閉じる


コラム

東日本大震災

会社にいる間に様々な事件が起きたが、忘れられないものの一つに東日本大震災がある。

当日は客先のオフィスにいて、メンバーたちと一緒に仕事をしていた。この時期はインドからプロジェクトの統括責任者も来日しており、忙しい日々を送っていた。

 

インドの人は地震をあまり経験していないようで、日本で小さいものでも地震を経験すると非常に怖がる人が多い。この日の地震はその比ではなく、明らかに尋常ではないことをすぐに悟った。ビルの中にいれば安全ではあるのだが、倒壊するイメージがあったのか、みな外へ逃げ出したがった。

 

もちろん日本人もかなりの動揺があったのだが、やはりインドの人はパニックに近いものがあった。揺れの直後に家族のところに行くからとタクシーを呼んでくれと頼む者(直後だと電話もつながってタクシーもすぐ来た!)、早く帰らせろと言う者たち、中にはそれでも仕事に戻る者もいた。この日は結局お客さんの方もオフィスを閉鎖するということで、みな帰ることになったのだが電車が動いておらず、どうしようもないものもいた。私と先のプロジェクト統括責任者は何名か近くに滞在しているものを送っていき、ピザ屋でピザを焼いてもらってオフィスに戻っていった(当日はデリバリーできないが持ち帰りはあった)。夕食を食べられないメンバーも出そうで、なおかつベジタリアンも多いので、肉や魚を使わないピザはインド料理の次のオプションだ。腹が減っては戦はできぬというのは万国共通で、食べてみな少し落ち着いたようだった。

 

問題は翌日で元々帰国予定の者がいた。彼女を成田空港まで送らなくてはいけない。しかし空港バスも電車もろくに動いていない。国際線の飛行機だけは早めの帰国を促すためかフライトしている。先のプロジェクト統括責任者が先導役を買って出てくれて、成田まで連れて行ってくれることになった。私は電話で連絡取りながら、取り得る経路を探った。また航空会社とも連絡を取って何とか搭乗できるように手配しようとした。

 

通常だったら成田空港行きの直通バスに乗るのだが、高速道路が不通。とりあえず東京駅を目指してくれと依頼。ただし成田エキスプレスも成田方向のJR総武線も動く様子なし。そこで地下鉄を使って上野を目指すよう方針転換。そこから京成線を使う作戦に出た。スカイライナーは走っていなかったが、何とか成田方向に行く電車はあった。本来の搭乗時刻には間に合わず、到着時に乗る飛行機は出発した後だったが、航空会社で増便したようでその次の飛行機に乗れることになった。先導役をしてくれた人もまた無事に自分のホテルに戻ってくることができた。

 

その後会社の判断で希望者についてはインド帰国を認めることになった。プロジェクト統括責任者は帰国後のサポート体制の確立とお客様への説明もした上で、自分も帰国ということになった。

 

震災翌日の電車の誘導だが、今思い返すと不思議な感じがする。彼もほとんどが初めて乗る電車で、乗り換えた駅もほとんどが行ったことのないところだった。それでも電話で話しながらいくつかの電車のオプションを乗り継いで成田までそれなりにスムーズに到達できたのは、なんとなく不思議な力が働いた感がある。偶然かもしれないが、言葉でのコミュニケーションを超えて何かを伝達し、それを受け取れたのではと思う。コミュニケーションの大切さを身を持って知った出来事でもあった。


通訳(?)

インドの人の英語の訛りはひどいというのをよく聞くが、インドの人にとっては日本人の英語も相当な訛りとして認識されているかもしれない。

 

電話だとなかなかこちらの言うことが伝わらない。「もう一回説明してくれ」とか「今言ったことの意味が分からない」と聞き返されることが頻発する。相当英語ができる人でもこういうことは発生する。インドの人からすると日本人の英語は分かりづらいんだなと思う瞬間である。ただ何回も同じ人とコミュニケーションしていると段々と理解できてくるようになる。これはインド人にとってもそうだし、日本人にとってもそうである。慣れた相手とのコミュニケーションは全く初めて会話する人と比べてはるかに分かりやすい。

 

初めてコミュニケーションする人がいる電話会議で分からないと言われても、今までコミュニケーションしたことがあるインド人が助け舟を出してくれて「この日本人が言っていることはこういうことだ」と解説してくれる。このコミュニケーションはすべて英語なのだが、それでも通訳的な役割をしてくれる人がいる。初めて会話する相手がいる場合はこういった知り合いに最初に入ってもらうのが得策だ。


« 前の章 次の章 »