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孤島に潜む影

 虚構が現実を凌駕する。あるいは、作り事であるはずのものが現実世界を侵食していく。
 実際にはあり得ないそういったことが、確かに存在すると思うのです。

 きっかけはネットサーフィンでした。H・P・Lを始祖とする『神話』群を扱ったサイトを渡り歩いているうちに、とあるファンサイトに辿り着いたのです。
 そこには『神話』に関するありとあらゆる項目が整然と纏められており、「クロニクル」あるいは「エンサイクロペディア」とも言うべき様相を呈していました。
 研究書を上梓したり論文を纏めたりする専門性はなくとも、その世界に強い関心を持つ私は、時が過ぎるのも忘れ画面に見入っていました。
 それに気付いたのは、ほんの些細なことからでした。
 ブラウザの画面サイズを変更しようとマウスを滑らせた時です。テキストも画像も何もない部分を白い矢印が横切る短い間に、一瞬だけポインタが指の形に変わり元に戻ったのです。隠しリンクだとピンと来ました。私は管理人の仕掛けた悪戯に応じるため慎重に画面を探り、ポインタを合わせると迷わずクリックしました。
 なんと、飛んだ先にあったのは、
 Miskatonic University
 という文字列。
 どうやら『神話』群に度々登場する大学のデータベースログイン画面の様です。正直半信半疑でした。サイトの管理人が凝った仕掛けを施しているのかと思いました。ファンサイトにはよくある「お遊び」です。私はそれを管理人の挑戦と受け止め、何とかログインしてやろうとIDとパスワードを探り始めました。
 Dyer
 Wilmarth
 Shrwsbury
 大学の歴代教授の名前や生没年、あるいは様々な禁断の書名や神格、はたまた知られている呪文の一節などを思いつくまま入力していくと、ある組み合わせによってログインすることに成功しました。
 中を覗いて驚愕しました。決して一ファンの「お遊び」などではなかったのです。そこには大学がこれまで行ってきた『神話』に関するありとあらゆる業績が詰め込まれていました。一九三〇~三一年の南極探検や一九三五年のオーストラリアの遺跡調査などの詳細な記録や写真、論文の数々。中には国家機関が作成する公文書の体裁をとったものもあります。個人の作り物にしてはあまりにも出来過ぎている。私は翻訳サイトの力を借りながら、内容を具に読み込みました。
 読み進めるうちに信じられないものに出くわしました。戦後しばらくして大学の遺跡調査隊が日本をも訪れていたという記録を発見したのです。
 場所を具体的に示すことは避けますが、そこには、
――此処ヨリ遙カ彼方ノ東海ニ樂薗在リ
 という伝承が今も生きる地域にある、小さな島でした。この島は大戦後のアメリカ占領時下、米軍により徹底的にマラリアの根絶が図られた史実がありますが、どうやら大学の調査隊はその作戦に同行して島に上陸を果たしていた様なのです。
 この島には現在、本土からは中継地まで飛行機で三時間、乗り継ぎ便で一時間、さらに定期船を使えば四十分で行くことが出来ます。観光地としても有名な島です。
 H・P・Lが描いた『神話』において本邦が登場することはありません。しかし、この調査記録は、微に入り細に入り、現実に存在する島の歴史的事実や地理的状況とあまりにも合致していたのです。
 深く『神話』世界に魅せられた者としての血が騒ぎました。「実際に遺跡を目にしたい」と強く思いました。私はデータベースから遺跡に至る詳細な地図や資料をプリントアウトすると、旅行の手筈を整え機上の人となりました。

 今思えば、この時の私は、邪なる神の御使いにして様々な名前を持つ「無貌のもの」の謀略に捉えられてしまっていたのかも知れません。
 かつて多くの人間が、興味本位から禁断の知識に手を出して破滅させられたのと同じ様な罠に。

 島に上陸し、宿を定めると、私は早速レンタルカヌーの手配をしました。山中にある遺跡までは、整備された道などありません。大半の行程は、川を遡ることでしか辿り着けないのです。食料や水、コンパス、テントなど装備を固め、カヌー業者を通じて入山届を提出すると、私は地図に示された河口からカヌーを漕ぎ出しました。
 生憎と引き潮の時間帯と重なっていたためか、カヌーはなかなか上流に進んでくれません。慣れないパドル捌きもそれに輪を掛け、油断するとついさっきまでいた場所に押し戻されてしまいます。結局、予定の行程を三時間もオーバーして当初の目的地である上陸地点に辿り着きました。
 ここからは密林を徒歩で行かなければなりません。慎重に地図とコンパスを照らし合わせてルートを定めると、沢伝いにアタックを開始します。この時程、自分のメタボリックな身体を呪ったことはありません。バックパックと体重分の質量を重力に逆らわせて押し上げなければなりません。さらに足場の悪さも疲労に拍車を掛けます。冬場で動きは鈍っていますが、ブッシュには毒蛇も潜んでいるため、うっかりしたことは出来ません。

 苔生したガレ場を乗り越え、数時間掛けて亀の歩みを進めると、ふいに風景が変わります。干上がった砂岩の平原です。本来ならば豊かな清水の流れる川の底なのです。
 ここで突然アクシデントに見舞われました。いきなり篠突く雨に襲われたのです。見る見る足元に水が広がります。危険な状況です。砂岩の河床は、濡れると大変滑りやすくなります。重ねてあちこちにポットホールがあり、足を踏み込むと大怪我の怖れもあります。水の流れに足を掬われバランスを崩せば一溜まりもありません。
 仕方なく岸辺に上がり、急遽手近にあった頑丈そうな岩棚の下で雨を凌ぐことにします。頭の上を滝の様な雨水が流れていきます。雨はなかなか止みませんでした。遺跡ポイントまではあと僅かの距離なのですが、ここで大きく足止めを喰らってしまいました。
 日が落ちる前に移動を完了し、ビバークの準備をしなければなりません。南国とはいえ、高地の夜は冷え込みます。山を侮ることは出来ません。雨脚が弱まるタイミングを見計らって、私は思いきって最終目的地を目指すことにしました。
 慎重に足を進め、何とかブッシュに入り込み遺跡ポイントを目指します。日は刻一刻と傾いていきます。地図上の距離はほんの数ミリであるのに、無限の時間が過ぎ去る様に感じました。
 突然、視界が開けます。自然石を用いてはいますが、明らかに人工的な石組みが目に飛び込んできました。
 その瞬間の気持ちは言葉で言い表すことが出来ません。
 これまでの苦労など、なにもかも吹き飛んでしまいました。達成感が全身に広がります。しかし、余韻にひたっている時間はありません。私は安全そうな場所を見定め、テントの設営に入りました。

 探索の足場を固め終える頃には、日はすっかり傾いていました。暗くなってからの移動は危険を伴いますが、念のためヘッドランプを灯し、ほんの少しだけ付近を散策することにしました。
 持参した資料に導かれるままに進んだ私を迎えたのは、古びた石像の群れでした。異国風の人物像は、祈りを捧げる様な、あるいは不安に戦く様な表情を浮かべています。ひょっとすると邪神に対する供儀を表しているのかも知れません。海亀をモチーフとした石像は祭壇らしきものを取り囲む様に無数に配置されています。特筆すべきは、祭壇を守護するかの様に佇む、『神話』に登場する「深海に潜むもの」らしき像です。私は夢中で携帯電話に備え付けられたカメラのシャッターを切りました。最新鋭の機種ではないので防水やGPSといった高度な機能は備えていませんが、証拠画像を撮るには申し分ありません。
 遅くなる前にテントに戻ろうとした時、物音が聞こえました。島には熊はいませんが、野生の猪が生息しています。出くわすと厄介です。様子を窺っていると、物音は次第にこちらに近付いてきます。
 ふいにあり得ない感覚に囚われます。
 海から離れた山中にいるにもかかわらず、強烈な潮の香りが漂ってきたのです。それとともに、ビシャリ……ビシャリといった音と、クフゥシュルウグォオゥ……といった、くぐもった音が聞こえます。
 私が携帯電話をジップ付きのポリ袋に放り込み、ポケットにねじ込んでその場を離れようと踵を返したその時です。突然両脇から強い力で腕を掴まれました。水掻きとかぎ爪のあるヌラヌラとした手が、私を捕らえたのです。
 ヘッドランプに照らし出されたその姿は、まさに「奴ら」そのものでした。私は声一つ上げることが出来ませんでした。まさかこんな所で実際に遭遇するなどとは思いもよらなかったのです。「奴ら」は私を軽々と横倒しにし、地面に押さえつけます。その間にも辺りに一つまた一つと「奴ら」の気配が増えていきます。
 「奴ら」は口々に何事か囁き、呼び合っていました。決して我々が使用する言語の文字にすることは出来ない、唸る様な、喘ぐ様な、獣とも人間とも付かぬ声が辺りに飛び交います。「うぅふぅぅんごぐろるるぅいぇ……」「もぅごろぅぅうなっはうぅなふぅぅ……」「こぉほとぅうるるぅぅ……」微かに聞き覚えのある文言に思えました。『神話』の中でも有名な連句の一節に思えたのです。
 このままでは何をされるか分からない。「奴ら」の力を弱めると言われる、本物の「旧き印」など持ち合わせていないのです。生命の危険を感じ、私は必死に声を張り上げました。「ルルイエ・ウガフナグル・フタグン!」
 声は震えていました。それでも何度か叫ぶうち、私を押さえつけるかぎ爪と水掻きを備えた手の力が弱まるのを感じました。「奴ら」は明らかに動揺している様でした。やがて「奴ら」は「ろろうぅいひぃえへぇぇ……」「ほうぅとあごぉおんん……」と声を上げ出します。私は一か八かの思いでさらに「ルルイエ! フタグン!」と力強く叫びました。「奴ら」の粘液まみれの手が、少しずつ私の身体から離れます。
 そこかしこから連句を詠唱する唸り声が上がり始めました。間違いありません。「あの」連句です。声は南洋の底に沈む古代都市とそこに眠る「外なる者」を讃え、輪唱の様に辺りに響き渡ります。谺の様な、押し寄せては引く波の様な音声の渦に翻弄されるうち、私は次第に自分の意識が変化していくのを感じました。理性では今すぐにでもここから逃げ出さねばと分かっているのですが、感情はいつまでもこの詠唱を聴いていたいと訴えています。これが、我々人間ではなく、本来唱えるべき存在が唱える言葉の力なのでしょうか。
 陶然とする私の目の前に一つの影が迫りました。ヘッドランプの明かりに照らし出されたのは、「奴ら」の中でも少々異質な一体の貌でした。魚の様な眼をし、両生類的な顔つきですが、大多数に比べれば明らかに人間に近い形態をしています。
 「奴」は私にぎこちないながらも日本語で話しかけてきました。「なかま……おまえ、なかま……か」私は咄嗟に頷きました。奴は醜く貌を歪め、口の端をつり上げ「微笑み」ました。「こい……ついて、あとに」奴は私を立ち上がらせると、私の肩に腕を回しどこかへ連れて行こうとします。私の理性は戦慄しながらも、身体は彼の言葉に従っていました。
 祭壇の背後に回り、ブッシュを掻き分けて進むと程なくして泉の様な所に辿り着きました。濃密な海の匂いが鼻を突きます。山中に漂う潮の匂いの源はこの泉の様です。「奴」は泉の畔まで私を誘うと「いこう……るるいえ……ともに」と囁きます。泉は海まで続いているとでも言うのでしょうか。私は思わず「潜れない。無理だ」と主張しましたが、「奴」は意に介さない様子です。
 「奴」はどこから取り出したのか木の椀を私に差し出しました。「のめ……これで、へいき」私は言われるまま椀を受け取り、口を近付けました。かつて嗅いだことのない様な強烈な異臭がします。一瞬躊躇したものの、私は思いきって液体を飲み干しました。この世のものとは思えない臭気とは裏腹に、味は淡水の様に全くの無味でした。
 突然「奴」が私を抱え、泉に飛び込みました。私の身体は強い力で見る見る深みへと引き込まれていきます。溺れてしまう、と思ったのも束の間、私は何故か水中で普通に呼吸が出来ることに気付きました。どうやら先程飲まされた秘薬の影響のようです。周りを見回すと、ヘッドランプの明かりに照らされた大勢の「奴ら」が泉の底にある洞穴を目指す姿が映ります。水中にもかかわらず視界がぼやけないのも、きっと秘薬のお蔭なのでしょう。「我々」は洞穴に入り込み、遥か彼方を目指し始めました。

 何時間潜行していたかは分かりません。気が付けば洞穴の出口らしき場所に辿り着きました。円形の視界の彼方に、なにやら巨大な影が垣間見えます。奇妙な角度で連結する巨石群が林立しています。ユークリッド幾何学を無視した、人間の作り得るものとは全く異なっている造形です。かの「古き存在」が仮の眠りを貪る「墓所」のある太古の都市なのでしょうか。
 私はもっと近付いてよく見ようと身をくねらせました。しかし、その瞬間、今まで何の問題もなかった私の身体が、空気を求めて悲鳴を上げ始めたのです。秘薬の効果が切れかかっている。私は絶叫しました。それを聞きつけ、「奴」が私の身体を支え、上へ上へと誘います。巨大な石柱群は次第に眼下に遠ざかっていきます。苦しさと残念さで私は身悶えました。
 水面に上がるとほぼ同時に秘薬の効き目は切れてしまったようです。私は喘いで酸素を貪りました。激しく呼吸を繰り返していると、目の前の海面に「奴」が貌を覗かせました。「ざんねんだな……また……かえってこい」そう言うと「奴」は再び海中に姿を消しました。
 一人残された私は波間に漂っていました。遠く島影が月の明かりに浮かび上がります。私は長袖シャツの前裾をズボンから引っ張り出し、海面で身を躍らせてシャツの中に空気を取り込み膨らませると、簡易のライフジャケットを作りました。取り敢えず潮の流れに身を任せるしかありません。
 ふと、妻の顔が頭をよぎりました。こんな所でくたばったら、何と言って叱られるだろうか。私は苦笑しました。心の中でそっと詫びました。
 次に頭に浮かんだのは、両親のことでした。先立つ不孝を詫びること無しに別れるのは寂しく思われました。ポケットを探ると防水のためにジップ付きのポリ袋に入れた携帯電話は無事でした。ひょっとすると誰かがメールを見て救援を送ってくれるかもしれない。私は震える指でボタンを操作しましたが、現在地がはっきりしないため、無駄だろうと思い至り、すぐに諦めて止めてしまいました。
 幸いなことに潮流は島に向かって流れている様でした。お蔭で私は夜明けには島の海岸に流れ着くことが出来ました。

 これが私の南の島で経験した出来事の顛末です。無事生還できたのは運が良かったと言うほかありません。

 ただ一つ気になるのは、自宅に戻ってから咳が止まらないことです。
 声を出そうとしても喘ぐ様な声しか出せません。それに関係するのかは分かりませんが、このところ耳の下側が大きく膨らんできているのです。おたふく風邪は子供の頃にやっているので、免疫はあるはずです。熱も痛みもありません。ただ顔つきが日に日に変化していく様なのです。今朝は目覚めると枕にごっそりと抜けた髪の毛の束が絡まっていました。強いストレスのせいでしょうか。
 何だか喉が渇きます。思いっきり塩辛い水が飲みたくて仕方がないのです。水道水など飲めたものではありません。塩水でないと渇きが収まらないのです。今はどこかの海辺に行き、波打ち際に顔を漬けて思いっきり海水を飲み干したい気分です。


――久遠に伏したるもの死する事なく、怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん

H・P・L    


文/写真・紅侘助(くれない・わびすけ) 

  因州浪人の戯作屋にてしがない掌篇書きにて候。主として怪談を指向するも、お馬鹿話からファンタジーまで、筆の向くまま気の向くままに。 
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