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序文

 2012年2月号、無事刊行である。まあ、編集執筆が間に合わず、いつもの発行日である20日からは数日遅れてしまったが、月内に刊行できたので良しとしよう。今後もそこら辺はフレキシブルにやっていこうと思う。

さて、月オパも今号で5冊目となる。執筆者も増えやっと軌道に乗ってきたという感じである。連続性が生まれてきたというのは喜ばしきことであるが、これが惰性に変わっていってはいけない。そう自戒しつつ、今後も頑張っていきたい。

 ということで、今月号は新コーナーを林立させてみた。一つは「ルポ」。エッセイとはまた違った、実施・取材報告的な記事を載せるコーナーである。もう一つは「論評」。これもエッセイとの差別化を図ったコーナーで、ちょっとお堅めの記事を載せていこうと思う。

 また、コーナーの掲載順序もいじってみた。「オパーリン1ヶ月(日記より)」を後ろの方にまわした。これは東町氏の「日記は最後でいいだろ」という指摘によるもので、僕も「確かに」と思ったので聞き入れることにした。重要、読ませたいものほど前の方に、ということである。まあ、そんな事を言ったら僕は連載を読んでもらいたいんだけど、連載が最初に載っている雑誌なんてないしね。そこは悪しからず。

 さて、今月号のラインナップをさらっと紹介する。今月号もまた新しい執筆者が加わった。その名も鶴首氏。フェイスブックでの発言が面白かったのでスカウトした。執筆依頼を快諾して下さり、「八百万の悪魔」という題で力作を執筆してくれた。内容は宗教観とかそういうものだと思う。

東町健太氏は記事を2本執筆してくれた。前回パソコンのトラブルでお蔵入りになった記事も(パソコンが復活し)送ってくれたという訳だ。毒が冴えわたっている。

弦楽器イルカ氏との合同連載企画「お前、悩んでんだろ?」第二回、今回の被害者はあの女装デブである。また、イルカ氏が1月号の多良鼓氏の記事に感想を書いてくれたので、特別掲載とした。

 多良鼓氏は今回も博学っぷりを見せつけてくれた。IDって何だか分かる?僕は知らなかった。面白くて為になる記事をありがとう。

 僕の記事は、まあ当然読んでくれるだろうから特に書くことはしない。

では、月刊オパーリン王国2012年2月号、とくとご堪能あれ。

2012年2月23日

 


「コカコーラのビン、キッコーマンの醤油差し、そしてスーパーマリオブラザーズ。」 多良鼓

 標題に挙げた三つのモノ、誰もが一度は見たことがある代物だろう。実はこれら、いや、これらを含む多くの実用品は、ある一つの思想から形作られたものなのだ。思想と言うとなにか物々しい感じがするので、こういう風に言いかえよう。すなわち「機能的で美しい形」という考えに基づいて作られたモノなのである。自分たちの身の回りにあり、かつ使っているモノの「形」というものは、全てこの考えに沿ってデザイナーが頭を捻り発想している。この考えはインダストリアルデザイン(ID)と呼ばれ、今やモノを作るときには欠かせない考えとなっている。IDは、考えとしては世界中で昔から存在したものであるが、それが注目され活用されるようになったのはイギリスの産業革命に端を発する。日本では戦後まもなくして取り入れられるようになった比較的新しい考えである。アメリカのIDにおけるパイオニア、レイモンド・ローウィが書いた著作の題名は、IDの特徴をよく示している。すなわち『口紅から機関車まで』だ。

 さて、このIDにおいて、商品は「機能的で美しい形」でなければならない。一目見ただけでそれが何なのか分かる程の個性と、使っている時にそれを意識させない程の使いやすさ・親切さ、これらがIDでは最重要の点だ。標題に挙げた三つのIDを象徴する(と私が勝手に思っている)モノ達は、もちろんこれらを備えている。百聞は一見に如かず!IDは見て使われてこそ!という意見はもっともだが、ここはあえて野暮ったく一つ一つを例にとってIDを言葉で説明してみよう。

 まずはコカコーラのビン、正式名称コンツァーボトルについて説明する。このボトルが使われるようになったのは1915年からなので、今年で97歳の超長寿デザインだ。前述したIDのパイオニア、レイモンド・ローウィをして「完璧なデザインだ」と言わしめた程のモノである。1960年にはアメリカの連邦特許庁が稀有な例として、ボトルとして初の商標登録を許可していることからも、その特異性は垣間見ることができる。それまでに無かった曲線ある美しいデザイン、どんな手にもピタリとフィットする機能性、まさに見た目と実用性の両面において素晴らしいデザインである。このボトルを作る際に「暗闇でも触った瞬間分かる」というものと、もう一つ「割れたとしても一目でコカコーラのボトルの破片だと分かる」という注文があったらしい。コカコーラの個性は、IDを用いて意識的に形作られたものであったのだ。この個性あるボトルは、ペットボトルへと変遷しても変わらず用いられており、コカコーラとは何ぞやという人々の意識に対して一つの答えを担っている。

 お次はキッコーマンの醤油差しだ。醤油差しはキッコーマンがオリジナルを作る前からあったものだが、キッコーマンの醤油差しが出るまでは何とも古色蒼然としていて、デザイン的にあまり質のいいものではなかった。それに、何と言ってもそれまでの醤油差しは、注ぎ口の部分に醤油がこびりついてしまい、醤油を出した後の口からは醤油がポタポタツーッと出てしまう、みっともない感じになるのが普通であった。キッコーマンは、一般家庭だけでなく飲食店などにも使える、機能的で、シンプルで、美しい、オリジナルの醤油差しを作ることで、自分達の醤油のシェアを確立しようと試みた。結果、創作されたのが、あのキッコーマンの醤油差しである。下に行くほど半径が広くなる安産型の形状。なだらかな曲線で首の部分が一番細くなるようになっており、女性子供でも掴みやすいようになっている。注ぎ口は左右両方についており、色は赤。入っている醤油の黒色が見えるようにガラスで作られたビンの真ん中に、黒を引き立てる金文字。シンプルながらも親しみやすく、かつそれまでの醤油差しとは一線を画しているデザインである。しかし、なんといってもこのデザインで素晴らしいところは、醤油の注ぎ口だ。このビンの注ぎ口をよぉーく見てほしい。注ぎ口の上の部分が若干突き出ているのだ。それまでの醤油差しの欠点として醤油が垂れるという点があったことを先ほど述べたが、この上が付き出る形状によって、醤油が垂れることを克服したのだ。たったこれだけで、醤油を出した後の注ぎ口から醤油が残らず、ビンに戻っていくようになったのである。このビンのデザインは世に受け入れられ、大ヒットした。たった一本のビンで、日本の醤油事情は様変わりしたのであった。

 最後に、スーパーマリオブラザーズ(SMB)について述べる(そしてここが最も書きたかった所である)。普段ゲームをしない人でも知っている、日本のビデオゲーム史におけるレジェンドとなった、あのSMBである。「え?ソフトの形はみんな一緒じゃん」とお思いの方、SMBでIDが使われているのはソフトでもパッケージでもない。SMBの中身が、まさにIDに沿って考えられ、構成されているのである。SMBはファミコンにおいても初期のゲーム(初めではない)で、しかもゲームジャンルとしては当時珍しい「横スクロールアクション」であった。それに加え任天堂は、このゲームを遊んでもらう対象としてゲームをやったことのない一般家庭の人をも視野に入れて開発を行っていたそうだ。つまり、ゲームをやったことも無い人にとって、ゲーム・横スクロールというものの概念、そして遊び方を「ゲーム内で」教えなければならなかったのだ。もちろん、チュートリアル(ゲームの遊び方を教えるためのゲーム内での説明)は無い。説明書はあるが、説明書を見ない人もいる。そんな人たちでも楽しく遊べるには、という考えの下で当時のスタッフは大いに頭を悩ませた。それによって生み出されたSMBのシステムは、何処を切ってもなるほどと思わせるような構造になっている。ここで全てを挙げるときりが無いので、1面の構造に焦点を当てて今回は語ってみたい。SMBの1面、やったことのある人は思い出しながら、無い人は動画サイトなどで構造を見ながら是非読んでほしいと思う。ここでは、解り易いように、初めてゲームを触った人風で書いてみたい。

 

スタートボタン ポチッ

背景に山が書かれている平面上の地面に、髭のおっさんが立っている。十字キーの右左を押すと、おっさんが歩く。上は動かない。下は何だ?しゃがんでいるのか?Aを押すとジャンプか。Bは・・・何も起きないぞ。

『とにかくこのゲームはおっさんを動かすゲームらしい』

この時、おっさんが立っているのは真ん中よりも左寄り、そして向いている方向は右だ。じゃあ右に進むのか。なるほど。

ゲームを始めた人は、何は無くとも、とりあえずおっさんを右に歩かせてゴールまで連れていく事が目的だと何となくここで理解する。敵は始め出てこない。右に動かしていくと画面が右にスクロールしていき、キノコ(クリボー)が出てくる。敵である。当たるとミスになるが、事前知識が無い状態ではこれが何なのかも解らない。つまり、特攻。

ピロロッ チャランチャチャッチャッチャッチャッ ドゥンドゥドゥン

『・・・』

スタート画面(「World 1-1」と書いてあるあの画面)になり、初めの場所に戻されるおっさん。

『当たっちゃ駄目なのか、あのキノコ』

ここでゲームをしていた人は、既に「おっさんを歩かせて右に行く」「キノコ(クリボー)に当たってはいけない」という事を理解した。では、当たらないようにジャンプしていこう。

ピヨーン ピヨーン ピヨーン ポコッ

『!?』

キノコを避けようとしてジャンプをしていたら、踏んづけてしまった。しかも、潰れて消えた。ここで敵を倒す方法も伝える事が出来た。ここで伝えられずとも、実はクリボーを避けようとして踏むように出来ているポイントはここだけでなく、1面のあらゆるところに作られてある。そして、クリボーより少し早めに画面に表れてきた謎の?の箱。

『何だあの箱』

?ボックスは、背景へ溶け込まないように点滅し、かつ背景よりも速く動くことで遠近感を出しおっさん側のものであることが強調されている。

ピヨーン ガッ コイーン

『なんか出た!』

しかし、何も起こらず。少なくとも害はないようだ。?の箱に頭突きをすると、何か出てくる事が解った。

さて、ここまででゲームをした人は既に「おっさんを歩かせて右に行く」「キノコ(クリボー)に当たってはいけない」「キノコ(クリボー)は踏んづけると倒せる」「?の箱は下から頭突きすると何か出てくる」という事を理解している。いずれも、SMBを遊ぶために必要な最低限の知識だ。そして現れる、連なる5個のブロック(ブロック・?・ブロック・?・ブロックの順)と、土管。

『?の箱だ。頭突きしよう』

ピヨーン ガッ ビヨヨヨヨヨ

『うわっ、キノコだ』

この時点で解っている事は、キノコに当たると死ぬ、それだけである。なんとかしてキノコを避けたい!幸いにもブロックの上に出てきたキノコは、そのまま下にも落ちてくる事無くブロックをつたって右にスーッと動いていく。

『ほっ・・・』

そしてキノコはブロックの右端から落ちる。土管にぶつかって方向転換し、こちらに向かってくるキノコ。

『!!!』

ヤバい!避けなくては!それか倒さなくては!どちらにしろジャンプするしかない!

ピヨーン ガイン

連なった5個のブロックに邪魔されて、高くジャンプができない。

『うわっ』

迫ってくるキノコ。飛んでかわせそうにもない。左に逃げる!が、スクロールした画面は戻る事が出来ない。もうおしまいだ!キノコが当たる!

ピロロピロロピロロ

『・・・!?』

なんだ、おっさんがデカくなったぞ。何が何だかわからないが、とりあえず死んではいないらしい。それどころか、2倍くらいのでかさになったような。

ピヨーン ボワ パラパラパラ

さっきまで邪魔していたブロックが頭突きで壊せるようになっている。明らかに先ほどのおっさんに比べてパワーアップしているのだ。かくして、ゲームをやった人はキノコには種類があって、ぶちのキノコ(スーパーキノコ)は取ると強くなる事を知ることができた。あのようなブロックが連なった形状になっているのは、無理やりにでもスーパーキノコにマリオを当てさせ、「これは良いキノコだ」ということを教えるための構造になっていたのだ。

 

 さて、ここまででゲームをやった人は、ゲームの目的、マリオの動かし方、敵とアイテムの見分け方、敵の倒し方、等といったおおよそこのゲームを遊ぶために必要な知識を身につける事が出来た。時間にすれば、何とここまでの事を教えさせる為に2分もいらない。ゲームの1面の本当に最初の最初の最初に位置する1場面だけで、これだけの情報を遊んでいる人に伝えてしまったのだ。それは、文字や言葉による文章情報ではない。ゲームそのもののデザインだけで、ここまでの情報が詰め込まれているのだ。SMBはIDにおける美しさ、ゲームにおいては楽しさに比類するデザインをしっかりと持ちながら、しかもIDにおける機能性、つまりゲームにおける解り易さ・遊び易さを両立させている。そのデザインとは、「初めての人でも楽しく遊べるデザイン」という観点でID的目的論から導き出された、一つの完成形であると私は思っている。

 IDとは今や社会に必須の考えである。機能的なデザインは突き詰めていけば芸術のようでもあり、職人技のようでもある。しかし、使われる場面は本当に身近で、ぱっと周りを見渡しただけでも其処彼処に存在する。そこには、特化した機能とデザイナーの思いが詰まっている。そんなことに思いを馳せれば、モノに対して新たな見方ができ、面白い発見がまたあるかもしれない。今、これを読んでくれている読者の方々。そのパソコンは、スマフォは、紙は、どのような形ですか?

 


「寒天撲滅の日」 東町健太

 この記事を書いているのは2月16日である。この日は何の日かご存知の方はいるだろうか?この日はなんと!「寒天の日」なのである。だから普段は、「寒天の話はしたくないです。そのことについてはお願いだから触れないでいてください。もう私たちを放っておいて!」と泣く寒天にトラウマがある方も、「寒天?うるせえよぶっ殺す。さわんじゃねええっ」と怒るアンチ寒天派の人も、どんな人であってもこの日ばかりは寒天を貪り食わなければならないのである。いったいどこの誰が、いったいどんな権威をもって、いったい誰の許しを得て2月16日を寒天の日などという愚かで何の意味もない日に定めたかは知らないし、もはや知りたくもない。しかし今日は寒天を貪らなけれはならないのだ。のだのだのだのだ。野田死ねっ!とても残念なことだ。悲しいことだ。

だから私は今日、必死になって寒天を貪った。豚のように。ぶうぶう。山のように皿に盛られた寒天を前に歯を食いしばり、嗚咽号泣しつつ、人の世の不条理を嘆きつつ、「うふふ。むこうでアヒルさんが警察官をばんばん撲殺しているよ。うふふ。」などとにたにたしながらつぶやく半ばアレな人になりつつ貪りましたよ。まるで豚のようにねっ!

が、ふと気づいた。今日は寒天の日と定められているにもかかわらず、僕の周りの愛すべきヒューマンたちは誰ひとり寒天を豚のように貪っていないのである。愛すべきヒューマンのみんなっ!一体どうしちゃったっていうんだい?!私は訝りながらも彼らを観察してみた。するとなんたることか、愛すべきヒューマンの馬鹿どもは寒天を貪るどころか、ポテトチップス、ほっけの煮付け、スパゲッチーナポリタンなどを放歌高吟、呵呵大笑しながら楽しげにハッピーに召し上がっていらっしゃいやがるのである。寒天などふみにじりながら。ながら。ナイアガラの滝って一回行ってみたいんだよね。私は混乱パニックした。何故あの愛すべきヒューマンの馬鹿連中は寒天を貪らないのか。虫なのか、やつらは虫なのか?そう思って私は彼らに聞いてみた。「何ゆえお前らは寒天を貪らないのですか?虫なんですか?」しかし彼らは虫ではないと言う。むしろ寒天を泣きながらにちゃにちゃ食っている私のことをみなでディスって笑っていた、と答えたのである。悲しかった。世をはかなんじゃった。今日は寒天の日だというのに誰一人として寒天を貪らない。こんなことがまかりとおっていいのだろうか?この世に正義はないのであろうか?私は今すぐ消えてなくなりたい。タイヤキ食べたい。

そこで私は悟った。悟ったよ~でへへへへ。寒天の日もふくめて「~~の日」というものはみんなごみだ。無意味だ。ナンセンスだ。だってみんなそんなの無視してんじゃん。こんなことを書くと「いやキリスト教徒とかガチでクリスマスとかやってるよ。お前馬鹿じゃないの?今すぐニトログリセリンで粉々に爆死したらいいよ」と言われるかもしれないね。でもあいつらだって内心本当にガチかどうかなんてわかったもんじゃないし、まあ物には例外ってのがあるじゃないっすかあ~勘弁してくださいよ~って思ってるよっ!はは論破。2ちゃんねるとかで論破って単語使うやつはみんな馬鹿だよ。俺も馬鹿だよイエイ!!

ここで「~~の日」に関してひとつ思い出話をしよう。「~~の日」っていうか「~~週間」の話なんだけどね。まあカテゴリーは一緒だからいいかなあって思ったんです。ついデキゴコロだったんです。それは私が小学生のころの話だ。「君たちには無限の可能性があるんだよ」とか教師だかだれだかに言われて目をキラキラさせていた小学生の頃の話だ。あのころの自分に今現在の一片の可能性すらもたずに最底辺人生を歩む俺の姿を見せてやりたいぜ。先には絶望だけしかないぜ。みんな俺のことを毛虫のように嫌っているぜ。実際俺はメシ食って寝て死ぬだけの、毛虫とおんなじような存在だぜ。見たら泣くだろうなあ。人生の幕すごい勢いで引くだろうなあ。それが幸せだったかもしれないけどなあ。私の通っていた小学校では、確か9月のおわりごろだったと思うんだけど、近隣のおまわりさんを招聘して交通安全について子供たちに指導してもらう、という時間をとっていた。9月の終わりには「交通安全週間」があるからである。鉄は熱いうちに打て、という言葉がある。子供のころから交通安全に対しての意識を持たせておけば大人になってから交通安全を遵守するナイスなやつになるんじゃねえの?という目的だったのだろう。ちなみに私の同級生でひき逃げ事件を起こして捕まったやつがいるよ。おまわりさんたちさあ、お前らの指導、無駄だったみたいだよっ!その時間に婦警のおばさんが私たちに言った。そのときは自転車の乗り方についてのお話をされていた。私はとても真面目に聞いていた。「あのね、自転車って漢字で書いてごらん。最後に車って漢字がつくでしょ。だから本当は自転車は車道を走らなければいけないの」それを聞いて私は言いましたよ。ちゃんと手を挙げて言いましたよ。「じゃあてめえ今すぐ車道で乳母車乗り回してこいよ。今すぐ乳母車で高速のって120キロで疾走してこいよ。体中に風を感じてこいよ。やれよさっさとやれよ。殺すぞ殺すぞあああああっっっ!!!」と半狂乱になって婦警さんに言いました。うん、いい思い出だ。夏が過ぎ風あざむ麗しき私の少年時代。お・も・ひ・で。婦警さんとしては、自転車は本来車道を走んなきゃだけどそれも危ないから歩道で乗るのもしゃあないけど歩道を走るのも危ないことだからめっさ注意してねって言いたかったのだろう。車がどうとか子供だまし言うから悪いんだな。そう、子供が相手だから子供向けな話になるのはしょうがないけど子供だましはいけないなあ。

「~~の日」とかいうのも全部子供だましだね。俺から見たらね。さっきクリスマスって単語でたけど12月25日にイエスが生まれたなんて聖書のどこにも書いてないし。そもそもそのへんの大工の息子の誕生日なんていちいち記録に残ってないし。「交通安全週間」なんてだめ。ぜんぜんだめ。だめっぷりがすごいよ。あんたチャンピオンだよ。だめ世界に君臨するだめチャンピオン。なんか交通安全週間だとやたら町でおまわりがうろうろしてちょっとした違反とかもガンガンにとりしまってる。ほとんどいちゃもんみたなってる。百歩譲ってまあそれはよしとしよう。それで交通事故がなくなるならめでたい。祭りなみにめでたい。わっしょいわっしょい。でもふと考える。交通安全週間じゃないときに家族を交通事故で失った人はこれを見てどう思うのかなあ。まあ思うだろう。「いっつもやっとけ」

12月1日はエイズの日。ある方がいっていた。この日が嫌いだと。なんかこの日になると思い出したように国のなんかの団体が「エイズ撲滅」とか言いつつ街中でコンドーム配るんだそうな。これにしても「いっつもやっとけ」って話である。エイズに感染した人にとっては毎日が「エイズの日」なわけである。年に一日だけどうこうやって、それでなんかいいことした、仕事した、みたいになってるやつらが嫌いなのだそうだ。とてもその気持ちはよくわかる。

阪神淡路大震災から~年たちました、なくなられた方のご冥福をお祈りします、とか言うのも嫌だ。嫌っていうのとはまた違うかも。本心からその言葉がでてくるならいいけれど。ていうか本心からそう思っている人は毎日冥福を祈ってるんだけどね。テレビのキャスターとかこの言葉を発して5秒後に「さてさて次のニュースは~」とかほざいて満面の笑みを浮かべながら、事務所のごり押しだけで有名になっただけの何の才能もない馬鹿な女優とか歌手が、社会人として完全に終わってるけど芸能人(笑)として浮き草稼業を恥ずかしげもなくやってますみたいな男とくっついただの別れただのという、公共電波にのせて発信するのはほとんど犯罪なんじゃないかと思うような下らない事柄を報じたりする。震災のことなんてどうでもいいと思ってるようにしか見えないよね。むかつくよね。

予言、というか断言する。数年後には3月11日も、言葉上でだけ適当に深刻にしゃべってそれで満足しちゃう馬鹿でこの国は溢れる。下手したらすでにあふれてる。深刻ぶって心にもないこと言って体裁を保ってそれでなにか自分をすばらしい人間みたいに錯覚する馬鹿。そんなやつらはもうしゃべるな。もう口を開くな。消えてなくなれ。

さて今日2月16日寒天の日。山のように盛られていた寒天ももうもはやない。ごみにだしちゃったから。心が晴れ晴れとしている。天気は悪いけど。わろしだけど。はは、わろす。最後に書き記しておかねばならない。「~~の日」なんて無駄だと声高に主張しているのは別におとといのバレンタインデーでどの女性も誰一人としてチョコレートをくれないばかりか話しかけても一言の返事もしてくれない、という憂き目にあったからではない。ではない。2回も否定してしまうくらいそんなことはない。そもそもおとといに限らずいままで生きてきて経験したバレンタインデーすべてでそんな目にあっているからではない。まあバレンタインもただの子供だましだし無意味なんだけどなっ!何故だかちょっと泣けてきたけどなっ!!

 


「昆虫バンジー」 東町健太

 アフリカのある部族では一定の年齢に達した者は長いひもを腰に巻きつけ、高いがけの上から飛び降りる、いわゆるバンジージャンプのようなことをしなくてはいけないらしい。今日本に暮らす私たちがバンジージャンプと聞けば「スリル満点じゃん。いいじゃん」と思うかもしれないがそうではない。これは成人になるための儀式であって、「俺無理っす。マジこわいっす。」などとほざく者はもう成人として認められない。「人と成る」と書いて成人である。成人として認められないものは人未満、簡単に言えば虫である。このバンジーをクリアできない虫はその部族の中でつまはじきにされ、何か発言しようものなら「虫のくせにうるせえよ」「くせえよ、虫はくせえんだよ」などと言われて殴る蹴るの暴行をくわえられたりする。家に火をつけられたりする。だれしも虫でなく人間になりたいから皆そのバンジーをクリアするために幼きころから精神面を鍛え、鍛錬を積む。その鍛錬の結果として立派に鍛えあがった強靭な精神力をもつことができ、バンジーをクリアしてその者は成人になれるのである。

 日本ではどうだろうか。日本では二十歳になった時点で誰であっても成人として認められる。バンジーなんかする必要はない。やっほう!近代国家ニッポン万歳!と喜びたいところだがすこし考えてみたい。本当にいいのだろうか?

 自分の周りにいる「成人」の皆さんを思い浮かべてみた。勤務中に仕事そっちのけで私に「勤行はいいよ~勤行したら心がすうってなるよ~」と得体の知れないものを勧めてくるばあさん。「ちょっとチベットいってくる」といいのこしてそのまま消息不明になった友人。大学七年生になっていまだに卒業に必要な単位を取れていない高校のクラスメート。自分で自分の食い扶持も稼いだこともないくせに何故かわかったようなツラをして自信満々に社会を語ってるやつ、就職活動中の学生とかに多いけど。こいつらは本当に「人」に「成って」いると言えるのだろうか?虫なのではないだろうか?極端な例ばかり挙げたけれども、テレビをつけて国会中継を見ていると、どうも虫にしか見えないような先生方もちらほら見受けられる。しかも総理大臣だったりもする。ワイドショーで誰と誰が熱愛中でどうのこうのと嬉々としてしゃべっているのは完全な虫である。もはやハエである。まあそういう私もまた虫だったりするのだけど。このようにとうてい成人にはなれていない、すなわち虫である連中が成人面して選挙で投票したりするのである。これはちょっとヤバイんじゃないの?と思う。

 じゃあどうすんだよ、という話になるわけだが、そこはやっぱり教育なのかな、と思う。ちゃんと人に成れるよう、虫たちを教育するのだ。それには学校もそうだが、なによりも家庭での教育が大切だと思う。

 親の愛は海より深い、みたいな言葉もある。親としては自分の子供を虫ではなく人にしたいと願うからどうにかして子供に教育を施そうとする。しかし、親による虐待、また親に突然の不幸があったりして、家族とともに暮らせない子供なんかもいると聞く。痛ましいことである。残念なことである。しかし、この日本という国はそんな彼らのために「里親制度」という素晴らしい制度をつくった。すなわち裕福な立場にいる富豪に家族とともに暮らせない子供たちを引き取ってもらい、彼らに家庭での教育を担ってもらおうという制度である。なんて素晴らしい制度だろうか。ナイスなことこのうえない。いろんな新興宗教団体がこの制度をバンバン悪用して、幼い子供たちをガチガチに洗脳しているという事実もあるが、とにかく最高だ!

 現実問題、今この社会のかなりの割合を人ではなく虫が占めている。そして虫なので群れたりする。右と左に分かれて群れている。群れからはぐれると何もできないくせに自分だけはいっぱしの人間だと思ってる。そんなしょうもない虫たちの集団の中で、他の虫より優位に立つためだけに足を引っ張り合って貶めあっている。居酒屋なんかで虫同士の会話を聞いているとおもしろい。延々自分たちの所属している群れへの不平不満、群れの中にいる弱者へのあざけり、根拠のない虫けららしい噂話、そんなのばかり。自分が虫けらだと気づく、それこそが「人」に「成る」ための第一歩なのに、「自分だけは正しい人間だ」と思い込むバカが多すぎる。自分の「正しさ」を確信した瞬間、過ちが生まれるということがわかってないやつはもう害悪を通り越して哀れだ。例を挙げるとA日新聞に投書とかしてるじいさんは哀れだ。捕鯨船に嫌がらせするのを生きがいにしてるやつ。「環境保護」だの「人権」だの、綺麗っぽく聞こえるお題目をとなえているけれど実態はただ活動するためだけに活動してるやつ。こんなやつらは無残としか言いようがない。こいつらに言いたい。「虫のくせにうるせえよ」「くせえよ、虫はくせえんだよ。」

 


「八百万の悪魔」 鶴首

 タイトルに「八百万の」と付けたので我が国の多神教・神道についてまず考察していきたい。古の狩猟・採集時代から農耕・牧畜時代に移ると、作物を実らせてくれる自然こそが精霊として崇拝対象となってきた。これが神道以前のジャパニーズ・トラディショナル・アニミズムであり、無生物を含めたすべてのものに魂が宿るという思想があった。しかし、弥生時代から飛鳥時代に移るにつれて、「人が触れることのできる神」という存在が確立されてきて、ついに律令制で神道が制度化された。天照大御神の誕生とともに、神は擬人化され、八百万の神が万物に宿るものとされてきた。私はそれ以後のことについては知識不足なのだが、神道はどうも柔軟な宗教みたいで、仏教、陰陽道、儒教などから影響を受け、少しずつ変化してきたらしい。そして敗戦後、国家主義から民主主義になると同時に制度化された神道が消滅したばかりで、現在それから100年の時も経っていない。宗教的自由がもたらされるという大きな変化が起きた時代に我々は生きているといえる。

 

 ここには大きな落とし穴がある。国家主義から民主主義になってしまったので、国家レベルでの思想のフィルターが取り払われてしまったのである。島嶼国のくせにそれ以外の貿易も何もかも海外に向けて開けっぴろげになっているもんだ。鎖国すれば圧死してしまうのでそれよりはいいが、こうなっては日本人一人一人の心にフィルターが必要になってくる。例えば、「『勿体ない』という概念などの海外から称賛されるせっかくのアニミズム精神が、どこかのわけのわからぬ新興宗教勢力の侵略を受けたりしていいのか」といったような問題意識を各個人が持たなければ日本人のアイデンティティはやがて崩壊に向かう。50年後の未来には人口が急激に減少する、ってことが言われているが50年も経たないうちに日本が潰れている可能性さえある。そうは言ってもすでに染まりかけている国内勢力が大多数あり国がどこへ向かえばいいか分からなくなっているような状態なので、日本に諦めをつけてしまう風潮もあるようだが、それこそ「勿体ない」と思う。神風特攻隊を見倣って、死ぬまでエセ資本主義国家日本国に尽くすのが私のカタルシスである。

 

さて、神道の話に戻るが、清浄主義というのがある。ゴミや不要なもの、排泄物などには悪魔が宿るという考え方があったので、日本人には綺麗好き、潔癖な人が多い。ただし、何でも使えないものは排除する、という考え方には必ずしも納得がいかないところがある。そういった、「悪魔を根絶する」効率化を派手に突き進めてきた結果、我々は未来世代に残っていたと思われる環境を破壊する悪魔になっているのである。更にたちの悪いことに、未来世代が我々に罰を与えることができない、という世代間の倫理の問題もある。それゆえに、我々は皆、「轢き逃げ」に近い罪を犯している悪魔、という見方もできる。また、少なくとも自分自身が正義だという発想はどんな身分になってもしたくないものだ。正義だと思っている人に限って殺人などの犯罪が報道されたときに「自分とは関係ないから」で済ます。確かに関係ないと思えるかもしれないが、それで片づけてしまったら報道の意味がない。人と人をつなぐネットワークは、例え引きこもりが関与していようが非常に開放的なので、自分の知人の知人の知人の知人の知人の知人の知人が犯人である可能性は十分あるわけで、「犯行動機に何も影響を与えてない」なんてことはないはず。

 

それゆえに、あえて清浄主義に反する意味で、「ゴミに権利を!」と言っておきたい。「塵も積もれば山となる」という諺もあるが、どんなゴミにも使い道がある。今の石油ももともとはゴミだったのだから。ましてや勝手にゴミと悪魔を決めつけて排除しようなんて発想は危険である。例えその決めつけをする人数が大多数であろうと、「主観」でしかない。多数決の原理は恐ろしいもので、表向きでは「少数意見を尊重しよう」なんて言われていても、少数意見は「無視」されることが多々で、多数意見があたかも「正しい」ように扱われるのも多々ある。アメリカの白人による黒人の差別もそうだったし、「ゴキブリなんて世の中に必要ないよね」って話を聞いても不快。これは、私が今になって不遇な立場になったからではない。中学生時代にゴミ扱いされ、仕返しをして誰かをゴミにしようとする気にもならないヘタレな立場にいたからで、それから必死にエコロジー、アニミズムに思いを馳せてきたからであり、今もどうにか「それらとともに」市民権を得るために奮闘しているのだ。

 

そうはいっても清浄主義も心の安らぎを与える意味ではすごく重要であり、綿密な分析力、精神的忍耐力を維持するためには特に身辺の整理はできていたほうがいい。私は整理が苦手なのでこのことで苦悩したが、ある一つの価値観に達した。「両生類」的価値観だ。「酒は飲んでも飲まれるな」と良く言うが、それに近いところがある。「悪魔に関わり、悪魔に取りつかれるな」というものである。稲妻を崇拝しながらもわざわざ稲妻に打たれない、雨乞いをしても雨に打たれてびしょ濡れにならない、山に祈っても雪崩に巻き込まれない、海水浴をしても溺れない、焚火で温まっても燃やされない、っていうのが私の思う「両生類」的価値観である。日本の家が西洋の家に比べて外界に対して「開けている」というのも、「ゴミや埃を中に入れやすく、外に出しやすい」という点でそうかもしれない。私は大学1年のときにとあるカルト団体に勧誘されてついていったが、その後帰って来ることができたのはこういった「両生類」的価値観があったからだと思う。とあるセミナーで「世代間倫理」に関しての話題を投げかけたら皆さん怪訝そうな顔をしていたのでこちらも怪訝そうな顔をして縁を切ってやった。

 

さて、「わざわざ不浄物、悪魔と関わるのに無駄な時間とエネルギーを割く必要があるか」と疑問に思うことも多いだろうとは思う。「役に立たないものはゴミ、ゴミはすぐ排除」というようなロボットみたいな思考は楽で効率的だからだ。世のため人のため「楽をするな」なんて精神論を誰に言われようが、素直に受け入れたくないのは事実。それでも私が不浄物や悪魔に関わりたいのは「単に面白いから」。この面白さというのは、旅をするような面白さに似ている。それも、携帯不携帯で電車に乗り辿り着いた見知らぬ田舎の駅からの歩きの一人旅のような面白さ。悪魔に正面から関わろうとしたその瞬間(駅から歩きだした瞬間)から、色々なものに対しての洞察力が高まり、世界が鮮やかに見えるものだ。私もカルト団体をやめた後の世界は、それ以前の世界よりも鮮やかに生き生きと見えているので、そういった意味ではその団体には感謝している。また、一度大きなスリルを味わうと色々なことに対して免疫力がつくというのもある。新宿の歌舞伎町周辺で野宿をして以来、どんな闇を歩くにも全く恐怖心がなくなった、というのもある。小学生の時、「夜に墓の前を通ったらおばけに襲われて死んじゃうよー!死にたくないよー!」と大泣きした自分と同一人物とはとても思えないだろう。

 

 まともなことだけに関与しているだけでは、まともなことしかできない人間になってしまう。自分はそういった無個性な人間になりたいとは思わない。万物に神が宿るとは思いたくないが、万物が「いとおしい」悪魔ちゃんだと思って「ツンデレ」もしくは「デレツン」なスタンスで向き合っていきたいと思う。

 



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