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耳/五十嵐彪太

 さびしい海で泳いでいると、女の子が砂浜を一人で歩いているが見えた。うろうろと、砂を足でいじってみたり波間を覗きこんだりしている。

 僕はもう少し泳いでいたかったけれど、陸に上がって聞いてみた。

「何か探しているの?」

 海水が耳に入ってしまったのだろう、自分の声がくぐもっている。

「時計を失くしてしまったの」

 

 女の子の時計は見つからなかった。僕たちは、夕日が沈むのを眺めてから、さよならした。

 

 翌朝になっても、耳の水は抜けていなかった。こんなことは初めてだ。僕は潜水は下手だけれど、耳抜きは得意なのだ。

 耳の中で水がぴちゃんぴちゃんと小さく波打つのがわかる。どうにも煩わしいので、ベッドから起き上がることができない。目を開けていることもできず、かといって眠るでもなく、耳の中の水のことばかりを気にしていた。

 そうしているうちに、ぴちゃんぴちゃんが、チクタク、になった。

 

 もう一度、海に行ったら女の子に逢えるだろうか。

 あの子ならきっと、僕の耳の中の時計を取り出せるはずだ。


瓶の話/五十嵐彪太

 瓶が一本、波に揺れている。

 浜辺に打ち上げられそうになりながら、しかし完全に打ち上げられることはなく、また返す波にさらわれて海に戻る。

 瓶は、長い時間そうしている。

 瓶は酒瓶だった。男か女が酒を飲む。瓶は小さな島の酒造場で洗浄され、また酒を詰められ、大陸に船で運ばれて、また女か男が酒を飲んだ。

 そんなことを長い間繰り返していた。仲間と比べても、ずいぶん丈夫な瓶だった。

 ある時、なぜか船から落っこちた。コルクが朽ちて、酒は海に流れた。それ以来ずっとこうして砂浜の前を漂っている。

 寄せては返す波と共に、行ったり来たりするのは、酒瓶であった頃とたいして変わらない。

 だが、世の中は静かになった。酒場も酒造場も人間の声が響いていた。海は荒れても、酒場のように五月蝿くはない。


上陸/立花腑楽

 その日、地上に初上陸したイクチオステガが目にしたのは、コンクリートの欠片ばかりが転がる荒涼とした風景だった。灰色の瓦礫の隙間に隠れるようにして、アーケオプテリスの葉が、気弱そうにさわさわ揺れている。

 つい今しがた、自らが這い出てきた側溝を振り返る。

「おい、今回は何だかぱっとしない世界だぜ」

 ゆらゆらとぬかるんだ水を泳いでいるパンデリクティスにそう教えてやる。残念なネタバレを聞かされたパンデリクティスは、露骨なうんざり顔をした。

 うんざりしているのは、それを告げたイクチオステガ自身も同様だった。

 改めて第二周目の世界を値踏みしようとする彼の眼前を、一匹の原始昆虫がケケケと笑いながら通り過ぎる。


溺れる石/五十嵐彪太

 アクアマリンのピンキーリングは、湯船に入るとするりと小指から抜けてしまう。何度も拾い上げて嵌め直すのだが、すぐにまたするりと抜ける。普段はちょっときついくらいなのに。

 ゆらゆら沈んでいっているようにしか思えないのだけれども、どうやら泳いでいるつもりらしい。

 ある時、沈んだまま放っておいたら、薄青い石はゼリーのようにぷるんぷるんと震えだした。いい気味だったけれど、あんまり苦しそうで、そのまま溶けてしまいそうだったから、拾い上げた。

 ずいぶん懲りたようで、その後は風呂に入っても指から抜けることはなくなった。


盲目少女/白縫いさや

 盲目少女は七歳のときに光を失った。菌が眼球をすっかり虫食いにしてしまったのだ。痛みはなかった。

 涙と思っていたものは融けたガラス体だった。ねえおかあさん、と母親の方を向き直ったとき母親はすぐには助けてくれなかった。母親の息を呑む音で理由が判ってしまった。哀しかった。そのときにはもう何も視えなかったけれど、窪んだ目の穴に残った水溜りみたいなガラス体に夕陽が反射して、きらきらと、ちくちくと、とおい昔に両親に連れられて行った岩場の浅瀬をぼんやりと思い出すのだった。

 岩場の浅瀬。バケツいっぱいにあさりとざりがにと綺麗な石を拾った。波の音なんて少しもしなくて、びょおうびょおうと風が吹くばかりで、見上げた父の顔は夕陽の陰影に隠れていたけれど微笑んでいたのは確かだった。

 ――、おいで!

 母親に呼ばれて盲目少女は浅瀬に足を入れ脛まで濡らす。水はひんやりと冷たかったがすぐに肌に馴染んだ。ビーチサンダルは水の抵抗で重く、磯の香りは一層強くなる。ようやく辿り着き、私を抱き上げた母が見せてくれたのは水平線ぎりぎりを横切るタンカー。いつまでも横切り続けていた――。

 鍋が泡を吹く。夕飯はあさりの味噌汁だ。

 ねえおかあさん。

 おかあさん。

 いつまでも、ずっと、盲目少女は母親を呼んでいたような気がする。



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