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1


 世の理不尽、幾千年過ぎようと尽きることなし。

 因果応報当てにはできず、勧善懲悪とうに廃れたお伽話。

 虐げられた者たちは口を閉ざし己を殺すことを強いられる。

 要領良く他者を取捨選択する者だけが偽善者面で世にはびこる。


 腐った世界に救いはなく、自ら始末をつける者は後を絶たない。

 刃を向けるのは己か敵か。

 どのみち末路が同じなら‐。

 そう例えばこの-嘉納宥宗のように。


 宥宗は今病院の一室へ向かっていた。

 動きやすさだけを追求して選んだゴム底の靴は、磨き抜かれた

 病院の床と接触してもぺたりとした感触しかせず、殆ど無音だ。

 染毛していない真っ黒な髪は短く刈り揃え、着ているセーターも

 ジーパンも極めてシンプル。アクセサリーを身に付けたことは、

 生まれてから数える程しかない。地味な印象を持たれがちだ。

 それは宥宗本人も自覚している。顔の造形はアーモンド形の

 切れ長の瞳に、筋の通った小さく整った鼻と薄い唇と、少し

 派手さよりも、大人びた憂いを含んでいる為、いつも年齢よりも

 年上に見られる。だがこうした飾り気のなさは、決して趣味志向

 ではなく節約に根ざしている。


  清潔感さえあればそれで良い。今の宥宗にとっては、一時の贅沢

 よりも少しでも早く手に職をつけることが最優先事項なのだ。そんな常に

 資格取得の為の勉強とアルバイトに追われている宥宗が、平日の昼間に

 学校にもバイトにも行かないで病院にいるのには理由がある。

 大学の先輩、土岐等あかりの見舞いの為だ。


 もともと持病を抱えていたあかりが大学で発作を起こし、緊急搬送された

のが一週間前。生命の危機は脱し、集中治療室から一般病棟へ移された

ものの今日に至るまで意識不明の状態が続いている。今では毎日見舞いに

来るのが宥宗の日課となった。毎日のことなので見舞いの花も持たず、

前日に気がついた必要なものを見繕っては持ってきている。それまでは

利用したことのないバス路線を使って病院へ来るのにも、宥宗は少しずつ

慣れてきた。


  慣れない路線のバスから見る景色。

  機能性と現代アートの調和を追求した病院の
  外観。
共感と微妙な距離感を纏う病院特有の関係性。


  これは慣れた。だが昏睡状態のあかりという現実だけは、受け入れがたい

 ものがあった。モノクロの悪夢のような心もとなさが支配するリアル。

 院内の照明は残酷な現実をくっきりと照らし出す。

 扉の脇のネームプレートは、受け入れがたいリアルの実在を示していた。



2


病室入口の脇にある機械で手を消毒してから、宥宗は病室のドアを

軽くノックして開けた。ベッドの横ではあかりの母親照子が虚ろな目で

雑誌に目を通していた。


看病で疲労が溜まっているだろうに、きっちりと髪を後ろにシニヨンを

結い、ピンでほつれ毛を固定しており、服装にも気を抜かない。宥宗が

挨拶をすると朗らかな声と笑顔で返してくれた。あかりとは違い切れ長の

目は細められていることが多いので、凹凸の少ない顔は見る者に柔和な

印象を与える。


 眠っているあかりにも挨拶をすると、照子は椅子を勧めた。

その横顔には、くっきりと隈が浮き出ている。

あかりの容体が心配で満足に睡眠すらとっていないのだろう。


 あかりの病室は個室で、ベッドの他には小さな手洗場と、パイプ椅子が

幾つか立て懸けてあるだけの簡素な造りだ。見舞客宿泊専用の部屋などは

なく、病院から貸し与えられた布団一式が部屋の隅に置かれている。

照子はそこで睡眠を取っている。トイレは病室の外にある共用トイレを

使用し、シャワーに至っては患者のみしか使用できないので、照子は

銭湯を利用している。自宅が遠方にある照子は、その都度自宅に帰る

こともできない。


照子は決して口に出さないが、宥宗は目に見えてやつれる照子を案じ、

幾度か宥宗の自宅を宿泊に使ってはどうかと提案した。だが照子は

その度に、あかりに万が一のことがないか心配だからと断る。

だから宥宗は照子の気持ちを組んだやり方で、手伝う方法を試行錯誤

している。


 椅子に腰かけた宥宗は、照子に病院の食堂に行くよう勧め、交代を

申し出た。これも既に恒例の役割分担となっている。その度に照子は

毎回礼を言う。今日も照子は礼を言うと、財布を手に病室を後にした。

その足取りはやはり心もとない。


 それでも遠方で仕事を持っているというのに、照子は決して看病を

代わってくれと口にすることはなかった。それこそ母親の愛情なのだろう。

長年母と子二人で築いてきた絆はやはり大きい。

母親思いのあかりが目を覚ましたら、さぞ心配することだろう。


それだけに一層宥宗は許し難く思う。


あかりが入院することになった元凶ども‐。

あかりを取り巻く医療機材の数がその罪深さを知らしめる。

持参した本のページを捲っても、奴らの下卑た顔が脳裏から離れない。

全く関係の無い単語を拾っては、今まで受けてきた事象と無作為に

結びつけてしまう。文字の羅列は無意味に通り過ぎ、頭に入ってくる

ことはなかった。諦めて本を鞄に戻す。日差しの暖かさに外を眺めれば、

病院の窓越しに映る小学校の校庭では、男子児童たちが懸命にボールを

追いかけている。控えめな陽光は風景を柔らかく包み込み、病室は

さながらあの汚い世界からかけ離れた別天地だ。

 

この一週間、宥宗はあかりの容体だけを案じていた。意識不明だが

ようやく小康状態が訪れた今、今回の事態の発端を明らかにする

必要があった。


宥宗は目線をベッドに据える。彼女は、あかりは細い腕に刺した点滴で

命をつなぎ、胸と胸にも機材を付け、その生命の動きを逃すまいと計測

されている。ただでさえ細身の体が心なしか一回り小柄になった気さえする。

セミロングの黒髪がわずかに伸びて、命が存在することを示している。

その存在を確かめようと頭を撫でようとしても、頭部を覆う機材に邪魔され、

それすら叶わない。あくまで白い肌と、筋の通った少し丸めの鼻と小さく

整った唇。はっきりとした顔立ちは華奢にも見えてあかりという存在を

一層儚くする。


好きだった意思の宿った大きな瞳は固く閉じられ、もう二度と

開かないのではと不安を誘う。宥宗はせめてもと点滴針を刺していない

右腕を撫でようとした。だがモニターから発される規則正しい音が乱れた

気がして、一瞬手をひっこめた。


少しでも動かすと容体の悪化に繋がりそうで、宥宗は指だけでそっと

なぞるだけにした。


 「ゆっくりお休み。眠るのに飽きたら、目を開ければいい。

 こんなのは……理不尽すぎる」


 最後の言葉を吐くと、宥宗は唇を噛みしめた。



3


幼いから心臓に持病のあったあかりは、急な発作に備え常に症状を

緩和させる錠剤を携帯していた。いつも鞄の内側のポケットに

入れている。最近は発作が増えたから、錠剤を使用したら必ず補充する

よう特に気を付けているとあかりは言った。宥宗も会うたびに確認し、

実際一度でもあかりが忘れたことはなかった。それが今回に限って

所持しておらず、突然の発作に対処できなかったというのは、いかにも

不自然に思えた。


常備している薬は発作十回分相当にあたる。薬が足りなくなったとは

考えられない。そもそもここ数年なりを潜めていた発作が最近になって

頻繁に起こるようになったのも、極度の心的ストレスによるものだと、

宥宗は推察している。状況証拠しかないのがただ口惜しい。

だが確証に近かった。


心的ストレス‐それは指導教官からの悪質なアカデミック・ハラスメントに

起因している。当のあかりは事実を断片的にしか語らなかった。

セクハラに端を発しているらしく、詳細には言いたくなかったのだろう。

 

それでも心配する宥宗に請われ、あかりは幾つか事実を話してくれた。

初めはその指導教官は過剰とも言える程あかりに目をかけ、それが

ある日を境に、突然嫌がらせに転じたと‐。


日を追うにつれ、指導教官だけでなく、同じ研究室の学生たちからも

嫌がらせを受けるようになったことも、悔しそうに俯きながら話して

くれた日を宥宗は思い出す。そんな針の筵のような研究生活でも、

あかりは尋ねなければ自分から不満を口にすることもなく、毎日研究を

進めることに邁進していた。院生にもなって、そんな低レベルなことに

巻き込まれているという事実を、認めたくなかったのかもしれない。


だが修士論文を理不尽な理由で二回受け取り拒否をされ留年を

強制されている時点で、不合理な取り扱いを受けているのは明白であった。

その為に内定していた会社への入社を見送ることになり、奨学金も

打ち切られた。同じ会社に今年も内定をもらったというのに、今年も

受け取りを拒否された。


もちろんあかりは抗議し理由を尋ねているが、意味の分からない

理屈をこね、最後には逆切れを起こして癇癪を起してでも、受け取りを

拒否した。


論文の内容に問題がないのであれば、そんなに目障りな学生などさっさと

卒業させてしまった方が、教授にとっても都合が良かろうと思う宥宗には、

初めその教授の真意が全く分からなかった。だが最近では中退を促して

いるのではと推測している。修士論文を提出できる年限は単位取得後一年と

決まっている。あかりの場合、あと一年しかない。おそらく来年も受け取り

拒否して、結局学位を渡さないか、その間に中退でもすれば万々歳と

考えているのであろう。当然就職活動に悪く響くことは織り込み済みの

はずだ。そこまでして学生の人生を壊したがる理由は分からないし、

理解できるはずもないが、底知れぬ悪意だけは匂い立つ。


 それに加え無償で教授自身の研究の資料集めに、授業の手伝い、更には
 あかりが苦労して採取した実験データの提供を強要してくる。あかりは
 淡々とそう言っていた。断れば教授に気に居られたい学生たちから、
 「空気が読めない」「非協力的だ」と誹りを受ける。結局半ば奪うように
 データを奪われ、その結果を教授の名前で発表される。もちろんあかりの
 名前は共同研究者にすら入っていない。代わりに名前を連ねているのは、
 教授のごますり学生だ。

  それでも外部から見れば留年を重ねている劣等学生に見えるらしく、
 幾度も悔しい思いをしたと、一度だけあかりがこぼしたこともあった。
 あかりが語った事実はこれだけだが、他にもあるのかもしれない。
 そもそも規定の単位は取得しているので、本来はあかりが
 研究室へ行く必要はない。それでもアルバイトをする時間を奪ってまで
 不公平な配分で研究室の仕事を手伝うことを強要する。
 全てこの指導教官が勝手に創り出した慣行だ。

 ともあれ異常な研究生活が心的ストレスを与えていたのは確実で、
 専門書によればストレスが病状を悪化させる大きな要因になりうるとある。
 主治医もできればストレスのない生活を心がけるよういつも言っている。
 事実あかりの発作が 再発したのは、修士課程に入学して五カ月が
 経過した頃からで、宥宗の記憶が正しければ一連の嫌がらせが行われる
 ようになって2ヶ月目のことだった。

 初めての発作は研究室で、実験データを採取中に起こった。十年ぶりの

 発作であったが、万一に備えて常備していた薬のおかげで大事には

 至らなかった。母親を一人にしないよう、常に薬を持ち歩いていた

 おかげだとあかりは言った。

「お母さんに感謝しないとね」

 疲れた眼差しにすら温かい光が眼奥に宿っていた。

 それからあかりの発作の間隔はみるみる狭くなり、薬の補充には

 それまで以上に気を付けていた。だから‐ありえない。絶対に。


 ではなぜ薬がいつもの場所にない? 

 あかりは毎日宥宗の資格試験の勉強を見てやっていた。もちろん

 倒れた日も。教授に呼び出された1時前、1230分過ぎまで見てくれて

 いたのだ。その日も宥宗は薬がちゃんとポケットに入っているのか、

 一緒に確認している。

 確かに薬はポケットにあった。

 いつも薬を入れている鞄の一番内側のポケット。思いついて鞄を

 全て調べたが、筆記用具、ノート、ファイル、携帯電話、本などいかにも

 学生らしい持ち物は出てきたが、薬はなかった。

 薬ケースも。錠剤の一つも。

 状況が一つの方向を確実に示している。だがそこまでやるだろうか。

 敵意を見せない無抵抗の人間に、そこまでする理由が。


 純然たる悪意の現存を信ずるほどには、人生に絶望をしたくない。

 生身の人間に対する、宥宗の最後の期待だった。



4


 「嘉納君、ありがとう」

 しばし思案していると、照子がレストランから戻ってきた。

「はい、これ」と小さなペットボトルの緑茶を渡され、礼を言うと宥宗は

 照子と共に一服をすることにする。

 非社交的な宥宗には、こういうとき気の利いた言葉が出てこない。

 だから黙って茶を口に運ぶ。あかりと会って少しは改善したはずだが、

 根本の部分でまだ治っていない。暗いと思われたかとちらりと横を伺うと、

 照子と真正面から目があってしまい、慌てて目を逸らす。変に思われたかと

 またもや気にしていると、照子はくすくすと笑いだした。


「嘉納君って、本当に正直な人ね。表情に直ぐ出るんだもの」

「そうでしょうか……。初めて言われました」


 暗いとか、何考えているのか分からないとは言われたことは幾度もある。

 でも正直なんて言われたことは、今回が初めてだった。


「そんなに緊張しないで。私ね、嘉納君が毎日来てくれて本当に嬉しいの。

 あかりのこと、本当に大事に思ってくれているのが分かるから」

 

 何と返していいのか分からなかった。

 宥宗とあかりの関係も、照子がどう捉えているのか分からない。

 大学の先輩後輩関係以上の信頼関係はあるが、その関係性を言葉で表す

 のは難しい。

 それに、そもそも宥宗は褒められ慣れていないのだ。妙に気恥しい。


「……はあ。気の利いたことが言えなくて。すみません。つまらないですよね」


「ううん、全然。嘉納君は、表情や行動でちゃんと示してくれるもの。

 見ていて飽きないわ。それに私の話をちゃんと聞いてくれる。無理しなくても、

 私は十分楽しい」


 耳慣れない言葉に本気で言っているのだろうかと一瞬身構えてしまうが、

 その目が真剣なのを見て取ると、今度こそ気恥しさで俯いてしまう。

 だが心中は浮き立つような不思議な高揚感を感じていた。慣れないこの

  気持ちを伝えたくて、鞄から木箱を取りだした。


「これ、あかりさんが好きな曲なんです」


 箱を開けると流れる、少し前に流行ったゴスペルをオルゴール用に

  アレンジした曲。意識を失った人に音楽を聞かせたり、積極的に話をする

  ことで、脳に刺激を与えることができると本で読んで早速持ってきたのだ。

  静かで懐かしく、それでいてサビのメロディーでは聴く者の心を揺さぶる

  激しさを秘めている。


「……いい曲ね。ほらあかり、あなたの好きな曲よ」


 照子は宥宗からオルゴールを受け取ると、あかりの耳元に寄せた。

 

  荘厳な旋律は殺風景な病室すら、神聖な空間へと変えていく。照子は

  目を覚ます儀式かのように何度も螺子を巻き直しては、音楽を聞かせていた。

  優しげな音色が創り出す異空間は、猥雑な日常を隔離してくれる。雰囲気に

  従い、自然宥宗は祈った。真剣に祈った。神様は散々宥宗に我慢を

  強いてきた。だから今度は神様が忍耐への報償を与えるべきだ。

  今までの貸しは返してもらう。


  ひたすら忍従を強いられた人生でやっと出会えた光‐それがあかりだった。

 だから最後の希望だけは、奪わないでくれと。


 膝の上に隠すように手を組み、目を閉じ祈る宥宗を、照子は目じりを

 下げて見つめていた。窓の外では名も知らぬ小鳥がチリリと、新たな

 季節の到来を告げていた。

 


1


「あかりさんは? 今はどんな容体ですか?」


 照子から連絡を受けた宥宗は、あかりが再び危篤状態に陥ったと

 聞き、バイト先から直行した。受付で身分を名乗ってあかりの居場所を

 訪ねると、待合室に案内された。

 待合室は一般病棟から離れ、手術室からほど近い場所にあった。

 遠くから夕飯の後片付けの喧騒の音がかすかに聞こえてくる。

 

 待合室は簡素なパイプ椅子と、四角く白い凡庸な見た目のテーブル

 のみで随分と殺風景に感じた。インテリアと言えば製薬会社から

 もらったらしき、カレンダーのみ。それでも時間潰しにとブック

 ラックには草臥れた週刊誌や漫画が用意されており、テーブルの

 上には造花が飾ってある。清潔が行き届いていて、それが却って人工的に

 過ぎるように感じられる。その中に憔悴しきっている照子の姿があった。

 

 受付では担当医師が直接話をするとのことで、あかりの安否は未だ

 知れない。母親の照子によると突如体中に付けていた計器が異常を

 示し、慌てて看護師を呼んだところ緊急手術となったとのこと。

 詳しく尋ねている時間はなかったようだ。

 幾度か顔を見せに来た祖父母ももうすぐ到着するという。真っ赤に

 晴らした目は最悪の事態を覚悟して震えている。悪夢のように現実味が

 ない中、宥宗は思いつく限りの言葉で照子を励ました。照子は

「ありがとう」と繰り返すばかりであった。最後には沈黙になる。

 いくら言葉を継いだところで、根拠のない言葉は空々しく響くだけだ。


悟った宥宗は、せめてもと神に祈りを捧げる。今まで数え切れぬほど

祈り裏切られてきた神様。今度こそ、いや今度ばかりは願いを聞き届けて

欲しいとあの時ベッドサイドで訴えた以上に心をこめる。

静寂が支配するこの部屋では、掛け時計が秒針を刻む音がやたら

耳についた。


 見遣ると既に時刻は八時を回っている。あかりの危篤を知らせる連絡が

あった時刻が午後七時過ぎ。学校も仕事もとうに終わっているはずの時刻。

息子が順調な研究生活を送っていると信じている照子は研究室に連絡した

と言ったが、それでもこの一時間近くの間、駆け付ける人間は独りとして

いない。宥宗は組んだ手に一層力を込めた。


 しばらく待合室で担当医師を待っていると、照子が幾度も咳き込んだ。

 このところ寒い日が続いている。看病疲れもあるはずだ。風邪でも引いたら

 一大事と、宥宗は温かい飲み物を病院内のコンビニで買うことにした。

 もうすぐ到着するという宥宗の祖父母にも、飲み物と軽食を購入する。

戻ってくると頬を紅潮させた初老の男が待合室へ入っていくところだった。


(あれは……)

 

「この度は誠に……。私は土岐等さんの指導教官の山瀬です」


 足音を忍ばせてドアに耳をつける。廊下には男のアルコール分と

 柑橘系の臭いの入り混じった息の残り香がふわりと鼻を掠めた。

 シャッターの下りた隙間から部屋を覗き込むと、男が胸ポケットから

 すかさず名刺を差し出しているところであった。細いが引きしまった体を

 スーツに包み、持っている鞄もこ洒落たビジネスバッグ。

 顔立ちも整っている。外見だけは紳士然に見える。宥宗と入れ違いに

 到着した祖父母たちは、恭しくその名刺を押し頂いた。


  反射的に宥宗は身を隠す。山瀬の本性を知る身としては、今この場に

 いることを知られる訳にはいかない。いずれ研究室内で行われていた

 アカデミック・ハラスメントに関する事実の調査に備えて、宥宗の顔を

 今知られる訳にはいかなかった。


  今までもあかりへのハラスメント行為を黙って見過ごしていた訳ではない。

 同じ学部の学生でありながら、宥宗は大教室での授業以外には顔を

 知られないように気を配り、陰ながら山瀬の本性を示す証拠集めに

 奔走していた。大学を動かすには、山瀬が言い逃れできない程度の

 証拠固めが必要だった。


 以前にあかり自身も学内の相談所に幾度も訴えたが、事を荒立てない方が

 良いと諭すだけで、全く頼りにならない。それどころかあかりをトラブル

 メーカー扱いする始末。動かぬ証拠が必要だった。


 ここで関係者であることが露見するのは得策ではない。

 身を隠しながら宥宗は戸の陰から様子を伺う。薄い扉ごしに内部の声が

 籠って聞こえる。プライバシーに関してはいささか心配だが、今日ばかりは

 この薄い扉にあかりは感謝した。


 三人はそれぞれ簡単に自己紹介をし、照子は宥宗の正確な状態は未だ

 知れないことを伝えた。「嘉納君はどこに行ったのかしら?」と

 照子が口にしたときには焦ったが、血縁者の一人と思ったのか山瀬が

 それは誰かと問い詰めることはなかった。

 

 待っている間、山瀬は「土岐等さんは病気を抱えながらも、研究を

 がんばっていましたよ」と答えた。その体調を悪くしたのは誰だと怒りで、

 今にも飛び出して面罵したいくらいだ。だが宥宗はぐっと堪えた。

 今この姑息な男を罵るのは容易い。だが狡猾なこの男はいかにも難癖

 つけられたかのようなポーズをとることは容易に想像がつく。

 宥宗は歯がみしつつ事態の推移を見守ることにした。


「ちょっと失礼します」と山瀬は席を外し、廊下から学部長に電話を

 かけた。廊下の脇に隠れていたあかりには、会話の内容は筒抜けである。

 巧妙に学生の身を案じる教員を演じる語り口に、吐き気すらする。

 だが証拠はあかりの証言しかない。信じられるのがこの世であかりだけに

 等しい宥宗にとって、彼女の言葉はまごうことなく真実であるが、

 万人がそうであると思い込めるほど盲目ではない。


  通話が終わり待合室に戻ると、言い訳のつもりなのか、山瀬は近頃の

 教員業務の多さをひとくさり語り出した。そして看護師が医師の到来を

 告げに来ると、医師がこちらへ向かう足音を意識してか、こう締めくくった。


「もう少し多忙でなければ、毎日でも来るのですが」


 山瀬の言葉に宥宗は胸がざわめくのを感じた。




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