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この地球の美しさといったら!

 地球周回軌道上の宇宙船から伸びた長いアームが、地球の大気を採取してゆっくりと畳まれていく。古いアームは、時々異常な動きを見せながらも船に寄り添い、取り込んだ空気を船内に送り込んできた。
 まずここまでは上手くいった。シュウは緊張を逃すため、身体に溜め込んでいた息をすべて吐き出した。視線が落ちて目に入った服は薄汚れている。だが、どうせ宇宙船にはシュウ一人しかいないので、気にする必要はなかった。船内に残っている男物の服はこれが最後だから、どちらにしろ着替えようがないのだが。
 薄暗い室内、シュウがコンソールに指を滑らせると、気体分析機のシグナルがいくつか点滅を始めた。少しの間を置いてモニターに映し出されてくる分析結果は、この宇宙船が地球を離れる以前の数値にほど近く、人類が繁栄していた頃の状態に戻っていることを示している。
 オールクリア。
 大気以外の分析が終わっていないとはいえ、その大きく真ん中に映し出された文字に胸が高鳴った。他の分析は、宇宙船の着陸と同時に作動する機械にすべて任せればいい。シュウはマニュアルに書かれていた内容を思い浮かべ、張り詰めていた気を緩めるために、意識して身体の力を抜いた。
 シュウは宇宙船で一番大きな、といっても直径二メートルほどしかない丸窓に目を向けた。青い海面と列島が、薄い雲の下に見えている。生まれた時から変わらぬ地球の外観が、今のシュウには光り輝いて見えた。
 風に揺れる木々の葉が陽光を乱反射させ、緑の香りが肺を洗う。そうやって身体が自然を吸収するのは何より気持ちがいいと、書物データベースに載っている書籍で目にしたことがあった。地上に降りる手順を習得し実行していくことで、自分もそれを感じることができるのだ。生き残った動物がいるかもしれないし、食べられる植物もあるかもしれない。シュウは、今まで経験したことのなかった新しい世界に対する冒険心が、大きく膨らんでいくのを感じていた。

 今からちょうど百年前、『最高水準の科学と地球を愛でる旅』というツアーで、一機の巨大宇宙船が地球周回軌道に向けて飛び立った。パンフレットには、地球が滅亡を迎える時、人類はこのような宇宙船で地球を離れ、新たなる地を求めて旅立つことになるでしょう、という煽り文句が踊っていた。そしてその通り、植物による食料と燃料、繊維生成の装置、及び酸素供給装置や、様々な研究施設、教育設備、書物のデータベース、視聴覚施設など、宇宙船の航行と人間の生活に欠かせない物のすべてが搭載されていた。
 船の定員は二百名だ。そのうち居住区画には半数の百名が住めるようになっている。そして残り百人は、航行が長期にわたる場合を想定し、三ヶ月以内には冷凍睡眠装置で眠りについて月日を過ごすという筋書きがなされていた。
 ツアーは高額だったが人気も高く、募集分は一日で埋まり、搭乗人数は規定の二百名に達した。冷凍睡眠の必要がない三週間の予定で地球を離れた機体は、地球周回軌道をたどり、その窓に様々な角度からの美しい地球を映し出した。
 時を同じく、地上では小さな戦争が起こっていた。小国同士の衝突は、平和な観光旅行中の宇宙船内で話題に上がる間もなく、頻繁に勃発していた小競り合いと同じように収まっていくはずだった。いや、戦争は確かに収まった。だが二国間が睨み合いに戻ったのではなく、生物兵器としてばらまかれた死のカビによって、世界中が戦争どころではなくなってしまったのだ。
 敵国を滅ぼすはずの胞子は季節風に乗って拡散し、その速度は対処法を研究するスピードを凌駕した。二百五十度ほどの熱で死滅するのはすぐに判明したのだが、当然そこまでの高温で地球を包むことはできない。一部分を高温にしても、大気の流れがすぐに胞子を運んできてしまう。一定の時間、紫外線を浴びせるだけで死滅することも突き止められたが、太陽からの紫外線では全滅まで八十年を超える歳月が必要なため、結局人類は為す術もなかった。
 すでに出来上がっていた宇宙船が何機かは地球を脱出できた。だが、カビはその機体内でも猛威をふるい、一機、また一機と、容赦なく大きな棺へと変えていった。元々宇宙に出ていた機体もあったが、環境を長く保つことができないものばかりだったため、脱出できた機体と同じように無機質な塊と化していった。ツアーに参加していた人々は皮肉にも、機外にいる人類の滅亡を目の当たりにすることになったのだ。
 シュウの乗るこの宇宙船は長期滞在型だが、普通に生活していけるのは百人あまりだ。そのため三ヶ月目を前に、残りの百人は冷凍睡眠につくこととなった。それでも彼らは笑っていた。眠りにつかない人間と違い、いつか地上に帰ることができるという夢を見ていられたからだろうか。
 冷凍睡眠時の事件が記録に残っている。途中で起こされることを嫌ったカプセルの責任者が、手動で個別に覚醒させるためのマニュアルを一つ目のカプセルに眠る老人の背に隠したというものだ。その責任者は百個目のカプセルで眠りにつく前に、満面の笑みで言い残したらしい。
 眠ることができなかった副船長は、怒りのあまり同じ苦しみを味わえとばかりに、地球へ降りるための自動操縦プログラムを消してしまった。子孫を地球へと望んでいる人々が、手動での着陸方法をかき集めて事なきを得たが、着陸は難しいものになってしまった。
 実際、慣れない宇宙での生活に、人口はあっという間に減っていった。宇宙船に搭乗してから生まれた二代目は九人。三代目は三人、四代目は一人だった。そして二十年前、宇宙船の着陸準備の際に起きた事故で三代目の一人、父親が亡くなったため、生き残っているのも一人のみ、当時七歳だった四代目のシュウだけになってしまった。いや、冷凍睡眠についている百人がいるため、完全に一人とは言い切れないのだが。
 手動で起こす手段は失われているが、地上に降りさえすれば、冷凍睡眠は自動的にとかれるように設定されている。だが、カプセル使用期間が百年に満たないうちに着陸しなければ、冷凍睡眠が自動でとけなくなってしまう。
 着陸に関するマニュアルを読み尽くし、シミュレーションを重ね、シュウは二十七歳になった今日まで、地上に降りるための勉強を重ねてきた。人類の存亡と百人の命がシュウにかかっている。だが、できたのは教育施設と書物データベース上の学習だけだ。実際に操作できるのか定かではないし、衣服を作る機械のように、船のどこかが破損していないとも限らない。無事に降りられる自信はなかった。

 シュウは船尾にある冷凍睡眠室へと足を向けた。そこに行けばシュウが蘇らせなくてはならない百人がいる。その顔を眺めれば、地上に降りる勇気が出るのではないかと思った。
 父親が亡くなった後、寂しさのあまり冷凍睡眠室をのぞき見たことがあったが、それ以来、一度も見に行ってはいなかった。怖かったからだ。冷たく小さなカプセルの中で青白い光に包まれている人間は、宇宙に送り出した遺体と同じように見えた。
 だが様々な勉強をした今は、カプセルの中身が遺体ではないことくらいは自然に理解できている。
 使われずに古くなったドアは、それでもシュンと小気味よい音を立てて道を空けた。縦に長い部屋の中央、二列に整然と並んでいる冷凍睡眠のカプセルが、部屋に青白い光を放っている。
 シュウの予想通り、昔見た時の恐怖はわき上がってこなかった。というよりも、どんな感情も浮かんでこなかった。カプセルはただカプセルとして横たわり、内包されている人間は命のない人形のように見えた。
 シュウは止まっていた足を前に踏み出し、カプセル上部から見える個々の顔をのぞき込んだ。
 マニュアルを持っているだろう老人、中年の男、中年の女。次に見た子供のところで、つま先側にあるプレートに気付いた。No.4・3・学生・7歳、とある。シュウは、前の三人は何とあっただろうかと戻って確認した。
 No.1・1・科学者・70歳、男。
 No.2・1・調理機器整備技師・34歳、男。
 No.3・2・調理師・30歳、女。
 職業は必要な時に起こすためかもしれないと想像がついた。ただ、通しナンバーらしい数字の次、二番目の数字が分からない。シュウは謎を抱えたまま、プレートと顔を確認しながら再び歩を進めた。
 No.5・1・生物学助教授・41歳、男。
 No.6・2・美容師・24歳、女。
 No.7・1・映画監督・55歳、男。
 No.8・2・女優・28歳、女。
 No.9・1・アートディレクター・49歳、男。
 No.10・2・特殊メイクアーティスト・41歳、女。
 No.11・3・学生・13歳。男。
 No.12・1・工学科技師・31歳、男。
 No.13・1・工学科技師・38歳、男。
 そこまできてシュウは、家族が分かるように番号を振っているのかもしれないという考えに至った。数字が一に戻ったところから一番大きい数字までが一つの家族なのだと思う。
 だがシュウは、家族というものがよく分からなかった。自分が生まれて一年ほどで母親が亡くなったという記録があった。唯一記憶に残る家族である父親も、シュウが七歳の時に亡くなっている。
 時を止めた彼らとシュウの家族は、どちらが幸せだっただろうとシュウは思考を巡らせた。
 厳しい環境で命を落としていった眠らなかった人たちと、地球で生きることを夢見続け、今もまだ眠っている人たち。シュウが生き残っていなかったら、夢は夢だけで終わってしまう。そんなことすら知るよしもなく。
 だが、これから地上に降りて安穏とした生活が送れるとも限らない。廃墟になった建物は残っているだろうが、厳しい自然環境が待ち構えている。それでも宇宙での生活を知らないだけ、カプセルの中の方が幸せだったのではないだろうか。
 彼らが今見ている夢を想像しながら、シュウは二番目の数字を確認しつつ部屋の奥へと移動していった。

 不意にシュウの足が止まった。部屋の一番奥にあるカプセルに目が釘付けになって動かない。明らかに他を見た時とは違う感情が溢れてきた。
 今まで見てきた数々の画像を含め、ここまで綺麗な女性を見るのは初めてだった。色白の肌はまるで血が通っているように赤みが差し、金色の髪はカプセル内の青白い光さえ柔らかく反射している。今すぐに起き上がっても不思議ではないほど生き生きとしているのだ。
 そして、なぜか彼女だけは服を身につけている。興味を持ったシュウは、カプセルを回り込んでプレートをのぞき込んだ。
 ――イブ、アダムと共に――
 通しナンバーもなく職業もなく、ただ芝居の台詞のような一言が書いてある。内容からして、イブとアダムが人の名前だろうということは想像がついた。その名をどこかで聞いたような気はするが、それが誰なのかは分からない。
 ふと隣のカプセルに目が行った。そこにはNo.50の数字が振ってある。発作的にもう一列を振り返ってカプセルを確認した。綺麗に並んでいる。もう一列も五十一台のカプセルがあるということは、全部で百二台ということになる。
 船内人口は搭乗時から完全に管理されていたし、搭乗人員は二百人と記録にも残っていた。冷凍睡眠の装置を増やせたとしても、黙って人間が増えるということはないはずだった。
 記録の曖昧さがシュウを苦しめた。人口の記録すら不確かなのだ、地上に降りるための手順もどこか抜けているかもしれない。
 だが反対に、シュウの降りたいという気持ちは高まっていた。無事に地表に着いたら、地球の自浄作用に守られた環境で、彼女を自分の家族にしたいと思ったのだ。
 シュウはカプセルが並ぶもう一列の方へと足を向けた。まっすぐ端のカプセルへと向かい、そのプレートを見下ろす。
 ――アダム、イブと共に――
 想像していた言葉に奥歯を噛み締め、その顔へと目をやった。男だ。やはり服を着ていて色白で、生気の残る顔をしている。その顔をどこかで見たような記憶があるとシュウは思った。すぐに、乗員の残した美術の書籍だ、と思い付く。そこに載っていた宗教画と呼ばれていたらしい絵画に描かれていたような女々しい顔だ。
 彼らは何らかの理由があり、追加で冷凍睡眠に入ったのかもしれない。新しいカプセル二台から伸びた、だらしなく床を這うコードがそれを示している。そして、並びが違うために数字で家族だと表せないから、こんな文言を記したのだろう。
 それにしても、身体の管理をするために、装置には裸で入るはずが、服を着たままなのは不自然だ。その上、睡眠時の顔色がよく見えるほどの改良が、短期間で行えるものだろうか。それも記録にはなかったはずだ。だが、確かに彼女は眠っている。
 今一度彼女のカプセルをのぞき見ると、シュウは冷凍睡眠室を後にした。

 その足でシュウは船内の記録を集めてある部屋に来ていた。人間二人と冷凍睡眠のカプセルが増えたことについて、どこかに載っていないかと、もう丸一日物色し続けていた。だが、すべて調べ終わった今でも、その記録を見つけることはできていない。むしろ死んでいった人間たちの記録がしっかりしているため、二人増えているという事実だけが謎を深めていった。
 ならば、とシュウは工学作業室へと向かった。修理のために冷凍睡眠装置の部品が二台分、一通り揃っているはずだ。それがなくなっていれば、正体が分からない二人のために組み立てたのだと推察できる。
 だが、そこには皮肉な状況が待っていた。カプセルの外側部分と、部品も半分ほどがなくなっている。だが、あと半分は何かを組み立てた跡を残したまま放置されていた。床には金属らしき粉や、何か樹脂のような物が散っている。他の部品があって冷凍カプセルを作り上げたのか、それとも別の何かを作ったのか、専門知識がないシュウには分からなかった。
 これだけ大きな出来事だ、もしかしたら記録に残さなくても口で伝わると考えたのかもしれないとシュウは思った。だとしたらアウトだ。シュウが一人になった当時は、まだ七歳だったのだ。最後に残っていた父からも、何も聞かされてはいなかった。
 だが、アダムとイブが登場する書物だけはデータベースから発見できた。神が作った最初の人間だなどと記されていた。そんな大仰な名を使って家族だと主張するなど、思い上がりも甚だしいと思う。
 ――イブ、アダムと共に――
 ――アダム、イブと共に――
 蘇ってくる二枚のプレートにあった言葉に、シュウの嫉妬心が煮えたぎった。彼らは地上に降りて二人で暮らすという同じ夢を、今この時も見ているのだ。
 このままでは無事に地上に降りたとしても、あのアダムという奴がイブと一緒に暮らすことになってしまうに違いない。だがアダムだけを始末したとしても、一斉に起き出す人間らの中に、イブを狙う奴が現れるかもしれない。
 始末、などと思っている自分の思考にハッとした。身体が震えるほどの動悸が、シュウを揺り動かす。
 心も震えている。そんなことをしていいわけがない。だが、できることなら彼女と一緒に暮らしたい。その気持ちを振り払えず、シュウはなんとか落ち着こうと奥歯を噛み締めた。
 大きく息をつき、手元の古い資料から顔を上げると、円形の窓の外に美しい地球が見えた。太陽が百年の歳月をかけて浄化してくれた地球だ。とにかくあそこに帰るのだ。きっと地球もそれを望んでいる。
 すぐ側の天井に、後から設置された電灯のコードが垂れているのが目に入った。二つの新しいカプセルからも、だらしなくコードが伸びていたのを思い出す。
 あのコードを外せばアダムは死ぬだろう。軽く蹴飛ばすだけでそれは叶う。いや、蹴るのではない、うっかりつまずくのだ。そうすればアダムのカプセルは動きを止める。もしも二つのカプセルが連動しているようなことがあれば、イブだけを助ける努力をすればいい。
 シュウは熱に浮かされたようにフラフラと工学作業室を出た。
 この宇宙船を地球に着陸させたら、一番に彼女と地上に降り立とう。そして彼女と切れない関係を作るのだ。他の百人が起きても、その誰もが彼女を手に入れようなどと考えないように誰よりも早く、早くだ。
 シュウは、ただ自分の夢のみをブツブツと自らに言い聞かせながら歩みを進めた。

 冷凍睡眠室の空気は、前よりも幾分冷たく感じた。室温は変わっていない。シュウの体温が変わったのかもしれなかった。
 シュウは二列に並んだカプセルの間を奥にあるコードに向けて進んだ。シュウの頭で、鼓動が痛いくらいにガンガンと音を立てている。
 つまずくんだ。つまずくだけだ。悪いのは俺じゃない。そこにコードがあったからだ。むしろ転んで被害を受けるのは俺の方だ。
 無意識に早くなったシュウの足がコードを直撃し、一瞬フラッシュのような光が辺りを包んだ。つんのめって転んだシュウは、頭をもたげてアダムのカプセルを振り返った。ちぎれたコードがヘビの抜け殻のように落ちている。
 立ち上がって中をのぞいた。アダムは身体をけいれんさせていた。カプセルのどこかがショートしているのかパチパチと音を立て、その音が静まると同時にアダムも動きを止めた。
 イブの無事を確かめていなかったことにハッとし、シュウは慌てて彼女のカプセルに駆け寄った。変わらぬ美しさでそこにいた彼女に、ホッと胸をなで下ろす。
 後は宇宙船を無事に着陸させるだけだ。そうすれば百一個のカプセルが人間を起こしてくれる。新しいカプセル故、最初に起きるだろう彼女を連れて、真っ先に彼女と地上に降りればいいのだ。地表の分析をするためとでも理由をつければ完璧だ。
 シュウは喜色満面、冷凍睡眠室からコックピットへと急いだ。

 地鳴りのような音を立て、宇宙船の動力が冷凍睡眠室へと行き先を変えた。円形の窓の外には砂地と水平線が見える。反対側の窓を見やったシュウの目に、木々の葉が揺れているのが映った。
 無事に降り立ったのだ。やり遂げたという満足感に、シュウは声を立てて笑った。そのまぶたに彼女の美しい姿が浮かぶ。アダムの反応が早かったということは、彼女もすぐに起きるだろう。シュウは早々に冷凍睡眠室へと向かった。
 起き上がるところを見られるかと思っていたが、回復はシュウの予想以上に早かったようだ。まっすぐな廊下の中ほどまで進んだ辺りで、彼女が部屋から出てくるのが見えた。
 長い金髪が柔らかく空気と戯れ、水平線に近い海のような色の瞳は、真円のカポーションカットに磨かれた宝石のように輝いている。
 ただその表情は硬かった。アダムという家族を失ったのだから仕方がないが、いつか笑みで溢れさせてやるとシュウは思った。彼女はシュウを認めると、冷たい表情のまま一礼した。
「もう動けるんだ?」
 喉の震えを飲み込み、勇気をふるってかけた声に彼女は、はい、と短く答えた。
「すぐに任務に向かいます」
「任務?」
「土壌の採取と分析です」
 そう言うと彼女は歩き出そうとする。一人で行かれてしまっては予定が狂う。
「手伝うよ」
「そのような命令をお受けでしたらお願いします」
 彼女はまた一礼すると、着替えることもせずに外へと続くハッチのある小部屋へ向かって歩き出す。シュウは慌てて彼女の後に続いた。

 昇降機が地上に近づき、シュウと彼女は地表に降り立った。振り返ると宇宙船は上手く砂地に着陸している。これなら何か起こった時も再び宇宙へ逃げ出せるだろう。早々に調査を開始した彼女を尻目に、シュウはあちこちに触り、匂いを嗅いだ。
 何もかもが新鮮だった。砂はサラサラと暖かく、海の水はぬるぬると指にまとわりつく。手を拭きながら森に近づくと、足元は砂から黒っぽい土へと変化してきた。
 海の匂い、砂の匂い、土の匂い、幹の匂い、葉の匂い。鼻を近づけるとそれぞれに主張してくるその匂いは、絶妙なブレンドでシュウの肺に侵入し、百年の間使い古した空気を隅々まで洗い流していく。
 ふと白い花が目についた。五枚の花弁を持つ繊細な容姿は、彼女の髪にこそふさわしい。シュウはおそるおそる手を伸ばして花を手折り、彼女を振り返った。
 森にほど近い場所の土を左手のひらに乗せたまま、彼女は突っ立っていた。シュウが近づいても微塵も動かない。その土を持ち帰って分析するなら、何か入れ物に入れなくてはならないだろうが、何一つ道具を持っている様子がない。不思議に思いつつも、シュウは彼女の髪に花を飾ろうとした。だが彼女は、それを奪うように手に取り、花に視線を落とす。シュウも釣られるようにその花に見入った。
「質量3.249g、8株のカビが認められます」
「何を言って」
 なんの冗談だと笑おうとして、彼女の目に釘付けになった。眼球からレンズが伸びたのだ。シュウは開いた口がふさがらず、だが呼吸器が凍ってでもいるように息苦しさが増していく。
 彼女はそのレンズをシュウに向けるとレンズの出し入れをして、シュウのあちこちにピントを合わせている。
「あ、アンドロイド……?」
「はい。土壌の採取と分析をプログラムされております」
 彼女はそう言いながらレンズを動かし続け、シュウを舐めるようになぞっている。
 シュウは何もかもに合点がいった。
 大気を分析する際のマニュアルにあった、宇宙船の着陸と同時に作動する機械、それがアダムとイブだったのだ。冷凍睡眠カプセルは着陸で作動するのだから、流用もたやすかったのだろう。地上に最初に降りる二体だから、アダムとイブという名前をつけられたのかもしれない。
 気付くと同時に、冷凍カプセルのプレートにあった職業が脳裏に蘇ってきた。そこには工学科技師が何人か連なっていた。詳しくは書いてなかったが、ロボット工学だったのかもしれない。
 そして、映画監督、アートディレクター、特殊メイクアーティスト。勉強の合間に見た映画と呼ばれる映像のメイキングで、ロボットに皮膚をかぶせているものがあった。シュウの見たのは恐竜と呼ばれる生き物だったのだが。
「衣服に2株、頭髪に1株、口腔内に1株のカビが認められます」
 カビを体内に入れることは死を意味する。シュウは必死に唾液を吐き出そうとした。だが口を開けていたせいか、喉の奥までカラカラに乾いていて思うように吐き出せない。
「ど、どうしたら」
「住人に被害が及ぶといけないので、一度周回軌道に戻ります。再度の着陸は、分析結果を踏まえての計算次第になります。船の外壁の点検が必要ですので、アダムの修理をする時間も考慮に入れてください」
 彼女はシュウに背を向け、宇宙船へと歩き出した。
「俺を置いていく気か」
 シュウは必死で後を追い、彼女の肩を掴んだ。彼女はゆっくり水平に振り返る。
「いえ、そのようなつもりはございません。先ほどのハッチ部分には、カビを除去する装置が設置されていますので」
「除去? どうやって?」
「ハッチ内で私と一緒に300度の熱風を浴びていただきます」
 シュウは呆然としているはずの自分が、なぜか笑っていることを自覚した。カビは体内で菌糸を伸ばし、およそ一週間で人に死をもたらす。だが、そのカビを除去するには身体を燃やすしかないというのだ。シュウの命は、どっちにしても詰んでいる。
 地球が浄化したかったのはカビではなく、醜い気持ちを持った人間だったのかもしれない。それならば宇宙船で焼き尽くされるより、このまま地球に浄化してもらいたいとシュウは思った。
「俺はここに残るよ」
「承知いたしました」
 即答した彼女は、廊下で会った時と寸分違わない礼をすると、シュウに背を向けてサッサと歩き出した。彼女の遠ざかっていく後ろ姿は、金色の髪が陽に映えて美しかった。もうすぐその外見も燃えてしまうのだろう。昇降機が上昇し、彼女は三百度の熱風が吹き荒れる小部屋の中に消えた。

 ふとシュウは、宇宙船が飛び立つ時に噴出される熱のことを思い出した。ここにいたら結局宇宙船に焼かれてしまう。シュウは全力で駆けだした。
 これで間違いなく胞子は身体に取り込まれてしまっただろう。身体に菌糸が張り巡らされていくことを想像すると気がおかしくなりそうだったが、今はそれよりも逃げなくてはいけないことが、シュウにとって救いにすら感じられていた。
 どれだけの間走り続けただろう。もう大丈夫だろうかと振り返った時、宇宙船がうなりを上げ始めた。熱と音をいくらかでも防げればと岩の陰に隠れる。熱は距離が取れたからか思ったほどではなかったが、耳をふさいでも防ぎようがないほどの轟音が地面を揺るがし、巨大な宇宙船が重たい身体を持ち上げて飛び立っていく。
 首を出せるほど音が収まった。岩陰から顔を出したシュウは、小さくなっていく宇宙船よりも、その後に残っている森まで浸食した丸い焼け跡を眺めていた。
 そして自分の中にも同じような焼け焦げがあることに気付いた。
 アダムは死んではいなかった。シュウが殺したはずの男もアンドロイドだったのだ。彼女が言ったように修理をすれば動くだろう。そして彼女と作業を永遠に続けるのかもしれない。
 アンドロイドなら実際殺したことにはならないと思うと、シュウは意味もなく安心した。だが、シュウが行動したプロセスは変わりない。自浄作用が働かないシュウの中では、その焼け焦げが永遠に残るのだ。だが、そんな焼け焦げが在るも無いも関係なく、地球はシュウの身体を受け入れてくれるだろう。

 あの百人が地上に降り立って百年経った頃、一体何人の人間が残っているだろうか。人間よりもカビを選んだ地球の自浄作用を、彼らはきっと甘く見ているに違いない。
 シュウが想像していたように、地球は美しかった。そう、地球自身が守り続けているこの自然こそが美しいのだ。シュウはその一部に帰っていける嬉しさと、母の胸に抱かれる時の嬉しさは同じような感じだろうかと、無意識に重ね合わせていた。
 疲れからなのかカビのせいなのか、思うように動かなくなった身体を下葉のベッドに横たえる。木漏れ日がまぶたを柔らかく撫でていく。この地上で土に溶ける夢を見ながら、シュウは静かに目を閉じた。


文・柚希実(ゆずき・みのる)
  主にファンタジーを書いていますが、現在は他のジャンルにも挑戦しています。少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

写真・写真素材 足成
  写真素材を無料で提供しているサイト「足成」さんから写真をお借りしました。
  写真の撮影者は工藤隆蔵さんです。