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道後温泉 (どうごおんせん)
 

四国・愛媛県松山市。
 道後温泉(どうごおんせん)は四国・愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一といわれる。
 
 その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある。
 
 
約3000年前
 冠山から、約3000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく)が出土
 
 冠山(かんむりやま)は、愛媛県松山市の道後温泉にある小高い山。道後温泉本館の南隣に位置し、道後温泉を祭る「湯神社」や菓子の神様である「中嶋神社」がある。
 石鏃(せきぞく)は、道具・武器の一種。石を材料として作られた鏃(やじり)。矢の先端に紐などで固定させて用いる、刺突用の小型の石器である。
 
白鷺伝説
 昔、足を痛めた白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、傷は癒えて、飛び立って行くのを見て、村人が手を浸すと温かく、温泉であり、効能を確認したという伝説がある。これが道後温泉の発見とされる。
 この白鷺と温泉の逸話は各地の温泉の発見物語として見られる。
 道後温泉には、白鷺が舞い降りた跡が残ったものとのいわれのある鷺石(さぎいし)が駅前の放生園(ほうじょうえん)に据えられている。
 なお、白鷺は道後温泉のシンボルの一つともなっており、道後温泉本館の周囲の柵やのれん、その他にもたくさんの白鷺をモチーフとした意匠がみられる。また、鷺谷という地名も見られる。
 
伊予国風土記逸文(現存せず)
 「神話の時代、大国主命と少彦名命が出雲の国から伊予の国へと旅していたところ、長旅の疲れからか少彦名命が急病に苦しんだ。大国主命は大分の「速見の湯(別府温泉)」を海底に管を通して道後へと導き、小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ、たちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたという。
 道後温泉の湯釜の正面に二人の神様は、この様子を彫ったものと言われる。
 舞った石は、道後温泉本館の北側に「玉の石」として奉られている。こちらにも、白鷺同様、命の「足跡」と伝えられる跡が残っている。
 なお、有馬温泉、玉造温泉ほか全国の各地に類似の伝説がある。
 
 九州の別府温泉から、四国の道後温泉まで、海底に管を通して湯を運んだと言う設定を、大昔の人が考えついた事実に驚く。
 
 
風土記
 風土記に温泉の効能が記載。「霊験あらたかな温泉は今でも疾病に苦しむ人たちの病を癒し、健康を保つ薬となっている」。
 道後温泉への行幸の記録も記載
  景行天皇
  仲哀天皇と后の神功皇后
  聖徳太子(厩戸皇子)
  舒明天皇と后の後の斉明天皇
  斉明天皇と息子の中大兄皇子、大海人皇子
 (これより後に詳しく記す)
 
71~130年(景行天皇の時代)
 景行天皇(12代)と皇后・八坂入姫命が道後温泉に行幸。
 道後温泉の守護神として鷺谷の大禅寺の前に湯神社を創建した。
 
 湯神社
   愛媛県松山市道後湯之町4-10
   主祭神・大己貴命、 少彦名命
 
192年~200年(仲哀天皇の時代)
 仲哀天皇(14代)と神功皇后が道後温泉に来湯。「風土記」
 温泉の効能のおかげか、その後に応神天皇が生まれたため、この湯を「湯月」と呼ぶようになったという。
 この伝説から、神功皇后のご懐妊の姿を表したものが、松山市の名産品になっている「姫だるま」の由来の一つであると言われている。
 
 またこの時に、伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)を創建。
 現在の湯築城跡と言われている。「延喜式神名帳」
 伊佐爾波(いさにわ)は沙庭(さにわ)の意味で清浄な儀式の庭の意味。
 
 ちなみに仲哀天皇の父親はヤマトタケル(小碓皇子)である。
 
 伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)
  愛媛県松山市桜谷町173
  祭神・足仲彦尊、気長足姫尊、譽田別尊、市杵嶋姫尊、湍津姫尊、田心姫命
 
453年(允恭42年)
 木梨軽太子(きなしのかるのみこ)は、喪中に実母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)、別名・衣通姫と通じたために失脚。弟の穴穂皇子(後の安康天皇)によって、伊予の湯に流刑された。後を追ってきた衣通姫と心中。「古事記」
 允恭天皇(19代)が没した453年に自殺。「日本書紀」
 「一説には、伊予国にお流し申し上げたといわれている」とも言われている。「安康即位前紀」
 
この時に軽大郎女が読んだと言われる歌「万葉集」より
 「君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ」
訳・あなたが行ってしまって日がたちました。迎えに行きましょう。待っていることはできません。
 
596年(推古4年)
 厩戸皇子(聖徳太子・23歳)来湯。
 病気療養のため道後温泉に滞在した。
 「時に湯の岡の側(かたわら)に碑文(いしぶみ)を立てき。其の碑文を伊社邇波(いさにわ)の岡と謂ふ。」「伊予国風土記逸文」
 訳・伊佐爾波(いさにわ)の岡に登り、風景と湯を絶賛し、記念に碑文を遺した。
 この碑は見つかっていない。(14世紀に河野氏が湯築城造営の際に持ち去ったという説もある)。
 椿の湯の南側の緑地にその模様を記した碑が建立されている。
 「椿湯」石碑には、かつて聖徳太子がここに椿が繁茂していたことにいたく感動した故事からとられたと言う由来が刻まれている。
 
 椿の湯
  愛媛県松山市道後湯之町19-22
  道後温泉本館の姉妹館。昭和28年新築、昭和59年改築。浴槽は花崗岩。道後温泉と同じ温泉使用。
 
 この8年後の604年に十七条の憲法を制定。
 
 伊佐爾波の岡は、道後公園内の岩崎付近と推定されているが、建武年間(1334~1336年)この地に豪族河野通盛が本拠を移して湯月城を築城した時に、伊佐爾波社を現在地に遷したと言う。
 
639年(舒明11年)
 舒明天皇(34代)と后の後の斉明天皇が道後温泉に滞在(5ヶ月位)。
 景行天皇(71~130年)が作った湯神社の社殿を新築する。「風土記」「日本書紀」
 
645年(皇極5年、大化元年)
 大化改新が行われると、現在の今治市の辺りに伊予国の国府が置かれ、京から見て国府よりも遠い地域は「道後」(近い地域は道前、道中)と呼ばれたことから、後世になるとこの温泉のある一帯が特にそう呼ばれるようになった。
 
661年2月18日(斉明7114日・旧暦)
 斉明天皇(37代)を乗せた百済救援のため伊予の熟田津に寄港。額田王が歌を詠んだ。
  「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮も叶ひぬ 今は漕ぎ出でな」(万葉集より)
訳・熟田津で船出をしようと月を待っていると、満月が南の空に出てきた。潮の流れも九州へ向いた。すべてが叶った。さあ、今こそ漕ぎ出そう。
 
663年(天智2年)8
 白村江の戦いの前に、中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)が率いる日本・百済連合軍が松山の熟田津に着き、石湯宮(道後温泉)に泊まった。「日本書紀」
 
684年(天武13年)10
 「日本書紀」に「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」と記述。
 白鳳地震による地変で出湯が停止したと推測される。宝永地震、安政南海地震、1946年南海地震でもお湯が止まっている。
 
713年(和銅6年)
 山部赤人の歌が、道後温泉本館、神の湯の湯釜に彫られている。
 「山部宿禰赤人が伊豫温泉(いよのゆ)に至きてよめる歌一首、また短歌
  皇神祖(すめろき)の 神の命の 敷き座(ま)す 国のことごと
  湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣しき国と
  凝々(こご)しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして
  歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 木群を見れば
  臣木(おみのき)も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
  遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)
 
 反歌
  ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく」
反歌の訳・宮廷人たちが熟田津で船出をした年もわからなくなりました。
   「万葉集巻三」より
 
 山部赤人(やまべのあかひと) 生年不詳 ~736年頃?(天平8年)
 奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。
 
1001年(長保3年)に執筆したと言われている源氏物語の中で
 源氏物語に伊予の湯桁として登場。
 源氏物語の夕顔の巻に、伊予之介の上京を迎えて「国の物語など申すに、湯桁は幾つと問わまほしく申せど……」とある。
 訳「伊予之介の(郷土の伊予の国の)」みやげ話などを聞きながら、あの有名な伊予の湯桁は幾つあるのかと、(光源氏が)聞いてみたくなった……」。
 「湯桁」については、諸説あり、湯を張った浴槽そのものという説、湯壷と湯槽の中間的なもので、湯壷にいくつも板を縦に渡して、その上で沐浴を楽しんだという説、個人用の囲いという説、などがある。
1239年(延応元年)
 宝厳寺(ほうごんじ)に一遍上人生誕。
 一遍上人は時宗の開祖。踊り念仏を広めた。盆踊りは、踊り念仏から広がったと言う説もある。
 
 道後温泉本巻の南側の坂道を登りっきったT字路から東側にネオン坂が伸びており、その坂の突き当たりが宝厳寺である。
 このネオン坂は、1958年に売春防止法が施行されるまで遊郭街であった。
 山門前には遊郭「朝日楼」の建物が今(2012年現在)残っている。
 夏目漱石の「坊ちゃん」でも「山門の中に遊郭があるなんて、前代未聞の現象だ」と書いている。
 正岡子規は「色里や 十歩はなれて 秋の風」と詠んでいる。「散策集」より(明治28106日)*後述
 正岡子規、酒井黙禅、斎藤茂吉の句碑あり。
 
 宝厳寺(ほうごんじ)
  時宗。時宗開祖一遍の生誕地。山号は豊国山。
  〒790-0837 愛媛県松山市道後湯月町
 
1288年(正応元年)
 一遍上人(49歳)が河野通有に頼まれ、道後温泉で使われていた湯釜の宝珠に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を書く。
 湯釜は、直径が166.7cm、高さが157.6cmの円筒形。
 1894年(明治27年)まで使われていた。
 この宝珠は、現在は湯釜薬師に残っている。
 
 湯釜薬師
  愛媛県松山市道後公園内
 
 河野通有(こうのみちあり) ?~1311
  鎌倉時代中期の伊予国久米郡石井郷(現在の愛媛県松山市)の武将。河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。一遍上人の甥(父親の弟の孫)に当たる。
 
1635年(寛永12年)
松平氏の温泉経営始まる
 松山藩に松平定行が入ってから、道後温泉は定行ら代々の松平松山藩主により大きく整備された。「温泉経営の時代」である
 
1795年(寛政7年)21日(旧暦)
小林一茶(32歳)、道後温泉に来湯。
 「二月朔日を小正月と云て、雑煮の仕納となん、この地のならひ也
   召仕新しき哉小正月
 道後温泉の辺りにて
   寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」
  「寛政七年紀行」収録
句碑が昭和24年、道後公園北口に建立。
 「寛政七年紀行」は一茶33歳の寛政7年、専念寺を起点にして竹阿の門弟や知人を訪ねながら、金比羅道を歩き松山の二畳庵に栗田樗堂を訪ねた旅の覚え書き。
 
 小林一茶 1763~1827
  江戸中・後期の俳人。信濃国柏原の人。3歳で生母に死別し15歳で江戸へ出て奉公。寛政3年帰郷、翌年から京阪・四国・九州地方を6ケ年におよび俳諧行脚、「西国紀行」「旅拾遺」「さらば笠」を編む。享和元年(1801)帰郷、父没。継母・異母弟と遺産相続をめぐり対立。13年和解して故郷に定住。翌年52歳で初婚、三男一女を得たがすべて早世。19年長女さとの死を悼み、「おらが春」を編む。23年妻没。その後再婚、一年を経ずして離婚、再再婚で一子を得る。27年柏原大火で家屋を失い、焼け残りの土蔵の中で中風のため没。「七番日記」などの句日記も多く残す。
 
1796年(寛政8年)秋
 小林一茶(33歳)、前年に続いて松山を訪れる。(一茶は生涯に二度、松山を訪れている。前年とこの年である。)
 栗田樗堂の紹介で、松山城の月見に招かれる。
 「人並に畳の上の月見哉」(一茶)
 
 
1816年(文化13年)あたり
 十返舎一九が「方言修行金草鞋(かねのわらじ)」で道後温泉の盛況ぶりを記述。
 
「是より道後の温泉、西国隨一の名湯なり、松山の御城下より僅か十町あり、この温泉至て繁昌なり、(中略)
道後の湯神代の昔よりありて、至ての名湯なり、旅籠屋、料理茶屋數多、いづれも清淨にして湯女なども撰びて、抱へ置と見へたり、宿は明王院、又は通筋の旅籠より、賤き旅人は木賃泊りにて、石橋の際の町、又はえんまん寺の前の旅籠屋に泊るなり、又、此町は御城下松山よりの入口の町なり、商人旅籠屋兩側に立つづきたり」
 
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)1765~1831
  江戸時代後期の大衆作家、浮世絵師。日本で最初に文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者。
 
1867年(慶応3年)年917
 正岡子規、松山市で生まれる。
 竹垣があり、内側にサンゴ樹が並んだ家と言われている。翌年には湊町新町に引越。
 
 ・正岡子規誕生地跡(石碑あり)
   松山市花園町
 ・正岡子規旧邸跡(石碑・歌碑あり)
   松山市湊町3丁目
   2歳~16歳で、東京で政治家になりたいと松山中学校を退学し、上京するまで過ごした。
   句碑は国内最初の正岡子規の歌碑が建てられている。1951年(昭和26年)
   「くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」
 
 
 正岡子規 1867~1902
  松山市に生まれ、夏目漱石とは大学の同窓。大学中退後、俳句・短歌の革新運動を開始し、後に俳句雑誌「ホトトギス」、短歌雑誌「アララギ」を創刊。日清戦争後は肺結核を患い、病床から俳句・短歌・新体詩・評論など多岐に渡る分野で活躍。1902年、約7年に渡る闘病の末35歳で永眠。随筆「病牀六尺」、歌集「竹の里歌」。
  二十一歳の時に肺結核となり、「子規」と言うペンネームを使い始める。「子規」は「ホトトギス」とも読む。ホトトギスは口の中が赤く、鳴くと血を吐いているように見えることから自分と重ね、本名の「常規」の「規」を使う「子規」をペンネームとして使うようになった。
  十九歳~二十三歳の頃、アメリカから伝わってきたベースボールに熱中し、キャッチャーとして活躍。後に新聞記者になり、新聞でベースボールのルールを紹介するために、「打者」「走者」「四球」「直球」などの野球用語を日本語に訳した。
 
 松山市立子規記念博物館
  〒松山市道後公園1-30
 
1881年(明治14年)頃
 自由民権運動(自由に意見を言い合える世の中にしよう、と言う運動)に、正岡子規も影響を受け「自由何(いず)クニカアル」などの演説文を書いて発表。
 
司馬遼太郎「坂の上の雲」
 正岡子規が中学4年生ころ、自由民権運動の演説に熱中し、当時有名な植木枝盛(うえきえもり)が高知から松山にきて鮒屋に宿泊したときも、子規は仲間と一緒に旅館まで押しかけ意見を聞いたというエピソードが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に書かれている。
 
道後温泉ふなや
 〒790-0842 愛媛県松山市道後湯之町1-33
 
1883年(明治16年)12月~1884年(明治17年)2
井上馨(47歳)が病気静養のため、道後「鮒屋」に滞在。
 
 井上馨 1836~1915(天保6~大正4
  元老。長州藩出身。外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任。
 
1891年(明治24年)
「松山や秋より高き天守閣」(子規)
 *湯築城跡が一般公開になったのは1887年(明治20年)5月である。
 
1892年(明治25年)8月中旬
 学生だった夏目漱石(25歳)が、同じく学生だった正岡子規(25歳)を訪ねて松山へ来る。現在の「正岡子規母堂令妹住居址」(子規の母八重と妹律が住んでいた四畳と六畳の二間だけの家)で、母八重が作った松山鮓を、夏目漱石、正岡子規、高浜虚子(18歳)で食べた。
  「漱石氏と私」(高浜虚子)より
 
 正岡子規母堂令妹住居址(石碑あり)
  松山市湊町4丁目
 
1894年(明治27年)
道後温泉本館落成
 大屋根母屋造り木造3階建ての道後温泉本館が完成。
 
1895年(明治28年)4
【愚陀佛庵】(ぐだぶつあん)
 夏目漱石(28歳)が愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任。上野家の離れに下宿した。その建物が愚陀佛庵である。
 また正岡子規が病気の療養のため居候し、1階に正岡子規、2階に夏目漱石が住み、52日間滞在していた。
 愚陀佛とは、夏目漱石の俳号である。
  「愚陀佛は主人の名なり冬籠」(漱石)
「桔梗活けて しばらく仮の書斎哉」(子規)
 
 正岡子規が52日間の滞在後、東京へ向かう途中に奈良で読んだ句が有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」である。この旅行が子規の最後の長旅となった。
*愚陀佛庵は昭和20(1945)年7月の松山大空襲で焼失。その後、現在の萬翠荘の裏に復元された。(2010年松山城の土砂崩れにより全壊。再建に向けた運動が行われている。)
 
 愚陀佛庵
  〒790-0001 愛媛県松山市一番町3-3-7
 愚陀佛庵跡(石碑のみ)
  〒790-0002 松山市二番町3
 
【道後温泉本館】
 松山出身の正岡子規(28歳)や高浜虚子(21歳)らと道後温泉へ何度も行っている。
 道後温泉本館の建築のことは手紙で「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と書いている。
 11年後の明治39年に、この道後温泉を舞台にした小説「坊ちゃん」を文芸誌「ホトトギス」で発表した。
 現在の道後温泉本館の三階には「坊っちゃんの間」や、本館の東側に「坊ちゃん」発表100年記念の石碑も作られている。
 
【ふなや】
 夏目漱石は道後温泉の旅館「ふなや」にも宿泊して歌を詠んでいる。
  「はじめての 鮒屋泊まりを しぐれけり」
 高浜虚子も「漱石氏と私」、「いよのゆ」で、鮒屋で漱石と当時めずらしかった西洋料理を食べたと回想している。
 
夏目漱石 1867~1916
 小説家。東京都出身。帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)卒業後、教師生活を経てイギリスに留学。帰国後の1905年に処女作「吾輩は猫である」で文名を得る。1916年、胃潰瘍で永眠、享年50歳。
 
1895年(明治28年)106日(快晴・日曜日)
 正岡子規と夏目漱石が道後温泉を散策する。
 「今日ハ日曜なり。天気は快晴なり。病気は軽快なり。遊志勃然、漱石と共に道後に遊ぶ。」
 道後温泉にて。
 「三層楼中天に聳えて、来浴の旅人ひきもきらず。温泉楼上眺望
    柿の木にとりまかれたる温泉哉」
 旅館ふなや辺りで詠んだ句
 「亭ところどころ 渓に橋ある 紅葉哉(かな)」
 遊郭の側にある宝厳寺辺りで。
 「色里や 十歩はなれて 秋の風」
  昭和49106日に宝厳寺内に正岡子規の句碑が建立されている。
 他にも鷺谷墓地で曾祖母・小島久(父方の曾祖父の後妻)の墓を探したが、見つからなかった。(この墓地には、後述する秋山兄弟の墓もある。)
 以上は正岡子規「散策集」より
 
1896年(明治29年)7
 正岡子規が同郷の小川尚義(言語学者)が帝大を卒業し、松山に帰省する時に「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈る。
 この句は道後温泉「椿の湯」湯釜に刻印されているが「ゆ」が「温泉」になっている。
 
1897年(明治29年)
 正岡子規の友人・柳原極堂が俳句雑誌「ほととぎす」を創刊。
 正岡子規は「ほととぎすは余の生命なり」と言っている。(前記したように「ホトトギス」は「子規」とも表現する。)
 しかし「ほととぎす」は20号で廃刊。
 1989年(明治31年)10月、発行所を東京に移し、高浜虚子が跡を継ぎ「ホトトギス」の名で現在まで続いている。
 
 俳誌「ほととぎす」創刊の地(石碑あり)
  松山市北立花町
 
1903年(明治36年)
 嘉仁親王(後の大正天皇)、来湯。
 
1906年(明治39年)
 松山と道後温泉を舞台にした夏目漱石の「坊っちゃん」が発表される。
 坊っちゃんが小説の中で食べた団子は、当時は一色の物だったが、現在は小豆、抹茶、卵の3色の団子を串刺しにしたものが「坊っちゃん団子」として売られている。この「坊っちゃん団子」をもっとも早く作り始めたのは、つぼやであると言われている。
 
 つぼや菓子舗
 〒790-0842 愛媛県松山市道後湯之町14−23
 
1909年(明治42年)316日~28
 伊藤博文(68歳)は古谷秘書(伊予出身)のすすめで、入湯を目的に道後「鮒屋」に滞在。歩兵22連隊視察、大山祇神社参詣。
 「一日に一、二回必ず道後温泉本館『霊の湯』に入浴した。
 酒とたばこが好きで煙草はシガー、酒は葡萄酒を常用した。
 食事は、朝はパンと牛乳と鶏卵。
 昼と夜は二、三の副食物の他、粥または雑炊三椀と少量の名古屋産の香の物位。
 菓子は食べないが、果物は久松家から寄贈の物を時々賞味された。
 淡白なものを好まれ番茶に塩を入れて飲むのが常であった。
当時六十九歳であったが、牛肉のすき焼きは好物であったという。」
  酒井黙然 「道後温泉話題」より
 滞在中も詩、書を楽しみ、旅館ふなやにも書を遺した。
 
伊藤博文 1841~1909(天保12~明治42
 初代内閣総理大臣。長州藩出身。
 
1921年(大正10年)
斎藤茂吉
 「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」
  「あらたま」(大正10年刊)より
 *宝源寺に句碑あり
 *松山出身の女性(24歳)が、29歳上の斎藤茂吉の問題に見切りをつけて松山へ帰省し、見合いを進めていたところ、斎藤茂吉が追いかけてきた時の歌…らしい。と言う説を見つけたが詳細不明。
 
 斉藤茂吉 1882~1953
  日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。
 
1922年(大正11年)
 伊予松山藩十五代藩主・久松定謨(さだこと)伯爵の別邸「萬翠荘」が建設。木子七郎設計のフランス風洋館(当時にはめずらしい鉄筋コンクリート製)。
当時の価格で総工費30万円。
 敷地は松山藩の家老屋敷跡地。(この建物の裏に夏目漱石と正岡子規が暮らした愚陀佛庵が復元されている。前出)
 この年、陸軍特別大演習に道後へ来た裕仁親王(後の昭和天皇)が道後温泉で入浴。
 
 萬翠荘(ばんすいそう)
  〒790-0001 愛媛県松山市一番町3-3-7
 
 久松定謨(さだこと) 1867~1943
  伊予松山藩十五代藩主。妻は昭和天皇の皇后良子(ながこ)の伯母に当たる。明治20年にフランスへ留学する時に、家臣であった秋山好古を連れてき、騎兵戦術を習得させた。
 明治16年に作った常磐会で学生を援助。正岡子規も援助を受けた一人である。子規が日清戦争で従軍記者として同行した時に、子規を宴に招き、それに感激した子規は「金州城にて『行く春の酒をたまはる陣屋哉』」と句を詠んだ。
 
 秋山好古 1859~1930
  松山出身。軍人。当時、世界最強と言われたコサック騎兵隊を撃破。弟の秋山眞之(1868~1918)は、当時無敵を誇ったロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争を勝利へと導いた。
 (秋山兄弟については坂の上の雲ミュージアムで詳しく紹介されている。)
 
 坂の上の雲ミュージアム
  松山市一番町3−20
 秋山兄弟生誕地
  松山市歩行町2−3−6
 
 
1931年(昭和6年)
与謝野晶子(53歳)・鉄幹夫妻が道後温泉を訪問。
 「道後なる湯の大神の御社の もとにぬる夜となりにけるかな」
   「与謝野晶子温泉の歌」より
菓匠「一泉堂」でおまんじゅうを購入。
 
湯神社
 松山市道後湯之町47
 
菓匠 一泉堂
 道後温泉のシンボル湯玉模様の焼き印が押された「玉饅頭」は一泉堂オリジナル。
 
1943年(昭和18年)326
 高浜虚子が太平洋戦争中、松山へ帰郷し鮒屋(ふなや)に泊まり詠んだ句。
  「ふるさとに 花の山あり 温泉あり」
  「麗らかに ふるさと人と うちまじり」
    「句日記」より
 
1946年(昭和21年)
 南海地震により湯の湧出が一時止まる。約1ヶ月後、再び湧き出る。
 
1950年(昭和25年)
 昭和天皇、来湯。
 
1951年(昭和26年)9
 正岡子規五十年祭が行われた時、高浜虚子は年尾、立子の2人の子供と共に鮒屋別館(ふなや)に宿泊。
 道後公会堂(現子規記念博物館)で俳句会を行った。
 
1956年(昭和31年)
 道後温泉内湯創設。当時の旅館62軒。
 
1966年(昭和41年)
 道後温泉本館三階に「坊っちゃんの間」開設。娘婿である松岡譲が命名。
 
2001年(平成13年)
 道後温泉本館が(公式には特定のモデルはないが)映画「千と千尋の神隠し」の油屋のモデルの一つになったと言われている。
 
2002年(平成14年)4
 道後公園湯築城跡オープン(園内には正岡子規記念博物館などが立地)
 湯築城(ゆづきじょう)は、愛媛県松山市道後町の県立道後公園内にある河野氏の城跡。堀や土塁が現存する。国指定の史跡。代表紋章は「折敷三文字」。
 【湯築城の歴史】】
 14世紀前半、伊予国守護河野氏によって築城された。東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城であった。
 1581年(天正9年)以後、四国征圧を狙う土佐国の長宗我部元親が伊予に侵入し、城主河野通直は元親と交戦した。
 1585年(天正13年)、四国征伐をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍が伊予に侵攻して金子元宅を攻撃、また湯築城は、約1ヶ月の篭城の後に降伏した。城にとどまっていた河野通直は命は助けられたが、2年後に病没した。湯築城は小早川隆景に与えられたが、隆景の所領は筑前に移された。
 1587年(天正15年)、福島正則が城主となるが、正則が国分山城に居城を移したため、廃城となった。
 1602年(慶長7年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降、加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となる。
 
2007年4
「ミシュラン・ジャポン(Voyager Pratique)」で3つ星の評価を得る。
 
2009年(平成21年)3
「ミシュランガイド(観光地)日本編」で2つ星に選定。
 
 
 
(あとがき)
 年表だけでは味気なく、個人別の伝記や作品、歴史書では分量がありすぎて、旅行前には読み切れない。歴史だけではなく、教科書に載っている程度の人や文学者、作品位はその地域に関連があるなら知っておきたい。正史だけではなく、伝説や言い伝えもあるなら押さえておきたい。できれば出典を確認して、適当な情報ではないこともチェックしておきたい。
 そんな雑多な思いから集めた情報やメモをまとめてみた。
 物件ごとではなく、町の歴史の流れの中で、それぞれのちょっとした繋がりに気づいて、より感慨深く思えたり、現地で確認したことが出てきたり、人物や作品に興味を覚えたりと、旅の前に興味が広がった。
 果たして旅は楽しくなった。1日あれば十分だと言われる道後、松山を見るには2日でも足りなかったほどだ。ロシア人墓地のあたりまで地域を広げたり、種田山頭火の句碑めぐりも入れれば、一週間でも足りないかもしれない。
 しかし、これ以上書けば、「簡単」に把握すると言う当初の目的から外れるため、今回はここまでで一区切りとすることにした。

この本の内容は以上です。


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