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 幼い頃から本が好きだった。田舎の祖母の家に泊まった時に眠れなくて、皆が寝静まった夜更けに寒くてだだっ広い農家建築の家じゅうを本棚を探しふらふらとさまよった。

重い戸を開け入った暗い部屋の、ゆがんで倒れそうな本棚にその本はあった。ずっしりと重いハードカバー。背表紙には『アンナ・カレーニナ』。選んだ理由は、単に題がカタカナで親しみを感じたから。だってほかには『路傍の石』だの『南総里見八犬伝』だのが並んでいたのだ。

やっと本が手に入ってほっとしたのと読めない漢字が多いのとで、最初のページを読みながら眠ってしまった。年一回しか泊まらないのに、祖母が私の名前を書いて用意してくれていた(そしておそらく熱心に日光に当ててくれていたのであろう)ふかふかの布団のなかで。本があるだけで得られる柔らかな親密感に包まれながら。

翌朝、本を抱えて起き出した私を見ると祖母はにこにこして「あげますよ」と言った。

 

 十数年後、あわただしい青春時代前半を送り、村上春樹に夢中になったり教科書の顔写真をみて少しがっかり(ごめんなさい×100)したりしつつ、私は19歳になった。

その夜、私はやはり本を切らしていて(読むべき本が手元にないのは、お醤油やお米をうっかり「切らして」しまった状態に似ている)、リビングの本棚を眉間にしわを寄せて物色していた。そしてあの懐かしい背表紙をみつけた。ああ「懐かしい」ってこのときのためにあるような言葉!私はとうとう『アンナ・カレーニナ』との邂逅を果たした。

わくわくと布団に入り読みはじめると、なんか退屈…ロシア人の名前がまず覚えにくいのにアレクセイが二人登場するし…ロシアっていう国と歴史的な背景もよくわかんないし…。

 でも、読み進めるうちにトルストイの世界にぐいぐいと否応なく、阿部公房の『砂の女』の家に引きずり込まれるかのように心地よく落ちていった。

 登場人物たちの心理描写のリアルさ。もしトルストイと友達だったらきっと識閾下までも見透かされてしまう、と恥ずかしさと恐ろしさに肩をすくめながら読み進める。

 不幸に転落していくアンナの物語と、素朴で心を打つレーヴィンの幸福の物語が、二色の布切れを綯うように順に現れ、硬く、強く、太くかたちづくられていく。そこここに、はっとするような「気付き」がちりばめられる。ふつう、経験からしか得られない種類のことを実感として気付かせてくれる。

たとえばアレクセイは、自分が親切にしてあげた相手は好きで、自分が冷たくした相手は嫌い。「好きな相手だから親切にする」のではなく「嫌いだから冷たくする」のではないし、「親切にしてもらったから好き」、「冷たくされたから嫌い」でもない。「自分が親切にしてあげた相手は好きで、自分が冷たくした相手は嫌い」。それってまさに真実!

そんな真実がさらりと書かれ、なんでもないように過ぎていくが、読んでいるほうは胸にぐっと突き刺さってしまうのである。そんなのがじゃんじゃん現れてぐいぐい「来る」ので、ページを繰る手は止まらない。読み終えると窓の外はすでに朝。徹夜したにもかかわらず頭は冴え渡っていた。

 

 ふと裏表紙の見返しに目をとめると鉛筆書きで「春子、十九才」とある。母も19歳で読んだのだ。朝食の席で母に興奮気味に『アンナ・カレーニナ』の話をし「お母さんは最近本読まないの?」と聞くと「もう疲れちゃうんだもん。漫画がいい」との返事。三人の子育てで疲れ、さらっと読めるものがいいんだそうだ。

そのときは、「ふん、読めばいいのにさ、すごくいいもんだよ」とかなんとか言ったのだけど、今となってはよく分かる。私も三人の子育てと仕事で疲れはて、ロシア文学で徹夜、なんて事実上不可能な夢物語だから。

 

 そんなわけで身も心も本の魅力に奪われた私は、本に囲まれ本をつくる仕事に就き、ささやかで幸せな日々を送っている。そりゃ、くやしくてトイレで涙がこぼれたり、プレッシャーで眠れないなんてこともたまにあるけど、心の奥底にある『アンナ・カレーニナ』から学んだ教訓、真実、処世術、人生訓…うまく言えないのだけれど、何かが私を守ってくれている。ハリー・ポッターを守る母の古い魔法のように。もう二十年近くも読み返していないのに、爪でカリカリしても剥がれないこぼしたいつかのシチューのように、いくつもの真実がしっかりと心にこびりついている。ちょっと解釈が間違っているかもしれないけれど、ぴったりくるのはカントの「天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律」である。本は、物語は、確かなものを私たちにプレゼントしてくれる。


この本の内容は以上です。


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