閉じる


魔女の戸棚

 薔薇に囲まれた洋館には、二人の魔女が住んでいる。
 それはあたしたちのことさ、と、双子の魔女は、ひひひと笑って言いました。


 びしゃびしゃと、雨が降っていた。
 傘の骨が折れているからなのか、降りしきる雨はいつの間にか、内側まで侵入してきていた。気が付くと、じっとりと袖が濡れていた。制服のスカートにもいくつものシミができていて、まだら模様になったひだひだが、重たく足にまとわり付いている。お気に入りのローファーも水が染みてしまっていて、つま先がじっとりと冷たい。白い靴下には泥のシミ。お下げにした黒い髪はべっとりとして、いつもよりもっと野暮ったく見えるに違いない。鞄もずっしり重かった。佐織とお揃いのストラップまで、しょんぼりと雨に濡れている。
 はああ、とあたしはため息をついた。
 なんだかもう、嫌になっちゃう。
 あたしは落ち込んでいた。それはもう、どん底にまで。今日はいわゆる『厄日』というやつだったのだろう、朝から、何もかもが上手くいかなかった。朝食の時に見たテレビの占いは最悪だったし、バスがすごく混んでいて、お気に入りの傘の骨が折れてしまったし、数学の授業では当てられたし、ちゃんと解けたのに解答を間違えたし。そして。
 佐織、やっぱり、怒ってるのかなあ。
 もうひとつ、はああ、とため息をつく。
 あたしが悪いわけじゃなくて、佐織が悪いわけでもなくて。佐織に何か嫌なことを言われたとか、そういうことでもなくて。ただ佐織のあの傷ついた表情が、あたしの心の奥底にこびりついて離れなかった。どうしてだろう、と思ってしまう。どうして佐織じゃなくて、あたしなんだろう? 野田くんの目は節穴だとしか思えない。どうしてあんなに可愛くて、気立ても良くて、心の底から野田くんのことを大好きな佐織じゃなくて、あたしなんかを選んだんだろう? それも佐織に橋渡しを頼むなんて。生まれて初めてもらったラブレターだったけれど、嬉しいなんて思えなかった。
 この手紙、預かってきた。
 そう言った時の、佐織のあの、表情。
 はあああ、と、止めどなくため息が漏れる。
 これが真夏のよく晴れた日ならまだ良かった。ぽかぽかと暖かい春ならなお良かった。どうしてこんな冬の、寒くて冷たい雨の日なんかに、こんなことが起こるんだろう。気分はこれ以上ないほどに、今日の雨空にも負けないほどに、どんよりとした灰色だった。濡れたアスファルトに足がめり込まないのが不思議なくらい、身体が重い。
「深雪ちゃーん!」
「深雪ちゃーん!」
 後ろからそっくり同じ二つの声が、あたしの名前を呼んだ。同時にぱしゃぱしゃと水を跳ね散らかしながら、二つの足音が駆けてくる。あたしは重いため息をついた。あれはあたしの妹の、双子の立てる物音だ。小学生の二人が帰るにはやや遅い時間だから、どこかに出かけていたのだろうか。
「おかえりー!」
「おかえりー!」
 二人はあたしに激突する寸前で急ブレーキをかけて、元気いっぱいの声で叫んだ。あたしはまた、ため息をついた。二人が今どのような格好をしているのか、見なくてもわかっていた。敬礼でもするように背筋を伸ばして、あたしを見上げているに違いない。
 この双子を、あたしはまとめて『月夜』と呼んでいる。月子と夜子という名前の妹たちは、あたしより六つも年下で、名前のイメージとはかけ離れて騒々しい。普段は可愛いと思っても、今日は、この二人の騒々しさにつきあってあげられる気分じゃなかった。
 でも、いつまでも無視してはいられない。他人のふりして逃げようにも、あいにくここから家までは一本道だし。それに既に立ち止まってしまっている。あたしはため息をついて、渋々振り返った。
「……」
 傘を持ち上げて、視界を広げる。想像どおりの格好をした『月夜』の双子は、何がそんなに楽しいのか、満面の笑みを浮かべていた。
 ああ、なんだか、八つ当たりをしてしまいそう。
「ただいま」
 一言だけそう返事をして、あたしは再びきびすを返した。
 『月夜』は全く悪くない。悪くはないのだけれど、今は顔を見たくない。
 この二人はいつでもとても楽しそうで、あたしみたいにいちいちうじうじ悩んだりしないような気がする。二人はいつでも安定している。それは双子だからだろうか。頭の中を共有してでもいるかのような二人は、口に出さなくてもお互いの考えていることがわかっているんじゃないだろうか。悩みを口に出さなくてもわかってくれる相手がいるということは、この上なく心強いことに違いない。
「どうしたのー?」
「どうしたのー?」
 二人はそう言って、あたしを両側から覗き込んだ。右から月子、左から夜子。口に出して相談なんて一切していなくても、二人の動きはかっきり左右対称だった。
「……別に」
 あたしのこの重い気持ちなんて、あんたたちにはわからない。この世にあたしの味方なんて誰もいないんじゃないか、と、ひがみっぽく思ってしまうような、こんなどろどろした重苦しい気持ちなんか。
「……」
「……」
 あたしがすたすた歩いていくので、取り残された二人は黙って顔を見合わせた、のだろう。見なくたってわかる。たぶん目だけで何か相談もしただろう。
 二人は何も言わないまま、再びあたしの両側に、同じタイミングで追いついた。
「何か悩みがあるんなら」
「魔女に助けてもらえばいいよ」
 ひとつのフレーズを交互に言って、ねー、と言うように顔を見合わせる。あたしはため息をついた。もう何度目のため息かだなんて、数えたくもない。
 魔女って? と、普段のあたしなら、会話につきあってあげたはず。何しろあたしはひとりしかいないとはいえ、『月夜』より六つも年上なのだ。双子はあたしにとって宝物みたいに可愛い妹だ。時折手を焼かされるけれど、二人がいなくなることなんて考えることもできないくらいに、大切な、妹。
 なのに、今日は。あたしは黙ってため息をついただけだった。二人は更に駆け寄ってきて、あたしの返事がないことになんて一切構わず、そのさえずるような声を続けた。
「魔女は何でもできるんだよ」
「たまに、ちょっと、いじわるだけど」
「先に話してきてあげる」
「何でも解決してくれるんだよ」
 え、と声を上げた時には、双子は盛大な足音を立てて、走り去っていくところだった。そっくり同じ、黄色の小さな傘と、黄色いレインコートと、黄色の長靴。灰色の景色の中に咲いたタンポポみたいにそこだけが明るい、そっくり同じ二つの背中は、止める間もなく走っていった。つんのめりそうな勢いで、みるみる小さくなっていく。
「……ちょっと、待って」
 あたしはその背中を見送りながら、ひとり呟いた。魔女って。魔女って、まさか。
 嫌な予感を肯定するように、二人は正面に見えている、雨に濡れた洋館の玄関に向かっていた。広い庭に続く階段を駆け上がって、凝った造りの門を体当たりするようにして開けて、二人の小さな背中が中に消える。あたしは口を開けて、そして閉じた。ちょっと、待って。冗談じゃない。魔女って、魔女って、まさか!
「たっだいまー!」
「おばあちゃーん!」
「深雪ちゃんがー!」
「大ぴーんち!」
 そう叫ぶ声は途中で途切れた。どうやら玄関の扉が遅ればせながら閉じたらしい。キィキィと鳴る門を見つめて、あたしは絶望的なため息をついた。ああ、もう。ああ、もう!
「何が魔女よ……」
 しゃがみ込むか、逃げ出すか、少し迷った。
 でも逃げるわけにはいかなかった。
 だって、あそこはあたしの家なんだから。


 薔薇に囲まれた洋館には、二人の魔女が住んでいる。
 それはあたしたちのことさ、と、双子の魔女は、ひひひと笑って言いました。


 あたしがもっと幼い頃……そう、今の双子と同じくらいに、幼かった頃のことだ。
 あの頃の庭にも、今と同じように、たくさんの薔薇が植えられていた。今は冬だから咲いていないけれど、薔薇の季節になればそりゃあ見事な大輪の薔薇が咲き誇るのだ。二階から見ると、庭中に薔薇色の絨毯が敷かれているように見えるくらいだ。ツタの生えた古ぼけた洋館と、植えられたたくさんの薔薇、そしてそっくりな双子のおばあさんとくれば、子供たちの間でいろいろな伝説が囁かれてもおかしくはない。あたしは幼い頃、自分の祖母たちが魔女だと信じて疑わなかった。友達もみんなそう言ったし、何しろ当の本人たちが、公言してはばからなかったのだ。
 小さな子供に聞かれると、二人は悪戯っぽい笑みを浮かべて、その子の顔を覗き込む。

 そうさ、よく知ってるね。
 あたしたちは、魔女なんだよ。
 甘いお菓子をあげようか。
 綺麗な薔薇をあげようか。
 いい子にしてれば、いい魔法。
 でもね、忘れちゃいけないよ。
 暗くなっても帰らなかったり。
 お母さんの言うことを、聞かなかったり。
 悪口を言ったり、わがままを言ったり。
 そういう悪い子を見つけたら。

 そこで二人はそっくり同じ顔を見合わせて、そっくり同じ顔でにっと笑って、子供を更に覗き込んで、こう言うのだ。

 ――悪い子には、悪い魔法をね。

「馬鹿馬鹿しい……」
 あたしはため息をついた。とっくの昔に、自分の祖母たちが、魔女なんかじゃないことはわかっている。だってあたしが子供の頃、二階の窓から、竹箒に乗って飛び降りた時にも、おばあちゃんたちは助けてなんかくれなかったのだ。お伽話にあるような不思議な魔法、あたしを綺麗なお姫様にしてくれたり、カボチャを馬車に変えてくれたり、なんて。そんなこと一切してくれなかった。あれはあたしを含めた近所の子供たちを『いい子』にしておくための方便で、ご近所の若いお母さんたちは、それを歓迎していたふしがある。夜なかなか寝なかったりする子は、よく脅かされたらしい。いい子にしてないと、双子のおばあちゃんたちに懲らしめてもらうんだから、なんて。効き目のほどは推して知るべし、だ。
 魔女なんて、いないのだ。
 悩みを解決してくれる魔女なんて、いないんだ。
 あたしはのろのろと足を進めた。寒いし、冷たいし、早く暖かな家の中に入りたいけど。でも、あの双子たちの中に入るのは気が重い。そっくり同じ顔、そっくり同じ声、そっくり同じ仕草の人間が二人。それも、二セット。今は誰にも会いたくない気分なのに、倍の倍、疲れそうな気がする。
 昔は。おばあちゃんたちを魔女だと信じて疑わなかった頃には、何か嫌なことがあるとすぐに、おばあちゃんたちのところへ走っていったものだった。あたしは、おばあちゃんたちを何でもできるスーパーマンみたいに思っていた。おばあちゃんたちに解決できない問題なんて何もなかった。友達と喧嘩したりして、どん底の気分だった時にも、おばあちゃんたちに慰めてもらって、あの戸棚を開いてもらえば、すぐに憂鬱を忘れることができた。
 戸棚。
 そう、あの戸棚。暖炉のすぐ脇にある、白くペンキの塗られた、あの家と同じくらいに古い戸棚には、おばあちゃんたちの許しなしには手を触れてはいけないことになっている。子供の頃、あの戸棚は文字どおり、魔法の戸棚だった。あそこには、およそ小さな女の子の望み得る、ありとあらゆるものが入っていた。色とりどりの綺麗なボタン、ぴかぴか光るおはじき、ビロードのはぎれ、面白い本、美味しいお菓子、手触りのいい千代紙。おばあちゃんたちは遊ぶのがとっても上手で、お裁縫も上手で、あたしの小さな人形に、それはそれは素敵なドレスをいくつも作ってくれたものだった。
 いつの間にあたしは、あの戸棚を開けてくれって、せがまなくなったんだろう。
 いつの間にあたしは、おばあちゃんたちを全能の存在だと、信じられなくなったんだろう――?
 のろのろと歩いている内に、いつしか、家のすぐ前までたどり着いていた。たどり着いて、しまった。あたしは半開きになったままの門を見つめて、またひとつ、大きくため息をついた。


 玄関の扉は、油を差されたばかりで、音もなく静かに開いた。
 ただいまを言う気力もなく、あたしは黙って中に入り、黙って扉を閉めて、黙って靴を脱いだ。玄関は湿気に濡れて外と変わらないくらいに寒く、陰鬱な気分に拍車をかける。おまけに夕闇が迫ってきていた。ただでさえ灰色に曇って暗い空気が次第にその密度を増し始めて、漏れてくる居間の明かりがあたしを阻害しているような気分になる。
 濡れて重くなった靴が、ごとん、と音を立てる。
 脱いだ靴をしばし眺めて、あたしはため息をついた。
 新聞紙、詰めておかなきゃ。
 そう思うのは簡単だけど、今は、そのとおりに体を動かすのがとても億劫だった。どうでもいいや、と思ってしまう。濡れた体を拭く気にもなれない。このままベッドに潜り込んで寝てしまおうかな。そういうのをふて寝って言うのかな。でもこんな濡れた格好のままで眠ったら、余計に寒くなりそうだ、と、ぼんやりと考えていた時、唐突にぱちりと明かりがついた。
「帰ってたのかい」
 座り込んだあたしの上に、柔らかな声が降ってくる。
 あたしは眩しさに目をぱちぱちさせて、声のした方を振り仰いだ。そこには桜おばあちゃんが立っていた。あたしたちの祖母は二人いる。そっくり同じ顔で、そっくり同じ仕草で、そっくり同じ声の――二人の、魔女。
 桜おばあちゃんはあたしをまじまじと見た。あたしは反射的に首をすくめた。おばあちゃんたちは優しいが、躾にはとても厳しい。ただいまを言わずにいたら、叱られるに違いない。
「あ――」
「おかえり」
 あたしの言葉を遮るようにして、桜おばあちゃんの後ろから、梅おばあちゃんが顔を出した。『月夜』の姿は、どこにも見えない。
「なんて格好だい」
「濡れネズミじゃないか」
 二人は口々にそう言って、さあさあ、とあたしの手を取って立ち上がらせた。おばあちゃんたちの指先は、あたしの冷えた手が痛むほどに温かい。
 あたしはたじろいだ。でもおばあちゃんたちは、一切構わなかった。
「お風呂入れておいたから」
「とにかく温まるんだね」
「おやつも作っておいたから」
「温まったら、出ておいで」
「ゆっくり百まで数えるんだよ」
「数えるまで、出てくるんじゃないよ」
「早口言葉でごまかしちゃいけないよ」
 さあさあ、さあさあ。
 抵抗する間もない内に、お風呂場まで連れていかれてしまう。脱衣所に追いやられるように入り込んだあたしは、かすれた声で抗った。
「あの、」
「話は後!」
 ぴしりと二人の言葉が重なる。
「着替えは持ってきてあげるから」
「とにかくあんたは入りなさい」
 こういう時の二人には、抵抗したって無駄なのだ。
 あたしははあい、と呟いて、のろのろと服を脱ぎ始めた。佐織が哀しんでいるのに、佐織が野田くんをどんなに好きか知ってるのに、佐織を哀しませる原因になってしまったあたしが、のんびりお風呂に入って、温まったりしていいんだろうか。
 またため息をひとつ、吐き出そうとして、ふと気づいた。
 脱衣所の向こう、台所の方では、ほかほかするような、甘くて優しい匂いがしている。


 おばあちゃんたちに逆らえないことを言い訳にして、あたしはお風呂の中で、ゆっくり百まで数えた。子供の頃はお湯が熱くてたまらなくて、十文字の早口言葉を十個数えて時間を早めたものだけど、大きくなったあたしはお湯の熱さを我慢できるようになったし、今日のお湯は熱すぎもせず、ぬるすぎもせず、楽に数えることができたのだ。ゆっくり温まって出てくると、清潔な着替えがちゃんと用意されていた。そして何と、上下揃ったスウェットは、手に取ると温かかった。ストーブの前で温めておいたものを、あたしが出るのを見計らって脱衣所に移しておいてくれたらしい。体をよく拭いて、ほかほかの服を身に着けると、現金なことに少し元気が出てきてしまった。そして情けないことに空腹であることにも気づいた。なんてこと。あたしの体ったら、嫌になるほど健康だ。
「あがったら、こっちにおいで」
「おやつの準備ができているから」
「おねえちゃーん」
「お腹すいたよー」
 桜・梅、月・夜の双子たちの声が、台所から口々に投げられる。あたしはどんな顔をして出ていけばいいのかちょっと悩んだが、意を決してえいっと戸を開けた。台所はほんわりと暖かく、そして明るかった。全てがきちんと整えられて、清潔で、正しい感じがする。
 と、両脇からがしっと腕を掴まれた。
 見下ろすと、物陰に隠れていた『月夜』が姿を見せて、あたしの両腕を両脇から掴んでいる。二人はにんまりと小悪魔的な笑顔を見せて、あたしを下から覗き込んだ。
「深雪ちゃん」
「今日のおやつは何だと思う?」
「当ててみてー」
「当ててみてー」
 さあさあ、と急き立てられて、あたしは台所の向こうにある、居間の方に連れていかれた。当ててみて、と、言われても。あたしはふんふんと匂いを嗅いだ。甘くて、優しい、いい匂いがする。この匂いは……
「わっかケーキ」
 言うと『月夜』はあたしのお腹の前にそれぞれの手を伸ばして、ぱちんと打ち合わせた。
「あったりー♪」
「あったりー♪」
 二人の声が綺麗にハモる。
「でもそれだけじゃないんだよ」
「今日のおやつは特別なんだよ」
「あたしも手伝ったんだから」
「あたしも手伝ったんだから」
 そして二人は、ねー、と顔を見合わせる。いつでも楽しそうでいいなあ、と思う気持ちは、さっきの雨の中で思ったひがみっぽい気分とは全く違っていた。双子の妹の楽しそうな様子が、あたしの気持ちまで明るくしてくれるみたいだ。
 たどり着いた居間の一番大きなソファにぼすんと座らされた。目の前に置かれたガラスのテーブルの中央には、繊細な模様のレースがきちんと敷かれている。
「月子、これ取りに来て」
「はーい、おばあちゃん」
「夜子、これを深雪に渡しておくれ」
「はーい、おばあちゃん」
 四人が口々に言い交わし、『月夜』が離れていく。あたしは自分ひとりだけ座っていることに普段とは違う居心地の悪さと、同じくらいの嬉しさを感じていた。今日はなんだか知らないけれど、『お客様扱い』されている。このような扱いをされるのは、誕生日の時だけなのに。
 むき出しの足が冷えないように、お行儀が悪いとは思いつつもソファの上に持ち上げて両手で包んだ。体育座りをしている体勢になる。と、正面に、おばあちゃんたちの、あの、大きな戸棚が見えた。
 あたしはその戸棚をじっと見つめた。普段から見慣れているからか、昔ほどの魅力を感じなくなったからなのか、いつもは空気のように目が素通りしてしまうのに、今日に限って目に入ったのは、さっき『月夜』に言われた『魔女』という言葉が懐かしかったからだろうか。白いペンキを丁寧に塗られた戸棚は、昔と変わらぬたたずまいで、どっしりと落ち着いて、そこにあった。
 あの戸棚の中には、今は何が入ってるんだろう。
 『月夜』は、あの戸棚を開けて、って、おばあちゃんたちにせがむことはあるんだろうか。
 あたしはしばらく、ぼんやりと戸棚を見ていた。脳裏に湧き上がってくるのは、あの戸棚から出してもらったもので、いろいろなものを作った記憶だ。折り紙と、はさみと、のりと、ペンだけで作れる簡単な人形。おばあちゃんたちが作るととても可愛くなるのに、小さなあたしに作れたものは、泣きたくなるほど不格好な、ちっとも可愛くないただの紙切れに過ぎなかった。思わずべそをかいたあたしに、桜おばあちゃんは優しく言った。
『大丈夫、ちゃんと可愛くしてあげる』
 そしておばあちゃんがあたしの人形にしたことは、本当に魔法だった。
 はさみでちょっと切っただけにしか見えなかったのに、できたよ、と渡された人形は、信じられないくらい可愛くなっていたのだ。思わず目を見開いたあたしに、梅おばあちゃんが横からくれたのは、千代紙でできたたくさんの服。サイズも測ったみたいにぴったりで、あたしは歓声を上げた。それからずいぶん長い間、あの人形はあたしの宝物だった。おばあちゃんたちの作った二人の人形を友達にして、あたしの人形は空想で行けた限りの、たくさんの世界で遊んだ。
「どこ、行ったんだっけ……」
 いつの間にか、遊ばなくなった。最後に見たのもいつだったか、はっきりとは思い出せない。最後には三人ともぼろぼろになっていたのは、確かなんだけど。
「おまちどおさまー♪」
「深雪ちゃん、これはいてー」
 『月夜』の明るい声で我に返る。月子はあたしの目の前にケーキを置いていた。そして夜子はいつの間にかすぐ隣に来ていて、あたしの靴下を差し出していた。どっしりしたわっかケーキはとても美味しそうで、粉砂糖がかかっていた。そしてオレンジ色の靴下は、もこもこで、とても暖かそうだった。
「ありがとう」
 そう言って、あたしは冷えてきた足に靴下を履いた。「どういたしましてー♪」と明るく答えた夜子は、軽やかな足音を響かせて、台所に戻っていく。
 靴下を履き終えて視線を戻したあたしは、月子がじっとあたしを見ているのに気づいた。
「深雪ちゃん」
 月子はソファの横に座り込んだ体勢で、にっ、と笑った。
「魔女って、すごいでしょう」
「え……?」
 聞き返した時には、月子はぱっと立ち上がって、夜子の後を追うように、台所に戻っていく。取り残されたあたしは今言われたことについて考えた。魔女って? すごいって? ……何が?
「さあさあ、お茶にしようかね」
 お盆を捧げた桜おばあちゃんが、ゆっくりと入ってくる。『月夜』は手ぶらで戻って来、あたしの不審な面もちを見て、左右対称の笑顔を見せた。


「少し元気が出たみたいだね」
「さっきはなんだか死にそうだったよ」
 お茶の準備を着々と進めながら、おばあちゃんたちが口々に言った。あたしの目の前に、優美な形のカップがそっと置かれた。あたしは驚いた。これはおばあちゃんたちが大切にしている、年代物の茶器の一揃いだ。ややクリームがかった地に鮮やかな深紅の花弁の散ったカップと、お揃いのソーサー。金色の縁取りがしてあって、形もとても華奢で、お客様がいらした時にしか使わない、はずなのに。
 驚く間にも、その貴婦人のようなカップに、いい色と美味しそうな匂いの紅茶がなみなみと注がれる。あたしの一番好きな、アールグレイだ。昔読んだ本には、アールグレイはホットに向かないと書いてあったけれど、あたしは温かいアールグレイが一番好きだ。色も綺麗だし、香りがいい。あたしはなんだかうっとりした。ふんわり漂う芳香が頬の辺りをそっとくすぐる。
「お姉ちゃん、ケーキ、見て」
「今日のケーキは特別なんだよ」
 『月夜』が嬉しそうに左右から言ってくる。あたしはそれで、自分が『お誕生日席』に座っているのにも気づいた。気づいたが、何も言わなかった。あんなに落ち込んでいたはずなのに、お風呂に入って、特別扱いされて、高級な茶器で一番好きなお茶を飲めて、美味しいケーキが食べられる……というだけのことで、悩みを忘れていたことに気づいたから。
 そんな自分が、恥ずかしかったから。
「特別って……?」
 恥ずかしさと後ろめたさを隠してあたしは訊ねた。佐織のあの傷ついた表情を無意識の内に思い出そうとしていた。あの時に感じた罪悪感を、こんな簡単なことで忘れてしまうことは、とてもひどいことのように思えたからだ。
 でも。
 あたしは『月夜』の言葉に興味を惹かれて、わっかケーキに目をやった。
 わっかケーキは焼き上がりがわっかの形になっていることから、我が家でつけられた通称だ。五つに切られたケーキの内、一番大きな一切れがあたしの目の前に置かれている。こんがりときつね色に焼かれたケーキはふんわりと甘い香りを放っていて、上に振りかけられた粉砂糖の白さが眩しい。
 ああ、でも。
 ケーキを見るだけで嬉しくなってしまう、あたしは浅ましい人間だろうか。
 と、そこへ、梅おばあちゃんが白くぽってり丸い形の器を手にして身を乗り出した。
「深雪、まだ食べないで」
「ちょっと手をどけてごらん」
 桜おばあちゃんに言われて手をどけたあたしのケーキの脇に、梅おばあちゃんがスプーンで、白いふんわりしたクリームをこんもりと盛りつけた。あたしは目を見開いた。生クリームだ。信じられない。
 あたしの目はたぶん輝いたのだろう。なんて正直なあたしの目。でも嬉しい。わっかケーキには生クリームが本当によく合うのだけれど、普段はこんなことは絶対にないのだ。ああ、でも、とあたしは混乱した。高校生にもなるとカロリーが気になるようになるわけで。太っちゃう。どうしよう。
「魔法、かけておいたから!」
「食べたらきっと元気が出るよ!」
 口々に叫ぶ『月夜』は、心底楽しそうな顔をしている。思わず目を上げると、桜おばあちゃんも梅おばあちゃんもくすくす笑っている。その笑顔は、あたしが子供だった頃、魔女だということを肯定して笑った、あの時の笑顔と同じだ。
「深雪、お食べ」
「そしたらきっと、明るい気分になれるからね」
 二人に促されてフォークを手に取りながら、あたしは聞かずにはいられなかった。
「魔法……?」
「そうだよ」
「あんたは信じないかもしれないけど」
「魔法なんて、誰にでも、簡単にかけられるんだよ」
 おばあちゃんは口々にそう言って、自分のフォークを取り上げた。『月夜』は既にケーキに取りかかっていて、口の周りが――二人はいつもケーキを食べるとそうなってしまうのだけど――クリームでべたべたになっている。それを見て苦笑しながら、おばあちゃんたちはこう言った。
「寒い時にはお風呂に入って温まるとか」
「紅茶を、普段とは違うカップで飲んでみるとか」
「ケーキにクリームを添えてみるとか」
「お客様用のソファに座ってみるとか」
「髪にリボンを結んでみるとか」
「シャツにアイロンをかけてみるとか」
「お気に入りの服を着てみるとか」
「部屋の掃除をしてみるとか」
 二人は口々にそう言って、同時に紅茶をこくりと飲んだ。
 そして左右対称の笑みを見せる。
「……魔法なんて、誰にでも、簡単にかけられるんだよ」
 空を飛ぶだけが魔法じゃない。病気を治すのだけが魔法じゃない。誰かに呪いをかけるのだけを、魔法と呼ぶんじゃないんだよ。
 そう言ったのはどちらだったのか、あたしにはわからなかった。もしかしたら頭の中に直接響いてきたのかもしれない。あたしがそのことについて考えている内に、再び、二人の言葉が聞こえてきた。
「人間は心と体、両方揃ってできてるんだから」
「体が元気になれば、心も元気になるもんさ」
「そうして、魔女っていうのは」
 二人はそこで言葉を切って、あたしを覗き込んで、ひひひ、と笑う。
「そういうことをよーく知ってる人間のことを言うんだよ」
「おかわりー!」
 『月夜』の元気な叫び声が聞こえる。おばあちゃんたちは苦笑して、だめだめ、と言った。
「晩御飯を入れるお腹を残しておいで」
「今夜のおかずはコロッケだよ」
「おおー!」
「やったー!」
 『月夜』は顔を見合わせて、ぱちんと両手を打ち合わせる。本当に楽しそうだ、と思いながら、あたしはいつしか微笑んでいた。あたしの顔を見て、おばあちゃんたちは嬉しそうに笑った。その嬉しそうな様子に、あたしもいっそう嬉しくなる。
 確かに魔女なのかもしれないな、と、あたしは思う。
 確かに、おばあちゃんたちは、あたしに魔法をかけてくれたのかもしれない。
 だってほら、もうずいぶん長いこと、ため息をついてない。ため息しか出てこないくらい空っぽだったさっきまでのあたしに、温かいもの、美味しいもの、優しい気持ちをいっぱい詰めてくれるおばあちゃんたちは、確かに『いい魔女』だ。きっと。
「さ、お食べ」
「美味しいよ」
 二人に促され、あたしは手にしていたフォークをわっかケーキに突き刺した。
 ケーキはとても、優しい味がした。

*   *   *

 次の日の朝、出かける準備をするのには、少しだけ勇気が要った。
 でも、大丈夫だと自分に言い聞かせた。佐織はあたしが野田くんのことを好きじゃないことはよく知っている。あたしにはどうしようもないことだということを一番よく知ってるのは、佐織だ。そして佐織は理不尽な仕打ちをする人じゃないのだ。
 それに、あたしには、魔女のくれたお守りがついている。
 鞄には、小さな薄っぺらの人形が入っている。おかっぱ頭の、おばあちゃんのはさみによって信じられないくらい可愛らしくなった、あたしが作ったあの人形だ。
 どこに行ったかわからなくなっていた紙の人形。駄目でもともと、行方を訊ねてみたら、おばあちゃんたちは顔を見合わせて笑って、そしてあの白い戸棚から、取り出してきてくれたのだ。それもちゃんと三人揃っていた。おまけに破れかけていたところは、ちょっと見ただけじゃわからないくらいに治されていた。同じ形に切った紙を裏からぴったり貼り付けてあって、薄汚れてはいたけれど、昔と変わらずにそこにあった。
 あたしはそれを栞にして、教科書に挟んでおいた。
 ひとつ、佐織にあげようかな、と思うと、何となく嬉しくなってくる。昔話と一緒にプレゼントしたら、きっと面白がってくれると思うのだ。そして今度家に遊びに来た時には、おばあちゃんたちに頼んで、あの戸棚を開けてもらって、一緒に服を作ろう。
「行ってきます」
 あたしは鞄とお弁当を持って、家を出る。
 今日の空は、とてもよく晴れていた。


文・相沢秋乃(あいざわ・あきの)
  子育ての合間に小説を書くのが何よりの楽しみです。サイトでは長編異世界ファンタジーがメイン。よろしくお願いします。

絵・あから
  あからと申します。
  未熟な絵師ですが、参加させていただきありがとうございました。