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脱出

「宏!ご飯ここに置いとくからね」

母、千恵子の声が扉越しに聞こえた。

宏は電気の消えた暗闇の部屋から少しだけ扉を開けてご飯を部屋の中へと引きずりこんだ。

そして扉は静かに閉まり、また沈黙する。

暗闇に包まれた部屋の中ではどこからか漂うアンモニア臭とパソコンの起動音だけが空しく響いていた。

宏にとってはこの牢獄のような閉ざされた暗闇の部屋が世界の全てだった。

ここでしか生きられない。生きようがない。

そして誰からも愛されず、誰からも求められず。ただ生きるだけの日々を過ごしていた。

中学生の時にうけたクラスの酷いイジメが原因となって人間不信に陥ってしまい、そこから自分の中で何かが少しずつ壊れていった。

そんな宏が引きこもってから20年という歳月が流れていた。宏も35歳になろうとしていた。

時計の針が午前12時であることを知らせてくれる。

「もう俺も35になっちまったか。無駄に生きてきたな」

そう一人ポツリとつぶやいた。

すると下から誰かが階段を登ってくる気配がする。足音は宏の部屋の前で止まった。

「宏。お誕生日おめでとう!ケーキ買ってきたんだけど食べる?」

母、千恵子の声だ。宏は無言で答える。

「ここに置いとくからね」

そう寂しそうに言い残すと母、千恵子は階段を降りていった。

しばらくしてから宏は静かに扉を少し開け、ケーキを自分の部屋の中へと引きずりこんだ。

可愛らしい苺のショートケーキだ。

「俺35歳の誕生日おめでとう」

暗闇の中で一人そうつぶやくと宏は静かにショートケーキを食べ始めた。

「父さんが今の俺の姿を見たらきっと失望するだろうな」

宏は30年前に病気で他界した父、剛志の事を思い出しながらそうつぶやいた。

時刻は午前12時30分になろうとしていた。

「ただいま!」

下の玄関の方で妹、絵美の声がした。

母、千恵子が心配そうな面持ちで出迎える。

「おかえり。遅かったのね」

「うん。ちょっと仕事が長引いちゃって」

「ご飯は食べてきたの?」

「まだ。仕事終わってそのまま帰ってきたから」

絵美のお腹が鳴り響く。

「大変!ちょっと待っててね。すぐに何か作るから」

そう言うと母、千恵子は台所の方へと足早に戻っていった。

しばらくして、誰かが階段を登ってくる音が宏の耳に聞こえた。足跡は宏の部屋の前で止まった。

「兄貴いる?お誕生日おめでとう。誕生日プレゼント買ってきたんだけどさ、直接渡したいからちょっと出てきてくんない?」

絵美の声が扉越しに聞こえる。しかし宏はパソコンの前から動こうとはしない。

絵美の口からはため息が漏れた。

「そうやって閉じこもっていても何の解決にもならないよ。一生逃げ続けるつもりなの?ねぇ、聞こえてる?」

絵美は目の前の扉の向こう側にいる者にむかって問い続けた。

下からその声を聞きつけて母、千恵子が駆け上がってくる。

「どうしたの絵美。下にまで声が聞こえたわよ」

「母さんからも何か言ってよ!本当にこのままでいいと思ってるの?」

母、千恵子はただ黙っていた。絵美の目からは今にも涙が零れ落ちそうだった。

宏は手で耳を塞ぎ、部屋の隅でうずくまっていた。

「宏聞こえる?」

母、千恵子の声だ。

「母さん、宏が部屋から出てくるの信じて待ってるから。いつかまたあの頃みたいに三人で一緒にご飯食べようね」

その声はたしかに宏の耳に、心に届いていた。

「母さん・・・」

そうつぶやくと絵美はその場で泣き崩れた。

宏は扉の前で立ち尽くし、何もできずにいた。

そして朝が訪れた。母、千恵子は宏の部屋の前に来ていた。

「じゃあ母さんと絵美は仕事行ってくるからね。朝ご飯はここに置いとくから」

「兄貴いってきます」

そう言い残すと絵美と母、千恵子は出勤のため玄関へと向かう。

その時、階段の方から何かが転げ落ちるような大きな音が家中に鳴り響いた。

「母さん!しっかりして!!母さん!」

絵美が横たわる母、千恵子の体を揺らしながら必死に呼びかけ続ける。

母、千恵子の体は朝・晩の仕事と家事との両立でとっくに限界に達していた。

それでも頑張れたのは宏や絵美がいたからだった。

「母さん!!」

宏は部屋の扉に手をかけた。

しかし踏み出す勇気が持てず、なかなか扉を開けることができない。

その時母、千恵子のあの言葉が蘇った。

「こんな俺を母さんは信じてくれた!だから俺も・・・!」

宏の体を光が包み込む。こんなにまぶしい光を浴びたのは何年ぶりだろうか。

部屋の前には絵美からの誕生日プレゼントがプレゼント用に綺麗に包装されて置かれていた。

「ありがとう絵美、母さん」

そう小さくつぶやくと宏は絵美と母、千恵子の元へと急ぐのであった。


~中編へ続く~

この本の内容は以上です。


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