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expiation~Februusの娘~第一部

アルディ家には、彼らの一族に関する原簿がある。
個々人に作成され加除式で、その人物の一生を記録する。
現在は電子記録として保管されているが並行してその紙媒体も更新されていた。

シャルル・ドゥ・アルディの系図原簿には、2度の空白期間がある。
「青春の輝き」の短い期間と、2年弱の空白の期間の2度。
彼自身に問うても何も答えず、当主自らがその記録を抹消してしまった。
正確に言うと、23 ヶ月と26 日と7 時間。
彼は生ける屍になり、このまま本当に儚くなってしまうと関係者は誰もがそう思った。

昏々と眠る。
そうかと思えば、何日も眠らない。
浅い眠りに浸るかと思えば、眠れないと言って睡眠導入剤とビタミン剤などの複合混液を点滴しながら、煙草を吸い続ける。
睡眠薬を常用しながら、大量のアルコールを摂取する。
時々、呻くように涙を流し始めるかと思うと、何日も食事を摂らない。

その一方で、思いついたように仕事に取り憑かれ、前代未聞の論文をいくつも執筆したかと思うと、その検証論文は発表しない。

あれほど愛した薔薇の品種改良をぷっつりと止めてしまう。
ある時期になると、アルディ家の薔薇の香りが耐えられないと言って、生物が存在しない地を転々として過ごす。

各地を転々とするのに、日本の決まった場所に足繁く通う。

帰って来るといつも気鬱な表情で、眠らない日々を過ごす。
荒んだ生活と言うにはもっと荒廃した状態の彼は、このままどこまで堕ちるのかと声を出す者も徐々に減っていった。

————彼は生きながらに死んでいる。

そう言われていた。

彼がこの状態になったのは2度目だった。

1度目の記録の断絶の後、彼はこの状態になった。
しかし、それでも普通の生活は送れていた。

でも今度ばかりは・・・次期当主を立てなければならないと、親族会議の開催通知が各々届く頃。
彼の生活といえない日々が、23 ヶ月と26 日続いた翌日の事だった。

彼の記録がまた、書き足され始めた。
間もなく・・・「その日」から2 年が経過しようとしていた。

日本式でいう「三回忌」に出席した。
その際の彼のやつれぶりについて、法要を主催した親族の者達は、酷く驚いたという。

どうしても出席させて欲しい。

費用をすべて持ち、法要や供養のための親族の渡航費用をすべて負担し、今後の経済的心配については一切心配しないように、と約束するフランスの若き実業家の憔悴ぶりに、彼らは声を発することが出来なかった。

そこに幽鬼のように座る彼は、「フランスの華」と呼ばれた彼とはまるっきり別人だった。

日本の夏は湿気が多く、高温多湿な気候が彼の不健康な躰を刺激した。
自家用ジェット機で彼は日本まで直行したが、降りるなり、陽の光に当てられて脳貧血を起こした。
彼の長期間にわたる不摂生の結果だった。

それでも・・・這ってでも行くと言ってその意志を覆さないフランスの華を・・彼らは黙って見守り続けた。
彼女と彼の、心根の優しさは、彼らだけに備わったものではなく、彼らの一族に伝わるものだと知り、シャルルは少し安堵した。

来て良かった、と言った。
幸せな一生だったのだね、と思うと少しだけ・・・微笑むことが出来た。
そこに行っても、彼らに会えるわけではないのに。

シャルルは足繁く・・・日本に通った。
彼らの育った日本の空気を吸いたかった。
彼らの愛が成就した地を・・そして彼が彼女の手を離した場所を訪れて・・・

何度も涙を流した。
何度も嗚咽を漏らした。

そこに躰も魂もないとわかっているのに、行かねばならないと思った。
あのときに戻りたいと。
戻れるものなら、戻りたかった。
あとのき、手を離さなければ彼女はもっと長く生きられたのかと思うと、彼の苦悩は増すばかりだった。

彼と彼女が・・・・墜ちた場所は日本ではなかった。
フランスのパリ行きの飛行機だった。
シャルル・ドゥ・アルディの結婚式に向かう途中の飛行機事故だった。

パリ経由で、ランスに向かう途中で・・・事故は起きた。
墜落事故で、たくさんの死者が出た。
生存者はいなかった。
彼が知ったのは挙式の後である。

そして・・・そのまま発狂した。

純白のタキシードを着たまま・・・戻れなくなった。
正確には、こちらとあちらを行き来する、不安定な魂になってしまった。

それを知らせなかった一族を恨んだ。
最も近い場所に用意した、彼らの場所に、彼と彼女は現れなかった。

なぜか、と理由を問うた時にはもう遅かった。
彼の中の狂気は目覚めてしまった。
何かをわめいたような気がするが、それも覚えていない。
彼の誇りがそうさせなかったのか、それとも・ ・誇り故に彼の記憶を遮断してしまったのか。

今となってはもうわからない。

それっきり・ ・・彼の記憶は混濁したままだった。
時折思い出す記憶は、細切れだ。

かつて、彼女に「オレはオレを失うことはない」と言ったのに。

彼は、自分を失った。
魂が肉体から離れてしまった。
彼の魂をつなぎ止めていたものを失ってしまったから。

死ぬほど愛している。

そのとき、はっきりと解った。

死ぬほど愛しているのに、彼女を傍らに置くことが出来なかった。
彼女が愛していると言ったのは、シャルルではなく、太陽のような親友だった。

好きだから。

独り占めしたかった。でも、愛しているから独り占めできなかった。
愛のパラドクスに悩み・・そして成就する愛だけが最高の愛ではないと知った。

今でも、名にかけて言える。

君を・・愛している。
君を永遠に愛している。

ああ・・・はやくそちらに逝きたい。

このまま・・・深淵に潜む者として息づくことさえ、煩わしかった。

君は酷いよ・・オレをこのまま生かしておくなんて。
はやく、迎えに来てくれないのか。
今年も・・・君の魂が戻ってきているかもしれないと期待して、日本にやって来た。
でも君は・・オレを連れて行ってくれない。
安らかに、彼の親友と眠れているのだろうか。
この湿気にむせぶ空気が、あの惨状を思い起こさせる。

焼け焦げる匂い、腐臭、人々の哀しみの声、聞こえないはずの最期の声・・・
最期に皆で書いたであろう、遺書の切れ端・・乱れた文字の切れ端が、吹雪の様に舞う。

その中に、日本語がないか、彼は跪いて何度も探した。
ほんの僅かな紙切れさえも・・彼と彼女の痕跡さえも、シャルルには遺されなかった。
彼らの遺体も上がらなかったし、遺品もわからなかった。
ブラックボックスも回収できないほどの、荒れた惨状だった。
彼の財力とコネクションを持ってしても、彼と彼女の痕跡を見つけることは出来なかった。
なぜ墜ちたのか・・・原因さえもわからなかった。
わからないというのは最も不幸な死因だ。

医師でもあるシャルル・ドゥ・アルディはそう思った。
人間の最終的な死因は、すべて「心不全」である。
心臓が正常に機能しないから、死ぬ。
でも・ ・彼と彼女の死因を「心不全」で片付けられなかった。

細切れになった遺体の収容に立ち会った。
それでも、彼らを見つけられなかった。
彼はそれ以上、そこに居られなかった。
本当にその便に乗っていたのかどうか、何度も何百度も確認した。

でも・・・彼らの搭乗を見守った者が何人もいた。
便が間違ったとか、スリにあってパスポートを紛失し、本人でない者が乗ったとか・・・
そういう浅ましい期待をする情報は皆無だった。

収集すればするほど、彼らがその便にいたことが明確に
なった。

調べれば調べるほど、生存の可能性がゼロに近くなった。


・・・彼はそこで、また意識を失った。

生きているのか死んでいるのかさえわからない状況は、不幸しか呼ばない。
生きていればどこで何をしていても良かった。
生きてさえいれば・・・
シャルルでない、彼の親友と一緒に人生を歩むことを選んだ彼女の幸せを願うことが出来た。

彼女の幸せを思うだけで倖せになれた。
やがて、彼女が子供を産んだと聞いた。

彼は真っ先に祝福のメッセージを送った。
苦しかったけれど、彼女が幸せであれば、生きていればそれで良かった。

彼が生きることはつまらないと思っていた人生を、彼女は生きていることは奇跡で、それだけで素晴らしいと教えてくれた。
だから、自ら命を絶つことは決してしないと・・・言った。

それなのに。
それなのに。

彼の魂を躰につなぎ止めていた、彼女が逝ってしまった。

今でも、夢に見る。

決して夢を見ないのに。
彼は夢を見る。

夢と思いたい幻想の世界に浸る。
それは夢ではなく・・・彼の妄念と空想の世界でしかなかったのに。
夢と思いたかった。
ひょっとして・・・今までのことは夢ではないか。
ランスの教会から・・・やり直せるのではないか。
そして、彼が遡ることの出来るもっと昔まで・・・あの、彼女の手を離してしまったあのときまで、彼は遡り、やり直せるのではないかと期待した。

目を瞑り、深い眠りに入れば、目を開いたら、彼はもう一度やり直しの時を迎えられるのではないかと期待し・・・そしてその都度失望する。

そのときのことは詳細に覚えていない。
その報を聞いて・ ・・気がついたら、彼は現在の状況だった。
自らの結婚式が終わった後。
彼と彼女の姿が見えないことに気がつき・・・

未だに、彼と彼女の遺体は回収できていない。

シャルル・ドゥ・アルディをもってしても。
彼女を見つけることが出来なかった。

沈んでしまった地を・・・・彼はもう見ることが出来ない。
その地を思い浮かべるだけで、心が遠く飛ばされた。

法事の席で、脳貧血を起こして倒れたところまでは記憶している。

そして・・・ぱしゃり、と何か冷たいものが顔にあたり・・・

彼はゆっくりと、瞼を持ち上げた。

何か液体が彼の頬を打った。

その瞬間・・

彼は思い出していた。
彼女の声を。
そして、あの高い手すりから飛び降りた時の自分を。

初めて・・恋に堕ちた瞬間を思い出した。
彼の躰も文字通り墜ちたけれど、恋に堕ちるあの歓びを思い出した。

・・・彼女の名前を呟いた。
自分の瞳から・・・滴が流れ落ちて、ゆっくりと重力に従って流れ落ちる感触を感じた。

苦しいよ。
苦しいよ。

早く、迎えに来てくれ。
オレを・・・解放してくれ。

どうして君はそこまでして生きろとオレに囁くのか。
オレは君なしでは生きられない。
解っているだろう。
それなのに、オレに生きろと言うのか。
死までの退屈しのぎ、と嗤った時代が恨めしかった。
今は苦痛で・・・生きる事が苦痛で仕方がない。
退屈しのぎどころでない。
彼は1 分1 秒が・・・苦痛という針に刺されている感覚に襲われていた。

いっそのこと永遠に狂うことが出来れば良いのに。
死ねないのなら・・生きたまま死んでいたい。

死ぬまで死んでいたい。

物憂げな瞳を開いた。

瞼を開く前に、甘い香りがした。
幼児特有の甘い香りに、彼はゆっくりと目覚めた。

「・・・だれ?」

低いテノールで、彼は呟いた。
天井の照明があまりにも眩しくて、彼の色素の薄い瞳は目が慣れていなかった。

「あなたはだあれ?・・・てんし?」
舌足らずな言葉が、彼の頭上から降りてきた。

その声に・・どきりとする。
彼女に最初に会ったときの声音に良く似ていた。シャルルはぎょっとして目を見開いた。そして躰を持ち上げる。

一瞬・・・目の前が歪んだ。
でも、彼は、その声の主を捉えた。

・ ・・彼と彼女の子供だ。

一目で、わかった。

あまりにも・・・あまりにも酷似しているから。
シャルルは言葉を失った。
酷薄そうな唇を少し開き・・・彼は彼女を凝視した。

黒いワンピースを着ていた。
黒いタイツを履き、そして髪の毛は黒いゴムであったけれど、初めて彼が会った時の彼女のように・・髪のサイドを緩やかに留めていた。

あどけない・・まだこどもだった。

薔薇色の頬に、陶磁器のような肌。
そして、まだ関節の節々がこどもであることを示すかのように、掌くぼみが骨張らず、へ
こんでいた。
柔らかな幼児特有の髪は強い癖髪で、波打っていたが、茶色の瞳と茶色の髪が・・・彼女そのものだった。

膨らんだ唇に、黒目がちな瞳・・・好奇心旺盛なきらきらした瞳。
頬は丸く人を見据えるような視線を時々流して寄越す。
それは彼の視線だった。
最も特徴的なのは・・・何より、子供であるのに、その瞬きの速度が遅いことだ。
・・・・彼のこよなく愛した彼女の仕草の特徴だった。

「君の名前は?・・・オレはシャルル・ドゥ・アルディ。シャルル。」
「しゃ・・・?」
促音便と撥音便がまだ上手に発音できない年頃だった。
「シャルル」
彼はゆっくりと発音した。
天使の名前を聞いて、こどもは何度か自分の口内でくり返し口ごもった。

「君の名前は?」
シャルルが躰を起こし、ゆっくりと彼女に聞いた。
「てんしさんは、かなしいの?」
こどもはそう言った。

シャルルは笑った。
自分の涙を見て、彼女がそう言ったのだと思った。

「かなしい・・・くるしい・・・」

そう呟くと、彼女はシャルルの顔をのぞき込んだ。

「てんしさん。そんなになくと・・・てんごくにいけないよ。なみだは・・・てんごくにもっていってはいけないんだよ。」
彼女はそう言うと、彼の頬をそっと・・・おさえた。
彼は日本式の床の上に体を起こしていたので、ちょうど彼女と同じ目線だった。
こどもの茶色の瞳を見て・・彼は溢れる涙を抑えることが出来なかった。

間違えようがない。
間違えるはずがない。

彼女は・・・愛した人の娘だった。

年齢からみても間違いない。
流感にかかり、飛行機に乗せられないから、娘は置いていくと彼女は残念そうに言っていた。
彼と彼女の・・・彼が愛した者達の末裔が、ここに居た。
彼女が自分を天使と言ったけれど・・彼は彼女が天使に見えた。
彼女はシャルルにそっと近づくと・・・持っていたタオルを、彼の頬に押しつけた。
水がしたたり落ちていた。

彼女は・・・意識を混濁したシャルルをみて、咄嗟にタオルを水で浸し、彼に押し当てようとしたのだと気がついた。
医師を志していた、彼の娘らしかった。
まずは、冷やせ。

そういう知識が、この幼い命に教え込まれていたのだと・・・・医師であるシャルルは思った。
でも、握力が足りなくて、彼女は水浸しのタオルを彼に押し当てたのだ。

「最初の質問に答えてない。・・・君の名前は?」
天使は笑った。
ああ、あの人の笑い顔だ・・・シャルルはまた、涙を落とした。

「クロス・ヒカルです!ヒカルは『昶』と書きます!えいえんのひかりといういみです!
おとうさんはカズヤで・・・おかあさんはマリナです!いまは・・てんごくにいます!」

彼は泣いた。

「てんごくにいけないよ。ないたらいけないよ」
と囁き続ける彼女を抱きしめた。

その命の光に・・・・・彼はすがった。

そして・・・フランスの華が昏倒したと聞いて、緊急手配された救急車が到着する頃・・・
彼は、彼女を抱きしめたまま、はらはらと涙を流し・・・

「彼女を連れて行く」
と言い放った。
その眼光は鋭く・・・かつてのアルディ家当主の有無を言わさぬ口調だった。

その後、シャルル・ドゥ・アルディがどうやって彼女の後見人や血族を説得したのかは系図原簿には記載されていない。

故人の一友人でしかない外国人の彼が、ヒカルの監護権をどうやって取得したのかは、定かでなかった。

しかし・・・意外にも賛成したのは、母親の姉妹だった。

「彼女に最高の教育を・・・・・」
それが理由だと伝えられたが、彼女が行きたい、と言い出したという。
そしてアルディ家の熱心な説得に、最後はウィと言わざるを得なかった。

決して、不自由な不幸な生活を送っていたわけではなかった。
愛に溢れ、毎日を充実して過ごしていたと聞いている。
けれども、ヒカルは「てんしさんがないているから」と言って、いともあっさり渡仏を決意してしまった。

それに、彼がどれだけ亡き夫婦に関わり合いが深かったのか、誰もが知るところだった。
もちろん、忘れ形見の彼女を手元に置きたいという血族も居た。

それをどう調整し・・どう説得したのかは、シャルル・ドゥ・アルディの片腕に聞かなければわからなかった。

「どんな方法を取っても彼女を必ずアルディ家に迎えろ」

それが当主の、長らく空白期間が空いた活動再開の最初の命令だった。
彼の荒んだ生活が一転した。
彼は・・・・眼光鋭く開口一番そう命じた。
シャルル・ドゥ・アルディの、当主としての発言は絶対だ。
変更も修正もない。予定は確実な直近の未来でしかない。
長期の休みには必ず彼女を日本に帰すと約束した。

「まるで、冥界の王のようだ」
彼は少しだけ笑った。

神話の冥府の王は、妻を手元に置きたくて、それでも悲しむ彼
女の姿に耐えられず、一年を地上と冥界とわけて住まうことを許した。

彼は確かに冥王だった。
黄泉の国からやってきた、月夜見の異名を持つ冥王のような微笑みをした。



そして様々な手続きを経て・・・その年の暮れに、彼女はやって来た。
パリの、アルディ家に。
彼は、最後の楽土を手に入れた。
二度と手放すつもりはなかった。

就学前の・・幼い彼女は冬の朝、やってきた。

時差があったから、眠そうにしていた。
頬を赤くして・・少しだけだるそうにして、彼女はやって来た。

「ようこそ」

シャルルは前日から眠ることが出来なかった。

ここ数ヶ月、ようやくこれまでの生活から切り離された日々を送ることができた。
広大な敷地に佇む屋敷の主は、自ら玄関で出迎えた。

彼女は少しだけ・・・驚いたように、シャルルを見つめた。

彼女の手を引いている女性と彼を眺めて「てんしがふたりいる」と言った。
「ああ、彼女は従姉妹だから。似ているだろう。・・・・おいで。」
彼はそう言って、彼女からヒカルの手を引き継いだ。
やわらかいあたたかい小さなてのひらを、そっと握り替えした。

「あなたが幸せになるのでしたら」
従姉妹はそう言って、ヒカルの柔らかな髪を撫でると、仕事に戻ると言って帰って行った。
そして、彼はゆっくりと微笑んだ。
美しい、綺麗な微笑みだった。
もう何年も見せたことのない微笑みだった。
「君の名前は?」

その問いに、あの夏の日と同じように・ ・・ヒカルは答えた。

「クロス・ヒカルです!おとうさんはカズヤで・・・おかあさんはマリナです。
今はふたりはてんごくにいます。
いつかあいたいから・・・ヒカルはなかないでいいこでいます。
でも・・・」

「でも?」

彼女はちょっとうつむいた。

「こんどから。おとうさんはしゃ・・・しゃるるです・・・」

「昶」

シャルルは、彼女の目線まで腰を落とした。
白金の髪が揺れた。
かつて、彼女の母が、美しいと褒めてくれた髪だった。
てんしさん・・・・?
昶が呟いた。

「誰に言われたかわからないが、君の父はカズヤ・クロスしかいない。
母も・・・ひとりしかいない。」

「・・・・・・ひかるはよくわからない・・・」

「わからなくても良い。でも、魂に刻んでくれ。」

彼は穏やかにそう言った。
茶色の瞳をのぞき込んだ。彼女が最初に、シャルルにそうしたように。

「オレをお父さんと呼んではいけない。
君の父はひとりだけだ。
そして・・・オレは君の父にはなれない。
かわりをすることはできるけれど、それはあくまでもかわりでしかない」
・・・・・君は君が希望する限り、クロス・ヒカルだ。永遠の光と名付けた両親を忘れてはいけない。」

青灰色の物憂げな瞳を、彼女の茶色の瞳に近づける。
彼女の瞳に、自分が映るだけで・・・かつての記憶を揺さぶり起こされた。

それだけで・・・苦しくなる。
いいね、と言うと、ヒカルはこくん、と頷いた。

「さぁ・・・それではアルディ家にようこそ。
ヒカル。
君を歓迎しよう。
言っておくけれど、オレは君をとことん甘やかすからね。
覚悟してくれ」


彼の宣言通り。

シャルル・ドゥ・アルディは、ヒカル・クロスを甘やかした。

朝の弱い彼の部屋にヒカルが訪れ、彼の目覚めを促すのが彼女の唯一の役割だった。
彼が深く・・・けれども浅く眠る、厚いカーテンに垂れ込めた重苦しい部屋の中に、彼女が飛び込むだけで清廉な空気に満たされた。
教育係の彼の従妹に連れられて、毎朝、最高の状態の薔薇を片手に持ち、やって来る。

「てんしんさんはおきていますか」
と言って、やがてはひとりで訪れるようになった。

朝が待ち遠しくなった。

眠れない夜を過ごしたときは、まんじりとする夜明けが恨めしかった。
眠れないのに、夜がもっと続けば良いのにと相反する気持ちを持った。

・ ・・夜の間だけ、彼は彼女の事だけを考えることが出来たから。
今は・・・夜明けが待ち遠しい。
うつらうつらする朝の微睡みの中、自分を「天使」と呼びかける本当の天使が彼に舞い降りる。

彼は、朝が待ち遠しいと思えるようになった。
これまでにないくらいの深い眠りを味わう一方で彼の眠りはヒカルの到来を待ちわびて彼女が来訪する時間には浅くなる。

深くて浅い眠りが・・・彼の蝕んだ体を徐々に清浄に戻していった。
彼は、これまで締め切っていた彼の私室の鍵をかけなくなった。

重い金属でできた扉のノブをようやく回すことの出来るくらいの幼い彼女のために、彼は施錠しなくなった。

ヒカルは比較的早く、屋敷の生活に順応した。
子供の順応力とは驚異的だった。
フランス語と日本語の混ざった生活にも慣れて、毎日を過ごす。
朝は決まった時間に起きてシャルルを起こす。
一緒に朝食を摂る。

彼は朝が弱いので、朝食は摂らない。
ヒカルが食事を摂るのを黙って見つめ、テーブルマナーや今朝
のメニューについて、根気よくヒカルに細かく教えていく。

食後はシャルルが外出するのを玄関で見送り、「今日もてんしさんは出かけるのね」と言って笑って送り出す。

ヒカルはしばらくの間、「いってらっしゃい」とも「待っている」とも言わなかった。
その言葉とその動作を覚える前に、ヒカルの待つべき存在はこの世から姿を消してしまったから、彼女は随分後になるまで、「いってらっしゃい」という言葉を覚えることが出来なかった。

ただ、教えられた、手を振るという動作だけを、意味もなく行っていた。
ひょっとすると・・・彼女と両親の最後の言葉はその言葉だったのかもしれない。
覚えないのではなく、覚えたくないのかもしれない。

そのかわり、彼女は「またね」と言った。

シャルルは・・・胸が詰まった。
それはヒカルの母の口癖だった。
いつも、あの人は、別れの時にはそう言った。

またね、また会いましょうね、また・・・・会えるよね。

さようならとは決して言わなかった彼女のことを思うと・・・彼はヒカルの姿が見えないところでひっそりと、涙を流した。

あのとき。

電話で彼女はまたね、と言った。
それが最期の会話になった。

当日は、ぎりぎりに到着するので、ゆっくり話が出来ないと恐縮していた。
シャルルは、自分からよく見える位置を確保したから、構わないよ、と素っ気なく言うと、彼女は・・・あなたの幸せな姿を見に行くのだから、もっと幸せそうに言って、とシャルルに電話
口の向こう側で笑って言った。そして、またね、と言って回線を切った。

またね、と言ったのに。
またね、と言ったのに、君は逝ってしまった。

これほどまでに愛らしいヒカルを置いて。

———オレを置いて。

涙は天国に持って行けない、だから泣いてはいけない、とヒカルは言ったが、彼の青灰色の瞳から流れ落ちる滴は、彼のこれまでの澱を洗い流してくれた。

ヒカルは彼の外出を見届けた後は、日中はフランス語を覚えるためにフランス語と日本語の混じった会話をしながら遊び、昼寝をし、そしてシャルルの帰りを待つ。
夜は定時に帰るようになったシャルルの帰りを待ち、食事をし、そして、プレイルームで彼と過ごしながらいつの間にかまどろむ。

シャルルは眠ってしまった彼女を抱えて、彼が自らしつらえた子供部屋に運んでいく。
そして、ベッドに横たえてヒカルを柔らかな毛布でくるみ、彼女をさらに深い眠りに連れて行く。
彼はそれからまた仕事に戻り、時にはもう一度外出することも
あった。

これまでの激務に加えて、ヒカルに合わせた生活を続ける彼の負担は大きくなったはずなのに、彼は滅多に浮かべることのなかった微笑みを見せるようになっていった。
静かで単調で・・・穏やかな日々が繰り返された。

ヒカルがどれだけ愛されて育ったかがよくわかった。
彼女は好奇心旺盛ではあったが、猜疑心がない。
卑屈にもならず現実を受け止めている。
無垢な魂とはこういうことを言うのだと思った。
親の記憶はほとんどないはずだった。

事故の後、ヒカルをここまで育てた、シャルルが愛した女性の家族達は、本当に・・・ヒカルと彼女を愛していたのだと思う。
自らが親だと刷り込んでしまえば、楽であったはずなのに。
記憶を塗り替えてしまうことはせず・ ・・彼らはヒカルに本当の親のこと、本当のことを教え続けた。

彼女が受け入れるかどうかは別として、彼らは教え続けた。
そして、いつか会えるからそれまで生きろとヒカルに教えた。

・・・その昔、彼女がシャルルに言った言葉と同じだった。

これほどまでに愛くるしい彼女を手放した彼らの心中を想像する。

でも、シャルル・ドゥ・アルディはヒカルを日本に帰すことは考えなかった。
考えられなかった。・・・いや、考えたくなかった。
取り上げたと思われても良かった。
それでも・・・ヒカルがどうしても必要だった。
穏やかな人生は自分にはありえないと思っていた。
こういう生き方しかできなかった。他の生き方を知らなかった。
———運命のあの人に会うまでは。


そして彼女の愛は彼には向けられなかった。
一時、成就したかに思った愛を・・・彼は友に戻した。
二人の惹かれる様を見て、彼は彼女を送り出した。
・・・彼は独り占めできないくらい彼女を愛しすぎてしまった。
一瞬だけ味わった躍動する生を謳歌した期間は、彼ひとりだけのものにすることにした。
誰にも暴くことができないように、系図原簿から活動記録を削除した。

そして今・・・彼はあの人と友の忘れ形見を目の前にして、どうにもならない息苦しい想いを蘇らせた。

どうしてもあの人を思い出してしまう。
どうしてもあの人を愛していると思い知らされてしまう。

それ故に・・・・自分の今を顧みることを躊躇う。

しかし彼は戻ってきた。
戻って来たことによって新たな苦悶を知った。

「明日は外出だな。・・・寒くないように」
彼はそう言うと、ヒカルは寒くないよ、と言って笑った。
頬がまだ赤かった。

先週、ヒカルは熱を出して2 〜 3 日寝込んでしまった。
慣れない生活にからだがついて行けなかったらしい。
シャルルは、復調したばかりのヒカルの体温管理をしておくように、と傍近くに佇む使用人に命じたつもりだった。
それなのに、彼女は自分は寒くないとシャルルの会話に返答をした。
フランス語の会話だったのに。

彼女の聴力と語学力は素晴らしかった。
彼女が寝込んでいた間は、彼は激務の合間、どうしても着手しなければならないいくつかの案件を処理した以外は完全にオフにし、ヒカルに付き添った。

こどもの発熱は良くあることだから、とわかっては居たが、彼はどうしても彼女の傍にいたかった。
自ら指示して作らせた粥を、やけどしないように木製のスプーンで彼女の口許に運び、汗を拭き、こまめに検温する。

彼女の薔薇色の頬が赤くなり、苦しそうに唇を開いて、ぽつりと「おかあさん・ ・・」と言った時には、彼は咄嗟に彼女の柔らかい手を強く握った。
誰も知り合いのいない異国の地に来て、彼女が漏らした最初の嘆きだった。
シャルルはその言葉を聞き・・・・そして「ごめんよ」と言った。


端正な頬が歪み、青灰色の瞳の端から、美しい涙が一筋二筋、漏れ墜ちた。

ヒカル。
オレは君の人生を奪った。
いつか、本当のことを知って、オレを恨んでも良いよ。
君の父と母の愛を、君が受けるべき両親の愛を奪ったのはオレだ。
君の両親は、オレが呼び寄せなければ死ななかった。
それでもその哀しみを受け入れて、両親の愛と違った愛で溢れた日々を過ごしていたのに、オレが君を日本の親族から引き離した。

一生分の夢を見た。

オレはあの人にそう言った。
でも・・・あの人はもういない。
いないと思いたくないけれど、会えない。
一生分の夢を見たと言ったのに、オレはまた夢の世界に入ってしまった。
まだ、夢を見ているのかもしれない。
決して夢をみないのに。
時々、あの人の声を聞く。


そして一瞬、夢の世界に連れて行かれる。
あの、懐かしい日々に連れて行かれる。
そして・・・
決してシャルル・ドゥ・アルディが思わない「もしかしたら」と言う言葉を繰り返す。
もしかしたら・・・と。

もしかしたらはありえないのに。
もしかしたら、あの人は生きているかもしれない。
もしかしたら、ヒカル、君はオレの子供として生まれていたのかもしれないとさえ妄想を抱く。

ヒカル。
これから君が受けるべきだった全部を君に与えよう。
でも、君の両親だけは返してあげられない。
これはオレの贖罪だ。

オレの一生分の愛を君に注ごう。

一生かけて、償う。
一生かけて・・・・君に幸せだと言わせてみせる。

「あしたはおでかけ?」
「そう。・ ・ヒカルも一緒だ。」

シャルルは微笑んだ。
夕食後のプレイルームで、彼女は絵本を見ていた。
彼の・・・最も好きな本だった。「幸福の王子」だった。
挿絵を見て「てんしさんのようだ」と言った。
彼は微笑んだ。
「昔、オレが好きだった本だ。ヒカルには・・・少し早いかな。」
「そんなことないよぅ」
ヒカルが頬を膨らました。
その様子も・・・なにもかもがあの人を思い出す。

彼女は日仏ハーフだった父親と日本人だけれど非常に色素の薄かった母親の特徴を引き継いでいた。
茶色の瞳は、あの人よりずっと・・薄かった。けれども茶色の髪はあの人より、少しだけ濃かった。
そして強いうねりのある癖髪だった。
大きなアーモンド型の瞳、薔薇色の頬に、ふっくらした唇。
日本人の特徴である、肌理の細かい象牙色の肌。
柔らかい爪。
けぶった眉。
長い睫の下で影が踊るくらい彼女の睫は長かった。

あどけない表情はくるくる変わる。

しかし・・・
彼女はシャルルを「てんしさん」と呼んだ。
決して「シャルル」と言わなかった。
発音は完璧なのに、と従妹は言っていた。
けれども、彼女はシャルルの名前を呼ばなかった。
よほど・・・「これから父親はシャルルになる」と言い聞かされてきたのだろうか。

それを思うと胸が痛んだ。

彼女の無言の拒否のように思えた。
彼を否定しているかのように思えた。

ああ・・・・
天使を得てなお、オレは満足できずに墜ちていく・・・
彼は青灰色の瞳をゆっくり閉じた。
吐息を漏らす。

しかし、次には、シャルルは、彼女にゆっくりと優しい声音で言った。

「そう。あしたは出かけよう。ヒカルの好きなショコラを買い
に。それから・・・少し散歩しよう。」
ヒカルが歓声をあげた。
両手を口元に持って行き、顔を上気させた。

「てんしさんとお出かけ!」
「ああ、だから、今日は早めにお休み。」
「はい!てんしさんもあしたははやおきだね!」

そんなに早い時間から店は開いていないよ、と彼は言おうとして・・・そのまま微笑むだけにした。



そのときのことだった。

部屋の戸口で・・・声がした。

「・・・・それはなに?」
シャルルは扉に目を遣った。
そして、目を細める。

「ルイ・・・・明日の帰りと聞いていたが。」
ノックくらいしろ、と冷たい声でシャルルは言った。

「息子が自宅に戻るのに、予定を繰り上げてはまずいのかな。」
彼も冷たい声で応えた。
ルイ・ドゥ・アルディは、シャルルと良く似た顔で、微笑んだ。
しかし、青灰色の瞳は笑っていなかった。

「ただいま、お父様」
彼はそう言って、ヒカルに視線をやり、察したように日本語でそう言った。

ルイ・ドゥ・アルディは冷ややかに父親を見た。
シャルルも同じように・・距離を置いて、彼と良く似た息子を見た。

「監護権を取得したので、今後彼女はこの館の住人になる。
彼女はヒカル・クロス。
 ・・・ルイ、妹と思って遇するように。」
「僕に妹ですか」

皮肉たっぷりに、彼は言った。
青灰色の瞳に、金髪の彼は笑った。

シャルルが白金色の髪色だったのに対し、彼は完全なる金髪だった。
どちらかというと、彼の従妹の髪色だった。

名前のルイに相応しい色だった。

フランスの太陽王の名前の通り、太陽の髪を持っていた。
甘い金の色を持ちながら、彼の瞳は冴え冴えとしていた。
ルイは・・・星辰(※注 天体)の子と呼ばれた。

太陽の髪と冴えた月の瞳を持つ、楽園からやってきた最高の子供を、シャルルは冷たく見据えた。

「父上。あなたは、僕と同じように・・・自分の凍結精子を使って、誰かに子供を産ませたのですか?・・・あの運命の人に?あなたも酔狂な人だ。」
「ルイ!」
シャルルが声を荒げた。

決して怒鳴らないシャルルが声を大きくしたので、ヒカルがびくり、と肩を震わせた。
彼は止めなかった。

「冗談ですよ。話は叔父上から聞いています。」
帰宅したばかりの彼は、まだ上着を着たままだった。

焦げ茶の千鳥格子の揃いを着て、彼は面白そうに室内に入って
きた。
そして、入り口近くのソファに腰を下ろし、じっと・・・ヒカルとシャルルを見た。

彼女に聞こえるように。
ルイは、面白そうに身上を話し出した。
「よくよく・・・僕は面白い運命を味わうことになりそうだと思い知りますよ、父上。
だってそうでしょう?
遺伝上の母は、躰の線が崩れるからという理由で代理母に僕を産ませ・・・遺伝上の父は僕が生まれてからもしばらく認知しなかった。
結婚することで運命の人と訣別することが怖かった情けない父親を持つ僕は、相当幸せ者で
すね。
生まれて何年も経過してからようやく婚姻にこぎつけたのに、今度は挙式当日に精神錯乱を起こした夫から、離婚を申し出られた母上は、少しばかり哀れですよ。
・・・哀れ。
この僕が哀れと感じるくらいです。
けれども彼女は卵子を提供しただけで元アルディ夫人という肩書きを得たわけですからね・・・どっちもどっちでしょうか・・・
・・・僕を生み出すことが結婚の条件だった、遺伝上の母とは結婚式の翌月に離婚し・・・あなたの特質を損なわないで生まれてきた僕を・・・寄宿学校に入れて、あなたはどこかの国の古典物語に出てくるような登場人物のまねごとですか。」

「その言い方はあいつ譲りだな」
シャルルは怯まなかった。

彼の遺伝子を半分受け継ぐ、この世で最も優良な種と言われる星辰の子に反論した。
「凍結精子を使って勝手に出産させたのは、一族の決定で、オレは認めていない。
突然5歳になろうかというこどもを見せられて、認知しろと言われても容認できない。
それでも・・・・お前を認知するために、婚姻を承諾したのはオレの意志だ。」

ルイ・ドゥ・アルディは、かつての彼と同じように、理知的な瞳でシャルルを見据えた。

彼と同じ年頃の時に、「幸福の王子」と読んで欲しいとせがんだシャルルの面影は、彼にはなかった。
老成した瞳と、皮肉をたっぷりの微笑みが・・・・シャルルの半身であり、ルイの教育係である彼を彷彿とさせる。

「叔父上のことを悪く言っても、所詮はあなた方は同じだ。
同じ遺伝子だ。」
彼は肩をすくめた。

「まぁ、生まれたことも知らなかった両親より、生まれたときから実験材料と言い切って僕に最高の教育を受けさせてくれた叔父上の方が・・・・まだ良いね」
「お前は相当お喋りだな」

シャルルは立ち上がった。

「確かに、ルイ。お前はオレの息子だ」
シャルルはそう言った。けれどもその視線はヒカルに向けていたものと全く違っていた。

「最高の栄誉も当主の座も・・・いずれ明け渡そう。
しかし、今は駄目だ。
お前は・・・・だんだん・・・人でなくなっている。」
「人でなしに言われたくないね」
「ルイ。」
シャルルはため息をついた。

彼との話はまったく堂々巡りで、何を言っても伝わらない。
そして、ルイは・・・ヒカルを見やると、面白そうに、天使のようなうっとりする微笑みを浮かべた。
天使なのか悪魔なのかわからない、蠱惑的な微笑みだった。

「ヒカル。・・・僕はルイ。
哀れな父の愛玩物として、ようこそお越しくださいました。
 ・・・心より歓迎しよう。」
ヒカルにはその言葉は理解できなかったようだ。

ルイ、と繰り返した後、「てんしが増えた」と言った。
ルイは可笑しそうに言った。
「父上。あなたは・・・・・高い知能を持っているのに、どうしてこういうものしか愛でることができないのですか。」

————その瞬間だった。

ソファに悠然と腰掛けていた、ルイの体が吹き飛んだ。
シャルルが手の甲で、彼の頬を打ったからだ。
まったく、力の加減をしなかった。
高く音が鳴り、ルイはソファから体を落とした。

「てんしさん!」
ヒカルが叫んだ。
「ルイ。それ以上の侮辱は・・・アルディ家当主を侮辱したとみなす。」

侮蔑の表情で、シャルルはルイを見下ろした。
彼の手の甲も、赤く腫れ上がった。
しかし、ルイは打たれた頬を少し抑え・・酷薄そうな唇を歪
めた。

ぽたり、と唇の端が切れて血が滴り落ちた。

「ああ、良いね・・・退屈しないよ・・・」
彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。

ルイの高い鼻梁から一筋血が滴り落ちた。
シャルルは我を忘れてしまい、こどもの血管は脆いことを忘れていた。
彼の息子は・・・ゆっくりと起き上がる。
ぽたりと床に血が落ちた。
しかし、ルイ・ドゥ・アルディは自分のポケットからハンカチーフを取り出して、どこまでも優雅に顔に散らされた飛沫を拭った。

「面白い。」

ルイは笑った。
こどもの顔をした老人が笑った。

「人でないと実父に言われたのに、それでも僕の血は赤い。
おかしいですね。」
「・・・ルイ・ドゥ・アルディ。部屋に戻れ。」
「それは父としての忠告ですか、当主としての命令ですか」

彼が青灰色の瞳をじっと、同じ瞳を持つ年上の男に向けた。

「お前の好みの方で良い。
・・・オレが出て行けと言わないうちに・・・行け。」

ルイは満足げに彼の言葉に肯き、薄く笑うと、ダンスを申し込む紳士のように深く礼をして、黙って部屋を出て行った。

「ルイ」

ヒカルが呟いた。
シャルルは息を大きく吐きだして、ヒカルに向き合った。
今日、ルイが帰ってくることは予定していなかった。

彼はいつも告知した日時ぴったりにしか戻らない。
明日、ヒカルを連れだして、そのまま日本に一度戻すつもりだった。
ルイはその後帰宅し、しばらくの滞在の後はまた寄宿舎に戻って・・・ヒカルとは当分顔を合わせない算段だった。

「・・・ヒカル」
『幸福の王子』を胸に抱いたままの、ヒカルに声をかけた。
彼女は、茶色の瞳でルイに出て行った扉を見つめたままだった。

「ヒカル」

彼は、もう一度呼びかけた。
彼女を驚かせてしまった。
いくら幼い年齢だと言っても、今の剣呑な雰囲気はわからないはずがない。
・・・・だから見せたくなかったのに。
2 度、呼びかけられて、ヒカルはシャルルを見上げた。

「てんしさんが泣いている。」
彼女が哀しそうに訴えた。

「・・・ヒカル、オレは泣いてないよ」
「・・・・」
ヒカルは黙ったまま、シャルルの長い脚に寄り添った。
「・・・ヒカル、説明しておこう」
シャルルは、ソファに座った。ルイと同じソファには座らな
かった。
そうして、ヒカルの腕を取り、両手で肩に優しく手を添えた。
白金の髪が揺れて、彼の精悍な頬が少しだけゆがみ・・・苦しそうに話を始める。

「彼は・・ルイ・ドゥ・アルディ。オレの・・息子だ。
遺伝上の、ではあるけれど、彼はきちんと籍にも入っているし、母親の実家の後ろ盾もあり、一族の期待を担っている。
この2 年、ほとんど当主の責務を果たさないで来られたのは・・・彼が跡継ぎだからだ。
・・・オレはあの一族の当主だけれど、一族はみな、いざというときのために、冷凍精子か卵子を提供する。
オレは・・そんな時は来ないと思っていた。
オレが死んだ後になら何をしてもいいけれど、と軽く考えていた。
将来の臓器機能不全でも起こしたときに、移植培養の過程で使用するときが遠い未来に・・オレが死んだときくらいまでには到来するだろう・・・若いオレはそう考えていた。」

苦悶に満ちた表情で、彼は囁き続けた。
ヒカルに話すと言うよりは、自分に言い聞かせているようだった。

「いつか、いろいろと・・話すこともあるかもしれないが、今はわからなくていい。
でも、記憶してくれ。
君の若い脳は、すさまじい速度で日々成長している。
だから、きっと、オレの言葉もいつか何かの拍子で思い出すことができる。
そのときまで、秘密の引き出しに閉まっておいてくれ。」
ヒカルは彼の話を黙って聞いていた。

彼女の年齢で理解できたとは思えなかったが、彼女の耳の良さと記憶力の良さに期待した。

「・・・オレが愛しているのは・・・未来永劫、あの人だけだ。・・・
ファム・ファタルは・・・定めた人は、あの人だけだ。」
「てんしさん」
ヒカルがそのとき口を開いた。

彼が長い告白とも告解ともつかないような話を終えて、君も休みなさい、と言って立ち上がったときだった。
「てんしさんが泣いている」
彼女はまた、そう言った。

シャルルはそこで初めて・・・彼女の言う「天使」が自分を指すのではないと気がついた。
「ルイが泣いているって?」
ううん、と彼女はかぶりを振った。

「小さいてんしさんも泣いているけれど・・・大きいてんしさんもないているのね。」
「泣いていないよ。・・・オレと彼は泣くほど・・・情濃くはない。
あいつの顔を見ただろう。
始終・・・微笑んでいる。
冷たい微笑みでいつも嘲笑しているのさ。
オレを含めた周囲の誰も彼も。
自分自身も。」

「涙を流すだけが泣くと言わないよ」

彼女が不意に、滑らかな、大人びた口調で言ったので、シャルルは嘲笑的な笑いを止めた。
青灰色の瞳を大きく見開く。
その口調は・・・あの人のしゃべり方にそっくりだった。
見たままだけが真実ではない。
目と耳と心と・・・五感すべてで真実を見るべきだ、と言った人を思い出した。
今、彼の口から漏れたばかりの、死ぬほど愛していると告げたあの人の口調だった。

彼は呻いた。
あの人の名前を呟く。

「それはおかあさんです・・おかあさんは天国に居ます」
ヒカルがそう言ったので、我に返った。

ヒカル。

彼がもう一度呟く。
はい、と彼女が返事をした。

もう、そこには・・・ヒカルの体を借りて降臨したあの人はもう居なかった。
シャルルが凝視したときにはいつものあどけないヒカルだった。

「泣くと天国に行けないよぅ」
彼女はそう言って笑った。

ヒカルが胸に抱いていた絵本を見た。
「この本はてんしさんのことを書いた本?」

「いいや違うよ・ ・・ ・とても象徴性のある本だけれど、その登場人物の誰にもあてはまらない。少なくとも、我が一族は・ ・・誰も倖せになれない。」
「それなら・・・てんしさんは・・・てんしさんたちは、この本の全部にあてはまるのね」
彼女のその答えに、シャルルは返事をすることを躊躇った。
幼い彼女に切ない問いをされた。

ルイ・ドゥ・アルディが泣いていると言う。
そして自分も泣いていると言う。

あり得なかった。
彼とは会話にならない。
意思疎通もできない。

彼と話していると、昔の自分を思い出す。
そして自分の半身を思い出す。

だから、見たくなかった。見るのが辛かった。
だが・・・ヒカルは初めて会ったばかりのルイとシャルルの喧噪を驚いたり怯えたりするどころか、哀しそうに眺めていた。

そして、その様子を見た後で、これまで感想を言わなかった彼女が、その本を指して彼に問いかけてきた。
シャルルが幼い時くり返し読んだ本の意味するところについて、彼女が語りかけてきた。
まだ、その話がわかる年齢とはほど遠かったのに。

・・・君の娘は・・・いや、君たちの娘は、相当に・・・手強いな。
シャルルは薄く微笑んだ。

「ヒカル。その問答は、保留にしておいてくれ。」
回答を待たせたり、保留にしたりしたことのないシャルル・ドゥ・アルディはヒカルにそう言うと、彼女の小さな額にキスをした。
薄い唇を寄せて、初めて・・・彼女の額に触れた。

これまで、アルディ家の中で・・・長らく、当主の挨拶のキスを受ける者はいなかった。
ヒカル・クロスをとことん甘やかすと宣言した当主は、彼女を抱き上げると、大きな声を上げて喜ぶ彼女に笑いながら「さぁ、寝る時間だ」と言って部屋を後にした。


少しだけ離れた廊下の影で、身を隠すようにして様子を伺うルイ・ドゥ・アルディに彼らは気がつかなかった。

楽しそうな彼らの声と姿を、無表情な顔を貼り付けたまま、黙ったまま窺っていた少年には、気がつかなかった。

「ヒカルを迎えに来た」

そう言ってアルディ邸にやってきたのは、あの人の妹だった。
数々の「行事」の席で彼女を何度か見たはずだったのに、シャルルは彼女の姿を見ると、息が詰まりそうになった。

目の前の彼女は、あの人に良く似ていた。
彼女たち姉妹は良く似ている。

でも、長女と三女は良く似ていたが、次女のあの人は、あまり似ていないと思っていた。
本人も常々そう言っていた。

しかし、こうして対峙する彼女はとてもよく・・・あの人に似ていた。
茶色の瞳に茶色の髪・・・ゆるく後ろで結び、きゅっと唇を結んで、哀しそうにシャルルを見つめる様は、あの人を彷彿とさせる。
酷似していなくても類似していることそのものだけで、彼の心はさざめいた。
彼はそれだけで落ち着かなくなった。

苦しくなる。

彼女の血を引く者が居るというだけで・・・心が乱される。
感情を乱してはいけないと教えられたのに、乱れてしまう。
まだ独身の彼女は、あの人とよく似ている。
若いというよりは幼い。
「青春の輝き」の頃の彼女の雰囲気の良く似ていた。
そして、彼から受けたヒカルの失調の連絡に、すぐさま来仏する行動力は、まさしくあの人そのものだった。


ヒカルが風邪をぶり返して、熱を出してしまった。
予定していた日本行きを取りやめにせざるを得なくなってしまった。
でも・・・シャルルはそれを喜んだ。

彼女がシャルルの傍らに居るのであれば、どんな状況でも良かった。
熱に苦しむヒカルを見て、熱が出て良かったと思った。
シャルルは・・・・自分のその感情を隠すしかなかった。
この歓びは、誰にも知られてはいけない。
短い滞在で、すでにヒカルが自分にはなくてはならない存在だと知られてはいけない。
そう思っていた。

「ショコラ。」

ヒカルが残念そうに言ったので、それはまたいつでも行けるだろう、それほどまでに食べたいのなら取り寄せるよ、とシャルルが言うと、ヒカルはそうじゃない、と言った。

「てんしんさんと一緒に行きたかった。」
彼女はそう言った。
シャルルと行動することに意味があると言った。
彼は薄く微笑んだ。
これほどまでに・・・愛おしいと思う存在を知らなかった。

でも、彼女を愛おしいと思うから、あの人の妹に引き合わせる気になった。

愛おしいから、離れていくと思っていてもそうできない。
愛おしいから、手元に置くことが出来ない。

これはかつて、彼が味わったパラドクスだった。
病気だからと言って、来訪を断ることも出来たのに、シャルルはアルディ家の敷地に彼女の叔母を招き入れた。

ヒカルの叔母が来訪していると聞くと、ヒカルはすぐさま、「会いたい」と言ったから・・・。

血は水よりも濃い・・・・
そう思わざるを得ない。

彼では、駄目なのだ。
彼では、病んだヒカルに「会いたい」「ここに残りたい」と、言わせることが出来ない。

ルイという実子を遠く別棟の離れに追いやって久しい。

食事も別だ。

やむを得ない場合を除いては、彼の顔はほとんど見なかった。

いや、見られなかった。

その様子を見られてしまった。
彼女がここを去りたいと言っても仕方がないと思う。
・・・取り繕っても、いつかは露呈する。

それでも。
それでも、もう少し一緒に居たかった。

もう少し、ヒカルのもたらす明るい日差しを浴びていたかった。

暗い路を彷徨い続けたから。

あの人の妹は、ヒカルの部屋に入ると、持っていた荷物を床に落とした。
そして、ヒカルの横たわるベッドに駆け寄った。

涙をこぼしていた。
ヒカルの名前を何度も呼んだ。

そして、彼女が日本に戻ることをどれだけ多くの人が待って居るかと言うことを訴えた。
ヒカルは彼女の事をちゃんと覚えていて、叔母の名前を呼んだ。

叔母は「覚えていてくれてありがとう」と幼いヒカルに笑いかけた。

次に。
「迎えに来た」
あの人の妹はそう言った。

「もし、ヒカルがこのまま一緒に行くと言ってくれれば・・・一緒に帰ろう。そして、一緒に暮らそう。ずっと暮らそう。」
そう言った。

シャルルはその二人のやり取りを、ヒカルの部屋の扉付近で静かに傍聴していた。
聞くだけしかできなかった。
長い脚を組んで、腕を組み、そして、物憂げな青灰色の瞳を、良く似た叔母と姪に向けた。
彼らの絆に、シャルルは入り込むことができない。

だから、見守るしかなかった。
一抹の期待を込めて。
ヒカルのために、遠く日本から乗り込んでくる、あの人に良く
似た親族を止めることは出来なかった。

ルイとの諍いを見られて・・・このままごまかし続けることが出来ないと思った。
たとえ、どんなに調整して、ルイと顔を合わせないような生活をしたとしても、きっと・ ・・ 昨日の出来事はヒカルの心の傷になる。

それなら・ ・・ ・元の環境に戻してやることも必要なのかもしれない。
それは、シャルルにとってはあり得ない、未来の日常であったけれど。
ヒカルの日常が明るいものになるのであれば、それで良いと思えるようになっていた。

「一緒に帰ろう」
彼女はそう言って、ヒカルをぎゅっと抱きしめた。
汗を掻いていた彼女は、その熱さに少しだけ身じろぎした。
そして・・次に・・・
ヒカルは言った。

「帰らない。」
そう言った。

熱に浮かされているはずの彼女はそう言った。
叔母と、シャルルは言い返す言葉を失った。
彼女が次にこう言ったから。

「てんしさんがないているから。」
あの人の妹は、ヒカルの頬を撫でながら、言い返した。

汗ばんだ額に張り付いた茶色の髪を、指でつまんで、後ろに流した。
その細かい仕草に、ヒカルは目を細める。おかあさんみたいだ、と言った。
覚えているかどうかわからないのに、彼女はおかあさんに似ている、と呟いた。

「天使はヒカルがいないと駄目だと思うの?ヒカルが・・・天使の涙を止められるの?」
あの人の妹は感受性が強く、誰かを責めたりすることがない人だと、あの人が言っていたことを思い出した。
ヒカルの意思を確認しているのだと思った。
シャルルは黙って見つめるしかなかった。

「・・・・ちがう。」
「何が違うの?」
「てんしさんが泣くと、ひかるがかなしい。」
彼女はそう言った。

そして、遠く離れた扉に立っている彼に。頭を持ち上げて、微笑んだ。
晄の微笑みだった。
まさしく、その笑みそのものが天使の微笑みだった。

「・・・・ひかるはてんしさんのそばにいたい・・・」
「ヒカル。彼は天使ではない。
言ったでしょ?あなたの・・・お父さんになる人だと。」
「てんしさんだよ」
ヒカルは呟いた。

赤い頬をしながら、シャルルと視線を交わしていた。
そして、ゆっくりと・・・ヒカルは口を開いた。
ベッドの羽根枕に沈む、彼女の唇がゆっくりと動いた。
櫻色の唇から漏れた吐息とともに、彼女は囁いた。
囁いたけれど、それはシャルルには叫びのように聞こえた。
彼に、大きな声で話しかけている天使の歌声のように聞こえた。

「・・・シャルル。」
彼女は、初めて、彼の名を呼んだ。
そして・・・・今まで、一度も流さなかった涙を・・・天使の涙を茶色の大きな瞳からこぼした。
大粒の涙だった。
後から後から流れて、彼女の薔薇色の頬を濡らした。
「しゃるるぅ・・・・・・」
彼女は声をからして叫んだ。
何度も彼の名前を呼んだ。
これまで、決して彼の名前を呼ばなかったのに。

目を瞑り、苦しそうに彼女は何度もシャルル・ドゥ・アルディの名前を呼んだ。

「ひかるを・・・!どこにもやらないで・・・・!」
彼女はむくりと起き上がった。

寝間着のまま、彼女は起き上がり、そして、シャルルに向かってフラフラしながら走り寄った。
熱に浮かされた衝動だと言っても良かったかもしれない。
でも、彼女の叔母の姿は・・・ヒカルとシャルルの間にはすでに見えなくなっていた。

「・・・・ヒカル!」
ヒカルが走り寄る前に、シャルルは彼女に駆け寄っていた。
傍観するだけのはずが・・・彼女に歩み寄らずには居られなかった。

「いいこにしています。もう、なきません・・・・もう、なかないから。
いいこにしているから。
なみだはてんごくにもっていけないから。
・・・・・お熱ももうだいじょうぶだから。
だから、ひかるをどこにもやらないでください。どこにもやらないで。
・・・ひかるはここがいい。
ここにいたい。
どこにもいきたくない。
・・・しゃ・・・シャルルの・・・そばがいい。
ひかるはここがいい。
ひかるのおうちはここがいい。
シャルルのおうちがいい。」

いつになく饒舌な彼女の言葉に・・・シャルル・ドゥ・アルディは息が詰まった。
遣る瀬無くなった。

こんなに小さいこどもに苦悩させていた。
シャルルは、彼を父と呼ぶなと言った。
そして彼を父と呼ぶ息子と、偶然ではあったが引き合わせてしまった。

・・・わからない顔をしていたが、彼女はきちんとわかっていた。
「昶!」

彼は叫んで・・・そうして、走り寄った小さな彼女を抱きしめた。
涙が・・・泣いてはいけないと言った彼女の前で涙が溢れた。
彼の美しい、彫像の様な顔が歪んだ。
眉根を寄せて、奥深い瞼を閉じる。

青灰色の瞳から次から次に涙が流れ、抱きしめた彼女の額に落ちた。

「なぜ・・・なぜ、オレが手放すと言うんだ。君はオレの・ ・・最後の晄なのに・・・!」
彼は声にならないと言いたげに、そう押し殺した声で言った。
「ひかるはシャルルが良い。ここが良い。」
彼女はそう言った。

哀しそうに見つめる叔母を背に、彼女はシャルルに向かってそう言った。
・・・日本に定期的に帰すと言ったのに。

彼女の口にした石榴はほんの一粒か二粒だったのに。
冥王は・・・彼女を帰せなくなってしまった。
このために、地上が一年中冬になり・・・・作物が実らなくなり、絶えてしまっても良いと思った。
彼女を手放すくらいなら、何もかもを滅ぼしても良いと思った。

彼女の寝息が落ち着いた呼吸になると、あの人の妹は帰って行った。

「何が正解かは、ヒカルが決めることだ」そう言った。
すぐ会える距離だ、と彼女は言った。
そこも、あの人にそっくりだった。

シャルルは微笑んで・・・・あえて館に滞在しない彼女に礼を述べた。
礼には及ばない、すべて、ヒカルのためだ、と微笑んだ彼女の仕草が、また、あの人を思い出す。
彼女はシャルルのそんな物思いに気がついたらしい。

「・・・姉夫婦はあなたのことをいつも案じていました。
・・・どうか、幸せに。
そしてヒカルを幸せにして・・・」
彼女はそう言った。

ヒカルの体調が良くなって、しかるべき時期が来たら、日本にも寄越して欲しいと言っていた。
その気遣いの深さが、ヒカルと共通していた。
自分たちの満足でなく、ヒカルを最優先させる彼女に感謝した。

空港までアルディ家の自家用車で送っていくことにした。
彼女は非常に恐縮していたけれど、遠方から来訪したヒカルの親族を無下に扱うことは出来ない。
だが、当主自らの見送りは、過ぎた扱いだとして、彼女は輸送手段の確保だけをありがたく受けとることにする、と言って笑った。

姪の発言に衝撃を受けているはずなのに、彼女はヒカルを置いていくことを承諾した。

「だって、姉の娘だもの。・・・・彼女の選択に任せましょう。」
「それで後悔しない?」
「ええ。だって、あの姉のこどもなのよ?
何を言っても自分で納得しないと駄目でしょう。」
「そうだね」
シャルルは小さく笑った。

彼女の姉妹と言葉を交わせるとは思っていなかった。
静かにアルディ家を出る車の中で、ヒカルの叔母は、最後にひとつだけ、と忠告した。

「ヒカルは晄だけれど・ ・・眩しくて目を瞑らないで。
明るすぎる晄故の影に迷わないで。
顔を背けてはいけない。」

彼女の忠告だった。
ああ、そうするよ、とシャルルは微笑んだ。
良かった、と彼女は言った。
「あなたが・・・事故以来始めて見せる、シャルル・ドゥ・アルディらしい微笑みは、昶がもたらしたものでしょうから。
それを忘れないでいてくれれば良いのよ。」
彼よりずっと年下の彼女はそう言って去って行った。
ありがとう、と彼は小さく呟いた。
ヒカルの言葉を聞いた。
実の親族よりシャルル・ドゥ・アルディを選んだ。
その選択を「間違いだった」とは言わせない。
彼の願いから・・・彼女の人生の選択を狭めてしまったから。
もっといろいろな選択があったはずなのに。
だから、彼は彼女を幸せにしなければならないと思った。

義務ではなく。
心から。
彼女を愛おしく思うから。
可愛いと思う。
「愛す可し」と書く。
愛らしいと思うのではなく、愛おしいと思う。
あの狂おしい情念に勝るとも劣らない気持ちだった。



その一方で、そのやり取りのあった部屋の外で・・・
当主が修復にかかっている、作業の途中の、枯れた薔薇が散る温室で・・・
ルイ・ドゥ・アルディはひとり佇んで居た。
そして、誰に語りかけるでもなく・・・
薔薇をあしらった真鍮のベンチに座り、膝を抱えて、独り呟いていた。
それは・・・

彼にはよくある「自分でない自分」との会話だった。
彼は友も家族も心を許せる相手が居なかったから、彼の落とす影に話しかけることで彼は会話を成立させていた。
金髪が、陽の光を受けて、きらきらと輝いた。

しかし、その瞳は、こどもにあるまじき暗さを伴い・・・物憂げに、彼の創る陰だけを見つめていた。
ヒカルに来客があり、シャルルがすべての予定をキャンセルして来客接待に当たっていると言われた。
彼はシャルルの知己が来訪する際には、決して本邸に顔出してはいけないと厳命される。

「まるで昔のオレのようだ」

ルイ・ドゥ・アルディの教育係である、シャルルの弟はそう言った。
皮肉げに笑い、歴史は繰り返すというくだらない格言の通りになるね、と冷笑した。

ルイは、誰もこの温室に入ってこないことを確認してから・・・影に話し始めた。
それは・・・今回は、いつも話しかける「影」でなかった。
彼は、ある人物に向かって話しかけていた。

「ねぇ。・・・僕はね、帝王切開で未熟児で生まれたんだよ・・・代理母出産なのに。
陣痛によって母性が生じると困るからだってさ。
だから、僕を手放しても困らない相手に託して、代理母が僕を産んでも困らない時期に僕は生まれてきた。
そして、2 ヶ月に1 度は乳母が変わった。愛着を持たないように。
使用人達は母国語が違う者ばかりを集めて、僕に声をかけないようにした。
大勢の者に囲まれてもひとりであるということ植え付けられた。
物心つくころに・・・使用人達のあらゆる言語が名前と顔が判別できたときに、僕の容姿だけが当主から引き継がれたわけではないと判明した。

叔父上は僕を引き取った。
実験材料だと言った。
退屈だから、と言った。

・・・・。
・・・・。

———人間に必要な感情は多くないと教えられた。

ヒカル。
君はその『必要でない感情』の塊だ。
僕はシャルル・ドゥ・アルディから何もかもを奪うために、生まれてきた。
だから・・・何もかもを奪おうと思う。
彼から地位や名誉を奪っても、彼は屈しない。かつて、奪還した者はそれを失うことを恐れない。

でも・・・君は最後の晄だと言う。
彼はそう言う。

・・・・だったら。
彼から、君を奪おう。
彼の絶望する姿を見たい。
もう一度見たい。
・・・あのまま。
あのまま、儚くなってしまえば良かったのに、彼は・・・。
ヒカル、君を得て、彼は戻って来てしまった。
だから、僕は、僕の存在を証明するために・・・君を奪う。

何もかもを奪うのが、僕の生きている証だ。
僕はブラックホールで在り続けなければならない。
すべての者から奪わねば生きていけない。
僕自身は何も生み出すことが出来ないから・・・・。
自分で生み出せないから、奪わないと存在できない。」


ルイ・ドゥ・アルディは上品な青灰色の瞳を、ゆっくりと・・・薔薇園の薔薇に移した。
彼がこの館に来てからは、枯れた鉢しか知らなかった。
それなのに、彼の不在中にここは急ピッチで復旧されていた。
今はぽつりぽつり、とそのままにしておけと言った当主自らが、枯れた鉢の世話をして、
品種改良し続けた薔薇を元に戻そうとしている。
シャルル。
シャルル・ドゥ・アルディ。
元に戻るわけ、ないだろう?
品種改良した薔薇は、温室でないと生きていけない。
そして、一度枯れると復旧できない。
僕のように。
わかっているのに、敢えて求めるシャルルの希望を・・・希望の光を・・・僕は奪ってみせよう。

そのとき。
薔薇の種の交代が行われる。
この薔薇の一族の種の交換が行われる。
澱んだ血族の・・・新たな歴史を僕が築いて見せよう。

そのためには、まずは・・・当主の最も愛でるものをもらい受けよう。

絶望で苦しむが良い。
悶絶して涙を流すが良い。

そして死ぬまで死にたいと・・・もう一度思うが良い。
シャルルと同じ顔をした、子供の顔をした老人は、疲れた表情で微笑んだ。

しかしその闘志は・・・若い獅子のものだった。



expiation~Februusの娘~第二部(1)

■11

シャルル・ドゥ・アルディの生活が動き始めてから、幾年も経過した。
その間、彼は初めてヒカルが館にやってきた時以降の生活を崩さなかった。
手がかからなくなる年齢まで時間ぴったりに帰った。
もう決して、ヒカルに帰れと言わなかった。
ヒカルも帰りたいと言わなかった。

穏やかで静かな生活が始まった。
彼の最も・・・美しい時代だった。
「青春の輝き」より、もっと長い時間だったのに、短く感じた。
季節ごとに彼女を伴って、様々な場所に行った。
彼女がフランスに居ながらにして、故国を感じられるような、そんな景色を見せ続けた。
桜、紅葉、夕暮れ、月の夜、雪の朝の空気、優しい霧雨の感触、雷電の激しさ。
彼が教えた。
ひとつひとつの意味、それぞれの季節、さまざまな色の意味・・・

彼女の知覚にやわらかく語りかけるように教えていった。
あの人が愛した風景や人物や・・・色覚の世界を見せ続けた。
シャルル・ドゥ・アルディが微笑むようになり、館には笑い声と活気と暖かさが戻った。
前当主である彼の父の逝去以来・・本当に長らく絶えていた暖かさだった。
薔薇園の花はまた蕾をもち、そして最初に咲く花は・・・すべてヒカルに捧げた。

純美な景色だけを見せ続けた。
彼女が寂しくならないように。

やがて彼女が就学する年齢になると、彼はヒカルを日本人学校に入学させた。
普通のフランスの学校制度を利用しないのか、とヒカルの教育係である従妹が尋ねた。

「いつか、日本に帰る時のために」
シャルルはその時だけ、美しい顔をうつむかせた。

優しい従妹は、そんなシャルルの様子を眺めながら、あなたの幸せを願っています、といつも同じ言葉を繰り返したが、彼には届いたのか届かなかったのか、わからなかった。
彼は、いつまでも美しかった。

年齢を経て、なお美しい麗人だった。
憂いを秘めた顔貌になり、彼はますます、近づきがたい天使のようだった。

淡々と、シャルル・ドゥ・アルディは当主の仕事をこなしていた。
何度となく、再婚の話は出ては消えた。

結婚は二度としないと宣言したのに、彼は都度、拒否した。

必要ないから。

理由はそれだけだった。
生涯愛する人はひとりだけだと定めた。

愛がなくても結婚できる。
死ぬほど愛していても結婚できないこともある。
死ぬほど愛している人の忘れ形見を手元に置きながら、どうして他の女と結婚できよう。
戯れにあの人を思い浮かべながら、他の女と一夜を過ごすことはあっても、もう、愛に墜ちたりしなかった。できなかった。

もう・・他の女とは子供を作りたくなかった。
当主就任して間もない頃に誕生したルイは一族の「保険」だった。
不安定なシャルルに異議を唱える親族達は、彼の分身を作ることにした。
最も優秀な者を当主にするという目的のためだけに。
駄目だったら、彼の弟に同じことを施せばいい。
彼は随分後になるまでその事実を知らなかった。

だが、シャルルは、ヒカルを引き取るときに、親族会議を開いた。
ちょうど、彼の就任について交代を囁く彼らが勝手に出した招集通知を、どこで手に入れたのか、彼はその場にやって来た。
皆がどよめいた。
そして、眼光鋭く全員を見廻すシャルルの様子に・・・彼らは口をつぐんだ。
静かで強い光を放つ彼の瞳に誰もが黙った。
有無を言わさない彼の口調に、誰もが反対できなかった。

「・・・反論がないなら。オレは絶対だ」

彼は言い放った。
そして再確認した。
彼が当主であり絶対であり、冥界の王であると。
ルイのことを「不始末」と言った親族をその場で解任した。
そして、ルイに関するすべてのことを不問にするかわりに、シャルルはヒカルの養育について一切口を挟まぬように、と厳命した。

加えて、彼は主のつとめを果たしたのだから、彼は婚姻をしないと宣言した。
———そして今に至り、ヒカルだけを見つめる生活を選んだ。

彼女を溺愛した。





暑い夏だった。

ヒカルは、眩しそうに目を細めながら帽子をかぶり直した。
つばの広い白い帽子はシャルルが選んでくれたもので、ヒカルのお気に入りだ。
夏の時期は、学校が長期の休暇に入るので、彼女はいつも日本に行く。
「日本に帰る」のか「日本に行く」のかわからないけれど。
シャルルはいつも「行っておいで」と寂しく笑う。
だからヒカルは「帰ります」と言わない。
出発の日は・・・いつも彼は眠れないらしい。
朝の弱い彼が、その日だけは、ヒカルより早く起きて、薔薇の
剪定をしている。
今夏もそうだった。

「やぁ おはよう」

やはり、温室にシャルルは居た。

「シャルル。おはよう。早いのね」

その日だけは、毎年決まった会話から始まる。
シャルルはヒカルに微笑んだ。
最初に会ったときと変わらない。
彼はあまり年を取らない。

物憂げで上品な瞳の持ち主が、ヒカルに微笑んだ。
シャルルは朝の陽光が差す温室で、作業をしていた。
白金の髪が陽光に照らされて光り、ヒカルは彼がそこに居るのだと確認する。
彼は音を立てない。
静かに動く。
彼を見ると、天から愛された人間というのは本当に存在すると思った。

天からの御使いは、音もなく静かにやって来るという。
静寂の天使が居る。
幼い時は本当にそう思っていた。
時々、それでも、彼は本当に天から遣わされた使いの御子なのではないかと思う。

彼は何年経過してもまったく変わらなかった。

———ここで過ごす時間は、彼の唯一の趣味の時間だ。

そして、ヒカルはここに毎日通い、最高の状態の薔薇をシャルルの部屋に翌朝届ける。
彼女だけが許された特別な仕事だった。
だが、今日だけは、シャルル自らが薔薇の花を世話し、そしてヒカルのために最高の状態の薔薇を届ける。

大きくなって知ったことだが、シャルルが品種改良を行った薔薇はすべてに「ファム・ファタル」と名付けられている。

それは母を示す言葉だと知ったのも・・・随分後のことだった。

シャルル・ドゥ・アルディは・・・

一年のうち、一時期だけ、魂を彷徨う時がある。
それはあの哀しい事故があった時・・・
そしてヒカルが夏の休暇でこの屋敷を離れている時だ。
ヒカルは、その間のシャルルの様子を見たことも聞いたこともない。
彼女に決して見せないから、彼は荒れる。
そして箝口令でもって、彼の荒れた様をヒカルの耳に入れない。
乱れるのか荒れるのか沈むのか、それさえわからなかった。
でも、彼が、ヒカルに見せるシャルル・ドゥ・アルディでなくなることは確かな事実だった。


けれども。
彼女が休暇を終えて戻ってくる時は、いつもの「シャルル・ドゥ・アルディ」だった。
———この上なく優しく、美しい人。そして哀しい人。
ヒカルは微笑んだ。
彼が求めているのはヒカルの微笑みだった。

「今日、午後の便で行って来ます。」
「行っておいで」
いつもの通り、彼はそう言って微笑んだ。

「・・・今年は13 回忌だけれど・・・シャルルは出席しないの?」
7 回忌の時には揃って出席した。
けれども、今回はシャルル・ドゥ・アルディは行くのはよそう、と言った。
「・・・君が・・あまりにも、お母さんに似てきたから。」
彼は視線を薔薇の鉢植えに移してそう言った。
7 回忌の時、親族は、あまりにもヒカルが母に似ているので、どよめいた。
毎年会っているのに、驚きを隠せないと言ったように・・・涙を流した。
彼女にそっくりだと言い、父にも似ていると言った。
その会話に、シャルル・ドゥ・アルディは入り込めなかった。
彼の親しい友人である夫婦の忘れ形見を、ここまで育てた彼なのに、その絆に臆してしまった。

ヒカルに良く似た血筋の者達を見ると・・・
ルイを思い出して、恐れてしまった。
離れていても、これほど愛深く慈しまれているヒカルと。
ルイへまったく愛情を感じない「父」である自分のなんと違うことかと思い知った。
自分は・・・あの人の幼い時を知らなかった。
だから彼女がだんだん、あの人に似てくる、と親族が言う都度、戸惑った。
あの人と出会った時までのあの人の時間を・・・知らなかったから。

シャルルは以降、彼らの法事には参加していない。
こっそり、墓に行くことはあった。
でも、そこには彼らの遺骸はなかった。

魂もなかった。
風が吹くばかりだった。
彼女は風になりたいと言った。

生きていることを謳歌していた彼女は死んだときの話はあまりしなかった。
でも、彼女は死んだら風になりたいと言った。
風に還りたいと言った。

シャルルの目に映らない、風になりたいと言う愛しい人を・・・
彼は少しだけ恨んだ。
彼女の姿は形を変えてシャルルのところにやって来たとしても。
風ならば、彼は気がつくことができない。
君とあいつは風になったのだろうか。
あの事故の現場から・・遠く離れた日本に風になって還ってきたのだろうか。
そしてたったひとり遺されたヒカルの元に・・彼と彼女はやって来ているのだろうか。
彼の狂った魂には、もうそれを感じることは赦されないのだろうか。
そう、問答し・・・・以降、ヒカルと法事で日本に行くことはしなくなってしまった。
特に、その時期は・・・彼にとっては辛すぎた。
これほど年月を経過しているのに・・・まだ辛かった。まだ、愛していた。

彼女は、間もなく、シャルルとあの人が出会ったときの年齢になる。
長い年月が経過していた。
だんだん・・・彼女を手元に置くことが苦しくなる。
あまりにも似ているから。
容姿は・・・確かに似ていた。
しかし父親の血も引く彼女は、母の面影そのものかというと少しだけ違っていた。

茶色の瞳は母より薄い。
茶色の髪は、父に似て癖があり、焦げ茶色だった。
白く抜けるような肌理の細かい象牙色の肌。
背は、日本人女子にしては高い方だ。
でも、華奢な体つきは母親似だった。
あの人は小柄であったが、身長がもう少し伸びれば、ヒカルと同じ骨格のはずだった。
「死後是非解剖してみたいね」
「仕方がないわね」
そんな会話をしたことが、つい昨日のように感じる。

ああ、君は嘘つきだね。
約束を守ってくれなかった。

彼はヒカルに、今日、花を開かせようとしている薔薇を差し出した。
ヒカルは、ありがとう、と言ってそれを受けとった。
「ファム・ファタル・・・」
ここの花にはすべて、ファム・ファタルと名前がついている。
ヒカルは微笑んだ。
「シャルル。いつもありがとう。・・・私の天使。」
ヒカルは、シャルルに体を寄せた。

ヒカルは彼を「シャルル」と呼び、あのとき以降、「天使さん」と呼ばなくなった。
でも年に一度だけ、ヒカルは彼を「私の天使」と呼んだ。
それは、長い別れの直前。
この薔薇の園の温室で彼女の来訪を待つ、シャルルに向けられる言葉だった。

私の天使。
泣いてはいけない。
ひとりで泣いてはいけない。

天国に行けないから。
いつか、逢いたいから。
天使が涙を落とせば、天使は天国に戻れない。
涙は天国に持って行けない。
「私の天使」
その言葉に、彼は微笑んだ。
「いつか・・・・その言葉は『私だけの天使』と言う日が来るよ。
オレでない別の誰かに言う日が来るよ」
寂しそうに言うシャルルに、ヒカルは笑いかけた。

「あら。私の天使は・・・ひとりだけよ」
「どうかな」

シャルル・ドゥ・アルディは上品な唇を少しだけ歪めて笑った。
「さぁ。オレの天使・・・オレだけの天使。出発の支度をしておいで。
みんなに宜しく。ダンジョウやヒビキヤや・・・その他すべての
人に、君の元気な姿を見せてあげてくれ。」

■12


13 回忌にもなると、出席する親族はだんだん減ってくる。
先般、事故現場にはごく親しい身内だけで行ってきたばかりだった。
それでも、賑やかな方よ、あの夫婦らしいわ。
かつて、アルディ家まで乗り込んできた彼女の叔母は笑った。
なにくれと気を遣い、彼女にまめに連絡を寄越す叔母の心遣いがありがたかった。
父方の親族は、今でも・・・一緒に暮らそうと言ってくれる。
彼女が理系に進みたいという話をしたところ、祖父が元医者であるから、是非同じ路を進んで欲しいと言われた。

ヒカルの父も、医師を志していた。
研修医だった。
正直、彼らの記憶はほとんどない。
写真と・・・遺族から語られる思い出話だけだった。
うろ覚えなのは・・・
シャルルと初めて会った法事の席だった。
彼女は黒いワンピースを着ていた。

茶色の髪にあう茶色のゴムがみつからなくて、黒いゴムでごめんね、と叔母に言われて、うんと頷いたけれど気に入らなかったのを覚えている。

そして。

横たわる、真っ青な顔の異国の人。
自分にも異国の血が混じっているとは知らなかった彼女は、最初、なんて綺麗な天使なのだろうと思った。
憔悴していたが、彼は、とても美しかった。
白金の髪が散らばり、線の細い神経質そうな顔立ちで、苦しそうに目を瞑っている。
彼女の両親は天国に行ったと言われた。
泣くと天国に行けないと言われた。
だから、泣いてはいけないのだと自分自身に言い聞かせていた。

それなのに・・シャルルは泣いた。
ヒカルの顔を見て、泣いた。

透明な涙を見て、彼女は思わず、手を伸ばした。あまりにも美しくて儚げだったから。
このまま、透き通って、空気に溶けてしまうかと思った。
彼が、そのときにヒカルを抱きしめなかったら、本当に消えてしまうかと思った。

「おまえさんが幸せなら、それで良いよ」

毎年、必ず訪れる両親の旧友はそう言った。
時々、アルディ家にも訪れていく。

彼女だけでなく、両親の友だちだと言って、彼らは彼らなりの供養をしているらしかった。毎年、クリスマスカードは送るように、とシャルルに言われていた。
膨大な数のカードを、ヒカルは言われるがまま、丁寧に文字を綴った。

これらがみな、両親の知己であると知ったときは、少なからず驚いた。
そんな彼らはみな、ヒカルをみて、少しだけ涙ぐみ、両親のこどもだ、間違いなくあいつらのこどもだ、と言って微笑んだ。

日本には、彼らの遺骸はない。
遺品もなかった。
だから、墓は・・・からっぽのままだった。
名前だけが刻まれた墓標がぽつんと佇んで居るだけだった。

それでも、両親に会いにやって来る人は絶えない。
こんなに年月が経過しているのに。
その中でも、もっとも親しかったという、シャルル・ドゥ・アルディの元に居ることになったとき。

父と親友で・・・母を愛したと言う。
周知の事実だった。

シャルル・ドゥ・アルディは彼女を唯一の人と・・運命の人と定めて、こよなく愛したという。
でもその一方で、彼女がシャルルではなく、彼の親友を選んだとき、一番祝福したのは彼
だった。

そして・・・・彼の挙式会場であるランスに向かっていた、飛行機が墜落事故を起こしたとき。
彼は壊れてしまった。
彼は半狂乱になり・・・そして戻ってこられなくなった。

彼と彼女を知る人々は、ヒカルを見る度に思い出して・・そして若すぎる死を悼んだ。
元気にしているから、とヒカルが言っても、親のいない家庭で・・・

しかもフランスの名家に引き取られた彼女を可哀想だと言う者は絶えなかった。

可哀想じゃない。

ヒカルはその都度、心の中で呟いた。
私は・・幸せだわ。

シャルルはすべての愛情を、彼女に注いだ。
ルイをまったく無視して。
ヒカルの口からルイという言葉が漏れると、彼はひどく不機嫌になった。
彼は相変わらず、人嫌いで、繊細で、気むずかしい人間だった。
それを覗けば・・・シャルルと一緒に暮らす日々は、まったく問題がなかった。

幸せすぎた。

「・・・・カル?ヒカル?」

考え事をしていたので、名前を呼ばれて気がつくまでに相当時間がかかってしまった。
法事が散会になり・・・彼女はまた最後の挨拶をしに、墓標に向かった。
ここに両親は眠らないけれど・・・でもきっと戻って来てくれている。

そう感じた。

彼女は、黒いワンピースを着て・・・・黒い少しだけヒールのついた靴を履いていた。
身長は父親譲りだ。
茶色の髪の癖が気になる年齢だったが、それも父の贈り物だと言われた。
彼女は成長するにつれて、だんだん色素が薄くなった。
日本に居ると目立ってしまう。

茶色の瞳は薄いし、うねりの強くなってきた髪は焦げ茶色だった。
両親を知らない縁戚の者が彼女を見ると、ひどく驚く。
もう、それくらい年月が経過していた。
「はい!」
彼女は名前を呼ばれて振り返った。
法要を終えて、会食会場に向かうために、縁者達はみな移動を始めていた。

・・・・慌ただしいけれどもう一度だけ、挨拶を。

ひとりだけ、後から行くから、と言って彼女はしばし墓標に向き合っていた時だった。

暑い夏で、蝉が鳴いていた。

空には雲がなく、シャルルからプレゼントされた帽子をかぶりたい気分になっていた。
この席では不向きではあったけれど。

振り返って・・・そして、ヒカルは絶句した。

最近の親戚の者は名前が覚えられないので、自分の名前を呼ばれたら答えることにしている。だから、誰から名前を呼ばれても元気よく答えることにしていた。

だが・・・その相手はよく知った人物だった。


太陽のような金髪が、夏の日差しの中で輝いていた。
すらりとした長身に、長い手足。
優美な仕草。
天使のような、魅惑的な微笑みを強調する、甘美な唇。
そして・・・・シャルルと同じ、物憂げな青灰色の瞳がこちらを見ていた。
この空の下で、彼を見るとは思っていなかった。

「・・・ルイ」
ヒカルは呟いた。

■13

星辰の子と言われた、彼は微笑んだ。
日本式の儀式にあわせて、彼は黒いスーツを身につけていた。
スーツの上からでも、均整の取れた体がはっきりとわかる。
「暑いな。日本の夏は湿気が酷い」
彼はそう言ったが、涼しげに微笑んだ。
金髪が揺れて、輝いている。
「なんで・ ・・」
ヒカルはそう言った。
喉がひりつく。
自分が驚いているのだとわかった。

「親父殿の代理だよ」

彼はそう言うと、持っていた大きな白い薔薇の花を墓標に無造作に置いた。
ヒカルはルイが本当の理由を言っていないと思った。
シャルルからは、すでに大きな百合の花束が届いていた。
彼が白い薔薇を捧げるのは、彼自身が来訪した時だけだった。
しかし、彼女の気質は「それはうそでしょう」と言うことは出来なかった。
ルイなりの・・・何か理由があるのだと思うことにした。
彼はやれやれと言うように上着を脱いだ。

「これでオレの仕事は終わり。」
「ルイ。ありがとう」
ヒカルは礼を言った。

「当主の命令だからね・・・」
彼はそう言っただけだった。

この数年で、ルイは随分身長が伸びた。
シャルルの若い頃にそっくりだと言われている。
あれから・・・彼は飛び級であっという間に大学に進んだ。

そして今ではもう、社交界にひっきりなしに呼ばれ、彼の名を知らない者はいないだろう。
乗馬とフェンシングの大会では史上最年少で優勝した。
一方で、バイオテクノロジーやライフサイエンスの分野ではすでに何度も学会賞を受賞している。
近いうちに・・iPS 細胞を凌ぐ驚異的な研究結果を出す、と宣言し、世間を騒がせていた。

彼が取得した特許の数は数知れない。

シャルルの人生をそのまま歩んでいるような・・・そんな生き方をしていた。

ヒカルとはあれ以来、文字通り「つかず離れず」の状態だった。
帰宅すれば顔を合わせるし、話も食事もした。
けれどそれは通り一遍のことで、彼はすぐに別棟に引きこもってしまう。

英国の寄宿学校で学び、フランスに戻ってからは彼の叔父を教育係として様々な分野で成果を上げていった。
その一方で、華々しい社交界デビューを果たしていた。
彼の叔父とともに出席した宴での鮮烈なデビューは今でも語られる伝説だ。

アルディ家の新星を・・・星辰の子を彼らはいつのまには天陽(注:太陽の美称のこと)の貴公子と言った。
しかし彼は「星辰の子」と呼ばれることを好んでいるようだった。

すでに月の翳りを隠すことを覚えたルイは、人前では優しく明るく、麗しい若者だった。
ひとたびアルディ家に戻れば、気鬱な顔をし、無表情で冷たい顔に戻った。
「ここには体を休めに来ているだけだ」とそう言い放った。

そんなルイを・ ・・シャルルは無視した。
当主の命令だから、と言ったルイに、ヒカルはそう、と言った。

「シャルルに気遣いさせてしまったわ。
・・・それにルイにも。
今、オフなのでしょう?」
「これも仕事。」
彼はそう言った。

そして、ここは暑いから場所を変えようと言った。
「行くぞ。車を用意してある。」
「ルイ。私、これから・・・みんなと会食が」
「キャンセルして」
ルイは冷たく言った。くだらないというように、彼女に言った。

「死んだ者を思って食事か。・・・随分のんきな民族だね」
「ルイ」
困ったように、ヒカルは彼の名前を呼んだ。
「そうはいかない。」
「オレは2 度は言わない。」
彼は冷たく言った。
天使のような微笑みだったが、瞳は笑っていなかった。
「行くぞ」
彼は彼女の腕を掴んで、そして歩き出した。
ヒカルも長身の方ではあったが、ルイには遙かに及ばない。
体を半分つり上げられた格好になり、小さく悲鳴をあげた。

「ルイ!」
「少し黙れ」
彼はヒカルを睨んだ。ヒカルは口をつぐんだ。
彼の瞳には、何も映ってなかった。

暗い光しかない。
いつも皆に囲まれているときのような、あでやかな微笑みはなかった。
彼が良く・・うつむいて、何かをじっと考えている時があった。
見かけても声をかけても彼は反応しなかった。

彼の・・・彼だけの時間だと思うと、ヒカルはその時は彼に声をかけないようにした。
そのときの瞳と同じだった。
うつろで・・・どこか遠くを見て、そして何かを思い定めたことを、言い聞かせているかのような。
間近でその瞳を見て、ヒカルは息を呑んだ。

「ルイ。お願いだから。」
彼女は今一度哀願した。
「ルイ!」
ルイは無視した。
彼女をそのまま引きずり、墓地まで出ると、
通りに停めてあった車に合図をした。
彼はそのまま、黒塗りの車に片足をかけて乗り込み、そこを支点として力を込めた。

そして、彼女の腕を掴んだまま、そのまま引っ張った。
あっと思った時にはもう遅かった。
彼女は、後部座席のシートに投げ出された。正確には、ルイの膝の上に頭を打ち付けていた。

「出せ」
「ルイ!」
「君は人の名前しか呼べないのか。」
「そうじゃないけれど・・・」
「連絡はしてある。君は急遽、ヒビキヤに呼び出されてホテルに戻ることになっている。」
彼は長い脚を組んだ。そこでようやく彼女の腕を離した。

一体いつの間に・・・とヒカルがつぶやく。
「何処に行くの?」
「パーティー」
「え?」
「・・・今日はこれから、ちょっとしたイベントがある。その後、レセプションがあって、大使館の人間も財界人も来る。そこに顔を出すのが今回のオレの仕事。」
「それで・・・」
「急遽決まって、適当な相手がいない。ヒカルで手を打つことにした。」

それならそうと連絡してくれれば良いのに、とヒカルが言うと。
ルイは横目で冷たい視線を浴びせた。

「君に相談する必要はない」
「あるわよ・・・私の予定を勝手に変更した」
「オレの予定は絶対だ」
「私の予定もあなたと同じよ。大事だわ」

ルイは、気怠そうに、彼は大げさにため息をついた。
そして、ぎゅっと目を一度瞑ると、今度はヒカルに向き直った。

「・・・・・」

ヒカルは黙った。


「ヒカル。頼むよ。
オレはとても困っていて・・・君にしかお願いできないんだ。
何しろ、オレはまだ未成年で・・・大人の女性は同伴できない。
とても困っている」

魅惑的なその微笑みは、彼がアルディ邸では決して見せない微笑みだった。
彼の仮面が・・・ヒカルにも向けられたのかと思うと、彼女は唇を震わせた。

彼は嘘をつく。
自分を誤魔化す。

でもそれは彼が生きていく上の手段だと思っていた。

それなのに。

今、こうして、他の誰にも振りまく愛想をヒカルに向ける理由を彼女は解っていた。

ルイ。

あなたは私を傷つけたいの?
それとも・・・自分を傷つけたいの?

彼女を侮辱するためだけに、彼はヒカルに笑いかけた。
高い知性を持つ彼には、ヒカルの行動や困惑は手に取るようにわかるようだと言っているのだ。
そうして。
ヒカルにうっとりするほど甘い笑顔を見せたルイは・・・

そっと・・・彼女の滑らかな頬に手を当てた。
秀でたルイの額を、彼女の額に押しつける。
ヒカルはこれほどまでに、ルイに接近したことがなかったので、大きく目を見開き、体をこわばらせた。

「ヒカル・・・オレを見て・・・」

彼の青灰色の瞳が近づいた。彫刻の様な、整った顔が近づいて・・・そして彼女に優しく囁いた。

■14


「ルイ!」
ヒカルは叫んだ。
顔を背けようとするが、彼はヒカルの白い両の頬を抑えたからだ。
吸い付くような彼女の肌理の細かい肌に、ルイは一瞬、ほんの僅かに目を細める。

「喪服を着るヒカルも良いね」
「・・・離して」
「ウィ と言うまで駄目だ」
彼は小さく笑った。

「お願い。・・・からかうのはやめて」
「何が?オレを見てと言ったことが?」
「だって」

ヒカルは茶色の目をルイに向けた。
彼の両手はヒカルの頬に触れたままだった。
車が軽く振動する度に、互いの前髪が揺れて交錯する。
それくらい近い距離にあったのに、ヒカルは動じていなかった。
他の女達は、この距離は恋の開始の合図だと思い、頬を染めて目を閉じるのに。
まっすぐじっと、ルイを見た。

「ルイ・ドゥ・アルディはそう言わない」

————やられた。

ルイは小さく舌打ちした。
彼の誇り高さを彼女が突いたのだ。

彼は愛を乞うことはしない。
何かをねだることはしない。

それをよく知っているヒカルは、彼が「自分を見て」と言ったのが本心からでないことを指摘したのだ。
これを無視して、唇を寄せれば、彼はルイ・ドゥ・アルディであることを否定することになる。

「・・・よくわかっていると言いたげだな」
「そうじゃないよ」

彼女の頬を突然ぱっと離した。少し後ろに力を入れたので、彼女は車のシートに体を倒した。
ワンピースの裾から、ちらりと白い脚が見える。
喪服に合わせて暗い色のストッキングを履いていたが、それでも色の白さがわかるくらい透き通るような肌だった。

二の腕から伸びる長い腕。櫻色の短く切りそろえられた爪。
軽く結わえられた茶色の髪に茶色の瞳。
最近ますます色素が薄くなった。
まだあどけなさの残る頬や肩や項のラインのみ、彼女がまだ10 代半ばであることをあらわしていた。
何も宝飾品を身につけていないのに、彼女はそこにいるだけで・・・空気が違う。
シャルルがこよなく愛する宝玉だった。

唯一の、晄。

彼の魂と愛情を全部受けて育った、最愛の娘。
ルイは青灰色の瞳でヒカルを無表情に見た。
彼の頭の中では、何手も先を考えていた。
彼はチェスの名手でもあった。

「そうじゃないけれど・ ・・私たちは家族だし・・」
「家族?」

ヒカルの言葉に、ルイが眉を動かした。
笑い声もたてずに、嘲り笑った。
長い脚を組んで、タイをはずす。

「家族・・ね。ひとつの敷地に住むことが家族なら、オレはもうすぐ家族でなくなる」
「え?」
「・・・間もなく家を出る。パリ市外の叔父上の別邸に移る。そちらの方がいろいろと便利だしね」
「シャルルは知っているの?」
「なぜ許可がいるの?」
「だって、シャルルはあなたの親権者で・・・お父様よ」
「ヒカル」

短く、ルイがヒカルの名前を呼んだ。
ヒカルがはっとして、ルイを見る。

彼は怒っていた。
静かに・・・憤怒の気を発していた。
他人が見れば、よくわからない彼の微妙な変化をヒカルは察した。

「オレにとっては、父という尊称は無に等しい」
「・・・・・」

どうして彼らは歩み寄れないのだろうか。
ヒカルは常々この件について心を痛めていた。
いろいろ考えていろいろと行動してみたが、やはり彼らの態度を軟化させることはできなかった。むしろ、彼女が介入することでますます亀裂が大きくなる節がある。
だから距離を置いてそっと・・見守るしかなかった。
いつか、一緒に暮らしていれば、わかり合えるときが来る。
彼女はそう思っていた。
わかり合えるようになるチャンスを見計らっていた。
でも、これでルイが家を出てしまうと、本当に本当に・・彼らは他人になってしまう。

ルイはほとんど家にいない。

全寮制の学校に入っていたし、スキップしてあっという間に学校を卒業してからは、研修だ短期留学だと、理由をつけてはアルディ家を不在にしていた。
同じ敷地に居ながらにして、彼は帰ってきても挨拶もそこそこに別棟に籠もってしまう。
彼の別棟は・・・いつも遅くまで灯りが付いていた。

別れて暮らしてはいるが、ルイには母もいる。父もいる。
ヒカルには居ない。

どちらが幸せなのか、比べたこともなかったが、ヒカルは彼の苦悩を知っている。

薔薇の温室で・・・じっと・・・彼は自分の影を見つめて、何かを考えているというよりは影そのものに話しかけている様を何度も目撃していた。
彼女がその姿を見たことをルイは知っているのか知らないのか・・・

彼は年を経てますます、冷酷になった。
冷たい仮面と外向きの仮面を使い分けるようになった。
シャルルと衝突すれば、まだそれもコミュニケーションだと言えたかもしれない。
でもこの親子は・ ・・まったく接触しなかった。
完全に無視して、お互いに干渉しなかった。

「今日はアルディ家の者として顔を出す。
ヒカル、君も出席しろ。
・・・・こんな時にしか役に立たないのなら、なおさら出ろ。」

彼は当主の息子として・・・傲慢だが有無を言わさない強い口調でそう言った。

ルイ。
・・・どうしてそういう哀しい言い方をするの。

彼女は困ってしまった。
彼の真意がわからなかった。
自分に出来ることはなにか、と考えた。
少し考えてから・・・彼女は返事をした。

「———わかったわ」

見守ることしかできないのであれば・・・ヒカルはルイの傍で、ほんの少しの時間でも見つめてみようと思った。

彼と時間を過ごすことは滅多にない。
滅多に話さない。

そのルイが来いというのであれば、行ってみよう。

「準備は手配済みだ。ヒカル・・・人形は人形らしく、愛でられて
いればいいんだよ」

ルイは、歌うように楽しげに言った。
彼は美しい笑い顔をヒカルに投げた。
美しくて冷たい微笑みだった。

■15


なんて愛らしいお二人なのかしら。
広間に通されると、誰もがルイとヒカルに視線を注いだ。
ルイ・ドゥ・アルディは慣れた仕草で周囲に挨拶の目配りをする。
金髪が上から降り注ぐ照明に輝き、上品な青灰色の瞳を持つ見目麗しい貴公子に誰もがため息を漏らした。

主賓でないので、控えめなタキシードを着ていたが、場慣れした物腰や彼の容姿は否が応でも注目の的になる。
かの有名な「フランスの華」の息子である。
滅多に姿を見せない当主よりも、名代として彼は公式の場に積極的に姿を現していた。

社交界ではルイは有名人だ。

注目と賛辞は慣れてしまったかのように、優雅に微笑むルイの隣をヒカルは歩く。
ヒールが高くて、彼女はまっすぐ歩くのがやっとだった。
そして、彼が連れて歩いている少女は一体誰なのか、と誰もがヒカルにも注目する。
彼女はルイのタキシードに合わせたオーガンジーのドレスを着ていた。
濃い青丹色のドレスには細かい刺繍が施されていて、彼女が歩く度に微妙な光沢を出していた。
年若い彼女には渋い色合いであったが、彼女の茶色の瞳と少しだけ巻いた髪によく映えて、ますます肌の色の白さを際立たせていた。

すらりと伸びた腕には、プラチナの彫りの入ったブレスレットをしており、先端の留め具はさり気ないけれど最高級のダイヤモンドが光っていた。
宝飾品はそれだけであったが、十分に彼女の可憐な美しさを引き立たせていた。

ヒールのついたエナメルの靴底だけが際立つ深緋で、歩く度に見える程度だった。
少しだけ化粧を施し、何をどうして良いのかわからずに、ただ微笑んでいるしかできなかった。

「もっと背筋を伸ばせ・・・きょろきょろするな」
「ヒールが高くて絨毯に沈むの」

ヒカルが囁くと、ルイは少しだけ嫌そうに眉を寄せたが、すぐに無言でヒカルに自分の腕を差し出した。

「ありがとう」
「オレに恥をかかせるな。・・・わかっていると思うが。
みっともない姿は晒すなよ。」

大使館主催の催しの後のレセプションだった。
フランスのアーティストの作品展示会を日本で行い、協賛した企業や著名人が招かれるパーティーだった。この場で即売会も行っているとのことで、次の間には作品もいくつか展示されて
いた。
アーティスト本人達は、談話室で話し込むか、会場のごく限られたスペースで後援者たちと懇談しているかのどちらかだ。

中央には各界の著名人が集い、さながらサロンのようだった。

「本当に重要な主賓は広場の中央には居ない」
シャルルが良くそのようなことを言っていたので、その通りだと思い、ヒカルはくすりと笑った。
「随分余裕だな」
すぐ傍から声が降ってきて、自分はルイと腕を組んで歩いているのだということに気がつき、はっとした。
見れば、ルイが小馬鹿にしたような冷たい目つきで、彼女を見下ろしていた。

「離れろ」
「ああ、駄目。倒れそう」

彼女がぎゅっと彼にしがみついた。
彼は興味なさそうにまた視線を周囲に向ける。
ルイ・ドゥ・アルディは完璧でなければならない。
「フランスの華」である彼の実父は繊細で人嫌いで気むずかしいことで有名だった。
唯美主義であり、誇り高さがそうさせていたのだが、それ故に「棘の鋭い薔薇」として非常に近づきがたい存在ということである意味注目の的ではあったが。

だから、アルディ家の当主が結婚すると報じられたときには、誰もが彼の棘をくぐり抜けて彼を捉えた相手は誰だろう、と色めき立った。
しかも、相手との間に実子がいて事情があって結婚できなかったというロマンスは、今でも語り継がれている。

結局離婚することになったのだが。
この件について、アルディ一族は語ってはならないタブーとされたので、誰もその件については詳細を知らなかった。
その実子が同じ風貌でもって、かつての当主と同じ姿で、天使か神と見紛う容姿で来臨したわけだから、これはやはり彼は注目されて当然の存在だった。

「まずは今日の主に挨拶だ。・・・来い」

彼が方向転換したので、ヒカルはバランスを崩して、また彼に寄り添うような格好になり、腕にしがみついた。
その姿にため息を漏らす周囲の声などはまったく聞こえなかった。
ヒカルもこういった席でのマナーや所作は、ひととおりのことはシャルルに教わっている。
しかしシャルルは彼女をなかなか公式の場に出したがらなかった。
出れば、彼女はアルディ家との繋がりを聞かれるし、どんなに箝口令を敷いてもいずれは出自についておもしろおかしく騒ぎ立てられるからだ。
だから知識はあっても経験がなかった。

彼は優雅に主催者に挨拶をした。
白髪の好々爺と言った彼は、目を細めて、二人の初々しい様子や、ルイ・ドゥ・アルディの堂々たる挨拶に満足げに頷いた。
今日は当主は来られないこと、その代わりに名代としてやって来た自分が分相応にも来場した詫び等々。
社交辞令を正しい順番で美しい唇から順々に滑らかに紡いでいく。

「可愛らしいパートナーですね。どちらの方でしょう。」
彼がそう言うと、ルイは花のように艶やかに微笑んだ。
目を細めて嬉しそうに言う。

そしてそっと彼女の腰に手を遣り、彼女の体を引き寄せた。
ルイ、と小さく声を漏らすヒカルを無視して、彼は言った。
ヒカルの目から見れば、この物腰柔らかい優しげな雰囲気は彼の演技に他ならなかった。
しかしその演技を見抜ける人は、この会場ではヒカル唯一人だけだった。

ルイは優雅に言った。
少し頬を赤らめて。
年齢相応の、若い男子が見せる、恍惚の表情を浮かべる。

どこで学んできたのだろうか。
ヒカルが息を呑んだ。

「彼女は、ヒカル・クロスです。・・・親同士の言い交わした許嫁です」
彼女はえっと驚いて、彼の腕を勢いよく離してしまった。

その瞬間、ルイはヒカルの腰に軽く添えていた手に力を入れて、彼女を彼の体に密着させて、抱き寄せる。

腰を押さえつけられ、高いヒールを履いた彼女はそのままルイの胸に躍り込んだ。
驚きと感嘆の声が周囲から上がり、同時に彼女のこめかみにルイが形の良い唇を押しつけたので、更に周囲から「おめでとうございます!」という声が大きく沸き起こった。

「公式での発表は今日が初めてです。ああ、彼女はまだ未成年なので非公式でお願いします・・。ですが、彼女の成人を待って、式を挙げます。もちろん、ランスの教会で。
僕は気が長い方ではないので。待ちきれずにこうして連れて来てしまいました。」

わっと声が上がり、その場にいた誰もが彼と彼女に祝福の声をかけた。
その視線と祝辞の声と熱気で、ヒカルは眩暈がした。
高いピンヒールを履いていたので、足ががくがくするのがよくわかる。

「ルイ」

そう声をかけたけれど、彼は薄く笑うばかりだった。

・・・やはり、その瞳は笑っていなかった。

シャルルがヒカルに見せる、慈愛に満ちた少し哀しそうだけれども穏和な瞳とはまったく違っていた。
良く似た瞳は・・冷たく、まるで人形を干渉するかのように、醒めた青灰色だった。

シャルル。・・・助けて。

ヒカルはルイの思惑を知ろうとして・・・早速彼に手ひどく攻撃されたのだと知った。
彼は、ヒカルのことを、家族とさえも位置づけていないのだと思い知った。

「人形は人形らしく」
彼の言葉を思い出していた。

シャルル。
シャルル。

ヒカルが日本を発つときに見せた、シャルルの儚げで美しい笑顔が、ルイに重なった。

■16

その後、気がつくとヒカルは庭園に出ていた。
広場の熱気で、顔が火照っていた。

ルイ・ドゥ・アルディがヒカルのことを「婚約者だ」と言った後のことは覚えていない。
たくさんの人々に囲まれ、日本語とフランス語と様々な言語の入り交じった祝福の雨が降ってきた。
彼はひとつひとつに優雅に答え、ありがとうと言った。

いつの間にか、彼女に回されていた手は離されていた。
・・・・どこをどう彷徨ったのかは覚えていない。

高いヒールで、ふらつく足取りでたどり着いた先は、大分ひんやりしてきた庭園だった。
夏の月の下だった。

あまり広くはないが、よく手入れされている。
すでに季節を終わってしまった薔薇もいくつかあったが、彼女はよく知った場所を思い出しながら・・ようやく心から微笑むことが出来た。
そして遠くで夏の蝉が鳴いていることに気がついて、顔を上げる。

火照った頬に、ほんの少しだけ冷えてきた風があたった。

————夏の蝉。

彼女は目を閉じた。

今年の夏は暑かった。
事故のあった年も暑かったという。
この時期に鳴く蝉は、どこか・・・死者の魂のようだ。
墓地でもそう思った。

焦がれて、鳴く。
恋しくて、鳴く。
哀しくて・・・鳴く。

初めてシャルルに会ったときも・・・蝉が鳴いていた。
あれは母の、父の鳴き声だったのだろうか。
流感にかかって、一緒に連れて行けなかった娘に何かを伝えたかったのだろうか。
ルイの考えが解らなかった。
彼は、ヒカルを「親同士の言い交わした婚約者だ」と言った。
両親がシャルルとそんなことを言い交わしているなんて知らなかった。

彼はシャルルととても良く似ているけれど、彼は嘘をつく。
そしてその嘘を本当にしてしまう技量の持ち主でもある。
その一方で、真実を自分に有利にすすめる手駒として、何年も保有する傾向がある。
彼の言葉はどちらなのだろう。
少なくとも、彼が発したことで、効力を発揮するに違いない、最高の攻撃だった。
先ほど、ヒカルがルイに対して「それはルイ・ドゥ・アルディではない」と言ったことに対する反撃だと思った。

しかし攻撃とか反撃とか・・ヒカルはそう思いたくないなと思いを巡らせていた。

彼とは長い付き合いだ。

家族・・と言わないまでも、彼女の数少ない身内よりも、ずっと長い時間を一緒に過ごしている。
ルイがああなってしまったのはルイの責任ではない。
彼が負わねばならない業というものはないと思う。
だから、早くそれに気がついて欲しい。

・・・ヒカルを婚約者だと言って、彼に何かメリットがあるのだろうか。

シャルルに断りもなく、勝手に来日して、ヒカルと接触したことでさえ、きっとシャルルは激怒するだろう。
自意識過剰ではなく、本当にそうだと思った。

ヒカルに接触したことではなく、ヒカルの両親の法要に踏み行ったことに彼は激昂するに違いない。
余計に関係をこじらせてしまうのに、なぜ、あのようなことを言ったのだろうか。

「彼を少しだけ見つめよう」と思ったことを思いだした。
ルイには、ルイの理由がある。

「————イケダさん?」

突然、話しかけられて、彼女は振り向いた。

考え事をしていたので、人が近づいたことがわからなかった。
庭園へ出る大きく解放された扉から、ひとりの日本人女性が出てきた。

「あの・・・失礼ですが・・・それは母の旧姓です。」
ヒカルがそう言うと、ああ、そうだったわね、と彼女は笑った。

母の妹より少し年上で・・・姉よりも少し年下くらいだった。
自分も日本人だが、日本人は年齢を推測しにくい。
母と同じくらいの年齢の女性は、穏和な微笑みで近づいてきた。

「私・・・お母様と同級生だったの」
彼女が名前を名乗る。
聞いたことがある名前だった。
母の・・・7 回忌の時に弔電が送られてきた。
その相手が、たしかそんな名前だった。
そしてその人は有名な彫刻家の娘で・・・今は養子を迎えて結婚したはずだった。
自身も相当なコレクターで、絵画の収集家だったはずだ。

左薬指に、結婚指輪が光っていた。
こういったコレクターは眼光鋭い人物が多いのだが、彼女は穏和な・・静かで上品な女性だった。
記憶があやふやで失礼があってはいけないので、ひょっとしたら、と前置きしてヒカルが尋ねると、良く覚えているわねと手を叩いて喜んだ様は少女のようだった。

「黒須晄です」

彼女はそう言って挨拶すると、そう、大きくなったわね。
と彼女は笑った。
少し涙ぐんでいるようだった。

「お母さんに・・・彼女に良く似ているわ」
「良く言われます。」
「私は小学校の同級生だったのだけれど・・再会したのはあなたくらいの年だった。
すごく明るくて、意志が強くて、はちゃめちゃだったけれど・・・絵の上手な人だった。」

彼女は大きくなったわね・ ・と感無量のように、また頷いた。

「痛ましい事故でした。
あなたのことが・・・心残りでしょうが、どうか強く生きてね。お母様のように。」
「はい」

何か困ったことがあったら、いつでも連絡するように、と彼女は名刺を渡した。

「ここで逢えたのは何か意味があると思うの。」
自分の容姿が彼女を呼び寄せたのだとすると・・・今日法要があったことも考えると、何か・・本当に意味があったのかもしれない。
ヒカルは丁寧に礼を述べた。

「それにしても、先ほどの婚約発表。
今日の話題はこのお話しばかりよ。
・・そのときにお名前と姿を拝見して、もしや、と思ったのだけれど。」

彼女はおめでとう、朗らかに言ったのでヒカルは返答に困ってしまった。

「あら。まだ若いから。はにかんでいるのかしら」

ヒカルが黙っていると、彼女は微笑んで、嬉しそうに、肩を抱き寄せた。
小さく、彼女の母の名前を呟いた。
そしておめでとう、ともう一度言った。

「ランスの教会はアルディ家当主が結婚式を挙げる場所よ。
急がず、婚約時代を楽しんでね。」
ヒカルは言葉に詰まった。

誰かにおめでとうと言われたらありがとうと答えなさいと教えられた。
祝福の言葉は、自分も返事をすることで成就する、とシャルルに言われた。

「一方通行の賛辞は単なる音声でしかない」
彼はそう言った。

・・・・また、儚く寂しそうに笑う美しい人を思い出していた。
かつておめでとうと言われたけれど「ありがとう」と言わなかった。
彼はそう言って少しだけ微笑んだ。
その時のことを思い出していた。
「そうだ。あなたに贈り物をしていきたいのだけれど」

ここで会ったのも何かのご縁でしょう。
彼女はそう言った。
「アルディ氏に、預けていくわね。彼とは収集家仲間なの。
若いのにあの審美眼は素晴らしいわ。
彼に・・・お母様の・・彼女のデッサン画をお渡ししておくわね。
若い頃にね、・・・私の大切な人を描いてくれたことがあったの。
そのときのラフデッサンをあなたに贈るわ。ずっと、気にはしていたのよ。」

時間がないのでこれで失礼するわねと彼女はそう言って立ち去った。

———母の絵。
ヒカルは呟いた。

そうだ、母は・・・絵を描く人だった。
どんな人なのかは・・・・親族が語る母しか知らなかった。
自分は、母のことを知らない、と思った。

日本に訪れる度に、父の遺品や写真や論文などはいつも見ていた。
だから、将来は理系に進んでみたいと思った。
医学かどうかはまだわからなかったけれど、彼はシャルルを連れ出しに行ったモザンビークで無医療に苦しむ人々を見て・ ・・ 彼の路を決めたと言っていた。
その間に長らく付き合っていた母と結婚し・ ・・ヒカルが生まれて・・・・ようやく。
ようやく、これからと言うときに逝ってしまった。
父の軌跡はわかったけれど、ヒカルは、母が自分と同じくらいに何をしていたのか知らないことに気がついた。

彼女の友は多い。
彼女の友からもたらされる話もたくさん聞いた。

けれども。

母の遺したものを見ていないことに気がついた。
黒須晄の母ではなく。
結婚する前———のマリナ・イケダについて知らなかった。

夏の蝉がまた鳴いた。

空には、黄色い・・・ルイの髪のようなレモン色の月が浮かんでいた。
今日は濃い色に見える。いつもはシャルルのような色の月なのに。

おかあさん。

蝉になって私に何かを伝えたいのかな。
月を見せてルイのことをもっとよく知りなさいと言っているのかな。
それとも・・・この薔薇の庭を見せて・・・シャルルを案じていることを言いたいのかな。
よくわからないよ。
でも、教えてもらったら意味がないよね。

自分の目と耳とすべてを使って。

知らなくて良いことかもしれないけれど。
知ったら苦しむことになるかもしれないけれど。

———反省はしても決して後悔はしない。

おかあさんの口癖でしょ?
ねぇ。

おかあさんではなく。

マリナ・イケダという人を私は知りたい。
シャルルがこよなく愛した運命の人って、どんな人だったの?
彼女はもう一度・・・空を見上げた。
パリで見る星空とは違っていたけれど、あの月を。
シャルルも見ていると良いなと思った。

太陽が光るから、月も輝くのだ。
月があるから、潮の満ち欠けがあるのだ。

すべては、繋がっているから。

彼らも・・・彼らの命も繋がっていることを、どうか、知って欲しい。

■17


ルイを見つめようと思った。
母を知りたいと思った。

・・・自分は何にも知らないのだということを知った。

シャルルとあれだけ長い時間を過ごしながら、シャルル・ドゥ・アルディのことさえよく知らないことに気がついた。

知らない人のことを、知っているような口振りで非難すれば、それは怒るだろうな。
ルイの憤りを少しだけ理解する。

ヒカルはあまり怒らない。
怒る環境にないから。

喜怒哀楽が乏しいかというとそうでもないのだが、どうも、怒るという感情が恐ろしかった。
感情の昂ぶりをぶつけるところがなかったし、憤りを静かに表現するルイやシャルルを見ていると・・・・最も切ない感情が「怒」だと思うのだ。

ルイはいつも何かに怒っている。
だから彼の怒る理由を知れば・・・彼をもっとよく知れば、今の状況は変わるかもしれない。
あまりにも冷たい関係が苦しかった。
シャルルもルイも互いを無視しているフリをしている。
嫌いか好きかより、黙殺することが最も辛い。
最も辛い選択をしている彼らが痛々しかった。

「・・・帰るぞ」

不意に声がして、ヒカルはぼんやりと眺めていた月から視線を移した。
扉にはルイが立っていた。
いつからそこにいたのだろうか。
会場の強烈な照明を受けて、彼の髪が逆光で眩しい。
夜なのに妖しく輝く眩しい光に、彼女は目を細めた。

「帰らないのなら、置いて帰る」
「ルイ」

ぼんやり佇むヒカルに、ルイは不快感を露わにした。
佳麗な顔立ちを引き締めて、彼は短くそう言うと踵を返す。

会場はいつの間にか、お開きになっていた。

それほど長い時間、ここに立ちすくんでいたのだろうか。
もう一度、ちらりと空を見上げると、先ほど見た位置よりずっと高い場所に月がぼんやりと浮かんでいた。

「待って!私も・・行くわ」
彼女は慌てて彼の背中を追った。
慣れていないピンヒールが邪魔をして、彼にうまく追いつけなかった。
ルイの背中を見てヒカルはもう一度彼の名前を呼んだ。
そして、会場の中は先ほど彼女が足を踏み出すのに四苦八苦した、毛足の長い絨毯であったことをすっかり忘れていた。

彼女の靴は床に深く沈み・・そして、次の瞬間にはバランスを崩して前のめりになる。
オーガンジーのドレスが腿に纏わり付いて、彼女が倒れ込まないように反作用の力をかけることを妨害した。

「ルイ!」

彼はぴたり、と立ち止まる。
ヒカルは、立ち止まった彼の背中に傾れ込んだ。
そして、ルイが振り返りもしないで、ヒカルの転倒を察し、彼女の身長と歩幅から、どの位置で立ち止まったら彼の背中に当たるのかを計算したことに舌を巻く。

彼は完璧だ・ ・・!

まだ人が残っている。
彼らは最後までルイに注目している。
ルイはそれも計算に入れた。

「ヒカル。疲れたか?」

愛おしげな声で、彼は甘く微笑みヒカルを振り返った。
そっとヒカルの肩を抱き寄せて腕を取り、自分の腕に彼女の白い腕を絡ませた。
「帰ろう。」

可憐な初々しい二人を微笑ましく眺める観客に挨拶をしながら、彼らは会場を後にして、行きに乗り込んだ車に再び乗り込んだ。

車のドアが閉まり、静かに動き出すと、張り詰めた空気が少しだけ緩む。
「やれやれ・・・だ」
ルイが呟いた。
「勝手にうろうろするな。・・・・黙って立っていることもできないのか、君は」
辛辣なルイの言葉に、ヒカルが口ごもった。

「ルイを探したのだけれど、見つからなくて・・・帰ったのかと思った」
「ひとりで帰れば怪しまれるだろ。」
小馬鹿にしたように彼が笑う。

「それは・・・ルイが婚約者ですって紹介するから・・・」
「余興だ」
彼は彼女の言葉を遮った。

「余興・・・」
「そう」
「何のために?」
「これからのために」

彼の真意がわからなかった。

「君もよくよく間が抜けた女だな。・・・婚約したんだぜ、オレと君は。」
「そうなの?」
「その耳は飾りか?」
少しばかり呆れたようにルイが言った。

「だって余興なんでしょう?」
「あの場での発表が余興という意味だ」
大げさにため息をついて、彼はヒカルを軽く睨んだ。
「これでシャルルは・・・君のことを公にせざるを得なくなる。
そして、シャルルは君を自分の妻にすることは出来ない。
息子の婚約者だからな」
「何を言っているの?」
ヒカルが驚いて声を大きくした。
ルイの侮蔑の言葉も耳に入らなかった。

「言っている意味がわからない。」

彼は目頭をそっと押さえた。
愚者と話すのは疲れると呟いた。
会場の強い光が眩しかったのかもしれない。

彼は高い鼻梁と眉の間を軽く指で抑えながら、静かに言った。
今日のパーティーは疲れたね、という挨拶のような軽さと唐突さでもって。

「言ったことそのままだよ。・・・オレは、シャルルの全部が欲しい。
地位も財産も名誉も全部いずれは手に入る。
それは待てば良いだけだ。
でも、オレはね、ヒカル。
シャルルの・・・全部が欲しいんだ。わかるかい?」
「・・・・・」

そして、目を開けて、ヒカルを見据えた。
ヒカルは絶句して言葉を繋ぐことが出来なかった。
その目が・・・静かに時を待つ猛禽のように見えた。
動かず、獲物が警戒心を解く瞬間を待っているかのように。
眼光鋭い瞳はヒカルを捕らえて離さなかった。
初めて・・・ルイを初めて怖いと思った。
彼が欲しいと言っているものが何を指しているのかわかった。

「オレは、シャルルの絶望が欲しい。
 悲慟の様子が見たい。
 死ぬまで死にたいと思わせたい。
 オレが快哉を上げるのはそのときだ。」
ルイは冷酷に笑った。

それはもう、笑みなどではなかった。

彼はもう「ちいさいてんし」ではなかった。
墜ちてしまっていた。
彼の微笑みは・・死の微笑みだった。

見れば誰もが魅了されるが、触れればたちどころに猛毒で命を奪われてしまう。
彼は・・・奪うことにした、と囁いた。

「オレの血が騒ぐのかな。
 現当主も・・今の地位を奪還した。 
 その一方で、たかが女ひとりのために命を賭けようとした。
 まったく正気の沙汰じゃない。
 そんなアルディの狂った血が、オレをおかしくさせて・・そして正気に戻す。
 祖母は狂死した。
 父も狂った。
 オレも間もなくそうなる。
 ・・・いや、もう、そうなのかもしれない。」

ヒカルは、掠れた声で彼の名前を呼んだ。
一縷の希望を込めて。

「ルイ。ルイ・ドゥ・アルディ・・・」
だがしかし、彼には届いていなかった。

彼が彼の影に向かい合って、夕暮れの薔薇園で考えていたことは、こんな恐ろしいことなのだろうか。
次の言葉を出そうと思ったが、ヒカルは声を出すことが出来なかった。
まったく彼女を無視して、彼は宣言した。
囁くように、自身に言い聞かせるように、そして今日の攻撃が成功したことを喜ぶように、言った。
「そのためには君は必要な駒なので。先手を打った。

君を妻にして安らぎを得ようなどと、愚かしいことをあいつが考える前に。
 ヒカル。
これもおまえの定めだ。
諦めろ。

———おまえをあいつには決して渡しはしない。
一緒に業火に焼かれてくれ。」

■18

共に業火に焼かれてくれ、とルイは言った。
けれども・・・
それがルイと共になのか、シャルルと共になのか、彼女は聞き返すことが出来なかった。
ルイが一緒に墜ちようと言っているのか、シャルルと一緒に荊棘の路を歩めと言っているのかわからなかった。

彼女はルイの宣言とも呪詛とも言えない話に返す言葉もなく・・・・
ただ、彼の美しい彫像のような顔を眺めているばかりだった。
彼はやがて興味を無くしたように、横を向き、外の世界を眺め始めた。
もう、彼だけの世界に奥深く入り込んでしまっているようだった。

それっきり彼は言葉を発しなかった。

ホテルに到着すると、彼は先に降りて、ヒカルの手を取った。
出迎えたホテルの者の対応から、ルイがヒカルと同じホテルに宿泊することを知った。
彼女は何も聞かされなかった。

「ありがとう」
彼女が馴染まない靴を履いていることを気にしての行動かと思い、ヒカルは微笑んだ。
すると、ルイは興味なさそうに、無表情に答えた。

「・・・少し低すぎた」
「え?」
「ヒールだ。もっと高くすれば、うろうろ出来なかっただろう。」

その言葉で、彼があえてこれほどの高いヒールを彼女に用意したのだとわかった。

彼女が歩き回ったりしないように。
彼女が勝手なことをしないように。
彼女が立っているだけで何も出来ないように。

人形のように大人しくしろ、と言った彼の言葉を思い出した。

計算され尽くした彼の行動は、ヒカルの衣装ひとつとっても、予定済みなのだ。
彼は本当に・・・自分に何も求めていないのだと思い、ヒカルは困った顔をした。

「ねぇ。ルイ。・・・」
彼女は背中を向けてすでに歩き始めた彼に声をかけた。
彼は返事をしなかった。

「私宛の届け物が・・在るはずなの。
その人は、私の滞在先を知らないから、ルイ宛に送るって言ってた。
それを受けとって欲しいの」
「気が向いたら」
彼はそう言って片手を挙げた。

タイを片手に持ち、彼は部屋に戻ると言ってエレベーターに乗り込んでしまった。
このホテルの最上階スイートに向かったらしい。

「ルイ」

また、彼の名前を呼んだ。
そして慣れないヒールで躓きそうになる。

これもルイの計算のうちかと思うと、彼女は吐息を吐きだして、何かを思いきったように、きっと茶色の瞳を正面に向ける。

そして・・・おもむろに靴を脱いだ。

片手に靴を揃えて持ち、勢いを付けて走った。

タイルの床だったから、彼女は勢いを付けて走った。

エレベーターの扉を閉めようとする彼の傍らに滑り込むと・・・
今度はルイが絶句する番だった。

「ヒカル・・!」

呆れて声を出せないでいるルイに、ヒカルは乱れた息を整えながら、明るく微笑んだ。
にっこり微笑みながら、自分の宿泊階へのボタンを押す。
彼は青灰色の瞳を少しだけ大きくして、彼女の想定外の行動に面食らっていた。
だが他の者から見ればほんの僅かな表情の違いだった。
彼はヒールを履いて彼に追いつけないヒカルしか量定していなかった。

「私、短距離、得意なのよ。」

茶色の髪が少し乱れて、秀でた額には汗が噴き出していた。
やはり季節は夏だったから、冷房の効いたホテルの館内でも、彼女は汗をかいてしまっていた。
ふわり、と彼女の髪の香りが体温の上昇とともに、彼の鼻翼をくすぐった。
闊達に笑う彼女の顔を、ルイが呆れた顔で見る。

「ルイ・ドゥ・アルディに裸足で走って寄ってきた女は、君が初めてだよ。」
「あら、そう。婚約者と言っている割には、随分と私のことを知らないのね」
ヒカルはそう言って笑った。

エレベーターはゆっくり上昇し始める。
「何がしたいの?」
彼から、彼が予定していない質問をされるのは初めてだった。
「何も」
ヒカルがそう言うと、ルイ・ドゥ・アルディはほんの少しだけ、黙っていた。
また何かを考えているらしい。

「オレと一緒の部屋で寝たいのなら、どうぞ」
「シャルルが取ってくれた部屋に戻ります」
ヒカルは微笑んで言った。

ヒカルが何を考えているのか、ルイは戸惑っている。
そう思った。
だが、ここでシャルルの名前が出てきたことが彼の癇に障ったらしかった。

そのとき。
一瞬、ルイから目線を反らしたとき。

ルイはヒカルの腕を突然、掴んだ。
そして自分の身の内に引き寄せる。
今日、何度目かの彼への接触だった。
加減をしない強い力に引き寄せられて・・・彼女は小さく叫んだ。
「ルイ・・・!」

そう言った時にはもう遅かった。

彼は・・・ヒカルを胸に抱いて頤を掴んだ。
まるで猫の首を掴んで動作を封じるように。

そして、次には、彼女の顔を上向かせて、驚愕で抵抗する暇のないヒカルに、冷たい唇を押しつけていた。

噛みつくようなキスだった。
それは本当に短い瞬間のことで・・・ヒカルが驚いて声を漏らすとその次にはもう、ルイは彼女の躰から離れていた。

「君はオレの婚約者なんだろう?」
彼が意地悪く言った。
そして声を漏らして笑った。
艶やかな笑いだったが、瞳は笑っていなかった。

そしてヒカルの宿泊階にエレベーターが止まった。
「行け」
ルイは彼女を押し出した。
「オレと寝たいなら、シャルルの居るところでそう言え。
そうしたら・・・いつでも抱いてやる」
彼はそれだけ言うと、彼女との間にある扉を閉めてしまった。

閉まる瞬間は、もう、彼女を見ていなかった。

・・・ルイ。

ヒカルは・・・今、何をされたのかまったく理解できないというように、唇を押さえた。
強く押しつけられたルイの唇は・・冷たかった。
まったく愛のないその動作が理解できなかった。

どうしてなの?
どうしてなの?
彼女の頭の中では・・・ルイの眉根を寄せた美麗な顔と、息を詰めて彼女に烙印を押した彼の唇の感触と、「どうして」という言葉が旋回していた。

・・・そして唇を拭う。

ゆっくりと、部屋に戻る廊下を歩いた。
歩く度に、ヒールの底があたり、かちかちと音を立てた。
靴を持たない反対側の手の甲で、唇を拭う。
ほんの少しだけ施した紅がはげて、彼女の手の甲に付着した。

・・・シャルル。

彼女はシャルルの名前を呼んだ。
白金の髪の、静かに笑う麗人の名前を呼んだ。
いつも彼は必ず返事をする。
そして名前には言霊が宿ると言った。

科学的に証明できないことは信じない彼なのに、時々・・そういうことを口にした。
次には必ず少し上を見上げて・・・遠くに思いを馳せる。
誰かと対話しているかのように。
部屋に入ると、メッセージカードが届いていた。
シャルルからだった。
彼は普段、ほとんど自分でメッセージカードを依頼しない。
それなのに、こうしてヒカルが日本を訪れる際には、必ずメッ
セージを入れてくれる。
彼女は、彼からのメッセージを読んだ。
まだ、片手には靴をぶら下げたままだった。

「皆に宜しく・・・シャルル・ドゥ・アルディ」
メッセージはホテルの代筆だ。
けれども、それは間違いなく、シャルル本人の言葉だった。
ヒカルはカードの文字をなぞった・・・ゆっくりとなぞり、そし
て、カードの文字がやおらにじみ始めたことに気がついた。
何かに触れて、濡らしてしまったのだろうか。
靴を床に置いて、彼女はカードを一生懸命擦った。
素晴らしく贅を尽くした服もお構いなしに、水分を拭った。
————そうではなかった。

カードが濡れているのではない。

彼女の瞳から・・・茶色の瞳から涙が溢れていたことに、その時ようやく気がついた。
ヒカルは嗚咽を漏らした。

涙を流していると自覚してからは、涙を流すことを止めようとしなかった。
ここなら、誰にも聞かれなかった。

それでも、いつものように・・・彼女は手の甲を唇に押しつけて声を殺す。
彼女は幸せな人生を歩んできたけれど、涙を流すことがなかったわけではない。
ただ、誰もヒカルが飲泣する様を見ていないだけだった。
あの、寂しげに笑うシャルルでさえも。
氷のような無表情で自分の影を見つめ続けるルイも。
彼女の泣き顔を、見てなかった。
彼女は泣かなかったのではない。人前で、泣けなかったのだ。
ようやく一人きりになり・・・彼女は涙を落とし始めた。

裸足のまま。
立ったまま。

手にはカードを握りしめ、反対側の手の甲で、彼女は唇を押さえて声を殺して泣いた。

・・・苦しい、と言いながらむせび泣いた。

誰にも聞こえない慟哭を白い手で遮った。

・・・それは、ルイの心ないキスに酷く驚き、拭った方の掌だった。
彼のキスの味が残るような拭われた口紅が・・・彼女の唇に戻された。

それはこれから始まる何かの神託のようだった。

■19

翌日、ルイ・ドゥ・アルディはホテルを引き払ってしまっていた。
その先の予定は彼女に伝言されていなかった。
アルディ家に照会すればわかることではあったが、彼はしばしばアルディ家が決めたスケジュールの合間に何かを行っている節があった。
今回もどうもそういった特別な用事があったらしい。
彼に依頼した母の形見を受けとってくれたのだろうか、ヒカルはホテルに問い合わせをした。
彼とは名前も違うし部屋番号も違うから、第三者には教えられない、と言われ、彼女は少し思案して、自分はルイの婚約者であり、同居人だとパスポートを見せた。
宿泊者名簿から彼女の身元を知るや、ホテルはあっさり回答した。

今朝早くにルイ宛に荷物は到着したので、そのまま出立するルイの荷物に入れたと回答があった。
それ以上の情報は得られないとわかり、彼女は一度部屋に戻ることにした。
何件か電話をかける。
まずは昨日の会食に不参加となってしまった詫びを叔母と伯母に入れた。
仕方のない理由だし、何よりヒビキヤさんに会えたのだから、こちらのことは気にするな、と口を揃えて言われた。

また会えるから心配するな、と気遣った返答があった。
それよりもっと、年にあった楽しみを見つけるように、と二人から言われて、ヒカルは苦笑した。

何が楽しみか、わからない。

年頃の年齢にあった遊びをしたり、出かけたりすることはヒカルにとっては第一優先事項でなかった。
両親は若い頃からあちこち出かけていたらしいが、彼女は、パリのアルディ家の中で薔薇を眺めて過ごしたり、資料室で本を読んだり、何よりシャルルと時間を過ごすことが最も楽しいこ
とだった。

もちろんシャルルが連れ出してくれるクルーズも避暑地の高原も、季節の空気を感じる様々なリゾート地も楽しかった。
けれど、彼女はシャルルの穏やかな横顔を見るのが好きだった。
同じように、ルイにも穏やかに微笑んで欲しかった。

彼の方が「年相応」の楽しみを持つべきだと思った。
そして、時間を見計らって、彼女に贈り物をしてくれた友人に電話をした。
あいにくと不在だと言われて、丁寧に礼を述べてそれを伝言して欲しいと伝える。

渡された名刺にはメールアドレスが入っていたので、後でメールを送ろうと思った。
日本語ソフトが入っていないノートブックしか持ってきていないことが悔やまれた。

そうだ。

ルイの予定を照会しよう。
彼女は思いついて、ラップトップを開く。
あまり機械ものは得意ではなかったが、これもシャルルが教えてくれた技術のひとつだ。
彼女はクラスの友だちよりも、比べものにならないほど膨大な知識とスキルを持っていた。
アルディ一族は様々な場所に散らばっているから、こういった通信網を確保していないといろいろと難しいという。

シャルル・ドゥ・アルディは、これをもって、一つの場所に集って会議を開くタイプの親族会議を廃止した。

どこよりも早く通信網を確保して、WEB 会議システムを構築したのは、彼と彼の弟の共同事業によるものだ。
IT 事業は今やアルディ家の主要な事業の一つであると聞く。

彼女はセキュリティ向上のためにコマンドプロンプトでプログラムを立ち上げる。
彼女が使っているOS は市販のものではない。

これを使いこなすことが出来る者はアルディ家の縁の者しか居ない。
しかし彼女はゲスト権限でしかここには入れなかった。
彼女はアルディの名前を持たない者だから。
先ほど。

「ルイの婚約者だ」
と嘘をついたことが気になっていた。
情報を得るためなら、自分が納得していないことを口に出すことを躊躇わなかったことに・・少しだけ驚いていた。

大胆な方便を堂々と使用した随分後になった今になって、罪悪感が襲ってくる。
そしてこのことによって、ヒカルは哀しい現実を知った。

自分が、部外者であることを。

アルディの名前を持たない彼女が彼らに関わろうとするのには限界があるのだと知った。
ルイが何を考えているのか。
シャルルの憂いをどうしたら解消できるのか。
それを考えるのは今のヒカルでもできるが、知ろうとするとなると、越えられない壁があるのだと気がついた。

程なくして検索結果が出た。
やはり、数日前から彼はオフになっている。
今般の来日は、まったく彼の独断で行っているものなのだ。
ルイがこれほど長いオフを取るのは珍しい。

他の人にとってみればほんの数日ではあったが、ルイが連続してオフを取るのは滅多にないことだ。
ヒカルの知っている限りであったが。
シャルルは彼を無視している割に、勝手な行動を許さない。

・・・ルイは何をしているのだろう?

その時だった。

彼女のメールに着信が入る。

・・・ルイ・ドゥ・アルディからだった。

まるで、見透かしたかのようなメールの着信に少し驚く。
しかし、このスケジューラーに接続していることを彼が知ってメールを寄越したのだと想像した。
彼が彼女の行動を知ろうと思えば、それは難しいことではない。
タイトルは無題だった。
そして挨拶の言葉も何も無くただ、日時と時間と場所が書いてあり、その少し前の時間に迎えを差し向ける旨の指示が入っていた。

指示。

この言葉は正しい。
彼は彼女に命令とか指示しかしない。
会話はしない。
決して、相手の言葉を聞こうとしない。
しかも、その場所は、フランスだった。
場所も知っている。

確か・・・大きなパイプオルガンが設置されたホールが新築されて、落成式が行われる予定だった。
こけら落としには、フランスの芸術筋や、招かれた財界人たちを集めて、チャリティーコンサートを開くことになっていて、アルディ家も慈善活動の一環で協賛しているはずだった。
また、彼は彼女を公式の場に連れだそうとするのか。

ヒカルはため息をついた。

今度は不意打ちはきかない。

だが・・・彼がメールの末尾に貼ったリンクが気にかかった。
そのURL はどう見ても海外のサーバーを使用した彼独自のサーバーだった。
ミラーリングしているに違いなかったが。
だが、ヒカルはそのリンク先のページを開く。
ルイ・ドゥ・アルディには一般人のような悪意はない。
彼女のPC を汚染するほど、彼女に興味がない。
ヒカルはそのページを見て、思わぬ事に息を呑んだ。
そこは・・・シャルルのスケジュールだった。

同じ日の同じ時間。

シャルルもコンサートに参加することになっていた。
もっと驚いたのは、同席者が居るということだった。

・・・シャルルに女性の同伴者。

考えても居なかった。
チャリティコンサートの同伴者は、その催しの趣旨から、大抵が配偶者か相当親しい間柄の恋人同士しか来場しない。

アルディ家の当主が来場することになれば、VIP 待遇で、最も音が良く聞こえる最高の場所に案内されるだろう。

その席の周辺には同じような高い教養を持つ同じような環境の者ばかりが集う・・
あの誇り高く、人嫌いなシャルルが、誰かを伴って、長い時間を隣に座らせても良いと思う相手がいる・・・

今まで考えたこともなかった。

そしてシャルルがそのことを秘密にしていたのであれば、ヒカルは申し訳ないことをしたと思う。
シャルルが新しい愛を始めていて、愛する人が居るのに、かつて愛した人の忘れ形見を引き取ってしまったのだったら、それは確かに気まずいだろう。
まったく気がついていなかった自分の鈍感さに腹が立った。
それくらい、シャルルは何も言わなかった。

彼の何を知っていたのだろう。ヒカルは恥ずかしさで一杯になった。
昨日、シャルルからのメッセージを受けとり、涙を流した自分の存在が、シャルルの重荷になっているのかもしれないと想像すらしていなかった。

茶色の瞳をディズプレイに向ける。

そして電源をおもむろに強制的に落とした。
プログラムをいちいち終了させるほどの余裕がない。
指が震えてキーボードを打つことが出来ず、やむを得ず電源ボタンを長押しした。

・・・・私は何をしたいのだろうか。

ゆっくりと立ち上がると・・・

彼女は荷物をまとめ始めた。
帰る予定になっている日より大分早かった。
それでも・・帰ろうと思った。
ルイ・ドゥ・アルディから母の形見を受けとらねばならない。
そして自分のこれからを考えなければならない。
そして婚約者だと言った彼の言葉を撤回させる。

彼女が同じ敷地に居ることによるものであれば、彼女は日本に戻ろうと思っていた。
今回、熱心に・・・・・親族から日本に戻ってくるように言われていた。

身寄りがないわけではない。
自ら選んでパリに渡った。

それがシャルルとルイを遠ざける結果になってしまっていたのだったら、これが引き際だと思う。

何てことはない。
彼らを苦しめているのは・・・自分だったのだ。

そう思った。
自分がシャルルの傍に居たいと言いだしたことが、彼らを・・・苦しめていたのだったら、それはヒカル自身が正さなければならない。

expiation~Februusの娘~第二部(2)

■20

パリに着くと、アルディ邸には、シャルルは居なかった。

早い帰りに、使用人は随分驚いていたが、彼女はルイと約束があって、予定を繰り上げて帰ってきたと彼女は言った。
どこでルイと約束したのか、と尋ねる唯一の人は不在だ。

シャルルは当分戻らないと言う。

彼女は少し疲れたから休むと言って、部屋に入ってしまった。
実際、毎年の滞在よりずっと短いのに、酷く疲れていた。

シャルルは何処にいるのだろう。
シャルルが居ないのであれば、薔薇の手入れは誰が行っているのだろうか。
庭師だろうか。

ヒカルは気になった。
そして、いつも彼女が日本から帰ってくるときは、シャルルは入れ違いに不在にすることは決してなかったことに思い至った。

彼はスケジュールをヒカルに合わせていたのだと思う。
そんな些細なことだけでも・ ・ヒカルは胸が締め付けれそうだった。

彼女には「小さなこと」とか「当たり前のこと」と受け止められないくらい、重くて深くて澄んだ愛を感じる。
これまで、自分が当たり前のように受けていた仁恩というものは、シャルルがすべて調整してもたらしているものだと思う。

・・・シャルルこそ・・・私の晄なのに。

ヒカルは部屋に一度戻ったあとすぐに薔薇園の温室に向かった。
シャルル・ドゥ・アルディのことだから、ぬかりなく手配はしたのだろうが、やはり、気になった。
今度は彼が戻ったときには「おかえり」とヒカルの方から、薔薇を差し出して迎えてあげたい。
彼女は最上の薔薇を選ぶ日々を思い出した。
彼のために薔薇を選び、朝、彼の目覚めを促すために通った廊下を、今度は一人で歩き、薔薇園に出る。
ガラス張りの温室が一角に設置されて、空調や湿度などは完全にコントロールされている。
ヒカルがやって来たときには、そこは廃れてしまっていたが、
シャルルはまた、その温室を復活させた。
この時間は、森林に囲まれたこの屋敷でもさすがに暑かった。
温室の方が涼を取ることが出来るかもしれない。

庭を横切り、彼女は陽射しの注ぐ小道を走って通り過ぎ、そして温室の扉を開けた。
最奥の品種改良のための実験棟以外は、ここは自由に出入りが出来た。

そして、勢いよく扉を閉める。

「———君はいつも走っているな」
「あなたはいつもそこに座っているのね」

今度はあまり驚かなかった。
彼がそこに居るような気がしたからだ。

「気がする」

それは長い時間を一緒に過ごした者でないとわからない感覚なのかもしれない。
それとも、時間ではなく、彼とは何かを共有しているのだろうか。
だから、彼がそこに居るとわかるのだろうか。

「・・・おかえり、ルイ」
「ここはオレの帰る場所ではない」
彼はいつもの通り、ベンチに腰掛けていた。

薔薇をあしらった真鍮のベンチは、随分と古くなっていたが、それもこの薔薇の園の風情によく似合っていたので、館の主はそのベンチを撤去することはしなかった。
そこがルイの決まった席であると知っていたかどうかはわからなかった。

金の髪が光っている。
物憂げな上品な眼差しを遠くに向けて、彼はベンチに腰掛けていた。
陽光の中の彼は酷く幼かった。
服装が彼を年相応の若者に見せていたのかもしれなかった。
ヴィンテージのデニムに、上にはごく軽い素材のシャツを着ているだけで、半袖から覗く彼の腕は白かったが、フェンシングや乗馬などでの全身運動で良く締まっていた。
少しだけ骨張ったかんじがするのは、彼がまだ成人前で、成長し続けて居ることをあらわしていた。

筋肉と骨の成長速度がまだ、アンバランスなのだ。
彼の長くて華奢な首が金髪から覗く。
彼はまだ、若い。
意識していなかったが、彼とヒカルの年齢はそれほど離れていない。

「それなら———ただいま、ルイ」
彼女は微笑んだ。

ルイはその答えは気に入らなかったらしい。
彼女の言葉を無視した。
「随分と早い帰りだね」
彼は脚を組み直した。

そして背もたれに寄りかかり、彼女に視線を合わせることなくそのまま遠くを見ていた。
・・考え事をしていた時に踏み入れてしまったようだ

彼が酷く不機嫌で、言葉を返さない理由がわかった。
深く物思いに沈んでいたのを、ヒカルの物音で、急に呼び戻されてしまったからだ、ということに気がついた。

少年時代から、彼はシャルルが居ない時を見計らってやって来る。
そして何をするでもなく、帰って行く。
ここは、彼が唯一物思いに耽ることのできる場所なのかもしれない。
薔薇の香りでむせかえるようなこの場所で彼はいつも・・・何を思っているのだろうか。

「ねぇ、私も座って良いかしら」
ヒカルはそう言って、歩み寄り、彼の許諾を得ずにベンチに座った。
3 人掛けにも相当するベンチの中央にルイは座っていたが、その隣はヒカルが座るには充分な空間が空いていた。

「・・・・何の用?」
「薔薇の様子を見に来たの」

そんなものは庭師が手入れをしているから必要ない。
素っ気なくルイが言った。
ヒカルは面白くなってクスクス笑った。

「ということは、ルイも確認しているのね、薔薇のこと」
「そういう、根拠のない前向きすぎる発言は、いつか身を滅ぼすよ」
「忠告ありがとう、ルイ」
「忠告ではなく、警告だ」
彼は気怠げに、くせのない髪をかき上げた。
「・・・予定より早い帰国だな」

「ルイに宛てて送られた届けものを取りに。早く見たかったし。

・・・それに

あのホテルに居ると、ひっきりなしに来客があって私には対応しきれなかった」
ルイが婚約者を披露したという話を聞きつけて、誰も彼もが、ホテルに押しかけてきたので、ヒカルは早々にホテルを引き上げてしまった。
元々、予定を変更して帰国するためのチケットを手配しようと思っていた矢先に、その作業さえままならないくらいの電話や来客を知らせる内線電話に辟易してしまった。

彼はそれも見越して、彼女の名前を公開したのだろうか。

・・・・それなら、彼女が早めに戻ってくることも、ルイにとっては計算の内なのだろう。

室内は快適で清浄な空気が流れており、対流に沿って薔薇の香りが漂っていた。
少し、汗が引いてきた。
ヒカルは肩をすくめてルイに答える。

「まぁ、年頃だから。いろいろ考えることがあるのよ」
「婚約者のこととか?」
彼は皮肉たっぷりに言った。
ヒカルは吹き出した。

「そうそう。婚約者と名乗る人のことも。
今は婚約者と名乗る人が持っている私あての届け物が気になるの」
「そんなに気になる品をオレに預けたのは浅はかとしか言いようがないけれど」
「仕方がなかったのよ」
ヒカルが困ったように言った。
「できることなら、直接受けとりたかったけれど・・タイミングが合わなくて」
「オレに頃合いを求めるな」
確かにそうだけれど、とヒカルが笑う。

これほど長い会話をしたことがなかった。

相手はいつもヒカルに一方的に話しかけるか、無視するかのどちらかだった。
傷つけられたとはもう思っていなかった。

彼は彼の理由がある。
人が怒るには理由がある。

そして・・・それを知りたいと思う限り、どんなに辛くても、知
らないでいることが幸せだと思えなかった。

「オレに頼み事をするのなら・・・報酬が必要だ」
「お金はないわよ。私、ルイみたいにお金持ちじゃない」
「そういう世俗的なものはいらない」
ルイは言った。

ルイが欲しいものが何か、あの暗い瞳で告げられた時を思い出した。
彼の欲しいものは・・・シャルルの絶望だと言っていた。
「たぶん、ルイの欲しいものはあげられないよ」
「そうかな」
彼はそう言った。

そしてゆっくりと、背もたれに置いていた腕を、彼女の肩に降ろす。
ヒカルが驚いて茶色の瞳をルイに向ける。
ルイは妖しく笑った。
「ヒカルが欲しい」
歌うように彼は言った。
「・・・・ルイ。私はルイの欲しいものでない」
彼女は低くそう答えるが、ルイは否定も肯定もしなかった。
ただ、彼女をゆっくり抱き寄せて・・・囁いた。
「オレの本当に欲しいものをもたらすのは、おまえだよ、ヒカル」
そう言って、彼は彼女の腰に手を添えて、彼女の顎をもう片方の手で掴む。
あの、エレベーターの時のように。
ルイがヒカルを「おまえ」と呼ぶ時はいつも決まっている。
彼の暗い焔を彼女にぶつけるときだ。
彼女を傷つけたいと思うときだ。

「迂闊なヒカル。———オレは、おまえを許しはしない。」
そう言って、彼は彼女の顎を強く引いた。
いやだと抵抗することさえ許されなかった。
立っているときより、座っているときの方が躰が密着される。
彼のデニムの下やシャツの下から伝わる体温も、逞しい腕からのぞく、骨張った長い腕も、すべて感じることができるのに、これに抗うことができない。

ヒカルは小さく悲鳴をあげた。

迂闊だったとしか言いようがなかったけれど、彼女は彼がこの場所で・・
彼の「聖域」でこんなことをするとは考えていなかった。
このベンチで彼が自分の影を見つめながら何か物思いに耽るときは、侵してはならない空間であり、そしてその瞬間だけはルイは、誰も見たことのない彼になると思っていた。

「彼しか知らない彼自身」をさらけ出す場所はここだけだと思っていた。

だから・・・話ができるのではないかと甘く考えていた。
ルイ・ドゥ・アルディが長い間築いた氷の壁を乗り越えられる場所はここしかないと思った。

「厭な女だ。高慢で、なんでも自分の思うとおりになった人間
特有の傲慢さがにじみ出ているよ。
・・・・そんな女を穢しても、罪にはならない。
なぜなら・・・オレを穢したおまえを罰することができるのは、オレだけだから」
「あなたを傷つけたりはしない」

ヒカルは渾身の力を込めて抵抗した。
腰に回されていたルイの手は、そのまま伸ばされて、彼女の肘を掴んだ。
彼女は抵抗できずに、彼とますます密着した状態になる。
「傷つける側はね、いつもそう言うものなのさ」
彼はそう言って・・・ヒカルに顔を寄せた。
壮美な彫刻の様な顔が彼女に近づいて・・・・ヒカルは再び、彼の唇を受けた。

ルイ・ドゥ・アルディの唇は冷たかった。
暑い陽射しの中で、彼の唇が最も冷たかった。
彼はヒカルの薔薇のような唇を奪い・・そして更に深く沈めた。
ヒカルは声にならない声を上げる。
抵抗しようと、躰を硬直させて、彼から離れようとする。
しかし、それは成功しなかった。

彼は・・・ヒカルを傷つけるためだけに、深くて長くて・・・心のない接吻を続けた。

■21

彼女はこれまでキスを体験したことがなかったので、酷く戸惑った。

彼女はまだ若かった。
ルイより若かった。

恋というものがよくわからない。
ルイの愛の所作がわからない。

だから・・・唇を寄せられても、彼女はどうしていいのかわからなかった。

これが心のないものであることはすぐにわかった。

シャルルがヒカルの額や髪に落とす、慈愛に満ちたキスはもっと・・・あたたかい。
そして、彼女がシャルルにキスをするときは、もっと・・・もっと心が和らぐ。
だから、ルイとのキスがこれほどまでに哀しくて冷たくて寂しいとは思っても見なかった。
同じように・・・ルイが誰かと唇を重ねる瞬間は、これほどまでに孤独を感じる瞬間なのだろうかと思うとどうにも切なくなった。

彼が「赦さない」と言ったけれど、誰かと寄り添う瞬間は、もっと温かいはずだった。
シャルルと・・・寄り添った毎日はそれだけで温かい。
彼は・・・誰かと寄り添うことで、幸せを感じることはできないのだろうか。

いやだ、と拒絶することは簡単だった。
けれども、彼を拒むことが、果たして・・・彼の望む終着点にたどり着くことができるのかどうかとちらりと思った。

彼は、誰にでも愛されるだろう。
彼は誰にでも優しいのだ。そして誰にも冷たい。

この一族以外には、すべての人に平等だ。
けれども・ ・それは彼の望んだ姿でないはずだった。

彼はいつも誰かに優しくすると荒れる。
彼はいつも仮初めの恋を捨てると荒れる。

それなのに。

愛されることを拒んでいる。
愛することを拒んでいる。

その一方で。

愛されることを望んでいる。
誰かを切実に愛したいと望んでいる。

そう、思った。

それは彼との哀しいキスを交わさなければわからなかった。
彼の冷たいキスが・・・彼女をどうしようもなく哀しくさせた。
ヒカルは涙を落とした。
あまりにも、切なかったから。

この親子はどうしてそんなに・・わかり合えないことに無頓着なのだろうか。
ヒカルの母親を愛したシャルルは愛について知っている。
愛を知らないルイは、それでも愛がどんなに尊いものか知っているから愛を手に入れたいと思っている。

だから、互いに愛を求めているはずなのに。
どうして・・・どうして互いに互いを求めることが出来ないのだろう。

ヒカルは涙をこぼした。
涙を流してルイに懇願した。

「・・・ルイ・・・いや・・・!」
彼女は言った。

愛のない行為は、ただ虚しいだけだ。
彼女は、ルイに温かいキスをしたかった。
ルイからは、温かいキスが欲しかった。

それなのに、こんなにも・・・・・わかり合えないキスを交わすことが哀しかった。
いやだ、と彼女が身を捩った瞬間。
その瞬間のことだった。
「・・・ルイ」
かれた声が聞こえた。
ぎくりとしてヒカルが目を見開いた。

身を起こす。

そして・・・声のする温室の入り口に目を遣った。
見なくてもわかる。
その声は、間違いようもない。
美しい良く響くテノールの持ち主は、この館の主しか居ない。
シャルル・ドゥ・アルディが・・・
そこの幽鬼のように立っていた。

久々に見る彼は、少し面やつれしていた。
彼女と初めて会ったときの彼に良く似ていた。

・・・シャルル・ドゥ・アルディは、彼女の母の名前を呼んだ。

シャルルは不在にして戻らないはずだった。
ルイは身を起こした。

名残惜しくないと宣言するかのように、ヒカルからあっさり体を離した。

そしてゆっくりと立ち上がると・・・挑戦的な微笑みを浮かべて、シャルルに向き合った。
シャルルとルイはまるで・・・未来と過去を向き合わせたようだった。

ヒカルの母を愛することを止められなかった「青春の輝き」の時代の彼と、生涯愛すると誓ったのに他に子供をもうけて苦悩しつつ、愛する女性の娘を愛でる未来の彼と・・・・
彼らは対峙した。

そして無言でにらみ合った。

シャルルは僅かな時間を、温室が気になって立ち寄ったのだとわかった。
先ほど遠くで聞こえたボイラーの音から、機器の調子が悪く、彼の思い通りに温室の状態を保つことが出来ないのだろうと推測した。
ルイも・・・それが気になって戻って来たのだろうか。

彼らは同じものを愛でている。
彼らは薔薇を愛でることができる。

それなら・・・全くわかり合えないということはないはずだった。
ヒカルはシャルルの名前を呼んだ。
しかし、白金の髪を揺らして・・・彼はゆっくりと動く。

かつて、ルイがヒカルを侮辱したときに手を挙げたあの激しさでもって。
「シャルル!」
ヒカルは叫んだ。

シャルルはおもむろに拳を挙げる。
自分と同じ顔をした実子に、拳を振りかざした。
ルイはそれを・・・笑みを浮かべながら避けようとしなかった。

「シャルル!」

彼女はもう一度叫んだ。
今し方まで、彼女に冷たくも美しい口付けを浴びせたルイの頬に、シャルルの拳があたる。
そして・・・ルイは勢いよく倒れた。
予測していたはずなのに、倒れ込んだ。

「・・・ルイ!」
今度は倒れた彼の名前を呼んだ。
「ヒカル・・・黙っていろ」
シャルルはそう言うと、ルイにのしかかった。

すでにルイの倍以上の年齢で在るはずのシャルルは、若いルイの上にのしかかり・・・
そして、何度も彼の頬を打った。
ルイの高い鼻梁から血が噴き出す。そして唇が切れる。

拳で彼の腹を何度も殴ったので、ルイが口から血を吹き出した。

「・・・シャルル!シャルル!!!」
激昂したシャルルは何を言っても聞こえていなかった。

久々に会う彼は、ルイと同じ青灰色の瞳を澱ませながら・・・自分の若い頃と同じ姿をしたルイを殴り続けた。
彼の拳から血が流れた。
指関節の付け根の皮膚が裂けて血が流れ出した。
それでもシャルルはルイを殴り続けた。
彼の狂気を目の当たりにして、ヒカルが叫ぶ。

「シャルル!シャルル!だめ!」

そうして。

ヒカルは無我夢中でシャルルにしがみついた。
ルイは薔薇園の温室の地面に落ち、彼にのしかかってシャルルがひたすらに殴り続ける。
何か・ ・鈍い音がした。

ルイの肋骨にシャルルの拳があたる音だった。
骨が軋む音がする。
そして、シャルルの顔には・ ・・

血飛沫となったルイの吐血と、シャルル自身の拳から漏れる血飛沫が飛び散った。
ヒカルは、シャルルの背中にしがみついた。
恐ろしく強い力が、ルイに降りかかっているのがわかる。
ヒカルの力では止められなかった。
どんなに叫んでも、シャルルの狂気は鎮められなかった。

彼の耳には何も届いていなかった。

ルイは黙って殴られるままになっていた。

計算があってのことか、それとも抗うことも出来ないくらいのシャルルの激昂に反撃できないのか・・・それすらもヒカルにはわからなかった。

「・・・どけ!」
「いやだ!」
ヒカルは叫んだ。

シャルルの怒声を久方ぶりに聞いた。
それでも、彼女はシャルルを止めようとした。

ちょうど振り上げたシャルルの腕にしがみつく格好になり・・・ヒカルは力の作用で、シャルルの腕に振り払われてしまう。

あっと思った時にはもう、遅かった。

彼が上げた腕から・・・・ヒカルが振り払われて、転倒した。
場所が悪かった。
転ぶと思った時にはもう宙に浮かんでいた。
身を守るような体制でなかったのに、彼女はそのまま、無防備に吹き飛ぶ。
転倒した場所が悪かった。
そこは・・・先ほど、ルイの強引なキスに戸惑った、真鍮のベンチの脚元だった。

・・・そこに居合わせた全員が・・・

ヒカルを含めて誰もが、ヒカルが勢いよく飛ばされて、その真鍮のベンチに頭を激しく打ち付ける音を聞いた。
身長がある割に華奢な彼女は、シャルルに押し戻されて・・・
気を失った。
意識を失う直前。

シャルルの拳はすでに、ルイのほお骨を強く打ち付けすぎて砕けてしまっていることや、ルイの肋骨が激しく殴られて折れていることを知っていた。
けれども、深い闇に墜ちてしまっていたので・・・
彼女は彼らに「手当をしなさい」と言うことが出来なかった。

ヒカルは、そのまま深い闇に沈んでいった。

■22

深い海の底で・・・ヒカルは揺らいでいた。

彼女はどうやっても、アルディ家の家族になれないことを思い知った。
シャルルがヒカルに向かって「父になれない」と言った理由はいろいろあると思う。
ヒカル・クロスという名前を大事にしなさいという彼のメッセージが一番ではあるが。
それよりも、アルディ家に加えることが出来ないという、シャルルの当主としての苦悩があった。

不幸な誕生を招いてしまったルイのようにしたくはないというシャルルなりの選択だった。
アルディ家に生まれた者は精子と卵子の提供を余儀なくされる。
それは・・・成人と同時に義務づけられる。
当主は、就任した瞬間に再び提供を求められる。
ヒカルはもうすぐ成人になる。

万が一ルイと結婚ということになれば、彼女も卵子を提供することになるだろう。
ルイはそのことでシャルルが思い悩むであろうことも計算しているのだろうか。

考えたくなかった。
そんな恐ろしいことを考えてはいけないと思った。
でも自分が「家族」になるためには、今のままではいけないのだと思った。

シャルルは、当主に就任したときには、すでにヒカルの母を運命の人と定めていた。
一生彼女しか愛さないと決めていたはずだった。

たとえ結婚できなくても・・・その後にシャルルに恋人と呼ぶ者が居たとしても、彼の心の中に存在する人は、ヒカルの母だけだった。
その頑なさ故に、ルイが生まれた。
彼を籍に入れることは、シャルルはかなり渋ったと聞く。

そして、そんな話をヒカルの耳に囁く者に対してシャルルは容赦がなかった。
けれども、ヒカルはそれを理解できないフリをした。
聞こえないフリをした。

彼は、確かに愛を知っている。
それでもシャルルは当主になることを彼女の母に誓い・・・そして、ヒカルの両親の愛を祝福した。
シャルルが、当主としての責務を果たしたことを、年若い彼女が責める理由はなかった。

・・・ここは深くて冷たくて暗くて・・・寂しい。
シャルルもルイもこんなに深淵に沈んでいるのだろうか。

私は何も知らなかった。
何も知らないフリをした。

目を瞑って、見たいものだけを見た。
耳を塞いで、聞きたいものだけを聞いた。

シャルルの狂気はちっとも癒されていなかった。
ルイの幽寂についてちっとも解ろうとしなかった。

おかあさん・・・・おとうさん・・・私を置いて逝ってしまった。

泣くと天国に行けないと言われたから泣かないことにした。

それでもどうにも哀しくなって、涙が出てしまうときはひとりで泣くことにした。
もう一度会いたいから・・・毎日毎日、お祈りした。
早く会えますようにって。
そう言うと、シャルルは優しく訂正した。

「早く、ではなく、いつか、と言うように」と。

早く会うということがどういう事なのか、彼自身がよくわかっていた。

いつか、会いたいから。
必ず、会いたいから。

私は・・・シャルルが心配だからここに残ったわけではない。

・・・・シャルルは私と同じように「早く会いたい」と思っていたはずだった。
だから・・・一緒に、連れて行ってくれると思った。
両親の元に。
彼なら確実に連れて行ってくれると思った。
シャルルはいつも切望していたから。
「早く会いたい」と。

私は残酷だ。
シャルルとルイを・・・
この深い闇から戻すために、闇をまず知らなくてはいけないと解っていたのに・・・知ることを拒んでいた。

自分だけ温かい晄の中に居た。
・・・永遠の晄と名付けられたのに、晄が落とす闇に目を向けることを拒んでいた。
それも晄の一部なのに。
こんなにも深くて辛くて哀しい、底のない果てのない海のような幽明の境を・・・
彼らはいつまで彷徨うのだろうか。


彼女は涙を落としそうになる。
この冷たい水の底のような空間でさえ、彼女は涙を抑えるために手首を持ち上げて、自分の口から嗚咽が漏れることを防ごうとした。

・・・・その時だった。

誰かが、手を取った。
彼女の手首を、誰か・・・冷たい手の持ち主が掴んだ。
ヒカルはその手の持ち主を知っていた。
「ヒカル」
声が聞こえる。その声も知っている。
「目を開けて・・・ゆっくり」
彼女はその声の言うとおり、ゆっくりと目を開けた。
「シャルル」
ヒカルは目の前の人の名前を呼んだ。
「シャルル」
声が掠れて、自分の声でないようだった。
「ヒカル・・・・ヒカル・・・」
シャルルが何度も彼女の名前を呼んだ。

意識がはっきりとしてくるにつれて、彼女は自分の部屋に寝かされていると気がついた。
どの位寝かされていたのだろうか。
頭が重かった。
カーテンの向こう側はすでに暗かった。

「起きてはいけない」
彼はそう言って、ヒカルの手を薄い羽毛布の中にゆっくりと戻した。
その際に、脈拍に異常がないかどうか調べる。
彼は医師の仕草でもって、彼女に異変がないか簡単に調べた。
しかしそれは左手のみを動かし・・・右手には痛々しい白い包帯が巻かれていた。
ゆったりしたローブの裾から覗く右腕は、指の第2 関節から上はきっちり包帯が巻かれたている。
「どこにも異常はなかったけれど・・・念のため明日は精密検査を受けてくれ」
「シャルルがそう言うなら、だいじょうぶよ」

彼女は何があったのかを思い出して、それから少し間を置いて微笑んだ。
彼の悲愴な顔に言葉を選ぶ。

何があったのかを彼の口から再現させてはいけない。
自分は大丈夫だと伝えて安心させなければいけない。

「駄目だ。オレの言うとおりにしてくれ」
シャルルは短くそう言った。
ヒカルは軽く息を吐き出して、茶色の瞳をのぞき込むシャルルの青灰色の瞳を見つめ返す。
彼は憔悴していた。

「シャルル。手は・・・大丈夫なの?」
あえて、ルイのことは聞かなかった。

「オレのことは良い・・自分のことは解っている」
「それなら私は検査を受けない・・・・自分のことは解っているわ」
ヒカルがそう返すと、参ったと言って彼は白金の髪をかき上げた。
強情だな、と呟く。
ヒカルが笑ったので、彼は頼りなげな不安に満ちた表情から、ようやく安堵の色を見せた。
彼女にわかるように説明する。

「右手は裂傷と・・・骨が少し見えていたから縫った。靱帯断裂。
後は・・・指の骨の何本かと掌の骨が砕けた。・・・わかった?以上。」

彼女が絶句していると、シャルルは苦笑した。
だから言いたくなかったんだ、と言った。

それより・・・と呟いて、シャルルはヒカルの頬を愛おしそうに撫でた。
動かない右手ではなく、腕を伸ばして左の掌で彼女に触れる。

ベッドの端に腰掛けたシャルルは、いつから彼女を見つめていたのだろうか。

「君の状態は頭部打撲だ・・・運が良かった。
でもあと一時間、目が醒めないのなら、本当に病院に連れて行こうと思っていた。
・・・ヒカル、すまない・・・」
普段謝らない彼が、詫びた。

ヒカルは起き上がった。

彼の苦悶する顔が泣いているように見えた。
彼は寝たままで居るように彼女に言ったあと・・・少し考え直したように、彼女を介助して背中に羽根枕をあてがってやる。
そしてひとつ・・・大きくため息を出した。
今まで彼女に触れていた左手を、今度は自分の秀でた額にあてた。

「あのとき・・・オレは・・・涙を流すヒカルを見て、酷く憤った。
 ヒカルを泣かせる者は誰でも赦さない。
 ヒカル、君は決して人前で泣いたりしない。
 少なくともオレの前では。
 あのとき以来、君の涙を見たことがなかった。
 だから・・・だから、ヒカルを泣かせた男を破壊したら、ヒカルはもう泣かなくなるかと考えた。その一方で・・・激しく動揺した。あいつの前ではヒカルは泣けるのか、と。
 ・・・どうかしているな、オレ。」
「・・・・・」
ヒカルは黙ったままだった。
シャルルは気がついていた。彼女が泣かないことを。
そして・・・彼女を泣かせたルイを容赦しなかった。

「ルイが日本に勝手に立ち寄って、ヒカルと婚約発表をしたと報告が入った。
 あいつが帰国したら、真意を聞くつもりだった。
 今日はここに戻らないつもりだったが、・・・薔薇園の空調の微調整が気になっていたので、  正面から回らずに温室に直接入ると・・・。
 ルイとヒカルが戻って来ているとは聞いていなかった」

アルディ家の情報で当主が知らないことはありえない。
少なくともシャルル・ドゥ・アルディが知らない情報は皆無のはずだ。
一体、彼は・・どこで何をしていたのだろうか。

「結果的に君を傷つけてしまった。・・・悪かった」
「本当に大丈夫だから。シャルルが気に病むことではない。私が勝手に行動しただけだし・・・」
それより、と言って、彼女はそっとシャルルの右手に手を伸ばした。
まだ相当痛むはずだ。
彼女は、ゆったりとしたローブの裾に指を置いた。

「シャルルの傷が心配」
「たいしたことはない。オレは医者だ」
そうだったわね、とヒカルが吹き出した。
医者でも怪我をすれば痛い。
彼なりのジョークだった。
シャルルの険しい顔が柔らぐ。

「それより、あれだけ激しく打ち付けたのに、少々の頭痛で、外傷も脳内出血もまるでない君の躰を調べてみたいくらいだ。
チタン合金でできているのか?」
「・・・死後解剖しても良いわよ」
「それなら誓約書にサインをしてくれ。・・・ヒカルが成人してからで良いよ」
彼はそう冗談を言って微笑んだ。静かな微笑みだった。
ヒカルはこの微笑みを・・・日本で恋しく思ったことを思い出す。

後になって。

その時の様子を聞いて愕然とした。
血まみれのシャルルが、ヒカルを抱いて邸に連れて来たのだと知った。

・・・相当痛んだはずだ。

ルイより・・・ヒカルを抱いて手当を優先した。
それが彼女の胸を突き刺す。

骨が見えるほど激しい裂傷だったのに、彼は麻酔をすると診察できないと言って、彼女の手当が完了するまで血を流し続けたと言う。

ルイは・・・ルイは自ら起き上がり、自分で連絡をして、彼の叔父を呼んだ。
肋骨にヒビが入り、鼻骨骨折に、頬の裂傷に・・・口の中は歯で切れて、かなり縫ったらしい。
シャルルとルイはもう、修復できないのだろうか。
新しい関係は築けないのだろうか。

優しく静かな、大きな手のひらを持つシャルルは、ヒカルにしたように・・・ルイの頬を撫でることは出来ないのだろうか。

■23

ルイが別棟から出てこない。

抜糸して腫れが引くまでは、部屋からでないと宣言しているらしかった。
唯美主義のルイ・ドゥ・アルディらしかった。

シャルルはヒカルに乞われて薬を処方していたが、実際の容態についてはシャルルの実弟から報告されていた。

「あいつは自業自得だ・・部屋から出てきたら話をする」
シャルルは言い放った。

彼はすべての予定を調整して、館に戻ってきた。
時折、ルイの別棟に叔父の来訪がある以外は、ルイは一歩も外出しなかった。
ヒカルが訪れても帰されてしまう。

シャルルの怪我は順調に快癒した。
シャルルは元々両利きだったので、あまり生活に困らないらしかった。
何より、彼が無理をしないかヒカルがたいそう気に病んでいたので、これが彼の回復を促す結果になった。

大したことではない、と彼は言ったが、全治するまでには時間がかかった。
その間、ヒカルはずっとシャルルの傍らにいた。

何ができるわけでもなかったが・・・

彼にできるだけ傍に居るために、彼女は最上の薔薇を選んで、彼に届ける習慣を復活させた。
夜は彼が休むまで起きていることにした。

その結果、若い彼女が疲弊するのを思案したシャルルが休息を取るようになった。
・・・・シャルルと過ごす夏は珍しい。

ヒカルは夏の間、日本で過ごす。

シャルルには夏という季節は辛い思い出しかない・・・。

航空機の事故、自身の結婚式の日が両親の命日になったこと、彼が戻ってこられなくなった日・・夏が終わる前に、彼はルイの母と離婚してしまった。

彼が見せてくれた様々な季節の移ろいの中で、夏の記憶だけが異常に少なかった。
彼は・・・・まだ癒えていない。
夏を素晴らしいと思えていない。
・・・狂気は消えていない。

先日見た、彼の虚ろな瞳を思い返すだけで、全身が締め付けられそうになる。
夏の時期はああなるから・・・ヒカルを日本にやって遠ざけるのだと知った。
この年齢になるまで、彼の気鬱について思いやることが出来なかった自分が恥ずかしかった。

休みが終わる都度、次の休みに思いを馳せていた自分が情けなかった。

———私は彼らの何を見ていたのだろうか・・・。

シャルルの留守を見計らって、ルイの別棟に足を運んだ。
シャルルは相変わらず、ルイという存在を無視し続けた。

そして、処方箋を書くときだけ・・・美しい顔を歪める。

「ヒカルを傷つける者は赦さない」
そう言っているようだった。

しかし、ヒカルは、母のデッサンをまだ受けとっていなかった。
あの事件で先送りになってしまっていた。

躰の傷が癒えていないルイに「デッサンを渡せ」と言い出すことが出来なかったので、
しばらく様子を見ていたが・・・・
母の友人には、間違いなく受けとった、とカードを送ってしまっていた。
まだ中身を見ていないので、感想は書くことが出来なかった。
でも素っ気ないカードだけではどうにも気が落ち着かない。
きちんと礼を述べたかった。

そして、ルイとはヒカルを婚約者と発表したことについて、話をつけなければいけなかった。
シャルルは激昂し、報道機関に箝口令を敷いた。

そしてルイが出てくるまでその問題は凍結する、と宣言してしまったので、ヒカルはシャルルと話をすることすらできなかった。

シャルルは案外、そういうところは厳しかった。

彼が決めたことは決して・・・覆らない。
これはルイが撤回しないと、事がおさまりそうになかった。

ヒカルは、今日もルイに面会を断られてしまった。
抜糸も済んでもうあとは腫れが引くのを待ち、肋骨のギプスが取れるのを待つばかりだと聞いていた。
ヒカルは薔薇園から薔薇を摘んで、ルイの部屋に届けさせた。
彼は外出していないから、きっと・・・あの薔薇園での自分だけの時間を過ごすことが出来ないだろうと思った。

あの場所は、彼の唯一の聖域だ。

陽射しを受けて、きらきらと輝く金髪の天使が、再び微笑んでくれるように・・・
彼の冷たい微笑みが懐かしかった。
ヒカルは祷りを込めて、薔薇を捧げた。

そして、カードを付ける。
彼が話したくないのであれば・・
ヒカルの設置したメッセンジャーボードのアドレスを記入した。
ここにはルイとヒカルしか入室できない。
ルイが見ればそれが何をあらわすのか、わかったはずだ。
それ以外はメッセージを書かなかった。
夏の空は・・・パリで過ごす空は遠く感じた。
これほどまでに、自分が不在にしている夏のこの場所は・・
哀しくて苦しくて・・・切なくなった

そしてシャルルが自分に見せないようにしていた狂気と、ルイの孤独と・・・
様々なものが、夏の庭には残されていたのだと思うと、ヒカルは遣る瀬無くなった。

涙を堪えて、上を向いた。

昔、幼いシャルルが同じように涙を堪えた術であるとは知らなかった。

■24

彼はすぐにログインしてきた。

HIKARU :ルイ、待っていた。
Louis:暇だったから。
HIKARU :充分な理由だわ
Louis :セキュリティが甘すぎる
HIKARU :それならあなたが再構築して
Louis :他人のサーバーには興味がない
HIKARU ::それより・・・具合はどう?
Louis :来週には通常の業務に戻る
HIKARU :業務・・
Louis :業務としか言いようがない。退屈なアルディの行事だ。
HIKARU :あなたがそれで良いのなら良いけれど・・・
Louis :用事がないなら切断する
HIKARU :来週のチャリティコンサートの件と、預かってもらっていた母のデッサンを引き取りたい。私の用件はこの2件。それから、ルイの容態を知りたい。
Louis : 3 件だな。算数もできないみたいだね。
HIKARU :ルイ。その調子なら大丈夫ね。
Louis :チャリティコンサートは欠席する。その旨は先方に伝えてある。
HIKARU :シャルルも出席予定でしょう?
Louis :そう。だから、オレが出なくても問題ない。
HIKARU :シャルルの・・・同伴者って・・
Louis :知ってどうするの?
HIKARU: どうにもならない。知りたいだけ。ルイは知っているのね。
Louis :どうかな
HIKARU :ルイが知らないはずないでしょう
Louis :気になるのなら、なおさら言わない
HIKARU :意地悪ね
Louis :それは主観的な表現。
HIKARU :ねぇ 本当に具合は大丈夫なの
Louis :こうなった原因に言われたくない。
HIKARU :・・・
Louis :治癒はしている。婚約者殿が見られる程度には顔も回復。
HIKARU :その婚約者という表現だけれど・・・
Louis :こうなったら、君を妻にすることにした。
HIKARU :ルイ!
Louis :ルイ・ドゥ・アルディの名にかけて誓おう。・・・ヒカルをオレの妻にする。そして生涯、苦しんでくれ。
HIKARU :ルイ、落ち着いて
Louis :落ち着いているよ。音声の方が良かったら今度会ったときに。
HIKARU :私は承諾していないし、第一シャルルが赦さない。
Louis :・・・ヒカル。なぜ君は、彼の意志を優先するの?
HIKARU :どういうこと?
Louis :シャルルの意志で君は人生を決めるのかと尋ねている。
HIKARU :そうじゃない。
Louis :君は愛玩物だね。シャルルの。
HIKARU :私は、私だ。
Louis :違うね。自らの意志なんてまるでない。
HIKARU :私の意志はあるわ
Louis :果たしてそうだろうか
HIKARU :・・・
Louis :幼い時から彼の元で育った。だから、そう信じ込んでいるだけではないの?
だから、君はそうして知らないことに対して罪悪感を感じているんだろう?
HIKARU :・・・・
Louis :最初から言ったはずだ。愛でられる立場をわきまえろ。
知りたくないことを知りたくないと主張して通るうちは、君は愛玩物でしかない。
HIKARU :あなたたちの苦悩を知りたい。
Louis :今更遅いよ。
HIKARU :遅くはない。
Louis :それなら・・・オレに証拠を見せてくれ。
HIKARU :証拠・・・
Louis :そう。証拠。
HIKARU :私は・・・
Louis :君自身が、知りたいと思うこと。知りたくないことから目を背けることをやめれば自ずと見えるだろう。・・・この楽園のような敷地が、焦土であることに気がつくのは時間の問題だ。
HIKRAU :ルイ。
Louis :お喋りは終わりだ。少し休む。そしてこの仮想サーバーは閉鎖するように。できないなら、5 分後にオレが破壊する。
HIKARU: ルイ!
( Louis が回線を切断しました)

・・・それっきり、本当に5 分後にルイはこのサーバーを再接続できないようにしてしまった。

ヒカルはラップトップのキーボードから指を浮かせた。
ルイ・・・
彼とこんなに言葉を交わしたことはなかった。
ヒカルは茶色の瞳を伏せて、電源を落とした。
ルイの冷たい心を溶かすことはできないのだろうか。

彼は名前に誓った。
ヒカル・クロスを妻にすると。

婚約問題を撤回させようとして、逆にますます彼を頑なにさせてしまった。
吐息を漏らし、ヒカルは立ち上がった。
部屋から見える、彼の別棟は、すでに照明が灯り始めた。
もう、夕方だった。
シャルルの帰ってくる時間が近い。
ルイに会いに行く時間はなさそうだった。
彼は・・・一人きりで何を思っているのだろうか。

こちらから照明が見えるのであれば、本邸のこちら側も、ルイから見えるはずだ。
彼は・・・たくさんの照明が点くこちらを、どう思っているのだろうか。
本来なら自分があるべき場所に、ヒカルが居ることを彼はどう思っているのだろうか。

・・・ルイと話ができないのであれば・・・

波風を立てない程度でシャルルに話をしなければならない。
彼はこの話を凍結したが、ルイにその気がないのであれば、彼女は現当主に判断を仰がねばならない。
・・・結果として自分が日本に帰ることになろうとも。
どんな話の結果になってもそうなるかもしれない、と彼女は思い定めていた。
予感めいたものを感じていた。


■25

「・・・その話はルイと話をすることになっている」
「私の問題でもあるでしょう」

夕食の時間の後、ヒカルは薔薇園を散歩しようと言った。
シャルルは一瞬何か言いかけたが、黙ってヒカルの申し出に頷いた。
シャルルは肩に薄いカーデを羽織っている。
腕に通さずに肩にかけていたので、彼が歩くたびに袖口の裾が揺れた。
最初、分厚く巻かれていた包帯は大分薄くなっていた。

こうしてゆったりした普段着を着ていれば、彼が酷い怪我を負っていることは目立たない。
ヒカルの話を聞くなり、それまで物憂げな様子の彼は、きゅっと唇を結んで彼は腕を組んだ。
青灰色の瞳を強く煌めかせて、ヒカルに挑むように視線を返した。
彼が憤っていることがわかる。
ヒカルは怯まずに言った。
今日が話をする機会だと思った。

・・・明日はルイと行くことになっていたコンサートの日だった。

ルイはキャンセルを入れていたが、シャルルは、ヒカルと行くと言い出した。
彼の考えはわかっていた。
ルイが発表した婚約の件を、公の場で、シャルル本人が撤回する気だ。
そして、ヒカルの身元を明らかにして、彼女がアルディ家に滞在する客人であることを強調する。

一般人だから詮索はするなと周囲に釘をさした後・・・・
その後はどう出るかわからなかった。
彼女は暫くの間、全寮制の学校に入れられるか、ほとぼりが冷めるまで日本に帰されるかなど、シャルルは何かしらの方法で手を打とうとしていた。
ヒカルはルイとの婚約問題については、自分に一任させて欲しいとシャルルに申し出た。
彼は間も入れずに「駄目だ」と厳しく言った。

「それに・・・シャルルと一緒に行くことになっていた人に申し訳ないし」
「問題ない。ヒカル、君が同伴してくれ」

彼が公の場に、ヒカル・クロスを連れ出すことは滅多になかった。

芸術は本物に触れるべきだ、と彼は常々言っていたが、ヒカルの付き添いには、決まって彼女の教育係を指定した。
シャルルと一緒に行くことはほとんど無かった。
でもそれが寂しいと思わないくらい、彼はヒカルを様々な場所に連れて行ったから、彼女はそういうものだと思って育った。
お忍びで何回か連れだって行ったことはあるが、それでも別々に出口を出るなどして、極力大勢の目に触れないような配慮がされた。

「秘密の恋人のようだね」
と二人で笑ったことが今は懐かしい。
本当の「秘密の恋人」が居たとしたら、彼女に気の毒だ。
冗談でもシャルルとそんな台詞を交わしたことを申し訳なく思った。

「でも・・・」
「・・・ヒカル。オレには特定の恋人はいない。」

彼が見越したように言った。
そしてシャルルは少し怖い顔をした。
特定でない恋人なら居るのだろうか。
ヒカルはシャルルの言葉の意味を考えた。

清涼な空気が漂う薔薇の園で、彼はこの時期には珍しい、狂い咲きの薔薇に目を止めた。
「今年は・・・狂い咲きの花が多いな」
彼はそう言った。
一度はやめてしまった薔薇の改良を、彼はまた始めていた。
品種改良を唯一の趣味にしている彼が開発した品種によって埋め尽くされた薔薇園は、年中花が咲き誇り、むせかえるほどの甘い香りで満ちていた。
狂った花でも、翌年はまた決まった季節に花を咲かせることができる。
この敷地に息づく薔薇たちも、今にきっと・・・・ヒカルは祈るような気持ちで彼らのことを考えた。

「シャルル。・・・もうそろそろ、解放されても良いと思う」
「オレは何にも縛られていないよ」
「そう?シャルルはお母さんに縛られていない?」
「・・・何が言いたい」
シャルルの口調が変わった。
ヒカルは茶色の目を瞑った。
瞬間、ざっと風が吹いて・・・彼女とシャルルの髪を吹き上げた。
彼の肩にのせていた上着が吹き飛んだ。

ヒカルはそれを取ろうとして躰を動かそうとしたが、シャルルの様子に射竦められて、少し離れた場所に上着が落ちる様をそのまま見つめた。
「ヒカル。こっちを見ろ」
シャルルが言った。

シャルルと母の話をするのは数えるくらいだ。
彼は大事に・・・母との思い出を抱えている。
まだ、口に出すことが出来ないのだと思っていた。

想い出にもできないし、ましてや、彼女が本当に死んでしまったと思いたくないとシャルルが強く願っていることも痛いほどわかっていた。
でも・・・私たちは生きている。
生きていれば恋もする。
誰かを好きになってもっと生きていたいと思う。
彼には、もう、両親に「早く会いたい」と思って欲しくなかった。
いつか会いたいと思い笑って生きて欲しい。

彼には泣いて欲しくなかった。
泣くと、天国に行けないよ・・・。

私の天使。
私だけの天使だと思っていたけれど・・・
そうじゃなかった。
そうだと私が思い込んでいたから、シャルルはいつまでも他の人の守護天使になれなかった。
彼女は覚悟を決めて切り出した。

「シャルル。もう・・他に好きな人が出来ても良いと思う。
ひとりの人を定めて・・・想い続けるのは素晴らしい。
けれども・・・シャルルには幸せになって欲しい。」
「オレは自分を不幸と思ったことはないよ」
誇り高い彼はそう言った。
挑戦的な微笑みを浮かべていた。
————その笑いは、ルイと酷似していた。

「ヒカル。オレはもう、恋をするつもりもない。結婚もしない。
・・・オレを誰だと思っている?シャルル・ドゥ・アルディは、一度定めたことを覆さない。
運命の人は・・・あの人だけだ」
最後の言葉は絞り出すような声だった。
良く似たヒカルを見て、彼は眩暈を覚える。

「シャルル。私はもっとシャルルに自由になって欲しい」
「論点がずれている」
「ずれていない。・・・明日のコンサートでは、婚約の件を撤回するんでしょう?そのために、自分のことを犠牲にして・・・そして私を守ったつもり?シャルルはそれで満足なの?ルイ自身か
ら撤回しないと、彼は何度も繰り返す。そしていつかそれを真実にしてしまう」
「最善で最良の方策を講じるだけだ」
彼は顔を背けずに言った。
それは私にとって最善で最良でない、とヒカルは訴えた。
「私の言いたいことはとても簡単な事よ。
するべき事はとてもシンプルだわ。
シャルルは恋人を伴って明日は出席する。ルイ
から改めて撤回宣言を出す。そして私は・・・」
そこまで言うとヒカルは口をつぐんでしまった。

言うべき事はわかっていたが、それを口に出すことが躊躇われた。
ヒカルは、どちらにしても、長くはここに居られない。
そう思った。
「・・・ヒカル、こっちを見て」
シャルルは彼女に近づいた。
そして、うつむく彼女の肩に、そっと左手を置いた。
愛おしそうに・・・彼女の癖の強い茶色の髪を撫でる。
大分伸びたね、と囁いた。

「オレはね」

彼の口調は静かだった。
先ほどの怒気はもう含まれていなかった。
「彼女を愛したことを後悔してないよ。一度もない。
そして今も、彼女を愛していることを誇りに思っている。
君のお父さんには申し訳ないけれどね。
同じように・・・彼女を愛し抜いた彼もオレの大事な友人だ。
そんな大事な人達の娘であるヒカルも大事だ。
だから、ヒカルには幸せになって欲しい。
オレに幸せになれと言うのであれば・・・
ヒカルが幸せになることが、オレの幸せだと思って欲しい。」
だから、恋人は作らないことにしているんだ。
彼はそう言った。何かを定めた人の微笑みだった。

「そういう気持ちになるほどの人に出会っていない。
それだけのことだ」
だから、と彼は続ける。
「今回のルイの勝手な行動を赦すこともできないし、容認することもできない。
これはアルディ家の当主としても、許可できない。彼は・・・新しい血族として、果たすべきことをしていない」
「新しい血族・・・」
「そう。彼の代から新しい時代が始まる。当主となるべき器量はあると思う。
けれども・・・彼にはまだ、足りない」
ルイのことをこんなに話すシャルルは初めてだった。
シャルルは、ヒカルの頬を、親指で撫でた。
何が足りないのかは言わなかった。

「今回の同伴者はキャンセルを入れた。
それだけの間柄だ。
間柄というほどのものでもない。
だから、オレにはエスコートするべき相手が居ない。
・・・だからヒカルにお願いしたいのだけれど。
ああ、言っておくけれど、マドモアゼルからの返事は一つしか用意していない。」

「・・・ウィ」
ヒカルは小さく返事をした。
シャルルは満足げに頷いた。
「それなら・・・ドレスは用意してある。好きなものを選べ。
ああ、君は落ち着きがないから、ヒールは高い方が良いかな。
その代わり、しっかりオレに掴まっていないと転んでしまうから
ね。」
ルイと同じことを考えているシャルルに向けて、ヒカルは寂しそうに微笑んだ。
同じことを考えるのに、彼らはこれほどまでに違ってしまっていた。

彼女の心は決まっていた。
「この話はお預けだ。君はこれから明日のコンサートのための準備をしなければならない。
演目の基礎知識くらいは覚えておいてくれ。」

■26

その催しは、演奏を集中して聴くどころではなかった。

気むずかしくて人前に滅多に現れない彼が・・・特に夏の時期は彼は人前に出ない・・・新築されて間もない新しいホールに現れたときに、誰もが驚いた。

そして、彼に付き添われる幼い少女が誰なのか、熱く視線が注がれた。
ヒカルは二度目の好奇の視線を浴びた。
演奏時間の3 時間。
彼女は黙って集中することにしたが、せっかく前日にシャルルから講義を受けたのに、その予備知識を生かして、彼に気の利いた感想を述べることさえできなかった。
しかし本当に長かったのはその後だった。

「・・・堂々としていろ。気にするな」

シャルルはそう言ったが、ヒカルはルイの時以上に強烈なたくさんの視線を浴びせ掛けられることになってしまった。
パンフレットをのぞき込んで、舞台にのみ視線を向けていれば良い時間が終わると、誰も彼もが、その後に催される懇親会場に来るように、シャルルに声をかけた。
彼は優雅に頷いた。
周囲に座る人々は、見たことがある顔ばかりだった。
ヒカルと生きる世界が違う、ルイやシャルルと同じ世界の人々だった。

・・・彼女も学校では浮世離れしていると言われることがあったが、ここでは別の意味で周囲の者とかけ離れた自分を強烈に意識せざるを得ない。

何が違うと言うのではないが、仕草ひとつひとつが・・・まるで違う。

ヒカルは波禰受(※はねず:古代に皇族の衣服の色とされたやわらかいオレンジ色)のドレスを選んでいた。

彼女の茶色の瞳と髪によく似合う、とシャルルが言ったので、彼女は少しだけ嬉しくなった。
ヒールは高いものにしよう、と冗談めかして言った靴は、踵の低いものを選んだ。

「君の身長なら、これで充分だ。若い者の姿勢の美しさは歩いてこそだから」
シャルルはそう言った。ドレスに似合う、若々しいイメージの華奢な靴だった。
彼女の白い肌理の細かい肌が光り、それだけで充分だった。
装飾品は小振りなものだ。小さな薔薇をあしらったプラチナのイヤリングに、同じネックレスを身につけているだけだ。

プラチナが照明を受けて乱反射するので、ヒカルの鎖骨の美しさが際だった。
若さゆえの美しさについて、シャルル・ドゥ・アルディは良く知っていた。
それは、かの人に感じた美しさなのかもしれない。

生命力に溢れ、いつも、生きる事は素晴らしいとシャルルに説いた彼女を思い出しているのかもしれない。
若い闊達な母がシャルルを魅了した年齢に、ヒカルはもうすぐ到達する。
しかしどんな豪奢なドレスを身に纏っても、この会場を訪れるような、彼らと自分が違うと思い知る。
ドレスの裾捌き、脚の組み方、エスコートされる者特有の間の置き方・・・

彼女が知らないことばかりだった。
「今度はまた別の機会にゆっくり来よう」
ヒカルの考えていることを察したシャルルがそう囁いた。
彼女は頷いたがこういった場に、シャルルと一緒に来るのはこれが最初で最後だろうと思った。

演奏会の間は、誰も私語を発しないから、視線だけを受けていれば良かった。
しかし、演奏会が終了し、用意されたレセプション会場で談話の時間が始まると、皆が一斉にアルディ家の当主に群がった。

彼女は何者なのか、ルイの婚約発表は正式にいつするのか・・・すでに噂は広まり、誰もが父であり当主であるシャルルの発言を待っていた。
櫻色にほんのり染まった指先をシャルルの腕にからめて、彼女は恥ずかしそうにシャルルに囁いた。

「私やっぱりこういう場所は・・・」
「今日は我慢しろ」

シャルルはヒカルの耳元で短くそう囁いた。
この親子ほどの年齢差のある二人の関係を、どうやって聞き出そうかと周囲の人々がさかんにヒカルに話しかける。
シャルルには、彼が気に入る問いかけをしないと決して答えないことは、まわりの者はすでに何度も経験している苦い知識だった。

「亡き友人の娘です・・・彼女はヒカル・クロス。私の幼なじみが彼女の父で・・・」
彼は流麗に話をし始めた。うっとりするくらい美しい微笑みで、かねてより考えていたであろう台詞を話し始める。

絶妙なタイミングだった。

主催者が席をはずし、懇談の時間が始まってすぐのことだった。
主賓でなく協賛者としての来場であることを考えて、彼はこの頃合いで説明をし始めた。

「彼女に最高の教育を施して欲しいという遺族の願いと、私自身もそうあって欲しいと思ったことから彼女の監護権を取得しました。パリはその点、我がフランスで最高の教育を受けられるに相応しい環境ですし・・・彼女の祖母もフランス人でしたから、やはりこちらで教育を受けるのが最適でしょう。まだ学生ですし一般人ですから、公人のように顔を出すこともありませんがいずれ社交界にデビューするに相応しい家柄の者です。
当然アルディ家としては彼女の後援をしていきますし・・・。ええ、そうですね。
息子のルイと年齢が近いですが、まだこどもですから、婚約というのは・・・あったとしても先の話でしょう。
当人同士がよく話し合って決めることですからね。
昔のように、結婚は当主就任の条件でなくなりました。
彼らが本当に想い合っているのであれば・・別の話ですけれど」

彼のいつにない長い説明に、誰もが頷いた。
シャルルの発言で、ルイとヒカルはまだ正式な婚約者同士でなく、ルイの言った「親同士の決めた許嫁」という存在は現代には通用しないから「お互い」の気持ちを尊重するべきだ、と強
調した。

そして、ヒカルは一般人であり、ルイと婚約するかどうかは今の発言で曖昧にされた。
近い将来のことではないので、くれぐれも詮索しないように、と念を押したことになる。
ルイは時期アルディ家の当主となるべき身分だ。
万が一破談になったりする原因の噂や、汚点になるような噂を流せば、制裁が加わることを予告した。
また、彼女はアルディ家と懇意の者であり、相応しい待遇を与えるつもりなので、蔑ろにしないように、と付け加えるのを失念しなかった。

シャルルの話の進め方に、ヒカルは舌を巻いた。
ルイも先を見越して何でも準備する方だと思っていたが、シャルルはその上を行く。
鋭く周囲の何人かに目配せをした様子から、事前に打ち合わせと口裏合わせと済ませているのだと思った。彼の準備に漏れはない。
シャルル・ドゥ・アルディは・・・悠然と微笑むと、優雅に退場の挨拶をして、ずっと黙っていたヒカルを伴って、会場を後にした。

「もう、帰って良いの?」

ようやく口を開くことが出来て、ヒカルはシャルルから腕を離した。
彼は白金の髪をかき上げて、大きく深呼吸した。
息が詰まるな、と言ったので、彼もああいう席は気が進まないのだと思った。

「ああ。・・・あれ以上いたら、当のルイはどうしたんだと言われるから」
シャルルはそう言ってヒカルの腰に軽く手を添えて、微笑んだ。
右手はまだ包帯を付けたままだったから、長居をすればその話もしなくてはならない。

「必要充分な時間だと思うけれど」
「そうね。でも・・・・ルイの耳に入ったら、彼は何て言うのかしら」
彼女は呟いた。

ルイが言った「シャルルの絶望が欲しい」という言葉が気になっていた。
ルイはこのままにしておかないだろう。
シャルルの思惑通りにはいかない、とルイが何かを考えているような気がした。

「ルイのことは気にするな」
「シャルル、ありがとう」
ヒカルは微笑んだ。

一度離した彼の腕に、もう一度腕を絡ませた。
「礼を言われるようなことはしてないよ」
「・・・ありがとう」

ヒカルが『ルイと話をつけるから、一任させて欲しい』と言ったことを、シャルルが尊重してくれたことに対する礼だった。
シャルルは「当人同士がよく話し合って決めることだ」と宣言した。
だが、これによって、逆に「当人同士はよく話し合っていない」と明言したことになる。
これをルイが黙ってはいないだろうと思った。

「後はヒカルが決めることだ」

シャルルはそう言って目を細めて、運命の人の娘を見た。
若い彼女が着飾る姿は美しい。
・・・あの人とこんな会場に行ったことも思いだしていた。
最近、ますます似てきた。
彼女にも、彼にも。

シャルルは鮮やかな色のドレスを身に纏い、彼に躰を預けるその重みが・・切なくなるくらい重いと感じた。
錯覚しそうになる。
あの人に良く似た彼女を見て・・・戻って来られなくなりそうになる。
特にこの季節は。
ヒカルの気質はどちらかというと父親に似ている。
我慢強く、頑固で、それでいて自分のことより他人を優先する。
誰も教えていないのに、彼女はそうする。
一方で、言い出したら聞かないし、時々、突拍子もないことを言い出したり、行動する様は、まさしくあの人そのものだった。

だんだん・・・彼女が母の面影を強く出してくる。
ヒカルはもうすぐ・・・彼と出会った母の年齢になる。
その時に、彼女を「ヒカル」ときちんと呼ぶことが出来るだろうか。
シャルルはそう思った。
彼と長い時を過ごした永遠の晄を、彼自身が滅してしまうようなことになりはしないか。
彼の中の狂気はまだ・・・消えていない。

そしてこの血に流れる狂気は、確実にルイにも受け継がれている。
これはこの家の宿命なのだと思う。

澱んだ血流を止めることが出来るのは、ルイなのだろうか。

それとも・・・・

「ヒカル、あまり寄りかかるな。重い。減量しろ」
「シャルルの意地悪ね。」
ヒカルが頬を膨らませた。

この穏やかで静かな時間をもたらす彼の晄を、泣かせたり傷つけたりする者は赦さない。
それがルイであっても。
ヒカルは駒ではない。

ルイの思い通りにはさせない。
彼は微笑みながらそう考えていた。

静かに、次の一手を考えていた。

■27


シャルルの発言をどこで聞き入れたのだろうか。
翌朝早くに、ルイはヒカルに内線電話を入れてきた。
彼が別棟から内線電話をかけるのは非常に珍しい。

そして、ルイも朝が弱いので、これほど朝早くに連絡をしてきたということは、眠っていないのかもしれない、とヒカルはちらりと思った。
彼女は身支度を調えていたところだった。
今日も暑くなりそうだった。

「昨夜は思い通りになって、満足した?」
「思い通りにはならなかったわ。ルイと話ができなかったから」
「シャルルに同伴して・・・思い通りではないと言う君は貪欲だね」
歌うように彼は言った。

くぐもった声ではないから、抜糸も済んで腫れも引いて、いつも通りのルイになっているようだと察する。

「・・・・君の望みの品を渡そうと思う」
「え?」
「受けとったデッサン」
ヒカルは受話器を持ち直した。

彼がいつまでも彼女に渡そうとしない、マリナ・イケダのデッサンを、こうもあっさり渡そうと言い出すルイの真意がわからなかった。
シャルルには、昨夜くどいほど念を押されていた。

「ルイには近づくな」と。

彼の別棟に行くにはシャルルに話を通せと言われていた。
彼女に一任すると言っていたものの、シャルル・ドゥ・アルディは「ふたりきりになるな」と何度も念を押した。

ヒカルはまだ、大人とこどもの狭間にいる。
ルイは若者の顔をしてはいるが老成している部分があり、その一方で今回の「事故」に関して、彼の真意がわからないうちは、彼に近づくな、とシャルルは厳しくヒカルに接見を禁じて
いた。
彼の反撃が始まろうとしていた。
実子に・・・こうして策略を練るシャルルと、考えていることのよくわからないルイを見て、ヒカルは自分の存在というものを考えざるを得ない。

どう考えても、彼らの冷戦状態の原因の一端は自分にある。

そして・・シャルルの傍に居たいと言いだした彼女は、シャルルのためにではなく、自分の願望のためにここに滞在している。

・・・シャルルとルイを壊したのは私自身ほかならない。

気付いていたけれど、口に出すことを躊躇っていた。
ヒカルは・・・もう、無邪気でいる年齢ではなかった。
「君が今日、こちらに訪れるのであれば、渡そうと思う」
彼は静かにそう言った。

今日はシャルルの帰りは遅い。
夏の予定をすべて調整し直して、彼はアルディ家に戻ってきた。
「・・・それに、シャルルが夏に何をしているのかも、教えてやろう」
傲慢な口調で、ルイ・ドゥ・アルディは言った。
「夏のシャルル・・・」
「そう」
面白そうに彼は言った。

「ヒカルが日本に戻っている間、シャルルが何をしているのか・・・知りたいと思うのなら、僕の棟の扉を叩け」
そして回線は切れた。

シャルルに言えばきっと反対される。
ルイは、ヒカルに秘密を持てと誘い込んだ。
わかっている。
わかっているが、彼女はどうしてもマリナ・イケダのデッサンが欲しかった。
それを譲ってくれた母の古い友人に申し訳なかった。
そしてルイがなぜなかなか渡してくれないかも気になった。

何かに執着することのない彼はヒカルに意地悪をすることもない。
いつもなら、きっと、つまらなさそうに「くだらないね」と言って投げ寄越す程度の軽さしか、彼には物事というものは存在しない。
ヒカルは唇を噛んだ。

シャルルに嘘はつけない。
けれども、どうしてもあのデッサンが欲しかった。
シャルルに言えば、すぐさま当主としての命令を、実子のルイに下す。
関係が悪化するのも気鬱だったが、ルイが素直にその品を渡すとは思えなかった。

どうしても・・・母のことを知りたい。
マリナ・イケダがどんな絵を描いているのか知りたい。
彼女が残した絵画はごく僅かだ。

イラストを描いたり、ジャパニーズ・コミックを描いたりしていたようだが、父と結婚してからは描いていなかった。
すぐにヒカルを産むことになったから。
だから、ほとんど作品は残されていなかった。

ヒカルは、結婚してからの両親を知っていたが、シャルルが・・・彼がこよなく愛した母の姿を知らなかった。
そして、その母に囚われているシャルルを見て、ルイが癒されない想いに沈んでいる限りは・・・
自分ができることは少ないと思った。
母そのものにはなれないが、母を知って・・その上で、シャルルに「自由になって」ともう一度言いたかった。
自分には役割があると思った。
こうして、シャルルの傍らで生活することには意味があると思う。
シャルルが、愛した人の娘というだけで傍らに置くとは考えられなかった。
彼には、彼の理由がある。
ルイと同じように。

ルイもシャルルも、彼らなりの理屈と理由と価値観と事情があるはずだ。

彼女はそう思った。

「————行きます」
ヒカルは、回線が切れた受話器の向こう側にそう語りかけた。
確かに傲慢かもしれない。

————永遠の晄・・

昶という名前の意味を考えた。

永遠の晄は・・影も知らないといけない。晄の眩しさを知らないといけない。
・・・そして
晄がもたらす歓びも哀しみも・・・知らなければならない。

彼女は、目をそらしていた事実にようやく、向き合う決心をした。

■28

「今日は来ないと思っていたが」
ルイがそう言ったので、ヒカルは「不意打ちよ」と冗談を言った。
彼は胸の下にバンドをはめていたが、それは大分薄いものだった。

肋骨の骨折には手足の骨折と同じような治療ができないとシャルルに言われていたことをちらりと思い出した。
内臓に損傷がないことが確認できたので、ルイは入院もせず、こうして自分の棟に閉じこもっている。

だが、彼は彼の叔父となにやらサーバールームを構築して、あれこれ作業しているようだった。
入り口から少し奥に入った部屋は客間であったはずなのに、いつの間にか完全に密閉された部屋になり、そこは独立して電気が配給されている。
彼は通信事業やIT 関連に対しても積極的だった。
彼の不在中はここに入ることもできなかったし、こうして入り口で立ち話をする際に垣間見る風景しかこの棟のことは知らなかった。

「同じ敷地に住んでいれば家族なのか」
とルイに問われたことを思い出し、間取りもうろ覚えの自分が言った言葉に、ルイが反論したのは当然のことだと思った。
彼の顔は完全に治癒していた。

完璧主義のルイ・ドゥ・アルディの叔父によって、彼は「完璧に」治療されていた。
まだ少し・・・不自然な部分もあった。

鼻骨骨折していたはずだし、ほお骨も大分打ち付けられていたから、つい最近まで浮腫に悩まされていたはずだった。
彼の高い鼻梁には、つい先ほどまでテープが貼ってあったが、扉を開けてヒカルを見るなり、彼はテープを剥がしてしまった。
彼らしかったが、今日訪れるべきではなかったかも・・とヒカルは少し省察した。

「・・・そういうのをいらぬ詮索と言う」
ルイは不機嫌そうに言った。
ヒカルの考えていることは手に取るようにわかる、と言いたげだった。
彼の顔を眺め回していたヒカルが、はっとして「ごめんなさい」と呟く。

「ミシェル叔父様は?」
「帰った」
ルイと二人きりになるな、と言っていたシャルルの言葉を無視するわけにはいかなかった。

ヒカルは、シャルルの帰宅が間もなくであるとわかってはいたが、ミシェルの来訪を知ったので、内線電話の回線を切って程なくしてルイの別棟を訪れることにした。

ミシェルが来訪していれば・・・シャルルは嫌な顔をするだろうが、ルイと会っていたことは咎めないだろうと考えていたのに、ヒカルはアテが外れてしまった。

「彼に用事があるわけでもないだろうに。・・・単なる立会人であれば、どちらにしても、彼はすぐさま帰ったね」
ルイは断言した。
実兄よりもルイの方がミシェルをよく知っている、といった口振りだった。

「デッサン・・・随分預けてしまっていたので。気が悪いわ」
「嫌みな言い方だね。邪気のない言葉とは時に残虐と同義になる」
彼は歌うように言った。
「オレには価値のないものだから、引き取ってくれて嬉しいよ」
ルイはそう言って、中に入れと言った。

外はもう、夕暮れを越して静かに夜を迎えていた。
ヒカルは中に通されるとは思っていなかったので・・・少し躊躇って、そして中に足を踏み入れた。
ルイの棟には・・・久方ぶりに入る。しかも、ヒカル一人で入るのは初めてのことだったのかもしれない。
彼の居住空間は、まったく・・・無機質だった。
豪奢な深い青色の絨毯も、現代風のスチール製のデスクや大理石の床も・・・
「若者の居住空間」であったけれど、まるで映画のセットのようだった。
最も、彼は普段、ほとんどここに居ない。

この敷地には「住む」ではなく「滞在する」と言った方が相応しい。
彼の望み通りに造られたサーバールームも遠隔操作ができる
し、彼自身がここに居る理由は・・・あの薔薇園でのひとときの時間しかないように思えた。
「シャルルにはなぜ、マリナ・イケダのデッサンについて話をしなかった?」
ここで何をしているのか・・・彼女は尋ねることが出来なかった。
この部屋から、薔薇園がよく見えた。
そして植林されて、向こう側からはよく見えなかったが、こちらからは、本邸の部屋の灯りがよく見渡せた。
どこの部屋に晄が灯ったのか・・よくわかる。
これらの晄の移り変わりを、彼はじっと・ ・・一人で眺めていたのだろうか。
ヒカルは言葉を発することが出来なかった。
彼の孤独にほんの少し触れただけなのに、躰全体が痺れてしまう。
この一人きりの空間で彼は何年・・・あの本邸の晄を見つめ続けたのだろうか。
たとえ、ここにいる時間は少なかったとしても・・・

ヒカルは言葉に詰まった。

自分がシャルルの愛を受けている間、彼はここで何を思っていたのだろうか。
そう思うことが傲慢だよ、とルイ・ドゥ・アルディは言ったのに、それでも思いを止めることが出来なかった。

「これがその品」
ルイ・ドゥ・アルディはそう言って、クリスタルの机の引き出しから大きな封筒を出した。
そして、ヒカルに封筒を見せた。
A3 の大きな封筒だった。
何の変哲もない封筒なのに、それはどういうわけか・・・待ち望んだせいもあったのだろうか。
簡単に受けとって良い物かどうか躊躇ってしまう。
手に取ることが躊躇われた。
分厚かった。
「・・・ありがとう」
ヒカルが受けとる。
重いはずはなかったのに、ずしりと重く感じた。

「今、見ても良い?」
「どうぞ」
彼は、広くて何も無い部屋の、ソファベッドを指した。
整えられたそこで、作品を広げても良いという許可を得たので、ヒカルはそこに浅く腰掛けた。
ヒカルはもう一度、ありがとう、と呟くと、その封筒を、両手で受け取り、そっと・・・腰掛けた。
動かすと壊れてしまう古陶器のように、その封筒を扱った振動を加えると崩れてしまうかと思った。

マリナ・イケダはマリナ・クロスではなかった。

だからこそ・・・ヒカルは真摯な気持ちで、受けとった。
母ではない・・・

少女の頃のマリナ・イケダ。

シャルルを魅了し、父を魅了し、そして男女問わず誰も彼もが彼女を慕った。
葬儀には、二人の友人が、会場に溢れんばかりだったという。
空の棺の葬儀に、誰もが無言だったという。
そしてそんな中、信じないと言い切ったのは、シャルルだった。
彼は壊れてしまっていた。
死ぬわけはないから、葬儀に出ないと最初は言い張り、そして焦土と化したあの事故現場を彷徨った。

何日も、何日も。

それでも両親の痕跡は見つけられなかった。
両親が乗っていないという痕跡も見つけられなかった。

そしてそのまま・・彼は戻ってこられなくなった。
ヒカルに会うまでは。
壊れてしまった彼を晒すくらい、彼は壊れてしまっていた。
幽鬼のように現れた彼の姿をヒカルは今でも覚えている。
彼は・・・今でも時々「その時の状態」になる。
ヒカルには決して見せないが。

それが、ヒカルが日本に戻る夏の時間のことなのだと、ルイは遠回しに言った。
ヒカルも薄々知っていたのに、知らないふりをした。
「戻ってこられない路に迷うシャルル」をルイは知っている。
そして・・・この封筒の中身についてもルイは知っている。

それでも、彼が静かに妖しく微笑む理由を、ヒカルは知りたいと思った。
・・・おかあさん。
あなたがシャルルと過ごした「青春の輝き」の前後の時代を、
私はこれから・・・・観に行きます。
そう思いながら。

封筒を・・白い指で、静かに開いた。

expiation~Februusの娘~第二部(3)

■29

大事に保管していたのであろう。

美術品愛好家でもある、母の旧友だと言った女性は状態良く保存していた。
長期間の保存であったのに、そのデッサンは黄ばんでおらず、ほんの少し端が変色しているだけだった。
そのデッサンのほとんどは、髪の長い、美しい人が描かれていた。
どこか遠くを見るような、儚い精霊のような人だった。

見たことがない人だったので、母のモデルをつとめただけの縁の人なのだろうか。
それにしては・・・あの友人の女性はこんなに長い年月を保存しておいたことから、これは彼女の知り合いなのだろうと思った。
小さく「Lady 」とかいてあった。これは彼女の名前なのだろうか。

・・・どこか、シャルルに似ていた。
憂いがあって、誰も近寄ることの出来ない孤独と寂しさがありながら、それを超越した微笑みが印象的だった。

明るく陽気な絵でない。けれどもどうにも心惹かれた。
何枚かめくる。
いろいろな構図があったが、どれも・・・哀しそうで儚げで夢見るような愛らしい人の作品だった。
とても、想像の世界のモデルとは思えなかった。
しかしこれほど美しい人がいるとは思えないくらい、奇麗な人だ。

「それはあの人の縁者だ。・・・若くして死んでいる。」
ルイは静かに言った。

窓際の硝子窓から上を見上げて、すっかり暗くなってしまった空を見上げていた。
「・ ・・マリナ・イケダはその人物をモデルに、若い頃に絵を描いている。その下絵だな」
彼女は膝の上に広げた、母の作品を眺めた。
知らない人の持ち物のように思えた。
遺品の絵はたくさん残っている。

幼いヒカルが生まれたときに、情操教育の一環として、彼女はたくさんのイラストを残していた。
けれども人物画はなく、こどもむけのイラストのみ残していた。

「・・・・あるときから、彼女は人物画を描かなくなった」
「あるとき・・・」
「そう」
ルイは素っ気なく言った。

窓硝子に軽く寄りかかり・・・気怠げに頭を軽く振った。
腕を上げて髪をかき上げるのもまだ、辛いのかもしれない。
彼は、回答を知っているのに教えなかった。
ヒカルも尋ねなかった。

目の前に溢れているデッサンが、母の作品だとは思えず、ただただ、その美しい人物画を眺めるだけだ。
彼女に残されたイラストは、お世辞にもプロとは言えない作画だった。
デフォルメされた絵は苦手だったようだ。
ヒカルの年齢にあわせたデフォルトされたものであり、彼女が「色」というものを知ることから始めなければならない幼年齢であったことも理由として考えられる。

写実的な描写の画は残っていなかった。
だが、これを見ると、マリナ・イケダは実在のモデルが在ると良い絵が描けるのかもしれない。
自分の母のことでありながら、ちらりと客観的な見解を考えてしまう。
ヒカルは苦笑した。
あれほど見たいと願っていた母のデッサンを手にしているのに、作品の出来の善し悪しを考えている自分が可笑しかった。
彼女は若い頃はまんが家だったと言う。
けれども何も残されていなかった。

どうして残されていなかったのかは、今となってはもうわからない。
ただ、父との結婚の時期前後であることは確かだった。
何か・・彼女に筆を折らせる原因があったのは明白だが、理由は誰に尋ねてもわからなかった。シャルルさえも知らなかった。

ヒカルは、撫でてデッサンが薄れることを心配して、スケッチブックから切り離された幾枚もの素描を両手で大事そうに持った。

このLady という人物は・・・どこか・・・どこかシャルルに似ている。
寂しくて愛に飢えているけれど決して愛を覓がない。
これはルイにも言えている。
彼らはそれより誇り高いことを選ぶ。
そういう人達なのだと思った。
彼女に出会ったのは、小学校の頃と言っていた。
再会したのは、ヒカルくらいの年齢だと言っていたから・・・ヒビキヤなら知っているかも知れないな、と思った。
「マリナ・イケダは、その絵を残した後、もう1 枚、彼女に渡している絵があった。」
ルイは淡々と言った。

彼とあの人は、知り合いだと言っていた。
この絵を入手した後、ルイもあの人に連絡を取ったのだろうか。
彼は経過を教えてくれるような人ではなかったから、ヒカルは彼の知り得た情報について、どうして知っているのか理由を尋ねることはしなかった。

ルイは結果しか言わない。
理由はほとんど口にしない。
尋ねれば彼は冷笑して「結果を歪曲して真実から目を背ける者ほど、過程を知りたがる。」と言うだろう。

彼は、意図的に情報の量を制限して、相手にそうだと信じ込ませるだけで、嘘を口にすることはしない。
ヒカルがそう思いたかっただけかもしれないが。
・・・最後の一枚のことを言っているのだろう。
その絵は、明らかに、Lady の絵よりも最近に描かれたものだった。

別にするために、合紙が入っていた。
そして・・・一枚のメモが残っている。
きっと、あの女性の備忘録だと思った。
ヒカルはメモを手に取った。
丁寧な文字で、日本語だった。

『・・・マリナさんが訪ねてきた。・・・そして、しばらく会えないから、私にこのデッサンを預けて行きたいと言った。どうして会えないの、日本に住んでいるのに、と言うと彼女は『なんと
なく』と笑った。近くフランスに用事があって短期間ではあるが渡仏するという。
私は自分で持っていれば良いでしょう、と言ったのだが、彼女は笑って持っていてくれと言っただけだった。いつか・・・取りに来るからと言った。
もし、取りに来られなかったら、これはレディの絵と一緒にしておいて欲しいと言った。これは対になるべき絵だと言っていた。
どうしてこの絵が対になるのかわからなかったけれど、私は預かることにした。
・・・遺作になるとは思わなかった。その時の不思議な会話も、後になって理由があった様な気がしてならなかった。
虫の知らせと日本語で言うが、これが今生の別れになるとは私も彼女も決して思っていなかったのに。
・・・・・・・これをいつか、彼女の娘に渡せる時が来るのだろうか。
まだ私も混乱している・・・」

日付はあの事故の直後だった。
ヒカルは細かく丁寧に書かれた文字を、何度も何度も見つめた。

最初は、意味が頭の中に入っていかなかった。
文字列だけを眺めていくだけで精一杯だった。
・・・何が書かれているのか、読み込むことができない。
頭の中で整理ができない。

こんなことは初めてだった。
ルイがヒカルの蒼白な顔を、面白そうに眺めているかもしれない、とか
ルイと二人になってはいけないと念押ししたシャルルがそろそろ帰ってくるだろう、とか
そんなことは一切、考えられなかった。
・・・本当の母の遺作。マリナ・イケダの最後の作品・・・・
それがこの絵なのか。
それがこのデッサンなのか。

ヒカル・クロスは、マリナ・クロスではない・・・マリナ・イケダの最期の作品を見るために、
重ねられた白い合紙をそっと取り除いた。

指が少しだけ震える。

今までめくり続けたデッサンも、たいそう驚くべきものであったけれど・・・
この絵だけは見てはいけない気がした。

その一方で、この絵を見ろ、と誰かがヒカルの耳元で、低く小さく、だがはっきりと囁いているような気がした。

見てはいけないものをこれから見ることになると・・・どこかでわかっていた。
同時にルイが「見たら戻れない」と警告した声さえも、今はまるっきり耳に入らなかった。

■30

■30

「・・・・」
彼女は言葉を発したつもりだったが、声にならなかった。
緘口してしまう。
発声しているつもりなのに、音声が出ない。

それとも、自分の耳が自分の声を伝えることを拒否してしまったのだろうか。
ヒカルは・・・そのデッサン画を持ったまま、思わず立ち上がってしまった。
膝の上にのせた、その他すべての絵が・・・彼女の太腿からこぼれ落ちた。

「・・・・・・・・・っ!」

声にならない声は悲鳴に近かった。
しばらくそのまま立ち尽くしてしまう。
茶色の瞳を大きく見開いたまま、ヒカルはルイとそのデッサンを交互に見つめた。

「どういうこと・ ・・なの」
「つまり、そういうことさ」
ルイは静かに言った。

いつものように・・・
彼は歌うように言わなかった。
低く囁いた。
ヒカル・クロスは・・・
初めて。

生まれて初めて、幼い時から知っているルイ・ドゥ・アルディを睨んだ。

強く、意志を持って彼を睨んだ。

これを今まで黙っていたのが、他ならないルイであることを、容認できなかった。
・・・・理解できない。

デッサンは・・・
マリナ・イケダの最期のデッサンは。

ヒカルは眩暈がして、立ち上がったばかりなのに、虚脱し、すとん、とその場に座り込んでしまった。

ああ・・・・
彼女が声を絞り出した。

それは・・・
それは・・・

シャルル・ドゥ・アルディとルイ・ドゥ・アルディだった。
まだ、幼いルイをシャルルが光の中で抱き上げている。
微笑んで、今にもキスをしそうに頬を寄せている。
まだ、若いシャルルと・・・ルイが見つめ合い微笑んで、顔を近づけていた。
そして彼らの流れるような月と太陽の晄の糸のような髪が混ざり合っている。
手を伸ばしたルイの幼い手を頬に受けて、シャルルは満面の笑みを浮かべていた。

・・・場所はここだった。

アルディ邸の薔薇園の窓辺で佇む二人のデッサンだった。
光の中に居る、幸福な様子が描かれていた。
ヒカルは息をするのも忘れてしまうくらい驚愕して・・実際に息が苦しくなり、大きく深呼吸した。
ヒカルは気がつくべきだった。
彼女の母親を「マリナ・イケダ」とルイは言った。

「マリナ・クロス」と言わなかった。
少し調べればわかるだろうし、彼と知り合いのあの旧友の女性から聞いていたのかも知れないが、それでも、ルイが彼女の旧姓を知っているとは思えなかった。
ルイにとって、興味がある情報ではないだろうに。
・・・今、レディの絵を見て、ヒカル自身が納得したでないか。

・・・彼女は。マリナ・イケダは実在の人物をモデルにすれば写実的に描ける、と。
彼女は想像だけで、シャルルの未来にやって来るかもしれない、いつか生まれる子供を想像してこれを描いたのではない。
描いた時期は旧友の女性のメモから、シャルルの結婚式の直前だ。
これらが導く結論は、ひとつしかない。

「過程を知ることは愚かだ」と言ったルイが導いた帰結を、ヒカルは察してしまった。

・・・・ルイを知っているんだ。
ルイは・・・マリナ・イケダに会っている。
確信した。
「ルイ・・・・・・」
ヒカルは呻いた。

ルイは薄く笑っただけだった。
それは、ヒカルに「シャルルの絶望が欲しい」と宣言したときの微笑みだった。


■31

「ルイ・・・マリナを・・・母を知っていたの?」
「その絵が答えだ」
ルイはくすくす笑った。
声を漏らして笑うルイは、とても幼く見える。
実際の年齢相当なのだろうが、老成した彼には、その笑い声は創ったもののようで、ひどく不釣り合いだった。

ヒカルを試しているのだろうか。
ルイは何を知っているのだろうか。

・・・彼女は喉元が干上がり、声を上手く出すことが出来なかった。
そして・・・ヒカルは彼が薔薇色の唇を開きかけたとき。
場違いにも「ちょっと待って」と言って、床に落とした絵を拾い始めた。
その驚愕を落ち着かせるように、ヒカルは慌てて散乱した絵を、慌てて拾い上げる。
これから彼が話し始める言葉は・・・彼女をもっと喫驚させることになるだろう、と肌で感じていた。

その時に・・・ヒカルはゆっくりとこの館を退出する自信がなかった。
それくらい、何か重要なことをルイはずっと言わないでいたのだと思った。


これほど長く一緒に居るのに・・彼はそれでもなお、決して悟られないように沈黙していた。
ルイには、自らの「札」を必要になるその時まで、何年でも何十年でも、ひょっとしたら一生でも閉じ込めておく剛胆さがあった。

「ヒカルはまったく予測不能だね」
ルイはからかうように言った。

この瞬間を何年も前から待っていた、と付け加えた。
ごく簡単に言ったので、ヒカルは、手を止めずに、母のデッサンをかき集めて、元あった封筒に収めることに集中してしまっていた。
ヒカルはそして天地を揃うことなくしまい込んだデッサンの入った封筒を胸に抱え込んだ。
彼に奪われないように、守るようにして、小さな両肩の中にしまい込んだ。
そしてその絵を確保してから・・・ようやく言葉を発することができるようになった自分が居ることに気がついた。
ルイを警戒している自分自身が・・・何となくではあるが哀れだった。
攻撃されるのかと思って身構える自分をどうにも諫めることが出来なかった。
「・・・・何を言っても私はあなたを・・・」
ヒカルは呟くと、一枚だけ、封筒に入れることの出来なかった「最期の絵」に目を落とした。

これは他の絵と対であると母は言ったのだというが、ヒカルは

・・・一緒にしてはいけないと感じていた。

何がどうという根拠はなかったけれど、「いけない」と何かが警告していた。
それは先ほどの「見ろ」と囁いた声と同じだった。

彼女を突き動かす、本能に直接語りかける声には抗えなかった。
誰の声なのか・・考えるいとまもなかった。

ルイは、また、遠くを見るように、硝子窓に映る、夜鏡の自分を見つめた。
ルイ自身を見ているようで、もっと遠くの・・・ルイを越えて透けて見える空の模様を見ているのか、それともルイと良く似た誰かを見ているのか・・・もっともっと遙かな、形にならないものを見つめているのか、わからなかった。

でも彼が今見ているのは、彼女がかつて何度か目撃した、薔薇園の「影」と同じなのだろうとわかった。
彼は彫像の様に整った顔を動かすことなく、ヒカルに背を向けたまま「知りたいか」と尋ねた。ヒカルは少し怒ったように「当たり前でしょう」と言った。

彼は家族でないとヒカルを否定したけれど、その短い言葉のやり取りだけで会話が進む様は、まさしく彼の否定した「それ」であった。

「良いだろう」
ルイは満足そうに言った。

ヒカルの怒気を含んだ言葉が、屈服した者の蹲踞の言葉だと思ったようだ。
ルイは・・・物憂げで上品な青灰色の瞳を遠くに向けて・・・独り言のように、歌うように話し始めた。

その口調は・・・とても穏やかで静かで・・・ヒカルが今まで聞いたことのない声波だった。
きっと、この口調で、彼は薔薇園のベンチでひとり腰掛けて、自分の影に語っていたのかもしれない。

根拠はなかったけれど、きっとそうに違いない、とヒカルは感じた。

胸に・・誰にも奪われないように隠すかのように、デッサン画をしまい込み、彼女は「最期の絵」だけを握りしめた。

でも、見つめていることが苦しくて・・・ルイが話し出すより前に、封筒の上から、その絵を自分の視界に入らないように、同じように抱きしめた。

母の最期の絵。

マリナ・イケダは、実際のモデルが居ないと、写実的なデッサンは描けなかった。
だから、これは・ ・・実際に、シャルルとルイを見ていて・・・ふたりが微笑み会う姿を夢想して描いた絵なのだと思った。

実際に、微笑みを交わしていたのかどうかは、ルイのこれからの話を聞かないとわからなかったが・・・

ヒカルは唇を噛みしめた。

とうに、シャルルが帰邸する時間だということをすっかり忘れていた。
ルイは、嘘をつかない。けれども、聞く者によっては解釈の違ってしまう結果になる話し方をする。

集中してひとつひとつを注意深く聞かなければ、彼から真実を聞き出すことはできない。決してできない。

・・・ヒカルは、彼女が憂えるすべてのものを、その瞬間だけ、切り離すことにした。
シャルルが戻り、ヒカルが不在にしていることを気にしてルイの別棟に訪れるかも知れない、という想像は、簡単に予想できたのに。

その予想すらすることを彼女は放棄して、代わりに、ルイの言葉に耳を傾けることを選んでしまった。
それがどんなに罪深いことだったのか、その時はまだ幼くて解っていなかった。

■32

怒るという感情は、ヒカル・クロスはあまり持ったことがない。

浮世離れしているとか、怒るようなことがないくらい平和だと言われたが、彼女は怒るという感情が怖かった。

だがしかし・・・今のヒカルは、間違いなく、これまでの人生で、数度しか持ったことのない感情に支配されていた。

そして、それまでの「それ」より、深く激しい感情であることを認識していた。
受け入れがたいけれども、その昂ぶりは自分自身の内からわき上がっているのだと知る。
知り抜いた情感でないから・・・彼女は戸惑うが、それは受け入れろ、とヒカルに強く囁いた。先ほどの声と同じだった。
ヒカルは眩暈がしそうだった。
足元がぐらぐらと、音を立てて揺らぐのを感じる。

ルイはヒカルを振り返らなかった。
用意されたのかそうでないのか、わからないような口調で彼は話し始める。
囁くような声音だったから、ヒカルはすべての神経を集中して、彼女に背を向けたまま話し始めるルイの小さな声に聞き入った。

・ ・・部屋のマシンが小さく唸る音さえも、大音量に聞こえるくらい、神経を尖らせた。

「・・・あの人は、シャルルが結婚するんだ、と切り出すはるか以前から、オレの存在を知っていた。シャルルは最後までオレという存在をマリナに明かさなかったことを拠り所にしているよ
うだが・・・マリナはとっくに承知だった。
オレが生まれてすぐから・・・彼女はオレの元を訪れた。
誰が知らせたのかは・・・君には想像がつくだろう?

それは過程でしかない。

結果として、あの人はオレに定期的に会いに来た。
シャルルに会わずに・・彼女は結婚して妊娠して、渡仏できなくなるまでやって来た。
暇さえあればやって来た。
でも、滅多に会えなかった。
叔父上が禁止した。
頻繁に会えばシャルルに知られてしまう、と言った。
でもそれは、オレとあの人に特別な絆が生まれることを危惧した言葉だった。
あの人は時々・・・薔薇園でひとり遊ばされているオレを、ガラス窓の外から眺めるだけになった。
言葉を交わすことはなかった。

乳母も使用人も短期間で交代するような環境だったから、そういう観察めいた視線は慣れていた。

シャルルはマリナがこれほど頻繁にフランスに来ていることを知らなかった。
・・・・マリナが結婚する直前は、配偶者になったカズヤ・クロスに、その生活をいつまで続けるのかと咎められたと聞いているよ・・・もちろん、そんなことは、あの人は何も言わなかったけ
れど。

やがて、シャルルが結婚をすると告げた時に、あの人は、その絵を仕上げることにした。
唯一の・・・実在のモデルがポーズを取らない、想像の絵を描いた。
・・・そして、それが現実にならない限りは、彼女は絵を描かないと誓った。

その夢想が叶えられるまでは、筆を折ると宣言した。
ああ、これは当の本人が目の前で言ったことを聞いた人間から・・・聞かされた話だから、本当かどうかはわからないけれどね。
それが、遺作になった。
彼女はシャルルの結婚式で渡仏する前に・・・その絵を友人に預けた。
どういう理由かは明白ではないけれどもね。
自分が死ぬとは思っていなかっただろう。
これは最大の謎になるのだろうけどね。
とにかく、マリナ・イケダは予測不能だった。
ふらっとやって来る。
そして、そのたびにオレはこの薔薇園に連れ出される。
シャルルの居ない時を見計らって。
そしてその時はオレは認知されていなかったから、それこそ極秘だった。
シャルルの親族と同伴でないと入り込めない世界に入り込んで・・むせかえる、まったく新しい品種の薔薇の香りに酔いそうになりながら・ ・・ガラス窓の外からだけ見つめかえすことを許
される、ヒカルそっくりの女の視線を受ける。

オレは見せ物だと思ったよ。

そして、そんな特権を持つ女が・・・あの人が憎かった。
実験材料だと明言した叔父上の方が、まだ親しみが持てた。
あの人は時々涙ぐみ、視線を合わせようとオレに手を振った。
とっくに成人しているのに、小さな人だった。
窓ガラスに・・・ようやく顔が見えるくらいの身長しかなかった。
やがて、オレは認知されてこの邸に出入りすることを許された。
そして程なくして、あの事故が起こり・・・
シャルルは帰ってこなかった。
薔薇園の薔薇も枯れた。
オレは、待った。

叔父上と同じ顔の・・・渋々認知をした男を父と呼べと言われた相手を待った。

でも、来なかった。

挙式の当日は、遺伝上だけしか繋がりがなくても母と呼べと言われた女性を伴って・・・3 人で静かな夜を過ごすはずだった。
そんな夜は来なかった。
永遠に来なかった。

オレは・・・・ひとり、薔薇園のベンチに座り・・・空を見上げて月が昇り沈んでいく様子を朝まで眺めた。

もう、何も待たないと、その時に決めた。
父と呼ぶなとシャルルが拒否していると思った。
以降、マリナ・イケダも薔薇園に訪れなくなった。
飛行機事故で死んで、その娘がこの館にやって来ると聞かされ
たときには、このオレでも心底驚いたよ。

・・・シャルルの妄執に。

そんな感情は持つなとこの一族は小さい頃からたたき込まれた者だけしか存在できないと思っていたのに、一族の頂点に立つべき当主が、他の男と結婚して子供も設けた女を運命の人と呼んで、生涯彼女しか愛さないと豪語する。

なんて傲慢なんだ、と思ったね。
そして、当主になれば傲慢であっても良いのだ、と理解した。
シャルルはあちらの世界に行ってしまった。
オレを見ることもなく、戻ってこなくなった。
戻ってこられないのではない。
自分で選んで戻らなくなった。
どこまでも傲慢だよな。
自分の逃げ道を正当化しやがった。
オレは、そんな狂気の血を濃く受け継いだのに、シャルルは自分のことで精一杯だった。
そんなシャルルを父と呼べと言われたのに、あいつはそれを拒否した。
それなのに・・・

シャルルは、ヒカルがやって来た時に「父と呼ぶな」と言った。
オレに対する言葉とは別の意味だった。
心底・・・殺してやりたいと思ったよ。

シャルルも、おまえも・・・。
いなくなればどれだけ心穏やかになるのだろう。
オレを天使と呼び、シャルルとそっくりだというおまえを、この薔薇園の柵に串刺しにする夢を何度も見たよ。

嘆くシャルルを何度も夢見た。
だから・・・だから、オレは奪うことにした。
自分の前から滅することの出来ない存在があるのなら、それが自然に滅するようにすれば良い。ただ、それだけのことなのだ、と気がついた。
奪って・・・そして何もかもを手に入れる。
生み出すことが出来ないなら、奪うしかない。
オレはそういう定めなのだと知った。
誰に教えてもらうまでもない、オレの生きる意味を、ヒカル、おまえが教えたんだ」


彼はそこでひとつ、小さなため息を漏らした。
妖艶で哀しげで儚い・・・マリナが描いたレディのような、夢幻の住人のような仕草だった。

■33

憎むとは赦すより甘美だね、とルイは微笑んだ。

ヒカルとそれほど年齢のかわらない若い少年は、老人のような疲弊した眼差しをしていた。
父のシャルルの方が、ずっと若々しく瑞々しい瞳でヒカルを見つめた。
彼は、いつもの彼の話し方ではなかった。
ごく短く簡潔に話をするルイ・ドゥ・アルディではない。
彼自身に話をしているような口調だった。
誰かと話をしているような口調でなかった。

「それでも居なくなってしまえば、楽になるかと想定したが、
それでは駄目だと結論に至った。
目の前から消えるだけでは、この渇きは癒されない。
もっと飢える。」
ルイはそう言った。

彼の青灰色の瞳は、彼が背を向けていたので見えなかったけれど、均整のとれた背中からは、殺気と哀傷と・・・どこか諦観した空気が発せられていた。
「あちらに渡ったシャルルは、ある意味で正解を選んだ。

そうでなければ、彼は生きていられなかったから。
生きたくないと思ったのに、体が生きていくことを優先して、彼の正気と肉体を切り離した。
最高の種の祖らしいね。

・・・・永らえることは種の存続の条件だ。

だから・・・オレはシャルルの最も愛するおまえが欲しい。
種の存続のために・・・おまえの遺伝子が欲しい。
この狂った因子を鎮めることにより・・・シャルル・ドゥ・アルディという、狂気によって美しく咲くフランスの華は枯れる。
死ぬまで死にたいと想い続け、そして永らえた自分を恨んで死ぬ。
その時に、ようやくオレは解放される。

・・・そのためには、ヒカル。おまえが欲しい。

シャルルの愛した晄をオレがもらい受ける。
父と呼んではいけないと自分自身が命を下した男と女が・・・
自分を父を呼ぶ。

ひとりは慈愛のためにそう言った。
ひとりは許容できなくてそう拒否した。

・・おまえがシャルルを父と呼んで苦しむ様を見たい。

オレを見せ物にし続けたあの人の遺児を妻にして・・・夜な夜な組み敷く度に・・
運命の人の娘が泣き叫ぶ姿を、シャルルが哀哭して壊れていく様を見たい。

夜が来る度に。

おまえがオレに貫かれて涙を流す行為を悲しむシャルルが見たい。

壊れるんじゃない。今度は・・・壊すんだ。
オレが。
オレの自らの祖を。

穢すことの出来ないものは、穢されることに非常に鋭敏で攻撃的になることに気がつかない。
知らなければ無罪か?そうじゃないだろう?

おまえは・・・おまえとシャルルは・・・おまえ達は・・・

贖罪に努めろ。

オレを慰撫しろ。
跪け。

———マリナ・イケダが描いた、幻の絵を見て慟哭しろ。

彼女はオレを眺め回しながら、自らの願いを押しつけた。
観察しながら、自分の気持ちに振り回されて、涙を流し、オレやシャルルに・・・
偽善という刻印を残したまま死んだ。

決して叶わぬ願いを込めて、自ら筆を折った。
おまえの母がもたらしたシャルル・ドゥ・アルディの狂気は彼だけのものではない。
この一族を長らく幽鬼の底に堕とした。

オレを狂わせた。
叔父を狂わせた。
ジルを狂わせた。

・・・そしてシャルルを気の向くまま偏倚させるおまえは、本当に清らかなのか?
答えろよ、ヒカル。

ヒカル・クロスの名をもって。

そして誓え。

一生かけて、オレに贖罪しろ。

ルイ・ドゥ・アルディはそれを要求する権利がある。理由がある。

オレの受けるべきであった幸せも未来も・・・おまえがすべて奪った。
だから、それを取り戻すだけだ。

それを奪うという言葉でしか表現できないのであれば、オレは奪い続ける。
永遠の光の娘と言われているのに・・・

おまえは他の光を得ないとシャルルに輝くような微笑みを向けることが出来ない。

その光はおまえの晄ではない。

・・・・さぁ。

その絵を見て、まだ思い知らないのか。
まだ・・・・悟らないのか。
オレを見せ物にしたあの人のことを理解できないか。

シャルルの狂気はおまえが・・・おまえ達がもたらしたとわからないのか。

・・・この一族の存亡について・・・シャルルという頂点の華を含めて、一族を憂えるシャルル以外の者達の悲哀を感じないの
か。」
ヒカルは胸の絵を握りしめた。
ルイの囁きは・ ・・煉獄の炎が燃えさかる前に、堕天使達によって鳴らされる角笛のように、彼女の心の深くに響き渡った。
知ることを受け入れようと思ったのに。
知ってしまった今・・・受け入れるどころか、ルイの嘆きを正面から目の当たりにして彼女はこうして呼吸をすることさえままならなかった。

彼の抱えてきた闇がどれだけ長かったのか・・・わかっていたと思っていたのに、ちっともわかっていなかった。

■34

「ルイ。そちらの路に行ってはいけない」
「ごく抽象的な発言には回答しない」
ルイは短く言った。

しかし彼はヒカルの言う「そちらの路」が何を指しているのか、よくわかっていた。

「・・・・そろそろ行け。
 オレの用件は終わった。
 シャルルが戻ってくる時間だ」

彼は夜鏡の中の自分を見ているだけだった。

彼にかける言葉が見つからなかった。微笑むことさえ出来なかった。
ヒカルは涙を人前で流すことが出来ない。

小さいときから自分に課した習慣だった。

だから、彼女にできることと言えば、笑っていることだけだった。
朗らかに、無垢な・・いつまで経っても大人になりきれない無邪気な姿を装うことしかできなかった。
それは続ければ、いつか本当になると信じていた。

彼女はそうやって日々を過ごし、年月を渡り、遠い幻でしか会えなくなってしまった両親にいつか会うときのために、恥じない自分でいようと思っていた。

けれども・・・

今、こうしてルイの闇を覗いてしまった。
覗いただけではない。
自分がもたらした闇だった。

ヒカルはシャルルに「永遠の光」と呼ばれ続けることが嬉しかった。
自分が誰かの・・・シャルルやルイの昶になれることを願っていた。

ルイはそうじゃなかった。
ルイは光がもたらす影を受け入れざるを得なくなった。

彼が選んだわけではないのに。
彼が願っても居ないのに勝手に照らしてしまった。

思った自分が一番・・・闇深い人間だと思う。

「・・・ルイ。」
「婚約の話は継続だ。オレはおまえを妻にする。何があっても。
一生・・・自由になんかしてやらない。」

そして彼はゆっくり振り向いた。

黄金の髪が揺れて・・・月の女神と交代したばかりの太陽の神のように見える。
青灰色の瞳が仄暗かった。

でもそれが彼をますます美しくさせる。
静かな湖畔のような・・・彼の瞳はヒカルを見た。
怖い、と思ったけれど目が離せなかった。

「———ルイ・ドゥ・アルディの名にかけて」
彼は唇を歪めた。

「オレの予定は絶対だ。シャルルの様に変更しない」
彼はそう言うと、ヒカルに出て行け、と言った。

そして背中を押し、扉の向こう側に押しやる。

ヒカルは両腕に絵を抱えていたので、彼に逆らうことが出来ずにそのまま別棟の外に追いやられてしまった。

「おまえに拒否する権利はない。選択もない。・・・・業火に灼かれてくれ・・・」
彼はもう一度、かつて彼女に言った言葉を投げた。

ルイは二度、同じ事は言わないのに。

ヒカルが振り返ると、もう扉は固く閉ざされていた。
今まで二人が居た部屋のカーテンが厚く遮られるところだった。
彼の長い話に衝撃を受けたまま、まだ躰が痺れていた。
頭を内部から、誰かが打ち鳴らしているような感覚に襲われる。
ヒカルは脚を踏み出すことができなかった。

別棟に戻り、ルイにもう一度会うことも、本邸に戻ってシャルルにいつものとおり、お帰りと微笑むことも・・・できないと思った。
もう、自分は戻れなくなってしまった。
自分が、これまでと違ってしまったことを感じた。
ルイが倖せになれない理由は自分の倖せにある。

ルイが・・・孤独を募らせたのは、シャルルの孤独を自分が癒そうとしたことにある。
この絵は、シャルルには見せるべきかどうか、彼女は考えることすら出来なかった。
マリナ・イケダの遺作だ。
シャルルが見たいと言うのは当然だろう。

でも・・・・この絵が長らく、シャルルの目に触れなかったことにも理由があった。
あの母の旧友は、シャルルにコンタクトを取らなかった。
絵を見れば、あのモデルがシャルル・ドゥ・アルディとルイ・
ドゥ・アルディであることは、彼女はわかっていたと思う。
でもヒカルに渡した。
シャルルやルイ・ドゥ・アルディに転送しなかった。
・・・この絵をヒカルにいつか渡すためだと言っていた。

彼女が最後に描いた・・・想像の絵。
モデルは居るが、構図は夢想されたものだ。

ルイはそんな構図はありえない、と言うかのように、冷たく眺めていただけだった。
彼の心には響かなかったのだろうか。
マリナの願いをルイは受け止められなかったのだろうか。
この絵が持つ意味は大きかった。
特に、ヒカルにとっては。
母を知りたいと思ったのに、彼女を知れば知るほど・・・
深く苦悩する。
苦悩しているシャルルとルイを知る。
ヒカルは少し考えて、庭から直接入れる裏口を使い、自分の部屋に入った。

シャルルが戻って来ていると連絡があったが、ヒカルは少し頭が痛いので休む、と告げた。
きっと彼は心配してヒカルの部屋を訪れるに違いない。
彼女は、そっと・・自分のクローゼットに絵をしまい込んだ。

彼女がシャルルに持った、初めての秘密だった。
後ろめたさと遣り切れなさがヒカルを陰鬱にした。

涙も出なかった。

ルイとマリナが知り合いだったことや・・・彼を見続けるしか許されなかった母ことなどが衝撃だった。

ヒカルは両親の記憶がほとんどない。
覚えているのはイメージとほんの僅かな会話と抱き上げてくれた倖せな感覚だけだ。

実際に彼女を抱き上げてキスをし、そして様々な風景を見せて癒してくれたのは、シャルル・ドゥ・アルディだった。

そんなシャルルの実子が・・・ヒカルを恨む気持ちを理解しようとしていなかった。
もう少し早く話をしていれば、これほどお互いに傷つけ合うこともなかったはずだった。
ルイにヒカルの両親の話をしてはいけないと言ったのはシャルルだった。
記憶が薄れるにつれて、彼女がそのことを気にかけないようにという配慮だった。
ヒカルは、その言葉を黙って受け止めた。

実際に、薄れゆく記憶の両親について思いを馳せると哀しくなった。
その一方で、両親が揃っているルイが、母親のことを口にすることは禁じられた。
口にする気持ちもなかっただろうから、それは彼にとっては大したことではなかったのかもしれない。

今般の絵はひとつのきっかけにすぎない。
話す機会はいくらでもあったはずだ。
彼の知能と記憶力をもってすれば、マリナ・イケダという古い友人がシャルルの挙式に招待されて、特別な位置に座ることは覚えていただろう。

そして、その子供がある日突然、この館にやって来た。
ルイはそれでも黙っていた。

・ ・・いや、言い出すことが出来なかったのだ。

確かに自分は傲慢だ。

そう思った。

自分が可哀想だったから、彼女はルイに彼の母親のことや父のことを尋ねることをやめてしまった。
いつも怒られたり無視を
されるから聞くのをやめてしまった。

シャルルが家族言ってはいけないとルイに命じたから、それが自分に都合が良かったから・・・
知らない、ではない。
知ろうとしなかっただけだ。
彼女はそう思い知る。はっきりと感じる。

家族になりたいと言っていたヒカル本人が・・・家族というものを拒否していた。

おかあさん・・・
おとうさん・・・
ヒカルは呟いた。

早くあいたい・・・・

「早く」と願ってはいけない、とあれほどシャルルに言われた
のに、彼女は願ってしまった。

ルイの闇を受け止めきれずにいた。



■35

部屋で休むと言えばシャルルが訪れるのは、わかりきっていたのだが、ヒカルにはそれ以上の方便が思いつかなかった。

シャルルが帰邸して、程なくしてからだった。
彼はヒカルの部屋をノックした。

先般のような一大事の時以外、彼は敬意を払って、年頃の娘であるヒカルの扉から室内には入り込まない。
ヒカルは扉を開けて、シャルルを迎えた。

どうぞ、といつもなら部屋に通すのに、彼女は言葉に詰まってしまう。
シャルルの・・・白金の髪と青灰色の瞳と・・・とても実年齢を推測できないような若々しい体躯を見上げた。

ルイを思い出す。

先ほどまでのルイの会話を思い出して、彼女はシャルルの顔を見つめることが出来なかった。
今までのように、闊達に「おかえりなさい」と笑うことが出来なかった。
彼は外出着から着替えてすぐさまヒカルの部屋を訪れたらしい。

「この間の打撲が傷むのか」

何度も検査を受けたのに、シャルルがもう一度検査しようと言い出した。
ヒカルはシャルルに微笑んだ。

「シャルル・ドゥ・アルディが検査して異常なかったのだから。
何度検査しても同じよ」
「君の頑丈さには敬服するよ」
「・・・チタン合金かセラミックでできていると思ってるのね?」
「もちろん。———是非、解剖させてくれ」
彼はほっとしたように笑った。

シャルルに間違いはない。
間違えない。

でも、彼はヒカルのことになるとその自負を簡単に覆してしまう。

同じ結果になるのに、何度も繰り返そうとする。
「・・・・ルイと会ったな?」
シャルルは扉の前でそう言った。

彼女が体調不良でなく、何か物思いを理由に部屋に籠もっているのだと察したらしい。
ぎこちないヒカルの笑顔が気になった。

彼女は嘘をつけない。
誤魔化すこともできない。

それは彼女の気質であったけれど、シャルルは「誤魔化してはいけない」ときつく教えた。
自分の気持ちを誤魔化すのは・・・自分だけで良いと思った。

ヒカルには、そういう人生を歩んで欲しくない。
もし・・・あの人達が生きていれば、そんなことを教えることもなく、当然であるという環境にいたのかもしれない。

ヒカルはうん、と頷いた。
彼女のそういうところが好ましかった。

あれほど会ってはいけないと言ったのに、彼女は考えることがあってそうしたのだと思うことにする。
・・・若い頃にはこの事実を知っただけで、激怒したものだったが、長い年月が、彼に相手の気持ちを想像するということを教えた。
もっとも、それはヒカルとあの人と・・・青春の輝きの頃の知己だけに限られた。

「シャルルに駄目だと言われていたけれど、どうしてもルイと話がしたかった」
「それは・・・婚約のこと?」
「・・・・」
ヒカルはうつむいた。
「ヒカル。こっちを向け」
シャルルはそう言った。

彼女はいつから、彼の目を見ないでうつむくようになってしまったのだろう。
彼の知っているあの人と、いつまでも同じだと思っていた。
いつもいつも、真っ直ぐ彼の瞳をのぞき込む。

そんなあの人の視線が辛いときもあり、切ない時もあり・・・愛おしいと感じた。
それなのに、あの人の娘は俯くことを覚えてしまった。

・・・その違いは何だろうか。

シャルルの育て方に影響しているのだろうか。

それとも・・・アルディ家の荊のような妄念に彼女も縛られてしまっているのだろうか。
「ヒカル」
彼女が顔を上げないので、シャルルは細く長い指で彼女の顎を掴んだ。
軽く掴んだはずだったのに、ヒカルはびくり、と躰を震わせた。

色素の薄い、黒目がちの瞳が彼を捉える。

髪が伸びて、ちょうど、彼があの人と知り合った頃ぐらいになった。
くせの強い髪は、父親そっくりだったけれど・・・
彼女はだんだんあの人そのものになっていくような気がする。

・・・ああ・・・

シャルルは表情を変えないで平静を装うのが精一杯だった。
だんだん・・・ヒカルの放つ光輝が眩しくなる。
彼女はもうすぐ、あの人と同じ年齢になる。
その時・・・シャルルは、間違えずにヒカルの名前を呼ぶことが出来るのだろうか。
あの人と誤認して・・・力任せに自分の愛を囁くことはしないと言い切れるのだろうか。

「・・・ルイとの婚約は持ち越し。」
ヒカルが告げたシャルルは彼女の小さな顎に添えた手を離した。
「どういうこと?」
「シャルル。これは私に一任させてと言ったはずよ」
ヒカルは哀しそうに言った。

「・・・・ルイには・・・誰かが居ないと駄目だ」彼女はそう、呟いた。
「誰か」がヒカル・クロスのことを指すのかどうか、シャルルは尋ねることを戸惑ってしまった。

戸惑う。

彼には長らくなかった動作だった。

■36

「ヒカルの思うとおりにしろ」
彼は静かに言った。

しかし、シャルル・ドゥ・アルディは青灰色の瞳を曇らせて、でも険しい顔をした。
ヒカルは従順であるかのよう見えて意思を貫き通さねば気が済まないところがある。

ここは一度引いた方が良いとシャルルは判断した。

———若い者にありがちな「反対されると余計に意固地になる」という現象に、ヒカルが浅はかに陥ってしまうとは思えなかったけれど。

しかし、フランスの華と呼ばれる彼でさえ・・・そんな時代があったことを思い出していた。
これから迎えようとする者の気持ちはそれを過ぎた者には理解できるが、逆はありえない
決まり切った退屈な定説だった。

シャルルは彼女の肩に手を置いた。
両の掌でヒカルの肩を掴んだ。
ヒカルが叫ぶ。

「シャルル・ ・・怪我が!」
「痛まない」

ヒカルのことを考えると痛まない。
だから今の言葉は嘘ではない。
シャルルは彼女の茶色の髪を撫でた。
柔らかい髪質の彼女の髪に、細く長い指が絡まる。
シャルルは目を細めた。
この静かな時を・・・躊躇いながら受け入れるようになってから、
年月を経ても・・

まだ、俯いた顔のラインがあの人に酷似しているヒカルをみると、少しばかり驚愕する。
もう、逢えなくなってどれくらい経過するのか考えることさえ、哀しくなってしまう。
それでも、あの人を忘れてしまうことなんてできなかった。
彼は青灰色の瞳をヒカルからそらさずに、小さく頷いた。

「わかった」
ありがとう、とヒカルは言った。

「ルイには本当にしたいことがあるのだと思う。
家族として・・傍で見つめる人が必要だと思うの」

ヒカルはひとつひとつの言葉を確認するかのようにゆっくり言った。
シャルルは彼女の曖昧な言葉をじっと聞いていただけだった。

彼女に考えがあり、それを覆すような材料がない以上は、彼女の隙にさせておくしかなかった。

「賛成はしない。でも否定はしない」

シャルルはそう言った。
愛するあの人の娘らしく・・・彼女は一所懸命考えている。

ルイのことだけではなく、彼女がこれからどう生きていくのか、そろそろ考えても良い頃合いだった。

「でも、ひとつだけ約束してくれ」
シャルルは言った。

見守るしかできないのか、と内心では非常に憤っていたが、ヒカルに悟られないように、静かに言い切ることに専念した。

「判断したら君は自らで責任を持つことになる。
だから自分を大事にして欲しい」
「シャルル。・・・その言葉、あなたにも贈るわ」
ヒカルが茶色の瞳を細めて微笑んだ。
白い並びの良い歯が光った。
柳眉が持ち上がり、黒目がちの大きな瞳が晄を絞って彼の顔に
明るく笑いかける。
彼女は若くて美しいのだとシャルルは改めてそう思った。

・・・過ぎ去ったあの頃を思い出す。

「それから、ヒカルが話したくなったらいつでも良いよ」
彼女がぎくり、とした。
何か、話していないことがあるのだと確信した。
ルイへの訪問で、彼女は何かを知ったのだ。
けれどもそれをシャルルに言うべきかどうか悩んでいる。
それを先回りして問い詰めることも出来た。
でもシャルルはヒカルの意思に任せることにした。

「どうか、約束を忘れずに・・・オレの天使」

シャルルはそう言うと、彼女の額に唇を軽く押し当てた。
安らぎも哀しみも分かち合ってきた。
そんな彼女が自ら決めることが、シャルルと共有することができないのであれば、それは黙って受け入れてやるしかなかった。

シャルルは「具合が悪いなら早く休みなさい」と言って、彼女の部屋の扉を閉めた。
そして、美しい微笑みでヒカルと別れると・・・厳しい顔立ちになった。

青灰色の瞳が強い光を放った。

いつもの物憂げな儚い視線ではなく・・・

目の前の見えない誰かを睨みつけているような表情をした。
ルイに入れ知恵をしている自分は何を予定しているのだろうか。

彼の予定は決定だ。
それはシャルルと同じだった。
彼はシャルルの半身だから。

ルイは、何かを予定しており、それが間もなく動き始めるのだろうと計算した。
しかも厄介なことに、それが動き始めたら止めることは酷く骨が折れることで、ヒカルを巻き込んでしまう結果になりかねなかった。
ヒカルは非常に強い精神力を持っている。
年相応ではあるが、時々、自分を捨てて相手を重んじる傾向にある。
その意志の強さでもって自分のことを切り捨ててしまう。

・・・彼の父もそうだった。

彼らの娘は、とても・・・魅力的でそして彼を時々悩ませる。
ファムファタルを焦がれるときのような激しさではない。

穏やかな静かな時間をもたらした天使を、どうしても護ってやりたかった。
シャルルは彼女を壊したくないと思っていた。


『くだらないことを言わないでよ。
あたしがここまでついて来たのはあんたを置いて逃げるためじゃないわ。
あんたを守るためよ。
だから、あたしは、あんたを置いて絶対に逃げたりなんかしない』


そう言いきったあの人の娘は・・・やはり同じように、現実から眼を反らさずに逃げないことを決めたらしい。

ヒカル。
今度は、オレが君を守る。
彼は呟いた。

先手を打ったつもりが、ルイに先を越された。
高い知能を持つ者同士が、静かに試合を始める。

次の手を決めて駒を出す瞬間には、もうそれは動作でしかない。

・・・何手も先を見ておかなければならない。

彼は胸ポケットから、携帯電話を取りだした。記憶している番号を押す。

何コールかした後に、相手が出た。

シャルルからのコールを予定していたかのように、でも焦らすように何コールか間を置いて彼の苛立ちを煽るかのように。

「・・・・話がある」

シャルル・ドゥ・アルディは次の手を出すことを決めた。


■37
「—————それで?」

ミシェル・ドゥ・アルディは艶やかなバリトンを響かせて、可笑しそうに微笑んだ。
彼はいつも微笑んでいる。

楽しくなくてもそうであっても。
それ故に彼が何を考えているのかがわからない。
同じ水の中で浮かんでいた半身であるのに・・・これほど別れてしまった理由は何なのか。
それを考えるとシャルル・ドゥ・アルディは彼自身が導き出す答えが、決して誰にとっても愉快でないことを思い知る。

何度予測しても無理だった。

目の前の、自分そっくりの男は、つまらなさそうに、デスクのシガレットケースに手を伸ばすと、無造作に煙草を取り出し、そして火を点けた。
慣れた手つきで、細く長い指で煙草を支えて、そして大きく吸った。

「シャルルもどう?」
「吸わない」
「そう?『この時期は吸わない』だろう?」
ミシェルは薄く笑った。

彼はあるときからシャルルを「兄さん」と呼ばなくなった。
名目上は彼はシャルルと共同経営者だった。

かつて、当主の座を争って、ミシェルの存在は世に出てしまった。
苦肉の策として・・・
シャルルが当主になった折に、彼には当主代行という座を用意した。
本来なら、生涯幽閉されていて当然ではあったが。
彼をバックアップするシャルルの前妻の発言もあった。
通信業界では・・・ミシェルは幼い時から精通していた。
その業界では、シャルルが当主に就くときには、彼の実弟は確固たる地位を築いていた。
シャルルにミシェルに追いついて追い越す程の技量がなかったわけではない。
ミシェルが君臨する業界を彼が支配しようとした瞬間があった。

でも、その直後に・・
シャルルは壊れてしまった。
墜ちてしまった。

自分の血肉を分けた弟について、考える余裕もなかった。
以来、この業界はミシェルとルイに任せている。

任せている・ ・言葉は明瞭だか、要するに「放置している」ということだった。
アルディ家の実業家としての業績が伸びるのであれば、それで構わない。
シャルルは冷たくそう言った。
ミシェルの元で過ごす時間が長いルイも顕著にその方面に興味を示した。
もっとも、彼はすべての方面に精通しているが。
今は、バイオ関係と通信業界ではルイとミシェルの右に出る者は居ない。
彼らを凌ぐ技術を磨くことが、世界中の技術者達の憧れる夢であった。

パリの郊外に居を構え、彼はほとんど外に出てこない。

その代わりに・・代行の代行としてルイが頻繁に世に出てくるようになった。

彼らが何を考えているのか・・・

アルディ家の滅亡や再興には興味がないことは承知していた。
ミシェルは「オレはオレの人生を生きる」と言って・・・突然、これまでの生き方を改めてしまった。改善されたのでない。

「趣向を変えてみようと思ってね」

彼はそう言って鼻で笑っただけだった。


・・・それから長い年月が経過する。

「自分の息子を放置しておくわりに、あの人の娘は大事に育てているようじゃない?」
ミシェルは青灰色の目を細めて笑った。

彼は応接室の椅子に深く腰掛け、シャルルは正面の椅子に座った。
髪型こそ違えども・・・まるで鏡で映したような・・・そんなもう一人の自分を睨んだ。

彼は自らの私邸で、優雅な寛いだ風情だった。
シャルルは、彼に断りなく自分のタイを緩めた。

———彼と居ると息苦しい。

ルイと一緒の時にも感じる重苦しさだった。
青灰色の同じ瞳がこちらを見据える度に、かつての自分を思い出す。

猛禽のような。

何かを狙い澄ましているかのようであり、何もかもが怠惰であると感じ続けた自分がそのままここに居た。

幼い頃の自分を見ているかのようなルイは痛々しいと思う。

あの頃の自分がそのまま同じ日々を過ごしていれば、ミシェルのようになっていたと思う。
けれども・・・シャルルはヒカルという永遠の晄が傍らに居る。

あの人が残してくれた唯一の・・・彼の希望。

ああ、そうか。
ルイもミシェルにも希望がないのだ。
目の前の・・同じ年齢を重ねてなお、気怠げに美しく微笑む弟がはき出す紫煙の行く先は、
天ではなく、地の底なのかもしれない。

■38

彼の煙草の吸い方は実に戦闘的だ。
ミシェルはシャルルに向かって煙を吐き出した。
シャルルは無表情に彼のそんな様子を観察した。

「・・・つまらないな」
ミシェルがそう言ったので、シャルルは
「残念ながらミシェルの楽しみのために生きているわけでないのでね」
と辛辣にやり返した。

「・・・自分でそう思っているだけかも知れないと思ったことはあるか」
ミシェルはそう言って笑った。
久方ぶりに会話する。
いつもルイを通じてしか会話していない。
ルイを通じて・・・それも適切でない表現だった。
アルディ家には、当主と同じ顔をした者がいる。
彼は「フランスの華」であり、唯一絶対であると思われてきたが、彼の一族は種を色濃く残す家系であると誰もが認めざるを得ない。

双子のミシェルに・・・シャルルに生き写しのルイ。
シャルルの従妹であり、ヒカルの教育係のジルも非常に色濃く面立ちが酷似している。

・・・この一族はだんだん、血が凝り固まっている。

自分に似た親族は彼らだけではなかった。

アルディの名前を使う者は誰しも・・・シャルルに非常に良く似ていた。
それは連綿と続けられた行為の果ての結果だった。

優秀な種のみを残すために、家柄や能力や容姿を重視された者ばかりが血族に加えられた結果だった。

そんな中に、ミシェルは実らない花であった。

彼は妻を娶らない。
娶ることが出来ない。
万が一、ルイに何かあったら。
次期当主はミシェル・ドゥ・アルディだから。
だから、シャルルの直系が・・ルイが次の長候補を決めるまで、彼は死ぬことも許されないけれど、生きて子孫を残すことも許されなかった。
ルイがそろそろ婚姻相手を探し始めるのは、早婚のアルディ家ではごく普通のことであった。だからルイの婚約発表の頃合いは早過ぎもせず、遅すぎでもなかった。
しかし、それを「演出」したのは、他ならない実弟だと確信していた。

「・・・ルイの教育はおまえが望んだことだろう」
「そうだったかな・・・」
「忘れたという言葉は通用しない」
「なぜ?オレも人間だよ」
おかしそうにミシェル・ドゥ・アルディが笑った。
そしてまた煙草に唇を寄せる。

眉根を寄せて彼は美しい顔を歪ませた。
「・・・違法なものはよせ」
「忠告? 心配?随分と・・・人間的だね」
ミシェルは薄く笑った。
何を言っても、彼には届かなかった。

かつての自分のように。
そしてルイ・ドゥ・アルディのように。

「何をしても良いが。アルディの名を汚すな」
「オレの生命そのものがアルディ家を汚辱していると思うけれど」
ミシェルがふと、一瞬、青灰色の瞳を光らせた。

その瞬間は、彼は笑っていなかった。
シャルルは睨みながら、彼に回答する。
「そう思うなら勝手に死ね・・・誇りがあるなら、今すぐ死ね」
「シャルルの言う誇りの定義はオレと違うから」
彼はそう言って薄く笑った。

非常に余裕のある、挑戦した笑いだった。
彼をよく知らない者が見れば、それは妖艶な、と言って正しい表現だった。
ここに、もうひとり・・・堕ちた天使がいた。
「てんしさん」
と呼んだヒカルの声が聞こえる。

ああ。そうだった。
自分の話すべき事を優先させるべきだ。

当主として、シャルルは膝の上に肘をのせて・・・

最上級の皮のソファにもたれながら、じっと・・ミシェル・ドゥ・アルディと同じ青灰色の瞳を、もう一人の自分に向け続ける。

ミシェルは可笑しそうに、彼の視線を正面から受け止めて、同じように見つめた。
「どうして・・・オレ達は何もかもが同じなのに、何もかもが違うのだろう」
ミシェルは、微笑んだ。
それは美しすぎた。
哀しみや怒りや・・・何もかもを越えてしまった微笑みだった。


■39

「元々アルディ家は直系相続には大して執着していないけれど、ここ何代か続いたからね。
ルイの処遇については随分煮え湯を飲んでいるようだな、シャルル」
ミシェルは穏やかに言った。
余裕のある口振りであった。

確かに、ルイの養育係であるミシェルに対しては、当主の権利を行使できる範囲が限られる。
彼はそれを見越して、こうして「おまえの用件には従うつもりはない」と言い切っているのだった。

シャルルが用件を切り出す前に、ミシェルは先読みをしてそう言った。
彼らの会話というのはいつもこうだ。
相手の話のふたつ先を行く。
だから他人が聞いていると、よくわからない会話になる。
その必要最小限の言葉で相手にチェックメイトを、いかに短い手で切り込むことが出来るのかを常に考え続けることは彼らの特徴であった。
彼らに限った特徴ではない。
ルイもヒカルの養育係の従妹も皆同じように教育される。
その中で、もっとも優秀な名手だけが生き残ることが出来る。

・・・シャルルはそれだけでなく、運も、彼を取り巻く者達の助力も加わっていたが。

「オレはオレの用事を済ませる。それだけだ」
シャルルは冷たくそう言った。

実弟の青灰色の瞳がちかりと輝いた。
面白そうに、またもう一度、煙草に口を付けて大きく吸い込んだ。

「ルイとヒカルの婚約のことだ」
「良いじゃないか。若い男女が惹かれあうのであれば・・・」
「陳腐な表現はよせ」
シャルルはミシェルを睨む。
くすくすとミシェルは笑った。
その時だけは、非常に幼い顔に見える。
何かを愉しんでいるような様子だった。
シャルルの激昂を愉しんでいるのかもしれない。
「それなら」
ミシェルは緩めていた口許を引き締めた。
「シャルルは・・我が当主は、次期当主の第一候補である実子の婚姻が気にいらないのであれば理由を挙げてくれ」
「・・・・」
ミシェルの求める理由は「親族会議にかけてもなお納得させられる理由」のことを指した。
かつて、シャルルはヒカルを引き取る際に、有無を言わさず、彼らを黙らせた。
ミシェルはその際に何も発言しなかった。
本来なら、ルイの存在は・・・ミシェルには邪魔なはずだった。
シャルルは結婚することによって当主就任の引き替えとする、というこれまでの因習を覆した。
そして、彼が当主に就任するまでの顛末は、誰もが知るとおり、「直系長子でないと当主になれない」は就任条件として絶対ではないということを、何よりシャルル自身が身をもって知っていた。

ミシェルがそれを証明した。

最終的にはシャルルが当主として就任したが、あのとき、何かが少しでも違えば。
今の立場は逆だったはずだ。
本来なら幽閉されて一生を過ごしても、当然とされたはずのミシェルが、なぜ今ここにいるのか・・・
認知を拒み、長い時間を経て、ルイをようやく引き取ることにしたシャルルは、その直後に壊れてしまった。

心神喪失による当主失権を何より反対したのは・・・

他でもないミシェルである。

これまでルイを引き取り養育していた彼は、シャルルが復調するまで引き続き養育してルイに必要以上の・・最高の教育を示した。

・・・シャルルに言わせれば、それは単なる「教習」でしかなかったが。
ミシェルは言われたことは従う。
決して一族の意向に逆らうようなことはしない。

かえって、彼が開発する通信事業は、今は、もっとも大きな事業のひとつになっていた。
いずれ・・・医療の不足しているモザンビークなどに普及すれば、医師がいなくても診断が可能なネットワークが展開されていくだろう。
ミシェルは謳うように言った。
「・・・・ルイは適齢期だ。できれば、次世代のこどもをより多く作り、その中から最も優れた者を、早い段階で教育したいというのは、我が一族の総意だよ。
そしてヒカルはルイの幼なじみであり、ルイの父親のとも非常に懇意だ。
必要以上に、ね。」
ルイの父親とは、シャルルを指しているのに、ミシェルはそこに存在しない遠くに居る人物について話をしているような口振りだった。

■40

「おまえがあの一族の総意などと口に出すのは・・・とても安上がりな疏明にしか聞こえない」
「・・・それならシャルルは反対する理由を言え」
ミシェルは短い言葉でそう言った。
彼らの間で言葉のくり返しはあり得ない。
それなのに、ミシェルは二度目を言った。
「当主であるシャルルのお気に入りであり・・・アルディ家の教育を幼少期から長期に渡って受けた唯一の外部の者。
かつ、彼女はクロス家の孫娘だ。
そして世界各国の著名人からのバックアップもある。
社交界にデビューしても誰も彼女を蔑ろにすることが出来ないほど。
彼女の亡き両親の友人達は、今でもヒカルを何かの象徴のように崇め奉っている。」
彼はヒカルのことを面白いと言って評価した。
「クロス家は貿易商だが、元々・・医師の家系らしいね。
それで、医療関係の取引にはかなり強い。世界の新薬に関するシェアに関わる話には、必ずあの一家が出てくる。アルディ家はこのルートが欲しい。かつ、現在の大統領も大使も皆、熱心な親日家だ。
これも偶然なのか、『誰か』の差し金なのか、わからないけれどもね。
今は、ヒカルの家に追い風が吹いている。
————そんな奇跡の娘を、ルイが手に入れても不思議はないだろう」
シャルルは黙っていた。

じっとりと、手のひらに汗が滲むのを感じていた。

ミシェルは本気で・・ルイとヒカルを手中に収めるつもりらしい。
それを見透かしたかのように、ミシェルは続ける。

「・・・良いじゃないか。何が不満なんだ」
「ヒカルは駒じゃない」
シャルルは呻いた。

ミシェルは煙草の煙を吐き出した。

そして半分ほど吸い終わると、灰皿に押しつけて、未練なくそれを細く長い指から離した。彼には執着するものは存在しない。
「駒。人生は・・・個はみんな駒だよ。ヒカルだけが特別なのか?」
「そうだ」
シャルルは即座に返答した。
へぇとミシェルが笑った。
「あの東洋人に、それほどまで・・・入れ込んでいるアルディ家当主の方が・・・珍しいよ」
「・・・ミシェル!」

がたん、と音がして、シャルルはミシェルのガウンの裾を握った。
激昂して、彼の正面に回り込み、まだ完治していない腕でミシェルをつり上げた。

「シャルル」
ミシェルは言った。
彼と同じ瞳が、すぐ目の前にあった。
「・・・警告する。これ以上、ヒカルに肩入れするな。
彼女は・・・いずれ、おまえから離れていく」
「それは問題ではない」
シャルルはぎり、と唇を噛んだ。

そして、思い切り、掴み上げていたミシェルの衣類の裾から手を離す。
ミシェルはそれさえ計算していたかのように、優雅に元居たソファに戻った。
実弟は大げさにため息をついた。

「分が悪いよ・・・・シャルル・ドゥ・アルディ」
「オレの言ったことは覆らない。予定は決定だ」
シャルルは言い切った。
そして、立ち上がったまま、ミシェルを見下ろした。
「・・・もう一度言う。アルディ家当主として。ミシェル。ミシェル・ドゥ・アルディ。
おまえが・・・オレの邪魔をするのであれば、オレは一族への背信と認識する。その後は・・・
わかっているな」
シャルルはそう言うと、荒げていた息を落ち着けるために、大きく一度だけ、肩で息をした。

「つまらないね」
彼はそう言った。

しかし実に愉快そうだった。

「ひとりの小さな娘のために・・・何世代も続いたフランスの一族が滅するのか?
・・・・ああ、それも面白いな。・・・人工授精してまで新しい祖を誕生させたのに、それは永らえる手段にならない・・・面白い。実に、面白い。」

シャルルは「言うことは言った」と吐き捨て部屋を出て行った。
「つまらない」と言った実弟を残したまま。
もう、この館に用事はなかった。
「つまらない」と言ったのにミシェルは「面白い」と言った。
何か考えあってのことだった。それは確信できる。
しかし、その考えを実行させるわけにはいかない。
シャルルは車に乗り込みながら、青灰色の瞳を遠くにやる。

布石は打った。

いわゆる「捨て駒」と投げて、相手の動向を探った。
———次の手を考えなければならない。

ルイが入り浸るこの館に長く滞在すれば、主のミシェル・ドゥ・アルディとルイの妄念に取り憑かれそうになる。

まだ、シャルルは自分を失う恐ろしさと哀しみを忘れたわけではなかった。
彼には守るべき存在が居る。

だから・・・あのときのように、自分を壊してしまうことはもう、ないだろうと思っていた。
それなら。

自分を壊して・・・あの人への愛を示すために死ぬことができないのであれば、死ぬほど・・・ヒカルに愛を注ごうと思っていた。
ルイではなく。
あの永遠の光だけに注ごうと誓った。

ルイは・・・彼には別の晄が注いでいる。
明るい未来であり、これからの将来が約束されていた。

それに・・・彼は・・・彼は・・・・

そこまで考えて、シャルルは考えることを停止した。
彼のために思い悩んで、その結論を覆すことはないと確信していた。
いつか・・・ミシェル・ドゥ・アルディとルイとの対立が明確化する。
それは遠くない未来だ。

その対立の舞台に、ヒカルが巻き込まれてしまうであろうと、そのことさえ予測していた。
館を出るときに・・・
シャルルは、玄関先に活けられていた薔薇に目を止める。
入館したときには、注意を払っていなかった。
その薔薇は・・・
シャルルが、あの人のために開発した、薔薇だった。

どこにも流出するはずのない・・一度廃れてしまった温室の薔薇の中でも、全部親株が枯れてしまった再現していない薔薇だった。
その薔薇の名前も・ ・・「ファム・ファタル」と言った。
シャルルは、その薔薇をじっと眺めた。

愛しい・・・永遠の恋人の名前を呟いた。

でもその声はとても小さくて・・・誰の耳にも届かなかった。

expiation~Februusの娘~第二部(4)

■41

シャルルは車の中で考え事とも物思いともつかないような表情で空を見据えていた。
そして・・・ふと、思いついたように、車内に置かれたままになっていたシガレットケースを取り出して、慣れた手つきで煙草に火を点ける。

記憶した動作は、どれだけ間があっても忘れない。
そして、少し頭頂が揺らぐ感覚を味わい・・・気怠げに煙を吐き出した。
青灰色の瞳を閉じる。
長い睫が頬に影を落とした。
それは、先ほどのミシェルの仕草と同じだった。
今は滅多に吸わないが、かつてはミシェルを窘めることなどできないほど、自らも紫煙に逃げ込んだ。
ミシェル・ドゥ・アルディと別れた帰り道はいつもこうだった。
実弟であり、彼はシャルルに最も近い男だった。
でも、最も遠い男でもある。
ミシェルが「新しい祖」と言って材料と公言しているルイの方が、まだ一緒に暮らしているだけ、理解は出来ないが存在を認めることが出来る。

だが・・・ミシェルはだんだん・・・遠くなっていくばかりだった。

近くに在ると思ったはずだったのに。
近い場所に立ち並んだと思ったのに。
彼は、シャルルから離れて行ってしまった。
どうしてなのか、と尋ねる気はなかった。
代わりに、ルイを選んだのだと思った。

彼はルイを愛しているのではなく、単に所有しているだけなのかもしれないが。
実弟にはそれなりの執着でもってルイを支配していた。

・・・だんだん・・・ルイも人でなくなっている。

静かな微笑みで自らの感情を殺す。
その一方で、自分を滅してなお、欲しいものを必ず手に入れる。
それなのに、一番欲しいものは手に入れられていない。

教育係のミシェルの影響を強く受けており、ルイの中にはやはり、シャルルと同じ狂気が存在するのだと思わざるを得ない。
ルイは間もなく成人する。

そうなれば、ミシェルとの関係も薄まるはずだった。

ミシェルの館にあった、あの「ファム・ファタル」・・・・
遺伝子操作でルイが今一度再現させた花だった。
シャルルが想像したものよりも、色が少しだけ薄かった。

親株から培養したはずなのに、形状を同じくするあの薔薇は、オリジナルでなかった。

ルイ、おまえのやっていることは・・・同じ事なのにシャルルは眉根を寄せて、また煙草を吸った。
車内の狭い空間に、彼のため息とともに溢れ出る遣る瀬無い魂のような煙が・・
浮かんでは消えた。
シャルルはそんな彼らに背を向けて、ヒカルの元に帰る。
彼女がおかえりなさいと行ってくれるから、必ず帰る。
ヒカル・・・・
昶。
永遠の晄の子。
オレは君を目指して帰る。
だから・・・どうか輝き続けて居てくれ。
君は、初めて会ったあの時から、いつもいつも光り輝いている。
そしていつもオレを明るく照らす。オレを暖める。

若い頃。

あの人のことを考えると、いつも微笑みが漏れた。
そのときと同じ、あたたかい切ない流れがオレを駆け巡る。
ヒカルを不幸にする者は許さない。
彼女を有益かどうかでしか評価できない者には渡さない。
ヒカルはルイの再現した薔薇ではない。
あの人とよく似ているが、あの人ではない。
わかっている。

そして・・・オリジナルと比べようとすればするほど、その違いが明白になってくる。
劣っているのではない。
違うのだ。
まるっきり。
魂が。
器は同じでも、魂が違う。

ヒカルは、あの人そのものではなく・・あの人と太陽の様な彼の魂を受け継いでいる。
自分が女だったら。
彼が「もし」を考える時は決してない。
ありえないから。
それでもこのときばかりは、考えた。

あの人を彼の元に帰した時のことを思い出す時に、少しだけ想像した。
シャルルが男でなく、女だったら。

間違いなく・・・ヒカルの父を唯一永遠の人と選んでいたのかもしれない。
そしてその人が選んだヒカルの母を、同じように大切に想っていただろう。
あの二人は、ふたりでひとつだったから。
だから・・・だから、彼女を奪うことを諦めた。

彼女を愛しすぎて独り占めできなかった。
同じくらい、ヒカルの父を好きだった。
唯一の親友だ。
過去形にしない。

今でも・・・「青春の輝き」の時代を思い出す都度、彼と彼女を思い出す。
彼は懐かしい友人達の名前を久しぶりに口に出した。
いつも胸の中だけでしか語りかけていなかった。
・ ・・まだ、そちらには行けない。ヒカルが居るから

彼はそう呟いて、吸いかけの煙草を細く長く白い指でもみ消した。
彼は人前では呟くことはしない。
決して。
彼はシャルル・ドゥ・アルディだから。
一族の頂点に立つ者は、絶対だ。
ヒカルを護る権力は充分にある。
そして彼女が倖せになることを見届けるまで、ルイにこの場所を明け渡すつもりはなかった。
シャルルは、何手も先の手を考えた。

何度も考えた。
しかし、その先の結果は、ひとつしかなかった。

■42

「アルディ家当主の命は絶対だからね」
ルイはつまらなさそうにそう言った。

また少し、背が伸びた。
彼は傷が癒えて外出ができるようになると・・・とうとう、ミシェルの用意した別邸に移り住んでしまった。

名目上は「短期滞在」であったが、もうそこに居を構えているも同然だった。
長らく住んでいた場所であったのに、ルイ・ドゥ・アルディの荷物はほとんどなかった。
彼には持ち物や所有していたいと執着するようなものはなかった。
ただ持ち歩きに必要なラップトップと・・・小さな皮のバッグがひとつだけで、ふらりと出て行ってしまった。

旅行に行くというよりももっと軽装だった。
「ちょっとそこまで」という散歩程度の気軽さで・・・彼は出て行ってしまった。
あれだけ複雑な配線を敷いていたサーバールーム化していた部屋もいつの間にか、電源が落とされていた。
もうここには用はない、と言うかのような放置だった。
それから随分経過する。

もう季節は夏の長期休暇から晩秋になろうとしていた。
怪我の具合を尋ねるには間が開きすぎていた。

「ルイ・・・元気そうね」
迎えたヒカルは笑った。

これまでの無沙汰を嘆いたり責めたりしなかった。
彼にはそう言った社会一般の儀礼は通用しない。

「ヒカルはもっと元気そうだね」
ルイは短くそう言った。

ヒカルも少し背が伸びた。
髪も伸びていた。
前髪を降ろしているので、幼く見えるが、彼女の仕草や振る舞いは少女特有のぎこちなさが抜けていた。
ヒカルは彼の見事な金髪を眺めて笑った。

「背が伸びた」
「だからなに?」

ルイは冷たく言って、慣れた廊下を歩いた。
シャルル・ドゥ・アルディから突然呼び出された。
電話でもメールでもなく、召喚状で呼び出された。
それが届いたとき。
アルディ家の家紋の入った封緘が施されている封筒を、ルイはしばらく開封しないで面白そうに眺めていた。
これは、絶対服従しろという意味だ。
拒否は出来ない。
「退屈しなさそうだね」
ルイはそう言っただけだった。
そして、中身に指定された時間ぴったりに彼は来訪した。
やって来るなり、ルイは来客用の控え室に入った。
彼は召喚状で呼び出された客人であり、家族でないという宣言だった。
そんな彼を、ヒカルが慌てて迎えに来たのだった。
シャルルには黙ってやって来た。また、叱られてしまうだろうと覚悟していた。
あれから、ルイは何も連絡を寄越さなかった。
シャルルの傷が徐々に癒えていくにつれて、あの夏の出来事は夢か幻か、自分の白昼夢だったのではなかろうか、と思うほどに、平穏な日々が過ぎた。
ただ、ルイの居た別棟は電気が点くこともなかった。
薔薇の季節も移り変わり、暑い季節が通り過ぎて・・

今は朝晩が冷え込むので、シャルルは温室の温度管理に注意を払っている。
夏のボイラー故障が相当気に入らなかったようだった。
何度か彼に電話やメールを送ったが、なしのつぶてだった。
まったく連絡がなかった。

そして、シャルルには「話を出すな」と一度だけ、ぴしゃりと言われてしまった。
自分に一任してくれると言ったのに、彼はルイの話を一切しなくなってしまった。
どうしてなのか、まるっきり理由が思い当たらなかった。

こうして時間をおけば、ヒカルがルイに関わろうとすることを忘れてしまうと思ったのだろうか。
一見穏やかな生活を続ければ・・・それは本当になると思ったのだろうか。
シャルルは何かを考えているようだったが、ヒカルには一切話をしなかった。

それが少し・・・哀しかった。

だから、今日、突然「ルイが来るから学校を休め」と言われたときには相当驚愕した。
シャルルは学校を休めとは言わない。
彼女が日本人学校に通い、日本人の友だちと仲良くすることを奨励している。
アルディ家に居るとついフランス語で話しがちになるのだが、シャルルは決してフランス語で会話せず、ヒカルにはいつも美しい日本語で流暢に話しかけていた。
久方ぶりに会うルイなのに彼はなんだかますます遠い人になっていた。
世間のことに疎い彼女でも、ここ最近のルイの話題は耳にする。

そして箝口令を敷かれたままのヒカルとの婚約のことについては、忘れてしまったかのように、多くの社交界の花と浮き名を流している。
各地を飛び回り、精力的に学会論文や開発研究に名乗りを上げていた。

短期間で4 つもの発症元の特定できなかった患者ゼロ(最初に感染した患者。感染ルートを特定するのに重要であることが多い)を特定したし、構成要素を解明してしまった。

まるで・・まるで、今まで、ずっとそうしないで静かに様子を待っていたかのようだった。

■43

ヒカルはルイの顔を見つめた。
彼の物憂げな青灰色の瞳も、柔らかい見事な金髪も相変わらずだった。
「今日、オレはアルディ家当主に呼び出されただけだから」
彼は短くそう言った。
豪奢な客間には、香り高い薔薇が活けられていた。
先ほど、ヒカルが急いでルイのためだけに摘んできた薔薇だった。
ルイは長身によく似合う、細身のスーツを着ていた。

こうして眺めると・・彼は非常に美麗な青年であり、ヒカルが普通にパリの日本人学校に通う日本人学生であれば、とうてい会話のできる世界の人間でないことがよくわかった。
ヒカルは良い意味で善人であり一般人であった。
そしてそのようにシャルルは育てた。
細心の注意を払って。
彼は運ばれたダージリンに唇を寄せた。
ルイの薄い唇が少し濡れた。
その様は非常に妖艶で・・・・そしてどこか神憑っていた。
人でなくなっていく、と言ったシャルルの言葉を思い出す。

ルイがもっと離れていくような気がした。
「———何?」
薔薇の刺繍の入ったソファに腰掛けたルイがヒカルに目を遣る。
ヒカルは、茶色の瞳を瞬かせて「なんでもない」と首を振った。
彼の青灰色の瞳は、切れ長になり、ますます、二重の溝が深くなっていく。
金の体毛は素晴らしく輝き、髪や眉や睫がきらきらとまばゆい光を放ちながら、滑らかな頬に影を落とす様子は本当に・・・絵画のようだった。

ケガが完治した後、リハビリのために筋力トレーニングを行ったのだろうか。
華奢な体つきに均整の取れた筋肉が、以前よりすこし付いたような様子だった。
彼はますます「完璧」になっていく。
それを目指しているかのようだ。

そんな彼に「婚約者」と指定されてしまったことが、まるで嘘のようだった。
それくらい、ルイはヒカルを徹底的に無視していた。
無視をすると決めてしまったかのように。
彼はついに彼女の存在そのものを抹消してしまったのかもしれない。
自分の存在は、彼の完璧にならない、切り捨てられるべき部分なのだと思った。
それは、ヒカルだけでなく、シャルルの存在も同じように思っているのであるなら、ルイはとても・・とてもヒカルの手の届かない、遠い違う道程を歩み始めてしまったのだと思わざるを得
ない。

「・・そもそも。学生のあなたがここに居ることがわからないけれど」

ルイはヒカルを「あなた」と言った。

涙が出そうなくらい、辛い言葉の棘だった。

「今日はね、シャルルが休んで良いって」
「へぇ・・・それは・・・」
ルイはその時になって初めて、青灰色の瞳を光らせた。

興味を持ったらしいが、やがてすぐに遠くを見つめてしまった。
情報収集だけのための会話であったようだ。
会話が続かない。
前はもっと会話があった。
少なくとも2 往復は会話が行き交った。
くだらないね、と言いながらも、ルイは彼の中では割合に多めの口数で回答した。
でも今は、厳しく拒絶されているのがわかる。
緊張した空気が流れて、彼に「触れるな」と無言で命令されているような気がする。

「シャルルの用事って何なのかしら」
「さぁ」
「ルイは心当たりがあるの?」
「ああ、ヒカル。少し黙っていてくれないか」
彼は彼女との会話を遮断した。

「一人で喋っているぶんには構わないから、オレに話しかけないでくれる?」
こめかみを細い指で少し抑えて、彼は考え込んでいた。
シャルルもよくする仕草だった。
こう言ったときには何を話しかけても無駄だ。
彼は・・・彼らは高速で考えを巡らせ、いくつものことを同時に考える。
その間は集中できないから、外の世界から得られるすべてのものを遮断する。
見えているようで見えないし、聞こえているようで聞こえない。
いや、見ないし、聞かないのだ。
それができる薔薇の一族は、ますます・・・人でなくなるような気がする。
でもそれを認めることは出来ない。
彼らはヒカルと同じ人間だ。
愛も哀しみも知っているはずだった。

アルディの頂点に君臨する、シャルル・ドゥ・アルディのように。
誰かを慈しみ、誰かのために泣いたり笑ったり・・そして自分が倖せになるためにはどうしたら良いのだろうと思いを巡らせるために、彼らの素晴らしい能力を生かして欲しかった。

「ルイ。今度・・・遊びに行っても良い?」
「・・・・・」
ルイは無言だった。
瞳は遠くを見つめて、躰は微動だにしない。
浅く呼吸をしていなければ、精巧な人形と間違えるかもしれない。
ヒカルはルイのそんな様子を眺めていた。

ほんの少しの時間、会っていなかったのに、彼は面変わりしていた。
これが本当の彼なのだろうか。
ヒカルと一緒に居たときの彼はもう少しだけ・・・冷たかったけれども。
もう少しだけヒカルに向き合ってくれていた。
ルイが浮き名を流しているのも知っていた。
本当に好きな人ができれば、自然と婚約解消を言い出すだろうと思ったので、ヒカルは誰か特定の人がルイと共に居てくれることを喜んだ。
だが彼はいつも短い逢瀬を愉しむと、次の花に渡り歩いた。
愉しんでいるのかどうかもわからない。

当主の若い頃に生き写しであり、頻繁にメディアに顔を出す、星辰の子と呼ばれた貴公子が誰に微笑むのか、誰もが興味を持って息を詰めて成り行きを見守っていた。
ヒカルの存在は忘れられたわけではないが、親同士の決めたことだからとルイがどこかで発言をしたらしい。

我こそは、と名乗りを上げるルイの恋人候補たちによって、ヒカルとの婚約騒動は「数ある浮き名の一つ」になっていった。

「・・・ヒカル」
どれくらい時間が経過しただろうか。
ヒカルの飲みかけのダージリンがすっかり冷めてしまっていた。

茶色の癖の強い髪を、彼女は揺らした。
少し伸びた髪が、肩胛骨の下で波打った。
「婚約のことだけれど」
ルイはそう言って、正面のヒカルを見た。
「なに?」
平静を装うだけで精一杯だった。
ルイの静かな声が、ヒカルを落ち着かなくさせる。
「オレは解消するつもりはないから」
そう言った。
「ルイ。・ ・・ルイには恋人が居るでしょう」
「いないよ」
「でも、話には良く聞くわ」
「あなたに関係がない。少なくとも、あれは営業活動と政治活動」
そう言われて、ヒカルは言葉を失った。
恋愛を活動と言い切る彼の真意がわからない。
ヒカルは首を振った。

「ルイ。婚約は本当に好きな人として」
「・・・・ヒカル」

そこでルイは低く言った。
ヒカルがルイの顔を見た。
ルイ・ドゥ・アルディは、無表情であったけれど、どこか静かであったけれど・・・じっと彼女を見つめた。
狙いを定めた獣の瞳だった。
瞬きしているのに、していないような彼の瞳はとても冷たかった。
蔑視とはこういう視線を言うのか、とヒカルは思った。

「オレの予定は決定だ。覆らない」
「でも・・・」
「・・・愛してなくても結婚できるんだよ、ヒカル。シャルルのように・・・ね」
彼はそう言って薄い唇を歪めた。
シャルルに切られた唇の端は完治していた。
ヒカルが口を開きかけたところで、扉がノックされた。
係の者がルイを当主の元に案内する旨を伝えに来た。
館の主の実子であり、つい最近まで来賓用の客間に足を運ぶことなどなかったルイに、どうやって声をかけたら良いのか判断が付かず、困惑した声音だった。
彼はそんなまわりの困惑を気にせずに、わかった、と言って立ち上がった。

「ヒカル。遊びに来るのではなく・・・婚約者と同衾するためにオレの元に来るのであれば、いつでも歓迎しよう。でも一歩・・・館に足を踏み入れたら、オレはその先を保証しない」
短くそう言うと彼はもう、次の瞬間にはヒカルを見ていなかった。
立ち上がり、足早に案内の者とともに足早に部屋を出て行った。
ルイは唇を歪めて笑った。
これからシャルルとの闘いに胸が弾んだ。
生きているという感触をその瞬間だけ味わえる。

恋を演じてみても駄目だった。
何かを開発しても駄目だった。

所詮、自分は・・・奪うことでしか生きていることを味わえない。
何かを生み出すことは出来ない。

だから・・・こんな小さな興奮ではなく、もっともっと自分が生きていると感じたかった。
それは、シャルルとヒカルの涙と苦悶と命の上を踏み荒らして歩く荊の路で、自らも血を流すとわかっていても・・・・彼はその道を進むことしかできなかった。
道を選ぶこともできなかった。
今回、シャルル・ドゥ・アルディが召喚状という絶対権限を行使してルイを呼び出したことにルイは喜んだ。
長かった。
でもまだ始まりだ。
これから・・・ようやく、オレは・・・・

そう思いながら長い廊下を進み、何重ものセキュリティを通過して、ルイはようやく、よく知る見知った内館までたどり着く。

通常は客間で話を進めるのに、当主の部屋深くまで通されるというのも、興味深い話だった。

ルイは・・・
美しく微笑んだ。
青灰色の瞳を細めて、金の髪をかき上げた。
彼の髪は揺れて、眩しく光り輝いた。

白い頬が少しだけ紅潮する。演技でない、本物の躍動を自らの中に感じる。
ルイの白く長い指が伸びて・・・重厚な扉を叩いた。


「・・・ルイです。お父さん・・・」
彼はそう言って、扉の中に入った。

■44

ヒカルはひとり、客間で冷たくなってしまったダージリンの入ったティーカップを弄んでいた。
シャルルが今日は家に居なさい、と言ったことには意味があると思う。
けれどもルイにはこうして・・逢えても逢えたような気のしない会話しかすることができない。そして彼は今も、とても倖せとは言えないような顔をしている。

この屋敷を出て行くことが、ルイにとって気分転換になり、あらためてシャルル・ドゥ・アルディの住まう屋敷に住むことが良いと言う判断をするのだろうと思っていた。

・・・ヒカルは、まだ、あの絵をシャルルに見せることが出来ていない。

忘れてはいない。
時々クローゼットから取り出して、開こうと思うが、いつも、丸められた紙を眺めるだけで終わってしまう。
本当は紙が傷むから広げて、良い保存状態できちんと保管しなければならないのに。
心惹かれるのにどうあっても・・・一人で見る勇気が出なかった。
それをシャルルに見せる勇気はもっと出なかった。

何をどう解決したら、あの絵を・・・微笑みながら眺めるシャルルを想像しながら手渡すことが出来るのか。
ヒカルは「まだその時」でないと感じていた。
ここに居ても、ルイは戻ってこない。
私邸に戻るか、どこかで待ち伏せをしないと彼は捕まりそうもなかった。
まだ話は途中だった。
ヒカルは移動することにした。
カップを置き、勢いよく立ち上がる。
最近また背が伸びたので、膝が少し痛んだ。

でも、もう、間もなくこの成長も止まるだろう。

そう感じていた。
そして自分は・・・大人になる。
母親とシャルルが出会った頃の年齢に到達する。

まだ少女と少年だった彼らの年齢になった時に、ヒカルはもうその時は少女でないような予感めいたものを感じている。
昔はとても大人に感じた。
早く、父と母が恋に堕ちた年齢になってみたいと思っていた。

そうすれば自分の人生も決めることが出来るようになるかもしれない、シャルルの庇護から離れて・・・護ってもらう立場から卒業して、彼を惑わしたり苦しめたりするようなことから護ってあげられるほどの強い精神力を身につけられるかもしれないと夢想した。

でも、きっと、その時になっても今とあまり変わらないのかもしれない、と最近はそう思うようになった。

年齢や時間ではないのだ。

母をこよなく愛したシャルルは・・・出会った少年の時にはすでに大人達の間で生きていた。
今のルイも同じだ。
そしてルイの方が生き急いでいる。
自分はあまりにも護られることに慣れすぎてしまった。
だから、こんなにも鈍感なのだと思う。
シャルルの苦しみやルイの渇望を癒してやることができない。


「・・・・物思いに耽る美少女は絵になるが、立ちっぱなしで考え事はレディにあるまじき行為だね」
突然低いバリトンが響いた。

「・・・ミシェル叔父様」
「ミシェルと呼ぶように。私はあなたの叔父でないからね」
シャルルと同じ顔をした人物は・・・

ルイが出て行った扉にもたれて、彼女をじっと観察していた。
観察。
その言葉は正しい。
ミシェル・ドゥ・アルディは青灰色の瞳をじっとこちらに向けていた。
ヒカルは彼の視線が怖い。

いつも恐ろしいと思う。

シャルルやルイと同じ色の瞳なのに、彼の瞳の奥は底がなかった。
何も感情を感じない。それなのに、彼はいつも微笑んでいた。
「・・ミシェル・・・ようこそ・・・アルディ邸へ・・」
彼女は膝を曲げて、レディの礼をした。

ミシェル・ドゥ・アルディは満足そうに少しだけ頷いた。
当主の実弟であり、ルイの教育係であり、今はこの一族に強い発言権を持つこの人には、いつも近づくことが出来なかった。

幼いながらにも、シャルルとまるっきり違うのだと本能で解っていた。

彼は、ルイに感じた「拒否」を全身から発している。
拒絶の気を微弱だけれども常に出し続けている。

親しくない者はわからないだろう。

先ほどのルイのようなあからさまな拒絶ではない。
感受性の豊かな者でさえ、その正体が何かはっきり口に出すことが出来ない。

「何となく怖い」のだ。
ヒカルは長じてからも・・それを感じ続けた。

だからごく希に顔を合わせることがあっても、いつも最も遠い場所にいた。
シャルルの傍に居るということは、ミシェルから一番遠い距離に居るということだっし、当主は決してミシェルとヒカルを近づけるようなことはしなかった。

彼に見つめられると、緊張して言葉が上手く出ない。
ミシェルはまたひとつ微笑みを落とした。
花のような美しい微笑みだった。

「ミシェ・・ルは、どうしてここに?」
「ルイの付き添い」

まだ完治してないから

彼はそう言った。

「肋骨は厄介でね。きちんと治さないと平衡感覚を失う。
・・・ルイはあれでも乗馬とフェンシングの名手だからね。
こんなことで選手生命を絶たれるのは惜しい」

彼の言っている「こんなこと」というのは、あの、シャルルがルイを殴打したことを指していた。
彼はどこまで知っているのだろう。
相手の出方を待て、と言うのはシャルルの教えたことだった。
ヒカルは黙って相手の言葉を待った。

「良い選択だよ」

見透かしたようにミシェルが言った。
白金の髪をかき上げる。
その仕草はルイに良く似ていたが、シャルルそのものと言ってもおかしくないほど、角度や指の開き具合まで良く似ていた。

「・・・我が一族の当主が実子に召喚状を叩きつけたというのは外聞が悪いのでね。今日は表敬訪問さ」
「・・・・」
彼は煙草を取りだした。胸ポケットからあわせて銀のライターを取り出し、かちりと音を鳴らして火を点けた。

「ミシェル。ここは禁煙よ」
「ああ、そうだったの?」
彼は悪びれる風もなく、煙草を吸って、紫煙を吐きだした。
「灰皿がないでしょう」
「・ ・・当主はどうやら禁煙するという趣味を持ったらしい」
ミシェルは可笑しそうに言った。

「灰皿がないのであれば、外に行こうか。ヒカル、案内してくれるかな」
・・・しまった、と思った。
ミシェルはヒカルを連れ出すつもりで、煙草を吸ったのだとその時になってわかった。
彼の白金の髪も、青灰色の瞳も、整った顔立ちも何もかもがシャルルそのものだったのに、
ヒカルはミシェルのことを空恐ろしく感じた。

人を動かす。
彼は頭脳と言葉だけで。
自分の思い通りに進めていく。

「ヒカル。早くしないと灰がこぼれ落ちそうだ」
彼はまた煙草に唇を寄せた。

彼女はぐっと拳を握った。

シャルルにはヒカルが客間に来ていることを知らせていない。
知られたら叱責されるであろうと覚悟して無断で来た。
そして、今、シャルルはルイと接見中だ。

・・・この状況で、シャルルを呼びに行くことは出来なかった。

理由がない。

「わかりました。内園のポーチなら、喫煙可能だわ。・・・案内します」
ヒカルはゆっくりと茶色の瞳を瞬かせた。
「よくできました」
ミシェルは艶やかな微笑みで艶やかな声をヒカルに投げかけた。
でも、瞳は笑っていなかった。

■45

ミシェル・ドゥ・アルディは、ヒカルの斜め後ろを歩いた。
この館のことはルイよりずっと前からずっとよく知っているはずであったのに、彼は他の来客と同じように、まるで慣れていない間取りを歩くかのように、ヒカルに導かれるままだった。
彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩くが、長身のヒカルよりずっと背の高い彼は足音を感じさせない。

獣の足取りを思わせる。
猛禽や豺狼の如く気配を消しながらも殺気だけを残す。
彼は音もなく歩くが、視線をヒカルから反らすことは決してしない。
そして背後から音も立てず、視線だけで彼女のすべてを見定めようとする。
ヒカルは跼蹐天地(身の置き場のない思いをすること)とはこのことだと感じる。
強烈に。
———何も後ろめたいことはないのに。

「やましいことがあるからじゃないの」

ヒカルの心の声を聞いたかのように、ミシェルが後ろから声を
かけたので、ぎくりとして後ろを振り返った。
ミシェルは彼女のそんな顔を見て、少しだけ目を細めた。

「ヒカルは素直だね。・・・稜々としたルイと正反対だ」

ヒカルは曖昧に首を傾げるだけだった。
日本人らしい反応だとミシェルがくすくす笑う。
このいたたまれない時間をやり過ごすために、ヒカルは少し歩調を変えて足早に長い廊下を渡っていく。
直接ミシェルと二人で話をすることは滅多にない。
いや、ほとんど・・・数えるほどしかない。
その都度、シャルルがさり気ない仕草で彼女を遠ざけた。
シャルルと同じ顔のルイの教育係である彼は、シャルルの決定には抗わない。
そして、シャルルが壊れてしまっていた2 年近くもの間、当主代行として決して自分を主張しないで黙々と・・・シャルルが行えないことを行ってきた。
そのうえ、ルイを引き取り教育するという役も申し出た。

それなのに、彼は・・・シャルルと懇意にしている状態とは言い難かった。
ヒカルはルイよりもシャルルの弟のミシェルの方が何を考えているのかまったくわからなかった。

かつて、二人は家督を巡って争ったと聞いている。
非常に熾烈な競争だったとも。

そして最後に登りつめたのはシャルルだった。
その時もたいそう満身創痍であったと聞く。

そして・・・彼はその時のことを「青春の輝きの最後の煌めき」と言い切った。
シャルルの中でその瞬間に、すべてが始まり、すべてが終わったということだった。
その一方で・・・ミシェル・ドゥ・アルディは何年か活動履歴がない。

一説にはルイの出生により、継承権を放棄させられてキューバに身を潜めていたとか、パリのどこかで研究に没頭していたとか噂はいろいろだった。
親族のごく限られた者しか知らない。

ヒカルはアルディの一族の詳細情報に関わってはいけないと、シャルルにきつく注意されていた。
謎がたくさんある、シャルルと同じ顔の人が今、ここにいる。
しばし背後に緊張感を感じながら、ミシェルを内園のポーチに案内する。
そこは風通しが良く、本邸と別邸と彼らが今やってきた来客用の棟の中間に位置していた。
足がぎくしゃくして、自分が非常に緊張しているのだと感じた。

「・ ・・ ・成長痛だからそのうちにおさまる」

彼が外に出た瞬間、発した言葉だった。
「あなたも・ ・・もうすぐ成長が止まり大人になるということだ」

青灰色の瞳は色素が薄くて、外に出たときに少し眩しかったらしい。
彼は上を向いて・・・そして吸いかけの煙草を深く吸った。

ヒカルはまた、答えに窮してしまった。
気付かれないように歩いたのに、彼は微妙な歩幅で、彼女を測定してしまった。
シャルルであれば「膝が痛むのか」と聞くだろう。

ルイなら「反対側のかばった膝はあと2 日後に痛むだろう」と忠告するだろう。
でも、ミシェル・ドゥ・アルディは違った。

ヒカルがやがて大人になり、そして・・・その先はないから、身の振り方を考えろと遠回しに言ったのだと思った。

「成長が止まり大人になる」
それはミシェルからの預託だった。

先行してルイが大人になる。
そしてヒカルも大人になる。

そうなれば、今のままで居られない。

こどものままでいられない。
それがわからない者は去れ。
そう言われているような気がした。

■46

ヒカルが案内した内園は、薔薇園の近くだった。
温室の近くだった。
細い路で少し傾斜がある。
彼は慣れた足取りでその路を歩いた。
その道をよく知っているようだった。
実際に・・・彼はここに住んでいた時期もあったのだから、よく知っているはずだった。
それなのに・・・彼はヒカルの前では、初めて訪れる来訪者のような振る舞いをする。
知っている場所を知らないふりをして歩くのは、どれだけ切ないことなのだろう。
ヒカルはそう思った。
特にここは彼ら・・シャルルとミシェルの生家であるはずなのだ。
彼の半身と彼の親と時間を共有した場所を・・・ミシェルは平然と歩く。
彼は、明らかに自分の感情を殺してしまっている。
「こっちに座ったら?」
ミシェルはポーチにたどり着くと、そう言った。
ヒカルは彼を案内した後、どう行動しようか迷っていた。
ここはアルディ邸の深部だ。
シャルルが許可しない者や、来訪を知り得ない者はたとえどんなに親しい者でも入り込むことが出来ない場所だった。

それがシャルルの実弟であったとしても例外ではない。
そこには、あの温室と同じ形状のベンチが据え置かれていた。
この屋敷の庭園には、同じ時期に設置された薔薇のベンチがある。
ここもその一つだった。
彼はそれを知っているようだった。
何処に何が置かれているのかも・・・居ないのにミシェルは全部知っているよ、というような余裕のある顔でベンチに座った。
同じように・・・温室のベンチにルイが座って、影を見つめながら何かを考えている様子をミシェルは知っているのだろうか。
彼女の側頭部が少し傷んだ。
激しく打ち付けられたときのことを思い出していた。
傷が疼く。
大したことはなかったのだが、あのときの・・・シャルルとルイの飛び散った血飛沫や、シャルルを抱き留めたときに激しく拒絶された力や・・・ルイの怖いほど強い力で抱き寄せられて心の
ない接吻を浴びせられたことを思い出す。
ヒカルは薄い茶色の瞳を一度閉じた。
こういう状況の時に、シャルルであればどうするか考えた。
きっと・・・何気なくやり過ごすのであろう。
ごく自然だと言うように。
でもそれでも、招いていない来訪者には手厳しくやり込めるはずだった。
彼と同じ事をするつもりはない。
ミシェルを冷遇することはできない。

彼はルイの教育係であり、シャルルの双子の弟であり・・・当主が壊れていた時期に彼を支えたかけがえのない人物なのだ。
シャルルと同じ面立ちであることを利点として、彼はシャルルが表に出られない間、シャルル・ドゥ・アルディとして何回か表舞台に出ていた。
それが嫌で昔、本当に若いころ、彼とシャルルは死闘を繰り返して当主の座を争ったと言われている。
情報に疎いヒカルでも聞き及んだ伝説だ。
アルディ邸の内部は静かだった。
秋の風がそよいでいる。

「もっと・・秋を感じる風がある」
シャルルはよくそう言っていた。

一度は日本の紅葉の素晴らしさを観に行ったことがあった。
彼はヒカルが日本の四季を感じるために必要なすべてを与えてくれた。
葉が色づき実りそして長い冬に備えて様々な命が次への準備をする季節を、シャルルはヒカルに教え続けた。
命は続く、と彼は言った。
彼は仕事を中断しても、彼女の情操教育にすべてを注ぎ込んでくれた。
大きくなった今になってそう思う。
本当にそう思う。
だから早く両親の傍に行きたいと思ったり言ったりすることは、シャルルを悲しませることであり、本当はシャルルも同じ事を考えているのにヒカルがいるからそれを考えることをやめてしまっていると悟ったとき。

その時初めてヒカルは、季節の移り変わりや時の流れを受け止めることが出来たのだと思う。
そしてその一方で、人を大切にする気持ちをシャルルから教わった。
だから、同じようにミシェルにも倖せになって欲しいと思う。

心の底から。

それなのに、ミシェルを目の前にすると、ヒカルはやりきれなくなる。

同時に怖いと感じる。

シャルルやルイには感じなかった。
どんなにルイに冷たくあしらわれても、彼女はルイを怖いとは思わなかった。

・・でもミシェル・ドゥ・アルディは違う。

■47

「ああ 暗い客間より広い空の下の方が良いね」
ミシェルは今まで吸っていた煙草を途中で放棄して、設置された灰皿に押しつけた。
そして大きく息を吸って空を見上げた。その場所をよく知っていたようだった。
ミシェルはベンチに腰掛けると、空を見上げて、そして息を吐いた。
その瞬間だけは、彼は本当の彼のように見えた。
「・・・小さいときに、ここで、こっそり煙草を吸ったことがあるんだ。・・・今のヒカルより・・・もっともっと小さいときだよ・・・」
彼はそう言って空を見上げたまま言った。

長い脚を組んで、腹の上で両の指を交差した。
「母が・・・母が壊れてしまって、オレはオレであることを拒否されていたから・・・
たまにこっそり歩くこの庭園のこの場所が好きだった。
・・当主である父の部屋も、その他のたくさんの者が通り過ぎる渡り廊
下も、いろいろ見えたから。こちらの様子は死角で見えないから、オレは上から見下ろす見えない真昼の月のような気持ちになっていた。
・・・・だからここを真昼の月の庭と呼んで・・・・誰もいないことを確かめて、何度も通ったものさ。通った・・・正確には隠れて皆の様子を伺っただけだけれど」
彼は目を瞑っていた。
独り言のようだった。

でもはっきりとヒカルに話しかけていた。
ヒカルはどう答えて良いか解らなかった。
彼女の回答は求めていないと思った。
ミシェルは・・・ルイが薔薇園で俯いて影に語りかけるように、同じ形のベンチに腰掛けて、彼の記憶を再現していただけだった。

それは彼の感想や今の気持ちではなく、単なる記憶の吐露でしかなかった。
その証拠に、ミシェルはすぐさま青灰色の瞳を持ち上げて、彼女を先ほどと同じ冷たい瞳で見つめていった。

「ヒカル・・・君は、あの人にそっくりだ。」
「あの人・・・・」
「あなたの母親」
「・・・・ミシェルも母を知っているのね」
「もちろん」
彼は微笑んだ。
心なしか、先ほどの微笑みと違っているようだった。

「聞きたい?」
「・・・・」
ミシェルは薄く笑った。
そしてまた、煙草を取り出した。
「それなら、言わない」
ヒカルは唖然とした。

こんな子供のような回答をミシェルがするとは思わなかったから。
「ヒカル、真実というものは客観的であるかのようで実は非常に主観的だ。
・・・誰にとっての真実なのかでその答えは違ってくる」
ミシェルが低い良く通る声で言った。

声を漏らして笑っていた。
「マリナ・クロスがどういう人だったかを人伝えに聞いても、それは本当の彼女じゃないってこと」
彼はちらりと横目でヒカルを見た。

そして彼は天を仰いだまま、また、煙草を1 本取り出して火を点けた。

風が吹いていて、彼は煙草の火を点けるのに少しだけ時間をかけた。
次に・・・今度は先ほどより・・・長く長く息を吸った。
先ほどの煙草はポーズだったんだよ、と言いたげだった。
眉根を寄せて、その瞬間だけ彼は自分を解放している。
そんな気がした。
今の様子が、本当のミシェルの姿の一部なのだとわかった。
彼は真実を告げるときに煙草を吸う。
そしえ誰かと目を合わせたくないとき煙草を吸う。

彼は煙草を吸うときはいつも誰かから視線を反らせたい時なのだと思った。

「・・・隣に座っても良い?」
ヒカルはそう言った。
ミシェルは「どうぞ」と言う代わりに肩をすくめて、煙草の先
端で彼の空いている隣を指し示した。
彼女は失礼します、と小さい声で言ってベンチの隣に座った。
かなり距離をあけて、端に腰掛けた。ミシェルの対岸にいるのに、彼の殺気というか拒絶された空気がヒカルに流れ込んできて、彼女は落ち着かない気持ちになった。
ぎゅっと膝の上で手を握った。

「———今度はオレがシャルルに殴られるのかな」
「それはないでしょう」
「・・・そういう根拠のない発言は認めないよ」
彼はぴしゃりとそう言った。
「推測や憶測を連想させる発言はするな。・・・君もアルディ家に住まう者ならそれくらいはわきまえろ」
ミシェルの厳しい声が返ってきたのでヒカルは顔をあげた。
隣に座るミシェルを見た時には彼はもう、緩く微笑みながら煙草を味わっていた。
そして今の厳しい口調とはまるっきり違う、静かだけれどもどこか面白そうにヒカルをからかうような声音でヒカルに笑いかけた。

しかしその青灰色の瞳は相変わらず冷たくて、やはり彼はヒカルの答えを測るために言葉を用意したのだろうと思った。
「現にルイは君を傷つけたといって、彼に酷く殴打された。
そしてシャルルもしばらく公務に出られないくらいのケガをした。
・・・ヒカルが迂闊でなければ、そうはならなかったと思わない?」
「そんな・・・」
ミシェルはすっかり高くなってしまった空を見上げながら、煙草の煙を吐き上げた。
空に雲が帰って行くかのようだった。

「あなたはわかっているのだろう」
ミシェルは言った。
ヒカルはぐっと唇を噛んだ。
「あなたがここに滞在し続ければ、いつかはこうなることを。
仲立ちするどころか、彼らの関係はますます酷くなる。
・・・・あなたに縋ろうとする惨めな彼らを見て、それが楽しいというのであれば、話は違うけれどもね」
「それはない」
ヒカルは否定した。
「私は何もできない。ただ在るだけ。彼らは縋ってこないし・・・
誰の助けを求めても居ない。
でも酷く孤独だわ」

「孤独を癒してあげるって?傲慢だな。
彼らの孤独も狂気も自らでないと癒せない」
ミシェルは厳しく否定した。

ヒカルは言葉に詰まった。彼の言っていることは正解で正論だからだ。
自分がアルディ家に滞在することで、かえって彼らはますますばらばらになってしまう。
「それに・ ・・今日のシャルルのルイへの用事も、あなたに関係することだと思わないの?」
ミシェルは薄く笑った。
自分よりずっと年下の少女に向かって、「あなた」と呼ぶ口調はルイと似ていた。
「私に関係することならシャルルは私に黙っていない。・・・それに内密に話を運ぶなら、彼なら私の知らない場所で知らないうちに話を進めるはずでしょう」
「頭の回転は悪くないらしいね」
ミシェルは面白そうに言った。
新しいおもちゃを発見したときのように目を開いた。
青灰色の薄い瞳が見開いてヒカルを凝視する。

「でも遺伝子は恐ろしいね。気質も受け継ぐ。
あなたの両親のように・・・ヒカル・・君は偽善者で傲慢でそしてどこまでも無邪気だ。
そうやって・・・無邪気は罪がないと主張するのだね。そして彼らを苦しめる」
ミシェルは煙草を半ばまで吸うともみ消した。

■48

「若い人は良いね、選択肢がたくさんある」
そう言って、彼は立ち上がった。
そろそろルイが戻ると言った。
ヒカルも立ち上がる。彼を邸内でひとり歩かせるわけにはいかない。
「・・・・ヒカル」
深い低い声で、ミシェルがヒカルの名前を呼んだ。

ヒカルは、彼の白金の髪に目を細めた。
眩しい。
黙って立っていれば、シャルルと間違えそうだ。
でも、彼からは煙草の香りがする。

・・・自らを閉じ込めてしまった、仄暗い焔を持つ瞳を持つミシェルは、シャルルの深い哀しそうだけれど静かな瞳と違っていた。
「ミシェル?」
その瞬間だった。
ヒカルは肩を掴まれて小さく悲鳴をあげた。

彼は大きな手のひらを彼女に伸ばすと、ヒカルの華奢な肩を片手で掴みそして、もう片方の手で彼女の顎をつかんだ。

すぐ近くに、ミシェルの恐ろしいと思わざるを得ないような瞳があって、ヒカルは本能で目を閉じてしまう。
「ヒカル。見ろ」
彼は顎をさらに上に持ち上げた。
ヒカルは命じられるままに、薄く目を開く。
「よく見ろ」彼は命じた。
「・・・選択肢は3つ。
ひとつは、このまま日本に帰ること。
ひとつは、ルイを受け入れてシャルルの絶望の業火に自らも灼かれること。
ひとつは、シャルルを選んでルイを果てのない戻れない狂気に誘うこと。
どれが良い?ルイと違ってたくさん選択肢がある。・・・・選べ」

「ミシェル!何を言っているの・・・!」
どれも選べるわけないでしょう、とヒカルが目を見開いた。
ミシェルの青灰色の瞳が恐ろしいと感じたが、それより何より彼が何を言い出しているのかまったく理解できなかった。
「ミシェルの選択肢はどれも選べない」
「ああ、それならもうひとつ」
ミシェルは薄く笑った。

獲物を狙う眼だった。

あまり恐怖というものを経験したことがないヒカルは、この時初めて、底知れない恐怖というものがあるのだということを知った。

———理解できないものには恐怖を感じるのだ、と思った。
彼は言葉を句切った。

そしてぐっと彼女を捕らえていた肩の上の手の平に力を入れる。
痛い、と叫んだり感じたりする余裕はなかった。
瞳を反らすことが出来ない。
ミシェルに曝かれる
そう直感的に思った。
隠すものがないのにどういう訳か彼女は、彼の眼の晄に自分が照らし出されて・・・
何もかもを見られてしまうという恐怖を感じた。
彼に隠す事なんてできないのだ。
彼はじっとヒカルを観察しているのだから。

薄い色の瞳が、ヒカルをのぞき込んで、無理矢理にのぞき込もうとする。
「・・・いや・・・」
ミシェルはヒカルの呻きを無視した。
顔を近づけて、彼はヒカルに囁いた。
シャルルと良く似た、端正な顔が今は恐ろしい。

「もうひとつの選択肢だ」
「・・・・・」
彼はくすくす笑った。

とても面白いことを思いついた、と言いたげだった。

「・・・シャルルとルイをふたりとも業念で狂わせて滅ぼすために・・・オレの子を産め」
ヒカルは大きく眼を見開いた。
何を言われているのかわからなかった。

「彼らが苦しむのならあなたを喜んで抱くよ。
娘のような年のあなたを抱いてもちっとも面白くないだろうがね。
・・・・子を孕むまで何度も何度も苦しめてあげよう。」
そう言うと、彼は、その顔はあの人に似ているよ、と言った。

ヒカルは眩暈がした。

この人は・・・狂っている。
ルイの狂気どころではない。
「ああ、ルイを選択するのであれば、オレのベッドにおいで。
ルイの教育係として、彼を喜ばせるための術を教えてあげよう」
彼はそう言うと、声を漏らして笑った。
顔を横に向けて、笑いを堪えている。
肩が大きく揺れていた。
かつてあなたの母上にも迫ったけど断られてしまったからね、と冗談めかして言った。

「ミシェル・・・・」
「また会うことになる」
ミシェルはそう言って彼女に背中を向けた。
もう、彼を送っていくために一緒に並んでついて歩くことは出来なかった。
「オレは戻る。ああ、場所はわかっているから気にするな」

久々の散歩とお喋りで楽しかったよ、と彼はヒカルに優しく声をかけた。
だが、数歩歩いたところで、彼は立ち止まった。
彼は、そうだ思いついたと言って、彼女を振り返った。
ミシェル・ドゥ・アルディが突然閃くことはない。
あらかじめ用意した言葉を用意した順番で発する。
彼女に効果的に伝えるための演技であり、それを彼女に知らしめるためにこんな仕打ちをするのだということは明らかだった。
立ちすくんだままの彼女に微笑んだ。
美しい微笑みで、それでも瞳はじっと・・・彼女の様子を検察していた。

「ああ、ごめんよ。
もうひとつ選択肢があった。
オレも年を取ったのかな。
———どうも考えがまとまらない」
手の甲をあてて口を押さえて、笑いを堪える。

笑いが止まらないとおかしそうに言ってから、斜めに彼女を見つめた。
どれを選んで良いのか、悩んでしまうね、とヒカルに声をかけた。
そして今日の空は奇麗だね、と言うかのようにさらりと言った。

「・・・・最後のひとつは。
ヒカル、おまえが命を絶って・・・この因業の鎖を断ち切ることだ。
両親にも会えるだろう」

そして彼はそのままヒカルに背を向けると、今来た道を戻って行った。
また、煙草に火を点けていた。
後ろを向いたまま、ミシェル・ドゥ・アルディは煙草を持った方の手で、軽く手を挙げてヒカルに挨拶をした。

彼は最後に「あなた」ではなく「おまえ」と言った。

激昂したルイが彼女に浴びせる侮蔑の言葉と同じだった。


■49

秋の風がヒカルの躰を冷やした。
彼女はぶるっとひとつ身震いして、両手で自分を抱きしめた。

今頃になって、ミシェル・ドゥ・アルディに掴まれた肩が少し痛んできた。
ヒカルはようやく大きく息を吸った。
今まで緊張して浅く呼吸をしていたことに気がつく。
・・・・今のは一体、何・・・・・

最後に、むき出しの悪意を見せて、ミシェルが帰って行った。
彼はルイも苦しむと良いと言った。
彼が長らく無言で支えていたシャルルの事さえも苦しめと言った。
それでも彼が言ったことは、ヒカルの選択することの出来るすべてだった。

日本に帰る。

ルイと結婚する。シャルルとは二度と会えないだろう。
ルイとの絶縁を承知でシャルルの傍に居続ける。
そして・・・自ら存在を消す。

ミシェルが自分の子を産めと言ったのは、明らかにヒカルの迷いを思い切らせるための発言だったと思うことにした。
しかしそれも選択肢だった。
・・・彼の庇護下に入る。これも考えられる路だ。

ルイとシャルルの関係を修復するには、ミシェルの協力が不可欠だ。
ヒカルは本当はわかっていたのに、彼の狂気に怯えてしまい、その選択を考えないようにしていただけだったと、ミシェルに指摘されたのだ。
まだ彼の瞳を間近で見た衝撃が続き、軽い眩暈を感じる。

どうにもならないほど拗れてしまった薔薇の蔓が・・・ヒカルには痛かった。
シャルルの微笑みが恋しかった。

部屋に戻ろう。

黙って出てきてしまった。
シャルルが、今日は館に居ろと言った理由もまだ聞いていない。
その時。
ルイが渡り廊下を向こう側から歩いてきた。

・・・シャルルとの話が終わったらしい。
彼は少し青白い顔をしていた。

「ルイ!」

ヒカルの姿を見ると、ルイは少し怒ったように彼女を睨み付けた。
見事な金髪をかき上げて、彼は近くに寄ったヒカルを見下ろした。

「何か用?」
「シャルルとの話は終わったの?」
「終わったからここを歩いている」
ルイは彼女の脇をすり抜けて、歩き始めてしまう。
ここにはもう用はないと呟いていた。
「・・・・ルイ」
彼女はルイの腕を掴んだ。
「離せ」
ルイは彼女の腕を振り払う。
思いもかけない強い力だった。
「ね、ルイ。お願い」
ヒカルは懇願した。


彼はこれからミシェルと落ち合って、彼らの場所に帰っていく。
それはいけない、とヒカルは咄嗟にルイを引き留めた。

「お願いだから、私の言葉を聞いて。・・・・帰らないで。
あそこはルイの帰る処じゃない」
「ヒカルに何が解る?」
ルイは彼女を睨み付けながら低い声で唸った。
先ほどまでの青白い顔が紅潮し始めた。
ヒカルは彼の顔を見つめた。

「解らない。何にも解ってないことは解っている。
でも、あそこには行かないで。ミシェルの処に行かないで」
行けば、強力な磁力でもって彼らは引きあってしまう。

互いが互いを求めているのではなく、狂気という作用でもって強烈に引き合っているのだ。
ルイがミシェルに「実験材料」と言われてなお、彼から離れない理由がルイにはある。

「ヒカルが願い事なんて珍しいな」
ルイは嘲笑した。
「お願い。シャルルと・・・・私のいるここに戻って来て」
「良いよ」
彼があっさり言ったので、ヒカルは勢いよく言った言葉を詰まらせた。
息を止めて彼を見上げた。
アルディ家の若き薔薇を見た。
彼は微笑み、そして青灰色の瞳をヒカルに向けていた。

その瞳は・・・ミシェルと同じだった。
彼女は、絡め取られてしまったと感じる。
ルイという美しい獣に、追い詰められてしまったと感じた。

ミシェルは彼女を逃げ場のない狩り場に追いやり、そしてルイがヒカルに向かってどこに牙を落とせば効果的に仕留められて、かつ獲物が最も苦しむのか、面白そうに眺め回しながら考
えているのだと気付いた。

獲物。

ヒカルはルイやミシェルにとって、生き存えるための獲物でなかった。
単に、なぶり殺しにされる、満腹な獣の慰み者になるのだと感じ、足元が揺らいでいくのを感じる。

「オレの望み通り・・・あなたがオレのものになるのであれば」
「・・・・・ルイ」
「交換条件だよ。無償で何かは手に入らない」
ルイはその時に初めて青灰色の瞳を細めて笑った。
気の遠くなるくらい美しく人でないような艶やかさだった。
「そうしたら戻らない。ヒカルの傍に居る。シャルルとのことも考える。・・・どう?」
ルイは妖しく笑った。
堕天使のように眼が離せない美しさであるが、決して清廉な愛の告白ではなかった。
「愛がなくても結婚できる。・・・逆に、死ぬほど愛していても結婚できない」
彼はそう言った。
誰のことを指しているのか明らかだった。

「ヒカルのことは愛してない。未来永劫、愛など与えてやらない。
それでもヒカルが良いと言うならその願いを差し出せ。叶えてやろう。
・・・・おまえの倖せと引き替えに」
ルイの申し出に、彼女は拳を握った。
ぶるぶると手が震える。
先ほどのミシェルに感じた恐怖とは違っていたが、彼女は酷く動揺していた。
目の前のルイは、本当に、彼女の知っているルイなのだろうか。
ほんの少しの間会わなかっただけなのに、彼は変わってしまった。
それとも、今まで、彼は彼女を騙していたのだろうか。

氷のように冷たいけれども誇り高い若い薔薇は、こんな風に・・・取引を言い出したりすることはなかった。

せいぜい、「他人に願い事を叶えてもらおうなどと浅ましいことを考えるな」と言う程度だった。
・・・・ルイは本気だ。
ヒカルは唇を噛んだ。
汗ばむ手のひらを握った。

そして・・・先ほどは寒気さえ感じた秋の澄んだ空気を感じなくなるくらい心拍数があがり・・・体が熱くなるのを感じた。
ルイは今度は彼の方からヒカルに近づいた。
そして、そっと・・・彼はヒカルの肩を抱いた。

そうすれば勝ち誇った笑みをヒカルに見せてやることはないと思っていた。
チェックメイト寸前のこの瞬間が、彼は最も好きだった。
手に墜ちるあと少しのぎりぎりの淵。
息を潜め、相手が負けを認めて屈服する瞬間。

彼はその時だけ、ほんの少し、自分が血の通った人間だと実感する。
簡単に奪われるものは、つまらない。
ヒカル。
・・・オレを飽きさせないでくれよ
彼はそう心の中で呟いた。
彼は待った。
暫くの間、ヒカルは黙っていた。
彼の胸の中で静かに頭を上げた。
下を向くのではなく、じっとルイを見つめていた。
ルイは同じようにヒカルを見つめている。
それは若い恋人同士の愛の抱擁に見えた。
けれども彼の体温を感じても、どうにも寒かった。
こんなに近くで彼の顔を見上げるのは久しぶりだった。

ルイの胸には、まだ薄くきっちりとしたサポーターが巻かれているのに気がついた。
あの殴打をもう一度繰り返させてはいけないと思った。
万が一ルイに何かあったら、それこそ・・・この一族は崩壊する。
「・・・・・わかった」
掠れた声で、ヒカルは言った。
ルイは微笑んだ。
「ああ、ヒカル・・・・あなたならそう言うと思った」
彼はそう言ってヒカルの額に軽く唇をあてた。
堕天使の烙印を押した。
そして・・・この上なく美しい儚い微笑みをヒカルに向ける。

「オレは生涯をかけて、アルディ家の当主を騙し続けよう。
・・・・ルイ・ドゥ・アルディの名にかけて約束する」
そう言って、ヒカルの顔をのぞき込んだ。

彼は今までに見たことがないくらい、満足そうな微笑みをヒカルに投げた。
ヒカルの泣きそうな顔を見て、ますます嬉しそうに言った。

「ヒカル。・・・・オレの永遠の昶。さぁ、生涯の伴侶にキスをし
てくれ。君から。
・・・・恋する者の熱い切ないキスをお願いするよ」

彼女は茶色の瞳をゆっくり瞬かせた。
彼が長らく待っていた、絶望という名の晄を宿すヒカルを、今まで見た中で最も美しいと思った。
彼女は茶色の睫を伏せて・・・ルイの白い頬を両手でそっと押さえた。
彼はその掌の感触を味わいながら、ヒカルに頬を寄せる。
ヒカルの柔らかい櫻色の唇が・・・ルイの薄い唇に触れた。
ゆっくりと、戸惑いながら、彼女は彼の唇を覆った。
彼は唇を心持ち広げ、彼女を受け入れた。
ヒカルの唇は震えていた。
ルイは歓喜の痺れで青灰色の瞳を閉じた。

・・・Hallelujah

ルイは小さく呟いた。

ヒカルの唇は先ほど共に飲んだダージリンの香りがした。

そして、わずかに・・・・煙草の残り香が髪から漂った。

・・・ミシェル。予定通りだ。

薄く微笑んだ。
やがてヒカルが唇を離すと「これで良いか」と聞いた。
屈服の証を受け取り、ルイは少し頷いた。
だが、つまらなさそうに言った。

「ヒカル。・・・・もう少しキスの練習をしてくれ。
ベッドではオレを愉しませてくれよ。
愛がなくても愉楽を味わうことはできる。
・・・ミシェルに抱かれて来い。彼は良い教師だ。
・・そしていろいろ学んで、少しはオレを驚かせるくらいしてくれ」
彼はそう言って、唇を手の甲で拭った。

一瞬、甘美の痺れを味わったのに・・・ヒカルからのキスは、とても退屈だったともう一度言った。

■50

夜になって、シャルルに呼ばれて、彼女は執務室に入った。
重厚な扉の向こう側の、大きな執務机の前でシャルルは椅子に深く沈んでいる。
今日、夕食時にはシャルルは現れなかった。
ひとりで摂る食事は味気なかった。
それに昼間の件もあり、ヒカルはほとんど食事に手を付けずに部屋に戻ろうとしたときのことだった。
ヒカルに館に居ろと言ったシャルルとは今日は一日顔を合わせることがなく終わろうとしていた。
会いたいときに会えず、顔を合わせ難い時に限って心の準備ができていない。
シャルルに言われるままに、ヒカルは躊躇いがちに執務机の前に置かれたソファに座った。
「・ ・・今日、ルイと話をした」
シャルルは単刀直入に切り出した。
彼の顔を見ることが出来ない。
ヒカルは視線を自分の膝の上に落とした。
彼は足を組み直して、白金の髪を気怠げにかき上げた。

「・・・・聞かないの?」
「シャルルが言いたくないなら特に聞きたいと思わない」
ヒカルは答えた。
「ルイに会ったな」
彼女は素直にうん、と答えた。

「今日、ミシェルにも会った」
「・・・奴は君に何て言ったんだ」
シャルルの良く響くテノールが少しだけ荒んだ気がした。
ミシェルの訪問はシャルルの耳に入らなかったのだろうか。
シャルルは軽くため息をついた。

ヒカルにはあれほど注意したのに、どうも彼女はルイやミシェルに関わりたがる。
そうではなく・・・・彼女に彼らが引き寄せられるのかもしれない。
かつての、シャルルやミシェルや・・・太陽の様なヒカルの父のように。
あの人の笑顔が浮かんだ。
「・・・ヒカル。良く聞いて欲しい」
彼は言った。
「今日、ルイを呼んだのは、これからのことを通知するためだ。
・・・・彼はもうすぐ成人になる。そうなると、今まで教育係だったミシェルの庇護を離れて、本格的に独立することになる。今まで共同や連名で行って得てきた一切の権利が・・・彼ひとりだけのものになる。これはどういうことかわかるか?」
「・・・・・」
ヒカルは黙っていた。
「彼はアルディ家に君臨する日が近いということ」
「でも、今はシャルルが当主だわ」
「それも代替わりがある。必ず」
彼はそう言った。
永遠にシャルル・ドゥ・アルディが生きられるわけではない。
彼は長く生きすぎた。
もう、あの人に初めて逢った時の倍の年月を過ごした。
「元々・・・次の後継者を指名しない今の状況がおかしいんだよ」

ルイという息子がいて名実ともにフランスの華であるシャルルの後継であるのに、
彼はその地位を譲り渡すことをなかなかしなかった。
シャルル・ドゥ・アルディは、当主の仕事と実業家としての業務に加え、彼は研究論文も執筆していた。多忙の極みだ。
もっとルイに負担を分配させるべきだという親族の声も小さくなくなってきていた。
シャルルは完璧に仕事を遂行したが、一族が長らくの悲願であった政界の頂点に立つための活動はしていなかった。
また、彼はヒカルをひとりにできないという理由から、海外へ赴くことをほとんどしていなかった。
今は通信が発達しているからそれも必要ないと言って、必要最小限の出国だけだった。
唯一、ヒカルの生国に行く時を除いて。
必要があれはルイを行かせた。
ルイを当主に据え置かせて、もっと積極的に進出をしたいという親族の意向をシャルルは無視し続けた。
そんな折に・ ・・シャルルとルイとの確執が決定的になるような事が起こり始めた。
ルイはシャルルに断りもなく自由に発言をし始めたし、どうもアルディ家を出たらしいという話は広まりつつあった。
問題は、ヒカル・クロスの処遇だった。
彼女のことを公式では否定しているルイであったが、今日、はっきりとシャルルに向かって「必ずヒカル・クロスと結婚する」と宣言した。
彼は決定を覆さない。覆せという命令に従えないと言った。
「・・・ルイとの婚約の話はヒカルに一任していたが、そろそろヒカルに結論を出してもらいたいと思う」
とシャルルは言った。
これはいつか訪れる事態だと思うから、とシャルルはヒカルに説明した。
「ヒカルのことを当主交代の道具にしたくない」
彼がそう言ったので、ヒカルはますます顔を上げられなくなってしまった。
「・・・・・シャルル」
いつかは言わねばならない。
それは今しかない。
明日になればずるずる先延ばしになってしまう。
そして、ヒカルからきちんと伝えなければならないことを別の者から聞くことになったら、シャルルは傷つく。
ヒカルは息を吸った。そして顔を上げる。
茶色の瞳が大きく見開かれた。
シャルルは彼女の顔を眩しそうに見つめた。
ヒカルは若い。
そして、ますますあの人に似てくる。
こうして彼を見上げる少し頼りなげな表情も、俯く頬のラインも、すべて彼女に良く似ている。
同じように・・・ルイも若かった。
彼の頑なな心の中に、ヒカルだけが入り込むことが出来る。

シャルルの壊れた心に、ヒカルが晄を照らしてくれたように、彼女はルイにも同じように愛を分け与えることが出来る。
彼と彼女を見ていると、かつての自分を思い出す。
境遇も性格も何もかもが違うけれど、シャルルが最も輝いていた「青春の輝き」の時代を過ごした年齢に彼らは間もなく到達する。

あの人が生きていたら・・・・

あり得ないことを彼は考えた。
互いの子どもが結ばれることを賛成しただろうか。
「シャルル。・・・・・・ルイと婚約します」
ヒカルは小さいけれどはっきりした口調で言った。
「・・・・ヒカル」
態度をはっきりしろと言ったばかりなのに、シャルルは絶句して身を起こした。
彼女はシャルルを見据えた。
シャルルは形の良い唇を少しだけ開いていた。
その時に、シャルルは、自分が彼女とルイが婚約するというこ
とがあり得ることだと想定していなかったことに気がついた。
はっきりしろと言ったのに、彼はヒカルの口から漏れた言葉を理解するのにしばし時間を要してしまった。
シャルル・ドゥ・アルディにとって、あり得ないことだった。

————驚愕した。
愕然とするシャルルは呻いた。
「ヒカル」
「もう決めたの。・・・決めてしまったの」
「それは・・・君の意志なの」
「そう」
ヒカルは少し首を傾げた。
茶色の癖の強い髪が揺れた。

間接照明で彼女の髪は明るく輝いていて、茶色の瞳は照明を受けて光っていた。

———眩暈がした。

シャルルは上品だけれども哀しげな二重の瞳をきつく閉じた。
これが夢で、瞼を開けたら彼は寝室に居て・・・ヒカルが朝の挨拶にやって来ることをぼんやり考えながら、眼が醒める直前の微睡みの瞬間のことであれば良いのにと願った。

・・・・彼は決して夢を見ないのに。

■51

「・・・・このシャルル・ドゥ・アルディの想定外の答えを言って驚かせるのは、君が2 人目だよ、ヒカル」

シャルルはそう言って薄く笑った。
動揺したのはほんの一瞬だった。
震える指で、彼は口許を押さえた。

でも次の瞬間には、ああ、そうか、と思った。

想定外などではない。
想定したくなかったのだ。

彼が望まない答えをヒカルが言ったので、彼はそれで驚愕したのだと理解した。

「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
シャルルは笑った。
その笑いがぎこちなくならないように注意した。

「ヒカルがよくよく考えた結論だったらオレが言うことはないよ」
彼は極力穏やかに言った。

呼吸も脈拍も通常のそれとはまったく違う異常な状態であることはわかっていたが、ヒカルの前では平静を装った。

手が震えるので、シャルルは片方の掌でもう片方をきつく握りしめた。
白い指が血の気がなくなり、ますます白くなった。

「・・・・ありがとう」
ヒカルはぎゅっと唇を噛みしめた。

どういうわけか、胸が痛んだ。
シャルルを驚かせてひどく・・・狼狽させてしまったことを充分良く承知していた。
彼は無表情で薄く笑みさえ浮かべているけれども、どういうわけか、とても哀しい瞳をしていた。

嬉しい報告をするはずなのに。

彼女は酷く哀しかった。
彼女は酷く寂しかった。

どうしてなのだろう。

胸が苦しくなり、彼の前では泣かないと決めた自分のたったひとつの誓いさえ守れなくなりそうになる。

何かを手に入れるためには無償では手に入らない。
ルイの言葉が頭に浮かんだ。

ああ、そうか。

自分は捨てたんだ。
自分から捨てたんだ。

———温かいこの人の手を離してしまったのだ。

ヒカルは彼女自身がとても大切にしていたかけがえのないものを、無造作に放り投げてしまったような感覚を覚えた。

「ルイは帰ってきてくれると言っていた。また・・・3人で暮らそう」
ヒカルはそう言った。
極力明るく言った。
「ヒカルは・・・ルイと一緒に居ることを選んだんだね?」
彼を愛しているのか、とは聞かなかった。

愛がない結婚をしたシャルルは、愛を確認することをひどく躊躇うときがある。
ヒカルは、小さく頷いた。
それなら、シャルルもルイも、ずっと一緒に居ることが出来る。
心の中で返事をした。
ルイから愛されなくても、この家族を失いたくなかった。
もう、彼女にはシャルルとルイが家族だった。
血のつながりは関係ない。長い時間を共に共有してきた。
時間を共有するだけでは絆は深まらないけれど、ヒカルはシャルルももちろんのこと、ルイでさえ、彼女の家族だと認識していた。

家族を失いたくない。
もう2度と。
実の両親は、自分を置いて逝ってしまった。
事故ではあったけれど、それは突然に訪れた。
自分の選択ではなかった。
でも受け入れないといけなかった。
今度は、自分で選択することができた。
ミシェル・ドゥ・アルディの言うとおりに。
彼女は選択した。

自分は残酷で貪欲で・・・ミシェルの言うとおり偽善者だと思った。
シャルルが哀しいと思うのは、今のうちだけだ。
ヒカルが両親を思い出そうとしても思い出せない恋しさで泣いた時期を通り越して、今の日々を過ごしているように。

シャルルも、いつか、わかってくれる。

彼にはルイが必要であり・・
そして家族が必要だ。

それはルイにも当てはまった。
彼にも父の愛が必要だ。
ミシェルの傍に置くことは到底出来ない。

いえ・・・本当は違う。
ヒカルは思った。

自分が、彼らを失いたくないのだ。
そう、思った。

罪深いと思った。

だから。自分はもう良いと想った。
もう、充分愛されたと思う。

この薔薇の一族の人々は、愛を分かち合うことが出来ない。

誰かひとりにしか注ぐことが出来ない。
不器用な人たちだけれど、失いたくない。

そのために自分がするべき事出来ること・・それはミシェルの言った選択肢を選ぶしかなかった。

彼は言葉悪く言ったが、正解で正論しか言わなかった。
「真実とは非常に主観的なものであり、誰にとっての真実かで変わる」と言っていた。
ヒカルの真実とは、一体どういうことなのだろう。
まだ、うまく説明できなかった。
だから、彼女は何も言わなかった。
彼を・・・ルイを愛していると言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
言いたくなかったのかもしれない。
彼女は小さく呟いた。

「また・・・元通り暮らしましょう」
「元通りって、何を元に戻すの?」
ヒカルは答えに詰まってしまった。
「同じ敷地に住むことだけでは家族と言わないんだよ」
シャルルはルイと同じ事を言った。
彼は小さく吐息をついた。

「ヒカルの選択については異論はない。でも、それが心から望んだことでなければ、オレは承知しかねるね」
「・・・望んでるよ」
シャルルは組んでいた足を解いた。
前屈みになり、彼女に強い視線を投げかけた。
「・ ・・でも、今はまだ駄目だ」
「・・・・・」
「まだその時ではない。ヒカルが成人するまでは事を急ぐつもりはない」
「シャルル」
「ルイが成人しても条件は満たされない。ヒカルが成人するまでは監護権はオレにある。
そしてヒカルは日本国籍で、今の日本成人年齢に到達するまでは、到底今の話を現実にするつもりもない」
「それは・・・・」
「ヒカル」
シャルルは強く彼女の名前を呼んだ。

ヒカルははっとして彼の顔を見上げた。
シャルルは・・・彼は、彼女をじっと見つめていた。

ルイもミシェルも瞳を合わせることに勇気がいるほど、言いようのない恐怖を感じた。
でも、シャルルの瞳は同じ色なのに、吸い込まれて行くようで、彼女の武装した決心をあっというまに打ち砕くほどの強さがあった。
何かを失って、そして帰ってこられないと誰もが思った路から帰ってきた者の強さがそこにあった。

「シャルル・ドゥ・アルディとして。アルディ家の当主として命じる」
彼は静かにそう言った。
「ヒカル・クロスが成人するまではこの話は凍結する。
 ただし成人を迎えると同時にこれを解除し、アルディ家次期当主の夫人として迎えよう。
・・・・ヒカル、それまではアルディ家に相応しい者として遇するので、それなりに君も準備を始めてほしい」
彼はそう言いきると大きく息を吐いた。
「・・・・ヒカル、これでこの話は終わりだ。決着が着いた」
彼はそう言って話を切り上げた。
「部屋に戻りなさい。オレはまだ少し・・・片付ける仕事があるから」
シャルルはそう言って立ち上がった。
反対はしないよ、とシャルルは背中を向けながら、小さく言った。
「おめでとう、ヒカル。・・・・君の選んだ道が幸福であるように」
あの冷徹なルイが、ヒカルと共に在るときだけは感情を露わにする。
それは良い兆しだった。
シャルルとの間では決して生まれない関係だった。
だから、ヒカルとルイが一緒に歩んでいくことが何より一番良い結果であることもわかっていた。
しかし、良い結果とは、一体誰にとって、何にとって良い結果
なのか。
少なくとも・・・彼女にとっては違うようだった。

ヒカルは満面の笑みで恋を報告する表情ではなかった。
・・・・何か交換条件を持ち出されたとシャルルは推測していた。

そしてそれはかなりの確率で正解のはずだった。

・・・・・ヒカル。

そんなに思いつめた顔で婚約を言い出すのは、信じないでくださいと言っているようなものだ。


シャルルは心の奥底で呟いた。
しかし、彼女は言い出したら聞かない。
一任させてくれと言った時でさえ、引かなかった。
今回も理由を問いただしても決して言わないだろう。
・・・・大体予測はついていたが。
「シャルル」
彼女は背中を向けた彼に声をかけた。
ああ、声が・・・声だけ聞いていると、あの人が若い頃の声に・・・

そっくりだ。
シャルルは深く息を吸った。

次に、空気が流れる音がして・・・シャルルの背中に何かが突進してきた。
ヒカルが彼に抱きついた。
走って寄ったから、彼の体は少し前に押し出された。

それでも良く鍛えられた体躯のシャルルを、ヒカルのベクトルは動かすことはできなかった。
それが彼女であることは解っていたのに、シャルルは息を呑んで・・・
背中の温かい感触に眼を瞑った。

「・・・・ヒカル」
「・・・・ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ヒカルはそう言って、彼の広い背中に顔を埋めた。
シャルルの胸の前で、腕を回す。

彼の目の前に白い華奢な少女特有のしなやかな上肢が回された。
・・・・心臓の鼓動が速くなる。彼は呼吸が苦しくなり、こめかみが少し痛んだ。
謝ることはないよ、と言おうと思って、先ほども同じ事を言ったことに気がつき、彼は唇を開きかけてすぐに閉じた。

ヒカルの前では、何度でも、同じ事を繰り返しそうになる。

言葉だけでなく・・・・様々なことを繰り返しそうになる。

シャルルは「困った人だ」と小さく言って、彼女の腕を優しく包んだ。
ゆっくり腕を掴んで、引き下ろす。

「オレに悪いと思うのであれば・・・どうか倖せに」
シャルルはそう言った。

彼女がこの場では言葉を撤回しないとわかっていた。
ヒカルが成人するまではまだあと数年在る。
今日のルイとの話で、ルイにも時間が必要なはずだった。

時間稼ぎにしかならないのかもしれないが、充分な用意ができる。
シャルルはヒカルの温度を感じながら、すでに高速で考え事を始めていた。
ヒカルに謝罪をさせるような選択をさせたのが誰であるか、明らかだった。
シャルルは微笑みながら、その瞳を煌めかせた。

ヒカルを傷つけた。

そして・・・彼女が口に出すことの出来ない残酷な選択を迫った者が居る。
いや、「者達」か。
各々、シャルルに対する思うことがあるはずだろうが、ヒカルを利用することが最も効果的だと知っており、それでいてなお・・・本当は自らも彼女の晄を欲して止まないはずの、仄き者達。
業火で灼かれろと呪詛を繰り返すのに、己がすでにその焔に灼かれていることに気がつかない者達よ。

・・・・永遠の晄は炎で灼くことはできないんだよ。

・・・せいぜい、焦がれて苦しみ回るが良い。


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