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ふわふわな足

気の利かない朝だ。目覚まし時計のうんざり音をようやく手探りで止め、僕はへばりつくベッドから何とか体を切り離した。だらだら急いで着替えを終え、洗面所で顔を洗い、台所へ向かう。そこにはまだ姉の亜季がいた。朝食を終え、会社へ向かうまでの、せわしない時間のようだ。

「あら、珍しいのね一成君」

「今日は一限目から授業があるんだよ」

「じゃあ、戸締り頼んだよ。そこの暇な人」

玄関で急ぎの靴音を鳴らし、亜季は出かけた。母の明子はもう仕事場に着く頃だろう。一週間の中では最も早く起きる日でも、母、姉、弟の順に自宅から消える仲田家の序列は変わらない。

 

まだパン一枚ぐらいは食べる時間はありそうだ。焼きたてのパンを素早く牛乳でかき込む。普段ならもっとゆっくりテレビでも見ながら、インターネットにも目を通して、というところなのだが、木曜日だけはそういう訳にもいかないのだ。一限目が出席重視である上、遅刻にやたらと厳しい先生なのだ。

 

だが、気分は重いばかりではない。大学に入学してから2ヶ月近く経ち、友人との会話も随分スムーズになった。彼らと親交を深めるのも悪くない。それ以上に楽しみなのが、付き合い始めた彼女に会えることだ。急に体が軽くなったような気がした。このふわふわな足なら間に合ってくれる。遅刻しないために乗らなければいけない列車がホームに滑り込むのが5分後。僕がこのままのペースで歩き続ければ、ホームに辿り着くのも5分後。だが妙な自信がある。今日の僕の足はふわふわだ。


撥ねられてしまった

少しだけ、予想外のタイミングだった。横断歩道に差し掛かったとたんに、信号が赤に変わったのだ。ここで信号に従えば、間に合わない可能性が高くなる。オリンピック選手でもないのだが、ここで立ち止まっている1秒1秒はずしりと重い。僕は軽く左右を確認した。何も来ていない。やや勢いをつけて渡り始める。

 

その瞬間だった。なかったはずの白い車体が視界に入った。もう手遅れだ。僕は撥ねられた。急ブレーキをかけた運転手が運転手が車から降りてくる。じわじわと広がっていく人の輪と赤のじゅうたん。誰かが「救急車、救急車」と叫んでいるようだが、もう間に合いそうにない。僕は僕の肉体から抜け出すことを決意した。次々と体の機能がストップしていくようだ。僕は慌てた。苦しみのさなかの肉体の中で。だが脱出できない。諦めたくはなかったが仕方ない。これが運命なのだろう。神を恨みつつ、身も心も委ねた。


急がなければ

その時である。僕は滅びつつある肉体の上にポカンと浮かび上がったのだ。全く興味などないが、これが幽体離脱というものなのか?恐る恐る視線を落としていくと、僕が抜けたことでとどめを刺された、無残な若い肉体が転がっている。

 

とにかく、ここから離れたい。中を彷徨いながら次第に喧騒と距離を置く。しばらくして救急車の音とすれ違った。目的地はわずか19年で幕を閉じた肉体が眠っている場所に違いない。もっとあそこで生きたかった。無念だ。しかし、何よりもまず、魂の新たな住み家を探さなければならない。何だか苦しくなってきた。どうやら空気に直接触れることで、僕は傷つけられていくようなのだ。

「急がなければ」


拒まれ続けた

まずは同世代の若い男の中に潜り込もうとする。背後から。正面から。しかし、思うようにはいかない。あっけなく拒絶された。当たり前だ。ひとつの魂がひとつの肉体に住み、支配しているのだから。それでも奇跡を信じるしかない。まだ生きたい。どうしても生きたい。

 

じかに外気に触れ続け、僕は苦しくなる一方だ。同時に空からの引力が誘ってくる。急がなければならない。若い男だけに拘っていては駄目だ。老若男女。いくら何でもそれは範囲を広げすぎか。だが中年ぐらいまでなら仕方ない。高望みをしている場合ではない。

 

40代ぐらいのサラリーマン風の男に体当たりする。駄目だ。鍵がかかっている。前から若い女が歩いてくる。出来れば女は避けたい。しかし僕の限界も近づいている。もう性別も選んでいられない。若い女に飛び掛った。やはり駄目だった。簡単に跳ね飛ばされてしまった。もう見込みはないのか?老人が犬を連れて通り過ぎていく。年寄りなら生命力が衰えていて、入りやすいかもしれない。僕はターゲットを追いかけ、飛び掛った。


僕は救われた

「そこの古い魂どいてくれ。頼むから」

老人は何らかの気配を察したのだろうか。歩調を緩めることなく、僕を容易にふるい落とした。いったん、アスファルトに叩きつけられたが、逆引力により、また僕は浮いた。このまま空まで飛んで言ってしまいそうだったから、必死で下へ下へ向かおうとした。老人の後ろ姿が次第に遠くなる。彼のペットの姿も。

「仕方ない。ここまできたら犬でもいいか」

そう考え付いた時には、すでにターゲットを追う力も残っていなかった。その場にとどまり続けるだけで精一杯だった。

 

遥か前方に映る老人と犬とすれ違った人がこっちに近づいてくる。どうやら女だ。僕の力がすべて抜けた。だからてっきり、空に吸い込まれたのだと思った。しかし、どうやら違う。街の景色に変わりはない。ただ、目の前の若い女だけが消えたのみだ。

 

理解するまでに時間が掛かった。そして、ようやく確信した。「助かったんだ」と。何故、受け入れてくれたのかは解らない。とにかく彼女の優しさに僕は救われた。それにしても体内は心地いい。疲れた。しばらく眠りたい。人体の操縦はもうひとつの、というよりは本物の魂に任せておこう。

 

 

 



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