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第三回 『お前、悩んでんだろ?』 弦楽器イルカ、オパーリン

連載(不定期)第三回

題字:弦楽器イルカ

 

『お前、悩んでんだろ?』 企画趣旨

悩み多き(と勝手に判断した)芸能人等のお悩みを、(頼まれてもいないのに)自称伝道師※が愛情を持ってときに厳しく解決するコーナー。

※伝道師(でんどうし) 1、キリスト教の聖公会・プロテスタントの教職の一つ。2、転じて、他人に何事かを熱心に勧める人。

 

今月の被害者

M本H志

略歴(ウィキペディアより抜粋)

 1963生(48歳)。日本お笑い芸人エッセイスト作詞家映画監督お笑いコンビダウンタウンのボケ担当。「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」、「ダウンタウンのゴッツええ感じ」、「人志松本のすべらない話」、「リンカーン」等で知られる日本を代表するお笑い芸人である。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(東京)所属。愛称は「松ちゃん」。既婚であり、児の父。左利き。

 

伝道師①:弦楽器イルカのススメ

 

 例えば最近ツイッターはバカ発見器って言われてるけど、芸能人のは趣味じゃなくて完全な営業活動でしょ? お客さんがわざわざフォローしてくれるありがたい広告じゃない。そこはフツーの営業さんだってもっと気を使うとこよ。フツーのOLさんだって「無責任」って評判を怖がってデキ婚を諦めたり、自重するもんよ。それが芸能界ときたら、才能ある人でさえちやほやされたら己を見失うのよね。

例えばサッカーの中田とか、あの松ちゃんもそうよ。親しみを込めて松ちゃんと呼ばせてもらうけど、松尾スズキやナンシー関だってあんたには一目置いてた。それがMHK、松本人志のコント。「笑いに命を売った」って煽りまくったけど、回を追うごとに笑えなかったし、もっと面白くできるだろうって歯がゆかった。あと現場の雰囲気も痛々しくみえた。みんな「面白いですね」って気を使ってる感じ。恨みを買ってまで天才って自負してた松ちゃんなのに、今じゃ「何もかも理解されない俺」って退屈な芸能人になってる。

公平に批評するため具体例を出すけど、例えば影絵英会話ネタ、本物のNHKがパロディやったことは凄いけど、ゲロしたり気色悪い動きだけじゃ大人は爆笑できないわ。「影絵で英語教材なのにここまでやるか」って笑わせたいなら、昼メロっぽい嫁姑問題とか火サス・土ワイ並のドロドロ不倫愛憎殺人復讐劇とかを際どい性描写入れてやってほしかった。云わばトカゲのおっさんの影絵版よ。あと特撮コントは突っ込みがないとオチないし長い。更に全体通してアドリブの切れが悪かった。

以上踏まえて結論だけど、解決法は割と簡単よ。MHKの中で笑えたコントの一つが、浜ちゃんと出てたヤツ。松ちゃんの退屈な過剰さを浜ちゃんが笑いの地平に軟着陸させてくれたの。だから、M松本、H浜田、Kコントにして磨きをかけたら、尻切れトンボな『ごっつ』の続きがまた観れるんじゃないかな。ダウンタウンのコントはまだ枯れてないって期待してる。

ただあたしがこれ書いてるのは、もしかしたらその簡単な解決法こそが実は一番の問題かもって思ったからよ。貧乏な頃は、笑いを取れば取るほど人気者になれて、人気者になればなるほどお金が稼げた(あと女ともヤれた)。このサイクルが松ちゃんの誇りであり天職だったはず。だけど笑いと金の目標が達成された今、松ちゃんは対等な立場の浜ちゃんと組まずに、権威を求めて「たけし二世」になりたがってる。でも松ちゃんは言うほどアートや政治や映画好きなの? あたし思うけど、松ちゃんの目指す方向はむしろ志村けんじゃない? このままMHKのリベンジせずに、ピカル(観てないけど)に視聴率惨敗で良いワケ? 

だからまず、稼ぎ過ぎたお金をなんとかしましょ。「金の切れ目が……」って言うけど、金が結んだ縁なんて人を無駄に肥大化させるだけ。太った自称占い師に太らされるだけよ。つまりもう、没収ね。毎月いくらか稼がないと生活出来ないくらいまで私財没収。もちろん浜ちゃんもね。連帯責任で。コーヒー牛乳分け合った仲じゃない。それで映画撮るお金と合わせてテレビ用の下品なコント作るの。NHKじゃ放送禁止なヤツ。そしたら死に物狂いで笑い取りに来る、ギラギラ脂ぎったダウンタウンがまた観れるはず。今回はマジだったけど期待してるゾ! バイちゃお!

 

今月のアドバイス・まとめ

天才かどうかは、単に笑えるかどうかだけ!

 

伝道者②:オパーリンのススメ

 

 日本中で彼の名を、顔を知らないものは無い。誰しもが彼の事を知っている、彼の言動に興味を持っている。結婚すればニュースになり、それどころか話題の出来事に一言何か言及すればそれさえもニュースになる。おちおち街中で立ち小便もできないのではないだろうか。待ち行く全ての人の目が監視カメラに見えるのではないだろうか。そんな状況がどんな気分のするものなのか、僕には想像し難いが、まあ、あんまりいい気分ではないんじゃないのかなとは思う。

 「一億総監視カメラ」な状況下で正気を保ち続けることは容易ではないだろうが、彼の職業はお笑い芸人であり、しかもただのお笑い芸人ではなく、日本のお笑いの明日を背負って立つことを義務付けられた「第一人者」なのである。常に新しい「笑い」を探求し続ける「創造力」を維持し続けなければならない。「創造力」を維持し続けることは「正気」を保ち続ける事にも増して至難の業なのではないだろうか。

 「俺の笑いが分からん奴は見なくていい」彼はそう言い放ち、徹底して既存の笑いをぶち壊してきた。先鋭的であり続け、なおかつ圧倒的な大衆の支持を得るという文字通りの「奇跡」を成し遂げ続けてきた。お笑いの歴史に「北野武」という時代があるとしたら、彼は間違いなくその時代を終わらせ、次の一時代、「松本人志の時代」を築き上げた。

 何が言いたいかというと、彼は一人の人間がその一生で成し遂げうることをもうすでに十分すぎる程にやり遂げた、のだと私は思うのである。それは「彼が芸人として終わった」とか「もう面白くない」ということを意味するのではない。彼の出ているお笑い番組は依然としてその他諸々のお笑い番組と比べれば安定して面白いと思うし、『さや侍』も映画として十分に評価に値するレベルの面白さであったと私は思う。

 しかし、他と比べれば依然十分に面白いのに、何かが足りないように感じる。そう感じるのは私だけではないのではなかろうか?特に、「ごっつ」などの彼の全盛期の笑いをタイムリーに見ていた人達にとっては。果たして、その「何か」とは何だろうか。それは一言で言ってしまえば、「松本人志」という「新しい笑い」に時代が塗り替えられていく感じ、ではないだろうか。そうだと仮定して、では何故今の彼にはその勢いが感じられないのだろうか。それは、彼がもう既に時代を塗り替えてしまったから、今や「松本人志の時代」だからである。革命は完遂してしまったのである。そして「長い倦怠の時代」が始まり、いまだに続いている。

 「お笑い」がお笑いだけに止まらず、あらゆる文化の最先端として未来の創造者達に影響を与え続けるためには、どうにかしてこの倦怠を打ち破らなければなるまい。常に最先端であること、それこそが「お笑い」のアイデンティティーであろうから。で、問題は「誰が」この現在の倦怠を打ち破るのか、新しい時代を切り開くのか、ということである。

 松本自身が過去の自分の笑いの息の根を止め、全く新しい「松本人志」として新時代を切り開く、その可能性がゼロとは言えない。が、厳しいだろうとは思う。結婚もし、子供も生まれてしまった。背負うべきものが出来てしまった。いつの時代も、パイオニアは手ぶらで素っ裸だ。今後、彼には「人間」として「人生」を生きてもらえばいいと思う。

 では、一体誰だ?北野、松本に比類しうる若手は。異論もあろうが、僕は「劇団ひとり」を推す。メシアではないかもしれない、預言者レベルかもしれない。でも、今の現状で、「笑いの真髄」に最も近いのは彼だと思う。

今月のアドバイス・まとめ

「お疲れさま。後は劇団ひとりに任せろ!」

 


連載小説第三回 『生き恥を、晒して足掻く、私かな』 オパーリン

連載小説 第

『生き恥を、晒して足掻く、私かな』

執筆者 オパーリン

 

3「自己言及、引き続き」

 

 処女作から一年の時をおいて、昨年の屈辱を晴らすべく、僕は二作目と三作目、「瞳」と「灰色ネオン」を書き上げた。この二、三作目はほとんど同じ時期に一ヶ月くらいの期間で書き上げた。そのため、この二作は内容的にも関係が深い。

 まずは二作目「瞳」について書いていく。「瞳」は処女作「働きアリは何を思う」執筆時の反省点をふまえて書いた。先にも書いたとおり「働きアリは何を思う」は「日記」的な要素が強い文章であった。それがあっけなく賞に落ちてしまったので、僕は「やっぱり、自分のことばかり書いていても、他人は面白いとは思ってはくれないんだな」と思い、私小説的な要素を廃し、自分の身の周りの来事ではない、一から練り上げた物語を書こう、と思ったのである。

 こうして、「瞳」は私小説的要素を廃した「物語」を目指してて書かれた。内容としては、またもや「恋愛もの」であった。「レミさん」という架空の女性人物を登場させ、「僕」との「情事」を描いた。「情事」、つまりは「セックス」である。セックスを書こうとしたことも「瞳」を書くにあたっての僕の挑戦であった。前述の通り一作目「働きアリは何を思う」は失恋の話であった。しかも告白してフラれる、交際する段階に至る前に失恋する話であったから、作中にセックスの描写はなかった。現実を基盤にして書いた「日記」であったので、「していない」ものを「やっちゃった」ことにしてはマズイのではないかな、という抑制が自分の中で働いていたのである。

 しかし、どうにも「セックス」を書かないのでは収まりがつかないような気がする。主人公が作中において、どこにも行かないというか、不戦敗というか、何にもしてないじゃん、と「働きありは何を思う」を書いていて思ったのである。

 で、「じゃあ、次は「セックス」を書こう」、そう思って二作目「瞳」を書き始めたという側面がある。そのために事実性を放棄し、物語(フィクション)という形式を採用したとも言える。この当時(といっても現在も大して状況は変わらんのだが)の僕は「プライベートなセックス」を殆ど経験したことがなかった。「プライベートなセックス」を書くためにはフィクションを選択せざるをへなかったのである。

 そんなこんなの思いを抱きながら、僕は何とか『瞳』を書き上げた。賞の応募締め切りの2週間くらい前だっけな。原稿用紙で75枚くらいの分量だった(賞の分量指定が80枚以下だった)。「書き終えたぜ」という達成感はあったのだけれど、読み返してみるとこれがどうにも、あまりよろしくない。何がまずいって、読んでて面白くないのである。書いた自分が読んで面白くないのだから相当なものである。

 何とか読み終え、あまりのつまらなさに多少ならぬショックを覚えながらも「何故こんなにもつまらないのだろう」と考えてみた。そして、それはおそらく「あまりにも空想的」であり、「その空想の底が浅い」からであろうと思った。描写がいちいち噓くさいのである。特に、セックスの描写が観念的で、薄もやがかかったみたいに曖昧。つまり、『瞳』を書くにあたってのチャレンジであった「フィクション」と「セックス」を書くことに失敗したのである。

 やばい、これでは落ちる、二年連続で落ちる。そのような屈辱は許されない、というよりも耐えられない。そう思った僕は、急遽三作目の執筆に取り掛かった。こうして書き上げたのが『灰色ネオン』である。『灰色ネオン』においては、前作の挑戦であり失敗である「フィクション」と「セックス」という主題の扱い方にに修正を加えようともくろんだ。一言に修正といっても色々な修正の仕方があるのだろうが、僕は二作目における「フィクション」と「セックス」の方向性というか、雰囲気は残しつつ、「娼婦」という新要素を加えることでリアリティーの補完というか描写の肉付けを試みた。

 詳しく説明しよう。『瞳』は全くの空想の話であったためにディテールが欠如してしまっていたので、ヒロインの「レミさん」に娼婦という職業をあたえ、物語が展開される場所を土浦の桜町(実在する歓楽街)に設定した。この「娼婦(歓楽街)」という要素によって『瞳』における「フィクション」と「セックス」の弱点はかなり上手に補完された、と自負している。先ほど、当時の僕は「プライベートセックス」を殆どしたことがなかったと書いたが、風俗にハマっていて、「娼婦とのセックス」は豊富に経験していたのである。だから、自分が体験したことを自分の感性に従って書けば良かったので、無理せず自然体に書けたのである。嘘と本当を上手く混ぜ合わせたのである。

 と、『灰色ネオン』においては自信満々で、『瞳』もせっかく書いたし「リビドー(衝動)」だけは溢れ出てはいるし、ということで二作を賞に投稿した。この賞は予選と本選みたいな感じで選考が二回あるのだが、二作目『瞳』は予選で落ち、三作目『灰色ネオン』は本選に残った。この途中経過の通知が来たときは「まあ、妥当だな」と思った。ちなみに前年の『働きアリは何を思う』も本選で落ちている。「書くたびに進化している」と勝手に自負していたので「当然受賞するに決まっとるがな」と自分に言い聞かせ、受賞コメントを考えたりしながら結果通知を待った。

 で、落選だったね。「マジかよ」と思ったが、メールの文面は何度読んでみても「落選」と書いてあるのであった。受験にしても就活にしても女にしてもそうだけれども、何だかんだ言っても「落ちる」っていい気分しないな。最悪だよ、マジで。

 

4「作品評を解釈

 

 この時点までに僕は小説を三作書き、学生主催の文芸賞に応募した訳なんだが、この賞は予選を通過した作品については選考委員(学生)と大学教授の講評をしてくれる。そこで、ここでは僕の作品がどのように読まれ、落とされたのか、書いていく。本来ならばこの賞が発行している冊子からそのまま引用したいところだが、著作権うんぬんがあるだろうから、彼らの評価、コメントを僕が要約する。つまり「僕」という視点、フィルターで再構成する。

 選評が掲載されたのは一作目『働きアリは何を思う』と三作目『灰色ネオン』である。まずは『働きアリは何を思う』の選評の要約。

選考委員(学生)

・自分の内面を掘り下げでいるが、小説はもっと自由。未知の世界を探求しろ。

・ストーリー性が薄い。共感できない。

・背景描写不足。

・主人公の考えを押し付けられている感じがして、不快。

大学教授

・「等身大」の大学生っぽくて、まあ、それはそれでアリじゃね。

・自虐的に過ぎて、逆にギャグかと思った。あ、ギャグにしちゃえばいいじゃんw空虚な日常がテーマって、ありがちだけど、真面目に自虐してるから、そこが個性って言えば個性かな。

 とまあ、こんな感じでディスっていただいた訳だ。再度断っておくが、原文ではないから著作権は侵害していない。俺なりに彼らの批評のエッセンスを抽出し、純化した。で、この評に対して僕がどう思ったかということなんだが、うーん、なんかなあ。まあ、そうですか、としか言いようがないんだな。特に学生の方々はディスっていらっしゃったなあ。教授の方はとても優しかった。「マジでディスっちゃうと可哀想だから」ってところなのかな。

 これらの評を受けての僕の感想というか結論。学生の意見については本質的な部分での拒否に関しては諦めるしかない、つまりあなたに嫌われるのは仕方がない、判断した。先生のヌルイご批評については、まあ、「なるほど」とは思うけど、今後の執筆の役に立つかといえばそうでもない、という感じだった。結局のところ、心なくディスってくれれば当然僕はムカつくので、そのムカつきをバネに「おっしゃ、君たちにとってもっと不快なもん書いちゃるわ」とやる気が出てきてしまうことが判明した。つまり、ディスられた方が僕の執筆にとってはプラスということが分かった。

 次、『灰色ネオン』

学生

・言うことなし。

・ただの妄想、っていうかお前童貞だろ。いや、絶対童貞だわ。童貞ごときが小説書くなぁああああ!!!

・人物がステレオタイプ。

先生

・ウブやな。重いテーマを書ききれていない、安易。

・描写に工夫が感じられない。ありがち、コテコテ、創りすぎ。「女」を書けていない。

 と、昨年にも増して辛辣なディスりであった。二年目とあって僕の方も薄々「小説の良し悪しって何だ?小説って結局は好き嫌いなんじゃね」と感じ始めていたが、さすがにこの評はショッキングであった。いやね、先生方の方はね、オブラードに包んで下さっているからね、いいんですよ。それに文章に知性的なものを感じるしね。そう、学生様方ですよね、問題は。いくらメンタル強くても「執筆インポ」になっちゃうよね、この罵詈雑言は。あまりに香ばしいので一つ一つ返答しようと思う。

 「いうことなし」。興味なし、ってことだよね。賞でまでシカトされるとはさすがに思わなかったな。

 「童貞死ね」。この人が最強だったな。読んでいただければ分かると思うんですが、「童貞がモテなくてつらい」っていうお話なんでね、そこをディスっていただいてもね、そこを外すとこの小説は無くなっちゃうんですわ。あと、もう一言だけ付け加えさせていただきますと、私恥ずかしながらその当時は風俗にハマりまくっておりましてですね、そこに関してはね、事実なんでですよ、残念ながら。ですのでね、「童貞」ではなく「素人童貞」なんですね。

 「人物がステレオタイプ」。これは唯一まともな評だったな。多少なりは自覚していた点でもある。やっぱり「フィクション」があんまり得意じゃないんだやな、僕は。だから「フィクションっぽいフィクション」になっちゃう。他人が読むとそう感じるのね、と参考になった、ありがとう。「リアルなフィクション」って、どうなのよ?言葉としておかしくない?とは思うのだけれども、その問題に関しては、非常に大事なところなので、後でじっくりページを裂こうと思う。

 というわけで、学生の方々のありがたい「叱咤激励」によって、もやしっ子、つまりはナッイーヴな僕は見事に「執筆インポ」になった。創作により辛うじて保持していた人間としての、そして男としての矜持は完膚なきまでに粉砕されてしまったのである。

                       つづく

 

 


「Living Toghether Lounge Vol.87」 オパーリン

・「Living Toghether Lounge Vol.87」

執筆者 オパーリン

 

 2012年3月4日(日)。午後5時になる少し前、新宿2丁目の一角に入る手前の近くにソープランドがある交番の前で、僕はタバコを吸いながら相方の到着を待っていた。僕は街路樹の脇に突っ立っているだけだが、道行く人達は当然の事ながら歩き、僕の目の前を通り過ぎていく。等差店の向こう側では、なんだかよく分からない団体の凱旋カーが信号待ちの間中、「日本は破滅します!」と喚き立てている。と、信号の向こうにしかめ面した東町健太さんが現れた。もちろん手にはタバコ、彼は値上げ以降「わかば」を吸っている。よくもまあ、あんなにまずいタバコを吸えるものだと思うのだが、そこはまあ「吸えば都」ということなのだろうか。

 手を振ると、向こうも気づいたみたいで、眼が合う。と、信号が青になって、健太さんが渡ってきた。

「いやー、遅くなってすみません。」

「ぜんぜん平気っすよ。場所、調べといたんで行きましょう。」

知り合ってから数年になるけれども、僕等はお互いに敬語で話す。特にこれといった理由があるわけでもないのだが。

 グタグタと互いの近況を話しながら、僕たちは新宿二丁目の一角に入る。二丁目に来るのはこれで3度目だろうか、健太さんはもっとだと思うけど。前の二回は「レインボー祭り」というお祭りの時に来た。その時は出店が出ていたりして、人も沢山いて賑やかだったけれど、今日はただの日曜日だし、時間もまだ早いからか、殆ど人がいない。

 と、話しているうちに目的地の前に到着した。「Arch」というライブハウス、雑居ビルの地下にある。階段を下りて会場に向かう。壁にはそれと思しきマッチョな男のポスターが沢山貼られている。

「まだ5時になってないですけど入れますかねぇ。」

僕は健太さんに話しかける。と、健太さんは

「俺、免許証ないから年金手帳持ってきたんだけど、それでも大丈夫か聞いてくる。」

と言ってドアの奥に消えていった。薬物の摘発があったからか(朝日新聞の記者も捕まったし)、最近はイベントには免許証の提示が必要らしい。

「まだだってさ。」

健太さんが戻ってきて、そう言った。僕らは階段を上がって外に出た。

 

 ここで、今回のイベントの趣旨を説明しよう。「HIV陽性者の手記の朗読、とライブ」だそうだ。健太さんがツイッターで発見して、僕を誘って二人で行くことにした。ちなみに、僕も健太さんも同性愛者ではない、「ストレート」、「ノンケ」だ。今回のイベントに「ノンケ」の人がどれくらい来ているのかは不明だが、パンフレットには「Living Toghether LoungeはHIVを持っている人も、そうじゃない人も、ぼくらはもう一緒に生きている。」と書かれていたから、僕たちが参加しても問題ないだろうと思い、参加することにした。このイベントとは関係ないが、健太さんはこないだ検査して陰性だったらしい。僕は不明だ。

 ライブの方は、フォークシンガーで翻訳者の中川五郎さんという人。当日になって知ったのだが、中川さんはチャールズブコウスキーの小説を翻訳している人で、僕はそれを聞いて異常にテンションが上がっていた。

 

 五時になって会場に入ったが、実際に始まったのは6時半くらいだったかな。3人の人が手記を朗読したんだけれども、どうも手記を書いた本人ではないらしい。手記の朗読のほかに自分の身の上話的なのをしていた。手記の内容はどうだったか、と聞かれるとうまく説明できないのだが、HIV陽性者の人が日常を綴った文章で、自分の病気への思いが書かれていた。病気になってしまった本人にしか書けない文章だな、と思ったな。

 最初の二人の朗読の後、小休止が入って、その後、最後の人の朗読とライブだったのだが、この三人目の人から少し様子が変わってきた。このイベントの司会者の人と一緒に「反原発デモ」に参加しているという話をし始めたのだ。その後、この人は自分が障碍者介助者の仕事をしていて、健常者の人に障碍者への理解がないのに気づいた話をし、朗読した。

 司会者の人が出てきて、中川五郎さんを呼べることになった経緯を説明しだした。と、この経緯が僕の中では驚きポイントであった。風俗ライターの松沢呉一さんに紹介されたというのである。この松沢呉一さん、本誌12月号の「読了リスト、感想文」で紹介した作家である。世界は狭いなー、と一人感動している間に、中川五郎さんの登場である。

 ライブ、かっこよかったなー。しびれまくりだった。中でもボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」を和訳した曲がめっちゃかっこよかった。キー低めに歌ってるな、と思ったら、後半に1オクターブ上げて絶叫していて、半端なかった。この中川さん、60年代後半の「関西フォーク」(反戦フォーク)の流れをくむ歌手で、完全に原発反対であった。

 僕(おそらくは健太さんも)は脱原発でもには懐疑的な姿勢だったんだけれども、中川さんの反権力フォークの熱に当てられて、「今度デモがある時は見に行ってみようかな」なんて思う様になった。判断するのは実際に見てからでも遅くはない、と思ったのだ。

 

 今年の日本の貿易収支は、原発事故の影響で火力にシフトし液化天然ガスを買いまくったこともあって久々の赤字、個人的には再生可能エネルギーもマスコミが騒ぐほど夢にあふれたエネルギーではないと思う(日本の場合は2008年で全発電量の3.2%らしい)。基本的には「アレもコレも欲しい」は成り立たないわけで、原発止めたらその分の対価をどこかで支払わにゃならん。成長を止めるか、火力維持でCo2を沢山排出するか、まあ、色々あると思うが、それだけのことをしてでも止めなきゃならないものなのか。どうなんだろうな。分からんや。国民の総意で決めたほうがいい問題である(つまり、一部の権力者や利権者が勝手に決めるのは問題だ)とは思うんだが、それを決める「民意」という物がそもそもあまり信用できない。例えば、51対49で「維持」になったらその「維持」は国民の総意なのか?と思う。そして、判断の際にはありとあらゆる情報を提示し、国民がそれを十分に吟味してから判断するべきなんだろうが、それが果たして可能か、と疑問に思う。マスコミが100%色のない中立な情報を提示できるとも思わんし、昼のワイドショウしか見ないおばさんとか老害のじいさんがしっかり判断できるとも思わない。で、数的にはその老い先短きじいさんばあさんの方がマジョリティなわけで、単純な多数決じゃダメだよね。50歳以上は0.1票、20歳未満は10票とか、何がしかの勾配をつけないと。

 

 と、原発の話ばっかりになってHIVがどっかに行ってしまったが、これはこれで難しい。社会的な偏見を無くそうという思いは分かる。となると、その目標地点はどこなのかということが分からない。差別全般について分からないのだが、その差別が全く無くなるということはどういうことなんだろう?HIVの人とそうでない人が何一つ違いなく扱われるということなんだろうか?そうすると、その人がHIVであると考えないこと(つまり、その人がHIVだとは知らない状態)が最終地点なのだろうか。

 と机の上で考えているだけでは、何にもならいということが最近になって少しずつ分かり始めてきた。かといって机の上の勉強を否定する気は全く無い。非当事者は、まず机の上で勉強し、その後実際に見て、そしてまた机の上で勉強するべきだと思うようになったのだ。HIVについては実際の当事者にまだ会っていないから何ともいえないが、同性愛者については、何度か当人たちと会話したりもしたので、もはや偏見は無いと思う。実際に「そうだ」と言われなければ分からないし、言われてもその人を見る姿勢が何か変わるわけでもない、ということが分かってきた。つまり「ゲイだからどうこう」ではなく、そいつがどうなのか、ということを見ればいいんだと思う。

 とはいえ、まだ色々と難しい。じゃあお前は男の人とセックスできるのか、と聞かれたら100%無理とは言わないが、現段階では積極的にはしたいとは思わないだろう。つまり、差別しないことと、その人と濃厚な人間関係を築くことは一致しない。でも、一致しないのはおかしいんじゃないか、と割り切れないところがある。僕はブスを差別しないというならば、自分の中で最もブスな女とやらなきゃいけないんじゃないかと思うし、ゲイを差別しないというならば、ゲイにならなきゃいけないんじゃないかと思う、そういう自分がいる。

 どうしてそんなことを思うかといえば、それは一重に自分の経験に基づくものである。僕が女にモテないと嘆く時、大抵の女は「えー、オパーリン君は面白いし、絶対もてると思う」と無責任極まりないことをのたまう。僕は「じゃあ、お前、今から俺とやれるか?」と聞くと、その女は絶句、沈黙する。つまり、どれくらいの覚悟を持って「俺は差別しない」と言えるかということが、言葉に責任を持てるかということなのではないかと思うのだ。

 しかし、今言ったのは「性や愛」に関する差別についてだ。そして、誰かを愛することは他の全員を差別することだから、このような問題が生じる。だから、性愛に関する差別とそれ以外の差別はちょっと分けて考える必要がある。うむん、それにしても分からない。究極的に「差別しない」ということがどういうことなのか。他人が「差別している」のはすぐに分かるんだけどもな。特に韓国人や中国人が嫌いだとか言って差別しているのはすぐに分かるし、そいつが嬉々として差別するのを聞いているだけで胸糞が悪くなる。でもそんな俺はネトウヨを差別しているのではないか。と、きりがないので、とりあえずはこれでおしまいにする。

 

 


「バクシーシ山下と森達也~タブーに挑む映像表現従事者の収斂進化的符合~」 オパーリン

・「バクシーシ山下と森達也~タブーに挑む映像表現従事者の収斂進化的符合~」

執筆者 オパーリン

 

・収斂進化・・・明らかに類縁関係の遠い生物間で、妙に似通った姿、あるいは似通った器官を持つ場合がある。この様な現象の事を収斂進化、あるいは単に収斂と言う。特にこのような例が見られるのは、似たような場所で似たような生活をしている生物同士の間で見られる。つまり、同じような生活をするものには、同じような形態や生理が要求され、そのため似た姿に進化する、というのである この様な現象は、様々なところで見受けられるが、特に、空を飛ぶとか、穴を掘るとか、水中を高速で移動するとか、生物にとって拘束の大きい条件下で特によく見掛けられる。形態の選択肢が少ない、と言ったところであろう。(ウィキペディアより抜粋、そして筆者(オパーリン)が改変)

 

・序

 最近ずっと(ここ一年くらい)、バクシーシ山下(以下 山下氏)についての文章を書きたいと思っていた。しかし、思い入れの強い分、半端なものは書きたくないって言う気持ちがあったり、彼の映像がなかなか手に入らなかったり、色々とあって中々書き出せないでいた。そんな中、山下氏とは何の関係もなく、数ヶ月前から森達也(以下 森氏)の著作や映像作品をまとめて読んだり見たりした。で、森監督の作品を見るうちに何か引っかかるものがあった。既視感というと正確ではないし森氏に失礼だろうが、「なんか見たことあるな、このスタンス。誰かと似ているな、同じじゃないんだけど」と思ったのである。で、その「誰か」が山下氏であると気づくのにそう時間はかからなかった。

 山下氏と森氏の作品に対するスタンスや、ものを見る視点がどこか似ている、と意識し始めてからは、どちらかの作品を見るたびにもう片方の作品のことが頭の中をちらつかせた。それ以降、僕の中でこの二人の距離がどんどん近づいていった。そして今回、二人の関係性について文章を書いてみることにした。

 この文章のタイトルに「収斂進化」という語を使い、本文の冒頭にその意味を略記したが、この語を用いることで僕は「似ている」ということと同じくらいに、あるいはそれ以上に「元々はその両者が異なっている」ということを強調したいと思っている。「同じもの」を「同じ箱(カテゴリ)」に入れる(分類する)のでは芸がない。本来異なるはずの両者が「似る」に至ったその背景にあるもの、それをこの文章を通して少しでも明らかにできればと思う。

 

・二人の略歴

 まず初めに、両氏の略歴を紹介する。

バクシーシ山下(1967年1月27日

 AV監督。岡山県邑久郡(現:瀬戸内市)出身。「バクシーシ」とはヒンディー語で「おめぐみを」の意。 現在フリー。元V&Rプランニング所属。 

 大学生の頃、テレクラのティッシュ配りをしていた際に路上で知り合ったスカウトマンの勧誘を受け、AV男優のアルバイトを始める。その後カンパニー松尾の誘いでV&Rプランニングに入社し、安達かおるの下で助監督を務める。1990年、衝撃的レイプ作品「女犯」でデビュー。「女犯2」では、実際に強姦しているとしか見えなかったため、フェミニズム団体から抗議を受ける等で物議を醸すこととなった。その一方で社会諷刺を題材としたAV作品を手掛るなど、「社会派AV監督」の異名を持つ。V&Rプランニング退社後はフリーで活躍、ハマジムやナチュラルハイなどで作品作りをしているが、編集の遅さと失踪癖により、コンスタントに活動はしていない模様。 代表作には「女犯」シリーズ、「ボディコン労働者階級」、「激犯」など。

(ウィキペディアより抜粋、そして筆者(オパーリン)が改変)

 

森 達也(1956年5月10日

 日本のドキュメンタリー映画監督、テレビ・ドキュメンタリー・ディレクター、ノンフィクション作家。早稲田大学客員教授、明治大学客員教授。 

広島県呉市出身。新潟県立新潟高等学校、立教大学法学部卒業。大学在学中は黒沢清らのパロディアス・ユニティーに俳優として参画。卒業後は自主製作映画、演劇活動を経て1986年、テレビ番組制作会社のテレコム・ジャパンに入社。後にフリーとなる。 

 テレビ製作会社時代、「テレビでは放映できない」「テレビ的には存在しないことになっている素材」に興味を抱き、1992年にミゼットプロレスのテレビドキュメント作品『ミゼットプロレス伝説 小さな巨人たち』をプロデューサーとして企画する。 

 1997年、オウム真理教に対するマスコミの一方的な報道に疑問を抱き、広報副部長荒木浩を中心にオウム真理教信者達の日常を追うドキュメンタリー映画『』を自主制作で発表。2001年には続編『A2』を発表。独自の視点からオウム真理教の実像に迫った。

 1998年、映画『』がベルリン国際映画祭に正式招待される。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭にプレミア出品され、市民賞・審査員賞受賞。

 一方、テレビでは、フジテレビ「NONFIX」枠で、『職業欄はエスパー』(1998年)、『1999年のよだかの星』(1999年)、『「放送禁止歌」~歌っているのは誰?規制しているのは誰?~』(1999年)など「視聴者自身が、無思考に安住していることを、追求する」ドキュメンタリー作品を続けて制作。代表的な作品については、内容および内幕を書籍化している。 

 近年は、ドキュメンタリーを撮る機会が減り、メディアや社会問題についての論客となっている。一般的には左翼と評されることもあるが、『言論統制列島』では「僕は、思想・信条から自由でありたいというか、むしろ特定の思想・信条やイズム(主義)にどうしても埋没できない。だからね、左でも右でも、まあ、どっちでもいい」と発言している。また、作品を見た者から「一見、反体制かつ刺激的に見えるが、単に禁忌に対する感覚に鈍いだけだ」との指摘に森本人も得心している。

 「日本人全体が一人で考えない」ことに危機感を抱いているといい、常識とされる事項について個々が疑ってみるべきと主張している。

 

・二人の近似、漸近について

 略歴を紹介したところで、ここではこの二人について僕が引っかかりを感じた箇所、つまりはなんか似ていると感じた部分について、二人の作品を紹介しながら書いていく。

 

[出世作と非難]

 どんな作家も生まれた時はただの人である。その人生のどこかで作品を創り、それを発表して世に問い、認知されて始めてプロの作家になるのである。作家が世間から「この人は作家だ」と認知されるきっかけとなった作品、いわゆる出世作について考えることからこの文章の本論をはじめる。処女作が作家の原点であり、ある種作家とその作品性を象徴するのものであるならば、出世作は社会と作家が始めて接した、交わった作品であり、社会と作家との初夜であるとも言える。つまりは、社会が始めて作家とその作品を知った日であり、その後の作家の分類(カテゴリ)、社会の認知を象徴するものである。

 まずは山下氏について。山下氏の出世作は『女犯2』、デビュー作『女犯』同様「レイプ」を撮ったAVである。その映像があまりにリアルだったため、「本当にレイプしてるんじゃないか」ということでフェミニズム団体から抗議を受ける。山下氏はそのフェミニズム団体が主催した「『女犯2』を考える会」に呼ばれ、そこで「演出だ」と主張した。山下氏はこの『女犯2』によって、世間(フェミニズム団体)から「鬼畜AV監督」として認知されたのである。ちなみに、僕はこの作品をいまだ見れていない、入手困難だからだ。V&Rプランニングから動画配信の形で見れることを最近知ったので近いうちに見ようと思っている。

 僕はリアルタイムで当時の状況を知っているわけではないので、この「フェミ抗議騒動」がどの程度世間から騒がれたのか分からないのだが、桐野夏生がこの騒動を題材にして『天使に見捨てられた夜』という小説を書いていることを付記しておこう。

 僕は「本当にレイプなのか」について考えることにあまり意味はないと思うのだが(だって、第三者にはそんなの分からないでしょ)、山下氏の「レイプもの」の作品(『女犯2』ではない)を見た感想を書こう。実際、一般的な「レイプもの」のAVと比べると、映像が非常にグロテスクであることは確かだ。自在にゲロを吐くことができる「ポンプ宇野」という男優が女優にゲロを吐きまくり、女優は泣き、マジで嫌がっているように見える。しかし、所詮「見える」でしかない。それに、「レイプもの」で女優が嫌がってるように見えなかったら、それは作品として根本的に無価値だ。その意味では、山下氏の「レイプもの」作品は非常に秀逸な作品だろう。

 次に、森氏について。森氏の出世作は地下鉄サリン事件後のオウム真理教信者たちの日常を追ったドキュメンタリー映画『A』である。これは見た。非常に衝撃的だった。教団の建物の周りを報道陣がとり囲んでいて、誰一人教団の内部には入れないのに、森氏だけが建物の中に入っていく。と、その一群のメディアの中の一人が森氏に食って掛かるんだよ「何でお前だけ中に入れるんだ、お前はオウムの手先か!」見たいな感じで。その場面が印象に残っている。森氏はその後も『A2』(映画)、『A3』(書籍)とオウム真理教を題材にした作品を出していて、「オウム、ダメ絶対、とにかく死刑」みたいな雰囲気、つまりは日本人の集団的な思考停止に異を唱え続けている、と僕は解釈している。で、森氏の著作の中で、「被害者の気持ちを考えろ」的ないささか(いや、かなり)ヒステリー気味な批判を受ける様子が度々書かれている。

 「レイプ」と「オウム」、二人の出発点は違う。いや、「違う」というと正確ではない、「同じ題材ではない」。でも、その二つの題材が包含している要素はかなりの部分で被っていると僕は思うのだ、これらの題材に対する社会の認識において。どっちも「絶対悪」なのだ。僕がここで問題にしたいのは「絶対」という部分だ。絶対だから例外はないのだ、だからもう何も考える余地はない、というのが社会の認識なのである。しかし二人は(社会からしてみれば)疑う余地のないはずのものを撮り、(社会からしてみれば)まるで挑発するかのように引っ掻き回した。二人は社会からしてみれば見なくても良いもの(つまりは見なくないもの、目を背けてしまいたいもの)を自分たちの面前に突きつけてくる「嫌なやつ、邪魔なやつ」と認識されたのである。

 

[小人]

 人々が見たくないものを撮り、見せる。山下氏と森氏はその根本的な姿勢において非常に似通っている、と書いたがその被写体となる題材についても、かなり被っている。ここからはその事例を挙げていく。

 まずは、「小人」である。「小人」とは「低身長症」の人を意味する言葉だが、身体障害者への差別的な表現であるとして、この言葉はメディアでの使用が制限(自主規制)されている。この表現に対する規制のいうのはややこしくてよく分からん部分が多いのだが、「とにかく腫れ物には触るな」的な意識があることだけは確かだろう。表現規制については別項でかく。

 山下氏は『スーパー女犯』、『スーパー女犯3 表現の自由』、『初犯』において「小人」男優(外国人)を起用し、「レイプもの」を撮っている。森氏も『ミゼットプロレス伝説~小さな巨人たち~』という、小人プロレスに密着したドキュメントを撮っており、これはテレビ放映された。

 

[山谷]

 山下氏は『ボディコン労働者階級』、『ボディコン労働者階級2 外国人労働者が見たニッポンAVギャル』において、山谷の日雇い労働者を男優として起用し、AVを撮っている。この作品が後のAV業界に与えた影響は絶大で、いまだに「ホームレスとやる」系のAVがよく発売される。

 森氏は山谷についてまとまった作品というのはおそらくないんだけど、『東京番外地』(書籍)において、一章をさいてルポを書いている。

 

[表現規制]

 山下氏は自作がビデ倫に規制されまくっている。理由の説明なしにカットさせられたり、発売禁止にさせられたり。ビデ倫との攻防は『セックス障害者たち』に詳しく書かれている。 森氏はテレビ放映されたドキュメンタリー『「放送禁止歌」~歌っているのは誰?規制しているのは誰?~』において、放送禁止歌といわれる歌が実は誰も「禁止」していなくて、メディアが自主規制しているだけだということを暴いた。

 

[理論社]

 この二人は同じ出版社から書籍を出している。理論社の「よりみちパン!セ」というシリーズから山下氏は『人はみな、ハダカになる。』、森氏は『いのちの食べかた』という書籍を出版している。ちなみにこの「よりみちパン!セ」というシリーズは「学校でも家でも学べない、キミが知りたい、リアルでたいせつな知恵が満載!!まったく新しいYA(ヤングアダルト)新書」というコンセプトを掲げている。

 

[死、肉]

 これまでに挙げた「小人」、「山谷」、「表現規制」、「論理社」の四つは「同じ題材」だったが、これから書く「死、肉」については、題材としては二人は違うものを撮っている。しかし、かなり近い場所をウロウロしている感じがする。「死」という概念と「死体、肉」という物。これらについて、僕は、あなたは、どれだけ知っているだろうか、実感しているだろうか。そんな部分を彼らは確実に突いてくる。

 山下氏は『全裸のランチ』において女優に脂肪吸引手術を受けさせて、その脂肪でラーメンを作って食べさせたり、男優に包茎手術を受けさせて切除した包皮を女優に食べさせたり、とカニバリズムを追及している。森氏は『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(書籍)において、パリ人肉事件の佐川一政(フランスで女性を殺人、死姦後に食べた事件)と接触した経緯を綴っている。ちなみに、佐川一政は事件後に帰国し、V&RプランニングのAVに出演している。山下氏はV&Rプランニングが「死体映像」を扱っていたことから、「死体」との関わりがある。森氏は『1999年のよだかの星』において動物実験とその成果としての医療に生かされている人間について撮った。動物の「死」とその死に生かされる人間という関係については、森氏は『いのちの食べかた』という書籍でも「と蓄」と「差別」について書いている。また、森氏は『死刑』という書籍で「死刑制度」を通して「死」について書いている。

 

・二人を収斂させる「外圧」

 とここまでダラダラと事実を羅列してきた。もっと他に書き方が無かったのかなぁ、とも思うけれど、羅列によって見えてくるものもあるんじゃないかと思う。ここまでで、二人はかなり似たような題材を撮っていることは分かってもらえたと思うが、僕はこれらの共通項がただの「偶然の産物」などではないと思うのだ。では何なのか?一体、何が彼らにこれらの題材を撮らせたのか?彼らの作品をある一方向に収斂させたのか?

 それは一言で言ってしまえば、「社会」であろう。彼らの作品に眉をひそめ、目を背け、無視し、怒ってきた「外圧としての社会」である。二人の共通項は、彼らの内面にではなく、彼らが常に対峙してきたもの、つまりは彼らにとっての外部なのである。

 しかし、「山下氏と森氏は社会と戦ってきた」と言ってそれを結論にしてしまうのはあまりにも雑だ。「社会」なんていっても漠然としているし、二者の共通項を「社会」ということにしてしまえるならば、そんなのは誰もが関係性を持つことになってしまう。だから、もう少し吟味しなければならない、精査する必要がある。二人が「外圧としての社会」のどこら辺に目を向けてきたのか。

 できれば見たくないもの、考えたくないもの。社会はそれらに蓋をして、無かったことにしようとする。それらの問題を加工し、単純化し、分かりやすくしてしまう。そうすることでどうなるのかといえば、夾雑物を廃し単純化された社会は、「実感」つまりは「リアリティ」を奪われ、フィクショナイズ、つまり極端なことを言えば「物語化」してしまう。二人はそれに抗っている。不合理なもの、残虐なものを撮り、突き付けることで現実を取り戻そうとしているのではないだろうか。

 

・おわりに

 ここまで書いてきて、我ながら舌足らずな説明で申し訳ないと思う。しかし、現段階ではこれ以上言葉が出てこない。考えてみれば、「言語化する」ということそのものがある意味では事象の単純化なのであり、二人の作品がその安易な単純化を拒むのは当然のことなのである。その無理を承知で今回こうやって文章を書いたのは、二人の作品へ繋がる回路、つまりは現実への回路を、僕なりに稚拙でささやかにでも確保しておきたいと思ったからだ。

 彼らの作品は、「普通に」生活しているとまず知ることのない「現実」を教えてくれる。この「普通」こそが曲者であり、最も注意しなければならないことなのだと教えてくれる。今、僕たちが生きる世界の「普通」はあくまで括弧付きの普通なのだと気付かせてくれる。「普通」に生きていては、何一つ(というと語弊があるけれども)生きていることを確認できないこの世界、このままでは薄皮に覆われた様に「実感」と触れ合えない。このままでは酸欠になり、いつの間にか自分で考える力をすっかり奪われて、死んだまま生きる顔の無い人形に成り果ててしまう。僕は一人の人間として普通に生きたい、括弧なしの普通を生きたい。その為には現実に繋がる回路を確保し続ける必要がある。だからこそ僕は、彼らの作品が映し出す「リアリティ」という「虚構」(全ての作品は例外なく虚構だと僕は思う)を、できる限り目を背けずに凝視し続けなければならないと思う。

 


「悪気はなかった」 東町健太

・「悪気はなかった」

執筆者 東町健太

 

 女の子はどうだか知らないが、一般的なイメージとして男の子というものは昆虫が好きだったりする。しかしそれも子供のうちだけで、歳を経るにつれ昆虫に対する興味はうすれ、そればかりか触るのも見るのも嫌になってしまったりするわけだが。かくいう私もそんな男の子であった過去があり、今現在、大がつくほどの虫嫌いであるわけだが少年時代は四六時中アリの巣を水攻めにして壊滅させたり、トンボの頭をむしりとったり、ちいさな虫かごにカマキリとバッタをいれてミクロな惨劇を演出したりして無邪気に笑い遊んでいた。そんな時代、私がもっとも愛情をそそいでいた昆虫はなんといってもカブトムシだった。小学校の低学年のころだったと思うが、夏休みに父の田舎(秋田県です)に家族で帰省した。そこはなにぶん田舎であるので山やら森やらが存分に残っており、その山やら森ではいままで図鑑でしかお目にかかることのできなかったカブトムシ・クワガタの類がそれこそ佃煮にするほどいた。狂喜乱舞してそれらを乱獲した私は、その収穫の一部を虫かごにいれて大切に持ち帰り、日がなうっとりと眺めていたものである。

 そんな宝物を友達に自慢したくなってくるのはどうしようもないクソガキであった私には当然のことだろう。そのころ一番仲の良かった友達、仮にS君とでもしておくけど、そのS君を電話でもって我が家に呼び出し、自慢のカブトムシを見せびらかした。S君にとってもカブトムシは憧れの存在であり、彼も目をかがやかせていた。しかし、S君は私のようなクズと肝胆相照らす仲になるようなしょうもないガキである。Sは、カブトムシを前にしておそらくテンションが上がりすぎて錯乱したのだろう、何か訳のわからないひもでもってカブトムシを縛り、ひもの端をもってそれをぶんぶん振り回すという暴挙にでた。いくら子供にとって最強の存在であるカブトムシといっても所詮虫けらである。振り回されたカブトムシは瞬時にしてバラバラにちぎれまくり、唖然とする私の前で哀れな醜悪な物体と化した。当然逆上した私は彼に食ってかかり泣きながら責め立てた。Sは言った。本当に申し訳なさそうな顔で言った。

「ごめん‥悪気はなかったんだ‥」

悪気がないならしょうがないかな、と思った。そして子供はバカなので、非業の死を遂げたカブトムシのことなど即忘れ、楽しくS君と遊んだ。

 

 確か二十歳になったときのことである。その当時私はもってうまれたふざけた精神をもてあまし、かつ誰もが当然のようにもっているまともな社会性をもっていないという自らのおかれた状況に絶望しながら世の中を恨んで孤独な学生生活を送っていた。そんな私が何故だか高校時代の同級生の集まりに来い、と誘われた。信じられなかった。とても嬉しかった。高校時代、まともな友達なんて一人もいなかったくせにろくな思い出なんか一つもないくせに軽くいじめられていたくせに。一も二もなく、すぐさま参加を申し出た。その集まりの当日、安いネックレスを装着する、髪の毛にワックスを塗りたくってみるなどやたら間違えたおしゃれをして挙句の果てに香水までつけ、午後六時待ち合わせにもかかわらず午前九時には集合場所の最寄り駅に到着、時間まで延々そわそわしていた。

結論からいうとその集まりは最低だった。今考えるとすぐわかるのだが、二十歳くらいの人間が集まって酒など飲むとろくなことにはならない。うるさい、とにかくうるさい。酒はこぼすけんかははじまる奇声を挙げるバカはいるetc。そんな乱痴気騒ぎに一緒になってさわげるわけもなく、そもそも三時間あまりのその会においてほぼ誰からも話しかけられず、「あいつ誰?」みたいな声もちらほら聞こえるといった私にとってこれ以上ないほどひどい時間だった。

 そんなバカ騒ぎは店、あるいは他の客にしてみたらかなり眉をひそめるものだったのだろう。何度か店員が注意をしにきた。顔を怒りで歪ませながら。店員は他の誰でもなくまっすぐ私のほうへ向かってきて、客商売の人間とは思えないような暴言を吐き散らかした。何故よりによって私なのか、周りを見渡してすぐにわかった。みんなもう滅茶苦茶になっていて、話の通じるような人間が一人としていなかったのである。結果として集団の中でもっとも静かにおとなしくしていた私のみがぼろくそに怒られ謝り続け、ほとんど暴徒と化して好き勝手やってる奴らは楽しげに「ひゃっほう!」とか言いながらビール一気飲み競争なんかしているのである。目を涙でいっぱいにしながら謝罪をし続け、空いた皿やビール瓶のかたづけまで手伝わさせられていた私を見て近くにいた別グループの人が私に声をかけてきた。

「しょうがないよ。こういう時は一番飲んでないやつが損をするんだよ。店員の態度はむかつくだろうけど、あいつらも悪気はないんだし、騒いでるやつらだって悪気はないんだからさ」

悪気がないならしょうがないかな、と思った。ビールこぼしたやつがいるからテーブルふかなきゃいけないので、あまり深く考える暇はなかった。

 

 出勤時、私はいつも駅まで15分ほど歩いていっている。自転車はもっていないから徒歩で行くほかはない。以前は自転車を持っていたのだが盗まれてしまった。足立区に今私は住んでいるが、この地区は多少治安が不安な地区で自転車の盗難など日常茶飯事だ。毎日15分歩くというのも疲れる話だがもう慣れているので苦に思うことはない。それに歩いている方が季節の移り変わりなどもより感じ取ることができる気がするし、そんなに悪いことばかりではない。そうやっていつもどおり歩いて駅へ向かっているときに見た出来事だ。

 私のいつも使用している駅の近辺は歩きタバコ禁止区域となっていて、歩きタバコをしている人を注意するために巡回している人たちがいる。あの人たちは区の方で雇われている人たちなのかな?まあそんな疑問はともかく、僕が見たのは歩きタバコをしていたおじさん、というかおじいさんといったほうがいいような人が、そういう歩きタバコ注意部隊に捕まっていた場面だ。

「すいませんけどこのあたり、歩きタバコ禁止なんで‥」

そう声をかけられ、喫煙おじさんはかわいそうなほどおろおろしながら、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべ注意部隊に謝っていた。

「ごめんなさいごめんなさい‥。ついついね‥。本当に悪気はなかったんだよ、ごめんなさいね。」

彼はそういって手に持っていた吸いかけのタバコを路上に投げ捨てた。

 悪気がないならしょうがないかな、と思った。「歩きタバコ状態」を咎められたから、最速の手段でその歩きタバコ状態を脱しなきゃ!と喫煙おじさんは思ったのだろう。結果的に彼のした行為は「ポイ捨て」というより評判の悪い行為なわけだが。

 

 いろいろ振り返ってみて一つの真理を見つけた気がする。悟った気がする。いける、と思った。これならいける、と思った。これなら今までの苦労も全て報われるはずだ。

 要は悪気がなければ何をしてもOKなわけだ。はは、見つけたった。

 そういう真理を携えて、とりあえずまずは職場に電話してみた。

「あ、もしもし。明日からちょっと5年間休みます。悪気はないんですけど、仕事キライなんで。悪気はないからその間の給料は当然ちゃんと払えよ。」

もう二度とこないでいい、と言われた。悪気はないけどうちの会社は君を必要としてない、と言われた。泣きながら謝った。

「ごめんなさい‥こんな電話したけど‥悪気はなかったんです」

 

 



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