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 店の名前は『リラ』、新宿三丁目の細い路地の一つにある。
 雑居ビルの入口に出ている立て看板を見て、薄暗い階段を二階へ上がるとガラガラとカウベルの鳴るガラスのドアがある。
 休みの日には看板が出ていない、これまでに二度ほど休みにぶち当たった事があった。
 あったはずの店が見つからなくて、狐につままれたような気分で あちこちの路地に入って歩き、やっと看板が出ていないばかりにそ の雑居ビルの入口を見過ごしていたことに気がついた。
 店は休み。
 歩き疲れた迷路の果てに壁にぶち当たって、脱力感に襲われて、 ほとほとと家へ帰った。
 家は遠い、西武新宿線で山の彼方だ。 
 家に着けば食って寝るだけ、アフターファイブなんてふざける金 は俺にはない。
 おふくろ一人、家は持ち家、なのに何故か金がない、働いている のに一向に生活が楽にならない。 
 五時、終業のベルが鳴る。
 一秒前まで霞がかかったようだった部屋の中が、とみに活気に満 ちる。
 女達は花が咲いたみたいになり、男共は急に力が沸き上がったよ うに胸を張っている。
 「―――さん。行かない? カラオケ、タダ、歌い放題よ!」
 「いや、俺、金ないから。」 
 「ないのなんて一緒よ、気取ってないでさ、行こうよ!」 
 気取ってなんていない、本当に金がないんだ。
 残業でもあれば言い逃れもできるんだけど、仕事はみんな時間中に済んでしまう。
 「ほっとけよ、オイ。そいついつも帰りにどっか寄ってんだぜ。 いい女でもいるのさ。」
 「えー。玉の輿ねらってたのにぃ。」

 ざわざわ…。

 やっと人がいなくなる、エレベータを降りると黄色い夕日が街を明暗に分けている。
 『リラ』へ行こう。
 軽いアタッシュケースを握って、足は勝手に新宿の雑踏を抜けていく。
 縄のれんの前の打ち水、おでんの匂い。
 真っ赤な古典的なパンク頭のにいちゃんと、薄ぼけた中年会社員、 うさんくさい業界風ビラ配りと、宗教勧誘員、普通の人。 
 美人、中学生、高校生、買い物のおばちゃん、夕日一色単。
 マンモスみたいな伊勢丹の影をかぶりながら、横道に曲がってい く。
 がらがららん!がららん!
 ドアを押す度に、肝を抜く。
 自分が何か悪いことをしたような気持ちで、店に入る。 
 流れているかいないかの、有線のポップミュージック。
 静かすぎて、確かに鐘でも鳴らさなくちゃ客が来たかも分からな い店に思える。
 広さはろくにない、四人掛けのテーブルが四つと細長い七人掛け 程の大テーブルが一つ。
 狭い床面積に、プライバシーを守れる程 度の間隔でテーブルを配した結果という感じだ。
 大抵、客はいな い。
 いい女なんていない。
 「いらっしゃいませ。」が、唯一の愛想のようなウエイトレスが 一人いるだけだ。


 後は、ついたての向こうに「マスター。」がいるらしい。
 コーヒーは出てくるが、その「マスター。」は見たことがない。
 コーヒーは、うまい。
 だから、ここへ来る。
 自分の唯一の贅沢だと思っている。
 ウエイトレスが置いていった白いカップを持ち上げる、鼻腔を柔 らかな芳ばしい喉の奥までくすぐるような香りがいっぱいに満たす。
 滑らかな舌触りにしゃきっとした苦味と微かな酸味、コーヒーシュ ガーをひとすくい入れると、もう絶品だ。
 うっとりと、俺は一口目を飲む。
 味わって、飲み込んで、後は少しずつ少しずつすするように飲む。
 今日は一人客がいる、向こうもやっぱりちびちび飲んでいる。
 仲間だな、俺は妙に可笑しくなった。
 三〇〇円、一日一杯。 
 それでいい、俺はこの幸せに十分満足している。
 向こうの客はもうコーヒーを飲み終わってしまったようだ、俺よ り先に来てたのだから当然だろう。
 なごり惜しげにカップに口を付け…。
 あーあ、上向いてカップを逆さにしている、隣にいたら最後のし ずくを吸う音まで聞こえそうだ。 
 噴き出しそうになって、俺はカップを置いて、軽く口を押さえた。
 そうすると、本当にコーヒーを吸う音が聞こえた。
 じゅるん―――。
 すごい…。
 どんな顔をしてるのかと、俺は顔を上げた。
 じゅるん、じゅるん。
 白いカップが、仰向いた男の顔に吸いついていた。
 じゅるん、じゅるん。
 ぐびっ!
 カップが、男を飲み込んだ。
 うわああああああああああああああああああ!!!
 ウエイトレスもいない、厨房にもいない。 
 トイレは怖くてのぞけなかった。
 薄暗い店、そのものに飲み込まれそうな気がして、俺はドアを蹴 破って街へ逃げ出した。

 ざわざわざわ…。

 アフターファイブは、みんなと一緒に飲みに行く。
 カラオケだって、ビリヤードだってじゃんじゃんやる。
 使ってみると、金は結構あるものだ。
 ただ、あの日払い損ねたコーヒー代、三〇〇円…。
 『リラ』のウエイトレスが、いつか俺のところに集金に来るよう な気がして、俺は怖くて仕方がない。

 

 

-おわり-



奥付



RIRA-リラ-


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著者 : 葉月まゆみ
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