雲、廃屋の影、太腿の奥がじんじんと痺れる――そうしてぼうっとしていると、いつの間にかズボンが脱がされようとしていることに気付いた。あっ、と声を上げると彼女は手を止めることなくこう言った。

「おしっこしてるところ見せてよ」

「嫌だよ」

「じゃあSちゃんは置いてけぼりだね。あーあ、帰れないね」けらけらと笑う。

 僕は下唇を噛みながら渋々茂みに向かっておちんちんを突き出した。横から覗き込むAちゃんがぱっと目を見開いた。ぱたぱたと草葉を叩く音が絶え間ない。

 ようやくおしっこし終えると、Aちゃんは「私も見せてあげる」とパンツを脱ぎ始める。そしてその場にうずくまり、はあ、と息を漏らした。濡れゆく地面。僕はじっと見下ろしていた。息を呑む。赤いサンダルがおしっこの水たまりに沈んでいく。股間が熱を帯びていく。Aちゃんがズボンの膨らみを撫でる。背筋が震えた。

 それから長い間、僕たちはお互いの股間をがむしゃらにいじり合った。最後にAちゃんは自分の手のひらを嗅ぐと「手ぇ臭ぁい」と顔をしかめて笑った。夕陽のせいでとても眩しかった。

 二人並んで池で手を洗う。ずっと気付かなかったのだが、池には色々なものが沈んでいた。ビー玉、バービー人形、プラスチックの髪留め、スプーンやフォーク、色鉛筆、自転車の補助輪、小学一年生用のさんすうの教科書。それらは池の輪郭に沿って整然と並べられていた。まるで棚に飾るように。そしてその一角に、自分と同い年くらいの男の子がちょこんと正座しており、虚ろな視線をこちらによこしていた。時折、ぱちくりぱちくりと瞬きをするのだから、どれだけ人形然としていても人形ではありえない。

「アレは私のお兄ちゃん」

 立ち上がる間際、Aちゃんは虫刺され薬を池に戻した。

「さ、帰ろう」

 手を繋いで歩く帰り道、僕は考える。彼は彼の妹の嬌声を聞いていたのだろうか。一体どんな気持ちで? それについて考えると愉快になっていくのは不思議なことだった。


浴槽/圓眞美

 浴槽にいつまでも浸かっている。僕とのセックスが長時間に及んだときや、あらゆる物事に関して僕が要求しすぎたとき、たびたび彼女はそうなった。そのときの彼女は四肢にまるで力が入っていなくて、何だか死んでしまったみたいに見える。話しかけても物憂げに頭を振る。

 あなたはわたしを重くする、と彼女は言う。重すぎて息が苦しくなる。だからときどき体のなかから流してしまわなくちゃいけないの。

 それは流せるものなの。あなたのは幸いにね。人によって違うの。それはもちろん。何だか、僕が薄情みたいな気分だな。違う、あなたのはとても重いの。

 浴槽のなかで彼女の長い髪の毛と縮れた叢が漂っている。水分を含みすぎて皮膚がぶよぶよになるのではないかと心配になるくらい長いあいだ彼女は浴槽に浸かり、それからゆっくりと栓を抜く。

 そのときの彼女はもう全然物憂げではなくて、まるで憑き物が落ちたみたいに上機嫌になっているものだから、僕はそれ以上何も訊けなくなってしまう。ただ、浴槽から渦を巻いて流れてゆく水を眺めていると、無性に胸が切なくなるのだ。



読者登録

NOIFprojectさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について