目次
A-side
A-side GreenFlash
B-side
A&M-side
C-side 佳辰
D-side
D-side 嫩葉 前編
D-side 嫩葉 後編
D-side 結葉 前編
D-side 結葉 後編
D-side 溟沐 前編
D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
D-side 裾上げ 後編
D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
Trick OR・・・ D-side 前編
Trick OR・・・ D-side 後編
E-side
F-side 不磨 前編
F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
H-side
I-side 前編
I-side 後編
J-side
K-side
M-side Nostalgia
N-side
O-side
O-side 波の上の月 前編
O-side 波の上の月 中編
O-side 波の上の月 後編
O-side 白雨_朧雨 1/6
O-side 白雨_朧雨 2/6
O-side 白雨_朧雨 3/6
O-side 白雨_朧雨 4/6
O-side 白雨_朧雨 5/6
O-side 白雨_朧雨 6/6
P-side 前編
P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
S-side
S-side 02 月魄
S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
U-side 闇蝉 前編
U-side 闇蝉 後編
W-side
W-side Devarana 前編
W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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A-side

01 Angel's Grief





君はオレの天使だよ、アンジェ。






シャルルはそう言ったのに、一度あたしから視線をそらすと、彼の視線の先は、いつも、違う人を見ている。


マリナという冴えない、まるっきりいけてない日本人だ。

彼女は非常に小柄で、凄く幼く見える。若く見えるんじゃない。

東洋人は、みんなそんな感じなのかというと、そうでもないと思う。


よく言えばスポーティーな格好。悪く言えばずさんな、おしゃれとはほど遠い格好をしている。

コンタクトをはずして、眼鏡をかけて、ぼさぼさの頭でアルディの庭を歩いている様をみると、それはそれはびっくりしてしまう。




たまに遊びに来てくれる和矢は、フランス人と日本人のハーフだけど、凄く優しいし、かっこいい。あたしを丁寧に扱ってくれる。

でも、彼もマリナにだけ、この上なく優しい笑顔で微笑むんだ。



もっと気に入らないのは、シャルルの態度だ。

いつも怜悧で、冷徹で、「フランスの華」と呼ばれるくらいの人なのに。

彼に出来ないことはない。

だけど、マリナの扱いは未だに手を焼いているようだわ。

確かに、そういう意味で言えば「世界で唯一、シャルルを困らせることの出来る人間」ではあるわね。




ダイに、「シャルルは、あたしだけのモノになってくれないの。こんなに愛しているのに」とぼやいたことがあった。彼は笑って、明朗快豁な答えを出した。

「そりゃあ シャルルはマリナに首ったけだからね。あきらめな。彼のファム・ファタルは一人だけだ」



あたしのことはアンジェ(天使)と呼ぶのに。

どうして、あたしはシャルルの天使になれても、唯一人の女性になれないのかしら。




02  Angel's Gealousy


わかっているわ。



シャルルがあたしだけでなく、すべての世の中の女性よりも、マリナが大切だっていうことも。

この気持ちが、シャルルに届くコトなんて、ないってことも。ちゃんとわかってるんだから。


あたしはマリナが羨ましい。ちゃんと、それは把握してる。


彼の愛をいっぱいに受け止めている彼女が、羨ましい。


彼女のために創られた薔薇園で、倖せそうに歩いている二人を見ると、

どういうわけか心臓が、痛くなる。



そもそも、世界最高の男を、こういう近くで見てしまうことが間違いなんだ。

他の男が凡庸に見えたって、しょうがないじゃない。



でも、シャルルはわかってないんだ。

優しくされればされるほど、あたしの中の醜いゴブリンがどんどん増殖する。

いっそのこと、突き放してくれれば良いのに。


その愛を、ただひとりじゃなくって、あたしにも少し分けて欲しいだけなんだ。

もちろん、独り占めできるのであれば、全部が欲しいけれど。

それがムリであるのなら。



「手に入らないモノを願う気持ち」がこんなに苦しいなんて、思わなかった。

こんな気持ち、いらない。欲しくなかった。




03 Angel's Vociferation 


物思いにふけることが多くなって、必要がなければ、部屋から出ることがほとんどなくなってしまった。

そんなあたしを心配して、いろいろな人たちが尋ねて来てくれた。

特に、シャルルは毎日、朝と晩にやってくる。


マリナはもっと頻繁にやってくる。

それが気に入らない。


ああ

あたしは、何をしたいんだろう。


そんなある休日のこと。

シャルルが、めずらしく朝早くからあたしの部屋を尋ねて来た。


「今日は何か特別な日だったかしら」


そんなわけない。

シャルルに関係する特別な日は、全部暗記している。

彼は小さく笑って、ほら、と小さな薔薇の花束を差し出した。


「アンジェのために、品種改良していた薔薇が、今朝咲いたんだ。一番を君に、ね。」


ああ、シャルル。

あたしは、ネグリジェのまま飛び起きた。

レディにふさわしくない動作ということはわかっていたけど。


嬉しい表情を隠すのが精一杯だった。


シャルルは忙しいはずなのに、こうしてあたしを尋ねて来てくれて、しかも、あたしのために薔薇を作ってくれた。


何年も前にマリナのためだけに創った薔薇を見せられて、あたしも欲しい!とだだをこねたことがあった。

彼は、それを覚えていてくれたんだ。


素直に、嬉しかった。


こういう風に優しくされた時だけは、もうこれ以上はいらないって思うんだけど。

少し立てば、もっともっと、と思う。


難しいわ。




04  Angel's Wish



あたしのためだけに、創られた品種改良された薔薇。

グリーンの花びら。かぐわしい香り。柔らかいトゲ。

葉のグリーンとの濃淡が美しい薔薇だった。


「さぁ 名前をつける権利を、君に進呈しよう」

Evergreen


すかさず、答えた。

この広いアルディの屋敷で、年中咲き誇るたくさんの薔薇や花たち。

あたしは、シャルルのEvergreenになりたい。


そう言うと、「それは却下」

と言われてしまった。


「どうして」


あたしの膨れた頬をつついて、シャルルは目を細めた。



白金の髪。見上げるくらいの長身。

いつもスマートで、近づくと良い匂いがする。

それに、彼の瞳が好きだった。

青灰色の瞳。吸い込まれそう。


「君のEvergreenは、もっと別の場所で、咲かせて欲しい。いつか、この家を出るときに、この薔薇をもって、そこでたくさん増やしてくれないかな」


「この家を出るコトなんてしないわよ。あたしは一生ここで,シャルルと暮らすの。」








シャルルは両手を腰にあてて、困ったように身をかがめた。


「我が娘ながら、強情なマドモアゼルだね。」

「あら」


つんと、あたしは横を向いた。

こんなことで、あたしの機嫌は直らないわよ。



でも。シャルルが、こうしてあたしのために休日を早起きしてきてくれることは、

ちょっとだけ嬉しかった。ううん、かなり、嬉しかった。




「そういうところ、マリナに・・ママンにそっくりだよ」

「違うわよ!全然似てないわ!」

あたしは赤くなって、地団駄を踏んだ。




シャルルが、吹き出した。

「そら。やっぱり君は、間違いようもなくオレの、オレ達の天使だ」



FIN)







A-side GreenFlash

■01


「・・・やっと着いた!」

アンジェは声を上げて、その島に降り立った。

「気を付けて・・足場が悪い」

彼はそう言って、アンジェに声をかけたが、彼女はひとり、ボートから飛び降りた。

揺れない陸地に降り立ったものだから、三半規管に影響されて、少しだけ躰をふらつかせた。

「大丈夫か?」

彼は続いて降り立った。

そして、これくらい平気よ、と言ってつんとすまし顔をして横を向くアンジェを見て、苦笑する。

アルディ家の令嬢となれば、ボートから真っ先に自ら足を降ろすことは決してするなと教育されただろうに。

彼女の自由奔放さは、彼女の母譲りだ。


突然「ちょっと出かけよう」と彼女が言い出したのは今朝のことだった。

彼はいつもの気紛れだろうと思っていた。

昼を過ぎれば、もっと違うところに買い物に行こう、とか、やっぱり出かけるのをやめた、と言い出すに違いないと思っていた。

だが今回は違っていた。

出かけるわよ、と言われて、彼は驚いて立ち上がった。

薔薇園で、少し元気のない薔薇の鉢替えを行っていた最中だった。

泥まみれの手であったのに、アンジェは、早くしなさいよ、と言って彼の手を掴んだ。


アンジェは財閥の姫らしからぬ行動を取る。


汚れた彼の手を握ることも躊躇わない。

そして時々こっそりお忍びで館を抜け出しては、父に叱られる。

それでも繰り返す。

自分の身の程を知れ、と怒られても、けろっとしている。

「自分の見たことや感じたことでないと信じないことにしているの」

彼女はいつもそれを口癖にしていた。

それが免罪符になるわけではないだろう、と彼が言うと、すぐに怒るのに。


そして誰にでも高飛車ではあるけれど、自分の考えを実行に移せると確信するまでは、絶対に何があっても話をしない。

・・・今回はそのケースに該当するのだ、と彼が理解したとき。

彼らはすでに準備も慌ただしく、アルディ家を出立していた。


彼女はどこにそんな行動力があったのか、いつの間にか手配していた車に乗り込み、戸惑う彼を供にして、ヘリポートに向かった。


長い移動時間であった。


いつもなら、退屈だから話をしようと言い出すのに、アンジェは外を見つめたまま、じっと、考え事をしていた。

その様は、やはり、あの「フランスの華」の血族であると認めざるを得ないほど気品に溢れ、話しかけることの出来ない空気を放っている。


こうも心を引き寄せられる人物は居るだろうか。


確かに、アンジェは欠点も多い。

我が儘で、父親を敬愛するあまり男性蔑視の傾向にある。

けれども、それ以上に、情に深く、頭の回転がよく、そして何度傷ついても屈することを受け入れない誇り高さがある。

彼はそんなアンジェの傍に居られるという喜びを、彼女はわかっているのだろうかと、時々思った。


同じ空を見つめて、同じ花を愛で、同じ時をともに成長する。

鮮やかな晄に、彼はいつも吸い込まれて行く。

目が離せないのだ。

どうにも心が引き寄せられる。

この想いを、一体、いつまで秘めていることが出来るだろうかと思う。


アンジェの、腰まで伸びた髪が海風に吹き上げられて、大きく広がった。

天使の羽に見える。

あの素晴らしい完璧な男性が唯一、彼女を「オレの天使」と呼ぶ。


彼はそこでその様を見て・・・小さく呟いた。


オレだけの天使になってくれないか

■02

彼らが到着した先は、1周5キロ程度の小さな島だった。

無人島で、電灯すらない。

そして昔は小型ヘリで乗り付けることができたそうだが、今では浸食が激しくて、こうして少し離れた場所からボートでしか接岸することが出来ない。

・・・ここはひょっとすると、海に沈む運命の島なのかもしれない。


ごつごつした岩場をのぼり切ると、そこは見晴らしが良い、水平線が目の前に広がる大変に見晴らしの良い場所だった。


古い手すりや、気休め程度に設置された足場などを見ると、ここはほとんど手を入れず、そのままにしてあった小島なのだとわかる。


「アンジェ、いい加減、ここはどこで、何をしに来たのか、教えてくれても良いと思うよ」

彼はそう言って、海風に吹かれる彼女に声をかけた。


海鳥の鳴き声や、島に叩きつけられる波音で声はかき消されたのだろうか。

アンジェは、彼に背中を向けたまま、何も言わなかった。


・・・聞こえなかったのだろうか。


彼はもう一度彼女の背中に向かって名前を呼び、そして同じ事をくり返し言った。


うるさいわね、と言って、彼女は彼を振り返った。

長い移動時間のために、もう、すでに日は暮れそうになっていた。

淡く染まっていく茜色に、奇麗だわ、とアンジェは感嘆した。

そしてその夕陽の晄が、彼女の全身を明るく照らしていた。


・・・逆光で、眩しい。


でも、その晄より、もっとアンジェは煌めいている。

「ここは贖罪の島。アルディ家の所有する無人島よ。正確に言えば、所有権はマリナにあるけれど」

アンジェは薄く微笑んだ。

よく通る声で答えた。

「知らなかったよ、こんなところにもアルディ家の所有島があるなんて」

「私も、つい最近まで知らなかったのよね」

アンジェはそう言って、彼にこっちに来るようにと言って、白い腕を向けて、手招きした。

「あまりそちらに行くと危ない」

彼が慌てて注意すると、平気だよ、とアンジェは笑った。

「あなたが居るから。・・・護ってくれるんでしょう?」

彼女はそう言ってまたくすくす笑い出した。

「危険に飛び込むアンジェは護りきれない」

彼はそう反論した。

「それは避けられない。私はそういう生き方しかできない。・・・それはわかっているでしょう」

その言葉には、返事をすることができなかった。

彼は、彼女が長く憂慮した末に、その結論を出したことを知っていたから。

だからアルディ家の異端児とも言える、彼女の行動は、しばしば一族を悩ませていたが、彼女は一向に改めないので、遂には彼に「お目付役」という素晴らしい役割分担にが割り当てられたのだ。

■03


日没が近かった。

今日はよく晴れていて、そして空気が澱んでいないから、余計に空の朱さが鮮烈に彼の目に飛び込んでくる。

「奇麗な夕焼けだね」

「そうね・・・」

アンジェは小さく言った。

こうして並ぶのは随分久しぶりだった。

彼女の背をとうの昔に越してしまった彼は、アンジェをそっと横目で見た。


凜とした佇まいが美しい。

彼女は憂いも哀しみも知っているはずなのに、いつも闊達で陽気だった。

しかし一度こうして黙ると、非常に寡黙であり、父譲りの気品が溢れていることがわかる。

どちらが本当の彼女なのだろう。

そう思ったこともあった。

でも、それは正解ではない。

どちらも、アンジェなのだ。


「ね、これから・・・あの日没をよく見ていて」

アンジェは彼にそう囁いた。

「何かあるの?」

「良いから!黙って言うとおりにして!一瞬だから」

そして彼女は並んだ彼の大きな手のひらを握った。

彼の爪の中には、先ほどの作業で泥が入っていたから、彼はアンジェの冷たくて細い指の感触にどきりとして、手をふりほどこうとした。

「汚れるよ」

「うるさい人ね・・・少し黙って前を向いて居てよ」

アンジェが気を悪くした風に言ったので、彼はそのまま、それ以上言葉を発することを諦めて、アンジェの手に繋がれて、正面に視線を向けた。


この景色だけは抜群に良い島に、彼女は考えがあって来たようだ、ということはわかった。

そして、これから彼に何かを見せたいのだと言うことも。


時々。

彼女の傍らに居ることが苦しくなる。

良いよ、とアンジェは言うけれど、それでもやはり苦しい。

彼がこれほど彼女に焦がれていることを、彼女は知っているはずなのに、それでも平然としている。そして自分を護れと言う。


・・・それでも抗えなかった。


彼は、どうしようもないくらい、彼女に心を奪われていると認めざるを得ない。


「・・・見て!」

アンジェが叫んだので、彼ははっと我に返った。

そして・・・驚きの声を漏らす。


水平線に太陽が沈む一瞬のことだった。

太陽光が明るく赤く耀いていたのに。

その球体が、水平線に沈んでいき、そして消える、その刹那のことだった。

沈み堕ちる寸前・・・・・


「碧色だ・・・・!」

彼は声をあげた。

鮮やかな、赤ではない碧色が、彼の瞳に飛び込んできた。

ちかり、と光って・・・

次に、大きく晄が水辺線と空の境界の上で横に広がり、拡散する。


「アンジェ・・・!」

声にならない声で、アンジェの名前を呼んだ。

繋がれた手は冷たかったはずなのに、その温もりを今感じる。

彼女は、掌を少し持ち上げて、彼の手に、自分の指を絡めた。


「アンジェ、今のは・・・」

「グリーンフラッシュ(緑閃光)よ」

アンジェは満足げに言った。

グリーンフラッシュ・・・彼はくり返し呟いた。

そう、とアンジェは小さな顎を引いて、頷いた。

「今日なら必ず見られると思ったの。・・・・条件が整うと、見られる現象よ」

「知らなかった」

「でしょうね」

知っていたら、連れてこないわよ、と言ってアンジェは笑った。


落日後の空は、あっという間に闇夜に包まれていく。

水平線のほんの限られた部分だけが太陽の晄の名残を受けて明るかったが、反対側の空の向こう側は、もう星が輝き始めていた。


「戻りましょう」

「・・・アンジェ、どうしてオレを連れてきたの?」

彼は彼女に質問した。

先ほどの、今日連れてきたかった理由はわかった。

気象条件が整っていることを朝知って、彼女は頃合いだと見計らったのだ。

でも、次の疑問があった。

どうして、彼を連れてきたかったのだろうか。

見たかったら、誰か他の供を連れてきても良かったはずだ。

彼女のお気に入りは、彼だけではない。

特に、彼女をこよなく愛する、彼女の父にせがむのが彼女の常套手段だったから、なぜ彼なのかがわからなかった。

■04


「贖罪の島って言ったけれど、ここには別名がある。いえ、贖罪の島と言ったのは、ひとりしか居ないから、こちらの名前が本当の名前ね。・・・・ここは『奇跡の島』とか『愛の島』と呼ばれている」

「愛の島・・・・」

繰り返してばっかりね、あなたは。

アンジェはそう言った。

「あの緑閃光は、ごくまれにしか見ることが出来ない。奇跡の晄だと言われている。・・・・だから、それを見ると・・・・」

そこまで言うと、彼女は言葉を句切った。

何か歯切れの悪いその様子に、彼が首を傾げた。


「・・・・あれを見ると?」

言いかけてやめるのはアンジェらしくないだろ、と彼が言うと、アンジェは少しむっとしたように、横を向いた。

目の端が赤くなっているような気がした。

アンジェは、少しだけ肩を上げて、大きく息を吸う。


「あれを見ると・・・・・真実の愛に目覚めるのですって」

「・・・・・・・」

今度は反対に、彼の方が黙ってしまった。

一瞬、アンジェが言った事がわからない、と言ったように、目を見開いた。

手は繋がれたままだった。

一瞬、そのことを忘れて、力を入れてしまい、彼女が小さく悲鳴を漏らしたので、慌てて力を緩める。でも、とうてい、手を離すことは出来そうになかった。


「もう一度言ってくれないか」

「私は二度は言わないわよ」

アンジェはきっと彼を睨んだ。


「・・・オレが真実の愛に目覚めていないとでも?」

彼がそう言うと、アンジェは小首を傾げて、さぁね、と言った。

彼は極力声を抑えて、彼女に向かってひとつひとつの言葉に心を込めて、アンジェに言った。

どう伝えたら、これは伝わるのだろうか。


「アンジェ。オレもだよ。何度も言わない。言うことが出来ないんだ。オレは君を護ると誓った。オレの名前にかけて。君はオレのファム・ファタルで・・・・それ以外のなにものでもないよ」

アンジェはその言葉を聞くと、頬を緩めて、淡く微笑んだ。

美しい微笑みだった。


あなたはわかってない、と言った。


「私があなたを何とも思ってないと思っている人には、何を言っても無駄だわ」

だから、見せることにした。

彼女はそう言った。


言葉で伝わらないなら、伝わるためのあらゆる手段を講じる。それがアルディ家の家訓なのよ。


知らないわけではないでしょう?と、おかしそうに、アンジェが言う。

そしてちょっと言葉を切って、彼女は彼の顔をのぞき込んだ。

もう、あたりは暗くなり、小高いこの場所から見下ろせる場所に停泊しているクルーズの前面灯が点いた。

戻ってこいという合図だった。


アンジェが彼の名前を呼んだ。

「・・・私はこういう生き方しかできない。

こういう愛し方しか知らない。・・・それでも、良いわね?」

「選択肢はない・・・そうだろう?」

「ええ、そうよ」

「だったら聞くな」

彼は彼女の手を力強く握った。

今度は彼女は悲鳴をあげなかった。

うん、と言って、下唇を少し噛んで、はにかんだ。



ああ、アンジェ。


彼は呟いた。

そして、そっと・・・非常に躊躇いながらも、彼女の頬に手を触れた。

目を細めて、アンジェの頬が紅潮しているのは、黄昏時の光線が照射されているだけではいことを知る。もう日は暮れているから。

・・・・・頬が熱かった。


オレはね、初めて君に逢った時から・・・・・

もう、わかっていたんだよ。

君が、オレの運命の人だと。

ファム・ファタルを定める瞬間は躊躇いも途惑いも感じなかった。


ただ「ああ そうか」と思った。


彼だけの天使は微笑んだ。


オレ達を引き寄せた同じ哀しみを越えて、君はオレに向かって降り立った。


今日、君がここに連れてきたことの意味。

考えようと思う。

そしてどんなに計算されていても、気象条件はその瞬間になるまでわからない。

特にこんな海に面した気象は予測絶対だと言い切ることが出来ない。

それなのに、彼女は彼を連れてきた。


今日、見ることが出来なかったかもしれないグリーンフラッシュを二人で見ることが出来なかった。


偶然の奇跡だろうか。

いや、これは必然だ。


彼女は計算してきたのだ。

今日の気象条件を計算してきた。

そして絶対発現すると確信していなかったから、彼に道中明かさなかった。

確実でないことを予測して動くような行動は、彼女は決して実行しないのに。


気持ちを寄せるために、彼女は彼と一緒に「真実の愛の晄」を見にやって来た。

彼は、彼女を充分に理解していたはずなのに。

・・・彼女を不安にさせてしまった。

■05


帰りのクルーズに乗り込むとき。

彼は、今度は自ら手を差し出して、アンジェを搭乗を介助した。

軽やかに飛び上がり、岸から足を浮かせた天使は、彼の胸の中に舞い降りた。

「ああ、すっかり磯の香りが髪に・・・」

アンジェが顔を曇らせたが、彼はそのまま、胸の中の天使の髪に精悍な頬を埋めた。

「・・・ごめんよ」

彼はそう囁いた。

彼女の愛はちゃんとあった。

そして彼の内なる激しい想いも、彼女は気がついていた。

その上で、良いよ、と彼女は言ったのに、彼はそれを信じて良いかどうか躊躇っていた。


こうして触れることも、彼だけに許された行為なのに。


潮の香りを感じながら、すっかり暗くなってしまった空に耀く星を見上げた。

ゆっくりと離岸するクルーズに乗り込んだふたりは、しばらくの間無言だった。

「また、来よう」

彼はぽつりと言った。

何度でも来よう。

アンジェ、君が見たいと言うのであれば、いつでも来よう。


でも、約束して欲しい。

あの晄を一緒に見るのは、オレとだけ、と。


彼がそう言うと、アンジェは横を向いた。

照れくさそうに、わからないわよ、と否定した。

「私は変わらずにシャルルが好きだし。・・・・・いつかシャルルと一緒にあそこに行くの」

「彼がウィと言うかなぁ」

「言うわよ。・・・言わせてみせるわ。私はシャルルの天使なのよ」

たった今、彼だけの天使だと思い定めた相手は、シャルルのことになるとムキになって声を荒げて抗議する。


彼は声を上げて笑った。

シャルル・ドゥ・アルディがライバル、ね・・・手強いけれど面白いね。

アンジェのチェスの相手をするより難しいことかもしれない。


彼女の携帯電話が鳴った。

圏内まで入ってきたらしい。

間もなく、ヘリポート近くの碇泊所に到着するようだ。

アンジェは通話を始める。

「・・・シャルル!」

電話の向こう側の相手は、彼女の焦がれた相手だったようだ。

ぱっと花が咲くように、彼女の顔が満面の笑顔になった。

優しく柔和な晄が瞳に宿る。

先ほどの彼に見せた顔とはまるで違っていた。


彼はくすりと微笑んだ。


アンジェ。

シャルル・ドゥ・アルディは教えなかったのか?


売られた喧嘩は買う。そして・・・倍返しだ。


帰りが遅いと心配してコールしてきた回線の主に窘められているはずなのに、嬉々として話をするアンジェに向かって近づいた。

エンジン音が大きくて、彼女は彼の近寄る気配に気がつかなかったらしい。

片耳を押さえて、懸命に電話口で何かを言っている。


「・・・あ!」

アンジェは声を上げた。

背後から、彼が携帯電話を取りあげて、回線を切り、放り投げてしまったからだ。

「ちょっと、何をするのよ!」

しばし携帯電話の落下場所を見つめていたアンジェが、目をつり上げて彼に抗議した。

波の揺れで、携帯電話が更に床の向こう側に転がり、やがて壁に叩きつけられたのを見て、アンジェは我慢出来ないと言って地団駄を踏んだ。

長い髪を揺らして、振り返る。

アンジェは彼の名前をフルネームで呼んだ。

憤りが絶頂の時の彼女の特徴だった。


・・・・その時。

彼が、動いた。

「アンジェ」

「・・・・!」


彼は彼女の腰を抱き、彼に向かって引き寄せた。

これまで、彼に何もかも勝っていた彼女は、抗えない力に囲まれて、言葉を失う。

彼はこれほどまでに、力強かっただろうか。

「・・・強くないと護れないからね」

密着した彼の躰は、よく鍛えられて均整が取れていた。

彼女の敬愛する最愛のシャルル・ドゥ・アルディのように。

シャルルも、護りたい人を護るために、強くなったのだろうか。

それとも、元々完璧であったけれど、傍らに居る人のために、更に強くなったのだろうか。


・・・・自分はどこまで強くなれるだろうか。この人と一緒に。


彼が頬を寄せて、彼女に接吻した。

許可は求めてこなかった。

一度だけ、いい?と尋ねるかのように、視線を絡めただけだった。

いつものアンジェなら怒り出して、頬を叩くところだったが、今回はそうしなかった。

アンジェは目を閉じた。


言葉にしなくても。

伝わることがある。

言葉にしないと伝わらないものもある。

選別は難しい。


けれども、彼女の愛する薔薇を、同じように愛でて、やるべき立場でもないのに一生懸命世話をして、常に泥だらけになっている彼を、心から愛おしいと思う。

心が引き寄せられる。


同じ閃光を見て。

これで何かが伝わっただろうか。

伝えられただろうか。


・・・・自分の真実の愛について、自分は何かを確認できたのだろうか。


わからなかった。

答えはまだ出ていない。


それでも。

この胸に居るのも悪くはないな、と思う。


あの晄を教えてくれたのは、マリナだ。

躊躇うアンジェに行ってこいと言った。

彼と一緒に見ておいで、と彼女は上陸許可を出した。


普段は、アンジェには何も口出ししないのに。

今度ばかりは行ってこいと言った。

その晄を見た上で、アンジェの考えていることを実行しろと言った。

シャルル・ドゥ・アルディがこよなく愛する・・・彼の運命の人。

なぜ、あれほどまでに完璧な人物が小さな東洋人である彼女をあれほどまでに愛するのか・・・

わかりたくなかったけれど、少しだけ、理解した。



彼女は彼のぎこちない愛の烙印にそっと、目を瞑った。

目の裏には、あの碧色の晄がまたたき・・・そして、消えた。

それでも彼女の心の中には、あの緑閃光がいつまでも輝いていた。


この晄が消えることはないと、少なくとも今は思う。

だからそれを信じてみようと思う。

根拠の無いことは信じないのに、アンジェはそう思った。


接岸したと連絡が入っているのに。


若いふたりは、しばし、言葉によらない伝達方法で、彼らの真実の愛への目覚めについて伝えあった。


(FIN)



B-side

01 一乃至二



時間が逆転していきます。


最初は、彼との抱擁から。




「これで最後だ」


シャルル・ドゥ・アルディは耳元でそう囁いて、そうして彼は私を抱きしめた。

この上なく、力一杯。

雷に打たれたように、電流を流されたように。

私の全身に私自身が抗うことはとうていできない何かが走った。


私は目を瞑った。


もう、これで思い残すことはない。


・・・本当に?

・・・本当に?

・・・本当に思い残すことはないの?



ここが薄暗い画廊の渡り廊下であり、私とシャルル以外に誰もいないことを彼は良く確認してから、

私を抱きしめた。


そうして、小さく囁いた。よく通る声で。低く短く小さく。


「これが、最後だよ」


そう言うと、私の腰と背中に手を回し、髪の毛に顔を埋めた。

廊下の壁に私を押しつけ、そして強く息も出来ないくらい激しく抱きしめた。


シャルル。


私はこのままこの壁に吸い込まれてしまいたい。あなたと一緒に。

そのまま、彫像になってしまえばあなたが私から体を離すことなく、ずっと一緒に居られるのに。


私がそう思っていることを十分に感じているはずなのに、彼は答えなかった。



―――狡い人。酷い人。



そう言うと、シャルルは薄く笑った。私の顔のすぐ近くで。

彼が微笑む過程がよくわかるほど近くで。


泣きたくなるほど息苦しい想いが、私の声を失わせていた。

ただただ、抱擁に酔いしれているだけで、立っているだけで精一杯だった。





その時のことだった。


廊下の向こうから、がたん、と音がした。

扉が開く音がした。

シャルルに抱き留められている私には、誰かがやって来たという

人の気配はわかったけれど、彼の体に覆われていてそこに誰が立っているのかわからなかった。



けれども。



次の瞬間、私とシャルルは引きはがされてしまった。

力強い風によって。

その人は、シャルルの肩を掴み、絞り出すような声で言った。明らかにシャルルと知り合いで、そして、怒っていた。

「・・・何してるんだ・・・!!!」

彼は言った。

そして、シャルルの胸をつかみ上げた。


私とシャルルは思いもかけず引き離されて、長身の男性に横から力を加えられた格好になったシャルルの横力がかかり、私はよろけて転びそうになった。


あっ 転ぶ。

目を瞑って、地面に転がる自分を想像した。この廊下で転ぶと相当痛いだろう。

そんな悠長なことが一瞬閃いた。


けれども。


「大丈夫か」

シャルルが、私の二の腕を掴んで、地面に向かった私を引っ張り上げた。

勢いで、私はシャルルの胸の中に転がり込む。


状況はなんとなく理解できた。



シャルルの知り合いに、見られたのだ。そして、その男性はシャルルに怒っている。

そして・・そして薄暗がりでよく見えなかったけれど、廊下のあちら側で立ちすくんでいる

茶色の髪の毛の女性も、シャルルの知り合いのようだった。


こんな時でさえ冷静に状況を判断している自分がいやだった。


こんな時でさえ、シャルルの腕の中に収まる自分に酔いしれた。



02 二乃至参




私には二人の私がいる。


人格が多数いるのとは違う。


お互いがお互いを見つめ合っているかのような、そんなかんじと言えば的確だろうか。


ひとりは冷静で常に回りの状況を判断する自分。

この自分が一番強く出ている時間が最近は長い。

もうひとりは、焦がれるあまり、愚かな願いをシャルル・ドゥ・アルディに聞き入れてもらうにはどうしたらよいか、とそればかり考える自分。



携帯電話が鳴った。

待ち焦がれた電話番号からの着信は、その他と違う設定をしてある。

すぐにわかるように。


シャルルは、「手短に言え」と少し苛立たしげに言った。

私がこれから何を言うのか、すでに予測していたようだった。


「―――今すぐに、来て」

私はそう言った。


ひとつ、冷たいため息が向こう側から聞こえた。


「これから行ったら夜中になる。明日にしろ」


彼はどうやら外からかけてきているらしかった。

外の雑音が混じる。

彼の声だけ聞いていたいのに。


私は少し笑った。

「駄目。今すぐ来て。何時でも待つわ」

すると、彼は「わかった。切る」とだけ言って、回線を切断した。


つれない人。


そう思ったけれど、一度だけ口頭で伝えただけの電話番号を彼が覚えていたこと、

メールなどでなく、私に直接電話をかけてきたことを素直に喜ぶことにした。


彼は「わかった」と言った。彼は嘘をつかない。

だから、私に会いに来るはずだ。

本当は、私に会いに来るのではなくて用事を済ませるだけなのだけれど。


そして彼は不機嫌そうに現れた。

予想到着時刻より15分も早かった。読み違えた。

「随分早かったのね」「時間が無駄になる。早く済ませよう」

彼はスーツの上着も脱がずにそう言った。

まぁ、立ってないで、腰かけたらどうなの?と私はくすくす笑って言った。

夜は長いわけだし。

彼は無言だった。

そして彼は不機嫌なはずだ。

その無表情からは見て取れなかったが、私にはわかった。


―――気配が、とげとげしいから、すぐ解る。


「それで何がのぞみだ」

「シャルル・ドゥ・アルディともあろう人が。・・・人に何が望みだ、と尋ねるのね。」

私はまたおかしくなって笑った。

「わかっていることを尋ねるのも、儀礼のうちかと思ってね」

「素晴らしいわ」

シャルルはむすっとして言った。

「用事をさっさと済ませたい。でなければ帰る。私は君に割く時間はそれほど多くしないと決めているので。」

冷たい言い方をする人だ。でも、彼の物言いは、いつものことだった。

でも、彼は私の言うことに従わざるを得ないのだ。


「それならこちらも単刀直入に。私はシャルル・ドゥ・アルディが欲しい。時間限定で良いので。」

「いつまでだ」

「たった今から、明日の昼過ぎまで。・・・そうしたら、あなたの言うとおりにします。」

「わかった。成立だ」

彼はそこで初めて、室内のソファに腰を下ろした。

冷たい目線でこちらを眺める彼は、やはり同じように絶対零度の微笑みを浮かべていた。


「で?私は何を君に提供するのかな?体?だったら早く始めよう。」

「私の言っている意味をよく理解して。そういう下世話な話し方は、私の欲しいあなたでない」


――やれやれ。


彼が少しため息をついた。


「私を買うのであれば、高くつくよ」

「十分おつりが来るわよ。どちらにおつりが来るかはあなた次第だけれどもね」

彼が冷笑した。

「シャルル・ドゥ・アルディを一晩手に入れて、おつりが出る買い物なんてないな」

「あるわ・・。少なくとも、シャルルには、欲しいと思うものが手に入る。」

「なるほどね。」

シャルルは私の答えに満足そうに頷いた。

「三度は聞かないよ。・・君の望みはそれで良いのだね?」

ええ、と私は頷いた。


「これを限りに、一夜の夢で良いわ。

 いつものように、私の相手をして。もう、何度も一緒に過ごしたでしょ」





そうして、その夜から、私と彼は朝まで一緒だった。

言葉通り、片時も離れずに。

彼は一晩中寝ずに、私と向き合ったままだった。

寄り添うのではない。

私に対峙したままの、挑戦的なシャルルに心躍り、心臓が早鐘を打ち、

このまま打ち壊れてしまうかと思った。



そしてほんの少しの休息しか取らず。


彼が息を詰めて私に挑む攻撃に歓喜した。

あのシャルル・ドゥ・アルディを少しの間でも無言にさせ、熱中させたことに踊り狂いたくなるくらいの歓びを感じた。興奮した私はこの貴重な時間を使い果たすことに専念し、彼に注文をつけた。

彼はそれに無言で従った。夜が明けたことにまったく気がつかなかった。

でも、そんなことを求めたかったのではない。言うとおりになるシャルルなんて、彼ではなかった。





・・・・時間だ、とシャルルは言って体を起こした。





私はまだまだよ、まだ時間はあるわ、と言ったけれど、シャルルは聞き入れなかった。


「私の予定は変えられないし、君のために変えようと思わない」


そう言うと、私に身支度をするほんの時間を与えただけで、待機していた車に乗せられた。






都内の約束した場所に向かう。

駐車場を降りて。

薄暗い廊下を抜ければ、すぐそこが最後のゴールだった。

そこに行き着けば、終わってしまう。


「・・・いや」

私はそう言って立ち止まった。

シャルルは私の二の腕を掴んだ。


「行くぞ」


いや、と私はまた言った。脚が鉛のように重かった。

いえ、重くなればいいのにと強く願ったから、脚を動かしたくなかった。


「・・いや。まだ、まだ時間がある。私の言うとおりにして。・・・私を抱きしめて。強く。

 恋人にするように。手を抜かないで。」


引っ張られた腕が痛かった。

このまま腕が抜けてしまえば、彼は申し訳なく思うだろうか。


思わないわね、きっと。

もう一人の私が囁いた。



彼は、そこで初めて困ったように、吐息をついた。

「君は恋人じゃないから抱けない。」

「それはあなたの勝手でしょ。」

私はまた言い返した。

「私は手を抜かないで、と言ったのよ。これが私の希望なの。手を抜いたら、承知しない。

この場で帰る。ひとりで歩いてでも帰るから」




その瞬間だった。



シャルルが、私を抱いた。その胸に抱いた。

お芝居だとわかっていても。私でない誰かを想像しながの抱擁だったとしても。

・・・十分だと思った。もう、これで思い切れると思った。

そんなにまでして、自分自身を身売りして、あの絵が欲しいのだろうか。


だったら、あれはあなたにあげるわ。シャルル・ドゥ・アルディ。


私の望みを受け入れてくれるのであれば。





誠次・マクドゥガルの「自画像」が。そんなにまでして欲しいのだろうか。



私にはわからない。




私にわかっている価値と言えば、シャルルを引き替えにできるほど、その絵には価値がある。

その程度だった。




03 参乃至四



シャルル・ドゥ・アルディに日本で会うとは思ってもみなかった。

特に、こんな場所で。


ここは都内の雑居ビル近いにある画廊で、私はここのオーナーに呼び出されていた。

入り口にはつんと済ました女の子がいて、奥に通されると、先般から話があった絵画の売買の話になった。



私はあまり乗り気でなかった。


なぜなら、祖父から譲り受けた絵画で、これを決して手放してはいけないと言われていたから。

絵画の価値が私にはわからなかった。残念ながらその方面の能力は皆無だった。


最初は両親を通して話をして欲しいと言ったのだが、正当な所有者が私であり成人している以上は、

当人にきちんと話を通すのが筋だと彼は言い張った。


正直言って、どちらでも良かった。


その誠実なコンタクトの仕方が気に入ったので気紛れが働いただけだった。

だがこれに加えて、彼の父親がこのあたり一体を所有する不動産王であることが、気乗りしない私の外出を両親が強く勧める理由だった。


・・あの人達は悪い人ではないのだけれども。どうも権力に弱い。


強い日差しの中を歩いてきたので、しばらくして目が慣れてから、ようやく薄暗い室内に壁に飾られた例の画家の絵に気がついた。

3点飾ってある。


そして、私の所有する「自画像」が並ぶと、この絵は4点になる。

10点とも100点とも1000点とも言われるその作品の、この国内にあるすべての作品がここに集うことになるのだ。


売買は気乗りしません。


そう言ったけれど、私はなんとなくその絵画が気になった。

美術品の価値はわからなかったが、この3点に4点目を加えることは面白そうだと思った。


その考えを述べると、彼はそれでも良いから、考えてくれないかと言った。

本来なら、自分から出向いて話をしないといけないのだけれど、是非この絵を見て欲しかったと言っていた。


なるほど。


この絵は並ぶとそれ相応の迫力というか・・・作者の想いが伝わってくるようなそんな気がする。

ここに自画像が並ぶと。やはり面白いのかも知れない。



そう思うと、少し考えさせて欲しいと言った。


売買契約で提示された金額は、高くもなく安くもなく相場のようだった。

それでも、売ってはいけないよと言われていたので、なぜそれほど祖父が繰り返し私に言い聞かせてその絵を託したのか、少し考えてみようと思った。



それ以来、私は気が向いたときに車を差し向かわせて、その画廊に足を運んだ。

まだ自画像を譲る気になれなかったけれど、この絵を見ていると、どういうわけか、彼を思い出す。

そしてここに自画像が並ぶと、ますます彼を思い出すのであろう。



・・・彼。シャルル。シャルル・ドゥ・アルディ。


今、フランスを出国して、渦中の人になっているフランスの華。

彼が結婚すると言う噂を聞いた。

そのニュースを思い出して、きりりと、胸が、少し痛んだ。


私に話しかける彼は、いつも淡々としていて、そしていつまでもとりとめなく私につきあってくれるかと思えば、突然連絡を絶ったりする。


そんな彼を憎らしいと思う一方で、限りなく魅了されていくのが、わかった。



これを恋というのであれば、きっと間違いなかった。




だから。



その画廊で、ばったり彼に出くわしたときには、心臓が止まるかと思った。

彼は入り口の受付嬢に、マリナ・イケダという人物に会いたいと言って押し問答をしていた。

やがて彼に負けてしまった受付嬢が、情報を漏らすのを聞いて、彼は満足そうに頷いて、

すぐに入り口に背を向けた。



―――シャルル?


私はそこに、声をかけた。おそるおそる。

シャルルはそこで、足を止めた。

間違いなかった。そこには、シャルル・ドゥ・アルディが居たのだ。


私は驚いて近寄った。

彼も少し驚いていたようだった。

ここにいる用件は?と彼が尋ねた。

再会の言葉もなにもなくするりと彼がそう言ったので、私は彼に「普通の再会」を求めていたことに気がついて苦笑した。


どうしたの?どうしてあなたがここにいるの?と尋ねると、彼は時間がないと答えた。

だから私も要件のみ伝えた。

画廊に追加したい絵画があって、ここのオーナーに売買契約を持ちかけられた、と言った。

彼はそこで初めて私に向き直った。「それは誠次・マクドゥガルの【自画像】か」と尋ねたので、そうだと答えた。


シャルルはそのまま少し首を傾けて、やがて、素っ気なく無表情に「あとで連絡する」と言った。

その素っ気ない答え方に私は少し不満を持った。けれどもすぐに気を取り直して

それなら電話して、と言って携帯電話の番号を言った。

彼はじっとその番号を聞いていたけれど、やがて「連絡する」ともう一度短く言った。


彼が来日する日程は、もっと遅かったはずだ。それなのに、日程を繰り上げて来日している。

一体、どういう事なのだろう。

私と会うはずの約束の日を、私がどんなに心待ちにしているのか、彼は全く気にかけていないかのようだった。

きっと、その当日になれば平然としてまた、素っ気ない顔つきで現れるのだろう。


今日の偶然の再会は、運命の再会だと思う私に反して、彼は、とても無感動だった。

それでも良い。彼は、必ず、私に会いに来てくれるのだから。




そして帰宅すると、シャルルからメッセージが入っていた。

【自画像】の鑑定人になりたいというのだ。

そして、その絵画は元々アルディ家の所有物であり、今は巡り巡ってあの画廊に渡ったが、

その自画像だけは、アルディ家の鑑定書がついていないという。

もし売買契約を進めるのであれば、そこに鑑定書を付けたいという彼からの申し出に、私は少し首をひねった。だって彼には何もメリットがないから。


あれこれ考えて、彼にはどうしてもこの絵が必要であること、売買契約に応じて欲しいと思っていること、そして来日の予定を繰り上げたのには彼の結婚問題がからんでいるらしいこと。

そして、私との約束はどうでも良いことなのだという結論に達した。


シャルル。私に攻撃している訳ね。その、護りたい誰かのために。


彼が利益を明らかにしないでこのようなメールを送りつけてくること自体、本来ありえないのだ。

私は、彼に、約束の日時を繰り上げてくれるのであれば、応じようと話を持ちかけた。



自画像の売買は、もうどうでも良くなった。

これが彼と引き替えに出来る有益な札だということに、気がついた私はひとり笑みを漏らした。



私はこれを使うことにした。



メールの返信をする。時間をかけて、ゆっくりと。



まずは売買契約に応じようと思うこと。

鑑定をシャルルにお願いしたいこと。

そして電話連絡が欲しいと言うことのみ。

ごく簡潔に書いて送った。



待つことも最大の攻撃よ、シャルル。




その一方で、あの絵について考えてみることにした。


祖父は、この絵は、この家から米国の大富豪マクドゥガル家へ嫁いで縁続きになった娘のために描かれた画だと言っていた。

祖父もあまりよく知らないらしい。ただ、これをいつか手に入れたいと言ってくる者がいるので、

見極めて、その時が来たら手放しても良い、というようなことを言っていたと記憶している。

その祖父もそのあとすぐに逝去したので、今となっては話を聞くことが出来ない。


おじいさま。


今が「そのとき」のようよ。


私は笑った。



まったく惜しいと思わない。

これが彼と私を繋ぐツールであるならば喜んで使用しよう。ただそれだけだった。

それに、この望みがなければ、あれら3点に自画像を加えることは良いことのように思えた。

まっすぐにこちらを見据えるような、そんな視線の強い人物が描かれている。

自画像と言うからには、誠次本人なのだろう。


・・・そしてこれを縁続きになって米国へ行ったという女性に贈ったのであれば、彼と彼女は深い仲だと予想した。

でもそれ以上考えることをやめた。

思考能力は全部、「シャルルをいかにして呼び出すか」ということに注ぐことにした。



・・・常々、家族からは情が薄いと言われる。

ほとんど外にも出ず、夜中に起き出しては明け方眠る生活も久しい。

そんな生活になるまでは、私も普通に暮らしていたのだけれども。

もう、呆れて、誰も私に忠告しなくなってしまった。


だがしかし、彼だけは。シャルルだけは、私に常に忠告をした。

そして、自分は医者でもあるから、そんな生活を改められるようにするよう医師として助言ができると言った。彼は私が病気なのだと思っているらしかった。


病気。確かに病気だ。恋の病という病気にかかっているではないか。


そう、思った。



電気も付けない部屋の中で、じっと、携帯電話を握りしめて、彼からの連絡を待つことにした。

電話がかかってきたら。すぐにここに来て欲しいというつもりだ。

そして一晩中彼を離さないつもりだ。


夜遅い訪問であっても、家族は誰も心配しないし、詮索もしない。

屋敷の人間にはあらかじめ来客の旨を伝えてある。両親は今は海外に旅行中だ。

ある意味、良いタイミングだった。

たとえ帰国した両親に咎められても、あのフランスの華であるアルディ氏が、私のために来日予定を繰り上げてわざわざ尋ねて来てくれたと言えば、感激こそすれども、叱りつけることはしないだろう。




私はその時が来るのをじっと、待った。




シャルル。早く、早く来て。


そう願いながら。


04 四乃至五




私はシャルルという人間について情報を収集してみることにした。


シャルル・ドゥ・アルディという人間は、とてつもなく人嫌いで、とても気むずかしいという話は誰もが証言する一致した見解であるようだ。


確かに。


彼の返事はいつも素っ気なく、要件しか言わない。

そしてメールを送っても返事さえない。



でも、私と話をするときの彼は、あまりそういったことが気にならない。

いつだったか彼は私に向かって「君は悪くないね」と言ったことがあった。

それが彼独特の賛辞だということに気がついて、とても嬉しくなった。


そうして、彼をもっと知りたいと思った。





元々、彼と知り合ったのは、WEB上でのことだった。

夜に起きて朝に眠る生活になってから、暇に任せて、ネット上でチェス対戦をするのが私の日課だった。

小さい画面を眺めるのは辛いので、大画面モニターを使い、ソファに寝転びながら、一晩中音声変換キーソフトを使用して、ぶらぶら部屋の中で雑事をしながら、チェックメイトが何手で可能か想像する毎日だった。

チェスは好きだ。

頭脳を使えばそれでいろいろなことができる。

先の手を読み、想像し、相手の攻撃方法や防御方法をあれこれ考えながら次の攻撃方法を変更させていく。そのスリルと、充実感と、達成感が何とも言えず好きだった。

たまに気が向けば、ネット対戦を楽しむ。


いつだったか、無敵のユーザーがいると聞いて、アクセスしたのがシャルルだったというわけだ。

でも、彼は私の正体に気がついていたようだった。

何度挑戦しても、まったく勝てなかった。でも、普通のユーザーなら彼はまったく相手にしないし、

それなりのチャンピオンや各国のキングが挑戦しても手が進まないのに、私は食い下がって、

彼を一晩相手に戦うことができた。

最後は負けたけれど。

その時に彼が「君は悪くないね」と言ったのだ。私は一瞬で彼に夢中になった。


何度かそういった時間を持つうちに、彼に自分がほとんど外に出ないで過ごしていることや、そして、彼に一度、ネット診断をしてもらった患者であることを漏らしてしまった。

その時、彼が初めて、あれこれ私に質問をし出した。

チェスの相手では不足で、患者なら詮索してくれるのね。

そんなことを思って少し笑った。


そしてしばらく彼と連絡を取らずにいたら。



どこで調べたのか、手紙が来た。

彼には私の正体なんてお見通しだったわけだ。


近いうちに来日するから、是非診察させて欲しいと言ってきた。

そんなに興味があることなのかしら。別に命に別状ないし、日々の生活にはほとんど困らない。

私は首を傾げた。

でも、彼がこうして私に特別な手段でアクセスしてくれることが嬉しかった。



そして、もう一度、彼に連絡を取ってみようと思った。



―――いた。


彼は、ネット上にまだいた。

やぁ、待っていたよ、とメッセージが入る。本当に待っていたかのような、素早いメッセージだった。


来日の件は了解しました。今度は実践で勝負しましょう。

でも、ここのところ少し外出をしているので連絡が取れないかも。


つれない返事をしてみたつもりだったけれど、彼にはまったく通用しなかった。

彼はわかった、と言って日にちを指定し、回線を切断した。

何がわかったのだろうか。私のことはまったくわかってないくせに。



もう一通、私宛にメッセージが来ていた。伝言を受けると、それはある都内の画廊からだった。

我が家の所有する絵画を買いたいので是非来てくれないかという招待状だった。

売買に応じて欲しかったら、通常はそちらから来るのが礼儀でしょう。そう返事をしたら、

実は事情があって、是非、見せたい絵画がある、という。


私は先ほどのシャルルに言った「留守がちなのでいない」というでまかせを、ここで使ってみることにした。

シャルルの来日までには少し時間があり、それまでには昼夜逆転した生活を改めねばならない。

そのためには、この外出来訪も無駄でないかも知れないと思い直すことにした。

どうせ家にいても退屈だった。だれも私に話しかけもしない。



そんなことを思ったほんの気紛れだったのに、来日はまだ先だというシャルルに、会ってしまったのだ。


これを運命と言わないで、何と言えば良いのだろう。



・・・シャルル。私には、すぐわかったよ。シャルルの声。シャルルの話し方。言葉の使い方。

それだけで、すぐにわかった。


こんな偶然で、聞き間違いかと思ったけれど、でも違った。


これをどうして、喜んでいけないの?



これを秘めたる恋にすることなんて、とうてい出来なかった。

秘めたら、私という人間も消えてしまう気がした。



シャルル。



私を見て。



シャルル。


私に微笑んで。



普通の恋人と同じは求めない。



だた、一緒にチェスをして、私に「悪くないね」という手を打たせて欲しい。

一晩中。あなたを少しの時間でも、考えさせることができたかしら。


ネットの向こうがわの、気むずかしい、私の対戦相手。





そして、私に何か、用事があるのよね?






この、私に。




私の病気のことなのだろうか。

それがかのフランスの華の目にとまるような難病だったのか。


確かに日本の医師はさじを投げたけれど。私はそんなに困っていない。

だってこうしてあなたと話をするにはちっとも困らない。



普通に、晄は感じるし、日中の外出は目が疲れるけれど、完全に闇に呑まれるのは、まだ先の話だ。

こうして夜に活動し昼に眠っていれば、目立って疲れることはない。


大画面で音声変換ソフトを使わないと小さな文字はもう見ることができないけれど。

誰かに付き添ってもらわないと、薄暗い廊下は歩けないけれど。

でも、あなたと勝負する脳神経は薄れていない。



シャルルは、他の人と同じように、私の色素の薄くなった瞳が、そんなに奇特に思うのだろうか。

彼の写真を見た。青灰色の瞳だった。あなたも色素の薄い静かな色の瞳をしているじゃない。

私の何があなたの気になるのか、わからないけれど。


私の何をあなたは欲しいと思っているのか、私の何を利用したいと思っているのか、何となく想像つくけれど。




この奇病は遺伝だという。


眼病で有名な医師の大半に診てもらったが、まったくわからなかった。

徐々に視力が失われていき、そして目の色素が薄くなる病。

以前、シャルルにネット診断してもらった際には、軽度だけれど同じ病気の人がいるので、

研究対象にしたいという話をされたことがあった。

でも、両親は、治る見込みがないのに、研究の対象になるくらいなら、このまま晄が失われた方が良いと言った。


私の慟哭なんてお構いなしに。

だから、私は部屋に閉じこもった。

人と話をしなくなった。

昼間が眩しくて眩しくて、外で遊んだ子供の日々を夢見て何度も泣いた。ひとりで泣いた。

そうして、夜の空だけを眺め、私の目を笑わないネットの世界に逃げ込んだ。


彼が来日して、私に会いたいというのはこの目の診察をしたいからだ。


わかっていた。


私に会いたいのではない。

私という人間に巣くう奇病に会いたいのだ。



あなたは残酷だ。

そして狡い。


単に私の診察をしたいだけならば、こんなにも心を奪うまで時間をかけることはなかったではないか。




久方ぶりに、少し、泣いた。


でも、それでも良いと思った。



彼に会えるのであれば、この病はそれさえも彼に会うためのツールだ。

それで良いじゃない。

自分に言い聞かせた。



この目の晄が完全に闇に落ちる前に。

彼の姿を目に焼き付ける、最初で最後のチャンスなのだと思うことにした。





そんな、拙い決心の、数日後に。


思いもかけない場所で彼に遭遇してしまうことになるなんて、

このときまったく予想していなかった。



シャルル、思わない手を使ってきたのね。



そう、思った。



そしてあなたは、私に微笑むのかしら。冷たく横目で見るのかしら。

私のすっかり薄くなってしまった茶色の瞳をみて、気味が悪いと思うのかしら。



でも、いつも通りに話しかけて欲しいな。



「待っていたよ、―――ノリ。」


そう言ってくれるだろうか。


05 四乃至五の続き



異変が起こったのは、とてもゆるやかすぎて、最初は気がつかなかった。

陽の光が眩しく感じ、そこから薄暗い場所に入ると、とたんに夜目が利かない状態というのか、

いわゆる「夜盲症」の状態から始まった。


次に、盤上のポーン(歩兵)とビショップ(僧正)を間違えた。

そこで初めて、おかしいと気がついた。


それまで、私はこの毎日が永遠に続くと思っていたし、永遠に続くかどうかということを考えたこともなかった。

最年少でジュニアクイーンに輝いた後は順風満帆という言葉は私のためにある、と何度も違う人から言われた。

時には賞賛の言葉であったし、あるときには揶揄の言葉でもあったそれを、私は平服のように常に身に纏っていた。



私の名前は乃理という。おじいさまが名付け親だ。

そして、おじいさまは、一枚の絵画を私に託した。

その画を譲った人物が、これを譲渡するかわりに、一族に生まれる女の子のひとりに「のり」という名前をつけるようにという交換条件を出したと知った。


その昔、アメリカの大富豪に嫁した女性も同じ名前だったとか。若くして亡くなったそうだ。

彼女の栄光と功績をたたえて。我が家は私に同じ音の「乃理」と名前を付けた。


名前は好きでも嫌いでもない。名前には意味がない。

私にとって意味があるのは、ただ、毎回の勝負にどれだけ少ない手数で勝てるのかということ。

どれだけ短い時間で答えを見つけ出すことが出来るのかということだけだった。

「男に生まれれば良かったのに」

そう何度も言われて、自分もそう思ったこともあった。

クィーンの称号は私とっては不足だった。物足りなかった。


男に生まれれば、家督を継いだ後も、この自分の生活の一部を捨てることなく、ずっと続けていくことができたのだろうと思う。


おじいさまが私に託した一枚の絵。


若き画家が描いた「自画像」だった。

昔は、その視線がどこを見てもこちらを見ているような落ち着かないその絵が怖かった。

でも長じるにつれて、その絵を見ても何とも思わなくなった。どちらかということ落ち着く感じがした。

だからといって、とても気に入って四六時中眺めているほど私はチェス対戦に飽きているわけではなかった。



毎日が楽しくて眩しくて、そして、取り戻せないことに気がついた時には、もう遅かった。

夏の強い日差しの中で、眩暈を起こして倒れた。

それが発覚するきっかけだった。

・・瞳の色素が薄くなっている。

そして、視力が落ち始めて、晄が眩しすぎる。

太陽の光が差すように感じ目を開けていることが出来ない時がある。

そういう時間が、だんだん長くなっていった。



両親は慌ててあらゆる眼病治療に高名な医師に診察を依頼した。

けれども原因はわからなかった。

シャルル・ドゥ・アルディというフランスの医師にネット診断を受けたりもした。

世の中は、人に直接会わなくてもその人を診断することが出来るのだ、とその時初めて知った。

そして、この病が、かの高名なフランス人医師でさえ、すぐさま診断を下すことが出来ず、

ただただ「研究対象」でしか取り扱うことができないと知り、両親は私を諦めることにした。


チェスの白さを見ているだけでも眩暈がする毎日を思い返すだけで、今も頭痛に悩まされる。



「乃理は女の子なんだから。良いじゃないか」

彼らはそう言った。

私にはありえない言葉で、とうてい受け入れられなかった。

何か良いのか。

もう、盤を何時間も見つめることが出来ないことがそんなに良いことなのか。

さっさと決められた結婚をして、子供を産んで、一家安泰になるような権力者の妻になれば、私のこれからのことはどうでも良いことなのか。


私は、何度も自問した。人にも聞いた。

でも、自分自身も出すことの出来ない答えは、他人が見つけることができるわけないのだと思い知らされただけだった。



私は遮光カーテンで締め切った薄暗い部屋に閉じこもるようになった。

誰とも口をききたくなかった。

そして、私の瞳を見て、色素の薄い瞳を見て、周囲の人間が哀しそうに目を伏せることが怖くなった。

ただ、私の瞳をまっすぐ見つめ返してくれるのは、そう、おじいさまからいただいた一枚の画だけだった。「彼」だけが、私を見つめてくれた。いつもと変わらずに。


そういう意味で言えば、この自画像はなくてはならない私の友達になったのかもしれない。



本当の友達はいらなかった。



そして、夜に活動し、日が高くなると眠り、そういう昼夜逆転の生活が始まった。

体調が良くて気が向けば、大画面スクリーンに常時移されるネット対戦を見て、自分の対戦相手に相応しいユーザーを物色したり、気が向けば、自分が参戦して、相手を一瞬で負かして愉しんだ。

回線の向こう側にいる、情報の海のかなたにいる人達は、私を賞賛こそすれども、決して馬鹿にしたり、

その瞳はどうしたのと聞いたりしなかった。だから楽だった。

もっと視力が弱る原因になったとしても、私はこの繋がりだけは絶つことができなかった。




そんな日々をもう、どれくらい過ごしたのだろうか。



無敵のユーザーがいると聞いて、私は興味を持った。

是非、対戦したくなった。

そのユーザーがログインする時間がわからなかったので、始終彼を捜して情報の海を彷徨った。

男でも女でも構わない。この対戦には男女の性別も年齢も関係ない。


そしてそれが、シャルル・ドゥ・アルディだと知ったのは、程なくしてからだった。



それは僥倖とでもいうかのような偶然で、彼がログインしている最中に、私もその場所にいた。

すぐに対戦して欲しいとエントリした。

彼と挑戦したいという強者は世界中にたくさんいたけれど、彼は相手にしなかった。

だけれども。


エントリから少しして、私に入室の暗号キーが送られてきた。

私は小躍りした。


そして、最初の対面を迎え。時間の流れを忘れるほど、のめり込んだ。

最後は負けてしまったけれど、私は十分満足していた。

久しぶりの高揚感。久しぶりの充実感。


こんな気持ちはいったいどれくらい長らく味わっていなかっただろうか。



彼の「悪くないね」という賛辞のメッセージが読み上げられたとき。




私は、その顔も見えないし声も聞いたことのない、その人に。


恋をしてしまったのだ。


 やがて彼からのメッセージが、情報収集をして手に入れた彼の数少ない音声にかぶり、

ソフトの読み上げでなく、シャルル・ドゥ・アルディ本人が語りかけているような、

そんな気になった。


実際、この大胆であり独創的でもあり、そしてこれまでに誰も考えつかないような組み合わせで攻めてくる攻撃型の戦略は、私が今まで見たことも聞いたことも戦ったことのない相手のタイプだった。


これはAIや他の人物が代わりに行っている攻撃ではない。

私は彼と対戦する度にそう確信した。


そしてかの麗人の気に入った手で攻め入ると、「悪くないね」というメッセージが時たま入ってきた。

それが楽しみでそれが嬉しくて、私はまた、彼にのめり込んだ。



だから彼が来日することを知って、心躍る歓びを感じた。

彼に再会するための場所や洋服、長らく放置していた癖のある髪の毛を整えることに夢中になった。


再会。


本当なら初めて会うはずでも、私にはそれは「再会」なのだ。



シャルル・ドゥ・アルディ。


彼の名前を呼んでみる。

それだけで胸があたたかくなり、微笑みがこぼれ、そして彼のその明晰で怜悧な頭脳が何を考えているのか知りたくなる。


フランスの華と言われた人はどんな人なのだろう。


もっと知りたい。

もっと話しかけて欲しい。



その画廊で再会したときには、だから、これは運命だと思った。

秘めたる恋にしてその恋の息の根を止めなくて良かったと心の底から思った。



私は唯ひたすら想見した。

シャルルが、私を見定めて、運命の人として、フランスのパリへ。

彼の住む国へ攫っていってくれることを。

そして、彼に永遠に愛される、倖せな自分を夢想した。


その一方で、「もう一人の冷静な私」が「そんなことあるわけないでしょう。現実を見て、ちゃんと見て。」と叫んでいた。でもその声には耳を塞いだ。

とにかく、彼に会わなければ、何も始まらないし・・・・何も終わることがない果てのない夢見の生活を続けることになるであろうことが十分にわかっていた。



だから、長らく陽の光にあたっていなかった生活を改めようとした。


彼との再会はきっと、都内の豪奢なホテルや空港のVIPルームなのかもしれない。

だとしたら、そんな光溢れる場所で、体勢を崩したり、まっすぐ彼に向かって歩けない醜態はさらしたくなかった。


これが恋に堕ちたということであるのだとしたら、私は間違いなく、恋に酔いしれていた。



少なくとも、かのフランスの華が、私に会いたいと言うのだから、それはまさしく彼にとって私は「特別」なのだ。・・・理由はどうであれ。



だから、画廊でシャルルに再会した時には本当に驚いた。

シャルルも驚いたと思う。


彼の白金の髪が眩しかった。

今の私には、間接照明でさえ堪える。でも一生懸命彼を見た。

彼は輝いていた。


よく似た面立ちの女性を携え、華のような微笑みをしていたのを感じた。

もう、私は「見える」ではなく「感じる」のだ。

その空気、音、その人の息づかい、体の動く空流、それらすべてでその状況を「感じて判断」する。


窓口の女性が一瞬でその態度を崩し、彼に見惚れてため息をつくのがわかった。



彼の声は、思ったより低かった。でも予想通りだった。想定範囲だった。


涼やかなよく響く声。そしてその完璧な日本語。歩く歩調も、予想通り。

彼は完璧な人だった。



だから。


その完璧な人が、「マリナ・イケダ」の名前を聞いた時に、少しだけ、吐息をついたのを聞き逃さなかった。切なく甘く、そして、待ち望んだその言葉を、彼は小さく復唱した。

復唱。彼は、同じ事は二度は繰り返さないのに。



シャルル。


あなたの護りたい人はその人なのだろうか。



画廊で彼は私が嫌だと駄々をこねると、冷たく言い放った。

「先に行こう・・・時間だ」

でも私は「いや」と言った。

彼は首を振って否定し、そして私の腕を掴んで、帰れと言った。


「帰ろう」ではなく「帰れ」だった。

私は遣る瀬無くなって、ただただ「いや」と叫ぶ子供になった。



彼が「やぁ マリナちゃん」という言葉がとても切なかった。

「マリナ」と呼ばれたのは、廊下の先にいた人物に違いなかった。

そして、彼女が、彼の「愛おしい恋人」なのだと悟った。

彼は決して名前に「ちゃん」付けしない。

私の薄い瞳で見ても、どうみても私より年上の彼女を、彼は慕わしげに呼ぶ。


どう見ても。彼女は特別なのだ。彼女だけは特別なのだ。


私は動揺を隠すことが出来なかった。

焦点の合わなくなった瞳は、ずっと遠くを見つめた。

もう、何も見えなくなればいいのに。そう思った。



10分で戻る。先に行っててくれ」

彼はそう言って、私の腕を掴み、引きずり出すように彼らが来た道を戻っていった。


そして待機していた我が家のベンツに私を投げ入れた。


「乃理。こんなに具合が悪くなるほど悪化したのは、いつからなんだ」


彼は少し怒っていた。


それは私が目の症状以外はすこぶる健康だと言ったことに対する憤りではなかった。


彼女と約束した「10分以内に用件を済ませる」という、そのことだけに気を取られていたことに、

私はとても憤った。



私は眩暈がした。あまりにも期待しすぎていたことに対して、失望した自分に立っていられないほどがっかりした。


シャルルに夢想していた自分が、いかに甘い妄想を抱いていたのかを感じ、がくん、と昔乗ったジェットコースターの下降曲線のように落下するのを感じた。


「・・・乃理!」


私はそこで失神した。


正直に言えば、まだ意識はあったけれど、もう、私が私でいたくないと自分で拒否した。


私の膝は崩れ、そして目は焦点が合わなくなり・・・そして自分が脳貧血を起こしてその姿勢を保つことが出来なくなったのだと、気づくのは、自宅に運び込まれて、ビタミン注射と点滴をされて随分経過してからだった。


私は自分のベッドに寝かされていた。

その枕の肌触りやスプリングの感じ、部屋の匂いですぐにわかった。


目の前が暗い。

どうやら、目を痛めないように包帯か固定バンドで目を覆われているらしい。

起き上がろうとすると、左腕がちくりと痛んで、自分の腕に針が入っているのを感じた。

「点滴してる。動くな。」

シャルルの声が脇から聞こえた。

「真っ暗で何も見えない」

「さっき点眼した。瞳孔が開いているから、眩しく感じないように包帯を巻いている。急ごしらえだから、眩しかったら言ってくれ。」


今、何時なの?と聞く。

シャルルの答えた時間は、画廊を訪れた時間よりもかなり時間が経過していた。

「・・・契約はどうなったの?」

「終わった。さっき、弁護士が書類を持ってきた。内容を確認し受けとった。書類はそこに置いてあるから、後できちんと誰かに保管してもらうように。」

「あなたが保管してよ、シャルル。」

私がそう言うと、シャルルは駄目だと言った。

「意味がないことはしない」

少しでも繋がりを持とうと思った私の思惑はかわされてしまった。


耳を澄ますと、彼はパソコンで誰かにメールを打っているようだった。

そして何本かフランス語と英語で電話を済ませた。

次に、私に話しかけた。非難の言葉だった。

・・・私に話しかけるのは、最後なのね。あなたの優先順位からすると、私の容態を気遣うことは電話よりもずっと低いということなのだろう。

「乃理。君の血管はこんなに脆くなっていることを主治医は忠告したと思うが?」

「主治医はシャルルよ。・・・私に主治医はいらない」

「乃理。」

もっと。もっと、私の名前を言ってもらえないだろうか。

名前には意味がないと思っていたけれど、シャルルその人の口から発せられる私の名前は私の名前であってそうでないようにも感じる。なんて甘美で・・・残酷なのだろう。

私への呼びかけは、先ほどの「マリナ」のように穏やかで優しいものではない。


「画廊に戻ると約束したのに、戻らなかったのね。・・・約束は守る人かと思ってた。」

「契約が完了してないからだ」

手厳しく、シャルルはぴしりと言った。

・・・ああ、彼はお見通しなのだ。

私はとぼけてみた。こういう時に、目が覆われているというのは好都合だった。

彼の青灰色の瞳や完璧な美貌を見ないで、平気で嘘をつける。

「なんのことかしら」

「二度も言わせるな。・・・・契約は完了していない。」

「契約?あなたとの契約は今日の昼までよ。あなたの時間を占有して、私はあの絵を売却した。契約書も戻ってきているのだったら、もう完了でしょう。・・・それとも、私ともっと一緒に過ごしたくなったの?シャルル・ドゥ・アルディ」

「乃理。」

ため息をついて、シャルルは言った。抑揚のない声だった。

近くのソファに腰掛けていたらしく、彼が立ち上がって私の横たわるベッドの近くまで来る。一定距離で立ち止まる。きっと冷たい眼差しで私を見下ろしているのだろう。


「オレが鑑定をしたのに、気がつかないでやり過ごすと思ったのか?」

「・・・」

「契約に立ち会いたいという話を承諾したのは、君が【自画像】にかかるすべてを売却すると言ったからだ。でも、まだ足りない。・・・さぁ、出せよ。」

「どうしてわかったの?あの【自画像】に、付属品があること」

「見くびるな」

自尊心を傷つけられたシャルルは少し苛立たしげに言った。

「乃理。この話を長く続けるつもりはない。どこにあるんだ。」

「私の枕の下。取れるものなら取ってご覧なさい」


私は少し微笑んだ。

シャルルが大きくため息をついた。

「君はもう少し賢いと思っていたよ。」

「あら、十分だと思うわよ。シャルル・ドゥ・アルディを困らせるぐらいには知恵は働いたと思う。」

「それは蠢愚というんだよ、乃理」

彼は私を愚かな女だと言った。

今度は私がひとつため息をついた。


何を言っても賞賛してくれない。

何を言ってもこちらを向いてくれない。


どこまでも残酷でどこまでも美しい人は、私に「悪くないね」と声をかけてくれたのに。

その言葉さえも否定しそうな物言いで、彼は私に蔑視を送った。


「君がそのつもりなら、こちらにも考えがある」

シャルル・ドゥ・アルディがそう言った。

彼の考えを聞くのが怖かった。

その手順を踏むときは、私と金輪際縁が切れるときなのだ。

「わかったわ」

私は大げさにため息をひとついついて、咄嗟に枕の下に隠しておいた封筒を出した。

シャルルが来訪する前に慌てて隠したものだった。

「教えて欲しいことがあるの」

彼がそれを受けとる前に、私は質問をしてみることにした。

これを受けとってしまったら、彼はその場で立ち去り、二度と会えない気がした。

「なんだ」

彼はつまらなさそうに言った。これが普段の彼なのだ。

彼女を慕わしく呼ぶ時の彼とはまるで違っていた。

「・・・あの人、あのマリナとかいう女性は、シャルルの何?」

「君に応える義理はないよ、乃理」

少し怒った風にシャルルが言った。

ここで彼女の名前を持ち出されるとは思っていなかったようだった。

「これほどまでにシャルル・ドゥ・アルディとも在ろう人が、走り回って。私が見えないとでも思っているの?あの人にこの【自画像】を引き渡したいがために、あなたがこうやって嫌々私のところに通うのはお見通しなのよ」

嫌々、と言ったところを否定してくれるほど、シャルル・ドゥ・アルディは優しくなかった。

「それほどまでにあなたが情熱を傾ける価値が、あの人にあるの?」

「価値はある。」

「あの人は、あなたの何?」

もう一度尋ねた。

聞かなくても良いことを尋ねた。

聞いたらもっと傷つくことをわかっていながら、尋ねた。

彼は少し吐息をついて言った。

「オレのすべてだ」

質問はこれで終わりか、とシャルルは言った。

「もうひとつ。あとひとつだけ。」

「早く言え。時間がない。」

何の時間がないのだろう。彼は大分、時間を気にしているようだった。

「・・・・この結果をあの人にもたらすために、私の目を犠牲にしたの?」

その言葉に、シャルルが少し沈黙した。図星だったわけだ。

今頃になって、彼女の目の診察をしたいと言ったシャルル。

今頃になって、絵の鑑定をしたいと言い出したシャルル。

私のとんでもない申し出を、引き受ける代わりに、売買契約を速やかに行おうとしたシャルル。

そのすべてが、彼女と、あの絵に繋がるのであることはもうとっくにわかっていた。


調べればすぐにわかることだ。

シャルルが訪問する前に、彼が来日の日程を繰り上げたことの本当の理由について推測した。

憶測でも推測でもなく、それは事実だったようだ。

私の目が見えなくなりそうだと確認して、両親がいない頃を見計らった。

そして、売買契約に必ず応じるように段取りを整えた。

画廊には、顧問弁護士と、買い主しか現れないはずなのに、先方の弁護士らしい男性と一緒に彼女は現れた。そして慕わしげに「マリナちゃん」と呼んだ。


・・・それで気がついた。彼女が、イケダ・レポートを書いた人物だと思った。

売り主の画廊のオーナーから、これが5点ある連作で、そのうち彼女がレポートを書いてそれにシャルル・ドゥ・アルディ氏がそのレポートに評点SSを付けている、と聞いた。

彼女その人だと思った。

仕事もプライベートも彼を満足させる、そんな奇跡のような人

彼女は狡いと思った。


「君の目は、治らない」

静かにシャルルが言った。

私はぎゅっと唇を噛んだ。

彼に言われると死ねと言われているように聞こえた。

「でもその進行を遅らせることはできる。それを研究するために、サンプル取得に来た。

君と同じ病の者がいる。だから、決して原因のない病ではないはずなんだ。」

それはなんだか私というよりかはむしろ、シャルル自分自身に言い聞かせているようだった。

「それでいいわよ、酷い人ね。私の進行をもっと早く止められたはずなのに、時期を見て、進行具合を見ていたわけね。・・・その程度の人間であったということがよくわかったわ」

「乃理」

「気休めはいらない」

私は強く言った。

「気休めじゃない。この時期にしか日本に来られなかった。そして君の病気の進行を早まらせたのは、他でもない、君自身の責任なんだ」

シャルルにそう言われて私は言葉に詰まった。

シャルルに責任をなすりつけても仕方がないのに、そうすることで、これっきり会うこともできないという縁を、つなぎ止めていたかった。


「それでは、行くよ。」彼はそれを受けとると、部屋を出て行こうとした。

「シャルル。」

最後に、私は彼にもうひとつお願いを言った。


「明日でいい。それまでにゆっくり休んでおくから・・・また、来てくれる?そして、私をあの絵のところに連れて行って欲しい」


その申し出を、シャルルは「考えておく」と言った。深い哀しみと静けさを帯びた声で。

彼は断らなかった。

あの、付属品の状態と中身次第で次の手を考えるのだろう。



どこまでも酷い人ね・・・



私はそこで渇いた笑いを漏らした。

今は、涙なんて出なかった。その代わりに、何か、自分の手のひらからこぼれ落ちてしまったと思った。

彼と唯一対戦できた自分が特別だと思っていたけれど、そうじゃなかった。

もっと特別な人が、居た。

そしてその人のために彼は滅私の状態で休むことなくその頭脳を働かせている。

時にはその自らの美貌さえ、利用して。



本当に、酷い人。


それでも良かった。利用されても良かったのに。



あの手紙を読んで、シャルルがここに来てくれることを祈ったけれど、

あの手紙を読んで、シャルルがここに来ると言うことは、私の願った結果にならないことを意味していた。

来て欲しいけれど、来て欲しくない。


そんな、答えのない問答に、今夜も眠れなさそうだった。


シャルル・ドゥ・アルディが私を迎えに来た。

半分予想していて、半分予想していなかった。

「行くぞ」

私の点滴の針を引き抜いて、軽く止血するなり、開口一番、彼がそう言った。

「支度をしろ」

「連れて行ってくれるの?」


支度をしろと言うことは回答にならないのかい?


詰まらなさそうに彼は言った。

細くて長い彼の指が私の腕に触れたとき、私はまた甘い刺激に酔いそうになった。

シャルルはまるっきり無視をしたけれど。

身支度を終えた私と彼は屋敷を出た。

彼の車が後ろからついてきた。

行きは同乗しよう、医師として。

彼はそう言って、私と同じ車に乗った。

後ろから彼の車がついて来ているということは、帰りは私と別の場所に行くのだろうと思った。

そして、画廊に直接車を待たせていないところをみると、あまりそこには長居をしないつもりのようだ。


「あの手紙は昨夜のうちに先方に渡してきた」

彼は結果報告をした。

私は背もたれによりかかり、厚い膝掛けをかけなおしながら、そう、とだけ言った。

「・・・・あの手紙。読んだの?」

「読んだよ」

シャルルは言った。私は感想を尋ねたかったのに、彼は結果しか言わない。

「君に宛てた手紙だけれど、手放しても後悔しないね?」

「シャルル・ドゥ・アルディらしくないわね」

私は苦笑した。

「何度も尋ねるなんて、あなたは本当は偽物?」


でも、あの手紙はもう、二度と忘れないくらい印象的で・・・ 覚えてしまったわ。忘れられないのは、シャルル、あなたと同じ特質なのかもしれない。


「文字には効力はなく、記録だから。それを覚えて記憶するのであれば良いだろう」

彼らしい答えが返ってきた。

彼は普段手紙を書かない。書く必要がないから。

だから彼に関して残っている文字は、たくさんの書類の末尾に記された、彼の署名だけだった。


シャルルの中では、文字とは、それだけの価値に過ぎない。

だから手紙というものもあまり、価値がないのかもしれない。

知識を埋めるためのものであり、それに感動したり・・・想いを秘めたりすることはないのかもしれない。

私は彼を知らなさすぎだ。


「ありがとう・・・来てくれて」

彼は夜になるのを待って来てくれた。

その心遣いが嬉しかった。

確かに、あの陽の光の下ではもう、どうしようもなく目が痛むから外出なんて無理だった。

外出するときには目の包帯も取ってくれた。

そして眼球の検査をして、脈を測り、水分くらいは摂れ、と忠告した。

それでも声をかけてくれることが嬉しかった。


「・・・帰るのね、フランスに」

「ああ、今夜発つことになるだろう」

シャルルは長い脚を組み直した。

乃理には説明がいらないから楽だよ。

彼はそう言った。お世辞でも嬉しかった。


後部に付いてくる車は、どうも荷物を乗せているような重量を感じさせるタイヤの摩擦音だった。

そして私の処方箋だろう、屋敷の者に何かを渡して説明しているのを聞いた。

何件か電話をしていたのも・・きっと私の入院先でも指定していたのだと思う。

そして彼はラフな格好ではなく、スーツを着ていた。上等上質の。

これはフランスや日本の空港で、誰に見られても良いように、身なりを整えているのだろう。


「あの人は連れて行かないのね」

「・・・連れて行くよ」

その時だけ、シャルルの声が小さくなったような気がした。

「何か、賭をしているの?」

「どうしてそう思う?」

私は微笑んだ。彼との問答はやはり愉しい。

「・・・・一緒の便だと言わないし。後ろの車に誰も乗っていないし。時間をあまり気にしていないから、待ちあわせでもなさそう。

だから、何か条件が整ったら連れて行くつもりで、そうでない可能性が高いから、そんな言い方をするのかしらと思って」


賢すぎるのとおしゃべりなのとは違うよ、とシャルルは言った。

あなたに言われたくないわ、と私が応えた。


決しておしゃべりではない、私の賢者。


「乃理。」「はい。」

「・・・・君の病は治らないけれど、治療方法は見つける。だからそれで我慢して欲しい。」

「良いわ。しょうがない。」

私は微笑んだ。

彼のすべてが欲しかったけれど、仕方がない。

この失われていく晄を戻せないのであれば、それを嘆いても仕方がない。

元々、私は彼の姿をこの目に焼き付けて起きたい、と最初にそれだけを望んでいたはずだった。

人間って、欲深よね、と言うと、シャルルはそうだね、と同意した。

シャルルのような人でも、貪婪の罪に悩むことがあるのだろうか。

聞きたかったけれど、聞かないことにした。



・・・画廊に着いてしまった。


停車した車の中で、シャルルが言った。

「乃理。・・・入院しろ。しばらく体力をつけて、治療はそれからだ」

主治医として命じる、と言ったものだから、私は吹き出した。

「シャルル。前半と後半が一致してない。あなたはフランスに帰って主治医じゃないし、医師は患者に命じない」

「それは普通の医者の話だ。」

シャルルが笑った。きっと、あの青灰色の瞳で、可笑しそうに皮肉気な笑いだろう。

薄暗くてよく見えなかった。点眼液のせいで瞳孔が定まらないせいもあった。

「オレを誰だと思ってる?オレは世界中のどこにいても、乃理の主治医だ。」


・・・それがシャルルの答えなんだ、と思った。

私はきちんと微笑みを返せただろうか。


この孤独で優しい人は、冷たく人を拒絶する人でなかった。

私との関わり合いはとうに終わったはずなのに。

いえ、それ以上のことを彼は私にしてくれたのに。

・・・今、これがさよならじゃない、と彼は言ったのだ。


「チェスの相手が居ないと、寂しいわ」

また、相手をしてくれる?

私がそう言うと、シャルル・ドゥ・アルディはくすくす笑った。

「考えておこう」


・・・考えておこう。

彼の肯定の言葉は独特だった。

確約は出来ないけれど、彼のその頭脳の片隅では、忘れていないよ、という約束。


その言葉だけで、十分だった。


「もう良いわ。私の用事は、あの手紙がきちんと【自画像】の裏面に収納されて、できれば公開されないことをお願いというか確かめるだけだったの。

だから、シャルルが行ってきて、その目で確かめてきて。

・・・そして結果は知らせなくてもいいわ。なんだかわかる気がするから・・・」

乃理がそう言うと、ではそうしよう、とシャルルからの答えが聞こえた。


「さようなら、私のライバルさん。」

「いつかまた対戦しよう。その時には最高のチェス盤を贈ろう」


くしゃっと、大きな手のひらが私の頭をなでた。

こども扱いするなんて、酷いわ。レディに向かって。

私は軽口を叩いた。


すると、彼は私の両の頬を包み・・・・額にキスをした。

軽く、風のように。

冷たく薄い唇が私の額に押し当てられた。


・・・・車の扉が閉まる音がした。

そしてシャルルが立ち去る足音が遠のく。




シャルル・ドゥ・アルディ。

あなたって本当に酷い人ね。



私の秘めたる恋は秘めるままにしておくことができなかった。

秘めていれば、彼との関係は相変わらず、良好だったと思う。

でも、そのままにしておけなかった。

私は彼の姿を焼き付ける方を選んだ。


そして彼は私の最後の残像として残るばかりか、記憶にも・・切ないけれど大切な想い出を刻み込んでいった。



私はまた、彼と対戦するときの新しい手を考えなければいけないな、と思った。



体は疲れていたのに、どういうわけか軽かった。


シャルル・ドゥ・アルディ。

さよなら。

私の対戦相手。


――――あの人をしっかり捕まえて、チェックメイトと言いなさい。



FIN



A&M-side

01 Satan's grief





君はオレの luminosité du diable だよ。


あたしの大好きなシャルル・ドゥ・アルディと同じ顔で、彼がそう言う度に、

あたしはとても落ち着かない気分にさせられる。


シャルルと同じ青灰色の瞳に白金の髪に、ため息が出るほど美しい造作を持ち合わせる、

もう一人の奇跡のような人。シャルルの片割れ。

そういう言い方をすると少しだけ目を細める。これは彼が怒っている印だ。


ミシェル・ドゥ・アルディは初めて会ったときにそう、あたしに言った。

あろうことか「悪魔の輝き」ですって!


あたしはシャルルのアンジェ(天使)なのに。



見た目はまるっきり彼と同じなのに、その底意地の悪さと、良く響く声だけがシャルルと違う。

でもそれはその酷薄な唇を開いて、発せられる言葉を聞かないとわからない。

残酷な言葉なのかこの世の楽園に誘う言葉が出るかによって、シャルルなのかミシェルなのかようやく区別が付くくらいだ。

だから、あたしはできるだけ彼に話しかけないようにしている。



そもそも、ミシェルと初めて会った時が最悪の出会いだった。



それは、あたしのお誕生会の日。


忙しい中、シャルルが都合をつけて時間を作ってくれた、大切な大切な短い時間。

忙しいシャルルが、あたしだけを見てくれる時間を作る。

それはどんなプレゼントにも勝る、最高の贈り物だった。

・・・マリナはいつも暇そうだけれど。


出先から戻るよ、というシャルルのコールを受けて、その会の始まりを本当に楽しみにしていた。


その集いは毎年催されているけれど、マリナが、今年はとびきりの来賓を招いているの、と嬉しそうに言った。

とびきりの来賓?主賓はあたしでしょ。主賓が知らない来賓なんて、聞いたことがないわ。


つんと横を向いてマリナにそう言うと、彼女はちょっと笑って、まぁ会ってみればわかるから。

とそう言った。


それが、ミシェルだった。


あたしは、あろうことか、シャルルとミシェルを間違えた。

マリナやダイとは家族の抱擁ではなく、再会の握手を交えていたし、朝出て行った服装とも違う。

あたしは、コールよりも早く帰還したシャルルが、あたしに会いたくて急いで帰ってきてくれたと思い込んで。


そうして、レディにあるまじき事に。

ミシェルに抱きついてしまったのだ。しかもこの上ない極上の笑みで。

ああ、本当に口惜しい。

その行為に、最初彼は戸惑ったように、体当たりをしてきたあたしを受け止めた。


「これがシャルルの遺伝子か。まるっきり半分だな。」

シャルルよりもずっと低いバリトンがあたしの頭の上から降ってきて、そうして、何かが違うようだとようやく気がついた。



良く良く見れば。

髪の毛の長さが少しだけ違う。

そして、あたしを見る視線が柔らかくない。いつもなら、真っ先に抱き上げてくれるのに。

「オレのアンジェ」そう言って、優しくキスをしてくれるのに。

その他のパーツは全部同じであるのに、どういうわけか、声を聞くと、シャルルではないということがわかってくる。


戸惑った顔をしていたのだろう。あたしにマリナが説明した。

「初めてではないけれど。ミシェルよ。シャルルの双子。

 何度か写真を見せたわよね。それからグリーティングカードも毎年もらっているでしょう」

すっとあたしは表情をなくして、ミシェルから離れた。

「この無表情加減、シャルルそっくりだよね」

「いえミシェルでしょう」

周囲のやかましい客人達が、そんなあたしの反応を観察し始めるころ、シャルルが戻ってきた。



玄関先の広間でのやり取りに、この館の主であるシャルルは、ちょっと驚いたように目を見開いたけれど、すぐに面白そうに皮肉たっぷりに笑った。

「アンジェ。君はミシェルとオレを間違えるくらい、ノンアルコールのカクテルを飲み過ぎたのか?」


ああ、シャルル。どうしてそうなってしまうの。

それもこれも、マリナがきちんと来賓について情報を流さなかったからだ。


そう軽く睨むと、今度はシャルルは自分と同じ顔の、ミシェルに向き直った。

「久しぶり」

「今日はお招きありがとう」

こういう素直な会話は。本当に何年ぶりなのだろうとマリナが少し嬉しそうに、呟いた。

この二人は一緒に写真を撮ることがない。

だから、あたしはシャルルとミシェルが並んでいるところを見ていないので、比較できないままでいた。

双子だから、似ているのは当たり前なのだろうけれど。

彼らはよく似ていて、そしてまったく違っていた。会話しているとわかる。


出会いも最悪だったけれど、その後のあたしへの言動は、本当に腹が立つとしか言いようがない。






luminosité du diable = 悪魔の輝き


02  Satan's gealousy




シャルルとミシェルは何もかもが違う。外見は例え同じであっても。


たとえば。

あたしが何か、失敗してしまって、どうにもならないことに対して、涙を流していたとする。

すると

シャルルは

「涙を拭いて。オレのアンジェ。ひとりで泣くな」という。

ジルは

「涙を拭いて。まずはそこからですよ。そして一緒に何が一番良いことなのか考えましょう」という。

セイジは

「泣いても解決にならないだろ」と冷たく言う。そして、乱暴にあたしの涙を拭う。

アルディ家やここを訪れる人達の発言は千差万別だ。


・・・でも。

ミシェルは。


無視するのだ。このあたしを。


そうして辛辣に言う。

「涙を流す行為には意味がない。単に異物を流し出すだけの行動だ。それに理由を求めてどうする。

 君の名前どおり、慈悲の心がそうさせるのかい。だとしたらとても無駄な機能だね。是非、削除するべきだ。」

そう言うのだ。

あたしは悔しいけれど、これで一番涙が止まる。そうして涙していても口を開く。

「解決しないことを嘆いても結論は出ないでしょ。あたしは今、一生懸命考えているの。体の老廃物を押し流しながら。考えながら、涙で瞳を洗っているの。同時にできるのだから、機能的だと言って欲しいところだわ」

この言い返しのどこがミシェルは気に入ったのかわからない。

彼は薄く笑うと、悪くない答えだ、と言う。

けれど、すべてにおいて、あたしとミシェルのやり取りはこんな感じなのだ。


「そっくりよねぇ 二人とも」

「似てる・・・さすがアルディ家。遺伝は恐ろしいまでに確実だ。」

マリナとダイがそう感心して言う。あたしはまた、ぷいっと横を向いた。

「けれども、ミシェルがまたこうしてアルディを尋ねて来てくれることが嬉しい」

ジルがそう言って微笑むものだから。

あたしはミシェルが嫌いで、ここにはそれほど頻繁に来て欲しくないのだと言い出せないでいた。



でも、シャルルと一緒にいる時のミシェルは、何となくだけれど、穏やかな気がする。

これまで離ればなれで暮らしていたから、きっと何か感じ入るところがあるのだろうか。

あの二人にはそんな感慨はあてはまらないと思うけれど。


そもそも部屋が余っているのだから、一緒に暮らせばいいのだ。

どうして、ふいっと現れて、そしてふいっと帰っていくのだろうか。

ここはミシェルの生家でもあるはずなのに。

これを漏らすと、周囲の誰もが少し哀しそうに微笑む。

まだ、アンジェには早い話よと言われると、あたしは腹が立って仕方がない。


あたしはシャルルのアンジェなのよ。どうして彼を知りたいと思う気持ちをとめるの。

これは誰にも出来ない事じゃないの。そうはいっても、シャルルがこの件に関して口を開くとはとうてい思えなかった。



だから、気が進まなかったけれど、シャルルではないもう一人のシャルルに、思い切って聞くことにした。


03 Satan's vociferation



あたしがミシェルの来訪を待つ、というのは人生初めてのことだった。

ミシェルはいつも思いもかけない時にやって来る。

そして思いついたように帰っていく。泊まったことはないし、シャルルやマリナがいない時にやって来て、邸内をぐるっと散歩して帰るだけのこともある。

ミシェルは、誰かに会いにここに来ているのではないのだと思う。

この館と、この館に住まった人を偲んでいるのだ。

でもそれはそれほど待たなくてもすぐにやって来た。

いつものように、思いもかけない時間に、彼はやって来た。


庭園の中央。

そよぐ風に髪をなびかせて、ミシェルは座っていた。

噴水の脇で、ベンチに腰掛け、長い脚を組んで、煙草を燻らせながら一人考え事をしているかのように微動だにしないミシェルの前を、あたしはわざとらしく、偶然を装って横切った。

「あら、ミシェル・ドゥ・アルディ。ごきげんよう」

相変わらずあたしを無視した。

目に入っていないわけではない。その青灰色の瞳がちょっとだけ動いたから。


「そんなにこの庭園が好きなら、ここに住めば良いのに。ここはあなたの生家でもあるのだから。・・あたしはあなたが嫌いだけれどね、ミシェル・ドゥ・アルディ。」



「君の話は矛盾している」


おもむろにそう言うと、ミシェルはお話にならないね、と肩をすくめた。

「オレのことが嫌いなら、どうして一緒に住めば良いのにと尋ねるんだ?」

「そういうミシェルこそ矛盾している」

あたしは言い返した。脳内のありとあらゆる部分を刺激しながら、彼にどう切り込んだらいいのか、瞬時に思いつく限りの手を考える。チェスをしているような感覚だ。

「あなたを嫌いというあたし個人の感情と、一緒に住みたいのに住めない事情を持つ人に提案をするのは、因果関係がなく、まるっきり関連性がない。そこを矛盾ということ自体が矛盾している。」

ぴくり、とミシェルが眉を動かした。挑戦的な青灰色の晄が徐々に強くなってくる。

少し嬉しそうに、薄い唇の橋を持ち上げて、そこでようやくあたしを視界に入れた。

「さすがはシャルルの半分だ。」

意地悪くミシェル・ドゥ・アルディは言った。

「もっと言葉少なに言え。アルディの人間なら。必要以上の言葉は浪費でしかない。」

「・・必要なときに言葉を発しないのも、時間の浪費だと思うけど」

「今の言葉は説明に不十分だ」

ああ、要は、どうしてこういう話をするのか、説明しろと言う訳なのよね。

わざとらしく、あたしは肩をすくめた。ミシェルがやったように。

「お話にならないわね」

「アンジェ」

名前を呼ばれてぎくり、とした。

ぎらり、とあたしを睨み付ける男の人がいた。一瞬息をのむ。

有無を言わさない強い言い方。そして人を傅かせるほどの威圧感を持つこの雰囲気。

煙草の灰が、落ちそうになっていた。彼はそんなことは気にしないで、こちらを睨み付けている。

たとえ、あたしでも容赦しないのだ。これがアルディの男なのだ。

そう思うと。体中の血が打ち震えて、頭の中がすっきりしてくる。目が見開いてミシェルを睨み付けている格好になる。きっと今、あたしも、ミシェルと同じ微笑みをしているのかもしれない。

不謹慎だとマリナが困ったように言うかもしれないけれど、どういうわけかわくわくする。


シャルルがいつか言っていたことを思いだした。

「あいつの狂気はまだ鎮まってない」

確かにそうだと確認した。たった、今。

そして彼の触れてはいけない話題の一つがここ、アルディ家を不定期に訪れる理由にあるのだということも確信した。



04 Satan's wish




天使のようなカーブに、物憂げな微笑み。気品あるけれど静かな青灰色の瞳。

それはまさしく、シャルルと同じだったけれど、ミシェルにはどこか・・・そう、暗くて

拭いきれない悲しみがあった。はっきりと強い艶めくバリトンが響いた。

「シャルルはどうやら教育という大事な調教を忘れてしまっているようだね。

 売られた喧嘩は買わねばならぬし、やられたら倍に返せという家訓を君は知らないらし

い。」

アルディの家訓を忘れた訳じゃないだろうな。

ミシェルがそう言った。とても、挑戦的に。だからあたしも挑戦的に言った。

「あなたのIQの足元にも及ばないけれど、ミシェル。でも、あたしも一応アルディ家の人

 間ですしね。その言葉は撤回するか、でなければ、変更して頂戴。

 投げたパイは引っ込める事なんてできやしない。

『やられたら倍に返せ』?ミシェル。あなたはあたしにやられたと思っているのかしら」

そうせせら笑うと、ますますあたしの頭が冴えてくる。挑発しているのは十分理解した上

でのことだ。

ミシェルはくっと笑うと、悪くない、と言いながら煙草の火を消した。そして組んでいた

長い脚を解いて、立ち上がった。


「それではアルディ一族で最も傲慢で最も愚かなMademoiselleに耳を傾けてみることにし

よう。途中、オレが優位に立ったり、最後の切り札を君が出しそびれたら・・

 切り札なんてものがあるならね。」

「わかっているわ。売られた喧嘩は買わなければならない。負けたら、ミシェル。あたし

は永遠に『ドゥ』を名乗らないことにする」

「良かろう。あまりにも少ない見返りだが、それで我慢してやる。暇つぶしとして。」


―――何から何まで腹の立つ人だ。


「それで?君の考察を聞こうじゃないか」

「その前に、行くところがある」

シャルルが憂えたまなざしで、吐息をつくことがある。

それは決まって必ず、ミシェルがシャルルに連絡もなく黙ってこの館を訪れて、そしてメッセージも残さずに帰って行ったと報告を受けたときだ。

決して、シャルルとミシェルが断絶されているわけではなかったけれど、シャルルのため息は実に切なくて、マリナでさえ、ジルでさえも癒すことが出来ない。

それなら。やっぱり、シャルルのため息の源から、その理由を引き出して聞かないといけないのだ。

あたしはくるりと背を向けると、シャルルに着いて来て、と行った。


シャルル、ごめんなさい。あたしはこれから、シャルルの言いつけを破ります。


着いたところはアルディ家の庭園を抜け、薔薇園を抜けたその奥。

そこは小高い丘になっていた。脇には小さな泉があり、一面には寒さに強く、できるだけ長く咲くことが出来るようにシャルルが品種改良した薔薇が植わっていた。音はすべて薔薇の蔓に吸収されて、あたし達の足音しか聞こえない。静かな、静寂だけが続く場所だ。小高い丘だから、庭園より風が少しだけ強かった。アルディ家にはあまり相応しくない、素朴で自然に任せたままの場所。そこには地下に下がる階段と手すりがなければ、自然に出来た丘と間違えるほど、ごくさりげなく造られた場所だった。

「・・本当は、もっと花が咲いて、蔓を延ばしてから、ミシェルを呼ぼうとシャルルが言ってた。」

「・・・それで?」

「それでじゃないでしょう。ミシェル・ドゥ・アルディ。ここはあなたとシャルルのママンのお墓なのよ!」

「いつの間に移したんだ。断りもなく」

そのときだけ、ミシェルが感情を露わにした。不快感。そう、その言葉がぴったりだった。

「もう、ずっと前からよ。そしてミシェルがこの館に現れるようになってから、急ピッチで進められた。

・・・ミシェル・ドゥ・アルディが厭がるかも知れないけれど、ここは、自分とミシェルがかつて住んだところで、やはりママンはここに居て、一緒にいる姿を見守りたいのだと思うって・・」

「くだらない感傷だな」

ぴしゃりとミシェルが言った。あたしは憤りに任せて、言葉を選ぶことを忘れた。

「くだらない?くだらないと言うあなたのほうが、くだらないわ。」

風がまたひとつ、吹いた。

「死者に意志はない。死んでしまえばただの肉片になり薔薇に還る。ただ、それだけだ」

「いいえ、違う。」

あたしは言った。あまりに強く言ったので、ミシェルがちょっとせせら笑った。

「君は発言が感情に左右されがちだ。そして、論理的であることを時々失念する。」

「いいえ、先ほどの続きは終わってない。」

そう続けた。

「これがあたしの答えよ、ミシェル。シャルルはずっとあなたを待ってる。かつてひとつであったものが 欲しているのよ。ミシェルがここにほんの短い時間しか滞在しないのは、あなたが言うところの説明の 付かないもの、つまり矛盾があなたの中にあるからなのよ」

「オレは矛盾もしないし、間違えもしない」

笑った。冷たく笑った。

「根拠のない結論はやめろ」

「いいえ。あなたはこの館に特別の思い入れがあるのがわかる。事情を知らないあたしでもわかる。

 そして、シャルルとミシェルのママンが過ごした館で、あなたたちが生まれた場所だもの。

 この館を散策しているのは、何かを捜していたんでしょ。」

その時初めて、彼がぎくりとした表情をした。

「それがこのお墓じゃないの?シャルルがお墓を移したのは知っていて、でもこの館の中のどこかだろうと検討をつけていたのよね。でも彼に聞くことができずに、こうして短い時間を探索してたんでしょ。

随分増改築したしね、ここも。ミシェル・ドゥ・アルディが捜してもわからないなんて。」

「小さな探偵が付きまとっていたからね。時間もあまりないし。」

ミシェル・ドゥ・アルディがそう言った。ため息を一つついて。

そうして少し下を向いて、じっと、地下に続く階段を見つめていた。

この先に、シャルルとミシェルのママンの棺がある。

アルディ家の人間は土に還らない。薔薇に還ると言われている。

だから、シャルルはここ一面を薔薇で埋め尽くしたんだ。いつか、自分たちもここに入ることを夢見て。

扉には、これも新しいことを思わせないように配慮された大理石の扉がついていた。

薔薇の花を摘んで戯れる天使が模されている。そしてそこには二人の天使がいた。よく似ているけれど、お互いがお互いを見て、向き合っている構図だ。

あたしはこれをデザインしたマリナが、シャルルとミシェルを模したものにしたということを知って、

ミシェルではなくあたしの顔にして欲しいと何度もねだったことを思いだした。

このときだけは、マリナはあたしに「駄目だ」と言った。


ミシェル。あたしはだから、ミシェルが嫌いなんだ。

シャルルやその他の人の気持ちを知っていながら、それを感謝する表現の術を知らないミシェルが思い出そうとしないただ一つの感情。それは『家族の愛』だ。ママンが死んでしまって、その後、随分と、この言葉を忘れているのだ。

「言葉が足りない時も、時間を浪費する。これが原因で取り戻せない状態に陥ったとき、それを取り戻そうとするまでに時間を浪費する。以上、あたしの考察よ」

そこまで言うと、ミシェルはおかしそうに笑った。

「・・・反撃のチャンスがないね」

「反撃?この理論にあなたはまだ反証できない。証明できないことを証明していないから。」

「君は、証明できるというのかな?」

「できるわ。」

あたしは笑った。あのミシェルを閉口させたのだ。愉しくて仕方がない。




05 Le sourire du diable



あたしは小さな鍵をポケットから取り出した。

薔薇の形をした小さな鍵だ。

「これはこの扉の鍵よ。ひとつしかないマスターキー。」

あたしはこれをミシェルに渡した。

「これがあたしの最後の切り札よ。これは誰にも見せてはいけないと言われていたから、

誰かにこの鍵のことを言うのは初めてよ。だから誰もコピーを持っていない」

そうして、最後の切り札を使うことにした。

「ミシェルがもし、必要以上は無駄であり浪費であると言うのであれば。これは感傷からできている至極無駄なものよね。なら、捨てて。今、あたしの目の前で。あなたは捨てられない。これがあたしの証明。」

全部、出し切った。ミシェルはじっと、青灰色の瞳であたしを見ていた。

何かを試すように、何かを計るように、何かを・・探るように。あたしの思惑を探っていたのだろう。

その視線は、今のシャルルには持ち得ないものだった。

「面白いね」

今度は悪くないね、とは言わずに、面白いね、と言った。

そうして。


「―――――――あ。」

ぽいっと、投げ捨てたのだ。泉に向かって。鍵を。

ぽちゃん、と音がして、泉に鍵が沈んでいく。

「・・・!!!!ミシェル!ミシェル・ドゥ・アルディ!」

「くだらないね」

ミシェル・ドゥ・アルディがそう言った。そして、風で乱れた髪を掻き上げた。

その仕草はあたしのシャルルとまったく同じだった。

「君の話を聞いている時間ロスしてしまった。帰る。」

「ちょっと待ちなさいよ!」

あたしは激昂して言った。極力レディらしく振る舞ったつもりだが、限界だった。

「何してるのよ!あのキーひとつしかないって言ってるでしょ!ミシェル・ドゥ・アルディ!

あたしのよ!返してよ!」

あたしは地団駄を踏んだ。ああ、もう我慢できない。

「地団駄を踏むアルディ一族か。最悪最低だな。」

ちらりと横目で流し見て、ミシェル・ドゥ・アルディはふんと鼻を鳴らした。


でも、そんな冷笑に腹を立てていられなかった。


拾わなくっちゃ!


あたしは泉に飛び込んだ。泉は結構深くて、あたしの肩くらいまでの深さがある。

柵も電灯もない場所なので、あたし一人では絶対に、ここに来てはいけないと釘を刺されていた。

夢中で飛び込んだので、服が水に濡れると重みを増して身動きが取れなくなることに注意を払う余裕がなかった。

沈んだ鍵の場所の見当をつけようとしたけれど、泳げないあたしの体が沈んでいく方が先だった。

・・・これ、溺れているっていう現象?

苦しいとか思う暇はなかった。次の瞬間、大きな力で引っ張り上げられたからだ。

「君は本当にluminosité du diableだ」

耳元で、低いバリトンの声が響く。髪の毛がずぶ濡れで、頬に水滴が張り付いている。

天使の水浴びだ!そう思った。ミシェルがあたしを抱き上げる。自分も濡れているのに。

「まったく目が離せないね、だから、悪魔の輝きなんだよ。・・目が離せない」

ミシェルは泉から引き上げると、アルディ邸にそのまま歩き出す。あたしは軽々抱き留められていた。


「さっき捨てたのは、違うキーだ」ほら、とミシェルがあたしの鍵を渡した。

「注意力散漫だ。及第点はやれない。でも、その闘志は買ってやろう」

それから、あたしの頭を撫でた。そして、頬を撫でた。水に濡れて体温が奪われているせいか、

冷たい指だった。

「この考察に対する議論は後日。もっとマシな反証を持ってきてくれ」

そう言うと、小さく笑った。綺麗な笑顔だった。


ああ、もう、勝ち負けはこの笑顔の前ではどうでも良いことになってしまう。

それは、シャルルがマリナ以外のどんな人にも絶対に向けてくれない笑顔だった。

ミシェル・ドゥ・アルディはやっぱり、腹黒い。



その後、シャルル・ドゥ・アルディに随分とこっぴどく怒られた。

約束を反故にしたこと、泉に落ちたこと。そして風邪を引いて高熱を出す結果になったこと。

そのほか諸々。

ただ、ミシェル・ドゥ・アルディの服を台無しにして、一晩アルディ邸に宿泊させることになったことだけ、褒められた。そこは一番、叱られるところだと思うけれど。



帰り際、ミシェル・ドゥ・アルディはまた来るよ、と言って帰ったらしい。

あたしは高熱を出してしまい、見送ることが出来なかった。

また今度、来るんでしょ?そう思っていた。これはずいぶんな収穫だ。

帰ったよ、という報告とあたしの様子を見に、シャルルが部屋を尋ねて来てくれた。

これからまた仕事で出かけるという。

風邪がうつるよと言うと、オレは医者で、オレのアンジェを置いていくお詫びをしなけりゃいけない、と言った。

シャルルは、やっぱり優しい。

あたしはシャルルのアンジェで居続けたい。

すると、シャルルはミシェル・ドゥ・アルディからあたしへの預かりものがあるという。


何かしら


あたしは熱に浮かされながらも、それを受けとる。小さな箱に入ったそれを見る。

熱でも好奇心が勝るのは、誰譲りかね、とシャルルは苦笑した。

そして珍しくそのシャルルの言葉を聞き流しながら。あたしはあっと声を上げた。


・・・キーだ。形状が同じだ。

シャルルのデザインしたキーじゃない。つまり、あたしの持っているマスターキーじゃない。


・・・・

・・・・

・・・・


ミシェルは、あの場所を知ってたんだ!

彼がここを訪れていたのは、お墓参りであって、お墓そのものの探索じゃなかったんだ。

そしていつの間にか、鍵もちゃんと複製してた。

なのに、あたしの戯言を聞くためにあたかも初めて来たところのように、一芝居打ったのだ。

ミシェル・ドゥ・アルディが「暇つぶし」と言っていたことをようやく思い出す。

「アンジェに会いに来てるんだと言えば良いのに。我が弟は素直じゃないらしい。」


シャルルは笑って、あたしの頭を撫でた。ミシェル・ドゥ・アルディのように。

「じゃ、オレのアンジェ、ゆっくりお休み。良い夢を」と言って、扉を閉めた。

あたしは、何これ!と言って、枕を投げつけた。




FIN)



C-side 佳辰

★秘する恋 秘するが花D-side → キリ番リクエスト 想起 をご覧になってからお進みください。




佳辰 めでたい日のこと 





「誕生日はどうしようか」

マリナ・イケダにそう言われて、シャルル・ドゥ・アルディは読んでいた厚い学術書から目をあげた。

「誕生日・・・」

「シャルルの誕生日のことについて私は10分ほど前から喋っていました。」

マリナはそう言って、唇を尖らせた。

シャルルはあまり興味がないことだったので、彼女の絶え間なく流れてくる構想を聞き流していた。彼女の様子から、自分の誕生日について話をされているのだとわかった。

「シャルル、私の話は聞いていたの?」

「聞いてはいたよ」

ソファに長い脚を投げ出しながら、彼はそう言った。

「ひとつ年を重ねるのだから、何かお祝いしたいという気持ちを無視するなんて酷い」

彼女はそう抗議すると、シャルルは薄い唇を歪めて、マリナに反論した。

「正確に言うと、日本の戸籍法では満年齢は生年月日の前日とされる。

・・・だから、ひとつ満年齢があがる行為を祝うのであれば、バースデーその日ではなく、前日に行うべきだとオレは思うね」

「ひねくれた言い方はよして」


「シャルルについて何かを祝いたいという気持ちを無視しないでくれる?」

「黙殺しているつもりはないけれど」

シャルルは身を起こした。

「一般の質問ならよしてくれ。オレは何もいらないし、何も祝ってもらおうと思わないし。・・・第一、その日は仕事だ。」

正面に座ってチャイを飲みながら抗議するマリナから、カップを取り上げ、そうして彼は彼女を抱き寄せようとした。シナモンの香りが部屋一杯に充満する。


毎年、彼のバースデーにはたくさんのカードと贈り物が届けられる。

それこそ世界各国から。

しかし彼はそれらを一度も開封したこともなかったし、心待ちにしたものもなかった。

送り主の一覧を作成し、後日お礼のメッセージカードを送るのは彼の統括する仕事ではなかった。

彼女を抱き寄せようとしたシャルルに、マリナは身を引いたので、彼は強引に彼女の腰を掴み、自分の胸に引き寄せてソファに座り直した。

彼女は小さく悲鳴をあげる。


「マリナ。前半と後半の文章の整合性がまるでない。まぁ、君が何かをしたいというのであれば反対はしないけれど」

ディナーまでの僅かな時間のことだった。

外は薄暗くなり、薄紫色に変化していた。

彼がこの時間に私邸に居ること自体がとても珍しい。

マリナは相変わらず日本とパリを往復し、近いうちにまた日本に戻ると言っていた。

だから二人がこうして早い時間から一緒に時間を過ごすのも・・・とても貴重なことだった。

シャルルとはあまり話ができないことをマリナは常々悲しんでいた。

彼は仕事をセーブしなかった。マリナをこの館に住まわせるようになってからも。

「シャルルの欲しいものは何か・・・ないの?」

「ものはいらないよ」

彼はそう言って微笑む。青灰色の瞳で彼女の顔をのぞき込んだ。

そして、ゆっくりと唇を寄せて、彼女にキスをした。

マリナは静かに瞳を閉じて、その啄むような口吻に酔いしれた。

やがて、ゆっくりと唇を離すと、シャルルは彼女に微笑んだ。綺麗な微笑みだった。

「強いて言えば・・・時間が欲しい・・・そう、君との時間が」

「それはシャルル次第だわ。私はいつでもシャルルのために時間を空けたいと思っているのに」

「もうすぐ日本に行くと言っている人が言ってくれるね」

彼はそう言って彼女を絡め取っていた腕の力を緩めた。


「それなら、具体的に要望を言っておこうかな」

シャルルは切れ長の瞳を輝かせると、挑戦的に彼女に言った。

「・・・・当日は日本で過ごそう。オレもオフを取る。・・・・君のアパートで一日中、一緒に居る。

たまには天井の低い日本家屋にカンヅメになって、どこにも出ないで君を一日抱き続ける日があっても面白いな」

そうして妖しく笑った。

彼は、少しだけ、意地悪な気持ちになっていた。


彼女が日本のアパートに彼を入れたがらない理由は、知っていた。

けれども、知らないふりをしていた。


彼が欲しかったのは、ふたつ。

ひとつはマリナとのこれからの時間すべて。

そうしてもう一つは・・・マリナと過ごさなかった彼女の過去の時間。

今は、後者が最も彼の欲しいものだった。


マリナの困った顔が目の前にあった。

明らかに狼狽えていた。

「・・・君のアパートで過ごせない理由でもあるの?」

「シャルル。」

困った顔をして、マリナが眉根を寄せた。そんな顔をするマリナの頬にシャルルはそっと手を触れた。大きいけれども冷たい手のひらが、彼女の頬を包んだ。

「オレは知りたい・・・オレの知らない8年以上もの間、君が何をどう感じてあの部屋で過ごしたのか。この欲求は押さえられそうもない。」

「あなたの誕生日にわざわざ過ごす場所でもないでしょう。日本に来るのであれば、なおさら。」

「そうかな?・・・『その日』だからこそ意味があると思うけれど」

彼はまた意味深げに言った。マリナが少しだけ吐息をついた。

彼の言葉ひとつひとつが・・・彼女に何かを訴えかけようとしていた。


「冷えるよ」

外は冷たい風が吹いて、だいぶ冷え込んできた。

彼は彼女にショールをかけてやり、そして頭を撫でた。

「考えておいてくれ。そしてわかってくれ。・・・オレが欲しいのは、君に関することだけだということを」

彼はマリナの頬を寄せて、彼女の小さな額に彼の秀でた額を合わせた。

茶色の髪と白金の髪が混ざり合い、そして少ししてから離された。


「そもそも、その日は一緒に過ごせるかどうかわからない。」

これは本当だった。

オフを取るとなると、どんなに繰り上げてもその日には予定が詰まることになる。

日本に滞在したとしても、一日ホテルに籠もりきりになって、仕事をしなければ到底時間を作ることは実現できそうもなかった。

「そうだ、それなら、シャルルの誕生日には、私、一日中、シャルルのためにシャボン玉を吹くわ」

彼女が思いついたように言った。そして両手を鳴らす。

どこからその思いつきが涌いて出たのか理解できないというように、しばらくシャルルは彼女を見つめていた。

「・・・この寒空でそれは愚行だと思うけれど。特に日本は湿気が多いから・・・」

「ねぇ、シャルル」

マリナは少し哀しそうに言った。

「誕生日は特別な日よ。あなたが生まれてきた日でもあり、お母様があなたをこの世に送り出すために、一生懸命になった日でもあるのよ」

彼はその言葉を聞いて薄く笑った。

彼の母に対する記憶と感想はあまり良いものではなく、ただ哀しいだけだったから。

母が自分を産むために苦しんだ日に、シャボン玉を飛ばしたいというマリナの心が少しだけ・・・嬉しくもあり哀しくもあった。


一説によれば、シャボン玉は魂と言われている。

次々生まれては天井高く上り、そして消えていくその様が、輪廻転生を表しているという説があったことを、シャルルは思い返していた。

彼が生まれ落ちたその日から始まったアルディ家の悲劇と、まっ先に彼の誕生日を祝うべきであろう、儚くなってしまった彼の父母への追悼を込めて、マリナがそう言いだしたことに気がついた。

泡沫の創作に心を込めようとするマリナの気持ちが、微笑ましかった。


「ものはいらない」

そう言いきった彼に捧げられる最大のマリナの誠意だった。


けれども・・・彼は彼女の時間が欲しかった。

彼の誕生日前後には日本では雪が降る。

その時期にマリナは日本に帰ることを躊躇った。

特にシャルルと一緒に訪日したいといつも言うのに、今度ばかりは言い出さなかった。

オフの頃合いも、マリナの帰国に遅れて出発することに、彼女が少しばかり安堵の色を見せたことに、シャルルは納得しなかった。


今回は画廊のオーナーに乞われてどうしても帰国しなければならない理由ができてしまったから、やむを得ない帰国であるということらしかったが・・・。

「何か、その日はオレを部屋に入れたくない理由でもあるの?」

シャルルが尋ねた。

「そうじゃない。」

マリナが言い切ったので、ますますシャルルは追求を止めることが出来なくなった。

「マリナ、オレに隠し事をしても無駄だよ」

そう言うと、今度はマリナが訝しげに彼に尋ねた。

「シャルル。あなたは・・・何か私に言いたいことがあるの?」


ああ、あるとも


彼は心の中で呟いた。


オレの誕生日を祝いたいという君の唇が・・・違う男に覆われて、そして「その日」が君にとって特別な日になったという記憶と事実が欲しいと言っているだけだよ。

彼は声に出さずに、内心でそう叫んだ。


戻せない事実は存在する。

もちろん、マリナにとってもそういった過去はあるだろう。

あの陽だまりのような男と一緒に居た彼女を想像するだけで、強烈な衝動を抑えることができなくなり、そしてほんの少し眩暈さえ感じる。


――憤りで。


それが彼自身に感じる憤りなのか、彼女に感じているのか、それとも・・・あの男に感じているのか、それさえもよくわからなくなってしまうほどに、彼の狂気が激しく刺激されるのだった。


眼をそらしたのは彼の方が先だった。

「シャルル!」

マリナが彼の名前を呼ぶ。

彼女は、話の途中で切り上げられることが好きではなかった。

それを良く承知していながら、シャルルはマリナに宣言した。

「マリナ。オフは取る。だから、久々にゆっくり一緒に過ごそう。

・・・でもその日はどうしても一緒に居られない。」

シャルルの「どうしても」という言葉は絶対だ。

彼には予定の変更はありえない。

シャルル・ドゥ・アルディだからこその言葉だった。

マリナはその言葉を聞くと、みるみる萎れていく花のようになり、そう、とだけ言って項垂れた。

「残念だわ。せっかく、お祝いしたいと思っていたのに。」

「マリナ。特別はいらない。」

シャルルは青灰色の瞳を少しだけ細めて、目の前の彼女を見た。


自分は、少しばかり貪欲になったと思う。

少し・・・いや、「かなり」と表現した方がより適切だ。

彼女と一緒に居る倖せ以上のものはありえない、と考えていたのに、今では、もっと彼女が自分に心を傾けてくれないかと願っている。

一滴水を飲めば、もっと水を欲しがる海難者のように。

彼は速度を上げて加速する渇望を堪えてみせなければならなかった。

彼は・・・そうして穏やかな日々の中で、身の内の狂気と闘わなければならなかった。


彼女を運命の人と定めたときには、マリナの無邪気さや闊達さに惹かれたと思って居た。

でもこうして大人になったマリナは、無邪気さも闊達さもすべて損なわれていなかったがやはり、憂いを学んだように思う。

たくさんの人と出会い、別れ、そしてまた再会するというくり返しの中で、彼女は、転化した(他の物質に変わること)のではなく変通した(状況や経年に応じて適応すること)のだと感じる。

それでもなお、この愛おしさや狂おしいほど恋しい気持ちがシャルルから消えることもなく、ますます、彼女だけが唯一の女性であると確信せざるをえないという気持ちになる。

どんなマリナ・イケダになっても、彼の愛は揺らがなかった。


それなのに。

彼は、時々彼の中の狂気を抑えることができなくなる。

過去を変更することはできない。

それなのに・・・彼は彼女に訴えかけてしまう。



「わかった。それなら、シャルルの仕事が一段落したら、落ち合おう。

でも、忘れないで。私は、シャルルがこの世に生まれてきてくれたことを祝いたいし、シャルルがなんと言おうとも、その日はやっぱり特別な日なのよ。シャルルだけでなく、私にとっても。」

最期の言葉は、随分と含みがあるね。彼は声に出さずに、また言った。

マリナはシャルルの様子を敏感に感じ取り、困ってしまった。

「シャルル・・・私の言葉、届いてる?」

「ああ、もちろんだよ」

彼女の自分への気持ちを疑っているわけではなかった。

マリナの申し出は大変に嬉しいものだったし、彼女の、自分に向けられた仕草のひとつひとつに、彼が充足感を感じているのは間違いなかった。


それでも、この満たされない気持ちを、彼女に伝えても傷つけるだけだとわかっていた。

だから、マリナに伝えるつもりはなかった。

彼女にはどうすることもできないことはシャルルが一番良く承知していた。

長らく待ち望んだ人が傍らに居るのに。

彼は、それでも満足できない自分に苛立っていた。


「今年は、日本は珍しく雪が多いようだ。」

彼は遠くを見ながらそう言った。

「雪・・・珍しいわね・・・昔は雪合戦や雪だるまを楽しみにしていたわ。」

「今はそこまで積もらないよ。温暖化現象もあることだし。・・・だが、日本に居る間に、雪見ができるかもしれないね」

「ええ、そうね・・」

彼女が語尾弱くそう答えたので、彼はこの話を完全に切り上げることにした。

「そろそろ食事の時間だ。・・・行こう」


これがパリで交わす彼女と彼の最後のひとときの会話だった。


喧嘩にならない喧嘩をした、と言ってマリナが相談に来た。


ジルが様子を見計らってシャルルにそう告げたのは翌日のことだった。

明日にはマリナが出発すると言う。

彼はそう、とだけ言った。

彼と良く似た面立ちの女性は、少しだけため息をついた。

顔を横に向けて、とても憂いを帯びたため息だった。

「シャルル。どんなに彼女がそうしたいと願っても、彼女があなたに与えられないものは存在するのです。」

そう言って、ジルは続けた。

「聞けば、あなたのバースデーのことで彼女はシャルルの機嫌を損ねてしまったとか。」

「そういうことではない。」

「彼女は・・きっと、あなたのために、一日、あなたのことだけを考えて過ごすのでしょうね。その日を。」

「時差の関係もあるから、日本で過ごすバースデーというものには意味がないと思うがね」

「そういうものではありませんよ――シャルル。」

今度はジルがシャルルを窘めた。

普段あまりこういったことに口を出さないジルが、言葉を差し挟むということは、マリナは相当意気消沈しているのかもしれない。彼は推測した。

何がどうとはっきりわかっているわけではないが、シャルルが酷く不機嫌になってしまったことを察したマリナが、困りに困ってジルに相談した内容に、ジルは心当たりがあったようだった。取りなしを頼まれたわけではないが・・・とジルは前置きした。

「時間ではないと常日頃口にする彼女が、これまでの時間と空白を埋めようと努力しているのです。本来なら、その日は確か・・日本で仕事のはずだったのに、彼女は無理を言ってキャンセルしています。シャルルも同じ事をしろとは言いませんが・・・もっと彼女を・・」

「ジル」

彼が短く低く彼女の名前を呼んだ。ジルは口をつぐんだ。

仕事中に私事は口にするな、と言った。

ジルがもっと何か言いかけようとしたが、シャルルはそれを遮断した。


「―――今日は戻れるかどうかわからない。マリナにそう伝えてくれ」

彼はそれだけ言うと、それっきりその話題には触れるな、とジルに念を押した。


彼が屋敷に戻ったのは、日付も越えて夜も更けてからである。

この時間帯の帰宅は今まではほぼ日常であったのに、今ではひっそり静まり返った帳がシャルル・ドゥ・アルディさえも包み込んでしまおうとしていた。

こんなに人気のない、寂しい館だったのだろうか・・・

彼は思った。

以前と変わりない様子であるのに、シャルルがそのように感じるのは、やはり、彼の帰りを待つ者がいると思いながら帰宅するか否かの違いであるということがよくわかる。

以前は・・ここは就寝するだけの場所だった。

でも、今は違う。待つ人がいて、その人がこの館に住まうことをもう随分と長い間待ち焦がれていた。

願いが果たされたのに、どうしてこんなにも・・・こんなにも苦しいのだろうか。


彼は自室へと向かう足を少しだけ止めた。

少しだけ立ち止まり、薄い唇からため息をもらす。

・・・そして向きを変えた。

マリナの私室へと向かう。

ノックをすると、意外にもマリナは起きていた。

「シャルル」

少しだけ驚いたようだ。ジルの伝言を聞いていたようだった。

「良かった!もう会えないかと思ってた。」

「遅い訪問ですまない・・・明日、早いんだろう?」

「うん・・でも荷物もあまりないし。」

マリナが少しだけ照れくさそうに笑う。

昔から荷造りは苦手だった。

彼女は、いつも必要最小限だけ持って出発する。

シャルルはその様子が相変わらずなので、少しだけ微笑んだ。

「忘れ物は突如として現れるものだ。・・・準備は万端と思っていても実際は8割から9割しか整っていないと思った方がいい。」

「忘れ物なら、あるわよ」

彼女がちょっと首を傾げていった。

「シャルルへのプレゼント。・・・何が欲しいのか、もう一度確認するのを忘れていた。」

「ものはいらない」

彼はもう一度だけ言った。

「マリナ、オレの言ったことを忘れたの?」

「そうじゃないけど」

マリナが彼の顔を眺めながら言った。

「私ができることってとっても限られているのよ。だから、できることをやってみたいと思うけれど、それがシャルルの気に入った結果になるかどうか、わからなじゃない?」

彼は黙っていた。

「シャルルが何か・・自分の誕生日にあまり関心が持てないことも、何となくだけどわかっているつもり。でも・・・私はこれからも、ずっと、ずっと、あなたにおめでとうと言い続けたいと思うから・・・」

「その気持ちだけで充分だよ」

シャルルは努めて優しく言った。

綺麗な微笑みだった。

そして、彼女に屈んで、額にキスをした。

「もう遅い。明日は早いのだろう?休め。オレは・・・君の出発までにここを出てしまうから」

「起きられるのかしら」

シャルルは朝が弱いことをマリナはよく知っていたから、軽口を叩いたが、シャルルは少し笑っただけだった。

寝られないから、眠らないんだよ、と言おうとして、言わずにおいた。

「お休み、マリナ。良い夢を」

彼はそう言って、扉を閉めた。

彼女が日本に行くときと何ら変わらない挨拶だった。

またすぐに会えるという気持ちがあったから、彼らはごく自然にこういう挨拶で済ませることができるようになった。

「明日の朝、いつも通り薔薇を届けるよ。」

彼は扉を閉める直前にそう言った。

彼は毎朝、温室で咲く最高の状態の薔薇を彼女のために届けさせていた。

明日の朝の薔薇は、決まっていた。



白い薔薇にするように、指示を入れることにする。

朝咲きの薔薇と、ドライフラワーにした白薔薇を混ぜて活けるように言った。


薔薇の花言葉は・・・「恋の吐息」

そして枯れた白い薔薇は・・・「生涯を誓う」

彼女はこの矛盾したシャルルからのメッセージを受け止めてくれるだろうか。

正面から言えば、二人の関係は壊れてしまう。

彼は彼女を失いたくなかった。もう二度と、その手を離さないと誓った。

壊してしまうつもりはなく、ただこの苦しみを・・・どこかにはき出したかった。

マリナ、君も同じように、苦しんでいるのだろうか。

オレと居るときには、思い出さないのだろうか、あの男のことを。


月は太陽には勝てない。

そう思った。


彼はしんと静まり返った長い廊下を、マリナの部屋を背にして、ひとり、静かに歩いた。


マリナ・イケダと連絡が取れない。


ジルがシャルルに報告をしてきた。

他でもない彼の誕生日のことだった。

彼は彼女との約束を守るために、オフの時間を作るべく、かなり繁忙な日々を送っていた。

マリナが居ないときにはいつもこうだった。

彼は、彼女の不在の時に訪れる寂寥感を埋めるかのように作業に没頭する。

まるで、思い出すことが怖いとでも言うかのように。

かつての荒んだ生活を思い出し、ジルは彼の体調管理にそれとなく気を遣っているようだったが、シャルルは無用で無意味だ、と言って薄く笑うだけだった。


彼はすでに日本に向かっているところだった。

急な予定が入り、出発の日にちが変更された。

彼は通常の人間ならオフを返上しなくては到底消化できないその困難な案件もわずかな時間で解決したが、それでも彼の予定は変更せざるを得なくなった。


けれども、シャルルはマリナにはまだ到着日時が変更されたことも、いつ到着するのかも知らせていなかった。

きっとジルからは連絡が入っていることだろう、と思った。

・・・自分のバースデーに意味があるとは思えなかったが、彼を祝福したいというマリナの気持ちには値打ちのつけ様がなかった。


そんな折の連絡に、彼はジルに経緯説明と現状報告を求めた。

「彼女にシャルルの到着を知らせました。いつもなら開封メッセージが届くはずなのですが、今回はメールも見ていないようです。国際電話をかけてみたのですが、留守が続き、連絡が取れません。・・・外出するような時間でもないですし、彼女の安否の確認を急ぎます」

1時間以内に次の報告を」

彼はそう言ってジルとの回線を切断した。

そして、じっと青灰色の瞳で視線を遠くにやり・・・少しだけ考えを巡らせる。

彼女の行動範囲から予測できるすべてを、彼の中で計算する。

そして、一本、メールを打つことにした。遮断していた回線を接続する。

・・・あまり送信したくない相手だったが、今は彼の機嫌を優先するべきではなかった。


しばらくして、返信があった。

彼はそのメールを開封すると、ざっと目を通して内容を把握する。

―――イケダさんはここ数日こちらに仕事の打合せで来ていましたが、本日は予定があるということで来訪していません。

こちらは降雪があり、交通機能も大分麻痺しています。

・・・昨日帰り際に、壊れにくいシャボン玉の作り方について教えて欲しい、という質問をされました。また、ペンタブレットの使い方を教えて欲しいと言われましたのでこの2点について回答したのを記憶しています。・・・・W


彼はそのメールを閉じると、今度は彼女とのホットラインである回線を繋いだ。

・・・しばらくこちらのメッセージを見ていなかったが、何通か、マリナからメッセージが届いていた。

彼女は携帯電話やモバイルを持ち歩かない。

連絡手段はこのメールと、固定電話のみだった。

シャルルは今更になって、彼女の危機管理能力のなさに苦言を呈していなかったことを少しだけ悔やんだ。


メールを時系列に開いていく。

一通ずつ開封していく。

もどかしそうにディスプレイに映るメッセージをスクロールした。

到着の知らせ、外出の知らせ・・・そして、最後は・・・


彼はそのメッセージを開いた。


To:Charles

From:Marina IKEDA

Title:誕生日おめでとう

内容:誕生日おめでとう。今日は一緒に祝えなくて残念だけど、こちらの画像を送ります。使い方を習ったばかりなので、あまり上手ではないけれど・・・私の気持ちです。

それから約束通り、今日はシャボン玉でお祝いしようと思います。

日本の空の下だけれども。シャルルに届きますように。 マリナ


彼はその添付ファイルを開いた。通常はウイルスチェックをしないと決して開かない用心深い彼であったけれど、その時ばかりはそれを気にする余裕がなかった。


・・・・そして、彼は、その細く長い指を少しだけ震わせた。

同じように、薄い唇も細かく震え・・・彼は目を瞑った。

マリナ、と小さく呟いた。


彼女が送って寄越したものは、薔薇の絵だった。

たどたどしい線で描かれた、着色もあまり上手とは言えないその彼女のイラストを、彼はじっと見つめた。


・・・青い薔薇の蕾が、画面一杯に溢れていた。


青い薔薇。

・・・近年改良に成功した薔薇は、すでにずっと以前からアルディ家の薔薇園に存在した。

以前、彼女はその薔薇を、シャルルの瞳の様だと言った。

薄い花弁の薔薇は、確かに彼の青灰色の瞳に似ていた。


シャルルは息を呑み、その薔薇を食い入るように見つめた。


青い薔薇の花言葉は「奇跡」「神の祝福」


―――そして薔薇の蕾は「愛の告白」。


彼女は、彼の無言の言葉に、やはり同じように無音で答えた。

言葉に出すと壊れてしまうから。


シャルルは、ぎゅっと、手のひらを握った。

マリナ。

もう一度、彼の運命の人の名前を呼んだ。



日本はあいにくの大雪だった。

何年かぶりの降雪だという。

あまりの降雪に、彼を乗せた機体は本来着陸する場所から大分離れた空港に臨時で着陸する始末だった。

日本を縦断したこの雪雲は、あちこちで影響を与えていた。

ようやく着陸はできたものの、その後の交通手段がまったく確保できなかった。

シャルルはこの天候を恨んだ。

しかも、交通機関が完全に麻痺してしまい、除雪にはあと数日ほど要するという。

彼がどう主張しても、外国人でかつ要人である彼に無理な移動は許可されなかった。

同じ国内にいるのに、彼は彼女の傍に行くことができない。


マリナと連絡が取れない以上は、彼はメールを送り、彼女の固定電話にコールするしか手段がなかった。ジルには別の手段で確認するように伝えてある。

なぜ、連絡を寄越さないのか。

彼は思案した。

シャルル・ドゥ・アルディの誕生日以降、ぷっつりと連絡を途絶えてしまった彼女が、何か事故に巻き込まれていなければ良いのだが・・・

この焦燥感に、彼は酷く狼狽した。


寂寥感とは違う。

突然のこの出来事は・・彼を驚惶させた。


待つことに慣れていたはずなのに、なんとか彼女の安否を確認できないかどうか、その手段に考えを巡らす。


そして、薄い携帯電話を取りだして、彼は、覚えていた番号を押した。

何コールかあって、・・・相手は出た。


「お待ちしておりましたよ」

彼はそう言った。

手短にこちらの状況を説明すると、彼はそうですか、と静かに言った。

そして、こちらはまだ雪が降り続けていて、当分止みそうもない、と説明する。

「こんなに積もるとは誰も想像していませんでしたでしょう」

彼はそう言って笑った。

「彼女は、当然あれから来ていませんよ・・・・それなのにここに電話をかけてくるということは、連絡が取れないのでしょうか」

シャルルはその問いには黙っていた。

「・・あなたのサイトはいつも拝見しています」

「ログを残していただいてありがとうございます。・・・あなたがこう足繁く通ってくださるとは思って居ませんでした」

シャルルの言葉に、彼は少し笑い声を漏らした。

この画廊の電話番号を知るために、シャルルは彼のサイトに飛び・・・そして、「Marina」が更新されていることを知った。


彼女が来日するたびに、その作品は増えていく。


その都度、見たくないと思う気持ちの一方で、シャルルでない男の視線を確かめるかのように、その新作を眺める。


来日する度に、彼に会っているのかという強烈な嫉妬が彼を、矛盾した感覚の世界に誘った。


今回更新されていた「シャルルの目線でないマリナ」には、珍しくタイトルがつけられていた。


日本語で「憂い」と冠されていた。


グラフィックアートですでに名を轟かせている彼は、彼女をモデルにいくつか自分のサイトに作品を公開していた。

それだけでも我慢出来ないのに、彼は、シャルルの皮肉にさらりと応えたのだ。


故意にログを残したのに、彼はそれを受け流した・・・


彼は、シャルルとマリナの関係を知っていながらも作品を描き続ける・・・


シャルルが遠回しに、自分の恋人のマリナをああいう目線で描き続けることを非難しているのに、彼はそれを隠そうともせず、シャルルの言葉をかわした。


彼は、この点だけは、シャルルより優勢だった。

愛を得ていないのに、優勢だった。


「・・・あのタイトルのテーマで作品を作るのはこれで最後にしたいものです」

彼はそう言って電話を切った。


シャルルは回線が切れた音だけが鳴り続ける携帯電話を持ったまま・・・少しだけ無言であったが、やがて、乱暴にその携帯電話を強く投げつけた。

かしゃん、と音がして、床に本体とバッテリーがばらばらになって飛び散った。


マリナ・・・・


君は、一体、何処にいるんだ。

どこで・・・何をしているんだ。

この雪の中、ひとりで泣いているのではないのか。


ひとりで泣くな



そう言ったのは、シャルルだったのに。


彼女が泣いている気がした。


この雪空のように、音もなく声もなく泣いている気がした。



彼女を・・・悲しませてしまった。

彼女を傷つけてしまった。


それでも・・・それでも、この声にならない慟哭を、彼はまだ持て余していた。




マリナはどうやら体調を崩して、床に伏せっていたらしい。


その情報が入ってきたのは、彼がようやく彼女の自宅に向かって移動を始めた時のことだった。

ジルに報告が遅すぎると冷たく言い放ったが、シャルルは少しだけ間をおいて、情報は有効に使うことにしよう、と言った。

彼の賛辞だった。

ジルは電話口の向こうで少しだけ微笑んだようだった。

マリナと直接話をすることができて、彼女は快癒に向かっているということだった、と付け加えた。

彼女は自宅にいて、今は静養中だと彼女は言って報告を終えた。


フランスと日本を往復する生活が、彼女の疲労感を増長させたのだろうか。

・・・それなら、いっそのこと、フランスに永住すればいいのに。

彼は何度かその話をマリナに持ちかけたが、彼女はウィと言わなかった。


生活のためとか目先のことでなく・・・

彼女は彼女の作品を創り続ける限り、日本を訪れるだろう。

それで良いと承諾したのも誰でもないシャルル・ドゥ・アルディだった。


体調が悪かったのに、あの絵を描いて寄越したのだろうか。

それとも、最初に彼が忠告したように、寒空の下、彼女はシャボン玉を創ることに熱中して、失調したのだろうか。


どちらにしても・・・ジルの予告どおり「その日はシャルルのためだけに、シャルルのことを考えて過ごす一日」として彼女は独りで過ごしたのだろうと思った。


彼にとって、誕生日はどうでも良かった。


しかし、それを特別だと言ってくれる、彼にとっての「特別な」彼女がそう言うのであれば、その日はやはり特別なのだと思う。


その一方で、彼女がその日を迎える度に、自分でない誰かを思い出したり、憂いのある表情を自分以外の誰かに見せるのは、到底我慢出来なかった。

いっそのこと彼女を幽閉しようかという思いに駆られたこともあった。


それでは、彼女は生きていけなかった。

彼女は温室に咲く薔薇ではなかった。

雪の下でも、風の中でも、一度は萎れてもまた咲くような、そんな人だった。

命はそんなに弱くない、と遠い昔に叫んだ若い人の言葉を思い返していた。


彼女はそんなに弱くない。

昔の郷愁に囚われて、シャルルに何かを重ねることは決してしないと思う。

だから、これは自分の問題なのだ。

それはわかっていた。


彼女を・・離したくない。

彼女を・・壊したくない。



やがて彼女の住む地区に入っていった。


このあたりは一方通行が多いから、これ以上はこの車幅では入れない、と運転手が困ったように言うので、彼はそれなら一人で歩いて行くからここで待て、と指示を出した。


長い脚を地面に落とし、彼は細い路地を歩き始めた。

以前と変わらない景色に、少しだけ安堵する。


彼女のようだった。

彼女はいつまでも変わらない。


変化してもいつまでも彼女の根幹は変化していない。

だから・・・だから、彼女ともう一度話をしようと思った。


路地を曲がると、ますます細い一方通行の路になり、ところどころ除雪されていない部分があった。

ますますあたりは静かになっていく。


・・・人の話し声がした。

曲がり角にさしかかり、彼は速度を緩めた。

完全に曲がりきったところに、マリナの住むアパートがある。

その前で、子供の嬌声と・・・聞き間違えようのないマリナの声が、した。


シャルルは息を呑んだ。

マリナの声が聞こえる。

幻聴ではなかった。


彼は随分、その声を聞いていなかった。

パリで最後に話をしてから、それほど日数は経過していなかったけれど、彼女のあの明るい声は、・・・久しぶりに聞いた。


そこでシャルルは青灰色の瞳を切なく瞬かせた。


マリナ・・・君に憂いを与えていたのは、オレだったんだね。


君は変わらず、オレでない誰かには、子供のようにはしゃぐこともできる人だったのに。


シャルルは足を止めて・・・白いため息をついた




シャルル・ドゥ・アルディが曲がり角を曲がりきると、楽しそうな話し声が止んだ。

少し離れた路地の向こうには・・・マリナが居た。

彼は彼女を見定めた。


少し、痩せた。

具合が悪かったと聞くが、確かに風邪をこじらせたようだった。

まだ、顔色が優れていない。でも、最悪の状態は抜けて、快調に向かっているようだった。

彼の青灰色の瞳は、彼女の姿だけを捉えていた。


マリナは少しだけ息をのみ、茶色の瞳を見開いた。

唇を開き、驚いたように「シャルル」と彼の名前を呼ぶ。


・・・彼女が生きていてくれれば良い

そう思って過ごした時代を、思い返していた。


彼は・・・彼は愛に貪欲になっていたことを再認識する。


元気にしているだろうか

困っていないだろうか

そして・・あいつを愛し、あいつに愛されているだろうか

倖せだろうか


そんなことを考えていた長い時間を思い出した。


彼女はその時間を埋めようと、彼女なりに愛の証しを示したのに。

彼は、貪欲になりすぎて・・・少しだけ見失ってしまっていた。


自分の愛を。


シャルル・ドゥ・アルディの愛がマリナを惑わせて、シャルル自身も惑わせた。


マリナ。


彼はもう一度、熱く彼女を見つめた。

無言で、マリナは彼の顔を眺めていた。


彼はやはり同じように黙ったまま、彼女に近づいて、そしてマリナを抱き上げた。


―――軽く感じたので、彼は狼狽する。


悪戯で彼女を抱き上げることはあったけれど、それでもこんなに軽かっただろうか。


こんなに小さかっただろうか。


彼女はいつも太陽のようで眩しくて、そして彼の中ではいつでも微笑んでいた。


「何するんだよ!」

子供の甲高い声が響いて、彼はその時に我に返った。

彼女と話をしていた男児だった。

その時になって、ようやく彼はその子供に目を遣る。


典型的な日本人の男子だ。

小学校高学年から中学生くらいだろうか。

黒い理知的な瞳の知性のある顔立ちだった。

だが、まだこどもだった。

頬を紅潮させて、こちらを睨んでいる。


「ずいぶん、小さいナイトだな」

「なんだと!」

こどもが怒って、手に持っていた箒を握りしめた。

その年齢と、様子から、マリナの住むアパートの管理人の息子だと推測した。

昔、もっと小さい頃にマリナと写っている写真を見たことがあった。

確か・・・ダイ。そんな名前だった。


「おい、マリナ、何とか言えよ!・・・言ってやれよ!」

ダイが悲鳴に近い声でそう言った。

彼は憤慨していた。

・・・マリナが失調していたときに傍に居たのは、こいつか。


シャルルが苦笑する。

この小さなナイト気取りのこどもにまで、自分は嫉視の瞳で睨み付けそうになる。


「オマエがシャルルだろ。」

「だからなんだ。」

シャルルは冷たく言い放った。流暢な日本語に、子供は少し驚いた様子だった。

彼は怯まずに、それでも叫んだ。よほど憤慨しているのか・・・度胸があると言うのか。

この状況でこの行動を取る彼を、ほんの少しだけは褒めてやるに値する行動だった。

「マリナはずっと、オマエのこと待ってたんだぞ!

雪の中、誕生日を祝えなかったって言って、熱を出して寝込むまで、シャボン玉飛ばし続けたりする阿呆なオンナだけど。

でも、そういう扱い、することないじゃないか。」

ダイはシャルルを睨んだが、睨みになっていなかった。


シャルルはその言葉に、少しだけ間を置いた。


・・・やはり、彼女は約束を違えなかった。


一日中・・・誰が見ているわけでもないのに。シャルルが傍で見ているわけでもないのに。

彼女は当初の予定通り・・・彼の魂と命を祝って、奇跡の花を描き、そして祝いの珠を創り続けていたのだと知る。


シャルルが口を開きかけたそのときだった。

マリナが、ふわり、と軽くシャルルに腕を回した。

彼は視線をダイからはずし、そしてマリナに移す。



「・・・来てくれて、ありがとう」

その言葉に、シャルルは微笑んだ。


「・・・迎えに来たよ」

「・・・うん」

会話は、それだけだった。

でもそれで充分だった。



シャルルは、ぽんぽんと、マリナの頭を軽く撫でた。

それ以上の行動は・・・できなかった。

彼女の触れることそのものが、どうにもならないくらい苦しかった。



シャルルは、上着を脱いで、そっと上着を彼女の肩にかける。

彼女はありがとう、と小さく言った。

いつもの、微笑みだった。

彼女が寒そうにしていたからという理由もあったが、何より直接彼女に触れることが・・・どうにも遣る瀬無かったので、彼は上着を彼女にかけてくるむことにした。



行こう、と言って、彼はマリナの歩幅に合わせて歩き始めた。

彼女はゆっくり彼に添って歩いた。



彼女は彼の無言のメッセージに、同じように答えた。


だからこの無言の会話も、どういうわけか、心地好かった。


彼の言葉にならない狂気を彼女は正面から受け止めて、そして彼をそれでも愛していると言葉に出さずに告げたから、彼はその愛を少しだけ信じてみることにした。


目に見えない、その非科学的な何かを―――

彼は、根拠もないものは信じないはずだったのに、信じることにした。


彼女の彼への愛を、ではなく。彼の彼女への愛、でもなく。

彼と彼女の間に流れる愛を信じることにした。



「マリナを泣かすな!マリナをいじめるな!マリナを・・・マリナを、笑わせてやってくれ!」

シャルルとマリナが背中を向けた側で、ダイがおもむろに叫んだ。

ああ、小さなナイトでさえ、彼女の憂いを感じ、そして訴えている。


自分はこの生涯付きまとう狂気と闘わねばならない。

シャルルはそう思った。


彼の秘する想いは、決して、もう表に出ることはない。

この狂気は彼の中で、これから一生、隠されていくことになる。

嫉妬と言う言葉で表すには、激しすぎて触れる者すべてを傷つけてしまう諸刃の剣を、彼は自分の胸の内に納めた。

血を流すのは、自分だけで良い、と思った。


シャルル・ドゥ・アルディはダイに振り返り、ふうっと笑った。


綺麗な微笑みで。


あの、青い薔薇のような奇跡のような微笑みだった。


「オレはシャルル・ドゥ・アルディだ。」

彼はそう言ってまた微笑んだ。

「どーでもいいよ!そんなこと!オマエで十分だ!!!!!」



その声に、マリナがくすくす笑った。

まだ少し鼻声だった。


遠くなる怒声に、少しだけ目を潤ませた。



「彼は、私のともだちなの。・・・彼が、生まれたときから一緒なのよ。」


「そうか」


シャルルが静かに言った。

彼も彼女も、そして当人も、これから思わぬところで再会し、再び巡り会い、一生を親しく過ごす間柄になるとは、このとき予想もしていなかった。


「マリナ。今夜は、ディナーだ。少しだけ、長く時間をかけて・・・温かくして・・・ゆっくり時間を過ごそう。・・・それから・・・オレのバースデーを祝ってくれるかな・・・」

マリナは茶色の瞳を大きく開いて、素晴らしいわ、と言った。

彼はその様子に微笑みながら、意地悪くちらりと視線を流して言った。

「それにしても・・あのイラストはお粗末だから、描き直してくれ。」

シャルルがそう言うと、彼女はいつものとおり、頬を膨らませて抗議した。

「もうひとつ。危機管理ができてない。―――この国も、君も。せめて携帯電話くらいは持ってくれ」

先にその端末を自らたたき壊したシャルルがマリナにそう忠告した。

そう言って、彼はそっと、彼女の小さな肩を抱いた。


伝えなくても伝わらなくても・・・もう良かった。


それでもこの愛は確かにここに在る。


それが彼への最大の贈り物だった。


毎年、毎日、生涯彼女から贈り続けられる「奇跡」そして「神の祝福」それから「愛の告白」を彼は手に入れた。






―――周囲の雪はまだ白く、そして今夜も雪になりそうだった。




FIN




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