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連載

「お前、悩んでんだろ?」第二回 弦楽器イルカ、オパーリン

連載(不定期)第二回

『お前、悩んでんだろ?』 企画趣旨

悩み多き(と勝手に判断した)芸能人等のお悩みを、(頼まれてもいないのに)自称伝道師※が愛情を持ってときに厳しく解決するコーナー。

※伝道師(でんどうし) 1、キリスト教の聖公会・プロテスタントの教職の一つ。2、転じて、他人に何事かを熱心に勧める人。

 

今月の被害者

Mツコ・Dラックス

略歴(ウィキペディアより抜粋)

Mツコ・Dラックス(男性、1972年10月26日?)は、日本のコラムニスト、エッセイスト、女装タレント。A型、身長178cm、体重140kg、スリーサイズともに140cm。

そのキャラクター性を生かしたテレビ番組の出演依頼は常にあったが、長い間『サンデージャポン』以外は断っていた。理由として「テレビ番組で共演した人が良い人だと知ってしまったら、客観的にテレビ番組の感想が言えなくなる」と説明している。タレントとしての自身を「分かりやすいキワモノ」と語り、その上で「おこがましい話だけど、こんな気持ち悪い生き物がテレビに映っているだけで、今の健全になりすぎてしまったテレビ業界に迷惑をかけることができて、それは良いことだなって思ったのよ。それで、テレビに出させていただこうかと思った」と出演する様になったと語っている。「いること自体が目障りな存在、不謹慎だと非難を浴びる存在になりたい。『テレビって不謹慎なものよ』ってことを体で表現したい」という気持ちがあったため、情報番組『ピンポン!』にコメンテーターとして出演し始めた時に視聴者から「なんで太った女装に、あんなことを言われなきゃいけないんだ」という批判が番組に寄せられた時には、狙った通りになったと述べている。だが、視聴者が自身のことを受け入れてくれたため、予想が外れてしまったとも語っている。

 

伝道師①:弦楽器イルカのススメ

 

マツコも大変よね。だって、毒舌で斬り崩すべきテレビ業界がもはや斜陽でペラッペラなんだから。こき降ろすべき大御所も不在、視聴率もダダ下がりじゃ、毒吐く標的もありゃしない。

この前の赤西とメイサだってそうよ。あの赤黒コンビ、はいデキちゃいました結婚しますって、大して認知度もないクセにもうちょっと頑張って隠しなさいよ。衝撃スクープにもそれなりのワビサビがあるっつうの。郷ひろみと松田聖子、宮沢りえと貴花田とか、大スターカップルにはもっと秘め事めいた下世話なチラリズムがあったわよ。草葉の陰からあの人が「恐縮です!」って飛び出したくても、そもそも暴く秘密がないんじゃ恐縮しがいがないわ。清純派アイドルのデビュー作がヘアヌード写真集じゃ、立つモノも立たないって話よ。いや、立ちはするよ。でもそんな明け透けにモロ出しされても八分立ちよ、世の男性諸氏は。隠された真相が暴かれる瞬間がエロなワケだからさ。

まぁいいわそれは。あたし考えたの、割と真剣に。ナンシー関とか、古くはトニー谷とマツコを比較したの。簡単に紹介すると、トニー谷って戦後、嫌味な毒舌で人気者になった人だけど、それが視聴者の恨みを買って自分の子供誘拐されちゃうの。結局子供は無事だったんだけどその事件で号泣したり世間に叩かれたりして、以降は売れなくなっちゃった人。一方、ナンシー関はその批評精神を維持するためにメディア露出を極力避けてたし、本人もしがらみができると酷評はできなくなるってどっかでたぶん言ってたはず。毒舌って難しいのよね。

 で、マツコも本気出せばナンシー関くらいの評論は書けるんじゃないかとあたしは思う。でもマツコはテレビに出演して自分が異物になることを選んだ。だからその代償として、好き勝手に毒吐けないしがらみにまとわりつかれてる。自著の帯でわざわざ「嫌いは好きの裏返し ホントの嫌いはさようなら」なんてみつをっぽい前置きして、ネットで酷評されてる西野カナにさえイチイチ言い訳しながら批評してた。偏ってても「ダメはダメ」って断定するネットに、切れ味じゃ太刀打ちできない。でも、カナの歌を被災地の少女が歌ってるドキュメンタリー観たけど、歌と少女の境遇が確かに合致してたわ。ああ、こういうニーズがあるんだ、批評は難しいって改めて思った瞬間だったわね。

 とにかく、周りから毒吐けって言われてドクドク吐いても面白くないのよ。故・逸見さんとか一般的には真面目な人って印象だろうけど、笑顔で意外な毒吐いてブレイクしたとあたしは思ってる。掃除好きな太った人に、「やっぱり豚は綺麗好きって言いますからね!」くらいはニッコリ言える人だった。たけしでさえ「それ言い過ぎ」って止めてた姿を覚えてるわ。今なら安住アナとかが近いのかな。ああいう善良そうな立場なら、自分のタイミングでポロッと毒吐けるから意外性が受けるのよ。一度良い人になってみるのも手よね。

 で、今良い人になるのは簡単よ。とにかく24時間走ればいいんだから。あと肩組んでサライ歌ったら良い人認定。その後は政治番組の司会でもして教養あるとこアピールしたら、もうやりたい放題。売れない芸人を気ままにプロデュースしようが、おバカタレントをクイズで笑い物にしようが、ゲストタレント喰いまくろうが好きにできるわよ。黒い交際に気をつけさえすればね。

 でもね、あたし思った。マツコ、あんたそんなことするために芸能界入ったの? って。番組私物化して、若いジャニタレ喰いまくって森光子を「お義母さん」って呼んでる場合じゃないのよ。呼んでないけど。

あんた、何のためにテレビ出てんのよ。もう一度テレビをお茶の間の中心に君臨させるためじゃないの? あんたがやらなきゃ誰がやるの? そのためにデッカい異物目指さなきゃ!

そのためにはね、まず結婚しなさい。それもただの結婚じゃダメ。IT社長とか、青年実業家レベルじゃ谷亮子の披露宴の足元にも及ばないわよ。これからあんたにお似合いの、とびっきりな番組企画を紹介してあげるから。

 

① 「マツコ ミーツ ビッグダディ! 地獄のハッピーウェディング!」 マツコ遂に結婚、なんとお相手はあのビッグダディ! 新妻マツコが吠える!「人様の恩を仇で返してんじゃねえよ! もういっこのエンコも詰めて来い!」(注:いちいち説明しないので、わからなければネット検索等願います)

 

② 「ほこ×たて番外編 絶対に痩せない! マツコ VS 絶対に痩せさせる! 10名のダイエット指導者」 「あたしは絶対痩せない! プライド打ち砕かれて痩せるのはあんたたちよ!」

 

③ 「マツ黄門」 巨漢の女装黄門様、参上! おなじみ必見の入浴シーン!「あたしの菊の御紋を目に入れなさいよ!」

 

④ 「紅黒白歌合戦」 紅組でも白組でもない、史上初の黒組が登場! はるな「お好み焼き」愛、三ツ矢「グレーゾーン」雄二らを従え、黒組を束なるリーダーはやっぱり我らがマツコ「腹黒」デラックス! 「大晦日を真っ黒に染めてやるわよ!」

 

このラインナップ、どう? 家政婦も見るわよ。40%? 目じゃないわよ。歴代最高の80%狙えるわね。マツコ、あんたの冠、生かすも殺すもあんた次第よ。ニコ生の鬼塚ちひろに負けてたら承知しないわよ! バイちゃお!

今週のアドバイス・まとめ

「あんたの夢は冠番組? 

ならあたしの夢は冠放送局よ!」

 

 

伝道者②:オパーリンのススメ

 

 はっきり言って、今の僕には人の悩みを解決している暇はないのである。しかも、今回の被害者はマツコである。悩みあるのか?儲かってるんだろうし、言いたいこと言ってるんだろうし、悩み無いんじゃない?と思う。しかし、そんな事ばかり言っているとこの企画が成立しなくなってしまうので、何とかやってみよう。

 まずはマツコの悩みとは何なのか、それを考えることから始める。そもそも、最近はテレビをあまり見ないのでマツコを見かける機会が少ないのだが、「マツコ&有吉の怒り新党」という番組はテレビを付けてやっていると見る。まあ、たまに見る位の部類には入るだろう。あの番組への感想としては、夏目アナがめっちゃ可愛い。性欲を喚起させるフェロモン的なものがムンムン匂い立っている。それに比べてマツコは汚い。だが、マツコが綺麗になってしまったら彼の存在意義は無くなってしまうのだから、そういう意味では彼のメディア戦略といくか狙いはうまく機能しているのだろう。有吉は、すっかり牙が抜け落ちてご隠居さんみたいになってるね。

 ということで、僕がマツコを見かけるのはこの「怒り新党」くらいなものなので、ここでのマツコの言動から彼の悩みについて分析していく。番組の中でマツコが過去の自分について「世の中に対して毒々しい感情を抱いていた」的な発言をしていたことがあった。世の中に認められない自分と、認めない世の中への恨み、みたいなものがあったんだろう。それ自体は非常にオーソドックスな感情であるといえる。で、マツコの場合はテレビに出て、世間的に見れば成功した訳であるが、その成功によってかつて彼が抱いていた「世間への恨み辛み」として現出していたコンプレックスは解消されたのだろうか?

 僕は、ある意味では解消されたんだろうと思う。しかし、人間の心なんてそう単純なものじゃない。根深い所に植え付けられた彼のコンプレックス、トラウマ、ルサンチマン、そういったものは未だにマツコの心の中核に居座り続けているのではないかと思う。二つの相反する感情が共存し、葛藤している状態、それが今のマツコの心の中の現状なのではないだろうか。

 もう少し詳しく話そう。社会的な成功や世間に認知された事によって、売りだしたときの武器でもあったマツコの毒や牙の鋭敏さというものは鈍り始めている。お茶の間に求められるレベルでのぬるい毒を吐き、テレビ的な要求を上手に器用にこなす自分、こなしてしまっている自分。社会的要請に応答し順応してしまっているその自分に対して、かつての自分の残滓が激しく牙をむく。「おい、マツコ。今のお前は昔のお前が一番軽蔑していた「タレント」に成り下がってしまっていやしないか?なあ。もうやめちまおうぜ、こんな茶番。決められたラインの中だけで暴言を吐くポーズをするだけ。そんなの馬鹿らしいこと極まりねえじゃないか?」

 成功し安定を求めるマツコと、かつてのハングリー精神むき出しだった頃のマツコが葛藤している。それが今のマツコの心の中、つまりはお悩み何だろうと思う。で、その悩みをどうやって解決するか。はっきり言って二択なのである、今のままディレクターやお茶の間が「言って欲しい暴言」を吐き続けるか、かつての毒々しい自分、つまりは原点に立ち返るか。

 で、どっちにするのか。マツコ、その答えはもうすでに貴方の中で決まっているはずだ。分かってるよ、それでも怖くて、なかなか踏み出せないんだろ。OK。僕が背中を押してあげよう、世話の焼ける奴だなあ、まったく。ほら、自分を解き放っちまいな!

 ポン。

 僕はその巨漢の背中を押し、奈落の底へと突き落とした。巨漢の背中は闇に吸い込まれ、見る間に小さくなっていった。その小さな点が見えなくなって、完全な暗闇に戻ってしまった。その時、闇の底から「ありがとねぇー」という声が微かに聞こえてきた様な気がした。

 

今月のアドバイス・まとめ

「マジで言っちゃいけない事を言って、

干されろ!」

 


連載小説『生き恥を、晒して足掻く、私かな』第二回 オパーリン

連載小説 第二回

『生き恥を、晒して足掻く、私かな』

執筆者 オパーリン

・2「気持ちのいい話」

 

 やっとつまらない話が終わり、ここからは気持ちのいい話を書いていく。先ほど、僕の職業選択の基準の話のところで、僕は「書くことが好きだ」と書いた。正確に言えば「好き勝手に書くことが好きだ」と言うことも書いた。では、なぜ僕は「好き勝手に書くこと」が好きなのか、について書いていく。それが僕にとっての「気持ちのいい話」だ。

 今この文章を読んでいる貴方は「さっきから貴様は自分のことばっかり話していてつまらん。はっきり言ってお前の事なんてどうでもいいんだ。」と感じているかもしれない。至極尤もな意見だと思う。僕も、僕みたいに饒舌に自分のことばかり話している奴がいたら「うぜえな、こいつ。」と思う。

 しかしながら、少し考えていただきたい。人は誰か自分以外の人間と初めて話す時、果たして「自分の事」以外に話すことなんてあるのだろうか。

 まぁ、あると言えばある。お天気の事とか、景気の事とか、色々と、新聞やテレビ、ネットで話題にされている事柄とかね。それは「とっかかり」としてはありかもしれない。しかし、それらの話題なんて「誰とでも」話すことができる。つまり、そういった事柄について話している限り、僕と貴方は互いに「交換可能な他者」でしかない。

 やっぱり、「僕」と「貴方」がおしゃべりを開始するためには、僕は「僕のこと」を話し、貴方は「貴方のこと」を話すことから始めるより他ない。だから、引き続き「僕のこと」を話そう。「貴方のこと」は・・・僕の話が終わったら聞かせてくれ。

 

 僕が「書くこと」が好きになった理由について書いていく。そして、どんな風に書いてきたかについても書いていこう。

 僕が初めて文章を書いたのは二十歳の時だった。それまでは専ら読んでばかりいた。読むことが好きだったし、今でも好きだ。書くことと同等に好きだ。でも「読む」っていう仕事は「書く仕事」以上に少ないからね。働くと言うことを考えると、書くことを目指さざるをへない。

 世の中には「読むこと」が好きな人が沢山いて、僕がその人達と比べても沢山読んでいたか、と考えると、あまり自信はない。全然読んでいない方なのかもしれない。文学部でもないしな。世の中的に言えば「人より沢山読んでいるかどうか」が重要な事は分かっているが、それとはまた別に、僕個人としては「読むこと」が好きだった。下手の横好き、で一向に構わない。

 で、とにかくまぁ、二十歳の時に初めて文章を一本書き上げ、僕はそれを「小説」とのたまって、得意になって友人達に読ませて廻った。けれど、今から考えると、それは「小説」と呼べるような代物ではなかったのかもしれない。何しろ、自分の身の回りに起こった出来事をそのまま書き移しただけだったのだから。どちらかというと「日記」だな。ただ、当時の僕にしてみればそれが「日記」だろうが「小説」だろうが、そんなことはどうでもよくて、一から文章を終わりまで書き上げられたという事が嬉しくてたまらなかった。昔から「何か文章を書いてやりたいな」っていう気持ちは強かったんだけど、何にも書くことが思い浮かばなかったからか、どうしても書けなかったんだよね。だからその分だけ嬉しかったんだろうな。「ついに俺も作家や」って思って。

 その文章の内容は、まあ、あれだ。「恋」だったな。しかも、僕は女の子にモテるくちではなかったから「失恋」の話だった。凡庸きわまりない。こうして書いている今も、恥ずかしさで毛穴からウンコが染み出してきている。

 でも、まあ、仕方がない。幼い頃から僕は恥ずかし気もなく恥を掻く子供だったから、今更一つくらい恥を上塗りしたところで、大した問題ではない。それよりもできる限り正直に話すことを優先したいと思う。新聞の下りからも分かってもらえるだろうけれど、僕は「嘘」が嫌いだからね。それでも、嘘をつくことからは逃れられないとも感じているのだけれども。それはまぁ、おいおい書いていく。

 で、さっきも書いたけど、僕の書いたその処女作は事実をそのまま書いただけの代物だったものだから、それを他人に読ませるにあたってはプライバシーの問題が発生してくる訳だ。だからさ、作中の登場人物のモデルになった人達に「他人に読ませてもいいかい」って許可を取ってまわった。フラれた女の子に許可を取る男。馬鹿まる出し。その子はいい子だったから、許可をくれたよ。と、書いているこの文章についても、またその子に許可を取らなきゃな。で、却下だったらこれはお蔵入りか。ぶっちゃけめんどくせぇな。これから先文章を書いていくにあたっても、いちいち他人の顔色を伺いながら書かなきゃいけないとしたら、それはひどく不自由な事だしな。内容の面でも、どうしても当たり障りの無いことしかかけなくなってしまう。色々と文章を書いていて、未だに難しいのはそこら辺のところだな。

 なにはともあれ、僕はその処女作に「働きアリは何を思う」という題名をつけて、学生主催の文芸賞に応募した。元々、この賞に応募しようと思ったのが、書き始めたきっかけだった。その頃の僕は「賞」が欲しかったわけだ。書くことで誰かから誉めて貰いたかった。他者への働きかけの手段として書いていた。つまり、「誰かの為に」書いていた。

 しかし、その当時から「誰かのために書く」と言うことには、なんか「スケベ心」があるような気がして、後ろめたさの様なものを感じていた。でもその問題についてはうやむやにしたまま、メールに文章を添付して、送信ボタンをポッチと押してしまった。

 

 せっかくだから、ここで少し脱線して「何のために書くのか」と言うことについて考えてみる。大ざっぱに分けると三つあると思う。①「誰かのためだけに書く」②「誰かのためにも自分のためにも書く」③「自分のためだけに書く」の三つ。

 書く文章によって①から③のどこを目指すのか、違ってくる。ジャーナリズムの文章は①を志向するものであるべきだろう。そのことに依存はない。

 では、小説の場合はどうなのか。その小説の質によっても違ってくるであろう。その「質」というのはどんなものかというと、おそらくはその小説が「読者から金をとるか」どうかにかかっていると思う。やはり読者から金をとる小説の場合、読者が①から③のどの文章を嗜好しているのか、と言うことを少なくとも考慮に入れることくらいはせざるをえないのではないか。

 まあ、今のところ、僕の書いた小説は金を取っていないので、つまるところ僕自身が①から③のどの小説を書きたいのか、にかかっている。で、僕はやっぱり③、「自分の為だけに書く」小説にこそ価値があるのではないか、と思う。僕は小説の読者としても③の小説が好きだ。「俺は作家にサービスされるために読んでるんじゃないんだよ」と思うのである。

 

 どうもこの文章は脱線が多い様な気がするが、話をもどそう。文芸賞に応募した処女作の話に。

 自分の書いた文章を読み返してみても、僕はそれに客観的な判断を下す能力がない。その文章が良いのかどうか分からない。どうしても「色眼鏡」で読んでしまうので、個人的には「うむ、良いじゃあないか」と思ってしまうし、客観的に読もうとすると「でも、僕が書いたものなんてなぁ、他人が読んだって面白くないんだろうなあ」と自虐的な気持ちが作用してしまう。

 だから、僕の処女作がその文芸賞の選考を通過するかどうか、その結果を待つ間、僕は何とも複雑な気分であった。「受かるに決まっている」と「あんなもん、落ちるだろうな」という両極端の気分の間を行ったり来たりしていた。

 結果として「働きアリは何を思う」は一次選考を通過し、最終選考で落ちた。その賞には二十作ほどの作品が応募しており、そのうち三作品が何らかの賞をいただくことになっていた。だから僕の小説は二十作中五番目かそこいら、と評価されたわけであった。

 一次選考通過の通知を貰ったときは「ざまあ見やがれ」と歓喜し、最終選考の落選を知ったときは「ちっ、愚民めが」と怒った。落ちた後、「こんな賞は、俺様の作品の価値を見抜けないなんて、何ともセンスのないゴミだ」と思い、「全然平気、ショックなんて受けないさ、僕の小説の価値はもっと別のところにあるんだもの」と思おうと必死に努めたが、やはりショックはショックであった。女にフラれていい気分のする奴がいないのと同じことである。

 女にフラれて勃起不全に陥る男もいる、繊細な男なんだろう。幸いなことに、僕は賞に落ちてもそのような「勃起不全的」な症状に陥ることはなかった。「ああもう嫌だ、何も書きたくない」とはならなかったのである。多少ふてくされはしたものの、「何糞、見返したるわ」と悔しがって、次の小説を書こうと思うようになった。

つづく