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 緑の山間を、歩いていた。葉の隙間から落ちるきらきらとした光のなか、鞄背負って息を切らせながら。汗をぬぐった指を地図に這わせた。バスを降りてどれだけ歩いただろう。そろそろ目的地のはずである。
 先月、祖父が死んだ。二年ほど前から入院し、会うたび痩せていく祖父の最期に、俺は立ち会うことを許されなかった。じゃあまたくるから。そう言って病室を出たときには元気そうだったが……その日の夜中、祖父は息を引き取った。両親の慌ただしさから異常を察したが、家にいるよう厳命されたのだ。
 入院中の祖父にだれよりも会いに行ったのは、きっと俺。祖母はとっくに他界していたし、親は仕事があったからだ。顔をみせるたび喜んだ祖父がする話を、なんとなく聞いていた。
(じいさんがいなくなって、ひと月)
 だが、俺の生活はなにも変わらなかった。寂しさや悲しさで胸が潰れるのだと身構えたが、心はちっとも動かなかった。祖父の冷たい身体へ触れたときでさえ、だ。現実と夢の狭間にいるような浮遊感に支配され、涙を流すことなく淡々と葬式は終わった。自分でも薄情だと思った。……五年近くを共に暮らした人が、消えたのに。
(人が死ぬってこんなものなのか)
 俺も両親も、いつもと変わらない。祖父が生きていたことさえ、やがて記憶の片隅に追いやられ、風化し、忘れさられるのか。
 空を仰ぐと、天井のように枝がいっぱいに広がっていた。煩いぐらいの虫の音や鳥の声が耳朶に触れるのも、新鮮でうざったい。目に鮮やかな空の青と深い緑が、感傷に浸る俺には煩わしかった。
 祖父の記憶の場所へ、やっと足を踏み入れたのだ。通り過ぎる道の些細なことが、想像した通りだった。時おり走りさる汚れた軽トラや、青々とした棚田、畑で働くまばらな人の姿。道端にはびこる雑草と、さびたガードレール。ぽつぽつとあった家屋に、道の途中でみえた古色蒼然とした社……。ざあ、と風が吹いて生い茂る木々を揺らした。
『……とな、よう遊んだんや。元気でなぁ、こっちの話聞かん奴で、よう手ぇ引っ張られてな。……みにいったんや。夏には少し早い……をなぁ』
 懐かしげに、だが棘が刺さったように目を伏せた祖父を思い出す。古びた写真を眺めては何度も話してくれたその顔は、不鮮明なものだった。すでに俺のなかから祖父があやふやになりつつあるのだ。重くなった足を、無心になって動かす。あの写真には、二人の少年が写っていたと、思う。
(そういえばあれ、どこへやったんだったか)
 ここを訪れるに当たって探したが、みつからなかった。祖父がいつまであの写真を手にしていたのか。思い出せずにいる。つうっと汗が目の近くを伝った。休み休み歩いたせいか、目的地へ着いたころには昼をずいぶん過ぎていた。
(この古い家が、じいさんの家)
 急な坂になっているガタのきた石畳が、小さいが立派な門へ続いていた。その奥に、木々に囲まれた家屋がみえる。ぽかんと呆けて俺はその家をみつめていた。既視感があったのだ。
『……ちゃうかったから、……住んどった時期があってなぁ。そこで良うしてもろたから、じいちゃん……になったんや。ええとこやで、行ってみぃひんか、真一』
 祖父の声が、時間を越えて耳朶をかすめていく。
「おおい、坂山さんとこの子ぉか」
 唐突に声をかけられた。振り返ると、隣家から初老の男が出てきていた。男は寺橋ですと名乗り、こちらが名乗る前に名前を言い当てた。連絡をくれたろう、と笑いかけられる。あ、と得心がいって頭を下げた。この家の管理を任せている人である。代わりにうちの田畑を貸していた。共働きの両親にとって、この遠く離れた土地は手に余るのだ。
「少しの間、お世話になります」
 寺橋さんは目を細くしてうなずいた。
「ようきたなぁ。迷子にならんかったか」
 まるで遠く離れた身内が訪ねてきたような、あたたかな対応だった。
 案内されるまま戸口の開け放たれた家へ入ると、ひんやりした風が頬をなでた。雨戸はすべて開けてあったので、風が通るのだ。気を利かせた寺橋さんが掃除してくれたらしい。ちりんちりん、と風鈴の音が聞こえてくる。
「おおきぃなったなぁ。もう中学生か。はは、覚えとらんかもしれんけどなぁ、こぉんなちぃちゃいころ、真一くんきたことあったやろ。よう覚えとんで。修三郎さんが手ぇつないで歩いとったんや」
 寺橋さんは、ごもごもと口を動かしてしきりに話しかけてくれた。祖父のこと、この辺りのこと、注意すべきこと、昔のこと、明日は祭があること。特に祖父の思い出は多く話してくれた。物静かだった祖父は、引っ越してきたばかりの寺橋さんに野菜の世話を教えたらしい。新たな隣人を喜んで、飲み交わしたこともあると。
「……そうか、もうあの人は逝ってもうたんやなぁ」
 俺は曖昧に微笑むことしかできなかった。なぜ、この人のほうが祖父の死を悼んでいるのか。身内の俺は、なぜ他人事のようにしていられるのか。郷愁を覚えたのは、ここを訪れたことがあったためか。祖父の昔話は関係なかったのか。
 寺橋さんご夫婦のところで夕食と風呂を済ませ、引きとめる彼らに礼を言って祖父の家に戻ったのは、七時を大幅に過ぎたころだった。がらんとした部屋にあがると、すぐさま横になる。歩きづめだったため、身体が重かったのだ。
 畳の匂いがした。虫の音やこずえの音、近くを流れる小川のせせらぎが聞こえてくる。ぶらん、ぶらん、と揺れるちゃちな電球は古色を帯びた梁にかかっていた。天井が高く、組みこまれた梁が太く立派だった。元々の家屋を増築・修繕しているせいで、古い梁や柱はあちこちにあるのだ。
 なにもすることがなかった。電気こそ届いているがテレビはないし、電波が届かないため携帯も使えない。当然、パソコンもない。文明の利器がなければ暇もつぶせないのか。昔は、この状況が普通だったらしいのに。
(信じらんねぇ。メールチェックもできないなんて)
 未練がましく触っていた携帯をしまって、縁側まで転がると、夜空いっぱいに星が輝いていた。夜は、これほど明るいものだったか。ここは時間が、やけにゆっくり流れている。ちりんちりん、と聞こえてくる風鈴の音が心地いい。
(こうやって星を眺めたんだ? じいさん)
 祖父は五年前までここに住んでいた。祖母が亡くなってから街へ……俺の家へ移ったのだ。入院するまでまめに戻って、掃除や畑の手入れをしていた。俺は、それを知っていて手伝おうとしなかったし、田舎を疎んじてきた。
 今さら訪れたのには理由があった。この家を両親が手放そうとしているのだ。祖父の大切な場所がだれかの手に渡る。そう考えたらいてもたってもいられず、飛び出していた。
(今日は金曜で、明日は祭。日曜に母さんが迎えにくる……。祭が始まるまで、なにをしていよう)
 行かなきゃいけない。そんな焦燥に駆られても、中学生なんかにできることはない。
 ちりんちりん、と遠くで風鈴が鳴っている。ああ、そういえば、風鈴は魔除けになるのだと、だれかに教えて貰ったのだった。この家は守られているのだ。


 思いをめぐらせるうちになにかが顔に触れて、眠りは妨げられた。いつの間にか眠っていたらしい。起きあがると身体がだるく、節々に痛みが走った。敷いた布団ではなく畳に転がっていたのだから、当然である。
 そこで俺は息を詰まらせた。視界の端、縁側に祖父が腰を下ろしている――
「じいさ……」
 身を乗り出すと、それはなにかの見間違いだったようだ。瞬きの間に消えてしまった幻へ、空虚な笑みが落ちる。祖父はひと月も前にこの世をさったのだ。だれもいないに決まっている。
 ちりんちりん、と音がする。自嘲してうつむいた俺は、背後の気配に全然気づかなかった。突然目隠しされて「だーれだ」と問われ、みっともなく悲鳴をあげた。
「うわああっ!」
 ひやりとした手がゆるんだ隙に逃げ出し、犯人を振り返った。
「そんなビックリせんでもええのに。久しぶりやなぁ、しゅう
 笑いかけてきたのは少年だった。歳は俺と同じぐらいで、今どき見慣れない坊主頭である。汚れたシャツと膝下までの綿パン姿で、太めの眉が田舎くさい。
 馴れ馴れしく伸びてきた手を弾き、俺は後ずさった。
「ど、どっから出てきた! お前だれだ。ドロボウ? 強盗か?」
 そいつは口をぱくぱく開け、驚きに目を丸くし、徐々に冷たい顔つきになった。
「なんや? お前こそ、だれやねん。修んちやぞここ。そっちこそドロボウちゃうんか。こんなとこでなにしとんねん。くそ、間違ぉたやろが」
 ドロボウだって? 予期しなかった切り返しに、頭が真っ白になる。ここは祖父の家で、こちらは身内だ。ドロボウ呼ばわりされる理由がない。こいつはだれだ。寺橋さんの身内か――と言いかけ口を噤む。寺橋さんご夫婦は二人暮らしだと、聞いたばかりである。近場にもう二、三件、家は建っていたが……田舎では遅い時間でも気軽に人が訪れるものなのか。
(っていうか、修ってだれ)
 まさか、ここにだれかが住み着いているとか――
 ありえない。もしそうなら寺橋さんが追い払う。
 みたところ、武器のようなものは持っていないが……
「ここはじいさんの家だ。俺は孫の坂山真一。ドロボウなわけないだろ!」
 俺は手近にあった座布団を投げつけた。
「孫お? お前が? そんな話聞いたことあらへんで?」
 侵入者は素っ頓狂な声をあげ、座布団越しにまじまじみつめてくる。
「そっちこそ修ってだれだよ、侵入者。強盗じゃないならなにしにきた!」
「ご、強盗ちゃうわ! なんでそんなことせなあかんねん! 俺は、修が帰ってきたんや思て慌てて……だあぁ、もう! 俺は新崎滋、修は修三郎! こう言うたらわかるんか!」
 俺はまごついた。修三郎、とは祖父の名前だ。新崎という名前も覚えがあった。その瞬間、丸めた座布団が飛んできて、かろうじて受けとめる。
「じゃあここおるんは……えーっと真一? お前一人しかおらんの?」
「他にだれかいるように、みえるか」
 滋がもどかしげに口を開く。
 そのとき、ドン! という音が響いた。心持ち身体が揺れる。驚いて目を周りに向ければ、さらにドン、と音が続いた。狼狽する俺とは裏腹に「始まりよった」、と滋が縁側を降りていく。そこから侵入したらしい。確かにどこからでも入りこめるが、雨戸を閉め忘れたことに舌打ちする。
 なんの音か尋ねると、「花火! 祭が始まったんや」という返答があった。は、と当惑する俺の手を、半分座敷にあがった滋が引っ張る。
「こっちきてみ。ほら、あっこんとこ!」
 先ほどいがみ合ったのを忘れたような、こだわりのなさに呆れる。だが、指された方角から暗闇を切り裂く光がのぼった。ドン、という音は一拍遅れて聞こえてくる。パチパチパチ、という火花の散る音。視線が釘付けになった少しの間に、次の花火が空を駆けのぼる。我知らず、祭は明日じゃ……と口走っていた。すると、滋が「はぁ?」と怪訝そうにする。
「今日が祭やん。なに言うてるん」
 ひょっとして、金曜の夜から土曜の夜まで爆睡状態だったのか。可能性を否定しきれず黙ると、滋が不審もあらわにこっちをみていた。
「なぁ。お前……修んとこの親戚やねんな?」
「孫だって言っただろ。そっちこそ、なんでじいさんを知ってるんだよ」
「そりゃあ、うちはずっとここ住んどるし、坂山のご隠居の話も聞いたことぐらいあんで。おとんもおかんも、世話なっとったし」
 ご隠居? 修三郎というのが祖父のことなら、祖父は田舎でご隠居と呼ばれていたのだろうか。その祖父が遊んでやったのが、この滋なのか。
(なんか、会話がつながってないような)
 いっぽうで庭に降りた滋も「そうか、親戚やったら似ているわけやな」と呟いている。そろりと部屋へあがった俺の腕をつかまれた。まだ用があるのか。身を捻ると、滋はにぃっと歯をみせた。
「どうせやし、一緒に祭行かへん?」


 はよう、と引っ張られるまま出たことを後悔したのは、走り出してすぐだった。
「お前なんで、道を走らないんだよ」
 滋が先導する近道は、明かりもろくにない暗所である。真っ暗な細い山道や田んぼのあぜを突っ切る背中が、信じられなかった。がさがさ、と茂みが揺れるたびなにかが飛び出さないか――なんてビクつく暇もない。置いていかれて堪るか、と追いすがるので精一杯だ。
(くそ、どこまで走るんだ、あいつ)
 祭の場所さえ知らずに飛び出したのだった。今さら帰れと言われても無理な話である。
「だぁって、はよ行かな祭終わるやん。ほら、あっこの明かりみえるか?」
 茂みの先に、赤い明かりがちらついた。夜の闇に不思議なほどに明るくみえた。呼吸も乱さない滋が指した場所は、急な傾斜の石段である。大きな赤い鳥居が、その天辺に陣取っていた。
「あ、あそこまで、走るのか」
 息を切らせて問いかけると、滋はにっと笑みを作った。俺たちは山ひとつ越えていたのだ。
 石段には、花火見物で座る人たちがちらほらといた。仰ぎみた鳥居の向こう側から、赤々した明かりがあふれ、祭拍子や笑い声が聞こえる。辿ってきた道が暗かったせいか、余計に目映い。
「結構人多いんだな。そんな大きい祭だったんだ?」
「そうや、ここらでいっちゃんでっかいやっちゃ。知らん人もぎょうさんくるしな。って、お前もそうやん。みにきたんやろ、花火」
 なぜか、あの朱の鳥居が異界への門のように思えた。玉垣がぐるりと囲った赤い光の照らす場所へ、別種の世界へ、橋をかける門だと。こちら側は、こんなにも暗く、静かで不気味なのに。
 ――気ぃつけて歩きや。すごい人やからなぁ。
 そんな言葉を聞いた気がして、思わず振り返った。神社へといたる真っ暗な夜道を、ぽつぽつと明かりが照らしている。そこをすり抜けて門へ吸いこまれていく、人、人、人。見知った顔などいやしない。その間にも、空には色とりどりの光が舞っている。こんな田舎に、と驚くほどの人出である。
(気のせい……? なんだ、この違和感)
 くしゃりと俺は前髪をつかんだ。祭の熱気に早くも当てられたのか、地に足が着かないような浮遊感があった。頭の芯がぼやけているような、じんとした不明瞭さだ。その背にバンと衝撃が走り、覚醒はうながされた。
「ほらほら、ぼうっとしとらんと行くで。まずはラムネやんな」
 釈然としないながらもジーンズをまさぐって、俺は固まった。あるはずの財布がなかった。どこかに落としたのか。そもそも忘れてきたのか。ヤバい、と顔に出たらしい。「もしかして金ないん」とあっさり見抜かれた。取りに戻る、と踵を返すと、
「おごったるって!」
 驚いて向き直った瞬間、背後の夜空で花火がはじけた。影が足下で大きく伸びた。パチパチパチ……と火花を散らして落ちる花を、滋はみつめて笑う。
「別にええやん。今日は祭やで。それにお前足遅いねんもん、帰っとったら終わってまうわ」
 てってって、と降りてきた滋に光のなかへ「はよう」と誘われる。暗がりから、赤い光と祭拍子のあふれる鳥居の奥へ。そこにあったのは石畳に沿って並んだ露店と、田舎では信じられないほどの賑わいだ。提灯の明かりに導かれる人の流れの先に、古びた社がみえた。人波はざわざわとさざめいている。
 ――迷子にならんよう、手ぇつなごか。
 まただ。
 雑多な音に混ざって耳朶に触れる、姿なき声のあるじを探した。人影のなかに、それらしい人物は見当たらない。先ほどから違和感がぬぐえなかった。この声はだれなのか。知っている気がするのに。
「おーい、さっきからなにしてるん。知り合いでもおったん?」
 言葉を濁した俺へ渡されたラムネは、キンキンに冷たかった。
 射的に輪投げ、綿飴に焼きそば、金魚すくい、ピンス焼、リンゴ飴……全部滋のおごりだった。ほとんど一人分や一回分を二人で分けた。オマケしてくれる人もいた。「悪い。帰ったら返すから」と宣言すると「律儀やなぁ」と滋が苦笑する。
「こんなん、一緒に楽しいなぁて思えたら十分やのに。って、あ! ほらあっこ、ヨーヨーあんで。あっちは綿飴作らせてくれるんやて! 行くでほら」
 えええ、と面倒がった俺の腕を滋が引っ張った。最初から話をまったく聞かない滋のペースだが、一緒にいて不快ではないのが不思議だ。滋の開けっぴろげな態度のせいだろう。巻きこまれるのがいやじゃない。
 屋台が切れた社の前では、休憩中の人がたむろしていた。座れる場所はすべて埋まっている。そこでターンして、俺たちはまたあの光のなかへもぐった。
 ちょうど、浴衣を着こんだ子どもたちが入れ違いに駆けてくる。古びた狐の面をそれぞれつけて、風車や飴を手に、けらけらと笑いながら。それを見送って、あ、となにかを思い出しかけた。振り返ると、転びかけた子どもが、追ってきた親に抱えられていた。何気ない光景に、目が釘付けになる。
「な、時々ぼうっとしとるけど、なぁんか懐かしいもんでもあったん?」
「いや……なんか、見覚えあるような気がしたんだ。きたことないはずなのに」
 滋は「ふうん?」と興味深げに笑っていた。
 一通り露店を回り、最初の石段へ自然と戻る。そこも大勢の人で埋まっていた。けたたましい音と共にあがる花火を眺めるには、絶好のポイントなのだ。
「なぁ、修、元気しとるん?」
 鳥居にもたれかかって滋が、静かに口を開いた。いつの間に買ったのか、二本目のラムネをあおっている。
 心臓がはねた。祖父は死んだ。そう伝えれば良いのに躊躇ってしまう。
「俺なぁ、修に会いたかってん。身体弱かったやろ。……あいつ、向こうで元気なん? 身体壊しとらん? 遊びにくる言うとったのに、全然こぉへんねんもん。もう三年経つのに」
 ほんま薄情やんなぁ、と滋が小さく笑うのを横目でみながら、絡まった謎がほどけるのを感じていた。いや、この可能性に気づきながら、俺は逃げていたのだ。その蓋が、開けられていく――
 聞いたことがあった。
 祖父は、子どものころ一時期だけ田舎に住んでいた。身体が弱かったため、療養する目的で静かなこの山に。家族と離れて暮らす彼の世話を頼まれたのは、縁のあった新崎家だった。今でこそ寺橋さんの暮らす隣家は、新崎の人が昔住んでいた……。
 たまに家族がやってくるだけの生活でも、祖父は寂しくなかったと話していた。それは友だちが、いつも遊びにきてくれたからだ。そのかいあって、祖父は十二の歳にはすっかり元気になった。身体も街の生活が可能なほど、丈夫に。
 その後はずっと街で暮らし、結婚して、仕事を退職し、再びここへ戻ったのだ。祖母が亡くなるまでの数年間を、あの家で。
 どうして戻ったの、と祖父にいつか尋ねたことがあった。不便でなにもない田舎にどうして戻ったの、と。そのとき、祖父はどんな顔をしていただろう。
「元気、だよ」
 声が、震えた。
 新崎という名前に、覚えがあった。祖父の昔話に散々出ていたのだ。お隣に住んでいた少年。そのあたたかい家族。祖父を受け入れてくれた人たち。今、隣にいるこいつは――
『友だちとよう遊んだんや。話聞かん奴でなぁ』
 そう懐かしげにしゃべった祖父の横顔と、色あせた写真が不意によぎる。
「……元気で、やっているよ。いつもここを思い出してるって、言ってた」
 言っていた。だから戻ったのだ、と。
 街へ帰っても忘れられない場所だったのだ、ここは。祖父が子どものころに過ごしたのは、たったの三年だ。そんな短い期間を、宝物のようにずっと祖父は胸にしまっていた。それは亡くなるまで変わらなかった。入院中だって会いに行くたび、昔話を祖父は繰り返し語り、当時を懐かしんだのだから。
「俺も一緒に行かないかって誘ってくれてたんだ。祭の花火がきれいだからって、ずっと……。それで俺、ここへきたんだ」
 何度水を向けられても、俺は行かなかった。学校や塾、部活を優先し、遊びに没頭していた。祖父の誘いなどいつでも行けると軽くみていたから。
 なぜそんな風に思っていたのだろう。次があると、当たり前のように。
 ぱんぱんと花火が打ちあがる。終わりが近いのか、先ほどから打ちあがる間がどんどん短くなっていた。
 傍らで、そうなんや、と滋は大きくうなずいている。満面の笑みが胸に刺さった。
「修が元気ならええねん。ありがとな、真一。花火きれいやろ? 修もなぁ、花火きれいやなぁて言うててんで。この祭、あいつ好きやってん」
 ひときわ大きな花火が空を彩った。反射的に見上げた俺を、滋が突き飛ばす。
 その瞬間、鳥居から真っ黒な影が押し寄せた。え、と思ったときには遅かった。血の気が引いた。滋がその波に呑まれる。手を伸ばしたが届かない。滋、と叫んだ。滋、と声の限りに。しかしそんな声は、響いた花火と歓声にかき消された。大きな、大きな花火が目いっぱいに映って……やがて視界は真っ暗になった。
 真っ暗に。


 ちりん、ちりん、と風鈴の音がする。
 うっすらと瞼をあげると、古びた天井がみえた。がばり、と身を起こして四方を確認し、ここが祖父の家だと思い出す。水の音と、蛙の鳴き声が聞こえてきた。辺りがまだ暗い。夜だとわかった。
 ……今のは、夢?
 風が吹きこみ、寒さに肌が粟立った。雨戸は開け放したままだ。ぶるりと身体が震える。ぐっしょりと冷たい汗をかいて、息があがっていた。ぽた、と手になにかが落ちて、自分が泣いていたことを知った。
(手が、届かなかった)
 子どもだった祖父がここを離れた三年後、あの祭の日に、滋は消えた。石段から足を滑らせて落ちたのだ。かなりの落差がある石段だ。その年の夏休み、遊びにきた祖父は、一足早い夏の祭に間に合わなかった――
(すぐ隣に俺、いたのに)
 大切な場所にもかかわらず、祖父が長い間戻れなかったのは、このせいだ。戻ることができなかったのだ。子どもが独立し、祖母と二人きりになって、やっとこの家へ目を向けられたのか。五十年以上の時間を要しても癒えない傷は、祖母が他界し街中へ越してからも、ずっと祖父を苛んでいた。
 知っていた、はずだった。
 小さなころに手を引かれたあの祭で、祖父は言っていたのだ。ここで大切な人を失くしたと。会えなかったことを後悔していると。言っていた。あの石段で転がりかけた俺を、必死に抱きかかえてくれた祖父が。人が多いから手をつなごうか、と微笑んだ祖父が。ラムネを買ってくれて、滋と同じように二人で回った露店の合間に。楽しいと笑った俺へ向けられた、どこか痛みを伴う微笑も。
 滋の満面の笑みが、瞼の裏に焼きついて重なる。あの、ひときわ大きな花火と、押し寄せてきた人影も。
 どうして忘れていたのだろう。こんな大事なことを、どうして。
 俺が滋を助けられたら、祖父は後悔せずに済んだのに。
(なにも、変えられなかった)
 変えることなど、できないのかもしれなかった。
 あれが過去なら、変えようがなかったのかもしれなかった。
(どうして俺だったんだよ。どうして、滋に会うのがじいさんじゃないんだ)
 涙が止まらなかった。仰向けに倒れこんで、腕で顔を覆う。祖父に今こそ会いたかった。しかし、もういない。こうだったんだよ、と伝えられたらいいのに、祖父はひと月も前にいなくなってしまった。その喪失感に打ちのめされた。
 悲しかったんだ……。
 ちりんちりん、と風鈴は風と遊んでいた。夜が、明けようとしていた。


 翌日、俺は縁側で古びた帳面をめくっていた。黄ばんだ紙面に綴られた文字を追うたび、重苦しいなにかが胸を塞ぐ。達筆で読み解くことは難しかったが、それに指を這わせる祖父の姿が脳裏にこびりついていた。のどかな昼下がりと合わない心中が、恨めしくなる。
「なぁに熱心に読んでるの、真一。呼び鈴押したのに無視してくれちゃってさ。連絡のひとつも寄越さないで」
 不意に人影が手元を遮った。ぎょっとなって後ずさる。覗きこんできたのは母だった。庭を回ってきたようだが、まったく気づかなかったのだ。
「え? 母さん? え? くるの明日の予定じゃ……あ! 俺、まだ帰るつもりないんだけど! それに連絡は寺橋さんがしてくれたし、携帯は圏外で――」
 言いながら手にしたものを隠したが、遅かった。にこーっと母は笑ったと思うと、ひょいと俺からそれを奪う。あ、と声をあげたが、連絡をしなかった負い目から強気に出られない。
「すぐは帰らないわよぅ。おじいさんの家に行きたいだなんて駄々こねた息子が心配で、ちょっと早めにね。ゆっくりきたことなかったし……。で、これは?」
 別にいいだろ、返せよ、と手を伸ばしても母は聞きやしない。パラパラと勝手に帳面をめくっている。その表情がふっと変化した。
「これ、おじいさんがよくみてらしたノートね。小さなころの日記だったんだ」
 母の声色に懐かしさが滲んでいた。同意をこめた沈黙に気づいたのだろう、小さく苦笑している。それは、今朝方空っぽの箪笥や鏡台、棚などを確認してやっと手に入れた祖父の手記だった。当時の、記憶の断片がしまわれているのだ。
 そこから、するりと一枚写真が落ちた。二人の少年が写ったものだ。歳ごろは今の俺より少し下だろうか。坊主頭の片割れが、昨晩夢にみた少年と似ていた。――やはり、ここにあった。
 ちりんちりんと風鈴が鳴る。入ってきた風に、母が髪を押さえた。
「わ、いい風。涼しいわねぇ、クーラーいらないのかしら、ここ」
 手記を置いて、縁側から母は家へあがりこんだ。土間や梁に感嘆している。どうやらちゃんと家を覗いたのは初めてだったらしい。裏にポンプもあったと言うと、「うそ、どこ?」と母が目を輝かせた。その隙に写真を手記に挟み直し、ふと俺は風鈴をみつめた。
 風鈴は、守るものでありながら、『呼ぶ』ものでもある。不意にそれを思い出したのだ。
「じいさんは待っていたのか……?」
 それとも、待っていたのは滋のほうなのか。
(そんな、まさかな)
 向こうから「真一ー」と呼ぶ声がする。
「いいところね、ここ。遠慮なんてせず、もっとお邪魔しておけば良かったな。仕事しごとで、あんた送るぐらいしかしてなかったから。お父さんも全然寄りつこうとしなかったし」
 それにお母さん、畑仕事なんてさっぱりだからさあ、と母が苦笑する。両親の結婚後、田舎へ引っ越した父方の実家へ、母も気軽には訪れなかったようだ。父も無関心だった。田舎に思い入れがまったくないのだから、仕方ないのかもしれない。祖父の道楽だとこぼしていたのを、知っている。
「母さん。俺、三つか四つのころきたことあるよな」
「やだ、覚えてるの?」
「昨日、寺橋さんに聞いて少しだけ。――うろ覚えに近いけど」
 そう、と母は笑みを深くし、大きくうなずく。
「あ、そうだ、寺橋さんに挨拶してこなくちゃ」
 あんた、ちゃんとお世話になりますって言ったでしょうね、と出ていく母を、引きとめた。
 そうだよ。田畑はあるし、少し下ったところの小川はきれいだ。街中より涼しいし、景色も良いし、のどかで、なにもないけどゆっくり過ごすことができる。夜は、散らばったダイヤモンドみたいに星が輝くんだ。しかし、頭のなかでいっせいに浮かんだそれらの言葉、すべて飲みこんで言ったのは。
「母さん、今夜、祭があるんだって。この辺りで一番大きな祭」
 あら、と母の顔が輝く。俺は、昨日の不思議を思い返した。切ない気持ちが蘇る。それでも上手く笑えただろうか。
「一緒に行こう。花火がすごいから」


文・橘高有紀(きったか・ゆうき)
 少年少女の成長ものを中心に、ファンタジーや恋愛を書いています。
  
絵・ひろ - イラスト特別提供 -
  
  よろしくお願いします。

 地球周回軌道上の宇宙船から伸びた長いアームが、地球の大気を採取してゆっくりと畳まれていく。古いアームは、時々異常な動きを見せながらも船に寄り添い、取り込んだ空気を船内に送り込んできた。
 まずここまでは上手くいった。シュウは緊張を逃すため、身体に溜め込んでいた息をすべて吐き出した。視線が落ちて目に入った服は薄汚れている。だが、どうせ宇宙船にはシュウ一人しかいないので、気にする必要はなかった。船内に残っている男物の服はこれが最後だから、どちらにしろ着替えようがないのだが。
 薄暗い室内、シュウがコンソールに指を滑らせると、気体分析機のシグナルがいくつか点滅を始めた。少しの間を置いてモニターに映し出されてくる分析結果は、この宇宙船が地球を離れる以前の数値にほど近く、人類が繁栄していた頃の状態に戻っていることを示している。
 オールクリア。
 大気以外の分析が終わっていないとはいえ、その大きく真ん中に映し出された文字に胸が高鳴った。他の分析は、宇宙船の着陸と同時に作動する機械にすべて任せればいい。シュウはマニュアルに書かれていた内容を思い浮かべ、張り詰めていた気を緩めるために、意識して身体の力を抜いた。
 シュウは宇宙船で一番大きな、といっても直径二メートルほどしかない丸窓に目を向けた。青い海面と列島が、薄い雲の下に見えている。生まれた時から変わらぬ地球の外観が、今のシュウには光り輝いて見えた。
 風に揺れる木々の葉が陽光を乱反射させ、緑の香りが肺を洗う。そうやって身体が自然を吸収するのは何より気持ちがいいと、書物データベースに載っている書籍で目にしたことがあった。地上に降りる手順を習得し実行していくことで、自分もそれを感じることができるのだ。生き残った動物がいるかもしれないし、食べられる植物もあるかもしれない。シュウは、今まで経験したことのなかった新しい世界に対する冒険心が、大きく膨らんでいくのを感じていた。

 今からちょうど百年前、『最高水準の科学と地球を愛でる旅』というツアーで、一機の巨大宇宙船が地球周回軌道に向けて飛び立った。パンフレットには、地球が滅亡を迎える時、人類はこのような宇宙船で地球を離れ、新たなる地を求めて旅立つことになるでしょう、という煽り文句が踊っていた。そしてその通り、植物による食料と燃料、繊維生成の装置、及び酸素供給装置や、様々な研究施設、教育設備、書物のデータベース、視聴覚施設など、宇宙船の航行と人間の生活に欠かせない物のすべてが搭載されていた。
 船の定員は二百名だ。そのうち居住区画には半数の百名が住めるようになっている。そして残り百人は、航行が長期にわたる場合を想定し、三ヶ月以内には冷凍睡眠装置で眠りについて月日を過ごすという筋書きがなされていた。
 ツアーは高額だったが人気も高く、募集分は一日で埋まり、搭乗人数は規定の二百名に達した。冷凍睡眠の必要がない三週間の予定で地球を離れた機体は、地球周回軌道をたどり、その窓に様々な角度からの美しい地球を映し出した。
 時を同じく、地上では小さな戦争が起こっていた。小国同士の衝突は、平和な観光旅行中の宇宙船内で話題に上がる間もなく、頻繁に勃発していた小競り合いと同じように収まっていくはずだった。いや、戦争は確かに収まった。だが二国間が睨み合いに戻ったのではなく、生物兵器としてばらまかれた死のカビによって、世界中が戦争どころではなくなってしまったのだ。
 敵国を滅ぼすはずの胞子は季節風に乗って拡散し、その速度は対処法を研究するスピードを凌駕した。二百五十度ほどの熱で死滅するのはすぐに判明したのだが、当然そこまでの高温で地球を包むことはできない。一部分を高温にしても、大気の流れがすぐに胞子を運んできてしまう。一定の時間、紫外線を浴びせるだけで死滅することも突き止められたが、太陽からの紫外線では全滅まで八十年を超える歳月が必要なため、結局人類は為す術もなかった。
 すでに出来上がっていた宇宙船が何機かは地球を脱出できた。だが、カビはその機体内でも猛威をふるい、一機、また一機と、容赦なく大きな棺へと変えていった。元々宇宙に出ていた機体もあったが、環境を長く保つことができないものばかりだったため、脱出できた機体と同じように無機質な塊と化していった。ツアーに参加していた人々は皮肉にも、機外にいる人類の滅亡を目の当たりにすることになったのだ。
 シュウの乗るこの宇宙船は長期滞在型だが、普通に生活していけるのは百人あまりだ。そのため三ヶ月目を前に、残りの百人は冷凍睡眠につくこととなった。それでも彼らは笑っていた。眠りにつかない人間と違い、いつか地上に帰ることができるという夢を見ていられたからだろうか。
 冷凍睡眠時の事件が記録に残っている。途中で起こされることを嫌ったカプセルの責任者が、手動で個別に覚醒させるためのマニュアルを一つ目のカプセルに眠る老人の背に隠したというものだ。その責任者は百個目のカプセルで眠りにつく前に、満面の笑みで言い残したらしい。
 眠ることができなかった副船長は、怒りのあまり同じ苦しみを味わえとばかりに、地球へ降りるための自動操縦プログラムを消してしまった。子孫を地球へと望んでいる人々が、手動での着陸方法をかき集めて事なきを得たが、着陸は難しいものになってしまった。
 実際、慣れない宇宙での生活に、人口はあっという間に減っていった。宇宙船に搭乗してから生まれた二代目は九人。三代目は三人、四代目は一人だった。そして二十年前、宇宙船の着陸準備の際に起きた事故で三代目の一人、父親が亡くなったため、生き残っているのも一人のみ、当時七歳だった四代目のシュウだけになってしまった。いや、冷凍睡眠についている百人がいるため、完全に一人とは言い切れないのだが。
 手動で起こす手段は失われているが、地上に降りさえすれば、冷凍睡眠は自動的にとかれるように設定されている。だが、カプセル使用期間が百年に満たないうちに着陸しなければ、冷凍睡眠が自動でとけなくなってしまう。
 着陸に関するマニュアルを読み尽くし、シミュレーションを重ね、シュウは二十七歳になった今日まで、地上に降りるための勉強を重ねてきた。人類の存亡と百人の命がシュウにかかっている。だが、できたのは教育施設と書物データベース上の学習だけだ。実際に操作できるのか定かではないし、衣服を作る機械のように、船のどこかが破損していないとも限らない。無事に降りられる自信はなかった。

 シュウは船尾にある冷凍睡眠室へと足を向けた。そこに行けばシュウが蘇らせなくてはならない百人がいる。その顔を眺めれば、地上に降りる勇気が出るのではないかと思った。
 父親が亡くなった後、寂しさのあまり冷凍睡眠室をのぞき見たことがあったが、それ以来、一度も見に行ってはいなかった。怖かったからだ。冷たく小さなカプセルの中で青白い光に包まれている人間は、宇宙に送り出した遺体と同じように見えた。
 だが様々な勉強をした今は、カプセルの中身が遺体ではないことくらいは自然に理解できている。
 使われずに古くなったドアは、それでもシュンと小気味よい音を立てて道を空けた。縦に長い部屋の中央、二列に整然と並んでいる冷凍睡眠のカプセルが、部屋に青白い光を放っている。
 シュウの予想通り、昔見た時の恐怖はわき上がってこなかった。というよりも、どんな感情も浮かんでこなかった。カプセルはただカプセルとして横たわり、内包されている人間は命のない人形のように見えた。
 シュウは止まっていた足を前に踏み出し、カプセル上部から見える個々の顔をのぞき込んだ。
 マニュアルを持っているだろう老人、中年の男、中年の女。次に見た子供のところで、つま先側にあるプレートに気付いた。No.4・3・学生・7歳、とある。シュウは、前の三人は何とあっただろうかと戻って確認した。
 No.1・1・科学者・70歳、男。
 No.2・1・調理機器整備技師・34歳、男。
 No.3・2・調理師・30歳、女。
 職業は必要な時に起こすためかもしれないと想像がついた。ただ、通しナンバーらしい数字の次、二番目の数字が分からない。シュウは謎を抱えたまま、プレートと顔を確認しながら再び歩を進めた。
 No.5・1・生物学助教授・41歳、男。
 No.6・2・美容師・24歳、女。
 No.7・1・映画監督・55歳、男。
 No.8・2・女優・28歳、女。
 No.9・1・アートディレクター・49歳、男。
 No.10・2・特殊メイクアーティスト・41歳、女。
 No.11・3・学生・13歳。男。
 No.12・1・工学科技師・31歳、男。
 No.13・1・工学科技師・38歳、男。
 そこまできてシュウは、家族が分かるように番号を振っているのかもしれないという考えに至った。数字が一に戻ったところから一番大きい数字までが一つの家族なのだと思う。
 だがシュウは、家族というものがよく分からなかった。自分が生まれて一年ほどで母親が亡くなったという記録があった。唯一記憶に残る家族である父親も、シュウが七歳の時に亡くなっている。
 時を止めた彼らとシュウの家族は、どちらが幸せだっただろうとシュウは思考を巡らせた。
 厳しい環境で命を落としていった眠らなかった人たちと、地球で生きることを夢見続け、今もまだ眠っている人たち。シュウが生き残っていなかったら、夢は夢だけで終わってしまう。そんなことすら知るよしもなく。
 だが、これから地上に降りて安穏とした生活が送れるとも限らない。廃墟になった建物は残っているだろうが、厳しい自然環境が待ち構えている。それでも宇宙での生活を知らないだけ、カプセルの中の方が幸せだったのではないだろうか。
 彼らが今見ている夢を想像しながら、シュウは二番目の数字を確認しつつ部屋の奥へと移動していった。

 不意にシュウの足が止まった。部屋の一番奥にあるカプセルに目が釘付けになって動かない。明らかに他を見た時とは違う感情が溢れてきた。
 今まで見てきた数々の画像を含め、ここまで綺麗な女性を見るのは初めてだった。色白の肌はまるで血が通っているように赤みが差し、金色の髪はカプセル内の青白い光さえ柔らかく反射している。今すぐに起き上がっても不思議ではないほど生き生きとしているのだ。
 そして、なぜか彼女だけは服を身につけている。興味を持ったシュウは、カプセルを回り込んでプレートをのぞき込んだ。
 ――イブ、アダムと共に――
 通しナンバーもなく職業もなく、ただ芝居の台詞のような一言が書いてある。内容からして、イブとアダムが人の名前だろうということは想像がついた。その名をどこかで聞いたような気はするが、それが誰なのかは分からない。
 ふと隣のカプセルに目が行った。そこにはNo.50の数字が振ってある。発作的にもう一列を振り返ってカプセルを確認した。綺麗に並んでいる。もう一列も五十一台のカプセルがあるということは、全部で百二台ということになる。
 船内人口は搭乗時から完全に管理されていたし、搭乗人員は二百人と記録にも残っていた。冷凍睡眠の装置を増やせたとしても、黙って人間が増えるということはないはずだった。
 記録の曖昧さがシュウを苦しめた。人口の記録すら不確かなのだ、地上に降りるための手順もどこか抜けているかもしれない。
 だが反対に、シュウの降りたいという気持ちは高まっていた。無事に地表に着いたら、地球の自浄作用に守られた環境で、彼女を自分の家族にしたいと思ったのだ。
 シュウはカプセルが並ぶもう一列の方へと足を向けた。まっすぐ端のカプセルへと向かい、そのプレートを見下ろす。
 ――アダム、イブと共に――
 想像していた言葉に奥歯を噛み締め、その顔へと目をやった。男だ。やはり服を着ていて色白で、生気の残る顔をしている。その顔をどこかで見たような記憶があるとシュウは思った。すぐに、乗員の残した美術の書籍だ、と思い付く。そこに載っていた宗教画と呼ばれていたらしい絵画に描かれていたような女々しい顔だ。
 彼らは何らかの理由があり、追加で冷凍睡眠に入ったのかもしれない。新しいカプセル二台から伸びた、だらしなく床を這うコードがそれを示している。そして、並びが違うために数字で家族だと表せないから、こんな文言を記したのだろう。
 それにしても、身体の管理をするために、装置には裸で入るはずが、服を着たままなのは不自然だ。その上、睡眠時の顔色がよく見えるほどの改良が、短期間で行えるものだろうか。それも記録にはなかったはずだ。だが、確かに彼女は眠っている。
 今一度彼女のカプセルをのぞき見ると、シュウは冷凍睡眠室を後にした。

 その足でシュウは船内の記録を集めてある部屋に来ていた。人間二人と冷凍睡眠のカプセルが増えたことについて、どこかに載っていないかと、もう丸一日物色し続けていた。だが、すべて調べ終わった今でも、その記録を見つけることはできていない。むしろ死んでいった人間たちの記録がしっかりしているため、二人増えているという事実だけが謎を深めていった。
 ならば、とシュウは工学作業室へと向かった。修理のために冷凍睡眠装置の部品が二台分、一通り揃っているはずだ。それがなくなっていれば、正体が分からない二人のために組み立てたのだと推察できる。
 だが、そこには皮肉な状況が待っていた。カプセルの外側部分と、部品も半分ほどがなくなっている。だが、あと半分は何かを組み立てた跡を残したまま放置されていた。床には金属らしき粉や、何か樹脂のような物が散っている。他の部品があって冷凍カプセルを作り上げたのか、それとも別の何かを作ったのか、専門知識がないシュウには分からなかった。
 これだけ大きな出来事だ、もしかしたら記録に残さなくても口で伝わると考えたのかもしれないとシュウは思った。だとしたらアウトだ。シュウが一人になった当時は、まだ七歳だったのだ。最後に残っていた父からも、何も聞かされてはいなかった。
 だが、アダムとイブが登場する書物だけはデータベースから発見できた。神が作った最初の人間だなどと記されていた。そんな大仰な名を使って家族だと主張するなど、思い上がりも甚だしいと思う。
 ――イブ、アダムと共に――
 ――アダム、イブと共に――
 蘇ってくる二枚のプレートにあった言葉に、シュウの嫉妬心が煮えたぎった。彼らは地上に降りて二人で暮らすという同じ夢を、今この時も見ているのだ。
 このままでは無事に地上に降りたとしても、あのアダムという奴がイブと一緒に暮らすことになってしまうに違いない。だがアダムだけを始末したとしても、一斉に起き出す人間らの中に、イブを狙う奴が現れるかもしれない。
 始末、などと思っている自分の思考にハッとした。身体が震えるほどの動悸が、シュウを揺り動かす。
 心も震えている。そんなことをしていいわけがない。だが、できることなら彼女と一緒に暮らしたい。その気持ちを振り払えず、シュウはなんとか落ち着こうと奥歯を噛み締めた。
 大きく息をつき、手元の古い資料から顔を上げると、円形の窓の外に美しい地球が見えた。太陽が百年の歳月をかけて浄化してくれた地球だ。とにかくあそこに帰るのだ。きっと地球もそれを望んでいる。
 すぐ側の天井に、後から設置された電灯のコードが垂れているのが目に入った。二つの新しいカプセルからも、だらしなくコードが伸びていたのを思い出す。
 あのコードを外せばアダムは死ぬだろう。軽く蹴飛ばすだけでそれは叶う。いや、蹴るのではない、うっかりつまずくのだ。そうすればアダムのカプセルは動きを止める。もしも二つのカプセルが連動しているようなことがあれば、イブだけを助ける努力をすればいい。
 シュウは熱に浮かされたようにフラフラと工学作業室を出た。
 この宇宙船を地球に着陸させたら、一番に彼女と地上に降り立とう。そして彼女と切れない関係を作るのだ。他の百人が起きても、その誰もが彼女を手に入れようなどと考えないように誰よりも早く、早くだ。
 シュウは、ただ自分の夢のみをブツブツと自らに言い聞かせながら歩みを進めた。

 冷凍睡眠室の空気は、前よりも幾分冷たく感じた。室温は変わっていない。シュウの体温が変わったのかもしれなかった。
 シュウは二列に並んだカプセルの間を奥にあるコードに向けて進んだ。シュウの頭で、鼓動が痛いくらいにガンガンと音を立てている。
 つまずくんだ。つまずくだけだ。悪いのは俺じゃない。そこにコードがあったからだ。むしろ転んで被害を受けるのは俺の方だ。
 無意識に早くなったシュウの足がコードを直撃し、一瞬フラッシュのような光が辺りを包んだ。つんのめって転んだシュウは、頭をもたげてアダムのカプセルを振り返った。ちぎれたコードがヘビの抜け殻のように落ちている。
 立ち上がって中をのぞいた。アダムは身体をけいれんさせていた。カプセルのどこかがショートしているのかパチパチと音を立て、その音が静まると同時にアダムも動きを止めた。
 イブの無事を確かめていなかったことにハッとし、シュウは慌てて彼女のカプセルに駆け寄った。変わらぬ美しさでそこにいた彼女に、ホッと胸をなで下ろす。
 後は宇宙船を無事に着陸させるだけだ。そうすれば百一個のカプセルが人間を起こしてくれる。新しいカプセル故、最初に起きるだろう彼女を連れて、真っ先に彼女と地上に降りればいいのだ。地表の分析をするためとでも理由をつければ完璧だ。
 シュウは喜色満面、冷凍睡眠室からコックピットへと急いだ。

 地鳴りのような音を立て、宇宙船の動力が冷凍睡眠室へと行き先を変えた。円形の窓の外には砂地と水平線が見える。反対側の窓を見やったシュウの目に、木々の葉が揺れているのが映った。
 無事に降り立ったのだ。やり遂げたという満足感に、シュウは声を立てて笑った。そのまぶたに彼女の美しい姿が浮かぶ。アダムの反応が早かったということは、彼女もすぐに起きるだろう。シュウは早々に冷凍睡眠室へと向かった。
 起き上がるところを見られるかと思っていたが、回復はシュウの予想以上に早かったようだ。まっすぐな廊下の中ほどまで進んだ辺りで、彼女が部屋から出てくるのが見えた。
 長い金髪が柔らかく空気と戯れ、水平線に近い海のような色の瞳は、真円のカポーションカットに磨かれた宝石のように輝いている。
 ただその表情は硬かった。アダムという家族を失ったのだから仕方がないが、いつか笑みで溢れさせてやるとシュウは思った。彼女はシュウを認めると、冷たい表情のまま一礼した。
「もう動けるんだ?」
 喉の震えを飲み込み、勇気をふるってかけた声に彼女は、はい、と短く答えた。
「すぐに任務に向かいます」
「任務?」
「土壌の採取と分析です」
 そう言うと彼女は歩き出そうとする。一人で行かれてしまっては予定が狂う。
「手伝うよ」
「そのような命令をお受けでしたらお願いします」
 彼女はまた一礼すると、着替えることもせずに外へと続くハッチのある小部屋へ向かって歩き出す。シュウは慌てて彼女の後に続いた。

 昇降機が地上に近づき、シュウと彼女は地表に降り立った。振り返ると宇宙船は上手く砂地に着陸している。これなら何か起こった時も再び宇宙へ逃げ出せるだろう。早々に調査を開始した彼女を尻目に、シュウはあちこちに触り、匂いを嗅いだ。
 何もかもが新鮮だった。砂はサラサラと暖かく、海の水はぬるぬると指にまとわりつく。手を拭きながら森に近づくと、足元は砂から黒っぽい土へと変化してきた。
 海の匂い、砂の匂い、土の匂い、幹の匂い、葉の匂い。鼻を近づけるとそれぞれに主張してくるその匂いは、絶妙なブレンドでシュウの肺に侵入し、百年の間使い古した空気を隅々まで洗い流していく。
 ふと白い花が目についた。五枚の花弁を持つ繊細な容姿は、彼女の髪にこそふさわしい。シュウはおそるおそる手を伸ばして花を手折り、彼女を振り返った。
 森にほど近い場所の土を左手のひらに乗せたまま、彼女は突っ立っていた。シュウが近づいても微塵も動かない。その土を持ち帰って分析するなら、何か入れ物に入れなくてはならないだろうが、何一つ道具を持っている様子がない。不思議に思いつつも、シュウは彼女の髪に花を飾ろうとした。だが彼女は、それを奪うように手に取り、花に視線を落とす。シュウも釣られるようにその花に見入った。
「質量3.249g、8株のカビが認められます」
「何を言って」
 なんの冗談だと笑おうとして、彼女の目に釘付けになった。眼球からレンズが伸びたのだ。シュウは開いた口がふさがらず、だが呼吸器が凍ってでもいるように息苦しさが増していく。
 彼女はそのレンズをシュウに向けるとレンズの出し入れをして、シュウのあちこちにピントを合わせている。
「あ、アンドロイド……?」
「はい。土壌の採取と分析をプログラムされております」
 彼女はそう言いながらレンズを動かし続け、シュウを舐めるようになぞっている。
 シュウは何もかもに合点がいった。
 大気を分析する際のマニュアルにあった、宇宙船の着陸と同時に作動する機械、それがアダムとイブだったのだ。冷凍睡眠カプセルは着陸で作動するのだから、流用もたやすかったのだろう。地上に最初に降りる二体だから、アダムとイブという名前をつけられたのかもしれない。
 気付くと同時に、冷凍カプセルのプレートにあった職業が脳裏に蘇ってきた。そこには工学科技師が何人か連なっていた。詳しくは書いてなかったが、ロボット工学だったのかもしれない。
 そして、映画監督、アートディレクター、特殊メイクアーティスト。勉強の合間に見た映画と呼ばれる映像のメイキングで、ロボットに皮膚をかぶせているものがあった。シュウの見たのは恐竜と呼ばれる生き物だったのだが。
「衣服に2株、頭髪に1株、口腔内に1株のカビが認められます」
 カビを体内に入れることは死を意味する。シュウは必死に唾液を吐き出そうとした。だが口を開けていたせいか、喉の奥までカラカラに乾いていて思うように吐き出せない。
「ど、どうしたら」
「住人に被害が及ぶといけないので、一度周回軌道に戻ります。再度の着陸は、分析結果を踏まえての計算次第になります。船の外壁の点検が必要ですので、アダムの修理をする時間も考慮に入れてください」
 彼女はシュウに背を向け、宇宙船へと歩き出した。
「俺を置いていく気か」
 シュウは必死で後を追い、彼女の肩を掴んだ。彼女はゆっくり水平に振り返る。
「いえ、そのようなつもりはございません。先ほどのハッチ部分には、カビを除去する装置が設置されていますので」
「除去? どうやって?」
「ハッチ内で私と一緒に300度の熱風を浴びていただきます」
 シュウは呆然としているはずの自分が、なぜか笑っていることを自覚した。カビは体内で菌糸を伸ばし、およそ一週間で人に死をもたらす。だが、そのカビを除去するには身体を燃やすしかないというのだ。シュウの命は、どっちにしても詰んでいる。
 地球が浄化したかったのはカビではなく、醜い気持ちを持った人間だったのかもしれない。それならば宇宙船で焼き尽くされるより、このまま地球に浄化してもらいたいとシュウは思った。
「俺はここに残るよ」
「承知いたしました」
 即答した彼女は、廊下で会った時と寸分違わない礼をすると、シュウに背を向けてサッサと歩き出した。彼女の遠ざかっていく後ろ姿は、金色の髪が陽に映えて美しかった。もうすぐその外見も燃えてしまうのだろう。昇降機が上昇し、彼女は三百度の熱風が吹き荒れる小部屋の中に消えた。

 ふとシュウは、宇宙船が飛び立つ時に噴出される熱のことを思い出した。ここにいたら結局宇宙船に焼かれてしまう。シュウは全力で駆けだした。
 これで間違いなく胞子は身体に取り込まれてしまっただろう。身体に菌糸が張り巡らされていくことを想像すると気がおかしくなりそうだったが、今はそれよりも逃げなくてはいけないことが、シュウにとって救いにすら感じられていた。
 どれだけの間走り続けただろう。もう大丈夫だろうかと振り返った時、宇宙船がうなりを上げ始めた。熱と音をいくらかでも防げればと岩の陰に隠れる。熱は距離が取れたからか思ったほどではなかったが、耳をふさいでも防ぎようがないほどの轟音が地面を揺るがし、巨大な宇宙船が重たい身体を持ち上げて飛び立っていく。
 首を出せるほど音が収まった。岩陰から顔を出したシュウは、小さくなっていく宇宙船よりも、その後に残っている森まで浸食した丸い焼け跡を眺めていた。
 そして自分の中にも同じような焼け焦げがあることに気付いた。
 アダムは死んではいなかった。シュウが殺したはずの男もアンドロイドだったのだ。彼女が言ったように修理をすれば動くだろう。そして彼女と作業を永遠に続けるのかもしれない。
 アンドロイドなら実際殺したことにはならないと思うと、シュウは意味もなく安心した。だが、シュウが行動したプロセスは変わりない。自浄作用が働かないシュウの中では、その焼け焦げが永遠に残るのだ。だが、そんな焼け焦げが在るも無いも関係なく、地球はシュウの身体を受け入れてくれるだろう。

 あの百人が地上に降り立って百年経った頃、一体何人の人間が残っているだろうか。人間よりもカビを選んだ地球の自浄作用を、彼らはきっと甘く見ているに違いない。
 シュウが想像していたように、地球は美しかった。そう、地球自身が守り続けているこの自然こそが美しいのだ。シュウはその一部に帰っていける嬉しさと、母の胸に抱かれる時の嬉しさは同じような感じだろうかと、無意識に重ね合わせていた。
 疲れからなのかカビのせいなのか、思うように動かなくなった身体を下葉のベッドに横たえる。木漏れ日がまぶたを柔らかく撫でていく。この地上で土に溶ける夢を見ながら、シュウは静かに目を閉じた。


文・柚希実(ゆずき・みのる)
  主にファンタジーを書いていますが、現在は他のジャンルにも挑戦しています。少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

写真・写真素材 足成
  写真素材を無料で提供しているサイト「足成」さんから写真をお借りしました。
  写真の撮影者は工藤隆蔵さんです。


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