目次
プロローグ 三つの物語
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第1章 夜回りと記者会見—二重の共同体
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警視庁の不思議な慣習
「表情を読み取れなかったあなたが悪い」
記者と刑事の禅問答
「サツ官ならイエスです」という皮膚感覚
最強の事件記者たち
東京行きのチケットをつかむ競争
記者と警察当局がつくる三つの共同体性
いったい何が警察と記者を結びつけているのか
「夜回り」と「記者会見」という二重性
ウラの関係性はオモテでは表出されない
皆が集まる広場は存在しない
そもそも共同体とは何か
ソーシャルメディアと<夜回り共同体>
「はてな村」は何で結ばれているのか?
フィード型という新しいソーシャルメディア
共同体は可視化されてこなかった
複雑で濃密な二重の共同体
戦後社会がつくり上げた情報と世論の交換システム
視座はどこにあるのか?
第2章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか
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吉本隆明が論じた大衆の原像
中間文化がつくりだしたもの
新たな階層社会の出現
市民運動とはいったい何だったのか?
市民運動の「金太郎アメ現象」の本質
新聞記者は市民運動を嫌っている
市民運動に対するアンビバレントな感情
「無辜の庶民」と「プロ市民」の間に
新聞記者が思い浮かべる「市民」像とは
市民とメディアのねじくれた構造
<市民>はいったい誰を代弁しているのか?
第3章 一九七〇年夏のパラダイムシフト
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「加害者視点」が存在しなかった戦後日本
「軍部が悪い」というロジック
異邦人は戦後日本でどう扱われてきたのか
片言の日本語をしゃべる在日二世たち
不気味で怖い存在としての「在日」
「ボクを異国人扱いするな」とアイヌ記者は叫んだ
「ノルウェイの森」で緑が語ったこと
一九六〇年代の女性が抱えた二つの葛藤
東大闘争は何を目指したのか
自己批判の理念とその困難さ
「わたしたちの無関心の暗い空洞」
小田実が切りひらいた世界とは
「戦争加害者」という新しい視点の出現
「日本民族の犯罪をひきうけなければ」
中国人青年の自殺
詩では自己否定を乗り越えられない
「われらの内なる差別」
一九七〇年七月七日の告発
学生運動が見いだした新たな突破口
第4章 異邦人に憑依する
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マイノリティ論のオーバードースとは何か
<被害者=加害者>論の光と影
「辺境最深部に向けて退却せよ!」
辺境最深部から日本社会を見下ろす
死刑囚・大森勝久が選んだ「地獄への旅」
「反日亡国論」の狂気
市民とは何だったのか
メディアと<マイノリティ憑依>をつなぐ本多勝一
本多・山口論争が浮かび上がらせた問題
加害者と被害者の間にいるということ
「私は殺される側に立つ」という論理
<マイノリティ憑依>から見える気持ちのよい景色
津村喬の苛立ちと反論
「殺される側」に立つことによる無限の優位性
第5章 「穢れ」からの退避
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神は舞い降りてくる
本殿も拝殿もない神社の隠された意味
何もない空間の絶対性
神はつねに外から来て外へと帰っていく
汚れた人間社会、清浄な神の領域
戦死した兵士たちをどう扱えばいいのか?
第6章 総中流社会を「憑依」が支えた
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アル・ジョルソンの人生
黒人に扮して歌い踊る大衆文化の末裔として
なぜアル・ジョルソンは忘れられたのか
自動車王フォードに排斥されたユダヤ人
黒人への<マイノリティ憑依>
総中流社会を憑依が支えた
バブル時代に連載された「飽食窮民」という記事
「弱者に光を当て、われらの社会を逆照射せよ」
幻想のマイノリティに落とし込まれるシステムエンジニアたち
この記事は誰に送り届けられているのか
圏域が同じでなければ共有されない
エンターテインメントに傾斜する
一九九〇年代後半の転換点
エンターテインメントとメディア空間の結節点
五五年体制と<マイノリティ憑依>をつなぐもの
構造はついに明らかになった
しかし道は途絶えている
終章 当事者の時代に
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新宿西口バス放火事件の夜
彼はなぜ報道カメラマンになったのか
なぜ彼女はバスから逃げ遅れたのか
周囲の目は冷たかった
事件は家族の生活を破壊しつくした
「映画のセットみたいですよね」
被災地の瓦礫は二重の層でできている
なぜ河北新報の記事は人の心を打ったのか
われわれは望んで当事者にはなれない
他者に当事者であることを求めることはできない
そこで私には何ができるのか
あとがき
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補遺 なぜゼロリスク幻想は生まれてきたのか
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参考文献リスト
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奥付
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 一九二七年十月六日、アメリカ。
 この日公開された『ジャズ・シンガー』は、世界で初めてのトーキーとして映画史に名前を残している。  
 史上初めてスクリーンで俳優が歌い、しゃべり、その音声が聞こえてきたのだ。
 厳格なユダヤ人の宗教指導者司祭の息子として生まれた主人公。父親は教会(ルビ:シナゴーグ)で聖歌をうたわせようと音楽を学ばせるが、息子は堅苦しい教会を嫌い、酒場で流行歌を歌う。見つかり、父親に折檻され、それでも彼は歌を忘れられず家を出る。しかし冒頭からしばらくは、映画は無音のままだ。
 そして数年後。輝くような笑顔の青年に育った彼は名前をジャックと変え、シカゴの舞台に立っている。そしてこの舞台の映像で初めて、映画は言葉を発した。
 「お楽しみはこれからだ!(You ain't heard nothin' yet!)」
 これが映画史上に名高い、世界で初めての映画の「声」である。
 この映画はいまでも鑑賞に堪える上質なエンターテインメントだ。恋人メリーの手引きによって、スターダムを上りつめていく主人公の弾けるような喜び。古くからのユダヤの伝統を守る父親と、アメリカナイズされた音楽を志向する息子の暗い葛藤。その感情のざわめき、関係性の葛藤は、八十年以上も前の映画とは思えない。とても現代的だ。
 映画のクライマックスは終盤、ジャックがブロードウェーのひのき舞台に上がるチャンスをつかんだ後にやってくる。彼とメリーが舞台に上がる前日というまさにその時、父親が重病にかかってしまうのだ。
 その日は、ユダヤ教にとって非常に重要な儀式が行われる「贖罪の日」だった。そして父親は厳粛な儀式において主唱を務めることになっていた。主唱の代役は、世襲の息子でなければ許されない。
 総仕上げのリハーサルを直前にした劇場で、「父危篤」の知らせを受けるジャック。しかし彼は家には帰ることはできない。楽屋に決然と入り、メークをするジャック。
 ところがこのシーンはとても不可解だ。なんとジャックは楽屋で、顔を黒塗りにして黒人風のメークを始めるのである。
 恋人との長い対話、そして煩悶。しかしその間、ジャックはずっと黒塗りのままだ。眼に涙をたたえるジャック。
「お父様のことを気にしてるのね」
「教会で歌いたいけど今は仕事が一番だ。でも何か引っかかってる」
 そして続くこのセリフ。「それは僕の心の中の人種の叫びかもしれない」
 この唐突な「人種」というセリフ。これはいったい何だろう?
 この映画でそれまでていねいに描かれてきた関係性は、「父と子」「母と子」、そして「恋人同士」というそれぞれの葛藤だ。ジャックがユダヤ人であることは、父親がキパと呼ばれるユダヤ教徒特有の丸い帽子をかぶっているので、冒頭からすぐに理解できる。しかしユダヤ人としての民族意識や人種差別のようなものはこの終盤のシーンにいたるまで、まったくといっていいほど語られていない。なのに、クライマックスの素敵なシーンに至って唐突にジャックは「僕のユダヤ人としての人種の叫びが」と言い出すのである。
 しかも黒塗りの異様な顔で。
 彼はなぜ黒人の扮装をして、ユダヤ人の民族意識をここで叫ばなければならなかったのだろうか?
 ジャックの叫びに、恋人のメリーはいとおしむような表情で答える。
「気持ちは分かるけど、これはあなたの人生なのよ」
 鏡をじっと見るジャック。黒人のような顔が映っている。そこにキパを被り、聖歌隊の服に身を包んだ父親の荘厳な姿がオーバーラップしてくる。
 黒人とユダヤ人が融合しているようだ。
「贖罪の日は一番神聖な日なんだ。イスラエルの歌が僕の心を締め付けている」
「これは神様がくれたチャンスよ。それを忘れないで」
「そうだね。こんなチャンスはもう二度とないだろうからね」
 遠い目をするジャック。
 メリーはさらに言葉を重ねる。
「あなたの人生を生きるのよ。私のためでもご両親のためでもないわ」

 そこに、母親が訪ねてくる。父が重病になり、償いの日の主唱をつとめることができなくなってしまった。それを伝えにきたのだ。
 黒塗りの顔を見て驚く母。「ジェイキー、あなたなの?」
 同行してきた世話役のおじもあっけにとられる。「ジェイキーのようにしゃべってるが、まるで影みたいに見えるな」
 母は言う。「夢でおまえの歌を聴いたんですって」
「あと二時間で陽が沈んで儀式が始まるの。帰ってきて」
「母さん、それはできない。できないんだ」
 しかしもう舞台に行かなければならない。真っ白なシャツを着る。ネクタイを締めてスーツをはおる。
「父さんはおまえの声を聴かずに死ぬわ」
 と母は悲痛な声をあげる。
 踊り子たちが退場したあとに、ひとりで舞台に現れるジャック。彼は切々とうたいはじめる。

 母さん、ごめんよ 飛び出して 僕も胸が痛んだよ
 大人になってやっと言えるんだ 子供じみていたってね
 僕の母さん 僕が友だちに疑われても 母さんは信じてくれた
 いつもどんなときでも いつも母さんは僕を包んでくれる
 僕が傷つかないように 空に太陽が輝き

 ジャックの絶唱。黒塗りにしてまるで道化のような雰囲気と、心の苦しみのミスマッチ。でもなぜこの素晴らしい歌唱シーンを、映画製作者はわざわざ黒塗りにする必要があると感じたのだろうか? 世界で初めてのトーキーという栄誉ある舞台で、なぜ?

 一九六四年夏、中国・南京。
 高校一年だったひとりの日本人の若者が、中国を旅していた。
 この「若者が中国を旅した」ということに、二十一世紀のいま、何か特別なことを感じる人などほとんどいないだろう。
 しかし当時としてはきわめて例外的なできごとだった。なぜなら東京オリンピックのあったこの年、まだ日中の国交は回復されておらず、戦後に中国を訪れた経験のある大人さえも非常に少なかったからである。
 もちろん細々と民間の交流は行われていたし、日中双方から国交を正常化させようという試みは水面下で進められ、経済界や社会、共産両党のパイプを使ったやりとりは進められていた。朝鮮戦争が終わってしばらく経った一九五五年には、当時の中国の周恩来首相が主権の相互尊重や不可侵、内政不干渉などを盛り込んだ平和共存五原則に基づいて、日本との国交正常化を求めるという意思を表明したこともある。この時は日本から社会党の片山哲元首相が訪中していったんは交渉が進みかけた。しかし五七年に首相に就任した岸信介は中国を敵視し、再び溝が深まってしまう。こういうことの繰り返しが何度となくあり、共産主義への脅威が大きな声で語られる冷戦下にあって、国交正常化は容易ではなかったのだ。
 おまけに海外旅行がまだ一般的ではなかった時代である。戦前、日本人が満州や南方に雄飛して展開していたのはすっかり過去の話。戦後長く、公務や留学などの目的がなければ海外旅行は許されていなかった。
 ようやく海外旅行が自由化されたのは、若者が中国に行ったまさにこの一九六四年春のことである。それでも「年に一回だけ」「外貨持ち出しは五百ドルまで」と厳しい制限が加えられていた。
 そんな状況下で若者が中国に行くことができたのは、父親が高野実だったからだ。
 高野は、戦後を代表する労働運動のリーダーのひとりである。
 一九五〇年に設立された総評(日本労働組合総評議会)。もともとは穏健な労働組合のナショナルセンターとして出発したが、当時の労使対決の機運のなかで徹底的な資本との対決路線へと向かい、三井三池炭鉱の争議で「総資本対総労働の対決」と呼ばれるような構図をつくっていく。その背景には、事務局長だった高野の路線がスタート地点にあった。彼は一九五一年以降、日本の再軍備や米軍基地への反対、さらには親中国・親ソを鮮明にし、左路線を明確に打ち出していったからだ。
 そもそも総評は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもとにつくられた労働団体である。それが朝鮮戦争で中国を支持しはじめたのだから、大変な騒動になった。当時の新聞は総評のことを「(GHQが)鶏だと思って育てていたらアヒルになってしまった」などと書いた。
 一九五四年、初めての訪日代表団がついに中国からやってくるという大きなできごとがあった。日本の赤十字にあたる中国紅十字会で、彼らは戦後中国に残留したままだった日本人の帰還、そして日本に連れてこられて亡くなった中国人の遺骨の送還というふたつの事業を中国側でサポートしてきたのだった。
 紅十字会の会長は李徳全というにこやかな女性で、来日中は行く先々で歓迎され、「李徳全ブーム」を巻き起こしたほどだった。
 そしてこの訪日代表団の受け入れを担っていたひとりが、高野実だったのである。そしてこの縁で高野は中国の紅十字会を経由し、総評のカウンターパートにあたる中華全国総工会ともつながることになった。総工会は、中国の労働組合の全国組織である。
 一九六四年の訪中は、この総工会の招きだった。そしてこの旅行に高野は、二人の息子、(たけし)(たかし)も連れていったのである。孟は早大生。そして弟の威は早稲田高等学院に入学したばかり。
 まだ日本から北京や上海への直行便など飛んでいない時代だ。高野一家は香港から橋を渡って深センに入り、そうして大連を目指した。威はそこから父とは別行動をとり、総工会の配慮で通訳をつけてもらい、兄といっしょに瀋陽・撫順から広東まで異例の長い旅をする。まだ海外旅行も一般的ではない時代、しかも国交の樹立されていない共産中国の大陸を縦断する旅である。この旅が敏感な思春期を送っていた威に、強いインパクトを与えないはずがない。
 この旅行は、二つの強い体験を威にもたらした。
 ひとつは気功や太極拳と出会ったことである。子供のころから肥満児で体育が苦手だった威は、自分のからだを見ることさえ嫌だった。自分の健康管理というようなことは放棄していたのである。しかし中国古来の気功に触れ、身体をこれほどまでにコントロールできるのかということに衝撃を受けた。そしてこの体験は威が長じてから、自分自身の仕事を見いだすきっかけになっていく。
 もうひとつの体験は、南京だった。南京大虐殺の記念館を訪れたのである。
 南京でも他の都市と同じように、さまざまな場所を訪れ、さまざまなことを経験した。ブタの食肉処理工場で外界よりも七十度も低い冷温貯蔵庫に驚き、長江の流れを見ながらスイカを食ったりもした。
 しかしそうしたさまざまな場所の記憶がモノクロームの向こうに霞んでいってしまったのにくらべ、大虐殺記念館の記憶だけは威の脳裏に鮮やかにフルカラーで焼き付けられた。
「南京大虐殺」という単語は、いまは日本でも中国でもきわめつきの政治的なことばとして人々の頭に刷り込まれている。日本社会ではこのことばを使っただけで「あなたは大虐殺の肯定者なのか? それとも否定派なのか?」と強い口調で問われてしまう。そしてその返答によって、あっという間にその人の政治的立ち位置にレッテルが貼られてしまう。きわめて危険な単語だ。
 しかし一九六四年の夏の時点では、「南京」という言葉も「大虐殺」という言葉も日本人にはまったく知られていなかった。ほぼ皆無である。
 南京における日本兵の中国人虐殺疑惑が浮上してくるのは、一九七〇年代に入ってからである。起爆剤となったのは、朝日新聞のスター記者だった本多勝一が七一年、『中国の旅』という企画連載で取り上げたことだった。これにジャーナリストの鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』という書籍で反論し、以降虐殺の肯定派否定派が入り乱れて大論戦を展開するようになる。そうして南京大虐殺という用語は、政治性の高い危険な用語として定着していったのだ。
 しかし時間を巻き戻せば、平和に東京オリンピックが行われていた一九六四年。ましてや政治的にまだ真っ白な高校一年生である。そして「虐殺」ということばは触れれば血が出るほどに鋭い。
 大虐殺記念館で、威は途方に暮れた。自分が日本人の若者であるという、それまでとくに意識したことも無かったようなあたりまえの事実を、自分自身でどう引きうければいいのかわからなくなってしまったからだ。
 記念館には、穴を二つ空けた木の切り株が展示されていた。そこに中国人捕虜の顔を乗せ、後頭部から強く叩くと目玉だけがぽろっと落ちる装置なのだという。そういう残酷な道具や武器がたくさん陳列してあって、その最後の方には日本の兵士の大きな写真が壁に貼り出されている。兵士は中国人のものらしい生首をぶら下げている。しかし威が衝撃を受けたのは、その生首のグロテスクさではなかった。生首を持っている兵士がいかにも屈託のない笑顔を見せており、そしてその笑顔の主は日本中のどこにでもいるような農民風の木訥な人たちだったことに、激しく恐怖を感じたのだった。
 兵士は悪鬼のような恐ろしい存在としてイメージされているのではない。平時に出会えば、きっと「田舎の人は素朴で温かいなあ」と感じさせるような雰囲気のおじさんたちが、まるでひねってつぶしたばかりの鶏をぶら下げるように生首をぶら下げているという、そのギャップをどう受けとめてよいのか分からず、彼は混乱に陥ったのだ。
 「なんて残酷なんだ!」
 「でも外の世界から見りゃ、このおじさんたちと僕は同じ日本人だ」
 そういう二つの気持ちが分裂していく。自分という生理的な主体者と、その自分が加害者として他者と関係しているという事実の分裂。その分裂を、どう引きうければいいのか。
 この課題は、その後の長い年月を通じて威のライフワークとなったのだった。
 彼は早稲田大学に進み、そして在学中から活発な評論活動を開始する。彼の名乗ったペンネームは「津村喬」。
 おりしも六〇年代末の学生運動の火が燃えさかっていた時代だった。

 そして、古代日本。
 崇神天皇六年と記録されているから、西暦で言えば紀元前になる。ただし正確にはそれがいつだったのかは歴史の霧のなかに消えてしまって、定かではない。
 この年、「神様の引っ越し」があった。
 それまで宮廷にまつられていた天照大神が、宮中から別の場所へと移転されたのである。崇神天皇が神の存在に畏れ多さを感じ、自分の姫に命じ、三種の神器を「どこか遠くの場所に移せ」と命じたとも言われている。
 移転先は、笠縫邑(かさぬいのむら)と呼ばれる場所だった。
 天照大神はその後伊勢神宮に遷され、そこが二十一世紀のいまにいたるまでの永住の地となったため、笠縫邑は「伊勢の元祖」というような意味で「元伊勢」とも呼ばれている。
 笠縫邑がどこにあったのかは判明していない。すでに歴史の彼方に忘却されてしまっていて、場所を特定する証拠は発見されていない。ただいくつか候補があり、最も有力な説が、いまの桜井市にある檜原(ひばら)神社だ。
 奈良の盆地を見下ろすようにすそ野を広げている三輪山、その麓に檜原神社はたたずんでいる。里からまっすぐ歩いて登っていくこともできるが、大鳥居が有名な大神(おおみわ)神社から山の辺の道を歩いていくルートが、散歩には最適だ。
 国の重要文化財になっている大神神社の拝殿。脇にある社務所の横の小さな階段を降りていくと、まもなく道は山の辺の道へと続いていく。果樹園の中の細い石畳を進み、そして用水路のような小川の土手を歩き、時には民家の脇を通り、またときには田んぼのあぜ道をたどり、細い道はうねりながらゆっくりと北上していく。
 古い時代、人の歩く道はこんなふうだったのだろうなと思わせるたたずまいの山の辺の道。そういう思いを抱きながら三輪山の山裾をたどっていくと、道は突然あかるく転じ、玉砂利が敷かれた檜原神社の境内に出る。
 境内は西に大きく開けていて、参道の先にはなだらかに広がる森と、その先の奈良盆地がよく見通せる。
 そしてこの檜原神社には、訪れた者を強く揺さぶる「驚き」が存在している。
 参道の先の奈良盆地から目を転じて、三輪山に向き合ってみよう。
 目の前には神社でよく見るような木の柵があり、賽銭箱が置かれている。少し先には、大きな鳥居の両側に小さめの鳥居を家来のように配した「三輪鳥居」というこの土地独特の鳥居がある。ふつうの鳥居と違って、下部が木の格子となっているのも不思議な構造だ。
 そしてもっとも驚くべきことに、鳥居の先にはもう何もない。神籬(ひもろぎ)と呼ばれる空間が広がっていて、その向こうにはただ三輪山の鬱蒼とした森があるだけなのだ。
 本殿も、拝殿もない。
 鳥居という「玄関」は用意されているけれども、そこに入ってみたら肝心の「家」がない。ぐるりと敷地をかこむ塀と玄関だけが残っていて、中が空き地になっている。まるで取り壊した直後の住宅のようだ。
 檜原神社はそういう不思議なつくりになっている。
 これは何を意味しているのだろうか。

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最終更新日 : 2012-04-16 11:12:06

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「当事者」の時代


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著者 : 佐々木俊尚
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/sasakitoshinao/profile

カバーデザイン  :  松尾たいこ

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最終更新日 : 2012-04-16 11:13:07

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