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死ぬって苦しいことなの、パパ?

「物語とはこうあるべきなんだ」
 と父は言った。私は寝袋のシャカシャカとした感覚に包まれている。そうして私は、もう三十年以上も、その言葉に囚われ続けている。

 私と妹がまだ幼かった頃、父は私たちをよくキャンプに連れていった。フリーのデザイナーで多忙であった父にとって、『旅行の計画を立てる』ということは皆無だった。
 私たちは、父に約束をしてもらったことが無い。それは守られる可能性が低いから。そのかわり、父のキャンプは唐突に始まる。
 小さな私と妹は、夜眠っているところを抱きかかえられ、後部座席をフラットにしたステーションワゴンに積み込まれる。テントや釣り道具、クーラーボックスとともに。そうして目が覚めると、朝靄の久住高原に居たりするのだ。

 その日も父のキャンプはいつの間にか始まっていた。私は深夜に、ステーションワゴンの中で目を覚ます。妹が母に抱かれて眠っている。私はここがどこなのか分からないけれど、よくあることなので気に留めない。
 父は私の隣で、小さなマグライトを使って本を読んでいる。
「お父さん、なに読んでるの」
「ヘミングウェイ短篇集」
 まだ三十歳の父が、まだ十歳にならない私の質問に答える。
「面白い?」
 父はそれに返事をせず、小さな声でその本を朗読してくれる。短編のひとつの、なぜだか終わりの数行だけ。

 *

「死ぬって苦しいことなの、パパ?」
「いや、そんなに苦しくはないと思うよ、ニック。時と場合にもよるがね」
 二人はボートのなかに腰かけていた。ニックは艫に腰かけ、父が漕いだ。太陽が山の向うからのぼりかけていた。鱸が一匹はねあがって、水面に波紋を描いた。ニックは手で水をかいた。朝のきびしい冷えこみのなかでは、水があたたかく感じられた。
 早朝の湖上で、父の漕ぐボートの艫に腰かけていると、自分はけっして死ぬようなことはないのだと確信した。

 *

 そこまで読み終えてから父が
「余韻のある終わりかただろう」
 と私に言った。
「よいん」
「他の作家ならあと一ページ書くところを、ヘミングウェイはここで終えるんだよ。物語とはこうあるべきなんだ」
 そう言って父は、また読書に集中してしまう。幼い私は、物語の余韻について考えながら眠りにつく。

 父のキャンプは唐突に始まり唐突に終わる。それが終わってみるまで、私たちは何泊する予定なのか知らされない。
 父の釣った虹鱒を焼いて食べたり、野草の名前を教えてもらったり、のんびりと過ごす時もある。テントを張ったと思ったら、数時間後にはもう畳んで、下山する時もある。余韻どころの騒ぎではない。

 あれから数十年、私は母になり、父は年老いた。父は脳梗塞を患い、身体は動かなくなり、喋ることもままらならなくなった。
 ヘミングウェイなら、もしくは父なら、ここで物語を書き終えてしまうのだろう。
 だけどそれから数年後、父は回復する。あのまま寝たきりになってしまうのかと思っていたけれど、母に怒られつつ、嫌々ながらにリハビリをし、三歳の孫と全力で鬼ごっこができるほどの元気を取り戻す。(いつも負けてしまうのだけれど)

 あの時の父の年齢を、とうに越した私は、作家志望として、公募にかすりもしない小説を書き続けている。
「物語とはこうあるべきなんだ」
 私はその言葉に未だ囚われている。けれど何年書き続けても、物語をどう終わらせるべきなのか、私には分からない。


引用:「ヘミングウェイ短篇集(一)」 ヘミングウェイ 大久保康雄訳 新潮社 十四頁

この本の内容は以上です。


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