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余香

捧げ持ちて毎日余香を拝す(大鏡より)



01


シャルル・ドゥ・アルディの不定期な休暇に合わせて自分の予定を立てることはやめようとマリナ・イケダは思っていた。

彼にはほとんどオフと言えるような休暇はない。

あっても、一日のうちの何時間か自由に過ごすことが出来る程度の時間しかなく、よほど計画して綿密な予定を立てなければならない繁忙さを、彼は長いこと受け入れてきた。


これまで財閥の御曹司だった若い頃とは違って、彼の思い通りにならないことも多くなった。

それはフランスの華と称されて、人が出来ないことをやり遂げる知性と意志と環境を持つ彼であっても、省略できない手順と拘束される時間があるのだということを、マリナは充分よく学習したつもりだった。


彼が「ちょっと遊びに来た」と言って、若い頃、ふらりと日本にやってきたことさえも。

本当は、その時でさえ、彼のスケジュールはかなり調整されてきたのだと思う。

今は一族の事業を承継して、彼だからこそできることを成している日々を、マリナは決して否定するつもりはなかった。

それは彼が長い苦難の道程を乗り越えて、一度失いそしてもう一度手に入れた場所だから。


けれども。


「・・・今日はクリスマスだから、というつもりはないけれど」

マリナは呆れて言った。

館の使用人達が飾ったクリスマスツリーの脇を、表情に横切りながら、シャルル・ドゥ・アルディが入室してきたとき。

彼女はさすがに口を出すことにした。

今日はかなり冷え込んでいる。

昼間には、珍しく、地理的にありえないのに、パリに風花が降ったくらいだ。

シャルルはコートを脱ぎ、タイを緩めて、戻るなり開口一番「出かける」と言い出した。

次の出先でこの格好は相応しくないので、着替えに来たと言う。

マリナの言葉に、シャルルは青灰色の瞳を彼女にむけて、つまらなさそうに、素っ気なく言った。

「何か意見したいのなら、オレは聞かないよ。・・・時間がない」

そう言って、豪奢に飾った居間を抜けて、さっさと自室に向かって行く。

マリナは「ちょっと!」と言って、彼の背中を追ったが、追いついたのはようやく部屋の中に入った時だった。


いつになく不機嫌だ。

彼は上機嫌のときは余りよくわからないが、不機嫌のときにははっきりと見て取れる。

・・・攻撃的になり、そのくせむっつりと話をしない。

何を言っても取り合わない。


―――まるで子どものようだわ


非常に小柄で、若いと言うより幼く見えるマリナがそう言おうものなら、シャルルは冷笑しながら、辛辣に次から次へとマリナに皮肉と嫌味のシャワーをたっぷり浴びせることだろう。


しかし、せめて、使用人達が用意したクリスマスの準備をねぎらったり、ジルが用意したクリスマスカードを眺めたり・・・

平々凡々な日本の家庭に育ったマリナが納得できるようなクリスマスの夜を過ごして欲しかった。

シャルルは常々「イベント」と称してこういったことは軽視する傾向にある。

でも、こういった日は、これを口実とするというと言い方は悪いが、ゆっくりと、シャルルが躰を休める機会になるのであれば、それはそれで良いと思う。

とにかく、シャルルは忙しすぎる。

シャルル・ドゥ・アルディというブランドが一人歩きしているような気がする。

彼は一個の人間であり、彼自身には休息が必要な時もある。


それなのに。

世の中が漫然とした時間を楽しんでいるというのに、シャルルは着替えた後にまた出かけると言う。


マリナは唯一、彼に許可を求めなくても居室に入ることが出来る人間だった。

シャルルの後ろから部屋に滑り込む。

そして、彼女は彼の背中に、声をかけた。

「シャルル。ねぇ、聞いているの?」

「ああ、君は・・・一体何が言いたいんだよ」

彼はちょっと苛々した口調で、緩めたタイと上着をソファに放り投げた。

よく響くテノールが部屋に響き渡った。

空調はよく効いていたが、人の居ない部屋というのはどうにも寒々しい。

彼女は、クリスマス用に薄手のワンピースを着ていた。

本来なら・・・シャルルと一緒にディナーを楽しむ夜になるはずだったが、彼からは急用ができた、と言われていた。

でもその時にはその服はすでにシャルルから贈られていたから、彼も相当楽しみにしていたのだろうと推し量り、シャルルと一緒に過ごせないのだけれど、せめて贈られたワンピースくらいは、着てみようと思って身につけていた。

でも、その出で立ちを見ても、シャルルはちらりと彼女を一瞥するだけだった。


・・・・何も感想を言わない。


クリスマスの恋人達のように、彼と過ごしたいわけではない。

不平を言っているわけではない。


「どうして私に背中を向けるの」

こっちを向いて、と彼女は言った。

こういう雰囲気は好きではない。

一方的な意見も思いも、相手を追い詰めるだけだと、彼女はよくわかっていた。

だがしかし、シャルルの回答は明瞭だった。

「急いでいるから。マリナ。オレは着替えるから、部屋を出て行け」

彼はそう言って、やおら服を脱ぎ始めた。


・・・どこかのパーティーに出席した、と言っていた。

彼の脱ぎ着する服からは、わずかに・・・煙草の香りと、もっと違う香りがした。

シャルルの香り。

彼の愛用する香り。

そして・・・もっと違う何かが混じった香りがする。

彼女の嗅覚は鋭い方ではない。

でも、間違いなく、誰か別の人の余香が彼女の統覚を刺激した。


シャルル・・・

誰と、一緒だったの?


マリナは小さく呟いた。


強く生きるあなたの背中を見るのは嫌いではない。

でも、こういった拒絶した背中は見せないで欲しい。


朝は変わらずに、シャルルは薄い唇を寄せて、彼女の額にキスをして出て行った。

今日を一緒に過ごせないことをたいそう気に病んでいた。

それなのに、彼に何があったのだろう。

嫉妬はしない。

彼女はそう決めていた。

その感情がもたらす結果はいつも哀しいものでしかなかったから。


だから、そっと、彼を見た。


シャルルは、白金の髪をかき上げて、シャツを脱ごうとして・・・

そしてもう一度マリナを見た。

「マリナ。オレは時間がないから。すぐに出発する。・・・ディナーの続きでも楽しんでおいで」

とても優しい声音であったけれど・・・

シャルルは拒絶の言葉をマリナに投げかけた。



02


「シャルルはすぐ出かけるのでしょう?だったら、ここで待ってる」

「話も出来ないし、支度もある。・・・マリナと話す時間はないよ」

マリナは肩をすくめた。

「ねぇ、シャルル。会話をすることだけが・・・時間を過ごすことではないでしょう」

マリナはそこまでいうと、口をつぐんだ。

彼がシャツをはだけて、逞しいけれどよく鍛えられた鋼のような体躯を露わにしている様が視界に入ったからだ。

顔を赤らめて、眼を反らす。

「同じ空間に居ることだけが、時間を過ごすことだとも思わないけれど」

辛辣な彼の答えが返ってくる。


「じゃ、待ってるよ。・・・戻ってくるまで」

「マリナ。今日は戻れないかもしれないから、先に休んでいて」

シャルルはそこで初めて彼女に振り返った。

彼女はシャルルのすぐ傍に立っていた。

でも彼に寄り添ったり、抱きついたりするわけでもない。


シャルルはマリナのために振り返ったのではなく・・・彼は脱ぎ捨てた上着から、煙草を取り出したのだ。

やめたと思っていたのに。

彼はマリナの視線に気がついたようだった。

シャルルは薄く笑った。

「今日は特別」

そしてこの上なく美しい笑みで、彼は少しだけ困ったな、という顔をした。

いつもは老成した彼であるのに、その表情がひどく若く見えて、マリナはかつての「青春の輝き」の頃の彼を思い出した。

少女と見紛うほどの美しい面立ちはそのままに、今の彼はとても男性的であるにもかかわらず、ふと、時折中性的な表情も見せる。

何かに想いを彷徨わせている時ほど、そうなる。

マリナはそれを「発作」と呼んで、彼が思考の深淵に沈む様を見つめることがあった。


遠い記憶になってしまうほど、それほど昔の話ではないのに。

彼はあの頃を懐かしんで話をすることはあるが、焦がれて戻りたいとは言わなかった。


「さ、本当に行ってくれないか。それとも・・」

シャルルはそこまで言うと、言葉を句切り、煙草を銜えた。

「一緒にシャワーでも浴びる?」

「結構です!」

マリナは顔を赤くして、横を向いた。

彼が一瞬だけひどく寂しそうに見えたが、今、目の前にいる彼は、マリナの知らない男の人だった。

喫煙して、そして胸をはだけて次の仕事に向かう準備をするために、腕時計をはずしながらしきりに煙草を燻らせる目の前の人物は、本当に、朝キスを交わした相手と同一人物なのだろうか。


「ね、シャルル。何か・・・あったの?」

「いや・・・」

彼は溜息をついて、白金の髪をかき上げた。

絹糸のような髪がこぼれ落ちて、彼の雄偉な容貌をますます際立たせたものにしていた。

「だって、おかしいよ」

マリナは会話を拒絶されたのに、シャルルに話しかけた。

シャルルが答えてくれなくても良い。

でも、彼の持って居る闇間の苦悩を聞くのは自分なのだと判断したからだ。

今「そちら側に居る」と、告げる相手がシャルルには必要だった。

彼は光と影の狭間を行ったり来たりする。

本人は意識していないのかもしれないが、彼の狂気は鎮まったわけではない。

だから、その狭間に脚を踏み入れて、うっかり進むべき路でないところに行きそうになることが多々あった。


・・・今日も何か、彼を憂慮させることがあったのだろうか。

仕事で嫌なこともあるかと思う。

特に、彼は繊細で人間嫌いで有名だ。

気むずかしく、瑣末なことと誰もが思うことでも非常に敏感に反応し、鬼胎を抱く。

アルディ家の当主になるということは、つまり、そういうことなのだ。

分裂気質のシャルルが彼を理解できないと彼が思い込んでいる、大勢の人々の波間を渡りきる程の大様さを必要とされるのだ。

彼は聡敏すぎるのだ。


「おかしい?」


うっかり言った言葉に、今度はシャルルがむっとしたように彼女に言った。

「オレのどこがおかしいのかな。

 ・・・それとも、もうおかしいから、狂っていることさえわからないのかもしれないけれど」


マリナはしまったと思った。

彼の誇りを酷く傷つけたと思った。


「ごめん、そういう意味じゃない」

「それなら説明してくれ、マリナ。オレの・・・何をそんなに畏れているのか」


彼は面白そうに乱れた格好のまま、煙草を勢いよく吸い出した。

この格好で、煙草に耽る様はもう尋常でない。

そう伝えれば簡単だった。

でもそれでは駄目なのだ。

彼にはそれでは伝わらない。


「出かけることを窘めているわけではない。

一緒に過ごせないことを怒っているわけではない。

・・・

シャルルがこちらを見てくれないことがイヤだ」

「見ているよ、オレは」


シャルルは短く答えた。

そして、じっと・・・しばし無言のまま、深く切り込まれたような青灰色の双眸で、目の前の運命の人を見た。


「いつも、いつも。君を見ている。君だけを見ている。君だけしか見ることが出来ない」

「それなら」


マリナは茶色の瞳で彼を仰視した。

彼女よりずっと背の高い彼を見上げた。


「それなら、私に教えて欲しい」

「何を?はっきり言え」


マリナは一度口をつぐんで、それから拳を何回か両手で開いたり閉じたりしていた。

だが、彼がそのまま微動だにしないで彼女の様を披閲していると感じると、思い切って切り出すことにした。


「シャルル。遠回しは良くないからはっきり言う。

 ・・・今日のシャルルはおかしいよ。

 なぜ、声もかけてくれないの?どうして、視線を反らすの?

 そうして煙草を吸って何の香りを誤魔化そうとしているの?

 私と・・・話をしたくないとか、過ごしたくないとか思うのなら、それこそはっきり言って欲しいのよ」


ああ、今、自分は見返りを求めている、と思った。

これは・・・見返りを待つばかりの身勝手な愛なのだろうか。

それなら、シャルルを苦しめているのは、他ならない自分なのだろう。


かつて、小菅で彼は彼女に背中を向けた。

その時は、そのまま彼を見送ってしまった。

だから今度こそ彼と向き合って生きていこうと思ったのに。


背中を見せられることがこんなにも辛い。

強く生きるあなたの背中を・・こんなにも愛しているのに

その背中を向けられることが苦しい。

マリナにどこまでも優しいシャルルに甘えていたのだろうか。


「誰と一緒に居たの、とか。私と過ごして欲しい、とか。

そんなことはどうでも良いよ。

ただ、シャルルがそうして気を沈める理由があるのであるならば、話して欲しい」


「マリナ、はっきり言えと言っただろう。オレは繰り返さない」

「・・・じゃぁ、言う」

マリナは涙ぐみながらシャルルをきっと睨み付けた。

彼の冷たい態度を悲観しているわけではない。

・・・悔しいのだ。

彼が何も空かさないこと、自分に何を求めているのかわからないこと、そして・・自分がどうしたいのかさえわからないことに、苛立っているのはマリナのほうだった。


03


彼女の気性は今に始まったことではない。

大人になって随分と堪え性が出てきたが、それでも彼女の中で、何かが弾けると、相手の言葉を待たずして言い募る。

マリナは間接照明の中で、薄暗い晄の下で淡く光る白金の月夜見の精に早口で言った。

今言わなければ残香が薄れていくとともに、うやむやになってしまう。

でも、彼と彼女の間に潜む溝は、決して消えない。

それは・・・それだけはいやだった。


「シャルル。シャルルからは誰か他の人の香りがする。近く寄らなければわからない程度だけれど。私はそれが我慢出来ない。

その香りを持つ人に対して、じゃない。

シャルル。シャルルがそれを説明しないで、煙草を吸ったりシャワーを浴びたりして誤魔化そうとしていることが・・堪えられない・・・」


心にもないことを言って困らせる愛はいらない。

でも、心から言った言葉が届かない愛なら、それもいらない。


自分はいつからそんなに貪欲になったのだろうか。

この人の香りも孤独もなにもかも愛したいと思った自分は嘘だったのだろうか。


マリナは泣きそうになった。

でも堪えた。


泣いたら、伝わらない。

泣いたら言葉が濁る。


「マリナ・・オレはね、確かに怒ってるよ」


彼は静かに言った。

煙草はまだ吸いかけだったけれど、常用の灰皿がなかったから、彼は応接用として飾られるだけだった灰皿を手元に引き寄せて、煙草を揉み消した。

じゅっと音がして、煙だけが部屋に燻る。


「なぜ?私に怒っているのね?」

「そう・・・・いや、違うな」

シャルルはそこまでいうと、彼女に大きな手の平を上向きにして、差し出した。


「おいで」

「・・・シャルル」

「・・・来てくれないか」

マリナは少し躊躇った。彼はこういう物言いはしないから。

おいで、と言って彼女が傍近くに行かなければ、彼は自ら彼女の手を引いて自分の元に寄せる。

残り香を含む彼の傍に近寄ることは、マリナを酷く臆病にさせた。

自分の知らない面を知ることになる。

彼が・・・誰かを残り香が移るくらい、近くに寄せたことは明白だ。

そして煙草を吸う。


朝、彼女に甘く優しい抱擁をしたシャルルではなかった。

寂莫とした顔をして、マリナにおいで、と言って手をさしのべているが、彼は来て欲しいと言い直した。


マリナは一度だけ大きく息を吐き出すと、目を見開いてゆっくり瞬きした。

涙腺の上に乗った涙を押さえる。


彼は・・怒っているのではない。悲しんでいるのだ。

シャルルの上機嫌な様子はなかなか窺い知ることが出来ない。

その代わり、彼が不機嫌だったり・・・そう、憂えている時はすぐにわかる。


シャルル。

あなたは・・・ひどく何かに絶望しているの?

そう理解できた瞬間に、マリナの躰は自然に動いていた。

ゆっくりではあるが、迷って足を止めることはしなかった。

彼女は彼の元に足を進めた。


「・・・マリナ」

彼と彼女の距離が短くなると、シャルルは彼女の肩を抱いて・・・

マリナの小さな肩を抱いて、彼は素肌の胸を彼女に重ねた。

シャツを脱ぎかけていたから、彼の温かい肌に触れて、マリナは緊張して身を固くした。

それよりも何よりも、彼から漂う、彼の香りと誰のものだがわからない、高雅な香りが彼女の押しとどめていた感情を大きく揺さ振った。


彼女はシャルルに言った。

誰のものかわからない香りを纏ったシャルルに抱かれるのは・・ひどく虚しい。


「離して・・・」

「いやだ」


彼はそう言って、最初は柔らかい抱擁だったのに、彼女をきつく抱きしめた。


「もう、離さない。そう言っただろう」


どうして君はそうしてオレにくり返し同じことを言わせるんだ、と彼は恨めしげに言った。


マリナが拒絶の言葉を放っても、彼は動じなかった。

それなら、何に失望していたのだろう・・・


「シャルルは狡いよ。酷いよ。・・・私はシャルルにあげるものがない。捧げるものがない。

こんな日に・・・シャルルが願うことを聞くこともできない」

マリナは彼の胸の中で、くぐもった声で言った。

いつもなら、彼のそんな抱擁には困ったように受け止めるだけなのに。

彼女は、両腕を回して彼の背中を包んだ。

小柄な彼女の腕は彼の背中を周回することはできない。

「随分と困ったサンタクロースだな」

シャルルは苦笑していた。

マリナの茶色い髪に、彼は顔を埋めて、そして深呼吸した。

また彼からあの香りが漂う。

同時に、彼は彼女から芳る甘い香りに目を細めた。


彼女はわかっているのだろうか・・・


「オレが不機嫌だったのはね、マリナ」

彼は彼女を離さずに言った。

「君が・・・きっと、オレのこの状態について、何も言わないでいるだろうな、と思ったから。・・・オレは君に嫉妬して欲しかったんだよ、マリナ。

でもね、オレは帰邸するときに考えた。

マリナはきっと何も聞かないだろうって。だから、がっかりした。

君の悋気を期待したのに・・・そうはならないだろうな、と予測した自分にうんざりしたんだ」


彼はそう言って、彼女の額にキスを落とした。

希ったものがときの苦悶を、彼はよく知っていた。

それでも、これは手に入らなくても良いと思った。

彼の気持ちに、彼女が気がつけば、それで良いと思う一方で、彼女が自分をどれだけ激しく求めているのかを知りたくなった。


彼は試すことも、測ることもやめたはずなのに・・・・


「でも、君はオレのことを気にかけた。

誰と会っていたかは問題でない、と言った。

説明しないオレに対して苦しいと・・・それだけで充分だよ、マリナ」

「どういうことなの?」

マリナが顔を上げた。

シャルルは彼女に微笑んだ。

そしてくすくすと笑うと・・・

ポケットから、小さな瓶を出した。

「はい、プレゼント」

彼はそう言ってマリナに手渡した。


それは小さな手のマリナでもすっぽりと包み込んでしまえるような小瓶で、「SAMPLE」とシールが貼られていた。

蓋は今にしては珍しく、コルク栓で封緘されている瓶は、中身が半分だった。

「これは・・・」

「マリナの憂鬱の原因はこれ」


彼はそう言って、彼女から躰を離した。

そして、シャツの裾のカフスをはずすと、部屋の隅にあった内線電話を取って、ひとことふたこと接続中の相手に何かを伝えると、すぐに受話器を置いて、戻って来た。


・・・非常に、上機嫌だった。


彼の同慶についてはほとんど判別できないのに。

マリナはこのとき、シャルルが何かに気を良くしたのだと思った。


「さて、これでゆっくり話が出来る」

「何を伝えていたの?」

「今日の外出はこれで終わりってこと」

「え・・・」

マリナはあやうく、手に持っていた硝子瓶を取り落とすところだった。

「だって、はずせない用事だって・・・」

「マリナ」

シャルルは彼女に最後まで言葉を紡ぐことを許可しなかった。

淡い笑いを浮かべて、白金の髪をかき上げる。

秀でた額が見え隠れして、笑いながらその仕草をした時だけ、彼は年相応の青年の姿になるのだと思った。

そしてそれを見せるのも・・・マリナだけであって欲しいと思った。


「オレには、どうにもできない事情もあるけれど、どうにかなる事情もあるんだって、そろそろ、わかって欲しい」

そのために、日々、スケジュールをこなしているんだよ、と彼は言った。

そしてまた、中断していたとでも言うかのように、マリナを引き寄せて、彼女の肩を抱いた。

「種明かしは必要ないの?」

「・・・それは・・・」

シャルルがおかしそうに言うものだから、マリナはそれまでの激昂をどこに納めて良いのかすっかり困ってしまって、彼に抱き締められるままになっていた。


「今日、オレははずせないパーティーがあるって出かけただろう?」

「うん」

「・・・それはその製品の発売決定を記念するパーティーだったんだ。それはね・・・オレが品種改良した薔薇から精製されたトワレ。・・・名前は勿論『ファム・ファタル』だよ、マリナ」


マリナは喫驚して声を出した。

彼が品種改良の薔薇を何種類も作っている。

でもそれは決してアルディ家の薔薇園から持ち出されることはなかったし、どんなに乞われても彼は決してそれらを商品化しようとしなかったのに。


「この薔薇は、香りが強くてね。・・・満開の季節の香りは刺激的過ぎるから、成分を精製して、トワレにしたんだ。もっと淡い感じになるように開発したんだよ。

今日はその記念イベントだったわけ。

・・・・それで、サンプルを回付されたのだけれど、コルクの締め具合が甘くてね・・零れてしまったから、一度着替えに来た」


「それならどうしてああやって誤解を生むようなことをするの。・・・どうして言うのよ」

マリナはシャルルに抗議した。


「ディナーの最中に、付けたばかりの女物のトワレをまき散らしてマリナにキスをするほど、オレは野暮じゃないよ」

だからマリナの勘違いだね、と彼は声を漏らして笑い続けた。


彼はマリナから瓶をもらい受けると、コルク栓を空けて、少しだけ指に取った。

高雅で豊潤で甘い香りが漂った。


ああ、確かに彼が漂わせているのはこの香気だった。

そしてそのまま、細くてしなやかな指をマリナに伸ばして、耳朶の後ろに指先を押し当てた。

一瞬、ひんやりした感触の後、マリナの体温で、ふわり、と何かが沸き立つような初香がマリナの鼻腔をくすぐった。


「だからこれは他の誰かのものではない。それにね、マリナ」

そこまで言うと、彼は瓶をマリナに今一度手渡しながら、彼女を愛おしげに抱き締めて、彼女の背中をそっと摩った。

「君は気付いていないかもしれないけれど・・・君からはこの香りがするんだ」


香気が強い薔薇ができたとき。彼は失敗作として廃棄しようとした。

アルディの家に咲く薔薇たちは、常にファム・ファタルを連想させるものでなくてはならない。

この花はここには副わない。


でも、この香りが、彼のこよなく愛する人に傍近く寄った時に感じる懐かしい芳香の成分を含んでいると知った時。

彼は廃棄処分を取りやめて、その種を残すことにした。

薔薇にしておくには強すぎるから、でも、捨てられないから、彼はそれを別の形に変えることにした。


マリナは自分について、良く知らなさすぎる、とシャルルは言った。

だからこれを彼女に捧げることにした。


「言っただろう。・・・全部を君にやる、と」

シャルル・ドゥ・アルディは薄く笑った。

マリナの名前を冠するものはすべて彼のものであり、それらすべては彼女に捧げられるものなのだから。


それにオレは今日、贈り物をもらったよ。

オレガ欲しいと思うのは、君だけだ・・・

シャルル・ドゥ・アルディは囁いた。


君の嫉妬が欲しかった。

君がオレだけを見てくれないかと思った。

でも君はそれ以上のものをオレに与えた。


この余香は、本当は彼と彼女が溶け合った香りだ。

彼女が合歓の瞬間に最も強く彼に訴えかける、あの香りにいつもシャルルは酔い痴れる。

これほどまでに溺れているのに。


彼女はわかっていない。


その時だった。

マリナは・・・ぎゅっと、彼を抱き締めた。

シャルルの抱合と同じくらい、強くきつく。

彼の素肌に頬を寄せて、良かった、と言った。


強がりしか言えないけれど、私は・・・あなたの背中も胸の中も優しく包む腕も・・・すべてが愛おしい

強く生きてきたあなたの弱さも狂気も誇り高さも、何もかもが愛おしい


彼女は囁いた。

彼に何も贈ることが出来ないけれど、彼女は嫋やかな想いを香気に乗せて、彼に伝えた。


香水というのは、つける者によって違う。経過した時間によっても違う。

でも、この馥郁として咲く、ふたりの創り出す香りは、誰にも模倣することはできない。


彼女は囁いた。

「煙草の香りはいらないわ」

「そうだね」

彼は笑って、彼女にいい?と声をかけた。

シャルルはマリナに接吻を求めるとき。

いつもそうして尋ねる。


彼は少し微笑んで、彼女を見つめた。

「よく似合うよ、そのドレス」

そして頬を寄せて、マリナの顎を少しだけつまんで、薄い唇を少しだけ開き彼女の唇に重ねた。

先ほど耳朶に触れた側の指で彼女に触れたから、ぱっと強い香気が彼らを刺激した。


「・・・ディナーどころじゃない」

シャルルはそう言って、妖しく笑った。

たまらない甘く香る誘いを彼はそのまま受け入れることにした。

彼女に、ダイニングに戻れという気持ちは失せた。

腰を落として、彼女の首筋に顔を埋めると、シャルルは怪訝な顔をするマリナに囁いた。


「マリナ・・・・君からもうひとつ、贈り物をもらおうかな」

彼はそう言うと、彼女の背中に手を回して、ファスナーを一気に引き下ろした。


「シャルル・・・!」

マリナが声を上げる。

「シャワーを浴びるのでしょう」

「いいや・・その前に、マリナ、君の余香を味わいたい。これは許可を求めないよ」

彼は先ほどの接吻を求めたときと違うと、宣言をした。


この後の外出は中止だ。

そしてディナーも後だ。

イベントと称した今宵も・・・みな、マリナにやろう。


その代わり、オレの欲しいものは・・・ひとつだけだから

彼はそう言って、シャツを完全に脱ぎ捨てて、マリナの素肌に彼の肌を重ねる。

これから、開発した商品がオレの指示通りに仕上がっているか、検品しなければならないね。

そう言って、彼はまた・・・この上なく美しく微笑んだ。

その笑みは、マリナにだけしか見せない、年相応のシャルル・ドゥ・アルディの貌だった。



FIN




余香【白夜】

余香 【白夜】


シャルルは微笑んだ。

魅惑的で、かつてはこの笑みを間近に見た者は男女問わず彼に見惚れてしまった美しい微笑みだった。

今はたったひとりだけにしか向けない解顔だった。

マリナは彼のその表情の意味を解して、言葉に詰まった。

青灰色の色素の薄い瞳が彼女をのぞき込んだ。

彼のこの妖しい燦めきは、合図だ。

彼女にいつも、いい?とキスの許可を求めるシャルルではなかった。

残香とはとうてい言えない閑雅な空気に酔ったような、そんな表情を浮かべていた。


マリナは慌ててシャルルの名前を呼んだが、彼はそれを無視して、彼女の肩を抱き、強く抱き締めた。

そして、とても小柄な彼女を、彼の長身ですっぽりと覆ってしまう。

加減をしないと、彼女を壊してしまいそうになる。

恋の眩暈とでも言うべき甘美な軽雷が彼の躰を駆け巡った。


マリナが彼の名前を繰り返して呼び、彼の情動を窘めるために声をかけた。

シャワーを浴びてきて、とマリナが言ったが、彼は可笑しそうに首を横に振った。

その命令は従えないね、と言った。


「このままで・・・」


最後まで言葉を言わなかった。

それだけで彼女には伝わったはずだった。

マリナがちょっと待って、と慌てて彼の胸に両手をあてて、押しとどめようとしたが、シャルルは雄健な頬を傾けて、マリナの唇をいきなり塞いだ。

外出後時間が経過しているはずなのに、彼の唇は少し冷たかった。

何度となく交わした接吻の序次であるのに。

彼女は今でも躊躇いがちに、そしてそれでも少しずつ受け入れる。

彼女が閉じていた唇を少し開き、シャルルを受け入れる許可を出すと、それを待って居たシャルルは滑らかに彼女の内部に訪れて・・・そして彼女の濡れた舌尖を越えてもっと深くまで入り込み、彼女の声さえも攫っていくかのように、どこまでも深く激しく割り込んでいく。

二人は激しく絡み合った。



この過程をシャルルは愉しんだ。

だがしかし、余裕があって愉しむのではない。


彼は・・・今でも彼女が腕からすり抜けて、どこかに行ってしまうのではないかという軫憂が消えることがない。

こうして強く抱き受けていないと、彼は彼女の存在を確かめることが出来ない。


「おかしいよ」

と先ほどマリナに言われたときには自分はもう、狂っているのかもしれないと思った。


恋に狂う。

愛に堕ちる。


どの表現もすでにシャルルの中では陳腐な表顕だった。

だから彼女に言葉を選んで伝えようとするけれど、彼女はいつも・・・そんな彼に「良いよ」と言う。


光とも影ともなろうと言った彼女が・・・

自分を常に照らし続ける。

狂気を吸い込んで、清麗な空気を運んでくる。

その言葉がどれほど深いものなのか、彼はよく知っていた。


自分がどこまで彼女を求めているのか・・・

どうしたら・・・どうしたら気がついてもらえるのだろうか。


この香りが彼を狂わせているのかもしれない。

どうしても捨て去ることの出来なかった香り高い薔薇から精製された、彼女と彼の混じり合う香気。

誰にも再現することの出来ないそれを、彼は彼女に贈った。


ものはいらない。

オレが欲しいものはひとつだけだ。

それさえあれば他はいらない。


独りよがりの狂愛かもしれない。

それでも良いよとマリナが言う限り・・・・この愛をやめはしない。

いや・・・マリナが嫌だと言ってもやめるつもりはない。


気がついていたんだ。

マリナがいつも・・・・微睡む彼の頬にキスをすることを。

それが彼女の愛であり、自分の愛と違うことも。

だからこそ、君はオレのファム・ファタルなのだから。


シャルルは眉根を寄せて・・・

マリナに口吻し続けた。

言葉にすることのない想いを彼女に伝えきれるように。


同時に、マリナの白い肩にあてていた掌をゆっくりと伸ばして、背中に回す。

「シャルル・・・」

マリナが唇を離した瞬間に、彼に困ったように声をかける。

「ああ、君はもうちょっと別の言葉は言えないのかな」

彼は薄く笑い、そして彼女の躰に自分の躰を圧着させると・・・・そのまま彼女が動けないように、マリナが壁に背をあてて逃げられなくなるまで彼女を追い込んだ。


「ここではいや・・・」

彼女の腿にシャルルが手を伸ばした時、マリナが小さく呻いた。

反対側の手は、マリナの房にやわらかく触れた。

嵩ばりが徐々に・・・柔らかさを失い、シャルルが手の平にそれを収めて指を沈ませると、すでに少し汗ばんでいた。

手の平に吸い付くような手触りだった。

彼女の声が少しだけ震えていた。

シャルルは黙って、と甘く低いテノールで囁いた。

彼女をベッドルームまで連れて行くまでの間がたとえ短い時間だったとしても・・・この情動をここで中断することはできない。


唇を首元に寄せる。

先ほど付けたファム・ファタルの香りが一段と強く香った。

「マリナ。・・・・こんなに香り立つほど体温が上がっているのに、それでも君はいやだと拒否するの?」

それは無理だね、と彼は笑った。


シャルルは長身を屈めて、彼女の首筋を滑り、マリナの胸元に貌を寄せた。

彼は狭間に顔を埋めて、そして彼女に愛撫を開始する。

彼は唇を開いて、今度はマリナの裾野から孤を描きながら舐め上げていく。

そして頂点に辿り着くと、尖端で慄えているマリナを湿して吸い立てた。

それまで柔らかかったのに、そこはあっという間に、強い弾力を持ち始めて、同時に熱を帯び始める。


「ん・・・・っ」

マリナが震えている。

しかし寒さからではなく・・それはもっと別の震えだとわかっていた。

もっと啼いてオレを求めてくれ、とシャルルは思った。

そして思うがままに彼女の胸元を貪ると、今度はゆっくりと・・・彼女の少し開いた唇に人差し指と中指をあてて、そのまま、顎から首筋をとおり、鎖骨を抜けて、彼は愉楽に戸惑っているマリナの躰の上部から、自らの指を下降させていった。

指の腹ではなく・・・・もっと微細な刺激が伝わるように、彼は少し爪を立てて、彼女の象牙色の肌を傷つけないように、軽く引き下ろしていった。

悲鳴なのか咨嗟なのかわからない震え声がマリナの口から漏れる。s

マリナが総身を震わせた。

今までにない感覚が、彼女を激しく急速に、高みへと誘う。


マリナの茶色の瞳が、切なさそうに潤み始めた。

先ほどの激昂による涙ではない。

彼女は・・・感じているのだ。

彼の慰撫を受け入れている。

シャルルは満足そうに目を細めた。


そして太腿まで到達すると・・・・

彼女の下着を引き剥いだ。

彼が贈った今宵のドレスは、はるか向こうの・・居室の中央の床上で静かに役目を終えていた。

肩紐を失ったものの、かろうじて肌を隠していたが、激しく上下する躰の隆起によって、今にも剥がれ落ちそうだった。

マリナの片脚を掴み、シャルルは膝下に腕を差し入れて、マリナの躰を開くために、片脚を持ち上げる。

彼女はバランスを失って、残ったもう片方の足をつま先立てた。

シャルルは腰に手を回して、彼女の首筋に赤い花を落とし始めている最中だった。

・・・・狂おしいほどの香りが、マリナから匂う。

彼女に・・・薔薇を植えることに没頭していた彼は、マリナがそっと・・・彼の肩に手を置いていることに気がついた。


顔を赤くして、瞳はぼんやり虚ろになってきている。

全身は熱を帯びて、そして慣れない体勢で壁際に追い込まれているマリナに・・・シャルルは微笑んで、もう一度深く接吻した。


マリナ。

オレを鎮めてくれ。

でも・・・まだだ。


シャルルは自身の腰を彼女に重ねた。

昂ぶり硬起するものが服越しに彼女に縋る。


彼は彼女の脚の付け根から・・・・

一気に彼女の中心に手を入れた。

マリナが呻く。

もう、シャルルによって力を失い、擡げるだけの躰を、支えきることができていなかった。

彼女のあわいに細く長い指を踏み入れる。

そこはすでに花蜜が溢れていて、彼の指先は濡った。

柔らかな繊毛を梳き上げ、うるみ湧く花弁を摘み取る仕草に、マリナがついに堪えきれないと言った。


「ダメだ・・・マリナ、オレの指にこたえて」


彼はそう言うと、苑の入り口で戯れていた指先に力を込めて・・・一気に彼女の胎に入った。

あえかな木の芽に、勁風をもたらしたので、彼女は踵立ちの姿勢で、そのままぶるぶると篩えだした。

自分の声でないような・・・声とありえない温みの音を漏れ聞こえて、マリナがぎゅっと目を瞑った。

シャルルのゆとりが恨めしい。


懇願に近い状態で、マリナはやめて、と言った。

「シャルル・・・・ダメ・・・やめて」

彼女は彼の肩に額を乗せて、凭れた。

甘い香りが飛び散る。


・・・これはあのトワレの香りと・・・シャルルの香りだ・・・


彼の腰元から強烈に香りが揚がった。

先ほどの、零してしまったと言った余香が、彼の体温で変化したのだ。

いや・・・それは自分に加えられた香りが、昂揚で転化したのだろうか。


どちらにしても、最初とは違う、その官能的で甘い痺れに彼女は我を失いそうだった。


彼が欲しいものはひとつだけ。


でも、それはマリナには与えることが出来ない。


彼の愛し方と自分のそれは違う。

彼と同じ愛し方ができないから、絶え間なく・・・彼の元で囁き続ける。

時には声を大きくして叫ぶ。

それでも伝わらない言葉には、この余香のように・・・・マリナとシャルルが混じってできる違う愛を作っていけばいい。


互いの発する香気が混じる世界に沈降しながら、マリナは彼の激しい愛を感じていた。


「マリナ・・・」

シャルルが愛しい人の名前を呼んだ。

朝露に濡れた花芯を宿したマリナに、さらに芳しい潤を加えていたシャルルが、秀でた額を彼女の額に押しつける。

このまま彼女をここで乱して散らしても良かった。

けれども、彼はそうしなかった。

そして、突然、彼は彼女から躰を離した。


短く荒く呼吸するマリナは、天巓に行き着く前にシャルルが突然躰を離したので、平衡を失って、彼の胸に倒れかかった。


「な・・・に?」

マリナは何があったのかわからずに、ただぐったりとシャルルに凭れているだけだった。

彼は彼女に意地悪く言った。

「マリナがやめてというから。中断した」

マリナが少しだけ口を開き、そんな、と言った。


「そんな・・・?やめてくれといったのはマリナだよ。

 オレは相手が厭がることはしない主義でね。相手にもよるが」


先ほどまで、猛々しい情焔を鎮めることができないと言った彼は、彼女の足元に落ちた肌着を引き上げて、彼女に肩紐をかけてやる。


「マリナ・・・ディナーに戻れ。だいぶ、冷たくなっていると思うけれどもね」


冷たくそう言い放ったシャルルに、マリナが唖然とする。

だんだん・・・頭の芯が冷えてきて、シャルルが今までの愛の囁きをやめてしまったことに呆然とした。


「え・・・」

マリナが唖然としてシャルルの顔を見た。

彼ははだけたシャツと香りが強く残る服に顔をしかめて、シャワーを浴びてくると言った。


そしてまだ微盪するマリナをソファに座らせると、服を着るように、とシャルルは促した。

そして彼女をちらりと見ると、意地悪く微笑む。


「マリナの望み通りの予定だよ。

 ・・・オレの支度ができるまで待てるなら、一緒にとっておきのワインでも飲もう」

「・・・酷い」

「何が?」

ここで、ようやく、マリナはシャルルが意地悪を言っているのだとわかった。

本当に底意地が悪い。

「それとも・・・・今の続きが良いのかな。いやだ、と君は言ったのに」


・・・・オレの一番ほしいものは、君からの言葉だよ


シャルルは、そう言いたそうに整った顔を緩ませた。


「この試作品がオレの指示どおりの作になったことは実証できたからね」

彼がたたみかけるように言った。

「さ、躰が冷えるから、早く支度をして・・・・」

「・・・・・い」

「聞こえない」

マリナの赤い顔を見ながら、彼はソファに座る彼女に跪いた。

彼が跪くのはたったひとりだけだ。


「・・・・マリナ、もう一度」


彼が欲している言葉は何なのか、マリナにはわかっていた。

でも、決して、その言葉を彼女が言うことはないとシャルルは知っていながら、あえて乞うているのだ。

そして彼女にそれを言わせるために、途中で躰を離した。


彼女は深く息を吸うと、低く囁いた。

茶色の瞳を摘むって。

余香が彼女から薫る。

そして、彼が待ち望んだ言葉を言った。


「・・・・素晴らしい贈り物だよ、マリナ」

シャルルは切れ長の瞳を一瞬細めた。

そして、切ないほど美しい笑みで、マリナを見つめた。


「三度は繰り返さないわよ」

マリナは怒ったように言った。

「・・・・オレは二度は繰り返さない。

 だから・・・・」

彼はそう言うと、彼女の躰を引き寄せてきつく抱擁した。


今度は、彼は彼女にいい?と聞いた。


彼女は顔を真っ赤にして、それでも、良いよ、と小さく頷いた。

良いよ、という場面でないだろう、とシャルルは苦笑しながら、彼女に唇を寄せた。


余香が誘った、彼が欲して止まなかった彼女からの交歓の申し出。

これを断るつもりも、これを撤回させるつもりも毛頭なかった。


彼の獣焔は鎮まっていない。

だから、今夜は、彼が愛し足りたと思うほど、マリナに付き合ってもらうよ、と言うと、マリナが、それは無理だと言ったので、彼は、それは承認できないな、と言い返した。



もう二度と、彼女の手を離さない。

もう二度と、彼女と愛をすることを躊躇わない。

もう二度と・・・・


混じり合う吐息と一緒に付随する彼と彼女の合歓の証は、言葉や肌の熱さだけではないことを知った。


マリナは言った。

もう繰り返さないと言ったけれど、シャルル・ドゥ・アルディは何度でも囁いて欲しいのに、と願った。


彼女は言った。



あなたが欲しい・・・

あなたの余香が欲しい・・・・



(FIN)




精霊 2012

01

 

今年もこの季節がやって来た。けれども、今夏は少しばかり季節の訪れの時期が違っている。

昨夏は大変な酷暑であった。連日のうだるような暑さに蝉の鳴き声が夜まで続き、盆地のこの土地では普段の涼の取り方では過ごしきれないほどの熱波が訪れて、いつになったら秋がやって来るのだろうかと誰しも思ったはずであった。

それに比べて、今年は若干、涼夏であると言っても良いのかもしれない。

夏の終わりの気配を、もう、感じ始めていたからだ。夜には虫の音が聞こえ、風向きの変化を感じる。朝には空が白む様子がはっきりとわかる。上空に乾燥した空気が流れ込み始めているからであった。入道雲も位置が違うように思えるし、夏の果物や野菜なども旬を越えたという味がした。

 

弾上藤一郎宗景静香は、こうして夏を過ごして幾度目になるのだろうか、と思うが数えないことにしていた。数えても、家族は戻ってこないし、数えても、年月の遠さを感じるだけだからである。

前向きに生きるために忘れる、というのではなくて、思い出にしがみついて過去を振り返ってばかりではいけないのだと思った。

 

失って、慌ただしい日々を送っていた頃には、何かを考える余裕などはなかった。

だが、しばらく経過すると・・・様々に、思い出という名前の記録が彼の中で自動再生される。

それは順を追って、というものではなく、まったく関連のない時に、関連のない記憶が甦る。

家族が全員揃って、幸福であった期間はごく僅かであった。

静香の両親は彼が幼い時に離婚し、母は彼が少年という年齢に達するか否かという時期に他界してしまった。だから、母親の記憶があまりない。その後、父に引き取られて、改名し、弾上藤一郎宗景静香として生きてきた。

だからもう、ここで暮らしている年月は、この土地を離れて暮らしていた頃より遥かに長かった。

若き当主を支える地方の名士や遠縁の者たち、卒業後に巡り合わせで地方に後見するような職に就いた彼の地元の友人達など、多くの者によって彼は現在、ここに居る。

ひとりでここまで生きているとは思えなかった。

逝った者たちに恥ずかしくないように、この名前に恥じないように、強い気持ちで日々を過ごしている。

 

それでも、結婚はしないのか、という問いには答える事は無かった。

舅姑がおらず、地方ではあるが旧家の嫡男ともなれば、様々な縁談話が持ち上がる。彼を担ぎ出して政に参加しないかという者も出てくる。

けれども、彼はそう言ったことは今は考えていないということだけはっきりと言う事にしていた。

家族を持つ、ということがどういう覚悟があってのことなのか、彼は多少なりとも知っている。

けれども、まだ、誰かひとりだけを深く愛して、その人物をここに住まわせて未来を語り合うという自分が居てはいけないのだろうと思った。

彼の中では、まだ、思い出になりきれていないものが多すぎた。過去に固執しているのではなかったが、まだ、この状況を維持したいと思っているのは彼の本心であった。

 

特に、毎夏訪れる騒がしさについては、彼は渋い顔をするものの、どこか心待ちにしている。

それとなく客人が来るための用意をしたり、夏の日持ちするような菓子を取り寄せたり・・・決して豪奢ではないがかなり高価な器を、同じものを出さないように記憶を手繰り寄せながら選ぶというような、細々した作業を無言で受け入れる。

彼はそういったものに心配りをすることができないのではなくて、そうする必要がないからそうしていないだけだということを、あの茶色の髪の茶色の瞳の人に知らせてやるのだ。

 

こういう賑やかさは嫌いではなかった。ただ、騒がしいということではないからだ。夜には眠り、朝には目覚めの挨拶を交わす。時計を見ることが殆ど無い数日間を、彼はとても大切にしていた。

 

そうして準備が整った頃。

静香の幼少期を知っている者や、彼の幼い友人が彼の家に集ってくる。

招待しているわけでもないのに、毎年そうやって過ごすことが当然であるかのようにやって来る。

何もかもを忘れ、何もかもに笑う。

やり直しているような気にさえなってしまうような、そんな夏があるからこそ、彼は日々を過ごしていられるのかもしれないと思った。

 

・・・茶色の瞳のあの人と過ごした時間はとても短い。

だからこそ、一瞬一瞬が凝縮されている。かつ、それらは毎夏更新されていく。それが永遠ではないことはわかっているが、今は、彼の拠り所のひとつでもあった。自分の中の何かが・・・彼らとの疑似家族の体験を望んでいるのだろうと思う。

 

そして、また、今年も夏がやって来た。

 


02

 

「ちょっと、美女丸、聞いているの?」

マリナ・イケダの言葉に、彼は目を片方だけ細めて、締まった頬を動かした。

今夏も、やはり、彼女が最初の到着であった。

というよりも、日付を指定しないでふらりとやって来る彼女には、最初も最後も存在しない。

この声を聞きたかったのだ、と言えば・・・白金の髪の青灰色の瞳のあの男は、嫌な顔をするだろうか。

彼の中では、残酷な期間であったかもしれない。けれども、どうにも忘れられない日々であった。

妹を失い、父を失い・・・まわりの人間を失って、それでもマリナは傍に居た。

本の短い期間、一緒に居たという縁であったのにも関わらず、彼女は時間の長さと新鮮さではないのだと快闊に笑い飛ばした。

彼女のその強さはどこから来るものものなのだろうか。彼も、その強さを持ち得ているのだろうか。自分が弱いと思わないが、強いとも思っていないし、特別であるとも考えていない。

 

餓えているのかもしれない。そう認識する。

駆け引きのない会話、対価を要求されない笑顔の往来・・・少年の日々に味わうべき他愛のない経験の数々を・・・・彼は、今になってようやく自分の糧にしているのだ。

 

「聞いていないのでしょう」

恨みがましく、マリナは静香の目の前に立ちはだかった。そして、彼の腹を両手の腹で軽く押した。

マリナは今朝から訪れているが、その来訪を彼は知らなかった。

所用があり、外出していたからだ。

時差の関係で、彼女は驚くような時間にやってくることがある。

朝、ここに入ってきたことはまったく知らなかったが、玄関先で散乱する荷物の数々から、来訪を知った。少し休ませてやろうと思い、客間に足を向けることもなかった。

・・・眠っている彼女の顔を見て、ただ、見るだけで終わりそうになかったからだ。

 

今夏は、特に、彼女の寝顔を見ることはしないと決めていた。

幾度も宿泊を許していたが、彼女はいつも大切な客人であった。

一線を越えるつもりはなかったし、そういう感情の対象であってはならなかった。

不可侵の掟がそこにはあった。彼女を見つめる。ただ、それだけが彼のこれまでを埋めて、彼のこれからを彩るのだろうと思う。

 

・・・彼女の成長を思う度に思う事がある。

妹のことだ。

彼女が育っていれば、どれほど、この土地の若者を魅了したのだろうか、と思う。

我が侭で、時々彼を困らせた彼の妹は、それでも彼の大事な妹であった。

母の若かった頃の笑顔を思い出す。

父はそれを見て微笑んだ。彼は、別れても母を思い出にしなかったのだろうと思った。

何もかもが解決したときに、妹がなぜ生き返られないのだろうかと思った。

父は戻って来ないという覚悟があった。

予感があった。

何かに巻きこまれてしまったのだろうという事実を受け入れられた。

そして、母ももういない。

 

確実に失われていく命を見つめた。

そして、突然に失われた命も見た。

 

だからこそ、マリナ・イケダの命が眩しい。彼女は、いつも正直で、朗らかで・・・彼が惑っていることが小さなことだと思わせてしまう。

 

いつになく、マリナ・イケダが憤っていることに気がつく。

人の心の機微には疎い静香であったが、それでも、彼女が大変に憤慨していることがわかった。

「なんだよ・・・オレの家で不満を漏らすのなら、はっきりと言え」

目の前で、静香を見上げているマリナは、とても幼かった。

同年齢とは思えないほどに、彼女は若い。

そして、マリナは静香に対して遠慮が無い。それが、彼を安堵させている。

姫宮美女丸と言われた時の彼と、弾上藤一郎宗景静香と言われる彼がまったく変わりが無いことを確認できるからだ。

名前が変わっても、彼は彼であり続けた。けれども、彼はそれを確信できない。

しかし、彼女と一緒に居るだけで・・・彼女が静香を「美女丸」と呼ぶだけで、この場所に立っていられるような気がするのだ。

 

そんな彼女の前で、静香は首を傾ける。短く切り揃えられた髪は昔のままに、眼光鋭く彼はマリナ・イケダの言い返しを待つ。

 

いつもの通り、彼女はやって来た。相変わらず、予告のない来訪であったが、それは予定のうちであることには間違いない。

マリナ・イケダが訪れることによって、彼の・・・遅い夏が始まる。

そんな夏の陽のような人は、静香が戻るなり、少し勢いをつけて言った。

玄関先の、待ち間で座り込んでいた彼女は、彼の足音を聞きつけて耳を欹てる猫のように、むっくりと立ち上がって、いきなり切り出したのだ。

おかえり、とも言わなかった。彼女が戻る場所はここではないのだと思い知る瞬間に、彼の胸が強烈に締め付けられていることを、彼女は知らない


  03

 

「オレは勝手に上がっても良いという許可を出した覚えはないが」

静香は低い声で言った。

彼女はいつの間にか、この家に入り込む為の術をいつの間に覚えたのだろうか。不幸な出来事のあと、この家の出入りはそれほど緩やかではない。地方とはいえども、簡単に気軽に入り込める場所ではなかった。

「・・・ずっと待っていたのに」

「それなら、連絡くらいしろ」

互いに簡単に連絡できる手段を持っていない。

静香が携帯電話を持たないのは、それに束縛されたくないからだ。誰かに呼び出しをされても、彼はそれで誰かのために自分の行動を変更することはしない。それは、あの白金の髪の人と同じ感覚なのかもしれない。けれども、それは口に出して認めない。

 

・・・久しぶりに見るマリナ・イケダは、少し前髪が伸びて、左右にわかれていた。ただ、それだけのことであったのに、それだけの年月を感じてどこか落ち着かない。

白い額が見えて、彼はあらぬ方向に視線を向ける。ここは彼の家であるのに、間違って違う場所に入り込んでしまったかのような錯覚を覚える。

 

どういうわけなのか・・・今夏は、特に、彼の失ってしまった家族のことを思い出す。

マリナ・イケダがそれを呼び込んでいるのだろうか。それとも、彼が・・・マリナに対してそのような期待を持っているからなのだろうか。

どちらにしても、目の前のこどものような人を見て、彼はただ、肩に力を入れてしまう。

「私、随分美女丸のことを待っていたのに」

「待っていると聞いた覚えも、待っていろと言った覚えもないが」

美女丸はそう言って、履物を脱いだ。乱雑であったかもしれない。そういう瑣末なことからして、彼の気に入らない始まりであった。

 

彼女の脇には、いつもと同じ様に、たくさんの画材道具が詰まった鞄が置いてあった。けれども、たくさんと言ってもそれは彼女が担げる程度のたくさんという意味であった。

マリナはそれだけあれば、どこにでも行けると笑っていたが、本当にそのとおりであった。彼女の必要最小限と最大限というものは、その袋ひとつで済まされてしまう。

捨てきれないものが増えてしまった自分の方が、どんどん、重たくなっているような気がした。かつては、そんな彼女のために、何もかもを・・・この家に戻ってこられなくなることを覚悟しながらも、旅立ったこともあったのに。

 

待っていたとは言わなかった。彼はいつも、彼女の来訪を確認しない。なぜなら、彼自身が思わぬ時に現れる彼女が、いつ現れるのかを待っているからであり、そして彼女は予定通りに行動することはしない人だと承知しているからだ。

それでも、彼女はいつも真っ先にやって来る。最初に、彼に逢いに来る。

 

「お前がなぜ、それほど怒っているのかオレは理由を知る権利があると思うぞ」

「権利」

マリナは顔を上げて立ち上がった。頬が紅潮し、彼女が昔のままの怒り顔で彼に向かって行くが見えた。

出先から戻ったばかりの彼に、家の中から吹き付ける涼風が汗を鎮めていく。

 

今夏は秋の訪れが早いとはいえ、それでもまだ外気は十分に暑かった。

板張りの床の上で蹲っている茶色の髪の人が立ち上がっても、それほど脅威にはならない。同じ床上で仁王立ちになっている彼の目線のはるか下で、彼女は唇を尖らせて憤懣を溢れさせていた。

「美女丸はわからないの?」

「わからないだろ」

彼の答えにマリナが一瞬何かを言おうとして、口を半ばまで開けた。

 

美女丸の気短はいつものことである。けれども、今回ばかりはマリナは適当に受け流すことをしなかった。

・・・仕掛けてきたのは彼女の方からである。

 

静香は喉元に手をあてて、着物の襟を正した。

音も立てずに、一足前に出る。

 

彼の足捌きから武芸の達人の域に達していることはわかる。

今夏も、滞在中にはあの少年の稽古に付き合ってやるつもりであった。

くれぐれも、指や腕を怪我させないようにとマリナ以外からも注意されていたが、体力あってこその日々であることを、少年も静香も知っているし、それほど脆弱な成長ぶりではなかったはずだ。

もう、マリナの背を越して久しい。彼もそうであった。

彼女だけが、変わらない。

いや、見目もだいぶ変化したが、彼女を見ていると昔の自分を思い出すのだ。

そして、少し、後悔する。

 

もっと、優しくしてやれば良かった、とか。

もっと、語り合っておけば良かった、とか。

 

母を失った時にも感じたものであるが、最近は殊更に、父や妹のことなどが思い出される。


04

 

感慨深く、庭を巡って来て戻った矢先のことであったので、更にこういう話をされることに困惑する。

「いきなりやって来た客が、難癖つけてオレに喧嘩を吹っ掛けてくるとは良い度胸だな。褒めてやろう」

彼の家の造りは風通しが良く、外気よりもずっと涼しく感じる。特に、外から戻ったばかりの彼にとっては、この空間はとても冷涼であった。

汗も自然に引いていくが、はやく身体を拭かなければ失調することもある。

それほど体力に自信がないわけではなかったが、それでもマリナを湯に入れて、同じ様に体温調節させなければ、彼女の方が具合を悪くしてしまうだろう。

そんな彼の思惑をよそに、マリナがいきなり穏やかではない物言いをしたものだから、静香の腹立ちが一気に音を立てて沸点を越えてしまったのだ。

 

ぎらりと、睨みおろすと、彼の短髪の下で額と眉が動いた。

「美女丸、私に隠していることがあるでしょう」

こちらに立ち寄るまでに、あちこち放浪したのだろうか。少し日に焼けている顔を、彼に向けてマリナが言った。

 

昔、彼女は転居が多かった。

ひとつのところに長く滞在しないという家庭の事情であったように記憶している。

が、彼女がその後も同じ様にしていろいろな場所へ出歩いていることは過去の体験に影響していることなのか、彼女の放浪癖が芽生えてしまったのか、どちらとも言いようがなかった。

 

「お前に隠すようなものは何もない」

そもそも、風来人のマリナにそのような事を言われる理由が理解できない。

「嘘」

「おまえ、誰に向かってものを言っているんだ」

「姫宮美女丸と言う名前の、分からず屋」

ぎらり、と彼の眼光がさらに鋭くなった。きつい眼差しに凄みが加わる。年齢を経た分だけ得た様々な経験が、彼の気質をほんの少しだけ丸くしたと思われたが、それがあっさり元に戻ってしまったような、そんな険しさであった。

「マリナ」

彼の顔つきがますます険しくなった。

「オレと勝負したいというのなら、今からでも道場に来い。手加減しないし、今日という今日は、決着をつけてやる」

何の決着かは言わない。けれども、売られた喧嘩は流さないのが静香のやり方であった。相手にしないというのは相手への礼を失することである。全てを受け止めることはできないが、マリナが静香に憤っていることが何かを口に出さなければ、そう言うしかないと考えていた。

マリナは首を横に振る。

「結構です」

「だったら、理由を言え。戻って来たばかりのオレに、このままここでずっと立たせるつもりなのか」

彼の我慢の耐久時間は人より短い。

それを知っていながらも、こうして回りくどい言い方をするマリナ・イケダに責がある。今にも、マリナの襟首を掴み上げて引き摺り回すような勢いであったが、マリナはそれに怯えることはなかった。

 

・・・彼女は頬を膨らませて、彼を見上げた。

大変に小柄な人物であるので、彼女は天を仰ぐような角度で彼を見ている。

どのくらい、そこに居たのだろうか。

彼女は、彼の帰りを待って、どのくらいここで待っていたのだろうか。

いつものように部屋を用意してあったし、毎年同じ部屋を使わせていたから彼女がこの家の勝手がわからない、ということはない。

しかし、彼女はどんな気持ちで・・・ここで蹲り、獣のように耳を欹てて、彼の足音を待っていたのだろうか。

 

・・・どうにも、今夏は妹のことを思い出さずにはいられない。

彼女も幼い時にはそうして彼を待ったことがあった。

家庭的であったとは言えない家であった。

母が逝去したことによって父に引き取られ、納得のいかない煩悶を抱えた時期もあった。自分はこの家で必要とされているのかどうなのか、わからなかった時にいつも思い出すのはマリナ・イケダという小さな同級生のことであった。

鬱屈した時には、本気で言い合い、本気で喧嘩し、本音だけしか往来しなかったあの日々のことを思い出してばかりいた。

言いたいことの半分程度しか言えなくなり、大人になった今では、彼の自由にならないことの方が多かった。

何かを決めることができるということは、何も決めることができないものの存在を認めるということなのだ。

 

・・・あの白金の髪の男も、それを知っているからこそ、マリナを自由にさせているのだろうと思う。

静香がそうしているように。


05

 

彼が外出していたのはそれほど長い時間ではない。

いつも、彼女は、使用人達の数が少なくなっている時であるか、不思議なことに人気が殆どない時にやってくる事が多かった。

まるで、彼女の訪れを、待っていたかのように。

何かが、迎えいれるために静寂を用意しているかのようであった。

 

つい先ほどまで外に出て巡っていた人々の喧騒は、毎夏の通りであった。

それなのに、この家に戻ってくると酷く静かで・・・彼女の訪れを気配で感じる。

説明のできない感覚であるから、誰にも言っていないことであった。

しかし、血縁でもなく恋人同士ということでもなく・・・それなのに、彼女に関して感覚がこれほどまでに鋭敏になるのは、なぜなのだろうか。

 

「私、美女丸のこと、とても大事に思っているのよ」

彼女はおもむろに、そう切り出したので、今度は静香がその言葉に無言になった。

そう言われた後に、何をどう切り返せば良いというのか。

 

その言葉に返答し、自分もそうだとは決して言わない。

ひとつだけ確かなことがあるから。

本当のことを言ってしまえば・・・毎夏訪れる彼女との時間は終わってしまう。

それだけは確実であった。

だから、いつも正面から受け止めることにしていた静香の例外に相当するのだ。

こればかりは、譲れなかった。

どれほど詰られようとも、どれほど煽られようとも。

 

「だから、私に隠れて・・・こっそり何かをしようとするのは、もうしないと約束して欲しいの」

彼女の口調は真剣そのものであった。

静香は声を出さずに呻いた。彼女は昔の彼の行動をあれこれ言うことは無かった。

あまりにも何も言わないので、彼女は今でも、彼のとった行動を許していないのかもしれないとさえ思う時がある。

「マリナに隠れてするような事が、今のオレにあるのか?」

彼が唇の端を歪めてそう言ったので、マリナ・イケダは唇を突き出して、ますます幼い顔になってしまった。

彼女に今の自分の心の蟠りが晴れやかにならないことを訴えても、何の解決にもならない。

「よく考えてみなさいよ」

「よく考えなくてもわかる」

彼は腕を組んだ。

目の前の茶色の髪の人は、静香と喧嘩をしたいのだろうか。支離滅裂と言い切る以上にまったく理解できない。

 

静香はマリナの様子を眺める。久々に会う彼女と再会を喜ぶ会話で始まることはなかった。

だが、それはいつものことだ。

彼女は、彼に夏の嵐をもたらす。

約束をしないのけれども、彼女はいつも同じ時期に現れる。

今年は少し遅かったのかもしれない。

それでも数日しかずれがないのは、彼女の中でもこの時期が特別であるからなのだろうと思う。

静香の年間予定に入るようになって、どれくらい経過するだろうか。

・・・突然現れて突然に始まる夏のひとときを、彼はいつしか楽しみに待つ驚きとなっていったことを認めざるを得ない。

終わってしまうことを惜しむ始まりではなかった。また次を予感させるからである。なぜなのだろう。

次を約束しているわけではないのに、何も言わなくても次があるのだと思えてしまう。

それは、彼女が「またね」という言葉を口癖にしているからなのだろう。

 

「来るなり、一体何をそんなに拗ねている」

溜息混じりにそう言った。彼女は長旅で疲れている。

夏のこの時期に、いつも決まって予定を確保しておくというのは、互いに楽な作業ではなかった。けれども、この時期があるから・・・彼は今の彼を認めることができる。流されているわけではない。誰かが自分のことを考えて居てくれる。それだけで・・・彼の憶測にある、夏でも溶けない氷のような何かが、ゆっくりと溶けていくような気がした。

 

自分の生命に危機が及ぶような場所に行ってもなお、命は惜しくなかった。

けれども、この時期を失ってしまうことは惜しい。

マリナは眼を瞠り、彼を今一度睨み据えた。マリナ・イケダには偽りは言わない。彼女にごまかしはきかない。

マリナは言った。

彼の思いもかけないことを、思いもかけない勢いで。

大きな茶色の瞳の瞬きはゆっくりであった。そ

して、茶色の髪はいつもと同じ様にふわりと綿菓子のように軽やかでそれでいて彼女の顔を縁取っている。

肌理の細かい肌は、相変わらずであったが、彼女が自分の容姿に入念に手入れを行っているからなのではなく、それは・・・彼女が愛し愛される存在が居るからなのだ。


06

 

「美女丸は、去年の約束を忘れているわ」

マリナがそう言ったので、彼は、首を傾げる。

何を約束したのだろうか。

昨夏も様々に騒がしい人物達と多くの言葉を交わしたので、そのひとつひとつについて全部を記録しているわけではなかった。

記憶力が劣っているということではないが、当主としてもてなすべき事柄について考える方が優先されたのだ。

 

特に、昨夏は暑かった。

酷暑と言っても良いほどで、珍しく、この家でも冷房を絶やさなかった。

しかし、暑いからこそ夏なのだと言い張るマリナだけは、その暑ささえ満喫していたようであったが。

冷房の効いた部屋の中で快適に過ごすというのはここでは考えて居ないらしい。

彼女らしいと言えば、確かにそうであった。

贅沢に慣れたかと思えば、彼女はそういうところで季節の移ろいを忘れないように身体に刻むことを忘れない。

 

それが、彼を懐かしくさせる。

それが、彼の記憶や想い出を蘇らせるのだ。

 

「ああ、もう!」

それでも、静香が黙っていたので、とうとう、マリナが痺れを切らせてどんどん、と床を踏み叩いた。

板張りの床がぎしぎしと音を立てる。手入れは行き届いているが古い家である。

彼女の踏み荒らしに驚愕したかのように、周囲の蝉の音が急に小さくなった。

幼いこどものように、癇癪を起こしているマリナに彼は額に手をあてる。

「おまえがそのつもりなら、オレも聞く耳は持たん。部屋に戻る」

「ちょっと、美女丸!」

彼女が、彼の袖を掴んだので、静香はかっとなって目を見開いた。

触れられると困る。久方ぶりに逢った人に、優しくできない自分がここに居る。

「おい、おまえ。白黒はっきりつけたいのなら、今、ここで決着つけても良いんだぞ」

彼の目に殺気が灯り始めたので、マリナは唇を思い切り横に引いた。

かみ合わない会話というものは、これほどまでに人を苛立たせるものなのだろうか。

マリナはそこで、自分が考えていることのほんの少ししか、声にしていないことにようやく気がついたようであった。

「ここまでオレを怒らせたからには・・・きちんと説明しろ」

低い声で静香が言い、有無を言わさぬ力でマリナの縋っていた袖を振り払ったので、マリナの手が跳ね上がり、そして勢いよく空を伝って彼女の躰に戻って来た。

 

「美女丸は去年の言ったこと、忘れてしまったの?」

「忘れた」

あっさりと彼が言ったので、マリナが口を開けて呆然とする。彼は確かに誇り高いがこうやって大雑把なところがある。

そしてかなりはっきりと即座に物事を認める性質も変わらずに彼の中に備わっていた。

 

マリナは溜め息をつくと、そうだよね、そうに違いないよね、と言って項垂れた。

そして恨めしげに静香を見上げるマリナの眼は少し潤んでいた。

「もう・・・食べ終わっちゃった?」

「・・・・何をだ?」

彼女のこの意気消沈の様に、彼は眉を寄せて額に皺を作った。

弾上藤一郎宗景静香という人物が、これほど小さな人に喜怒哀楽を左右させられるとは、誰にも言えないことであった。

しかし、彼を古くから知る者たちは、皆、知っていた。

この家の不幸な出来事を一緒に体験してなお、彼女はそれでも毎年、夏をここで過ごす。

 

怖いものは苦手だ、と言っていたのに。

だからであろうか。

年々、彼女を追ってやってくる者たちの数が増えている。

賑やかさで誤魔化しているのか、それとも・・・

 

・・・いや、違う。

 

彼は、思った。

 

彼が、ひとりで夏を過ごすからだ。

だから、できるだけ多くの者に声をかける。

彼がたくさんのことを思い出すように。忘れさせるのではない。それは彼女の表現方法ではなかった。

様々な思い出を・・・あの時には決して思い出そうと決めていなかったことを、彼女は再現することで、彼に与えているのだ。

過去と未来を同時に・・・静香に与えている。

 

朝餉の賑わしさ、花火の音、空蝉の数を競う他愛のない遊び、そして庭に咲く夏の花たち・・・それらすべてが、繰り返されるのに毎年違うのは、やはり彼女が居るからだ。


07

 

マリナは、静香が袖を払った時に目の前に風が通ったので、眼を瞑った。

それで急に視界の均衡を失ってしまったのだろう。一歩、後ろに身体を引いたので、静香は考えるよりも前に腕を伸ばし、彼女の項を掴んでしまう。

彼女は大変に小柄なので、腰や肩を捕らえるよりも前に、マリナの首に手が伸びてしまったのだ。

悲鳴とも呻きともつかないような嗄れた声が聞こえてきて、静香はしまった、と思った。

彼女には細心の注意を払っているつもりであるが、時々・・・幻ではないのかとさえ思ってしまうことがある。

束の間の、特定の時期だけに現れる妖霊のような存在なのではないのかと・・・・

しかし、この重みも湿りもこの声も・・・決して幻などではなかった。

彼の精悍な顔が哀しそうに歪んだ。もし、戻れるとなったのであるならば、どこに戻りたいのだろうか。

母と父が別離を選んだ後でなければ、マリナに出会わなかった。

父の行方を案じる後でなければ、マリナに出会わなかった。

 

胸の奥が、ちりり、と何かに焼かれる音がした。

 

「ちょっと、美女丸・・・・」

そこで彼の考えが停止した。

手の平の中にある温度の持ち主が、恨めしそうに静香を見上げていたからだ。

 

その瞬間、彼が喪の主として取り仕切った様々な場面を思い出した。

思い出すこともなかったのに。

思い出さないことが不思議であるほど、何も感じなかったというのに。

そして、幾度も夏を過ごす度に。この時期を過ごす度に。思い知るのだ。

 

・・・記憶になっていく映像や音声は、決して更新されることはないのだ、と。

 

付随する情報が多くなることはあっても、その先は続きがない。

結末がない映像を見て、ただ悶えるだけだ。

 

そして・・・・

ただ・・・

ただ、残された者は、永遠を絶対とするのだ。

 

彼は、済まない、許せ、と言わなかった。

静香は傾いた彼女の躰を勢いに任せて正しい角度に戻す。荷物と同じ差配に、マリナが不満に思っても、それは致し方ないことであった。

何か、感情を持って彼女に触れては、いけないのだ。

それがこの夏を続けていく唯一の秘策であるのだから。

 

「それで、何を忘れているって?」

彼は話を転換させた。

彼女はそれほど根深く、会話や疑問が終了するまで話題を変更しないという人物ではなかった。

彼の貌が間近にあったので、マリナが支えられていた静香の手首を緩衝にして、身体を起こす。

触れても・・・彼女は、まったく動じない。彼は、これほど変異を来しているというのに。

 

「決まっているでしょう。去年、約束したことよ」

「オレは約束を忘れるほど、怠惰ではないと思うが」

「ええ、そうよね」

マリナの喧嘩口上を聞いて、静香は怒気を募らせる。

なぜ、彼女がこれほど憤っているのか、まったく、心当たりがないからだ。


08

 

静香は首を捻った。

何が、彼女をそれほど憤らせているのかまったく思い至る因がなかったからだ。

「おい、マリナ」

静香はとうとう言った。

「おまえの話がまったく見えない。何をして欲しいのかはっきりわかるように言え」

それを聞いた時、マリナは神妙な顔つきになった。

彼は、まずい、と思った。そこで自分が事態を拗らせてしまったと感じる。

 

マリナという人物は、普段は様々なことに対して積極的に享受しようとする態度を見せるが、何かして欲しいことはあるかと聞くと、何もないと言う。そして、彼女のためだと思い先回りした行動については、彼女は思うところが多々あり、マリナはそのことについて多くを語ろうとしない。

静香の目の前にいる、茶色の髪の人物は、誰かのために行動することはあっても、誰かが自分のために行動することには慣れていない。

そこに、彼女に触れてはいけないものがあるのだろうとわかっていたのに、静香は顔を合わせるなりそう、早速にしてはならないことを彼女に向けてしまったので、目を伏せた。

 

「約束したということを忘れたのなら、謝る。しかし、オレはおまえとの約束を忘れたりしない」

彼はきっぱりとそう言った。彼女に何をどう思われているかはわからない。けれども、こうして幾度も夏を過ごすマリナと蟠りを残すつもりはなかった。

わかっている。

彼は普段、こうして譲歩することは殆ど無い。

けれども、幾度も夏を巡りたいから、彼は今回ばかりは譲るのだ。これが何を意味しているのか、わからないマリナではないはずであった。

そこで、マリナの顔が僅かに曇った。

本当に静香が忘れているのだと察知したらしい。忘れていることに憤っているのか、忘れられたことが遂行できなくて憤っているのか、自分でもよくわからなくなってしまった様子を、静香は瞳を片方だけ動かしてマリナを見る。

・・・待つという行為が、これほど苦しいものであるとは、思っていなかった。彼はマリナを待たせたから。だから、それが今でも時折疼痛となって甦ることがある。それは、家族を失ってしまった時の痛みと少し種類が違うものであったが、もう、失いたくないと思ったから・・・だから、彼は彼女を置いて、ひとりで旅立ったのだ。

彼女の愛する者を、彼もなくしたくないと思ったから。

 

今・・・その時に彼女が心から愛していた人物とは違う者とマリナは一緒に居る。

それを今でも、正しい愛だと位置づけていないことも承知していた。

だから、ひとりでこうしてやって来るのだ。

最後はふたりで帰ることがあったとしても、最初は、ひとりでやって来る。

 

・・・まるで、この時期の魂達のようであった。

 

彼女は唇を突き出して、しばらく静香を眺め上げていたが、やがて、ひとつ、溜め息を漏らした。短く息継ぎをするような、そんな落とし息であった。

マリナにそんな顔をさせたと、白金髪のあの男に知れれば、早速、道場で果たし合いになることは必至である。

 

マリナもこういった事は黙っていられない気質であった。唇を閉じたり開いたりしている。

さっさと言え、と言いそうになったが、急かさず待つことにする。

彼女は、静香がそれほど待つことなく、ぽつりと言った。

「今年は、用意しておくって言ったのに」

彼女が言っている用意するべきものが何なのか、と尋ねる前に、マリナの言葉と自分の記憶の照合を始める。そして、その途中ではっと息を呑んだ。

 

腰から背中にかけて緊張が走る。

武道に秀でている彼は、気配に敏感であったが、他者の気配ではなく、自分の中の驚きをこのように表現するしか方法を知らなかった。

 

・・・そうか。

 

そうだったのか。

 

彼は、そこでようやく・・・彼女が、なぜ、怒りつつも哀しそうな顔をしているのか、察した。


09

 

「すまん」

弾上藤一郎宗景静香が謝った。

彼がそういう風にしてマリナとの関係を修復しようとするのは珍しいことであった。

マリナが軽く頷く。

彼女の主張には足りていないものがたくさんあった。

けれども、それを察した瞬間に、静香はしまった、と思ったのだ。

しかし、旧家の当主に謝罪させたことによる満足を感じているわけではなかった。

 

「用意してない」

その言葉を聞いて、マリナは蝉の合唱が入り込む屋敷の中で、唇を突き出して憤懣を露わにした。

「嘘。だって、匂いがする。入ってすぐにわかった」

「お前のための夏菓ではない」

マリナは目を見開いて、静香に抗議した。

「じゃ、誰がそれを一緒に食べるのよ。なんで、ひとりで食べてしまうのよ」

 

静香は言葉に詰まってしまった。

マリナは、彼を困らせているわけではないのだ。

彼は屋敷の奥の間にある、彼の家族達の霊室が思い浮かんだ。

 

マリナが言っているのは・・・魂達に捧げる供菓子のことなのだ。

 

そうか、と思った。

 

昨夏は暑かった。

日持ちのする菓子を、逝ってしまった者たちの前に捧げることになっているが、それに加えて彼は、彼の家族が好きだったものを一緒に添えていた。

そうしなければ、忘れてしまうから。薄れてしまうから。

家族として過ごした想い出はとても少なかったし、全員が揃っている風景は本当に数えるほどしか存在しなかった。

それでも。

彼が、忘れない限りは、皆が笑顔である思い出は決してなかったことにはならない。

特に、妹に関しては・・・彼はもっと優しくしてやれば良かったと、してやりたかったことの殆どを実行できていなかったのではないのかと思うことがある。でも、もう、それは取り戻せない時間であった。彼の中では、少し生意気で、強気だけれども、兄に優しい妹の姿が残るばかりだった。

 

・・・彼は大人になったのに、彼女は大人になれなかった。

孤独に耐えられない時もある。

彼にも感情はある。

 

しかし、普段であるならそれは乗り越えられる感情だった。

戻らない者に戻って来て欲しいという願いだけを追いかけるほど、彼は日々を空虚に過ごしているわけではなかった。

当主としての責務や、日々考えなければならないことに眼を向ける。

それで一日が終わってしまう。

けれども。

唯一・・・・この時期だけは、家族のことを考える。

家族、という言葉が相応しいかわからないが。

 

マリナが怒っているのは、自分との約束を違えたからではなかったのだ。

 

昨夏は酷暑で、妹の好んだ菓子を供えることができなかった。

それを見たマリナが、なぜ、今年はそれがないのかと尋ねたのだ。

静香は事情を説明した。その夏は暑くて、どれほど技術を集めた菓子を探しても、常温のままにしておくことはできないと言われたと言うと。

マリナは、説明を聞くと、そう、とだけ言った。

逝去前に好んだ菓子から、時代は変化して様々な種類のものが出ているが、彼女の好んだものを彼は供え続けた。

「逝ってから知る、その人の好きであった香りや味や・・・様々なことは、忘れたくない」

それだけ言い残した。

 

妹は、母の気配や好きだったもの、好きだった花や・・・得意だった料理を知り尽くす前にいなくなってしまった。静香が幾年かけても、伝えきれないものがあった。

父の傍に居た妹と、母の傍に居た静香と・・・埋められない空白の期間があった。

継嗣として唯一の男子である静香がなぜ、外に出されてしまったのかという理由は聞いていたが、その時の両親の心中や妹のことなどについては・・・聞けないままになってしまっていた。

そして。

今でも・・・静香の妹は、あの日のままの姿でしか残っていない。

 

・・・彼女は、大人になれなかったからだ。

 

その瞬間で止まってしまっているからだ。

大人になったら、どんなものを好むのだろうか。

大人になったら、どんな姿になるのだろうか。

 

母が、彼と妹を残して逝く時に感じたのは、こんな感情であったのかもしれない。

 

だからこそ、マリナは・・・妹の好きであったものを残そうとしたのだろう、と思った。

妹は、甘い菓子が好きだった。チョコレート菓子が好きだった。

そして。

その菓子は・・・ふたりぶんあった。

母も好きだった。

好みは遺伝するのね、と妹が・・・・いつか、そう言った声が聞こえそうであった。

 

・・・・妹の最期の時。

 

まだ年若い彼女が飲んだ珈琲の傍にあった、チョコレート菓子についてマリナは忘れていなかった。

異臭によってかき消されていたものの、静香の妹は、飲み物と一緒に皿に盛っていた。

そして、幼い時に・・・彼が美女丸と呼ばれていた時に、彼の母親が大変に好物にしているのだと語ったことも、彼女は忘れていなかった。

妹が・・・

あの時。

苦い飲み物を飲下すのではなく、母の好きだった時間を再現したかったのではなかろうか、と今では思う事がある。

 

凍て付いた心を溶かしたのはマリナであったが、それでも、あの夏の暑さについては、その直前まで日本に居なかったマリナには予想外のことであったのだろう。

そうは言っても、甲府の夏はいつも暑いので、彼女には変化を感じられないのだろうと思っていたが。

本当は、そうではなかったのだ。

マリナは、感じ取っていた。

 

その夏だけ、いつも在ったものがなかった。マリナはそれを歎き、来夏には日持ちがしないのであれば、きっと、一緒に・・・静香と一緒に、それを食べようと言ったのだ。

 

どうして、それを忘れていたのだろう。

どうして、それを忘れていられたのだろう。

 

 

 


10

 

ショコラを加工できるパティシエがアルディ家に居る、と聞いていたからなのかもしれない。

マリナは、今・・・チョコレートを「ショコラ」と言う国と・・・ここを行き来している。

それを認めるのが、いやだったのだろうなと自分で分析する。

・・・彼女がここで居を構えることはない。

それなのに、彼女は惨劇のあったこの場所に、毎夏やって来る。

 

彼女が持ち込む技術が厭わしいのではない。

マリナが・・・あの頃の彼女から大人になったのだと改めて認める必要を彼は感じていなかったのだ。

彼女が、あの時と違う・・・・ダイを静香の傍に置こうとするのも、静香に弟が居なかったことが影響するのだろうと思った。

健やかな魂をここに持ち込むことで、何か・・・どこかを変化させることができるのだと思いたかったのかもしれない。

 

「用意させておこうと思ったのだが、去年と同じで良いと言ってしまった」

静香は正直に事情を説明した。いつも通りの夏であると思ったが、本当はそうではなかった。

マリナは、そのことについて静香を責めているのだろうと思った。

 

甘い物をあまり好まない静香に、一緒に食べないのかと言った妹の姿が思い浮かぶ。

母が死に、父に引き取られた時。

不安で眠れない彼に向かって、幼い彼女が差し入れてくれた菓子の味を思い出す。

 

甘いものは心を落ち着けるのよ

 

彼女はそう言って、恥ずかしそうに笑った。ずっと離れて暮らしていた兄と妹で・・・たくさん愛してやれなかった。うまく表現できなかった。

兄さん、と追いかける彼女を疎ましいと思ったこともあった。けれども、母も死に、父も家庭的で愛情溢れた表現ができるという人物でもなかった。

だから、寂しい思いのまま・・・逝かせてしまった。

 

「いつも、美女丸が気に懸けているから・・・彼女は、寂しくない。きっと」

マリナの言葉に、彼は苦しそうに目を細める。一度しか生きられないから、その生命を大事にすることが大事なのだ、と言った彼女の言葉が甦る。

「人はね、一度しか生きられないから・・・逝ってしまった人のぶんまで、大事に生きるのよ」

マリナは怒った口調で、横を向きながら、ぼそりとそう言った。

気恥ずかしい台詞であると思ったらしい。大人になってしまった今、生死について誰かを話すこともなかった。

ただ、こうして・・・ひとり過ごす自分の夏が、ひとりきりでないことだけが・・・彼の物思いを優しく撫でて落ち着かせる。

 

「しかし、本当に、先に食べたどころか、置いていないのだが・・・・」

静香は、この空間の継続に耐えられなくて、そう言った。

マリナが怒っている。自分は、それに狼狽えている。

昔は、そんなことを思ったことはなかったのに。

 

・・・彼女とはいつも喧嘩ばかりしていた。

だから余計にそう思うのだ。

 

本気で喧嘩した日々が、彼の幸せな日々であったのかもしれない。

けれども、彼女が怒る時はいつも・・・自分のことではなく、誰かのためのことである時が多かった。

不器用で要領の悪い彼の事にいつも憤っていた。

でも、どうやって彼女の機嫌が直ったのか、どうすれば機嫌が直るのか、彼にはそれがわからない。

 

今。

彼女を笑顔にさせることができるのは、彼ではないのだ。

 

マリナは、言った。

「だから、匂いがするのよ。私を誤魔化そうとしても・・・」

「おい」

そこで、静香がマリナの言葉を遮った。

「オレの話を聞いていなかったのか」

「何よ。聞いているわよ。美女丸がひとりで、ぜんぶ、食べてしまったのでしょ。だから、ないのよね。酷い。こんなに甘い香りの中で、私はどうすれば良いのよ」

「おい、おまえ」

行き違う会話に、美女丸の堪忍袋の緒が切れた。

見下ろしていたマリナに一歩近付く。

マリナがその形相に驚いて、一歩引き下がるよりもっと早かった。

 

彼女の首根をいきなり掴み上げると、彼は中庭に面している縁側に向かって、歩き始めた。

片手でつまみ上げられた彼女の踵が浮き、爪先が廊下を擦っていく。力で解決するのは好まないが、この場合は致し方なかった。

 

11

 

「ちょっと、美女丸!」

彼の幼名が屋敷の中に響き渡った。もう、誰もその名前では彼を呼ばないのに。

静香は、彼女を縁側まで連れてくると、戸を開けた。

・・・暑い空気が風になって入り込んでくる。

そして、よく磨かれた板の上に、彼女を放り投げた。どすん、と音がして床が僅かに振動する。

「痛いじゃないの!」

静香は、むっつりした顔で、マリナを見下ろした。

憤りで、頬がぴくりと動く。彼の激昂ぶりに、マリナはぎゅっと両手を握った。

その掌があまりにも白くて、彼は更に憤りを深めていく。

彼女が、ここではない場所で暮らしているのだとそんなところから知る。

だが、彼はじろりと彼女を睨みながら、言った。

「お前の言う、チョコレートとやらは、これだ」

彼は顎を上げて、庭を指し示した。

 

ひとりで眺めるには、広すぎる庭だった。

そして、幼い時にはふたりで・・・妹と見た庭であった。季節が巡り、草木の様子は変わった。

あの惨劇で、随分と・・・この家の様子も変わってしまった。

縁側に座り、時には雪で遊び、夏の雨をずっと眺めていたこともあった。

 

ああ・・・・溜め息の混じった声が聞こえる。

 

静香は低い声で説明した。彼女はいつも、夏に驚きをもたらす。

彼にとって同じ夏でありながら同じ夏にさせない何かを持ち込んでくる。

「驚き呆れるのは、オレの方だ」

彼はそっと言った。そこに怒りはなかった。

マリナが・・・吸い込まれるように、その風景を見つめ始めたからだ。

 

目の前に広がる・・・たくさんの・・・群生に彼女はただ、茶色の瞳を向けて瞬きをすることすら忘れたように見つめ続ける。

そこでは、黒紫色の花が、一面に咲いていた。

華奢な茎に柔らかい葉であったが、その甘い芳香は風に乗ってマリナの顔や髪に吹き込んでいた。

 

「チョコレートコスモスと言うそうだ」

彼は説明した。

黒紫の花片も、その香りも確かに、ショコラそのものであった。

「寒さに弱いから、これほど増えるとは思わなかった。

・・・いつも秋頃に咲くから、おまえは知らないだろう。

昨年は酷暑と多湿が続いて極寒であったので、根が駄目になってしまったと思っていたが・・・今年は咲いた」

 

マリナは、ああ、とまた声を漏らす。

今年は冷夏だった。だから、早めに咲き始めたのだ。

その香りが・・・屋敷中に充満していたのに、静香は平然としておりながらマリナが察知したのは、これが決して食するための供え物ではなかったからなのだ。

甘い匂いが漂っているが、彼の嗅覚には慣れた空気であった。

そして、マリナには・・・彼女はいつもここにいないからこそ、気がついたのだ。

咲き始めに強く香るその花々を、彼女はただ、感嘆して見つめる。

 

やがて、彼女がそっと言った。

夏の風に乗ってやって来る甘い薫りを胸一杯に吸いながら。

 

「そう・・・忘れていなかったのね。あの子は、忘れていなかったのね」

 

そして、良かった、と言った。

 

彼が忘れていても。

たとえ、供えることを忘れていても・・・妹は、彼のことを忘れていない。

彼がひとりで眠れない夜に、おとなに叱られるとわかっていながらも彼のために自分の好物を差し出すような、そんな妹であった。

 

マリナは座り直して、そして何度も頷いた。幾度も、良かった、と言った。

 

静香は、その彼女の隣にゆっくりと腰を落として座った。

こうして、庭の花を眺めるのは久しぶりのことであった。

忙しさを理由に、妹の供え物をいつも通り、と言ってしまった。

けれども・・・・妹は、いつもの通りにやってきたのだ。

甘い菓子の香りに乗って、菓子がなくても、彼の心を鎮める風になってやって来た。

 

甘いものは心を落ち着けるのよ

 

妹の声が聞こえてくるようであった。

名前のとおり、美しい夜のような髪と瞳を持った人だった。

彼女が大きくなったのなら、この辺りを賑わすほどに綺麗になって・・・

そして彼の友達には妹を紹介することはないと言い張り、そして・・・そんな平凡な未来が、普通にあるものだと思っていた。

だから、誇り高く生きることだけを考えることができた。

 

「来年も・・・来いよ」

彼は、マリナの隣でそう言った。

それは、マリナに言ったものなのか、それとも・・・甘い匂いの風になって彼の傍にやってきた精霊に言ったものなのかはわからなかった。

 

マリナは少し首を傾げて言った。

「去年と今年・・・続けて逃してしまった茶菓が振る舞われるのであれば」

「だから、オレがひとりで食べたわけではない」

静香が顔を顰めると、マリナは反論した。

「何よ。去年は用意しておくって言ったのに。すっかり忘れてしまうなんて」

それから、マリナは肩を竦めた。ここで言い合っても、彼女の望む品は出てこないからだ。

「こんなに甘い匂いを嗅いだ後には、やっぱり本物が食べたい。匂いだけではお腹は膨れない。・・・今から街に行って買ってきてよ、美女丸」

「断る。おまえが行って来い」

 

ちらりとマリナが静香を見上げたが、彼は知らないふりをした。

「花の芳香を食べ物と間違えるなんて、おまえしかできない芸当だな」

マリナは口籠もる。

勘違いしたことを認めることはできなくても、菓子がないことを主張することで摩り替えようとしたが、静香には通用しなかった。

「食い意地の張った奴だ。・・・まったく、落ち着かないな」

 

みんなには、内緒よ、と彼女は笑った。

その笑顔は、彼がよく知る・・・喧嘩をしたあとの、彼女の笑顔だった。

彼女は諍っても必ず笑顔を向けることを忘れていなかった。

彼も・・・そんな彼女だからこそ、本気で怒って容赦しなかった。彼女も同じだった。

そして今は・・・こうして、呆れた顔をしながらも彼女の言葉に心が安らぐのを感じる。

 

安らぐための風が・・・今の彼は、ただ、心躍るばかりであった。

・・・間もなく、賑わしい夏が始まるから。

 

妹も・・・父も、母も・・・皆、見ているだろうか。

彼の・・・弾上藤一郎宗景静香の夏が、始まろうとしていた。

ひとりではない。

妹に、花を供えてやろうと思った。

菓子の代わりにしかならないが・・・夏に咲く風変わりな花の甘い薫りで今夏は我慢してくれよ、と心の中で呟いた。

 

「行くぞ」

彼は立ち上がった。

「どこに?」

マリナが茶色の・・・チョコレートのような濃い茶色の瞳を向けて、静香に怪訝な顔を見せる。彼は冷笑した。

「今、おまえが、菓子が足りないと言っただろう。・・・誰かに使いに行かせるよりこれから買い出しに行った方がはやい。いらないなら、それでも構わないが。オレはこの香りだけで十分に腹が膨れる」

「荷物持ち、是非、同行させてください」

マリナが慌てて立ち上がった。

まったく呆れた人だ、と静香は苦笑する。

 

今、外から戻ってきたばかりであったのに。

もう一度、外に出る厭わしさをまったく感じなかった。

 

今年も・・・ゆっくりしていけ。

来年も・・・また来てくれ。

 

後から来る者たちの分も含めて、たくさん買い込まなければいけないと言いながら走って自分の荷物を取りに行くマリナが静香の前を横切った。

 

・・・甘い薫りがした。

 

心を鎮める作用があるはずなのに。

なぜか、彼の胸は少し苦しくなり、そして少し傷んだ。

それでも。

その薫りは、確かに・・・秋の匂いであるはずなのに、彼に夏を届けたので、彼は目を細めて軽く伸びをした。

玄関の方から、マリナが早く行こうと叫ぶ声が聞こえてくる。

 

まったく休まらないな・・・

そう思ったが、彼もすぐに、マリナの元に向かう。

僅かな時間だけ。彼はマリナを独り占めできる。

僅かな時間かもしれないが、マリナは彼のことを考えて、甲府にやって来る。

今は、それだけで良かった。

 

静香は、彼の左手を見つめる。

庭で咲き誇る黒紫の花の花言葉は・・・移り変わらぬ気持ち。

移り変わっても。

移り変わらぬものがあるのだ。

 

美女丸、と彼を呼ぶ声がまた響き渡った。

騒がしいなと呟いたが、彼は微笑んでいた。

 

 

弾上藤一郎宗景静香の夏が、始まった。

 

 

FIN

 

 

 

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降りみ降らずみ

降りみ降らずみ

(降ったりやんだり 転じて定まらないことのたとえ)


***

≡01

寒い日の朝の事だった。


マリナ・イケダは今日こそ部屋の暖房の主電源を入れようと思いながら、アパートの前の一方通行の路を急いで歩いていた。

細い路地で、ここを抜けていくつか曲がり角を過ぎれば、大通りに出る。

住宅と集合住宅が混在するこの場所の雰囲気が好きで、ここを住所地としてから随分と長い年月が経過していた。

呼気が浮かんでいくのが真白で目立った。

雪が降ったりやんだりして、かつ寒気が大気を冷やしている日が続いていることもあって、道路は凍結し、雪の残骸が、日が射さない路影に未だ為残っていた。

彼女は肩に提げている大きな鞄を持ち上げ直して、肩位置を調節した。

非常に小柄な彼女の体躯に不釣り合いな大きな鞄には、彼女のすべてが詰まっている。

家のキー、必要最小限しか持たないサイフ、パスポート、そしてスケッチブックとそれに係る画材道具たち。

鞄の中では、画材道具の小物達がカタカタと乾いた音を立てて、彼女の歩みに伴奏音を付していた。


マリナは茶色の瞳を持ち上げて、歩きながら空を眺める。

今日も雪が降りそうだった。

しかし雨になるかもしれない。


ここのところ、都心では積雪しない。

温暖化現象が進んでいるから、と彼女の恋人は長い講釈をしようとしたが、彼女はそれを聞き流してしまっていた。


白金の髪の外国人の恋人は、今世希なる人物として世界の天才の十指に入るだろうと言われている人物だ。

・・・彼は世界的に有名になることにはまったく興味がないようであったが、それでも彼の偉業の数々が彼をその地位に押し上げる。

彼の・・・静かに生きていきたいという密かな望みはまだ叶えられていない。

人生は一度きりで、自分以外の者にも自分の今の生き方以外も考えられないというシャルル・ドゥ・アルディに対して、マリナはいつもそうではない、と首を振った。


人は変わることが出来る。

人は生まれ変わることが出来る。


昨日の自分を忘れることもできないし、癒えない傷もある。

けれども・・・また新しく生み出すことが出来る。

持っているものがすべてではなく、増やせるものだと思う。

それなのに、彼は「不審な投資を勧誘されているようだ」と冷笑する。


マリナが彼と再び出会って一緒に過ごすようになった今でも、彼はいつも変わらず美しい瞳をマリナだけに注ぐ。そして白金の髪も、男性にしては滑らかな白い頬も、長い手足も彼女のためだけに存在しようと言い切る。それなのに、彼は誇り高くそれでいて孤独でいることを臆さないで生き続けている。

日々の暮らしをどうしようとか、今日の講座のテーマは何にしようと考えるマリナのささやかな物思いとはまったくかけ離れたところで、彼は生きている。


彼女はまた冷たい色をした空を見上げた。

湿った曇天の空はいつも・・・日本に戻ってきたのだと思わせる。

パリの空は雪空でももっと違った色だった。


どちらも現実なのに。パリでの暮らしも、日本での生活も、彼女の中ではどちらも同じくらいの重さがあり、そして比べることはできなかった。

時々、どちらも現実ではないのではないのかと思う時がある。

そういうときに、彼女はもう一つの場所に行く。パリから日本へ。日本からパリへ。時折、シャルルに黙ってふらりと旅に出て叱責される。

「生きているのであれば良いと思っていた頃の方が心が安らかだった」

そう言って彼は溜息をつく。

これがマリナ・イケダであり、どう無理をしても変えることが出来なかった。

それを知ってなお、彼はマリナを離さないよ、と囁く。そして彼女は彼の手を離したくないと思っている。


・・・それだけでは駄目なのだろうか。

それだけでは、生きていけないのだろうか。


小さな事で喜べた頃の方が幸せだとは思わない。

過ぎたことだけが幸福とは思わない。

実際・・・マリナは今、幸せだったから。

不満がないことが幸せだとは考えていない。


マリナは首を振った。

ひとり彼を想って小さな部屋で空を見上げた時と同じだった。

今は外気に触れて、始終快適なアルディ邸の中に居るのではないのだという現実を身に染み込ませておかなければならない。

偽りのない本当の気持ちはそれだけだった。

ただ、傍に居たい。けれども傍に居すぎると苦しくなる。

彼の大人になった姿を夢想して夢中でスケッチしていた素描集を、これ以上増やすつもりはなかった。

もう、想像のシャルルは描くことはしないと決めていた。


「あ」

マリナは声を出した。

誰が聞いているでもなかったが。

・・・彼女の茶色の前髪を越して、白い華が落ちてきたからだ。

降る、と思った瞬間の次には降り始めていた。そして降った雪華をひとつ認識して空を見上げた時には・・・・雪が次々と落ち始めていた。

誰かの涙のようだった。

雨を涙と喩える人が居るが、彼女は雪こそが誰かの涙のようだと思っている。

静かに、音もなく突然現れる。

そして次々に降りしきり、積もる。

水は流れるが雪は積もる。

それはシャルルの涙のようだった。


彼の涙を幾度か見たことがあった。

そして彼の前で涙を流したこともある。幾度も。

だから雪が降るととても切なくなる。彼が涙を流しているように見える。

・・・彼の大切な人達の魂が、雪に交じって彼に涙を落としているようにも見える。音は障ると彼が言うから。雨ではなく雪に姿を変えて。

だから、これほどまでに最近は雪が多いのかなと思うくらいに。


そして、彼が傍に居れば、その孤独な魂や気鬱な時間を一緒に過ごすことが出来るのに。・・・選んだのはマリナ自身であるのに、彼女はそれでも彼のことを考え続けている。

一日目覚めている間も、夢を見ている間もアルディ家の若き当主について考えを巡らせているわけではない。

何かに夢中になって彼を忘れるときもあるし、束縛されることに少し困った時には彼女は彼と距離を置いた。

それが彼を不安にさせるとわかっていても。

愛翫動物のように、彼の寵愛だけを糧に生きていけるほど、彼女は強くなかった。


それでも。彼と過ごしたあの日々のことを忘れていない。短い間だったけれども、彼は彼女の恋人だった。好きだと言って好きだと言われた。

だからもう一度彼の背中を追いかけることになるとは思わなかった。

少女だった時の別れは、彼の背中を見送った。シャルルは片腕を挙げて、晄の中に消えて行った。

アデュウと言われて・・・その意味の深さに気がつかなかった。

永遠の別れのつもりで・・・彼は身を切る思いで言った言葉の意味を考えていなかった。


だから今度は見送らない。


彼の背中を追いかける。そして、時には彼を追い越す。彼を待って振り返る。

でも置いて行って欲しくない。

それなら・・・彼の傍らに居れば良いのに。

誰もがそう言うけれど。


「・・・やめた」

考えることはやめた。やめにした。この瞬間は思考を止める。

彼女は今、日本に居て、明日の講座の打ち合わせに向かうところだった。

雪は都心にはさほど影響しない。

地下に潜ってしまえば特段に降雪を意識しなくても良かった。



≡02


大通りに出た瞬間、ビル風にあてられて、マリナ・イケダは首を竦めた。

マフラーを持って来れば良かったと後悔した。

首周りが勢いの良い冷風に驚いて粟立つ。

パリに居る時の彼女は始終薄着だった。

邸内は温度がいつも一定に保たれていて、外出するときはいつも車だった。

時折ひとりで抜け出してアルディ邸に隣接する広い木立をそぞろ歩き、シャルルにいつも窘められていた。


禁じられるとますますそのことについて固執した。

自分はそういう生活を望んでいたのかというと、本当のところはどうだったのだろうか。


アルディ家の援助を受けたら、作品が何万部も飛ぶように売れていると見せかけることもできるかもしれない。

シャルルの知恵を借りたら、どんな原話でも広げることが出来るのかも知れない。

でも、それは望んでいない。


どこに居ても自分のやりたいことは変わらない。

そしてそれはいつでもどこでもできる。


しかしそう思えば思うほど、できなくなるのだ。


自由は不自由から生まれる。

不自由があるから自由を感じる。

そういうものだ。


マリナ・イケダは、大通りに出る前の幾つ目かの角道で、もうすぐクリスマスが近いのだということに気がついた。

こども達の姿が見えないのだ。

つまり、日本の年次制度を敷いている学校制度では、今は冬期休暇に入っており、学生達は皆、この寒い朝に出歩かなくてはならない強制について不満を漏らす必要のない一日を過ごすことを満喫しているのだ。

そしてあちこちで・・・外から見えることを意識した装飾の施された緑と赤を基色とした晄がこぼれ落ちている。

それが今、降り落ちてきた雪に相まって、何ともいえない景色を浮かび上がらせていた。

目の醒めるほど鮮やかで美しい景色も好きだ。

けれども、こうやって雑多な・・人々が密集している場所の雰囲気や街並みや、人々の雪に対する歓声を聞くことも好きだった。


シャルルとふたりで生きていこうという話になったとき。

シャルルとふたりだけで生きていこうと言った彼に、マリナは最初はノンと言った。

そして、滅多に言葉を改めないシャルルが「ふたりで生きていこう」という言葉に変更したとき、彼女はようやくそこでウイと言うかも知れないという曖昧な承諾をしただけだった。

しかし、マリナが彼の手はもう離さないと言ったので、雪のような彼女の恋人は不承不承その言葉を愛の約束に変換することにした。

彼は雪のようなであるけれど、嵐のような激しさを持ち合わせている。


・・・・やめた、と言ったのに考えがそちらに及んでしまう。


またひとつ、溜息を漏らした。白い嘆きが雪に交じって消えて行く。

彼女はキャスケットを深く被り直した。目深にしても、寒さはどんどん彼女の躯に染み込んでいく。指先を保護するために、厚手の手袋を持ち歩いていたが、あたたかい地下鉄の中ではそれは不要で、かえって都心に居ながらにして厚着をしていると、奇異な人物であるのかもしれないという目線を送られる。


刺すような冷たさという言葉では足りないくらい冷えていた。

切るような冷たさと言った方が近かった。本当に今冬はよく冷え込む。

いや、毎冬そう思うのだが、今年は尋常ではない寒波だった。しかしこの冷寒が次の春を喚ぶのだと思うから、耐えられのだと思った。

それに冬の空気は嫌いではなかった。

空気が澄んでいるときには、日本の空は何とも言い表すことが出来ないほど美しい夜明けと夕暮れを見せる。そしてこんな静かな雪の夜に集う人々の暖かさを感じる。

彼女の来訪のためだけに、暖房をつけて、待つ仕事場の関係者の暖かさを知って、有り難いなと思うことはあっても煩わしいとか逃げ出したいと思うことは決してなかった。


これからまた外出するために、大通りに向かう。彼女はほとんど自宅に居ないか、居ても外に出ないという極端な生活を送っている。定期的に訪れる仕事のための外出以外には、散歩をして、用事を済ませて、買い物をして・・・それだけだった。

嗜み事や、誰かと遊興のために外出するということはほとんどなかった。

これでは・・・とても忙しい、とばかり口にしていた父のことを揶揄できなかった。彼女はどうして大人はそんなに忙しいのかと尋ねたことがあった。こどもが忙しいのはわかるが、仕事と職場とほんの少しの外出しかしない大人が、なぜが忙しいのか、と言った時に、大人になったらわかると言われて辟易したことを思い出していた。その時になってみないとわからないことを今、知りたいから尋ねているというのに。

しかし今になって思えば、そうなってみないと本当にわからないこともあるのだということを知った。

その時から気の遠くなるような年月を越えて、自分も大人になり・・・同じような生活を送っていることに対して、誰も何も言わなかった。


加えて、彼女はパリと日本を往復するという二重生活を送っている。このままではいけないと思っていながら・・・シャルルの傍にずっと居ることが果たして良策なのかどうかと思う時があった。

だから、彼と少し距離を置く。彼を弄んでいるわけではない。でも周囲から見たらそう見えるのだ。


ふと、彼女は微笑んだ。


考えるのはやめようと思ったのに。また、彼のことを考えている。

彼は念願叶ってアルディ家の当主になった。その間、様々な紆余曲折があった、ということだけ聞いていたが、生死の境を彷徨うような事態に陥ったことや、その後に当主としてだけの業務従事に疑念を抱いて、別の職種に就いていたこともあったことを漏れ聞くと、彼女は・・・シャルルが彼なりにいろいろと模索して経験してそして大人になっているのだと思った。

それなら、自分はどうだろうか。

シャルルと小菅で別れてから、それからの彼女も彼女なりにいろいろあった。

ひとことでは言い表せないし、言ってもそれは戻って来たり再現したりできないことであるから、シャルルを含めて他の誰にも言わないことにしている。

彼も同じだろうと思った。

何も亡い人生しか持たない人間は存在しないというのが彼女の持論だった。

だから、自分にも何かがあって、そして何かが残って、それが今の自分を作り上げているのだと思う。シャルルと一緒に過ごした月日よりずっと長い時間が経過した。

そして、若い頃・・・そう。シャルルがよく「青春の輝きの時代」と皮肉気に言うあの時代の頃よりもっと長い時間を一緒に過ごしている。

それなのに・・・


今でも彼の傍に居ると苦しい。

一緒に居ないともっと苦しい。

でも、離れるとほっとする。

でも、一緒に居られると思うと心が躍る。


矛盾した気持ちが入れ替わってはまた戻る。

表裏一体の物体であるかのように、不規則に自身を軸に旋回してはそのたびごとにマリナを翻弄していく。


「君を独り占めしたいよ」

シャルルがそう言うと、マリナはいつも困ったように唇を横に引いた。

独り占めしたくてもそうできない、と言ったシャルルを思い出すから。

そしてそんなシャルルをマリナが思い出していることを彼は知っているから。

「ようやく君を独占できると思ったのに、そうすることができない。愛しすぎているからではない。・・・それを実行したらマリナは約束を反古にするとわかっているからだ」

シャルルがそう言ったので、マリナはまた日本に戻ってくることにした。

ちょうど、仕事が入っていたことを理由にした。


あの時。

愛しすぎて独り占めできないから、自分ではない人物にマリナを委ねると彼は言った。

しかし、今は、独り占めにしたら彼女は自分から離れていくだろうから、と言った。誰かと自由に恋愛をしろという意味などではなく、もっと深い意味があるのだとわかったとき。

マリナは、ひとりで考えるからと言ってシャルルから少し距離を置くことにした。



≡03


この世の多くの者が逢着するものの中に「終わりが近づいている時」のもどかしさがあると思う。

マリナ・イケダも体験している。

相手の考えていることが判らなくなり、逆に判りすぎてしまう時もある。

そして、何を言っても言葉が伝わらず、言葉にならない言葉を曲解されてしまう。

しかしシャルル・ドゥ・アルディにはそれは適用できない。


彼はマリナの言葉を理解していないわけでもないし、考えていることが判らないわけではない。

マリナは彼とは逆は発想を持っており、最初から彼のすべてを理解することはできないだろうと思っていたので、その点は、彼がマリナ・イケダをこよなく愛している理由であった。

自分の想像や予定に及ばない行動を取るマリナ・イケダが彼を虚無と怠惰の迷宮から救い出してくれたと考えていた。

しかし、彼は独り占めできない。

そうして欲しいと彼が願うから。

それはできないと彼女は言う。

何かに没頭することもある。

誰かの安否を気遣うこともある。

そしてマリナの知らない人々と交流することで、もっと違った色の世界を知ることができる。


・・・彼のすべてを理解し、すべてを把握することはできない。

マリナよりもっと長い時間を共有しているはずの、シャルルの美しい従妹でさえ、同じだった。

鑑定医という職にも就いていた頃、だいぶ・・・彼女の手を焼いたと聞く。

しかしそれでシャルルの価値観や何かが少しだけでも変化したのであれば・・・


マリナはそれすら愛おしいと思っていた。


変化しないものはない。

マリナも変化した。

だからシャルルが変化することに頑なであって欲しくなかった。

青春の輝きの頃の彼は柔軟で、そして孤独だった。

大人になったらもっと孤独になったのだろうと思う。

繋がりやネットワークが広がるについて、数多の者と関わるようになって・・・彼は誰とも共有できない何かがいつも根底にあることを知っている。


冷たくて、温度も音も彼女の想いも吸い込んでいきそうな雪が、いくつも視界をよぎった。

瞬きを繰り返していく都度、その密度は濃くなっていく。大急ぎで何かを消してしまうかのような振り方だった。

雪がまた本降りになってきたのだ。


・・・傘を持ってくれば良かった、と思った。


僅かな距離しか歩いていないのに、足先が冷えによって痛んできた。

そのうち麻痺するだろうし、歩いていれば暖かくなり、地下に入ってしまえばそれほど問題にならないだろう。


クリスマスや新年を祝う行事には、彼は興味がないと言う。

当主としての参加しなければならない催事には出掛けていくこともあった。

彼は本当に敬虔な信徒の家柄なのだろうかと疑いたくなるくらいに。

他の者はごまかせても、マリナには理解できた。

彼が彼の持つ信念は自分自身でもぎ取ったものであり、目に見えない存在ではなく己の誇りなのだということを。


「シャルルは複雑なのか単純なのかわからない」

彼女が呟いた。すると、自分の声に驚いて、口を噤む。独り言が最近増えた。

これはパリに居る時には現れず、日本に居る時に発生する。

誰かと一緒にいることに慣れてしまうとこうなるのか。

それとも、寂しさを埋めるために呟くのだろうか。


そこで歩いていた足を、ふと止める。

・・・やめると言っておきながら考えを止めることができない。

上を向いては吐息を漏らし、下を向いては降り注ぐ雪にシャルルを重ねる。


「・・・降りみ降らずみ・・・」

彼女はまた呟いた。

降ったりやんだりする天気の模様を、そう言うのだ、とシャルルから教わった。

まさに、今の彼女がその状態だった。

この空のように。

この雪のように。


彼女にシャルルの溜息が降り注いでいるようだった。

大きな嘆きの雪を落とすこともあれば、彼女から音を奪ってすべてを包む。

そうかと思えば切り刺すような冷たさを与え・・・・暖かさというものがいかに得難いものであるのかを知らしめる。

彼との日々は、これまでマリナ・イケダが経験したどんなものと違っているのだと思った。



・・・難しい問題なんてない。


ただ、世の習いのように、クリスマスとかニューイヤーとか・・・日々のそんな区切りや節目に彼の温度を感じていたい。ただ、それだけだった。

彼が夢や幻や雪のような淡さしか遺さない存在ではないことを感じていたかった。シャルルは激しい焔を持ち合わせているのに。

炎も雪も同じだ。

その中心をつかみ取ることは出来ない。


けれども、彼はいつもマリナだけを見続ける。

彼女の願いをすべて叶えてやろうとする。だから願いを口に出来ない。

その代わりに、マリナは「決して離れない」と彼に言った。

それがすべてに勝るとシャルルは微笑んだ。あの時と同じ、美しいこの世のものとは思えない微笑みだ。


しかしそれでも、マリナの都合や気分で彼の予定を変更することができない。

だから・・彼女はシャルルのことをそのままにしておくことができない。

しかしその一方でわかっていた。

こういった定点で立ち止まって欲しいと彼女が言わない限り、彼は休息しない。彼女と一緒に過ごす時間を多く作ろうとしてなお、その時間を捻り出すために、より多くの労力を費やしている。

マリナはそれを知っている。



≡04


また足を踏み出した。

・・・あの時。小菅で別れた時には足を踏み出すことをしなかった。

それは自分で選んだ路であったし、その選択を後悔はしていない。それなのに。

どうして、彼女は、今、迷っているのだろうか。


肩の鞄が重く感じる。それでいて軽く感じる。そこには自分のすべてが入っていると思ったが、決してそうではないのだと知っていたのに・・・それがすべてだと思うことにしていた。

もう、友人の記録を残したリストは持ち歩いていない。

必要なかったから。

思い出すことが出来ない者も居る。

全員を覚えていることが出来ない。

それは記憶の容量の問題ではないことも知っていた。

あれほど大事にしていたのに。


・・・家に戻ったら、シャルルに連絡をしてみようと思った。


ただ、伝えれば良かっただけなのに。

一緒に居たい、と。

何度もそう伝えると、その言葉の価値が薄れるような気がした。

慣れてしまうのが怖かった。

それを言えば、シャルルではない別の人との日々を否定することになると思った。

そんなことは決してなかったのに。

だから繰り返さなかった。

彼は繰り返し彼女に愛しているよと囁くのに。

普段は繰り返さないのに。


でもそれまでは、彼のことを考えることだけに時間を費やすのは、この路を歩いているときだけだ。

何かに気を取られていれば、彼女の雇い主はすぐに気がつく。

そしてとても柔和であるけれども、公私混同はしない。徹底している。

もし、そうして求められた仕事をすることができなければ、彼女を赦さない。

中途半端に考え事をするくらいなら、すべてを破壊してしまい、何もなかったことにした方が良いとさえ考える気質の持ち主であることを知っている。


寒烈な空気がまた、入り込む。


雪とともに吸い込まれて行けばよいのに。

そうなったら、この淡雪は真白でなくなるだろうか。穢れを吸い込んで・・・その後はどうなってしまうのだろうか。


彼女はまた溜息を漏らした。

「シャルルの声が聞きたい」

また、呟いた。

ここを出れば人通りの多い場所に出る。独り言を言う気楽さを自分に許可できるのもこの路地までだった。

そこの路地を曲がったら、彼女は日本で暮らすマリナ・イケダになる。

帰ったら、まずは姉と妹から送られて来たクリスマス・カードの礼を連絡しよう。時差を考えて、シャルルにはメールを送ろう。


自分で予定を調整したのに。なぜか、どういうわけか、離れると次のパリ行きの予定を考え始める。


「・・・それが願い事?」

後ろから、声がしたので、マリナがぎょっとして口を噤んだ。

その声を良く知っていた。

自然に足が止まり、肩の鞄にあてていた両手をぎゅっと握る。

雪が、彼女の肩にも鞄にも沓にも落ちてきた。

心臓が止まったと思うくらいに、驚いた。驚愕したときには一瞬動きが止まり、それから次に何かがふいと持ち上がったような、そんな感覚を味わう。

軽い耳鳴りに似た動悸が唇から漏れそうになった。

・・・今まで溜息ばかり吐き出していたのに、今度は大きく息を吸ったものだから、冷気が器官を刺激して少しばかり肺の動きを感じる。


「シャルル」

彼女は振り向かなくてもその声を知っていた。

淀みなく流れるように日本語を話すが、彼はフランスの華と呼ばれているフランス人だ。

そして、今、ひとり嘆きの言葉を呟きながら考え事をしていた理由になった人物だった。

彼女はここがパリではなく日本の東京であることを頭の中で確認しながら、振り返った。

馴染みのある街並みや住宅壁の狭間を通るアスファルトの上に、彼は、居た。

天使が舞い降りるときはこんな風に静かで予告がないものなのだろうか。

神の降臨を知らせる使いの者というのは、こんなに・・・静かにやって来るのだろうか。それとも、雪が見せる幻影だろうか。


彼は不機嫌そうに立っていた。長身に良く似合う、少し長めのコートを着ていた。

呉須色の外套に、白金の髪が良く映えていた。

そして、白い肌は雪と同じくらい白く、整った顔は無表情だったが、彼女は彼が立腹していることがすぐにわかった。

青灰色の二重の瞳の晄が鋭かったからだ。これは彼が時差を調整しないで移動しなければならないときによく見かける表情だった。

余裕のある旅程ではなく、彼は移動中も機内や車内で仕事をしており、時差を勘案して睡眠をほとんど取っていないからのことだった。

・・・つまりは仕事に疲れており、睡眠不足で、その上、滅多に寒空をこうやって歩くことのない身分の彼が寒空の下にいることに、シャルルは不機嫌になっているのだ。


「シャルル・・」

呆気にとられて、マリナが彼に近寄ることもしないで立ち尽くしていたので、シャルルは低い、怒気を含んだ声で彼女に言った。

彼は腕に光る、スピーク・マリンのピカデリー・コレクション Q.P.スケルトンを眺めながら、眉を僅かに顰めて、彼女の数歩後ろに立ちながら、言った。

「マリナ。君がいったいいつになったらオレに気がつくのか、アパートを出てからここまでの時間を今、教えてやろうか?」

「気がつかないよ。声をかけてくれないから」

マリナが慌てて言った。

そして彼の言葉に驚いて返答する。

「アパートの前で待っていたの?」

彼は憤慨で表情に乏しくなった顔をマリナに向けた。日本人の柔和な憤りになれてしまっているので、シャルルの険しい顔に鈍感すぎる、とシャルルに窘められたことすら忘れて、彼女はシャルルにそう言ったので、彼は大きな溜息をついた。

マリナよりずっと背が高いので、彼女の漏らす雪の嘆きの位置からだいぶ空に近い場所から・・・彼の吐息は空に戻っていく。

「正確には、到着したらマリナが出てくるところだった。声をかけたが、一心不乱に考え事をし、かつ独り言を言っているのか、雪と交信しているのかわからない状態でふらふら歩いているので、それがいつまで続くのか観察していただけ」

「ふらふら・・・」

「そう、ふらふら。君はこんな細い路地でさえ、まっすぐに歩けないらしい。平衡感覚に異常があると感じるなら一度検査を受けることを、提案するよ」

そうか。

だからこれほど路が長いと感じていたのか。

二直線の和は残る一直線より長いという定理を昔、学習していたが、さらに距離を長くするためにはいなずま状に交互に折れ曲がった線で歩くと当然に距離が伸びるということを思い出していた。

それはシャルルが言っていたことだったが。


「まるでマリナそのもののような歩き方だった。

おまけに雪は降ってくる。

それなのに足を速めるどころか時折立ち止まる」

「ちょっと考え事をしていたのよ」

マリナがそう言って雪の中のシャルルをぼんやりと見つめた。

まるで夢の中のような、幻想的な彼の立ち姿に、彼女は茶色の瞳を向ける。

「それに・・・私はふらふらしてないよ」

「言葉が悪いなら、ふらふらでもよろよろでも蹣跚(まんさん:足元がよろめく様)でも良いが」

彼が何を言いたいのかわかっていたので、それ以上はそのことについて会話をすることをやめた。

パリと日本を往復していることや、マリナがシャルルに対して距離を置こうとしていることを指し示しているのだと思ったが、シャルルはその先の答えを知っているように思ったからだ。

彼は腕時計から目を離して、ゆっくりと美麗な顔を彼女に向けた。



≡05


「私、これから出掛けないといけないの」

「知ってる。だから外に居るのだから」

シャルルがそう言ったので、彼女は首を少し傾げて微笑んだ。

そういう微笑みをするときは、彼女は大人の女性の顔を見せるが、普段はとても幼く見えた。

若く見えるのではない。

・・・幼いのだ。


そのマリナの茶色の少し癖のある髪の毛が雪を受ける。

そしてその雪が溶けて、彼女の髪に雪雫をもたらす。


・・・彼女は気がついているのだろうか。


いつも自分以外のものに目を向けていて・・・彼女は自分自身に降りかかる浄妙について目を向けることはない。

彼女は・・・髪に乗った喜雪の儚さを知っているのだろうか。


「通りに車を待たせてある。それで行けば良い」

「・・・・助かるわ、ありがとう」


素直に彼の申し出を受け入れることにする。

彼女の出で立ちから、きっと・・・あの柔和な表情を絶やさない、眼鏡の奥に知性を備えた人物の元に行くのだろうと予測がついた。

渡さない、と言っても彼女は行くだろう。行くなと言っても彼女の心は止めることは出来ない。

彼だけしか見つめることの出来ない人を愛したわけではない。

そういう人物の愛はいつも一方的であった。しかしマリナ・イケダの愛というものは実に興味深く・・・そしていつも彼の愛でているマリナだからこその発言を心地好く受け入れることにする。

そう、彼女を愛していることにはかわりがない。


けれども・・・

彼は正直にそう伝えることはしなかった。


「でも、オレは君の送迎のために来日したわけではない」

「はい」

マリナが素直に頷いたので、シャルルは意外だと言うように、青灰色の瞳を少し大きく開いた。

「マリナ・イケダが素直だ・・・これは雪が見せた幻聴か幻影か?」

「シャルル」

彼女は縮まらない距離をそのままにしてシャルルの名前を呼んだ。

「来るなら連絡をしてくれても良いのに・・」

シャルルはマリナのアパートに足を踏み入れることも、泊まっていくこともしなかった。

いつも都内のホテルを滞在先にすることにしていた。

それにも理由があったのだが・・・


それでもシャルルのこたえを待たずに彼女は笑った。

「これは贈り物だと思うことにする」

「声があればそれで良いという君の言葉は無効?」

「有効」

彼女は短いこたえで言葉を句切り、そして笑った。

「シャルルはいつも・・私の想像を超える」

「お互い様だ」

そう言い終わるか終わらないかと同時に、彼はふっと動いた。

シャルルはマリナのすぐ近くまで移動する。

誰もがここまで近寄らない。

赦されているのは、特別な・・そう、特別な関係にあり、近寄ることを認めている相手だけだった。

そんな彼女の恋人からは、雪の香りがした。

そして彼の衣類からは・・薔薇の香りがする。懐かしいとさえ思う。

パリのシャルル・ドゥ・アルディの居住邸の香りだった。


見上げれば、彼の精悍な表情が、雪の舞う空に溶け込みそうなほど儚い様を見せた。

もっと近い距離と温度を知っているのに。

マリナはそれ以上近寄ることが出来ない。

あまりにも・・・・あまりにも美しい表情だったから。

神や神の使徒が降り立つ場面はきっとこんな風だったに違いない。

突然・・静かにそれは始まり、そして予定されていない出来事に皆が驚愕する。

・・・人通りの少ない路地で良かったと思った。他の者が居れば、きっと、シャルルの神々しい美しさに自身の時間を止めてしまうのだろうと思った。



≡06


「それで、君の願い事はそれだけ?」

「願い事はたくさんあると叶わない」

彼女がそう言ったので、シャルルは薄い唇を横に引いて、苦笑した。

彼がかつて、たったひとつの願いを叶えるために、すべてを捨てたことをマリナが知っているからだった。

彼女は普段口にしている欲求は多いが、実際にそれを与えよう、というと途端に「いらない」と言う。

他者から与えられたものがいかに虚しいか、大人になって知ったようだった。

いや、あの時代にも知っていたように見受けられる。

それでも彼女の本当に欲しているものが何であるのかということについて、マリナは気付いているように見受けられた。


彼の誇りはすべてを捨てる勇を彼に与える。

白金の髪の青年は、冷たい微笑みを浮かべることが良くあった。

過去を思い出している時・・そしてマリナ・イケダと共に在った時以外の時を思い出している時だ。

青春の輝きと呼んだ時代を除いたそれ以外の時間は、彼にとっては冷たい雪のような時代だったのかもしれない。

決してそうではなかったのに。

彼は、マリナと一緒に居ることによって、マリナと一緒に居なかった時間を切り離しているようだった。

彼女の存在しなかった時間を・・・こうやって冷たい微笑みで凍結してしまっているようだった。


シャルルは腕を伸ばして、そっと・・・彼の恋人に細く長い指を伸ばした。

髪に血管は走っていない。だから体温はない。

それなのに、彼女の温度を感じて、彼は一瞬、指先を浮かせて引いたが、そのまま茶色の髪に指先を絡める。

肩に伸びた茶色の髪に群がる雪片を、彼の体温が奪って玉水に変化させる。

まるで、雪という装飾に覆われた茶の樅木のようだった。

常緑樹である緑より生命力を感じる茶の枝葉を愛おしく思う。

彼女の独特の茶色の髪と瞳は、彼を・・・安堵させるが困惑も呼び起こす。


彼の感情を揺さぶるのは、今ではマリナ・イケダだけだった。

この先もそうで在れば良いのに、と思う。

彼女以外にはそれを赦すことはなかった。

シャルル・ドゥ・アルディがそう決めたから。

巡り会って、再び彼女と時間を過ごすことについて、何も考えていないわけではなかった。


「急ぐのだろう。・・・送るよ」

彼はそう言って、マリナの隣に彼の身体を並べる。

それまではとても遠い距離だと思えたのに。

足を踏み出してしまえば、それはとても短い距離だった。

そこに踏み入れるまでには・・とても長い葛藤があったと言うのに。

彼女の持っている世界について、彼が介入することはほとんどなかった。

こういう関係も悪くはない。

しかし彼女はいずれ、アルディ夫人と呼ばれる身分になる人間であった。

彼女以外は考えられない。

そして、マリナをシャルルの戯れの情人に終わらせるつもりはない。

彼女は数多いた彼の恋人を名乗る者とは違う。彼女こそ・・・雪の恋人なのだ。

雪が降っても降らなくてもマリナ・イケダは彼の想い人だ。

春夏秋冬どんな季節が訪れても。

冬の別れを経験して、その先の春を知る喜びを互いに味わっていると信じて居る。

だから・・だからこそ、冬でも彼は彼女を旅立たせる。

あの冬の思い出は決して幻でないと思っているから。

青春の輝きの時代に味わった、背に浴びるマリナの視線を・・彼は忘れることが出来ないから。


今でも。


ふたりだけで居られる時間も距離もそれほど多くはなかった。

この角を曲がれば・・大通りに出て、人混みに紛れてしまう。

そうなれば通りに待たせている車まで急ぎ足で進しかなく、そして車に乗り込んだとしても、それほど距離のない目的地までの時間にゆっくりと余裕の持った時間の中で、話をすることはできなさそうだった。

彼女はいつも蜻蛉のように、淡く、儚く、そして掴みs所がない。


・・・この雪のように。


彼はマリナの肩を軽く叩いた。

神経質そうな指先で、とんとん、と彼女の小さな肩を軽く震動させる。

そして彼女の存在を指先で感じる。

指先に、暖かく炎が点るのを感じる。


でも手の平全体で感じることはない。


・・・彼女の肩を丸ごと・・肩も含めて身体ごと抱いてしまえば、その先の彼女の行動を制限してしまいそうになるからだ。


「・・・私の言葉ばかりではなく、シャルルの言葉は?」

マリナがそう言って、シャルルの顔を見上げた。

あと数歩先を行けば、彼と彼女だけの雪ではなくなる。

降りしきる雪が落ちる中で、マリナはシャルルの静かな願いを確認しようとしおた。

彼が・・・何を願望としているのかはわかっていたが、それを口にするシャルルの言葉を聞きたかった。

言葉にできない願いをマリナは聞き入れることは出来ない。

なぜなら、彼女はシャルルを愛しているから。

黙っていてもわかるだろうという価値観は、シャルルに通用しない。

彼女の言葉にならない言葉を彼が求めているように、彼女も・・・シャルルの言葉を求めている。

直接的ではないのに、それでいて・・・静かな大きな激しい願いを抱いていることを、この時に感じる。


「・・・独り言の声量が大きくなっていくのは、加齢のためなのだろうか」

彼がそう言いながら、空を見上げた。

雪が激しく降ってくると思ったのに・・シャルルが空を見上げたら、その雪は不思議なことに小さく鎮まってしまった。

彼は雪の精霊なのだろうか。それとも・・雪の形を借りた薔薇の精霊で・・・マリナとの時間は淡く儚いものだと強調するための存在なのだろうか。


≡07


「お互いに年齢を重ねたのだから、と言う前向きな言い方にして欲しいものだわ」

マリナ・イケダがそう言ったので、シャルルはまた小さく微笑んだ。魅惑的な微笑みであったが、挑戦的でもあった。

彼はいつも自信に満ちており、それでいてひどく傷つきやすい繊細な神経の持ち主だった。

「独り言というのは、そういう理由から発生しない」

「そう。でも意識して改善する範囲も限られているから、仕方がないなと諦めて」

「諦める。・・・シャルル・ドゥ・アルディが?」

彼がそう言いながら、マリナをちらりと横目で見た。

青灰色の瞳が彼女に注がれるので、歩きながらでもマリナは自分の頬が紅潮するのを感じた。いつになってもこういうやり取りは慣れない。

「そう。私を変えることは出来ない。・・・少しはできるかもしれないけれど。でも私自身にも思い通りにならないから、私なのだと諦めるというよりかはむしろ・・認めて欲しい」

「それなら昔から・・・最初からそうしていたよ」

シャルルはそう言うと、くすくすと自分の言葉に声を漏らして笑った。

彼を包む冷たい空気が一瞬だけ温度が上がったような気がする。彼が意識しない微笑みというものは、年齢相応に若々しい。

それでいて、華のように美しい。

「しかしある意味、諦観しているよ」

「どうして?」

諦めないと言ったシャルルが自身の言葉を覆すような台詞を言ったので、マリナは茶色の瞳を少しだけ大きく開いた。

彼はこういったことに関しては忘却しないし、誤ることはなかったからだ。

シャルルは魅惑的な声で言った。

マリナの問いではない違う話題だった。

「それにしても、マリナの独り言は声量が大きすぎる。それくらいは調節できないのか?」

「努力します」

マリナが澄まして言った。

普段通りの会話のやり取りに、彼女は少し安堵する。

シャルルが今まで憤っていたことは忘れていないとわかっていたが、それでも、彼とのこういうやり取りが・・・懐かしいと思った先ほどの寂しさが、目の前に散る雪のように溶けて消えていく。

・・・今夜の雪は積もらないかもしれない。


「それなら」

彼はマリナの隣に並んで、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。

それでも、彼の一歩はマリナには一歩半だった。

大変に身長差があったが、それでもシャルルはマリナを追い越しては行くことはしない。


シャルルの白金の前髪が揺れた。

そして青灰色の物憂げな瞳を空に向ける。

雪が一瞬だけ止んでいたが、今にも再び降り出しそうな空だった。

「・・・マリナが願い事を言うのであれば、オレも希望してみよう」

「何を?」

彼女が興味深そうに、彼の顔を見上げた。

「・・・降りみ降らずみ」

その先に言葉があると知っていたマリナは、彼の続きを待った。

結論から言う時には、彼女に何かを伝えたいときだけだった。彼は帰結のみを述べるので、過程について述べたりしない。彼女に説明するときだけだ。

昔、その過程を述べると誰もが嫌がったから、いつの間にか・・・そうすることをやめてしまっていた。

彼の思考は誰も理解できないのだと思い知る瞬間を多く持つことを放棄した。

それなのに、マリナ・イケダに関してはそうしなかった。

なぜ、どうしてそう考えるのかを、事細かに説明する。

マリナはそれをいつも黙って聞いていた。

途中で話を遮ったりしない。理解できなくても最後まで聞いた。

・・・彼が彼女に理解されていると思う瞬間だった。

「それがシャルルの願い事?」

先ほどマリナが呟いた言葉だった。彼はそれを聞いていたはずなのに、同じ事を繰り返した。降ったりやんだりするという意味合いのその言葉には、短くても多くが含まれていた。

マリナが何かを決めかねており、シャルルに何かを伝えきることができていないことを指していた。でも彼ははっきりとそうは言わない。

「マリナの願い通りに、声を届けた。今度は、オレが願いを届けることにする」

「・・・だから、それがシャルルの願いなの?」

ノンともウイとも言わないで、静かに微笑むシャルルに、マリナが淡い吐息を漏らす。また・・・白い華が空に浮かんでいく。


「・・・・降っても止んでも、傍に居ても居なくても。

・・・どこにいても君のことを考えない日はない」

シャルルが前を向きながらそう言ったので、マリナは足を止めた。シャルルの広い背中がゆっくりと数歩先まで進み・・・そして、彼は立ち止まった。

かつん、と彼の沓音が響く。

音はすべて消し去られた雪の世界が、一瞬だけ・・雪が止んで、元の世界に引き戻されたような感覚が訪れる。

シャルルはこちらを振り向いた。

整った顔が雪のあかりで白く光っているような気さえする。

彼の髪にも背中にも、雪水が煌めいていた。


シャルル・ドゥ・アルディは空を見ながら、言った。

静かに。けれども強い口調で。


「・・・だから諦めてくれ。オレが君を諦めないことを」


マリナ・イケダは息を呑んだ。雪の精霊のような、優麗な人に、そのように囁かれたら誰でも天に昇る心地になるだろう。

けれども・・・マリナは、ただ息を潜めて、彼の立ち姿を見つめているだけだった。


彼は白い天景を眺めながら独り言にしてははっきりとした声で言った。

「・・・君の背中を見ながら思った。誰かの背中を見つめるのはとても・・・そう、とても苦しいことなのだと判った」

あの時のことを言っているのだと思った。

シャルルを背中を彼女が見送った時、マリナが何を思っていたのか・・・

その後に彼女が何を思ったのか、彼は理解しているようだった。

その瞬間にそう思わなくても、その後になって思うこともある。

だから彼はマリナに声をかけなかった。

だから彼はマリナの後ろをついて歩いた。


「・・・・オレは見送らないからそのつもりで」

彼はそう言って微笑んだ。

「・・・随分と大きな独り言ね」

「加齢のせいかな」

シャルルはそう言った。マリナはシャルルのその言葉に目を細めて笑った。

降っても止んでも、彼の気持ちは変わらない、と言われて、彼女は言葉を返すことが出来なかった。

彼の深い愛が・・・寒くて凍えそうな胸に染み入った。


「年齢を重ねることは悪いことではないわ。決して」

「肯定もしていないが、否定もしているつもりはないが」

マリナがくすくすと笑った。

彼のこたえはいつも・・・マリナを微笑ませる。

鞄の中身は変わらなかったのに、どういうわけか、少しずしりと重くなったような気がした。

彼女のすべてが詰まっていると思っていた鞄の中身が・・一度は軽くて何もないのではないのかと思ったのに、シャルルの言葉によって・・重みを増した気がしたのだ。

「荷物を持とうか」

シャルルの申し出に、彼女は微笑みながら、首を振った。

「これは自分で持たなければならないから」

そこには、彼女のすべてが入っている。

だからどんなに重くても・・・重くないことを歎くほど軽いと感じても・・・それは自分で背負わなければならないと思ったから。


たとえ、雪が降っても。そして止んでも。

シャルルのことを思い出さないことはない。パリに居ても、日本に居ても。

そして・・・

彼の背を見て苦しんだ日々があるから。

彼と彼女はあれから長い年月を経て、大人になったから。

だから、シャルルと一緒に居られるのだ。


それはシャルルも同じだと・・・彼は呟いたのだ。

まるで独り言のように軽く言ったが、彼女の負担にならないようにそうしたのだと思った。


けれども。

彼の言葉は・・・どんな贈り物よりも貴かった。


「素敵な贈り物ね」


シャルルに小走りで駆け寄ったマリナは、彼の背中に・・・・身体を傾けて、静かに額をあてた。

もう、立ち止まらないと思った。

立ち止まって、彼の背中を見送らないと思った。

これからは・・・シャルルがそうしたように、彼の背中についていこうと思った。

彼の一歩は彼女の数歩であったけれど、それでも・・・・彼女が追いつくまで、彼はああして背中を向けながらも立ち止まってくれると信じて居たから。

そして、彼はマリナが走り寄ってくるであろうと信じて居るから。


「降りみ降らずみ・・・今度の作品のテーマにしようかな」

彼女はそっと言った。

シャルルの声が背中から震動となって伝わり、彼女の額に響く。


「おい、オレと一緒に居るときには仕事に結びつけないでくれよ」

シャルルが呆れたようにそう言ったが、その声音は柔らかかった。

「・・・・シャルルはいつも私の想像をはるか向こうからやって来る」

「想像を超えるのではなくて?」

「そう。向こうからこちらにやって来る。

だから・・・私を飛び越して行ってしまわないかと思ってしまう」

「それはないな」

彼は冷笑した。

彼の背中に回っていたマリナの肩に腕を回した。

僅かに振り向いて・・・そっと脇に寄せる。

薔薇の香りをもっと近くに感じた。

雪がまたひとひら、落ちてきた。

今度は、ふたりの間に降り落ちるのではなく、静かにそっと・・・彼と彼女が触れている狭間に落ち、そしてすぐに溶けて消えた。


淡雪だからではない。

・・・ふたり分の体温がそこに在ったから。


瞳を閉じて、彼の名前を小さく呟いた後、マリナはそっと彼女の恋人に言った。

「迎えに来てくれてありがとう。でも、もう行かないと」

「・・・マリナ、オレは雪空の中、君を待つ情けない男に成り下がったわけではない」

シャルルはそう言うと、彼女から身体を離しながら言った。

・・・また、雪が降ってきた。

彼女が不思議そうに顔を上げると、シャルルは彼女の頬を両手で押さえる。

雪が本降りになって来た。

降ったり止んだりする、不安定な空の下で、彼は彼女に囁いた。

茶色の瞳に、魅惑的な青灰色の双眸を彼女の瞳に近付ける。

「・・・雪が本降りになって来た。オレは雪空の下で濡れるのは好まない」

シャルルはそう言って、甘い微笑みを浮かべる。

それは彼がかつて・・若い頃に、彼女に向けた微笑みと同じだった。

彼はその時、自信たっぷりに、言ったものだった。

・・・彼なしではいられなくしてやろう、と。いずれそうなるだろうと。

・・・身も心も彼のものになりたいと思うと宣言した。

その時と同じ微笑みで、彼は言った。


「マリナ。仕事の終わりまで待とう。

しかしその後は・・・帰り道は帰り道にならない。

・・・・雪を浴びることはないと思え」

それは彼の布告だった。

・・・今夜は雪がこのまま降りそうであったのに。

傘を持たないマリナが雪を浴びないということは・・・そのまま彼は連れ去るつもりだと言っていたのだ。

「あの、私、今夜は・・・」

「駄目だ」

彼は肩を抱いて、マリナが逃げ出さないように彼の身体に引き寄せながら言った。困惑したマリナの顔は・・・とても幼い。

あの時を思い出すが、それは再現ではなかった。彼と彼女は大人になったから。

距離を感じ、時には共に居られなくても・・・降りみ降らずみの定まらない空気の中で息づいていたとしても。

それでも、声が聞きたいと思い、一緒に居たいと思い、相手のことを考える。


・・・これ以上の何かを求める必要が、あるだろうか。


シャルル・ドゥ・アルディは笑った。そして、少し意地悪く彼女の耳元で囁く。

「オレを待たせるのは、君だけだよ。・・・そしてオレは決して・・受けた仕打ちを忘れないから」


・・・誰も居ない路地で良かったと周囲を気にする余裕さえなかった。


マリナの抗議をまったく無視して、彼は大通りで待たせている車に向かってマリナを連れて行く。

あの角を曲がれば、もう、すぐそこは・・・人通りのある場所が開ける。

独り言を言う時間は終わりだ。

そして空を見上げて何かに思い耽る時間も終わりだ。


「しかし、その鞄の中身は・・・いずれ整理しろ」

整理整頓が不得手な彼の恋人に向かって、彼はじろりと冷たい表情を向ける。

もう、いつもの皮肉屋のシャルル・ドゥ・アルディだった。

「君の部屋は相当に雑然としているのだろうなと容易に想像がつく。

そんな場所を訪れる気になれない」

彼はそう言って、マリナを窘めた。部屋を訪ねてくれば良いのに、と言った彼女に対する返報だった。


マリナ・イケダは、彼の名前をフルネームで呼ぶ。

しかし、彼は、君は時間がないのだろう、と言って、彼女の状況を突いた。

確かに・・・今日の彼は不機嫌だった。彼の立腹を宥めることができるのは、マリナ・イケダだけである。茶色の髪の茶色の瞳の小柄な彼の恋人は、表情をくるくると変化させて、シャルルに抗議したが、決して彼が回した腕を振り払おうとしなかった。


シャルルは微笑む。

雪が降っていて、彼と彼女の躯にいくつも落ちては消えて行く中で、彼は諦めないと言った願いを叶えようとしていた。



・・・・・夜は相当に冷え込みそうだった。

朝はもっと冷えるだろう。


しかし、今夜はマリナ・イケダの部屋の暖房の主電源は入ることはなさそうだった。


(FIN)





海にいこう

海へ行こう

BGM :SEAMO「海へ行こう」



■前編


海を渡ってきたはずなのに、空港に着くなり、彼女はそう言った。

うんざりするほど海を見て空を見て雲を徒渉してきたしたのに、彼女はそう言って嗤ったので、彼はノンと言うことが出来なかった。

これから遂行しなければならないスケジュールがないことが、彼女に自由な発言をさせていた。

短いけれども珍しいオフの期間をどう過ごそうか、と相談したときに。

彼女は言った。

「どうしようかと言って過ごす時間にしよう」と。

それなら、もう、休暇は始まっているね、と言ってマリナは手を叩いて喜んだ。

彼女はすでにどうやって一緒に過ごそうかということで頭がいっぱいのようだった。

「何をしようかと考えるオフなんて、一番贅沢だよね」

マリナがそう言うので、シャルル・ドゥ・アルディは苦笑いを浮かべた。

確かにそうだ。

学生の時でさえ、シャルルには長い休息はなかった。

皆が過ぎ去ってから羨む特権が備わっていたことはなかった。

自由に自分の行きたいところを目指して誰かと行動を共にする。

義務でそうしたことは多々あったが、こうして・・・何も考えずに取り敢えず行ってみようと最初に決めた行動をシャルルは窘めることは出来なかった。

「シャルルがしたいことをすれば良いのよ」

「オレはこういうバカンスを過ごさなかったからね」

「だから、やってみようという気にならないの?」

「挑戦するには、オレの興味が沸く材料がないね」

マリナが鍔の広い麦わら帽子を取り出して、車の窓辺に寄って、そわそわと景色を眺めていたが、シャルルの素っ気ない返答に、とうとう呆れてしまった。

しかし根負けしているわけではなかった。

紫外線カットの窓ガラスは、本来の空の色をマリナに伝えていない。

時差の関係で、まだ・・・朝が早かった。到着が遅かったので、そこから車に乗り換えて、ここ数日の滞在で、最も天候が良い場所に移動することになった。

そのまま航空機を乗り継げば良かったのに・・・マリナは「車で移動したい」と言った。

だから彼は彼女の申し出を最大限尊重し、こうして・・・何時間も車に揺られて不機嫌な顔を押し殺す努力を認めて欲しいものだと内心思っていた。

これが彼女の言う「気儘なバカンス」なのだろうか。

その割には、彼女は不満があったようだった。

空調の効いた車内は静かで・・・シャルルが長い足を組んで、モバイルを小さなラップトップに接続し、なにやら通信をしながら答えていたので、マリナはそこでシャルルに向き直った。

「バカンスだって言うのに、何をしているのよ。

そういう文明の利器と一緒でないと、生活できないってわけでもないでしょう」

「できないよ」

あっさりと彼はそう言ったので、マリナが頬を膨らませた。

彼の無表情や、素っ気ない冷たい言い方には、慣れたつもりでいた。

が、こうして自分ひとりがはしゃいでいると、気分の高揚感の差が気恥ずかしくなってくる。

「これからの滞在先を確保しなくてはいけない。食料も。

適当なホテルがあればそこに滞在するけれど、マリナの希望する海岸に近接する宿泊施設の空き状況を確認するように細かく指定しなければ、後ろを走る秘書が困惑して、ひっきりなしにオレのモバイルフォンに連絡してきても良いのか?

・・・それからセキュリティチェックも。

ここはオレの持っている通信機能がほとんど通じないから、この国のモバイルをわざわざ用意して、こうして接続しなければ情報収集も手配もできない」


本当は、マリナが、シャルルとふたりだけで、何も煩わしいと思わない空間で静かに過ごしたいだけなのだということはわかっていた。

だから運転手がついて、このような時間であるにも関わらず・・・その後部には身の回りを手配する専用の秘書が乗り込む車が併走しているのを、快く思っていないのだ。

彼女は海に行こう、と言ったが、その言葉を実現するためにどれほどの人が動くのかを、身を持って知ったのだ。

けれども、それを顔に出せば、今回のシャルルの気遣いが無になる。

だから彼女は遅鈍な様子を装っているに過ぎない。

しかし、煩わしいと思わないために、煩わしい雑事を済ませなければならない。

それは、彼女もわかっているから・・・ああしてシャルルの分まで引き受けたとでも言うかのように、海への憧憬をひとりずっと語り続けているのだ。

「マリナは何をしたいの?」

静かに、シャルルはマリナに質問した。

終始彼女を独り占めできる時間はほとんど無い。

長い時間をシャルルと過ごすことを、彼女が畏れている節があった。

彼が愛しているのは、あの少年時代の頃に出会ったマリナ・イケダであって、今の・・・大人になった彼女は酷く凡庸であると自分で定めてしまっているようだった。

彼が惰性で彼女の傍に居ると思っている。まったく残酷な人だ。

彼を時折、マリナが『酷い人』と冗談めかして言うが、彼女の方こそ暴戻の限りを尽くしていると言っても過言ではない。

「二人でどこまでも・・・誰も知らないところで過ごすのは今度のオフにしてくれ。準備しなければならないから」

「それでは意味がないでしょ」

彼女の言葉に、シャルルがその時初めて、ふと、顔を上げた。

白金の髪が揺れて、物憂げで上品な瞳がマリナを見つめる。

彼女はそこで言葉を切った。

あまりにも美しすぎる彼女の思い人は、彼女に微笑んだ。

「君の言うように、海にやってきた。間もなく夜明けだから・・・今日はマリナの希望する海水浴だってできるだろうし、海の幸というやつも堪能できるだろうね。

今日は・・・・マリナの希望のとおり、オレが仕事に集中できない程に通信が途切れそうな場所に滞在することになるだろう。・・・それで、マリナ。君は何をしたいの?」

彼は間もなく目的の場所に到着することを察して、マリナにそう言った。

まだ暗い路を走る車内で、彼女は紫外線を浴びるわけでもないのに麦わら帽子を手に取り、砂丘を歩くために沓を履き替えている。

彼は茶色の瞳の茶色の髪のマリナを見つめた。

大人になって・・・彼女と巡り会った。妄二度と離れないと誓った。

それなのに彼女は時折・・こうしてシャルルを困惑させた。

それでも・・それでももう、彼女を手放すことができない。彼女が離れたいと言っても。

自分が、彼女を愛しているのか、それとも、愛にしがみついているのか・・・時折混同しそうになる。



■中編


「まだ海は冷たいね」

「日が昇って気温が上がれば大丈夫だろう」

マリナが歓声を上げた。

沓を脱いで放り出し、彼女は嬌声を上げて、海に飛び込もうとしたが、水着ではないことと、足首まで使った海水がまだ冷たかったので、そこでようやく我に返ったらしかった。そうでなければ、彼女は服を着たまま・・・黒紫の海に飛び込んで行ったことだろう。

泳げないと言うのに、彼女は水や海に憧れる。これはまったく不思議な現象だった。

彼女の過去に・・・何か、影響されるような出来事があったらしいのだが、覚えていないらしい。

彼女の小さな足跡が砂辺に刻印を押していくが、それはすぐに波音とともに、白い波に消去されてしまっていく。まるで・・・彼女が海から上がってきたかのように、彼女は、陸からではなく海から上がってきたかのように見えた。


スカートの裾を僅かに持ち上げて、彼女は膝まで海に浸かった。

夜の海には出てはいけない。

彼女はそう教えられたそうだ。

でも、夜の海は、綺麗だよね、とマリナは笑う。

このエリアまで来れば、宿泊施設のプライベートビーチだから、誰も人はやってこない。知って知らずか、彼女は海岸に到着するなり、夜明けを待たずに海に出てみたいと言い出した。

人が来ない時間の方が良いでしょ?と悪戯を思いついたかのように言ったので、シャルルはノンと言えずに、そのまま黙って荷物を持たずに、そのままマリナの言葉に従うことになった。

特段眠りたいとも思っていなかったので、シャルルはため息を軽くついて、彼女に車から引っ張り出されながら海岸に出た。

潮の香りが・・・理由もないのに懐かしく感じる。


まだ必要でもないのに、麦わら帽子を深く被っているので、肩にかかるほどまでに伸びた茶色の髪が僅かに見えるばかりで表情は見えない。

マリナが叫んだ。

「ここには月も星もある!もうすぐ夜明けだから・・・太陽も空も雲も一緒くただ!」

少女のような、少年のような口調で彼女は感歎していた。

遠浅の海が続くこの浜辺に吹き寄せる潮風が、シャルルの白金の柔らかい髪を絡め取っていく。

すぐにシャワーを浴びなければ不快になりそうなほどの潮を含んだ風であった。

しかし今はどういうわけか、決して冷涼な風とはいわないこの空気の流れが・・彼にとっては心地よかった。

彼女は髪を揺らし、僅かに持ち上げたスカートの裾が躍り上がっている。

「シャルルもどう?気持ちよいよ」

「断る」

彼は無表情にそう言った。

彼女とともに海に入って、甘い恋人気分を味わい、若い世代のころをやり直すという気持ちにはなれなかった。

この僅かな自由を手に入れる為に、彼が何を犠牲しているのかマリナは知っていたし・・・彼女が何を我慢しているのか、シャルルはよく知っていたからだ。

「夜明けの海遊びに興じる女というのは変わり者だと聞いたけれど」

「あら、最初からわかっていたことではないの?」

彼女は笑った。

「大人になって・・・それまでしなかったことをしてみようと思ったの」

「禁止されていることをやってみるとか?」「そう!」

「それは昔から破っていたことだと思うが」

シャルルが反論した。マリナは紀律を護ることもするが破ることも多々あった。

「違うわよ」

彼女が、彼に向き直った。

波の音が彼と彼女の会話を阻んでいたように感じたが・・・こうして無言になると、その音が会話に障りがもたらしているわけではないと気がつく。


「・・・さっき、私が何をしたいのかって、シャルルは質問した」

「それで、回答する気になった?」

彼女が答えないのは、忘れてしまっているのではなく、答えられないからだった。

いつもそうだった。

彼女はいつも明確明瞭であるのに。

物事について答えられないときには、はっきりと答えられないと言うのに・・自分のことについて尋ねられる途端に距離を置いてしまう。

「私は・・・シャルルと一緒に居たい。それだけだよ」

「それなら、家で寛いでも、海にわざわざ来ても、同じということなのかな」

シャルルが自嘲気味に言った。

「そうじゃなくって・・・・」


彼女は途中で言葉を切った。次に、視線を水平線の向こうにやった。

鍔の広い帽子が彼女の横顔を隠してしまっていたので、表情は見えない。

間もなく夜明けが近くなっていることを告げる鳥の声がし始めた。

海の夜明けというのは、あっという間だ。

日没よりももっと短い時間で夜と朝が切り替わる。

シャルルも顔を上げて、明け方が近いことを観測していた。

空が白んで・・・星の光が淡く小さくなっていく。

月も白くなっていき、輪郭を残して、中央部分が薄くなっていく。

そこから姿を消すのではなく、空が明るくなるから見えなくなっていくだけなのに・・・なぜか、それが自分のようだとさえ思う。

太陽のような人の光がなければ、自分は輝くことができない。

でも、傍に居たら、自分の輝きは太陽のもたらす強烈な光芒に阻まれて・・・見えなくなってしまう。

存在自体はそこにあるのに。

いつも変わらずに同じ光を放ち続けているのに。



■後編


シャルルがマリナを伴って、どこかに行こう、とあまり提案しないのは理由がある。

理由のひとつには、仕事が多忙を極めていることもあるが、彼女とはもう少しだけ、静かに穏やかに過ごす時間を優先して持ちたかったからだ。

彼の母と彼がアルディ邸で過ごした静かな時間が、シャルルの中では大きく影響している、と自分自身を分析している。何をするでもなく、ただ一緒に居る。それだけで良い。

彼の傍を通り過ぎていった人々は、彼と特別な時間を持つことを切望し渇望し、そして彼に要求した。自分の為だけに確保された時間や、特別に用意された場所でシャルルと過ごすことを彼に求める。

自分の安全を顧みずにあの手摺りから飛び降りた熱情を・・・シャルルは再び彼女たちに感じることができなかった。

それなのに、今はどうだろう。

シャルルは念願の・・・マリナ・イケダとともに時間を過ごすようになった。

これでいつ命が絶えても良いと思うのだろうと予測していたのに、結果は逆だった。

彼は死にたくない、と思うようになった。でも命が惜しいというのとはまた違う。

彼女の為になら、いつでも死ねる。その覚悟はある。

そして自分の誇りを護るためにも同様の覚悟があり、それが挫けたということではない。

この相反する・・・パラドクスに彼はまだ迷っていた。

同じように、青春の輝きの時代に得られなかった、彼女との穏やかで静かな時間を填充したいという彼の希望は、マリナには重荷であるだけで、それ以上のものには変化しないということもよくわかっていた。

わかっている。彼女は自分の全部なのに。彼女にとっては、彼は一部分でしかない。

どんなに、彼女が「貴方は私のすべてよ」と言い切ったとしても。それは本当に彼女の全部なのではない。


水平線の一点が、やがて赤みを帯びてきた。間もなく・・・間もなく夜が明ける。

朝日を見たら、車に戻るとマリナは約束していた。

これまで乾燥した密閉された航空機と車内に居たせいか、彼女は波端と砂浜の境界線に沿って、往来を繰り返していた。海水の飛沫が服にかかって、水玉の濃い色に染め上げていくことも気にしていない。彼女は泳げないはずなのに、それでも水に憧れていた。

手が届かないものを焦がれる。手に入らないから焦がれる。

・・・・彼女もパラドクスを持ち合わせているのだろうか。


「シャルル!」

ぼんやりと考えに耽っていたシャルルに、マリナが声をかけた。

「マリナ、あまり大きな声だと・・・人が来るぞ」

彼はそう言って、彼女を見遣った。

アルディ邸に居る彼女とまた少し違った、少女のような幼い動作でもって、波と戯れている。波の音楽に合わせてダンスをしているようだと思った。無秩序に踊っているようで、彼女はシャルルから遠く離れては行かない。

空の星と月の僅かな光を舞台照明に、波を音楽に、砂浜を踊り場にして彼女は海と遊休する。穏やかな波は引き潮のようで、波の勢いは静かだった。白く泡立つ波の縁取りを愛でる彼女を眩しそうに見た。

まだ日が照りつけているわけでもないのに、彼女が眩しかった。

やがて間もなく現れる太陽光の光を影響して、深紫の海は一瞬だけ暁光の緋を含んで、そして蒼くなっていくのだろう。

「シャルルへの答え。・・・・いつか、シャルルが私に『月まで行こう』と言った」

「ああ、今でも・・・それは変わらないよ。すぐにでも、行きたいくらいだ。君を連れて・・」

彼は微笑んだ。波の音が彼の最後の言葉を消した。

あのときの言葉を大事に秘めているのは、彼だけではなかった。

彼女も、覚えていた。


「私はシャルルと月には行かない」

マリナのその言葉に、シャルルは青灰色の瞳を一瞬大きく見開いた。

呼吸が止まる。

彼女の言葉が一瞬、耳に入らなかった。

いや、決して彼女から聞くことはないと思っていた言葉だったから、彼の中でその言葉の意味についてから考えなければならなかった。

彼の次の言葉は掠れていた。

少し距離があって良かった。

手が震えている。

彼はシャルル・ドゥ・アルディなのに。

この事態に・・・うまく対応できていなかった。

「そう・・・」

彼女は逆光で・・麦わら帽子が彼女の顔を半分隠していたので、どんな表情でこの言葉を告げたのか推測するには情報が足りなかった。

「月だけには行かない」

「説明が足りない。・・・・どういうことだ?」

彼は言った。ほんの一瞬だけの思考停止かと思っていたが、しばらく黙っていたらしい。

彼女の背が、赤く染まり始めていた。

朝焼けの光が、彼女の背後の水平線から顔を覗かせて一日の始まりを告げる支度をしていた。

彼は砂浜からマリナに一歩、近寄った。湿った砂を跨ぐ。

彼女は、突然やってきた大きな波に嬌声を上げて一瞬、シャルルから視線を反らせた。

「マリナ・・・どういうことだ。オレは認めないぞ」

シャルルの呼吸が今度は荒くなっていく。

彼女が申し出たこの海への道のりは、別れの路だったのかと考えるだけで・・・足下が砂浜に沈んでいくような錯覚を覚える。

もう、二度とその手を離すことはしない。

彼女が誰を愛していても、構わない。

その心に誰を住まわせていても構わない。

惨めな男だと嗤われても良いと思った。

他の誰にもそんな風にシャルルを呼ばせることは許さないが、彼女ならその資格がある。


彼女は誰と在っても幸せになれる。

誰もを幸せにすることが出来る。

しかし、この暗い路を照らして光にもなり陰にもなり、彼の狂気を一緒に愛してくれる人は、彼女しかいないと定めてしまった。

そう・・・彼女の幸せや笑顔を願っているのに・・・結局は自分の平穏を貪りたいだけなのだ。

だからこれほどまでに心が揺り動かされるのだ。

別れを切り出したり切り出されたりする経験は初回ではない。

何度もある。

けれども・・・けれども、これほどまでに揺さぶられることはなかった。


「マリナ・・・」

彼女は空を見上げた。

朝焼け独特の、薄い青灰色の空が広がっていた。

どこか遠くで鳥と蟲が鳴き始めていた。


「ここには全部がある。

月も、星も、太陽も、空も雲も。風も魚も水も。

生き物も死んで海に流されるものもある。

だから。

シャルルが手に出来る全部を、私にちょうだい。

・・・シャルルがシャルルと私のことだけを考える時間を私に、ちょうだい」

彼女はそう言って言葉を切った。

ここには、たくさんのものがあるから、どれから手をつければ良いのか、困ってしまうわね、と笑った。


「だから、月に行こう、だけではなく。

・・・・海に行こう、と。

本当はシャルルが言わなくてはいけないのよ。

同じように、星に行こう、と。風に乗ろう、と。

シャルルは月だけではなくて、私をたくさんの場所に連れて行かなければいけないのよ」口元が僅かに見えて、彼女が微笑んでいるのだとわかった。

「太陽が西から昇っても・・・間違えないのでしょう?」

彼女は言っているのだ。

彼の選択には間違いがない。

彼がマリナを選んだことは誤りでもなく、彼女を苦しめているのでもなく・・・ただ、還るべくして還ったのだ。


あの広い館で静かに過ごすだけではない。

彼女はかごの鳥ではない。

風のような人だということを忘れていた。


・・・・彼は彼女を月に連れて行くと誓った。

世界を巡ろうと言った。

彼女は本当にそうしたいわけではないのはわかっていた。しかし彼は約束した。

同時に、彼は自分が手に出来るすべてを、彼女に捧げると誓った。

だから、彼女は彼を・・万物が存在する海に行こうと言ったのだろうと思った。


ここには、彼女が言うように、自然のすべての根源がある。

大人になって・・・何をするのか迷うほどに、何から手を伸ばせばよいのか迷うほどに、彼が手に入れられるものはたくさんある。

たくさんあるから・・・たくさんはいらない、と、彼女が言っているように思えた。


けれども・・・彼が彼女の手を離さないと思うように、彼女が彼を離したくないと思っていることや、彼女にも彼女が手に入れられるものをシャルルに渡したいと思っているのだという可能性について・・・少しばかり失念していた。

彼は高慢で気高いが、愛に関してだけはいつも根拠を求めてばかり居た。

根拠ない傲慢な愛に溺れることができなかった。


マリナは言った。

「私もね、ささやかだけど、自分が手にできるものをあげたいと思う人がいるの。

でも、物はいらないって言われてしまうから。

・・・オフの時間を一緒に過ごしたいし、何をしようか迷うというような贅沢な迷いや・・・こんな風に我が侭を伝えてみたり・・・私の中のこれまで私しか入れなかった場所を、あげようと思う。

全部。全部、シャルルにあげる。だから・・・」

「マリナ」

シャルルは彼女の言葉を継いだ。


彼だけが深く愛しすぎていると思った。

だから、苦しかった。今でも苦しい。

自分をわかって欲しいとは思わない。

彼は彼自身にしかわからない。

ただ・・・ただ、こういう愛し方しかできない男なのだとマリナが肯定する限り、彼は昔約束したままに、彼女を伴って・・・どこまでも行き詰めてみたいと思う気持ちに変更はない。


「オレは間違わないし、約束を違えるつもりもないよ。どこへでも連れて行ってやろう。

たとえ・・・たとえ、太陽が西から昇っても・・・・太陽が天高く炎を出しても、ね」

彼はそう言うと、マリナに声をかけなおした。

「マリナ。後ろを見ろ。今すぐに」

え?と彼女が振り返った時。一瞬だけ、海風が強く吹いた。陸風と海風が逆転したのだ。

気温差から生じる現象だが・・・彼女が驚いたのは、マリナの大きな帽子をその風が吹き上げて、彼女の幼い顔が覗いたことに対してではなかった。

「・・・・太陽が!」

朝焼けの太陽が、空高く・・・垂直に赤い光が伸びていた。

炎の柱のように見えるそれは、天高く・・・雲を突き抜けて長く水辺線から垂直に伸びていた。

「シャルル・・・太陽が!」

「サンピラー現象だ」

彼はそう言って笑った。

振り返ると、彼の白い頬も白金の髪も・・赤く染まっていた。まるで・・・暁の天使のようだった。吸い込まれていきそうなほどに鮮やかで、艶やかで・・・そしてその瞳がマリナに注がれていた。

彼女は背後の水辺線から昇る太陽柱の現象と、浜辺のシャルルの美しい佇まいを交互に見遣った。どちらも・・・ため息がでるほど、美しい。

「海岸で、朝焼けで見られるのは珍しいな。どこでも条件が整えば見られる現象だ」

「そうなの?私は・・・初めて見た」

「だろうね。君がこれをオレに見せるために、海に行こうと言ったとは思えない」

彼の辛辣な言葉に、マリナが反論しようとして唇を開いた時だった。

「マリナ・・・こちらにおいで」

彼は手を差しのばした。

「これから気温が高くなるとは言え・・・・体温が海水より低くならない限り、君の体温は海に奪われ続ける。せっかくの余暇を夏風邪で台無しにしたいのなら、休憩を取らずにそのままで遊泳してきてもらって構わないぞ」

「私、泳げないんだけど」

「だったら海に行こうと言うな」

シャルルは冷たくそう言って横を向いたが、それは決して激憤の表情ではなかった。

「何よ、何が『オレは認めないぞ』なのよ」

彼女がそう言ったので、シャルルは少し厭な顔をした。

先ほどの・・・彼女の言葉を的確に捉えなかったために発した自分の言葉を、マリナが繰り返したからだ。

彼女は足を大きく振り上げながら、海から上がってきた。

帽子がずれて、スカートをたくし上げたその格好は、とても・・レディとかマドモアゼルとか言う称号をつけることが躊躇われる程の蛮行だった。

それでも、赤い暁光柱に心が引かれるようで、やがてその柱が細くなり、消えてなくなりそうになるまでは、何度か立ち止まってはじっと見入っていた。

・・いつもは幼い顔立ち故にあどけなく見えるのだが、そのときの横顔だけはひどく大人びていて、彼女が何かを考えており、声をかけてはいけないという厳然とした雰囲気を出していたので、シャルルは黙ってその様子を見つめていた。


「さあね」

彼は滅多にこういう答えを出さないのに。

今回はその答えを曖昧にした。

マリナは少し頬を膨らませたが、あのサンピラー現象への興味が尽きていないらしく、すぐにその話を切り出した。


「どきどきしたわ。・・・シャルルは、ここがこういう現象を観測できる場所だって知っていたの?」

「オレが何を調べものをしていたと思っていたの?」

マリナがようやくシャルルの傍まで距離を詰めたとき、彼女の質問にシャルルは呆れた酔うに言った。

「呆れた」

マリナがはしゃいで海で過ごす休暇についてあれこれ話しかけていたのに、シャルルは一切を無視して、ただモバイルとラップトップを操作して居るだけだった。

一体、いつの間に・・・とマリナが呆然としていると、彼はくすりと笑った。

呆れたのはオレの方だよ、とシャルルが言った。

「限られた時間を有意義に過ごさないとね。マリナのように・・・さて、これからどうしようと考える時間は、君とオレとでは違うから」

ああ、ここも紫外線がきついな、と言って、シャルルは朝焼けの炎で夜の眠りから起こされたかのように満ちてきた潮に目を配りながら言った。

「行こう、マリナ。潮風にあたったまま、朝食を食べるなどとは言わないでくれよ。

ここのホテルのテーブルマナーは煩いので有名だぞ。・・・楽しみだな。箸の使用は一切禁止だから・・・・朝から魚介類を器用にナイフとフォークでさばいてくれよ。もちろん、手づかみしようものなら、その瞬間に皿を下げられるから、そのつもりで」

「何よ、それ。マナー研修に来ているみたいじゃないの」

マリナが目を丸くしてシャルルに抗議したが、彼は澄ました顔で答えた。

整った雄偉な表情が面白そうに彼女を見下ろしている。

このビーチの向こうにそびえ立つ豪奢なホテルでの滞在になりそうだった。

それならアルディ邸でも同じサービスが受けられるのに。

そう思ったが、彼は心が浮き立つのを感じていた。


夏の海が、そういう気持ちにさせるのだろうか。

久しぶりのマリナとの休暇だからだろうか。

目的のない余暇を過ごすことをマリナが提案して・・・そして彼に思いもかけない言葉を捧げた事に対してだろうか。

それとも・・・

それとも・・・。


ああ、マリナ。

君の思惑通りになってしまったよ。

何から手をつけようか。何から考えようか。

そう思う。

君とどう過ごそうか。君の笑顔をどの角度から見ようか。

・・・・・・彼は微笑んだ。

彼はどういうわけか沸き立つ高揚感を抑えることができなかった。


・・・シャルル・ドゥ・アルディの欲しいものは、ひとつだけなのだと。

いつになったら、彼のファム・ファタルは気がつくのだろうか。


「マリナ、行くぞ。オレは砂浜で何時間も過ごすほど・・・暇じゃないんでね」

彼が背中を向けると、マリナが慌てて彼の名前を呼びながら・・・彼の脇に立った。

砂浜で足が取られる、と言って彼の腕にしがみついた。

・・・・シャルルは反対側に持った、彼女の小さな沓を彼女に渡すのはもう少し待つことにした。

今しばし、このまま・・・腕を組んで波の白と海の青と白い雲に囲まれて、二人だけの足跡を刻みながら歩いてみたかった。


マリナは海に行こう、と言った。

次は・・どこに行こうと言うのだろうか。

彼女が行きたい場所に連れて行ってやろう。月でも。星でも。

海の向こうから、こうして違う海に来た。

マリナとなら・・・どこにでも行けるような気がした。


さて。この後はどうして過ごそうか。



彼と彼女の夏が始まった。


(FIN)




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