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花蕾 前編

■01

 

暦の上では春であったが、まだ冷え込みが厳しかった。

パリで暮らすようになって長いのに、ヒカル・クロスは日本の暦で季節を感じる生活を続けている。

時差もあるというのに。そして、ここは日本と違う気候であったのに。

それでも・・・・彼女に忘れて欲しくはないのだという無言の訴えが、肌に差し込むように彼女に伝わってくる。

それは春を迎えようとして、それでも春そのものになれない冬の冷気そのものであった。

彼女を養い育てているシャルル・ドゥ・アルディという人物は、今でも彼のファム・ファタルを忘れていない。

彼女は日本人で・・・そして、ヒカルの母であった。

 

ヒカル・クロスは、薄い水色の空を見上げた。

まだ、空は鮮やかな青を見せないで高い位置でヒカルを見下ろしている。頬に降り注ぐ陽光もどこか淡くて弱々しく、ヒカルは首を竦めて冷気が入り込むのを防ごうとしたが、それはあまり効果がなかった。

まだ陽影は寒いという感覚を通り越して凍るような温度であった。今年の冬は暖冬だと聞いてはいたが、それでも冬は寒い。

 

薄桃色のボアがヒカルの顎をくすぐった。

光の加減で、それは甚三紅にも見えるし、もっと薄い珊瑚色にも見えた。

防寒を第一に、ということであったのに、それは余りにも美しいコートであったので、最初・・ヒカルは袖を通すことをかなりの間躊躇っていた。

観桃会というものがある。

観桜会よりも前に行われるものであった。

桜は余りにも有名であったが、ヒカルがアルディ家にやって来てから、そういった会合にシャルルは名を連ねることにしたようだ。それを知ったのは随分と後のことであったけれども。

親日家であるアルディ家の当主の意向によってアルディ家や関与する会社が観桜会の共催者として名を連ねることは多かった。

が、ヒカルがパリのアルディ家に住まうようになってからは、シャルルは桃の節句を気にするようになった。

これまで自分にはそういったものは無縁だと思っていたけれど、と彼は苦笑いし、それから忘れたことはなかった。

ヒカルがパリにやって来て、最初の桃の節句から以降、形式や規模を変化させながらそれはずっと続けられてきた。

彼女は養女でもなかったし、シャルルの実子でもない。

だから、今でもずっとヒカル・クロスのままであった。

彼女は、シャルルにとって「親友であった夫妻の忘れ形見」であるというだけであった。

 

アルディ家には、女児の健康と繁栄を祈る行事は存在しなかった。

彼の実子はルイ・ドゥ・アルディただ一人であったからだ。

しかし、社交界やフランスの各方面で有名人であり、フランスの華と呼ばれる人物は、息子を後継者として発表することはなかった。

表向きには、ランスの教会で正式な手続き及び儀式を経ていない過程で生まれた息子であるからという理由であったが、それ以上に・・・シャルルとルイの、確執と言うには大きすぎる隔たりを己で作っていることを彼は知っている。

でも、ヒカルは何も言う事が出来ない。

意見すれば、彼は聞き入れてくれるだろう。

けれども、納得して受け入れるのではない。

ヒカルが言うから・・・従うのだ。

だからこそ、言えなかった。

だからこそ、ルイとシャルルの間に入ることができなかった。

彼らの間で、疎通しようと思っている瞬間に、ヒカルは何も口を挟んではいけないのだと誰かに囁かされているような気がする。彼の親族達は、ヒカルのことを存在していないかのように扱うが、それを当主が眉を顰めて「不快だ」と言ったので、慌てて彼女の祝い事には儀礼的に厚遇しているだけなのだということも、わかっていた。

 

けれども。

ヒカルは、ただ、困惑する。

この国には、望んでやって来た場所であった。

ここでしか自分は生きられないと思ったし、あの国で生きていたのなら・・・きっと彼女は今のように生きられないと思った。幼かったけれども、それは幼いながらの本能でわかっていた。誰もが自分を持て余していた。深い情愛で接してくれてはいたけれども、困惑が混じった愛に、ヒカル自身も深く傷付き、そしてもうこれ以上誰も傷つけたくないと思った

けれども、ここにやって来て、別の誰かを傷つけることになるとは、考えてもいなかった。ただ、逃れたかっただけなのかもしれない。

 

人目を気にしない生活というものの、重さと厚さを知っているものは数少ない。

その時は、幼すぎて・・・周囲にどれほどの影響と困惑を与えるのか、わからなかった。

重さと厚さについて、考えが及ばなかった。

誰が傷つき、誰が哀しみ・・・誰を踏むのか、わからなかった。

邪なものを祓うと言われている腿の祝い事であるのに、彼女は密やかな昏い闇を持ってやって来ている。何とも後ろめたく、遣る瀬無い気持ちになってしまう。

 

■02

にルイ・ドゥ・アルディと同伴しなければならないと聞いた時。

ヒカルは緊張のあまり、前日からそわそわしてしまい、あまりよく眠ることが出来なかった。

彼女をアルディ家の公式行事に出したがらない当主の意向により、ヒカルは本邸の奥深くで密やかに成長していた。

しかし、アルディ家の庭に咲く桃の花を愛でる会合ではなく、このように人の居るところにヒカルを派遣することについて、シャルルはどのように思っているのだろうか。

 

「どこに出しても、恥ずかしくない貴婦人だから」

そう言うけれども、最近のシャルルはヒカルを避けているように思われた。

遠ざけるというより避けるのだ。近くに居ることを望んでいるのに、彼は近くに寄ることは望まない。

わかっている。

それは、ヒカルが・・・だんだん、あの人に似てきているからなのだ。

自分でもそう思う。

不意に映り込んだ姿が・・・誰に似ているのか、誰の形に近付いて居るのか。

わからないヒカルではない。

日本に戻ると、母方の親族は彼女を見て涙ぐみ、父方の親族は彼女を眺めて困惑する。癖の強い髪や発達した運動神経は父親譲りだと、カズヤ・クロスの面影を懸命に探す。

 

ヒカルは、溜息をついた。

本当は、最も良いのは・・・自分が日本に戻るということであることは、承知していた。

けれども。

日本にはもう、彼女の定位置は存在しない。

夏のある一時期だけ戻ってくる親族、という立場でしか彼女は存在しない。

最初のうちは、ヒカルのことを忘れないと言うかのような、様々な折に彼女の成長を祝う儀式に対する贈り物が届けられた。

けれども、それはいつしか忘れない行為ではなく、儀式そのものになった。

継続するということは難しいのだと思う。

まだ、両親は戻ってくるのだと固く信じているのはシャルルとヒカルだけなのかもしれないとさえ思う。どれほど血が濃くても。どれほど愛していても。

待つという行為がどこまで継続できるのかというのは、誰もが同じではないのだ。

皆、生きているし己の生活がある。それを優先させなくてはいけないときに生じる葛藤と思い出が・・・時折、人を残酷な選択を迫ることがあった。

 

それでも、シャルルは自分の能力や権力が及ぶ範囲で、ヒカルの両親を探し続けてくれていた。

時折耳に入る遺留物の発見についての報告は、ヒカルとシャルルを失望させるものばかりであった。

けれども、ヒカルは笑顔を絶やさない。

家族のもとに、それらが戻って良かったのだ、と言う。

クロス夫妻は、皆を送り届けてからではないとやって来ないような人達なのかもしれない、と言う。

誰も、そこで彼らの生存について触れない。勿論、ヒカルは両親の生存を信じている。

だから、可能な限り流れ着く場所に照会しているところであったけれども。

捗捗しい経過報告は届けられることはなかった。

けれども。

事実確認できるまでは、生きていると信じて活動するシャルル・ドゥ・アルディと、日本の親族は違っていた。

帰ってくると信じている間に、魂が彷徨うことを怖れて彼らは法要を行う。

どちらがいけないというものでもないし、優劣も善悪も存在しない。

でも、ヒカルはその間に立っていて、時々、どちらにも・・・向き合うことに辛くなり眼を逸らしてしまいそうになってしまう。

 

彼女が公の場所に出て行かない理由はひとつだけだ。

両親のことを聞かれるのが、最も困惑するから。

事前に、どんな質問にはどのように回答するべきなのか示教されているし、幾度もそのような場面には遭遇していたけれども。

彼女には、取り繕うことができない。

余裕を持って、相手の反応を見ながらも自分の訴えたいことを的確に伝えることができない。

シャルル・ドゥ・アルディが親友夫妻について、執着を越した恋着を持っていることを、アルディ家は快く思っていない。

彼がいつしか、国家の中枢にある要職に就くことを、親族は諦めていない。

 

こんなに綺麗な、桃の樹の下なのに。

ヒカルは、自分の中にある物思いを空に吐き出すこともできずに、ただ眉根を寄せて黙って居るだけしかできない。そんなことを望んでシャルルはヒカルをここに遣わしたわけではないとわかっているのに。

 

春が来るとされる季節なのに、冬の冷たさや静けさが残る日差しの下で・・・ヒカル・クロスは、ただ、この場に自分が居ることに戸惑う。

日本の親族の家に飾られている、雛の人形のように・・・彼女の器だけしか、誰も必要としていないのかもしれない。けれども、彼女は誰かに必要とされたいのか、という疑問にまた深く沈むのだ。

 

■03

 

桜が咲くにはまだ遠かったが、彼女の頭上では桃の花が大きく華開き、今を盛りと歌っているようであった。

花は、歌う。

そう思った。

鳥のように囀るわけではないが、空気に乗って、自分の香りを震わせることができるのだと思う。

 

今朝は、ヒカルの部屋に桃の花が届けられていた。

毎朝、最高の状態の薔薇を届けるのが彼女の日課になっていた。

生活時間の合わない日々であったが、当主の気遣いに、ただ、ヒカルは自分の境遇はとても恵まれているのだと胸を熱くする。

 

その一方で。

彼女の住まう家の、本当のこども・・・星辰の子と呼ばれている者にも、同じ様に桃の花は手配されているのだろうかと気を揉む。

ルイがヒカルと顔を合わせないようにしているのか、それとも、ヒカルが意識しないうちにそのように行動しているのか、わからなかった。

 

立ち寄り先があるので出発の直前にアルディ家のエントランスでヒカルと合流するといった趣旨の短いメッセージが届けられていた。

彼はいつも、アルディ邸には居ない。

彼の為だけに用意された別棟に、滞在していることはほとんどなかった。

教育係のミシェルと行動を伴にすることが多かったようだが、ヒカルにはルイの全てを知ることは出来なかった。

その逆は、成立しているようであったが。

 

身支度を調えて、指示された通りに部屋を出る前に、入り口に置いた可動式の姿見で自分の姿を確認する。

普段はそのようなことはしないが、今日はあの星辰の子と言われる完璧なまでの麗人に同伴するのだ。

ヒカルは自分の姿を見つめ、やはり何をしても自分の顔立ちは、アルディ家の縁者にはとうてい見えないことを再認識するためだけの行為であったのと思うと、また眉を寄せて目を伏せるばかりであった。

確かに、若い頃の母に、似てきた。自分でもそう思うのだから、シャルルはもっと強くそう思うのだろう。

その当主を失望させないためにも、彼女は今日一日、完璧な貴婦人でなければならない。

何かしなければならない、というわけではない。

けれども、ただ桃の木を愛でるだけであったが、そこに集う人々に応じなければならないし、遊びに行くという目的だけであったのならこれほどまでには緊張しないだろう。

 

観桃会という特殊な催しに、それまで名を連ねていなかったアルディ家が突然共催するようになったのは、ヒカルがやって来てからのことだった。

本当なら、生まれた国と同じ形態で祝事を執り行うように進めたいのだろうという希望が見え隠れしていたが、アルディ家には、娘は居ない。

それに、大々的に執り行うことによって彼の婚外子ではないのだろうかとさえ噂されるようになり、当主はヒカルと出掛ける場所を選ぶようになった。

もちろん、本邸の中では彼はいつも細部にまで気を配り、ヒカルがもうそれ以上は気にしないでくれと言っても受け入れないほどの溺愛ぶりを見せていたが、それは彼の息子との埋められない溝をヒカルを愛することによって埋めているに過ぎないことは、ヒカルにはよくわかっていた。

 

ルイはいたって冷然としており、早々に自立してしまった。遊学という名目でいつも不在にしていることが多いが、様々な分野で彼の才能が認められているのを人伝でも聞くと、ヒカルはそれだけで嬉しくなる。

 

アルディ家の者としての役割は果たすと決めているらしく、彼は指定された行事に出席することは守っていた。律儀で真面目なルイらしい、と思った。だから、これも家の命令だと思っているルイはどれほどヒカルを厭わしいと思っていても、きっと放棄したりせずにやって来るのだろう。

 

輝くような金の髪に、青灰色の瞳。顔立ちは、若い頃のシャルルに酷似していた。フェンシングと乗馬で鍛えた体はどんなときでも優雅な物腰であったし、彼が微笑めばどれほど気難しい者も苦笑いをしてウイと言ってしまう。

 

それほどの人物であるのに、ヒカルの心は操作しない。ただ、いつも、冷たく彼女を見るだけだった。

人から疎ましいと思われることに気がつかないほど鈍感ではなかったが、鈍感に振る舞わなければ生きていけなかった。

ルイが心中どれほどヒカルに消えていなくなって欲しいと思っているのか、ヒカルは感じているのに・・・実行しない。

生きる場所がないから、ということではなくて・・・いつかはここを離れて暮らすときがやって来たとしても、このような状態のままにしておきたくなかった。

 

父と母がこの場に居たら、心を痛めたことだろう。どうしてわからない素振りをして生きるのかとヒカルを諭したのだろうと思う。

 

■04

 

ルイを待たせるようなことがあってはいけないと思い、ヒカルは少し早めに部屋を出て、彼の車が到着するのを待とうと思っていたのに。

ルイ・ドゥ・アルディは既に到着しているという伝言を受けて、ヒカルは慌てて先を急ぐ。シャルルに用意してもらったドレスがヒカルの身体の上で跳ねた。

暖房の行き渡った室内では羽織る必要も無いので上着は片腕にかけているが、完全防寒であるのに軽量過ぎて、これも薔薇色の漣を彼女の体に打ち付けていた。

伝言を持ってきた者や、廊下ですれ違う者たちは、ヒカルの茶の髪の毛とよく合った色合いだと誉めそやした。

ヒカルはぎこちなく会釈しながら通り過ぎて行く。

この家で長く暮らすヒカルは、今でも滞在人でしかない。

どんなに親しくなっても。家族同然だと慕わしく思っても。

それ以上踏み越えてはいけないのだと自分に言い聞かせている。

・・・なぜなら、ここは彼女の家ではなく、ルイが往来するべき場所だからだ。

だからといってよそよそしくすることはないのだが、自分の中で、何か制御されてしまっているように感じる。

それを、シャルルは承知しているから、ヒカルが外に出るようにしているのかもしれない、と思っている。

彼は、医師だ。最近では医療現場の最前線に立つこともなくなってしまったが。

それでも、最新情報の取得を怠ることはない、彼は・・・本当は、当主としての業務よりも、もっと別のことをしてみたいと思っているのかもしれない。

 

同じ様に。

ルイは全てを手に入れる事が出来るのに、彼はいつも渇望している。

いつも、彼の姿を見る度に、そう思う。

彼は人を動かすために微笑むが、心から笑ったことは一度も無い。

・・・だから、自分は邪魔をしてはいけないと思う。

本当の家族が本当にわかり合うときまで、それは望んではいけないことだと思っていた。

 

そんなことを考えながら、歩みを進めると、ヒカルはルイの姿を見つけて更に慌てて小走りになった。

彼の予定はいつも絶対で、彼の都合で変更を加えることはない。

だから、自分が考え事に耽って時間を忘れてしまったのだと思った。

 

見間違えることはない。金の髪をした長身の青年。

少年と青年の狭間にあった彼は、その割合を変えて、青年により近くなっていた。

彼とは滅多に逢うことはなかった。けれども会えば前回会った時の彼といかに違うのか、思い知る。

 

会う度に、彼はヒカルを無視する。けれども今日はそうはいかない。しかし、彼の中には、ヒカルは存在していないのだと思える程に、彼は何もかもを拒絶していた。

 

・・・彼は外を見つめていた。長い睫がこちらにまで瞬きの音を伝えてきそうであった。

滅多に本邸にやって来ることはなかった。ヒカルが居る時はいつも彼はここには姿を現さない。

だから、彼が立ち寄り先がある、というのは方便なのだと思う。

既に彼は目的に沿った服装であった。

旧家の子女達を集める観桃会では、女子が主役であったので、男性はジャケットにノータイという軽装が励行されていた。

年々、女性の服装が豪奢なものになり、観桃会の目的から逸脱してしまう傾向があるということで、最近になって服装については暗黙の約束事が行き渡るようになっていた。

それが、誰の発信によるものなのかは、何となく想像できたが。

ヒカルが参加するのは、彼女が来賓なのではなく、あくまでもアルディ家の男性の同伴でしかない。つまり、ルイ・ドゥ・アルディが観桃会に出席するためにヒカルが出席するだけだ。

シャルルの計らいで、女児の祝い事としての催事に参加させたいという意向が働いていたとしても、名目はヒカルのため、ということにはならない。

それが旧家の理であったし、ヒカルもそのことについて異論があるわけではない。

 

「ルイ」

ヒカルが彼に声をかけると同時に、ルイはヒカルの方に体を向ける。

決して堅苦しくは無いものの、場所を弁えた井然さを失っていない彼の出で立ちは、まさしく星辰・・・すべての星々を遵える者という美称が相応しい、と思えた。

彼はよく磨かれた靴を鳴らして、ヒカルに向き合うと、彼女の全身を無遠慮に一瞥した。

「お待たせしました」

ヒカルがそう口にすると、彼は青と灰の瞳を僅かに細めるが、それは満足の視線ではなくて、その逆であった。

久しぶり、という再会の言葉の代わりに。

ルイは彼女に向かって刺々しく言った。

「今日の催しの趣旨が少しも理解出来ていない」

彼女の身を包むドレスが、ルイには毳毳しいと指摘されて・・・ヒカルは立ち止まって困った顔を彼に向ける。

褒めてくれるとは思っていなかったが、それでも、会った途端にそう言われるとは思わなかった彼女は、ただ、困惑の色を浮かべるばかりであった。

 

■05

 

彼と一緒に行動するときは、いつも緊張する。

同じ貌をしたシャルルには感じないことであった。

・・・自分が何故そう思うのかも、理由はわかっている。

彼は用意させていた車に乗り込んだ後、会場に到着するまでにヒカルを見ようともしなかったし、会話も当然に存在しなかった。

ルイにとっては、自分は・・・あってはならない存在なのだと思う。

彼は、遺伝子操作されて生まれて来た。

今では遺伝子診断や、着床前診断などはそれほど珍しいことでもなくなった。

この国の多くの者が持っている信仰と生命倫理との折り合いが付いたからだ。

それでも。

アルディ家の優れた部分が凝り固まって生まれた命が、シャルル・ドゥ・アルディと同じ容姿や特質を持っていたことに、誰もが驚き、そして納得した。

フランスの華は、やはり最高の種であるのだとルイを見て誰もが首を縦に振るのだ。

操作しなくても神に愛されていることを証明した当主を凌ほどの能力を示さなければ、ルイは次の当主候補として筆頭指名されることはない。

それが彼を苛立たせているが、教育係である叔父のミシェル・ドゥ・アルディが様々に彼を援護しており、アルディ家は緊迫した状態を続けている。

 

耳元で囁かれた低いバリトンが彼女に告げた言葉を思い出す。

・・・争うことでしか、生きていることを証明できない者たちがいるのだ、と。

ミシェルに言われた事を思い出す。

ルイの教育係はヒカルに告げた。

彼に執着してはいけない。

星辰の子は皆を所有するが、彼は誰のものにもならない。

 

しかし、ヒカルはそうは思わない。

憎しみあうことでしか生きていることを表すことができないと言う彼らは、もっと深いところで繋がっているのではないのかと思うのだ。

 

・・・・どこがいけなかったのだろうか。

往路の終わりまで、彼女はそれを考え続けた。

同乗するルイと距離が近くて、ただ、身を縮ませるだけであった。

無言のままで時間を過ごす。

なぜ、彼が黙ったままであるのか、ヒカルには、わからない。

運転手が気を遣ってしまうような、そんな道程であった。

それほど長い時間ではなかった。でも、彼が今までどうやって過ごしていたのか、今日はどこに滞在する予定なのか・・・多くを尋ねることはなかったが、彼女が確かめたかったのはルイが元気で彼の望むとおりに過ごすことができているかどうかということだけであった。

 

そんな緊張した空気の中で。

わかっているのは、ひとつだけだった。

ヒカルの服装は、ルイには好ましくなかったということだけだ。

皆が言うほどには、本当は似合っていなかったのかもしれない。

しかし、彼女を慈しんでくれるフランスの華が選んで揃えてくれた品であった。

それがいけなかったのだとは思わない。

だから・・・自分の存在そのものが、ルイの気に触ったのだろうと思えて仕方が無かった。

惨めな孤児が意味のわからない奮闘を繰り広げてはしゃいでいると思ったのだろうか。

 

この催しにヒカルがそぐわないと言った彼の言葉は、正しかった。

到着して・・・わかった。

 

降車し、会場を抜けて目当ての桃の木並を歩くまでの短い距離であったのに。

ヒカルはそれを察して、沈降した。

どうして、ルイがそう言ったのか・・・わかったからだ。

乗車中、始終緊張した傍らの麗人は、降車の時にはヒカルのエスコートを忘れていなかった。

本来なら、彼こそ皆に傅かれる身であるというのに。

彼は、完璧だった。

それまでの不機嫌さをまったく表に出すこともなく、ただ、いつもの慣れた仕草であると言うかのように淡々とヒカルを送り出す。

ただ、彼女がルイの同伴であるということを自ら主張しないだけだ。

場違いな野草は誰でも良いから摘取って欲しい。

そんな様子でヒカルを会場に置き去りにしてしまった。

 

この催しで、ヒカル・クロスは異質の存在で・・・とても目立つ容姿をしていることを承知の上で、ルイは何も言わずにヒカルを桃の苑に置き去りにした。

このような催事には、東洋人は訪れない。

本来は、どう執り行うべきなのか、ということは関係しないからだ。

 

 

■06

 

観桃会には幾度も参加していたが、今回初めて理解できたことがあった。

東洋文化に触れる機会であったが東洋人を招きたいという会合ではないのだ。

そう思った時にはもう遅かった。

ルイの言葉によって、ヒカルにはそれまで見えなかったものが見えてきてしまう。

 

ヒカルはこの国では異質だ。

幾度も確認したことであったのに、ルイと一緒に居ると、それを再認識する。

自分は、心の底では・・アルディ家の者になれないと、昔からわかっているのに、まだ・・・そのことについて哀しんでいることを。自分の父と母はここには居なくて、自分をアルディ家の子にすることはできない、彼女の父にはなれないのだと言ったシャルル・ドゥ・アルディの苦悶に満ちた、けれどもとても美しく儚い表情を今でも忘れることができない。

 

星辰の子が催事に登場すると、予定していなかったことに対する出来事に戸惑いながらも喜ぶ者がほとんど大半を占めている。今回の出席は、

彼は、そこに居るだけで特別だ。

 

ヒカルは、アルディ家でヒカルを待っていた、物憂げな美貌を思い返す。

そこからは何も読み取ることは出来なかった。

彼が身に纏わせているのは誰にも着こなすことのできない上質の着衣ではなく、虚無という名前の拒絶であった。

久しぶりの生家であるのに。

彼は、何の感慨も思い浮かばないようであった。

 

それなのに。

・・・彼が居るだけで、周囲は際だって華やぐ。

 

ヒカルには、決して持ち得ないルイの持つ資質であった。

以前から、わかっていたことなのに。

ヒカルには、アルディ家の派遣者という役割を遂行することは出来ない。

 

彼女は軽く首を振った。自分が、ここでは場違いの者であるのだ、というのはルイが先ほど指摘したとおりであった。

確かにそうであった。彼の言っていることに間違いはなかった。

ヒカルを否定したわけでもなかった。

ルイは、わかっていたのだ。

こうなることを。最初から、彼は知っていた。

彼女は、それまで感じなかった拒絶と区別を感じた。

これまで、アルディ家の代理だと言えば、誰もがヒカルの事を重んじた。

人嫌いで有名な、シャルル・ドゥ・アルディが、行方の知れない親友の娘を養っていることは周知の事実であった。

親日家として知れ渡っているアルディ家から、東洋人が出席するとなれば、それは通常の代理人であるとは言い難い。

アルディ家の恩恵を得たいと思うのであれば、その使者に取り次ぎを求めるのは至極当然のことであった。

けれども、ヒカルは今まで一度も、そのような政治的なやり取りに巻き込まれたことがない。

それは、彼女がそのように感じていなかっただけなのかもしれないが、それでも、ヒカルは道具や手段として扱われたという記憶も経験も、皆無だった。

それは、アルディ家の配慮が大きく影響していたのだということを・・・ルイに伴うことによって知るとは、思っていなかった。

 

これまで、ルイと幾度かこうした席に同席することはあったが、今回ほど、自分が・・・本当は、まったく意味の無い存在であったのだと思い知る瞬間は、これまでになかったと言い切っても良かった。

ただ、居るだけだと思っていた自分の方が愚かで浅慮であった。

本当は、ヒカルはこの国の、こうした催しには必要ではない存在だった。

ルイは、それがわかっていたから・・・・あのように言ったのだ。

 

誰も話しかけてこない状況に、ヒカルは黙ったまま対応する。

皆に話しかけられることが少ないから戸惑っているのではない。

この会合が・・・女子の健康と幸福を願った行事であるのに、その実・・・その先に隠れた目的を今さらながらようやく理解した自分自身に辟易していたのだ。

 

 

 

■07

 

観桃会、というのは観賞用の桃の花を愛でることを目的とする。

観桜会のように並木を邌り歩くような距離は存在しない。

が、満開の桃の花々の色濃さと可憐な佇まいが何とも好ましい。

パリから近い場所にあるが、今日の宴のために象牙色の正方形の薄板を張り巡らせた庭には、人が疎らにいるだけであった。

外は快晴であったが、まだ春の兆し程度の温かさしか持たない寒風が時々吹き抜けるために、閑散としていた。

・・・桃を愛でる会であったのに、人々は室内で歓談することに熱心であった。

だから、駆け引きや弾む会話の取捨選択というものに慣れ親しむことのなかったヒカルは、雰囲気に気圧されて外に出てひとり外の空気を味わうことにした。

シャルルの用意してくれた上着が役に立った、と思った。

彼はきっと・・・こういう状況になるのだろうなと予想していたのかもしれない。

確かに、ヒカルは自分の置かれた立場について、認識が甘いところがあると思った。

彼女はアルディ家に滞在している者であったが、所詮は客人だという考えを持ち続けているし、それはきっと、これからもずっとつきまとう事実であり、かつ真実なのだと思っていた。

ルイと会場に入ると、彼はあっという間に大勢の者たちに囲まれてしまった。

ずっと無言で、ヒカルと隣同士に並ぶことさえ不服そうであったルイは、やがて会場に到着すると大きな溜息をひとつ、吐き出して言った。

「ヒカル。オレの邪魔をするなよ」

・・・・そして。

車から降りた後の彼のエスコートは完璧であった。

時間配分さえ、教則本の通りに違いないと思わせるほどに一分の隙も無い。

その場所は古い別荘を改築したものであった。

所有者は・・・ヒカルもよく知っている、高名な人物であったが、ここの桃の花があまりにも美しいので、改築した時にそれらを眺めることのできるバルコニー付きの部屋の仕切りを取り払い、できた空間を、わざわざ迎賓の広間に設定したというくらい、この邸宅の桃の木並は素晴らしいものであった。

以降、ここ何年かはこの館での桃の宴を観桃会と呼び、良家の子女達を招いて、小さな催しにしているということであった。

 

そしてほんの僅かな時期だけしか楽しむことのできない風景のためだけに、毎年開催している。

この間、ヒカルの母方の親族に、そういった催しものに参加することになっているという話をしたところ。彼女達は困惑していることに気がついた。同じ様な生活は、日本では体験できないから大事にする思い出になるように、と言われたが、そこにヒカルは僅かな違和感を覚えた。

・・・自分が、もう、住む世界が違っているのだ、と感じさせるような瞬間であったからだ。

それ以来、ヒカルはパリでのことを日本にいる親族達に詳細に語る事は無くなってしまった。自分は、いつかこの暮らしを変えると決断する瞬間を迎えるのだろうと、思う。

漫然とした予定であったのに、それはいつの間にかやがて確実に訪れる未来になっていた。

でも、どこに行っても、どこで桃の花を愛でていても・・・彼女の節句だと言って祝ってくれる両親はどこにも居ない。

 

彼女の肩を抱いて入り口に入っていった彼は、静かな場所が好きなヒカルに自由に過ごすようにと言って彼女を解放した様を見て、誰もが彼の行き届いた配慮に感心する。若い者は独占したがる傾向が強いのに、彼はそうではないと言う。

けれども。

口に出すことはなかったが、ヒカルにはルイが邪魔なのでどこかに行け、と言っているように聞こえた。

 

僻んでいるわけではない。

猜んでいるわけでもない。

                                                      

しかし、桃の見事な色合いを、彼が青灰色の目を細めて観覧するというのなら。

常に穏やかならぬ冷たい情熱を持って何かに向かっている彼の気が、桃の花々によって休まれば良いのに、と思うのだ。

彼はいつもひとりでアルディ家の薔薇園や温室で時間を過ごすことがあるのを、ヒカルは知っていた。たった一人きりで眺める花々との時間も必要であろうが、彼には・・・こうして違う場所で、誰かと話をしながら空を見上げる時間を持って欲しいと思った。

 

ヒカルは、癖の強い茶の髪の毛の先が上着に乗って揺らめいている様子を眺めた。まるで、海の中の水母のようだと思った。自分は、どこに行くにも浪まかせで・・・汐に乗って彷徨っている様に思った。ルイに向かって、一緒に桃の華を愛でようと言い出すことができず、ひとりで逃げるように静かな場所を選んで・・・そして、その先は時間を潰すのだ。今日の主役はルイ・ドゥ・アルディに決まりだ。

彼は会場を後にするまで、皆の注目を浴び続けるのだろう。

ルイには、そろそろしかるべき家の者との婚約が囁かれているのもヒカルの耳に入ってきていた。

彼はあのシャルル・ドゥ・アルディの息子であり、もう少しすればルイが後継であるという公式の宣言があるのだろう。

当主に就くためには、結婚していなければならない。

これはアルディ家の家訓であったが、シャルルはこの家訓を遵守することも、その家訓を無視することも同時に行っている人物であった。

彼は当主でありながら再婚することもなく、政界に表立って出ることもない。

彼の先代並びに先々代など、アルディ家の当主は恋愛に奔放な部分があるとされていた。それが一族の繁栄をもたらしてきたということもあったのだが。

だから、この宴も一連の・・・目的がある出席なのだ。

 

 

■08

 

・・・空気は冷たくても、陽光が降り注いでいた。

この日差しを受けて、桃の木は鮮やかな色も淡い色も交えて咲き乱れている。観賞用のものだとわかっていても。遠くで眺めるより、こうして木の間近で見上げる方が好きであった。

シャルルも人嫌いで有名であったが、ヒカルにはそういう態度は見せることはなかった。

それは、ヒカルがあの人の娘であるからだということも承知している。

誇り高い人だとは思うが、それは彼の家の宿命とでも言うべきものであって、ルイもミシェルも持ち合わせているものである。

ただ。ヒカルは、ルイのことをわかりたいと思った。

彼はいつも冷然としていて、何か特定のものに執着することはない。

・・・でも。

本当にそうなのだろうか。

時々、思うのだ。

ルイの心が冷たいままであるとは思えなかった。

 

彼女は、淡紅に光る花を見た。

桜とは違う花瓣の輪郭が、光を受けて輝いている。尖った先端を持つ桃の花瓣は可憐でありながら梅とも桜とも違う華やかさと同時に、儚さも備えている。

 

美しい、と思った。

 

・・・彼女の心に深く染み入るほどに。

同じ様に、彼も・・・近くで花を愛でるということについて、ヒカルと同じ意見を持ってくれれば良いのにと願っていた。

勝手な、都合の良い願いであったけれども。

 

もし、両親が今、傍に居たのなら。彼女はここには居なかっただろう。ヒカル・クロスではなく、黒須昶として生きることになった時。こうしてパリで生活するようになるとは、人生の選択肢に入らなかっただろう。

だからこそ思うのだ。思ってしまうのだ。

両親が・・・生きているとか死んでいるとか、考えていない。

ただ、戻って来られないだけだ。

そう思っている。

親族の元に夏しか戻らないのは、ヒカルなりの抵抗であった。

反抗しているのではない。

自分自身に対して抵抗している、という意味だ。

 

・・・日本に戻れば、両親の死を受け入れなければならない。

名前しか刻まれていない墓標に向かわなければならない。

 

ヒカルは、桃の花を眺める。邪気を祓うと言われている行事であったが、今、彼女の心の中はとても人に見せられる状態のものではなかった。

だから、ひとりで良かったのだと思う。

今の自分は・・・きっと、泣きそうな顔をしているだろうから。

 

アルディ家の庭園ではないのに、こうしてひとり物思いに耽る自分はやはり、ルイの言った通りこの場には相応しくないと思う。

どんなに豪奢な衣装を身に纏っても、彼女が東洋人の血を引く顔立ちをしているのは明白であったし、そのヒカルが流暢にフランス語を操ることも奇異の眼差しの対象になった。だから、皆から浮き立ってしまう。何をしても。何もしなくても。

 

ルイは、きっとあの屋敷の中で、立派に・・・アルディ家の者としての役割以上の成果を上げていることだろう。

自分は無力だ、と思い知るのはこれが初回ではない。

でも。桃の花があまりにも・・・あまりにも優しくて、あまりにも切ない美しさを放っていて・・・ただ、それが苦しかった。

 

ここは自然のままであるというわけではない。

ところどころ、暖を取るための縦型暖房が設置されていて、控えめな色で目立たないように配置されたケーブルコードが伸びていた。

夜になれば、ここは微光でライトアップされて・・・そして俄に艶美さを纏った花並木になるのであろう。

温室以外の庭園は、このように観賞用の暖房器具などは極力遣わない方針で、自然のままにしているアルディ家とは少し違っていた。

夜までの会合ではなかった。子女達の中には、まだ幼い子も居る。

社交界の延長であるかもしれないが、この観桃会は昼の宴という設定であった。

ここでは、皆の顔合わせという目的が附随していたが。

間もなく、この会合も終わる。

これほど短い時間であるのに、逃げ出すようにひとり観桃を装う自分は・・・なんだかとても矮小だと思えた。落ちてきそうなほどにぎっしりと花をつけた桃の木の下敷きになって・・・このまま、自分も海の底に沈んでしまいたいと思ってしまう。

花の海はとても静かで、そしてこれほど明るい陽光の下でありながら、どこか海の潯を思い起こさせる静けさを持っている。

 

 

■09

 

それほど長い時間は経過していなかったように思う。

けれども。

自分の名前を呼ばれたとは気がつかなかった。

・・・どのくらい、考え事をしていたのだろう。

それすら、わからなかった。

でも、空はまだ明るかったし、風も冷え切ったものではなかった。

彼女の上着が寒さを防いでいたのかもしれない。

アルディ家から貸与された着衣、という気持ちはなかったが、この宴にやって来る者の誰の着ているものよりも高価で、そしてヒカルの肌や髪の色に合っている品であることは瞭然であった。

だから、ルイに伴われてやってくるヒカルのことを、称賛ではなく訝しげな視線でもって囲む皆の好意と正反対の意識に戸惑って、ヒカルはこうして人の居ない場所に逃げてくるのだ。

いつも、そうであった。

ルイに言われたのは、的外れであると言い切ることができなかった。

自分は、アルディ家の養い子であるのに、その役割を全うできない。

それを、ルイと一緒に居ると思い知るから・・・こんなにも苦しくて、身を切られるように痛くて、切なくなって・・・そして逃れることを選んでしまうのだろうか。

 

どうにも、重苦しい空気を感じてしまう。

花木は何も言わないから、彼女はそこに安らぎを感じてしまう。

言葉を持たない生き物にだけ安らぎを感じる自分は・・・どこか歪んでいるのだと、そう思う。

 

・・・ただ、花瓣を眺めているだけなのに。

 

ゆらゆらと波底で揺蕩っているような感覚が・・・ただ、ヒカルの時間をゆっくりとしたものに変化させる。

彼女の思考速度をこの世のそれから隔絶させる。

 

ヒカルの物思いはシャルルやルイのように長く続くものではない。

彼女の沈降はいつも短いものであった。

息苦しさに、水面にすぐに顔を出してしまう。

華の海に溺れそうになって・・・彼女は我に返る。

生きることに執着しきれないのに、生きることを忘れることが出来ない。

いつか、父と母に会える。そう思っている。生きたままで会えるのか、魂となって再開するのかはわからない。でも、きっと・・・会えると信じて、それを拠り所にしている。それは、シャルルも同じだから。同志が、一緒に居るから。ヒカルはこうして呼吸していられるのだろうと思った。

 

桃の花は、櫻とは違う花瓣の縁取りでヒカルの上で華開いている。

彼女はこれを家族と祝うことはなかった。

これほど素晴らしい花々を見れば、絵を描く人であった母は、どれほど喜び、それを見て父はどれほど嬉しく思い・・・ヒカルはどう思うのだろうか。

そんなことを考えてしまうほど、ヒカルはこどもの思考を維持し続けることが出来なくなってしまった。

周囲の視線が気になり、なぜ自分がここに遣わされたのかを考えてしまうような年齢にまで成長した。

大人にはまだ遠いかもしれないけれども、こどもから遠く離れてしまったところに・・・・自分は居るのだと思った。

 

何も考えず、ただ、アルディ家の温もりの中で生きていたいと望んだ自分が・・どうにも許しがたい罪を作り続けているように思うが、それを止めることができなかった。

確かに、自分は贖罪の子だ。

罪を罰することも出来ず、罪を作らないということも怠り・・・そして生きることに拘り続けている。償いということではなく、和解という意味でもなく・・・自分は、どこに行けば満足するのだろうかと思う。その渇望を卑しい願いだとルイが指摘することに対して、何も反論することはできなかった。彼の言葉の通りだったから。

 

まだ肌寒いという温度を通り越して、刺すように寒い空気の中でも、春の訪れを告げるためにやってくる使者を、ヒカルは無言で眺め続けた。

涙が出そうになる。余りにも孤独と寂寥が大きすぎて。しかし、ここで涙を浮かべて自分を憐れんではいけないと思った。大きな慈愛の心があってこそ感じる気持ちであったが、それをアルディ家の者は必要としていない。

自分も・・・あの家で生きているのであれば、容姿はあの家のこどもになることはできないけれども、せめて・・・心持ちだけでも、近い場所にいたいと思う。

そのものになれない模倣品だと嗤われても、微笑み返すだけの強さを持っていたかった。

 

ただ、ひとり・・佇む時間が彼女を少しずつ大人にさせていく。

あどけない子供であった時代に別れを告げなければいけないのに、しがみついている自分の弱さを、こんな時に強く思い知る。

ルイは、強い。様々なことに決別する覚悟があり、欲しいと思うものだけに情熱を注いでいるのだと思う。彼こそ、アルディ家の希望の星であり、星辰の子と呼ばれる彼こそが・・・シャルルを引き継ぐに相応しい。

心からそう思うのに、どこか、寂しかった。

 

■10

 

声をかけられたわけではないが、視線に気がつき顔を上げる。

眼を向けた先には、無表情のルイ・ドゥ・アルディが立っていた。

「ルイ」

ヒカルは体が軋むのを感じる。どのくらい長く、同じ姿勢でこうしていたのかさえ忘れてしまうほど、桃の花の可憐な花が広がる天を見上げていたのだろうか。

寒さは余り感じていないが、指先は冷えていたし、頬も強ばっていた。

ルイは上着を着ていた。

会場から庭に向かってこちらに幾人かが歩き始めていて、人の声が聞こえて来る。

ヒカルは首を竦めた。

先ほどからまったく人と話をしていない。

逃れるように、ここで花に見入っていた。

そしてルイの背中越しには、彼に視線を寄せている者たちが複数人いることを示す人の影が見え隠れする。

彼の声を間近で聞きたいと願う者はこの場所に集っている者だけでも相当数存在することだろう。

 

彼はヒカルのことをじっと見つめている。

青灰色の瞳がヒカルの心を覗き込んでいるようで、彼女は茶色の瞳を見開いた。

目を逸らすことはできなかった。ルイはそれを赦さない。

この家の者たちは、自分から目を逸らすような者には容赦がない。

しかしそれは見つめるに値しない者への侮蔑とは少し違っていた。

何も感じない。何も感じていない。

そういう冷ややかさを通り越した冷淡さで彼はヒカルを見つめるので、彼女は安易にそこから逃れてはいけないのだと思った。

人を避けて花の下に隠れるようにして逃れることはできても、ルイの非難の眼差しからは逃れることができない。

 

・・・自分はアルディ家の代理としてやって来たのに、少しも役立つことができない。

シャルルはいつも自分のことを大事に考えているというのに、ヒカルはいつもそれに応えることができずにいる。

それを、仕方の無いことだと諦めているのではないのだろうか。

自分は・・・アルディ家のこどもではないのだから、仕方が無いのだろうか。

 

ルイはシャルルと静かに激しく闘い続けている。他の者たちと違う方法で、彼らは見えない方法でもってやり取りを繰り返している。そう思うのだ。

見事な金の髪の下から覗く伶俐な美貌が僅かに動いた。

彼は何も言わない。その代わりに、ヒカルは彼に語りかけた。

「・・・ルイが言ったことは本当だった。私は、ここでは役に立たない」

「ここでも役に立たない、だろう?言葉は正しく使え」

彼の素っ気ない訂正に、ヒカルは苦笑いした。

ここで心を砕かれたという表情をルイに見せれば、彼はまた失笑するだけであった。苦しいけれども、彼女は泣かない。

顔を歪ませていれば、他の者が不審に思う。

それだけは避けたかった。

この世界は、心の内をあからさまにすることは避けるべきとされる。

どれほど気が進まなくても心から喜んでいると述べなければならないし、それほど親しくない者を招き、最上の礼でもって遇さなければならないという時もあった。

そういうことを気にしなくても良いのだと言われても、そういうことが気にならないほどシャルルが愛を注いでくれても、ヒカルはいつもどこかで、考えを巡らせてしまう。心を曇らせてしまう。

 

そして彼は黙っているままのヒカルの前で、先ほど彼女がしたように、桃の花房を見つめた。さらり、と金の髪が揺れる音がするようであった。

ヒカルも彼の視線の先を追う。清楚で可憐な色が空一杯に広がっていた。

 

・・・これほどまでに同時に花を咲かせるのは、そうなるように調整を重ねて一本一本について行き届いた管理がなされているからだ。

 

それを見て、ルイが何を感じているのか、ヒカルには全部はわかることができない。彼が桃の花を見て、彼に対して厄災除けを祈願する者のことを思い浮かべることはない。ヒカルがヒカルの両親のことに思いを馳せるようにはルイは思いを飛ばさない。

 

けれども・・・彼は遺伝子操作されて生まれてきたことについて自分で述べることはあっても、人に指摘されることは赦さない。

だからこそ、彼はいつも走り続けているのだろうな、と思えてならなかった。

彼が観桃会についてあまり良い顔をしなかったことに対して察することができなかったのは、自分が狡いからなのだと思った。

ヒカルの生まれた国では、桃の節句と呼ばれて女子の幸福を願う行事とされている。

けれども。ヒカルの育った国は、あの国の他に、この国でもあるのだと思っている。もう、長い時間をこの空の下で過ごしていた。だからこそ思うのだ。この国にもあの国にも中途半端な存在であるヒカルだからこそ思うことがある。

 

「・・・・桃の花は魔除けの効果もあるのだけれども・・・桜とは少し違う風情があるのね・・」

ルイに言ったつもりではなかったが、ヒカルはそのように呟いた。女子であるか男子であるのかは関係が無い。こどもには健やかに幸せに育って欲しいというのが親の願いであるのだ、と言いたかったのだが、ルイに対してそれを言ってしまえるほど自分に勇気があるわけではなかった。ヒカルは改めて自分は狡い、と思った。

 

 

■11

 

頬に冷気が降り注ぐが、それでも凍えを凌ぐほどの見事な花の色がそこにはあって、空気すら染められていくような気がした。

 

色が降る。

風が染まる。

香りが静かに滾る。

 

母がこの風景を見たら、どんな風に表現するのだろうか。

父は、この風景を見たら、やはり母と共有したいと強く想うのだろうか。

ヒカルはそんなことを考える。いつもそういう風に考えることにしている。

詮無きことだと嗤われるかもしれないが、そうやって思い返さないと、彼らがいない日々が通常になってしまうからだ。どちらが夢で、どちらが現実なのかわからないような生を送りたいわけではないが、それでも・・・もう取り戻せないと諦めるには、まだ早いように思うのだ。

だから。

シャルルは、本当は・・・ヒカルに見せたいのではなくて、ヒカルを通して父母に見せてやりたいのかもしれないと思われた。

父母のいる場所には・・・そこには、シャルルは居ないから。彼はそう思っている。

だからヒカルをひとりにする。彼は、彼女に観桃に行けと言うのに、それでもひとりきりで見せるのが心痛んで不憫だと思い、ルイを同行させたのだろう。

桃は退魔の花だ。魔を祓うのであれば、誰のどこに漂うものなのだろうか。

シャルルは時々、ヒカルを遠ざける。こうやって、ヒカルと関わらないようにする。

 

健康と幸福を願う。自分自身にではなく、誰か別の者の幸せを願って。子を案じ、こども達を案じ、未来を案じる。憂えるのではなく、幸あれ、不幸も転じて幸になれ、と祈る。

その思いを、どれほど子が受け止めているのだろうかと思う。

 

「ごめんね、ルイ」

目の前に立つ、星辰の子にヒカルは謝罪する。彼はすぐに冷笑した。

「何を謝罪するのか、整理しておけよ」

確かに、彼がヒカルのことを快く思っていないのは承知していることだった。それなのに、顔を見なければ案じるし、顔を見れば様々なことを聞きたくなってしまう。ルイはなぜ、シャルルと歩み寄ることを拒むのか、なぜシャルルは遠くで見守っていることに徹しようとしているのか・・・ヒカルは関係ないのだと言われても、それでもやはり同じ敷地に暮らし、長い年月を共有している者として、何も感じないでいるということはできなかった。

 

「シャルルにそういう対応を教わったのか?」

ルイは続けてそのように言い、そしてふっと溜息を漏らす。

彼のそのような様は、見ている者が溜息を漏らしてしまうほどに美しい。

若い時のフランスの華に酷似していると言われている。けれども、フランスの華は淡い色の白金髪であり、彼は輝くばかりの黄金の絹髪であった。

 

「・・・シャルルから教わることができるのは、ルイだけよ」

ヒカルは哀しみを込めて、そう言った。

偽らざる本心であった。

「オレの教育係はミシェルだよ、ヒカル・クロス」

彼はまったく話にならないと言いたそうに吐き捨てるように言った。

ヒカルは淡い桃の羽根の中で顎を引き、自分の顔の輪郭に触れるほどに毛足の長い上着の中で声を落として言った。

ルイの前では、声を直線として吐き出すことができなかった。彼はいつも正しくそして反論の隙を与えない。そして彼がヒカルのことを「可哀想なヒカル」「愚かなヒカル」「贖罪の娘」と呼ぶ以外に、彼がヒカルのことをヒカル・クロス、と名前を呼ぶときにはその話はそれ以上するつもりはないのだと言い切っているのだということを、彼女は幾度も経験した出来事の中から学んでいた。

 

「ヒカルは、誰から何を教わるのか。

こうして自分の位置を確認して、憐れんで、それで気が済むのなら永遠にここで過ごせば良い。観桃は観桜とは違う。

この国の余興でしかないこの行事に退魔の願いを込めているのであればすぐに日本に戻れ」

彼なりの忠告であると受け止めた。

 

ヒカルはますます体を縮める。

ルイが言うことはいつも辛辣であるが、彼は他者に感心がないことを考えると、このように述べる言葉には何かしら意味が込められていると思う。

けれども、まだ、ヒカルにはそれがわからない。

ようやく最近になって、ルイがヒカルに対して冷たいという言葉だけでは足りないが、言葉というには彼にしては多すぎるものをヒカルに投げているのだということだけ理解できるようになった。

ミシェルやシャルルであるのなら・・・彼の話がわかるのだろう。

しかし、ヒカルには断片しかわからない。

それがもどかしい。

 

 

■12

 

結局、何も役に立たなかったと打ち拉がれているヒカルに向かって、ルイは冷たく言い放った。

「帰る」

彼はヒカルを振り返ることもなく、そう言った。

「残るのであれば自分で手段を確保するんだな」

「待って、ルイ」

慌てて彼女はルイの背中を追う。まだ散会ではなかったはずだが。

けれども、桃の花が散り始めてきたことにより、気温や日照角度が変化して自分が茫洋としている間にだいぶ時間が経過していたのだと改めて思ったヒカルは、ルイに向かって質問した。

 

「あの・・・もう帰ってしまうの?」

ヒカルはルイを追いかけて、そして隣に並ぶ。彼が許可無しに近接することは好まないと知っていても、それでも彼は足を止めることをしないのであれば並んで話をするしかない。慣れない沓に気を取られながらも、彼女はルイに付き従う。

誰でも仲良くできた父と違い、彼女はかなり人見知りする方であった。

相手に不快感を与える程の内気さではなかったが、顔と名前が一致する者があまりいない者ばかりの中で、ひとり取り残される事に平然としていられるほどには世慣れていなかった。

 

「余興が終わったから。もう必要は無いだろう」

「余興?」

ヒカルがルイの言葉に首を傾げる。

確かに、年若い者たちの集いに相応しいように何か企画しているとは聞いていたが、ヒカルはその説明すら聞かないうちに庭園に出てきてしまったので、状況を理解できていなかった。

どうやら、ルイは最後まで滞在するつもりは最初からなかったらしい。

 

ヒカルは歩みを進めるルイに付き従う。

これほど見事な桃の花のほとりを離れ難かったが、それでも彼が帰るという言葉を無視することはできない。

ここで別々に行動するようなことがあれば、困るのはヒカルではなくアルディ家当主であり、ルイなのだということくらいはわかっている。

今日は日本では、桃の節句と呼ばれる儀式であった。

ルイはヒカルの予定に合わせて行動するわけではなかったが、今日の会合の趣旨を把握していないわけではない。

彼はすれ違う者たちに笑顔で応じていた。

星辰の子の微笑みを受ける者は、特別に感じ入るものがあるようであった。

見惚れたまま立ち尽くす者もいれば、もっと話をしたいとルイに追いすがろうとしてヒカルの姿を発見し、何も声をかけずに凋んでいく者もいた。

人間嫌いで非常に冷笑的である当主に比べ、ルイはかなり自分を律しているようであった。それもすべて、彼が生きるための術であり元から人好きであるということではない。

声を発せずに生活しろと言われれば、ルイは本当にいつまでもその通りにすると思われるくらい無口であった。

 

ルイと同じ敷地に住まうことを羨ましいと言う者もいる。

あからさまに軽蔑した眼差しを向ける者もいる。

 

それらのひとつひとつに生真面目に対応していれば、やがて心が砕けてしまうと思うからヒカルは気がつかないふりをしている。

いつの間にか、自分はそういう風に逃げることを覚えてしまった。諦めることがいかに楽であるのか、学んでしまった。

 

・・・上手く泳いで渡ることが出来ないから、底に深く沈んで急な流れを遣り過ごしているヒカルをルイが心底呆れているのも知っている。

 

もう帰ってしまうのかという惜しむ声を後にして、ルイは出口に向かう。

数少ない男性の招待客は、ルイに今度こそフェンシングか乗馬で勝ってみせると宣言したが、不敗とするチェスの試合について触れる者はいなかった。

応じなければいけない相手には丁寧に、この場を辞する非礼を詫びるがそれはルイの心からの謝罪ではないことは、相手もよく承知していることであった。

長居をする無粋者であると思われたくないですから、とルイはいうが本当はそうではない。

より高位の者から退出しなければ他の者が去ることができないことを知っているからだ。彼は自分の立場を弁えている。過不足なく。

そういう作法さえ、ルイは学んで久しいし当然のことのように応対しているがヒカルには同じ事はできなかった。

アルディ家に住まって、どれほど長い期間を経過していたとしても、それよりもっと短い時間しか滞在していないルイの方が継嗣として相応しい対応を学んで実践している。彼がヒカルのことを常々、愛翫動物だと言う所以はここにあった。ヒカルはアルディ家の者にはなれない。そして、自分自身の処遇を決めることができないのに、そこから抜け出そうとする気概さえないのだ。

 

そして、会場を横切り、ルイはヒカルにはまったく話かけずに歩き続ける。

出口で上着を差し出されたが、それを受け取らずにいた。上着を着て車に乗り込むことはしない。そういう必要はないからだ。

 

■13

 

彼女は上着を着たままであったが、そのまま会場内を横切り、そしてエントランスに向かっていくルイを追いかける。

 

せめて退出の挨拶でもしておかなければ、という考えが頭を過ぎる。

何事にも完璧なルイがそれを省略していることはないと思っていても、自分も賓客として遇されたのだから、礼を述べなければいけないと思い、ヒカルは周囲を見回す。

 

・・・自分が、今日の主催者の姿さえすぐさま見つけることができないことに気がつき、ヒカルは唇を噛んだ。

 

確かに、準備不足であった。ルイがヒカルにそう言ったのも、見当外れのことではないのだ。

しかも、観桃会であるという趣旨から子女達は皆、桃の花に似せて衣装を選んでいた。

薄赤色から紅色まで様々であったし、一部分だけ小物を身につけている者もいたが、それでも同じ様な装いが多く、混雑も影響しヒカルは困惑する。

自分が、他の子女達とほとんど繋がりがなく、知った顔に行き会わないことがこれほど恨めしいと思ったことはなかった。

先ほどまで、誰にも声をかけられないように、庭でひっそりと時間を過ごしていたと言うのに。

他の者と連れ立って桃花の様子を見上げることを放棄し、隠れるようにして木々の中で佇んで居た彼女に対する当然の報いだと思った。

 

足を止めるとルイを見失ってしまうので、足を止めることはしない。こうしてずっと追いかけて行く存在の彼を見つめながら、金の髪を目印にしてただひたすら彼の後をついて行く。

皆が彼を見つめる。誰もが彼の姿に振り返る。星辰の子と呼ばれるルイは、いつもまっすぐに前を向き、振り返ることはしない。これほど多くの人を振り向かせるのに。

あらゆる星々を遵えるアルディ家の薔薇のひとりはいつも孤独に前を見つめる。けれども彼のことを寂しい人なのだとは思えなかった。

それは彼が誰かと常に一緒であることを欲していないからなのだと思う。

ヒカルは茶色の瞳を瞬かせた。そういう表情が、彼女の母親に似ていると言われるけれども、どこがどう似ているのか、彼女にはわからない。

でも。

ルイの背中は、シャルルに似ていた。彼もあまり振り返ることはしない。ヒカルが見送っていることを知っていても、軽く手を挙げるだけであった。

 

どうしても、どうやっても、彼に追いつくことが出来ない。

一緒に並んで話をして、一緒にアルディ家に戻るという意識を持つことが出来ない。

それは、互いにきょうだいがいない者同士として労り合うことはないのだと言い聞かされているような気がした。

ヒカルとルイは大きく隔たっている。

同じ家に帰るのに。同じ敷地の中にいるのに、彼は誰よりも遠かった。

 

皆の注目の中で、彼に話しかけることは憚られた。こういう場面には、幾度も遭遇しているのに、それでもまだ慣れなかった。

自分は、ルイに最も遠いのだと思った。彼の最も近い場所にいたいと思うのに。

アルディ家の中には踏み込むことが出来ないのだと思うと、寂しい気持ちになってしまい、涙が溢れそうになってしまう。

こうして、ルイの金の髪を近くでみることができるのは、あとどれくらいのことなのだろうか。

いつか、自分は・・・パリではないところで、桃の花を見つめるのだろうと思う。

それは、確実にやって来る。

その時、その場所というのは、きっと・・・ルイも、シャルルもいないところだ。

そのような予感と覚悟があった。

でも。

同時に、ヒカルを臆病にさせる。

彼はいつも皆に注目されて、星辰の子として讃辞され続ける。何もかもを持っているのに、何もかもを欲する人の行き着き先が気になるのに。

 

アルディ家の者としてここにやって来る覚悟も準備もできていないと言った彼の言葉が今になって身に染みた。

 

「ルイ、待って」

追いすがることもできず、ヒカルはそう言った。

彼の活動範囲から弾き飛ばされてしまう。彼は周囲に軽く会釈し、必要な相手にはまた別途連絡するという旨を短く伝えて足速にここを去ろうとしている。

 

アルディ家の子としての記憶や経験が欠如していることをルイは承知している。

彼が与えられるべきものが、彼には足りていない。満ちていない。

けれども、ルイだけではない。ヒカルにも、退出の挨拶が注がれる。彼女はその都度立ち止まって挨拶を交わす。おざなりに扱うことはできなかった。

招かれた礼、退出する非礼への謝罪、この会合の感じ入ったところ・・・それらすべてをひとりひとりに同じ様にかつ丁寧に説明しなければならなかった。

ヒカルに話しかける者はそれほど多くはないが、それでも彼女はアルディ家の養い子であり、それを知らない者はこの会場ではほとんど存在しないのだろうと思う。

ヒカルは飾りでしかなかったのに、これだけ遇される。でも、ルイはそんなヒカルのことを苦々しい思いで見ていたに違いない。

・・・それなら、一体、どうすれば良かったのだろう。

■14

彼はヒカルに振り返ることもせず、用意された車に乗り込もうとした。

絶妙なタイミングでもってやって来たアルディ家の車は、ヒカルやルイの送迎のためだけに用意された車であった。

防寒のために用意されたヒカルの上着は、室内を通り抜ける時には酷く暑かった。

けれども、ほとんど重さを感じさせないので、どれほど注意していても裾が翻る。

自分の足元や衣類の裾に注意している余裕はなかった。そんなことに気を取られているうちに、ルイは遠く離れてしまう。

 

彼が自分と距離を置いていることは承知の上だった。図々しい居候と思っていることも、そのことによってルイが彼女のことを苦々しく「贖罪の娘」と言って揶揄することに反論できないくらい、彼が彼女を厭わしいと思う理由を承知していた。

けれども、行き場がないから縋るのではなく、ルイの役に立ちたかった。

どんなことがあっても、彼が望むのであればヒカルはどんなことでもしたいと思う。ただ、ルイはそれを彼女に求めることはないし、これからもないのだろうと思われた。

 

シャルルがヒカルに対し、日本の催事について忘れないように配慮するのは、いつかヒカルが日本に戻ることを予想しているからだ。そして、今もヒカルは定期的に戻る日本に馴染めないでいた。シャルルに何も言っていないのに、彼はそれを知っているようだった。だからなのだろう。

桃の節句に行われる会合に行ってこいと指示するのは、ヒカルが健やかに育って欲しいという願いからそうしたのではなく、彼女が中途半端な存在であると悩んでいることを見越したからだ。

シャルルがアルディ家の者としてヒカルを送り出すことはほとんどないことだった。

ヒカルの父の実家であるクロス家がそれを快く思っていないことも知っている。

滞在するときには、いつもアルディ家では困ったことになっていないのかと聞かれる。

先般の帰国の折に、あれほどの旧家で人付き合いを絶っているフランスの華のもとで育てられると偏った人間になると言われて、ヒカルはただ困惑するだけであった。

人と人の間には、友好という感情だけしか存在しないというわけではない。

諍いも誤解も、そして哀しいことに決別や憎しみも存在する。

見ないことにしたいと思っているけれども、ないことにしたいと思っているわけではない。

そういう姿勢でのぞむヒカルが、ルイにはとても愚かな存在に見えるのだろう。

 

でも、ルイと同じ方向を見ていたら、見えないことがあるから。

だからシャルルはルイとヒカルを同一の場所に行けと指示するのかもしれない。

はっきりと聞いたことはないけれども。でも、シャルルはルイがこの世からいなくなってしまえば良いとは思っていない。そう思いたい。

 

 

ヒカルは額の際に汗を浮かべながら、ルイを追いかける。

彼はいつも追いかける人物だ。彼はいつも誰かに背中を向ける存在だ。

けれども、その彼が正面を向いて目指しているのは、一体誰なのか、一体何なのか、追いかけている限りそれは決して見えてこない。

 

上を向いて居てばかりでは駄目だった。

桃の花の下から見上げる昊は、緋色の昊であったけれども、ルイの見ているものはもっと違う景色なのだろうと思う。

彼は、緋の敷物のような空を掲げながら・・・ヒカルの前に現れたのはどうしてなのだろうと考える。

彼がヒカルを迎えに来てくれたのか、それとも・・・彼も、ヒカルと同じ様に何かに耽るために桃の空の下にやってきたのだろうか。

アルディ家には久しく訪れていない緋色の節句に彼が何を思い、この観桃会にやって来たのか、わからなかった。

命令されたからというだけではないだろう。

ヒカルと同行することは極力避けるルイ・ドゥ・アルディが、辞退する言い訳を考えつかないとは思えなかった。実際、幾度も、ルイとヒカルは同行しなければならないような事態がやって来たのに、ともにアルディ家からの使者という組み合わせを同時に演じることはなかった。演じる。彼は、まさにそうなのだろうと思った。

寡黙で、家の事情に対して彼は決して不平不満を漏らさない。完璧な当主候補であった。ルイ・ドゥ・アルディは皆に望まれ、期待通りの結果を出している。

けれども、彼が望むことを多く聞いた者はいない。教育係のミシェルなら、もっとたくさんの話をしていることだろうが、ヒカルはルイと年齢も近いのに、彼に最も遠い人物が自分なのだと思う。

 

ルイ・ドゥ・アルディは車が寄せられても、最初に乗り込もうとしなかった。

しばらく佇み、じっと足元を見つめている。決して振り返らない。

ヒカルを待っているのだ。

ここで彼女を置いて行くのなら、理由が必要だろう。だから、後ろからヒカルがやって来るのを待っている。でも、穏やかに、彼女を待ち侘びたという仕草は見せない。それは、彼が星辰の子であるから。ヒカルに対してはルイは彼女のことを妹と思うこともなく、家族と思う事もないから。だから、彼は振り返らない。

でも、一緒に帰らなければ咎められるから。だから、背中でヒカルを待つ。

・・・ごめんなさい、と心の中で呟く。

ヒカルは、どこに行ってしまうのだろう。

どこに埋もれれば良いのだろう。

それはルイに尋ねることではなかった。自分が導き出さなければならないこたえであった。しかし、わからない。・・・わからないのだ。

 


花蕾 中編

■15

 

ルイ・ドゥ・アルディは寄せられた車に乗り込む前に、そこではじめてヒカル・クロスに振り返る。真っ直ぐにヒカルの居る方向を見ていたので、彼が彼女を探しているのではなく目線で命令しているのだと思った。車に乗るのか乗らないのかはっきりしろ、と言いたいのだろう。

 

もっと違う意味であったのかもしれない。

彼女が同乗するかどうかを確かめるというよりかはむしろ、誰もついて来ていないことを確かめるような仕草にも見えた。

 

この国には、日本と違うしきたりや決め事がある。

例えば、こんな時だ。

同じ方向に向かう者同士であれば、女性に進行方向を譲る決まり事になっている。

それがヒカルを尊重しているのではなく、この国の決まり事だからルイ・ドゥ・アルディは彼女がもし追随してきたのであるのなら。

それを無視した態度を周囲に見せることはできないと判断しただけなのだ。

つまり、ルイ・ドゥ・アルディはヒカルを気遣っているのではなく、周囲を気遣っているのだ。

ヒカルはそれを知ってもなお、彼のことを恨みがましく思うことができなかった。

彼は冷淡な対応しか表さないけれども。

アルディ家の継嗣としてどのように振る舞わなければならないのか、ルイは十分すぎるほどに承知している。

彼は何事にも冷静で、端然としており、いつもその時の最善の判断を下すことができる。容姿が優れているだけではなく、彼はその気質そのものがアルディ家の新しい薔薇でありながら、同時に旧い薔薇でもあるのだ、と誰もが認めるほどに完璧であった。

 

ヒカルは火照った頬に冷気を感じた。

春であったが、まだ寒かった。

だから、誰も桃の花を見にやって来ることはなかった。

まだ、寒いから。まだ、春ではないから。

自分が意固地になって、春を愛でると言い張って・・・それでルイを困らせてしまったのではないのだろかと思い至った。あのあと、皆が館から出てきた時に、一緒に行動すれば良かったのに。彼女はまた、配慮を怠ってしまった。

周囲を見れば誰もが彼に視線を注いでいるが、それなりに場を弁えた距離でもって彼を眺めている。着飾った年若い者たちは、みな彼に尊崇の念を込めて見送っていた。しかし、彼らには必ず差し添えがあって、ひとりきりで立っているのはルイとヒカルぐらいであった。

 

「ルイ。私も・・・帰ります」

ヒカルは彼に駆け寄ると、小声で早口にそう言った。

ルイは金色の髪を頬に散らし、不機嫌そうに薄い唇を僅かに歪めた。遠目で見れば、彼の家の客人である少女に向かって極上の微笑みを浮かべているように見えるのだろう。周囲から溜息とも称賛ともつかないような空気が揺れてヒカルに到達するまでにそれほど時間はかからなかった。

 

主催者がわざわざ、ルイを見送りにやって来る。

これで、彼がどれだけ厚遇されているかということがわかる。

すべての次第を終えたのに、特別な彼への礼を尽くす周囲の様子に、ヒカルは後退った。

期せずしてルイに寄り添うようになってしまう。しかし彼はそんな彼女の肩を抱くことも退けることもしなかった。傍に人が居るから。

誰も見ていなければ彼はヒカルの体を振り払うのだろう。

そう思ってしまう己に嫌気が差した。

 

アルディ家の者としてしなければならないことの半分も、彼女は達成できていなかった。ただ、豪奢な衣装を与えられて、自分はそれに臆して逃げ出した。だから、彼が憤っているのに、それを哀しんでいるだけで何もできなかった。そう、何もできない。自分は、何かをしたいと積極的に思うことすらしなかった。

ルイはその間、これだけの人を魅了するために、周囲を出歩き、皆に声をかけてこの会合の目的を果たしたのだろう。

ここに集う者たちは良家の子女だけではなく、各国の大使館の子息なども集まっている。アルディ家が各地方に与えている影響力をさらに強くするつもりであった。当主が畢生の事業としている、あの国への援助のためでもあった。

 

ヒカルは桃の香りの残る自分の衣服に目を細める。

先ほどまで桃の花たちの中に埋もれていたのに。もう次にやって来る時には、ヒカルは今のヒカルと少し違っているのかもしれない。同じではいられない。それはわかっている。けれども、桃の花だけはいつも変わらずに、彼女に纏わり付く邪気を祓うようにいつも同じ匂いと色と風の冷たさでもって彼女を迎え入れてくれるような気がした。

・・・もし、シャルルが来年もここを訪れても良いと言ってくれるのであるのならば。今度こそ、上ばかりを見上げていることのないように過ごしたいと思った。

大人になるというのはこういうことなのだろうか。ある一方方向だけ見つめていることができなくなるということなのだろうか。

 

ヒカルは近くに感じるルイの気配に困惑した。彼の一連の行動は不連続で不可解であるように思えたが。・・・ルイは自分の見える風景だけではなく、見えない風景まで見ようとしているのではないのか、とふと思い至る。

 

■16

 

主催者は、ヒカルとルイに送りの挨拶を述べる。ヒカルがほとんど館内におらず、姿を消していたことも承知していたようであったが、それには触れなかった。

困惑しながらも、ヒカルはそれに応じた。ルイは既に話を終えていたようで、また後日、当主から礼を含めた連絡をする、とだけ言っていた。

局外者でまったく内情に関与していないことを認めることになり、ヒカルはただ曖昧に微笑むだけしかできなかった。

ルイが今日、この場所に何をしにやって来たのか、目的は明白であった。

桃を愛でるためではない。ヒカルとは違う明確な目的があり、それは達成されたのだと改めて思った。

 

「ヒカル・クロス嬢を送り届けなければいけませんので」

この後、ごく限られた者で夜会を開催するという話に、ルイは丁重に断りを入れた。

「彼女には門限が厳しく設定されていますし、彼女への付き添いが本日の役割です」

彼はそう言い切った。

彼は更に引き止めようとする主催者への言葉に、さらに重ねて固辞の意を表した。

聞く者によってはわかることだろう。

建前としては彼女の送迎を自分が請け負っているのでこれ以上は居たくても居られないのだという表現に聞こえるし、またある者が聞けばヒカルを理由にしてここから退出したいのだという宣言にも聞こえる。惜しまれる声が方々から漏れる。彼はそれも計算の上で、極上の笑みで彼らに返した。

「次の機会には必ず」

それでどれだけの者が期待に胸を膨らませるのか、彼は知っている。けれどもそれを人の心を操る術として使うのではなく、彼が、彼の家の当主のように隔絶した世界を生きるということではないのだという断りであった。

 

そして、彼は微笑んだ。

決してあたたかくはない微笑みであったが、溜息が出るほどに美しかった。

「彼女は、アルディ家の意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の華ですから」

それは日本の神のことであった。

この国も者とは文化が違うので、知らない者がほとんどである。

だから、それはヒカルに告げたのだろうと思った。

意富加牟豆美命とは桃のことだ。

あらゆる生が、苦しみに落ちて悲しみ悩む時に助けを施す者のことである。その神の娘というのは、あらゆる魔を祓うだけではなく、彼女が常に贖罪の娘と呼ばれることにも繋がるのだろうと思われた。

その実は、邪気を祓うのではなく、その仙果に叢がるためであるという節もある。

すべての邪な感情がそこに集う。ヒカルもそうなのだと彼が揶揄しているのだ。

事情を知らない者が聞けばそれは称賛に聞こえるかもしれないが。当の本人であるヒカル・クロスには、それが贖罪の娘なのだと皆の前で言われているに等しかった。

そして彼は桃の果実ではなく、ヒカルのことを華と呼んだ。散るだけの存在。退魔の役割を十分に満たさない存在。ヒカルのことを、そのように呼ぶ。

ヒカルはただ、黙っていた。こうして面と向かって皆の前で罵倒されるほどの彼の憤りを感じ、自分はそれに反論するほどの努力を何もしていなかったことに気付かされる。

 

アルディ家は親日で有名であった。だからなのだろう。

非常な親日家として知られている当主の息子であるルイもまた然りなのだと、よく意味もわからないようであったが、主催者は感慨深げに頷いた。

「本日の勝者は貴方ですから」

ヒカルはその言葉に、顔を上げた。勝者・・・どういう意味なのだろう。彼女はほとんど館の中にいなかったので、何かの催しのことを言っているのだろうかと思ったが、彼女の不思議そうな様子に誰も答えることはなかった。

その代わり、ヒカル・クロスには手土産として、枝に咲いたままの桃の花が贈呈された。それはルイに捧げられるものなのだろうが、同伴の女性に対するものとして順が送られたのだ。

「星辰の子から、桃の花の精への贈り物です」

 

そう言われて受け取らないわけにはいかなかった。

腕に乗せられた桃の華の可憐な様子に、ヒカルは思いもかけない手土産に驚いてしまう。

ルイからの贈り物と聞いて、更に動揺した。

ヒカルとルイの間で、贈答のやり取りは交わされない。

ヒカルは毎朝の薔薇を彼に届けさせているけれども、ルイからはヒカルに寄越したものはなかった。

それで良いのだと思っていた。

贈り物に対する返礼を期待してはいけないのだと思っていたし、一方通行でも構わないのでも気持ちを捧げることができればそれで良いのだと言い聞かせていた。

シャルルとヒカルとの間に流れる家族に近いのに家族ではない感情と、ルイとヒカルに流れるそれは明らかに違っていた。

 

ルイはつまらなさそうにそれを見ていたが、すぐにヒカルの肩を抱き、周囲に挨拶をしながらも車に彼女を押し込んだ。傍から見ればそれは優雅な誘いであったが。彼女の肩に乗せるルイの手の平の力は強く、ヒカルは何も言えずにただ会釈だけして車に放り込まれてしまった。

蒸発を防止するために巻かれた包装紙の音だけが大きく響く。

彼はすぐにヒカルの反対側の扉から乗り込んで来たので、ヒカルは身を固くして彼を迎えた。傾いた姿勢を正し、背筋を伸ばす。こういう時には、慌てた様子を見せてはいけない。それは彼女が長年のあの家での生活で学んだことであった。

 

■17

 

「予定の時間を10分も遅れた」

彼は腕時計を見て、小さく舌打ちした。

ルイ・モネのMagistralisであった。

それほど目立たないのに、彼の出で立ちのすべてが、シャルルではなくミシェルが用意したものだとすぐにわかるほどであった。いや、ひょっとすると、ルイが自分で指定したものなのかもしれない。

彼らは叔父と甥の関係であったが、非常によく似ていた。

シャルルとルイとの間の時間より、ミシェルとルイとの間の時間の方がずっと長かった。だからなのかもしれない。

ルイは時間に几帳面で、予定された計画が変更されることは好まない。

僅かな時間の、僅かな人数の会合であるのに、この周到さはヒカルには及ばないことであった。

帰りの際になってそんなことを考えるヒカルの視線に気がついたのだろうか。

車が出発すると、ルイはまた抑揚もなく、前を向いたまま言った。

 

「オレの予定を乱すくらいなら、最初から来なければ良かったのに」

彼は他人に対して、そのような発言はしない。それなのに、ヒカルにはそう言う。それだけ、憤慨が遣る瀬無い極限までに到達しているのだと思った。

彼女は鳩尾の部分で揺れる桃の花を抱きしめた。

乾いた音がする。

ヒカルの心の中の様子そのものであった。

 

ヒカルとルイの間には、長い時間は存在するが、彼はヒカルを家族と認めることはなかった。

 

そして。

彼は、かなり怒っている。

 

彼女はシャルルもルイにも認められることはない。優しく接してくれているかどうかの違いだ。その優しさも、ヒカルにとって心地好いかどうかの違いだけで・・・彼女はアルディ家の者ではなく、単なる客人で何もできないのだと思い知らされるだけであった。

彼の手首に光る時計ひとつとっても、ヒカルは感想を述べることができる程の余裕を持ち合わせていない。それだけはわかった。

だからヒカルは素直に言った。それ以外には言えなかった。

「ごめんなさい。桃の華に酔った」

車は静かに走り始め、訪れていた館を背にしてどんどん小さくなる様を感じながらも、ヒカルは桃の匂いに目を瞬かせる。

 

噎せ返るような強い芳香ではなかったが、狭い車内では十分に存在感を強く表すと思った。

魔を寄せ付けないとされる桃の花の効力に、ヒカルは目を閉じる。

魔とされる邪な存在は自分自身なのだろうと思った。少なくとも、ルイにはそうなのだ。シャルルとの不仲も、アルディ家で継嗣と認められない勢力が存在するのも・・・ヒカル・クロスが存在するからなのだという、整合性すら成立しない主張にルイが立ち向かっているのも、ヒカルがあの家で暮らしているからなのだ。

しかし、それは彼はヒカルに責め立てることはなかった。

会話そのものが成立しないからだ。

ルイは彼女に話しかけることはない。

ヒカルは常に、彼に話しかけているが、それは彼には黙殺され続けている。

それでも、諦めたくなかった。

諦めたら、そこで終わりだ。

そう思っているから。

 

「すまないと思うのであれば、謬るな」

彼は仏頂面でそう言った。彼の横顔は、シャルルにとてもよく似ている。

彼の息子だからという理由だけではなく・・・アルディ家の者は誇り高く、そして予定外の出来事に対処できても容赦はしない点が、似ているのだ。

それを目の当たりにして、ヒカルはただ臆するだけである。

 

「あの・・・」

ヒカルは恐る恐る尋ねた。

送り出された時の言葉に疑問を残したままであったからだ。

手元にある桃の花は、ルイが用意してくれたものなのだろうか。

そして勝利者と言っていた理由と経緯がまるでわからなかった。

何か、余興があったのだろうか。

「ルイの言う通りだった。何かの役に立てるかと思っていた。私でも」

シャルルには娘がいない。数多の血族の中で女性は大勢いるが、彼はヒカルを指名したのだ。だから、自分がそれだけで有頂天になっていたことを改めて認めざるを得ない。

彼は索然と言った。

「根拠のない自信は身を滅ぼす以上に周囲も灼くぞ」

その意味がわからないヒカルではなかった。自分がかけた迷惑が、ルイにまで及び、ひいてはアルディ家の評判を落とすことになるのだから、と彼は言うのだ。忠告ではなく、淡々と事実を述べていた。

彼は、最初に彼女に忠告していたと言うのに。ヒカルは、それに耳を傾けたのに、その先に進まなかった。何をどうすれば良いのかわからず、ただ、あの場所から逃げ出したのだ。責められて当然であった。彼女は俯いた。

■18

 

ヒカル・クロスは、ルイにひとつだけ質問した。

「何か、催しものがあったの?」

「根拠は?」

冷たい口調でルイが言った。ヒカルは彼がまったく無視を決めているわけではないのだと知り、少し安堵で表情を和らげた。ルイと一緒に居るといつも緊張する。ミシェルが隣でも同じであった。シャルルととても似ているのに、ルイはいつも張り詰めているように思えて、こちらが畏縮してしまう。

他の人の前ではそうではないのだろうと思うと、余計に哀しくなる。

自分に優しくして欲しいと思う権利はないのだと思うし、ルイがヒカル秘優しくする義務もない。けれども、同じ時間を過ごす者同士、少し話ができれば良いのにとつい期待してしまう。それが驕りという名前であることも、ルイに指摘されたばかりであるのにまた考えてしまうのだ。

「これを渡された時に、そうなのかなと思うような声掛けがあったから」

勝者はルイだ、と言っていた。そして可憐であるのに鮮やかな桃の花束を見つめる。

ヒカルは邸内にほとんど居なかったので、顛末がわからなかった。

幼い子女も多く訪れていたので、何か余興があったのだろうという程度にしか思っていなかった。

でも、会話の糸口が見つからない。

卑屈になるくらいなら、死を選ぶというくらいに高慢な気質の者が多いアルディ家である。

ルイに何かを聞く時には、特に慎重にならざるを得なかった。

 

ルイが何も言わずに窓の外を眺めている。聞こえなかったわけはない。根拠を述べたつもりであったが、間違っていたのだろうか。ヒカルは眉を寄せて、また桃の花を見つめた。

「勝者は貴方です、と言っていた。何に勝ったの?」

「役割を放棄した者に言う必要はないよ」

ルイが素っ気なく言った。

ヒカルはそう言われてしまうと、それ以上尋ねることができなくなり、また黙り込んでしまう。

彼が望んでいるのは沈黙だ。

わかっていることであったが、それでも心の洞に寒風が吹きぬけるようであった。

 

わかっている。ヒカルは、ルイ・ドゥ・アルディにはなれない。

アルディ家のこどもにはなれない。

何をしてもうまくいかない。

けれども、それはルイのせいではないことも承知している。

 

ヒカルは絞り出すように、けれども努めて朗らかに言った。

「ルイ、おめでとう」

彼が勝利したのであれば、真っ先に祝辞を述べるのは、ヒカルがやるべきことであった。それすら怠ってしまったのなら、自分は本当にあの家にいてはいけない存在になってしまう。

打算からの言葉であると認めていたものの、それでも、彼におめでとうと言いたかった。

理由をつけて、彼に褒めて貰いたいのは自分のほうなのだ、と思った。

彼は返事をしない。

ヒカルはそれでも、もう少しだけ、と思いながら話を続けた。

「この桃の花はとても素晴らしいわね。明日の朝は、薔薇ではなく桃の花にしても良いのかもしれない」

これから戻ってすぐに処置してやれば、これらの花は明日の朝まで良好な状態を保持できる。

自分の中に溜まり込む良からぬ静寂を振り払おうとして、彼女は声を出す。

「・・・とても素敵ね」

勝者への手土産にしては、とても女性的な包みであった。

最初から用意されていたようだ。

つまり、この催しは、突然誰かが提案したり、その場の雰囲気で行き着いた余興ではないのだということがわかる。

ルイは彼女に逐一状況を報告するようなことはしない。

しかし、ルイが何かを賭けたことは間違いなさそうであった。

彼の手土産は何もなかった。

これが、勝利の証なのだろう。

ルイは平然としているけれども、ヒカルは気になり始めた。

 

■19

 

すると、しばらくして、ルイがぽつりと言った。

外を眺めたままであった。                                                                

長い脚を組み、背凭れに寄りかかりながら、彼はヒカルの方を見ないで言った。

「・・・桃の精霊を捕まえた者は勝者と言われる」

「え?」

彼はヒカルの話をまったく聞いていないようであったが、彼女の質問に回答したのでヒカルは茶色の瞳を大きく見開いた。

 

「桃の精霊を見つけると、祝福を受けることになっている」

彼は普段繰り返すことはしない。

それなのに、敢えて繰り返す彼の言葉の意味を読み取ろうと、ヒカルは茶色の瞳を大きく見開いた。

眉を大きく持ち上げたので、くせの強い髪がぎゅっと彼女の顳顬を引き締める。

 

桃の精霊、と聞いて、ヒカルは少し考え込んだ。

具体的には、どのような余興だったのだろうか。

まったく気がつかなかった。

しかし、会場の中ではそのような催しの説明はなかったし、事前に通知もなかった。あの場所にはフランスで屈指の家柄の子女が多く出入りするので、外から誰かを招くというのも考えがたい。それに、そんな痕跡はなかった。

「鬼ごっこのようなもの?」

確かに、幼女も多くいたので、飽きさせないための余興であるのだとしたら。ルイは、それさえ手加減しなかったということなのか。

すると、彼はヒカルの思考を読んだように、一瞬、嫌そうな顔をしてみせた。

「遠からずだが、競うものではない」

彼の謎かけに近いような返答に、ヒカルはますます困惑してしまう。

ルイは少し苛立たしげに溜息を漏らした。

そして、シャルルによく似た顔をヒカルに向けると、ルイは強い口調で言った。

彼は青灰色の双眸を苛立たしげに彼女に向けている。

「同伴者を見つけて探すのが、あの場所での余興。桃の精霊というのは、観桃の行事に衣装を合わせた者のことだ」

ヒカルがまだ把握できずに首を傾けているので、ルイはとうとう憤懣を隠そうともしないで軽く舌打ちをし、説明を始めた。

「魔を祓うという桃の化身に見立てて、相手を探す。

桃の実が、姿が見えずとも芳香で人を呼び寄せたという故事からきている。

春遊踏青とあるように、漫ろ歩くこともあるが、それは省略されている。

だから室内で見つからないように、参加者は他の者と着衣を交換し、顔を見られないように俯いて階上の探索者を誤魔化す。

勝者は各々1名。最初に見つけた者、最後まで隠れ続けた者だ。

・・・魔から逃れるために、衣を被って難を遣り過ごしたという伝説を元に、女性は容易に返事をしてはいけないという決まり事がある、

これに選ばれるとその年は健康で過ごせるという言い習わしがある」

いつも言葉の少ない彼が、細かく説明をするので、ヒカルは彼の美貌を見つめながら言った。

「それで、ルイが勝者なの?最初に・・・その・・私を、見つけたの?」

 

ヒカルはその話から納得していた。

なぜ、自分が桃の花と同色の服を用意されたのか。そして、全身を覆うような着衣をあてがわれたのか。

・・・桃の節句のために、特別に用意されたという理由だけではない。

シャルルは、このことを知っていたのだろう。

彼女は唇を震わせた。

フードのついた大判の、寒さを凌ぐ衣類。確かに、他の者が羽織れば体型も髪の色もわからない。

ルイが「分不相応だ」と言った理由が、ようやくわかった。

ルイに追われる身分にヒカルは釣り合わないということなのだろう。

 

「相手の潜んでいそうな場所を指定できる。複数箇所指定すれば配点は下がる。外したら減点される。総合得点制というわけだ」

彼は薄い上品な口元を歪ませて、ヒカルに説明してやる。

説明は、ルイ・ドゥ・アルディが最も行わない行為のひとつであった。

彼を理解できないのであれば、それまでであった。最も、理解できるものは数少なかったが。彼を理解してもらうために彼が説明をするというのは愚の骨頂であるとルイ・ドゥ・アルディは考えているから。

ヒカルはそれで納得した。

彼が勝者とされたのは、最初にヒカルを見つけたからではなく、彼女がどの場所にいるのか、わかっていたからだ。

見られていた、と思うとヒカルの頬が熱くなってくる。

自分のあの心の動きを、ルイは遠目であったとしても、察知していたことだろう。

何を思い、何を憂え、何を歎いていたのか・・・全部わかっていたというのか。

「私、少しも気がつかなかった・・」

「当然だろう。すぐに外に出てしまったのだから」

面白くなさそうに、金髪の星辰の子は呟き、腕を組み直す。

 

彼は、彼女がどこにいるのか、どう行動しているのか、すべて承知していたということなのか。これが逆であれば、ヒカルには到底つとまらない。

彼女なら、どのように行動するのか。ヒカルなら・・・どこに逃げるのか。

ルイなら、わかっているのだ。ヒカルの思考も、ヒカルの物思いも、すべて知っている。

 

■20

 

よく知る路に入ってきた。

全身が緊張していたが、見える景色ひとつで、解きほぐされてくるような気がする。

ヒカルは嬰がれたままであった。

涙を流すのは、ルイ・ドゥ・アルディの前ではしてはいけないことだと思った。少なくとも、自分のことを憐れんで涙することは、彼の前ではやってはいけないことなのだと認識している。

 

彼女は、望んでここにいるのだ。

ルイが何を希望して、何を拒絶して生きてきたのか、ヒカルは全部を知ることがない。

皆に、情報を制限されているのだと思う一方で、自分は囲われた情報という檻の中で安穏としているのだと感じる。

それを打破しようと思うのではなく、なぜ、自分はこの場所であってはならない存在なのだということを感じる。

 

彼はずっと外を見つめて、こちらに顔を向けようとしていない。

ヒカルはルイの表情が見えなくて、不安になる。自分のことについてはまったく興味を示さないルイが、いくら遊興だとはいえども、ヒカルのことを探し出すとは思えなかったのだ。

彼はどこまでも冷淡で、どこまでもヒカルと交わらない存在であるのだといつも思っていた。

しかし、ヒカルのことを目の端に入れておいてくれたと知るだけで、ヒカルはそれだけで胸が詰まって言葉が出てこない。

彼女と彼には、きょうだいがいない。

シャルルはルイにヒカルを紹介したときに「妹として遇するように」と言ったが、ルイは少しも彼女のことを家族と認めていない。冷たい拒絶を続けているルイをヒカルのことを、彼はいつも愚かしい娘だと言う。その通りだ。鈍くて愚かにならなければ、彼女は生きていけない。

 

「それなら、これはルイの勝利の花ね」

優しい輪郭の花片を詰め込んだ束を眺めながらヒカルは言う。

「オレがヒカルを追いかけるのは、これが最初で最後だ」

彼は低い声で言った。

 

間もなく、アルディ家に到着する。そうすれば彼はまた別棟に籠もるかミシェルの用意する場所に身を隠してしまうだろう。彼はどこからでもアクセスできる通信網を確保しており、功績が認められて様々な研究機関から招かれていると聞く。その若さで、既に自分の存在を示し続けているルイ・ドゥ・アルディのことを、皆が星辰の子と呼んで尊崇の眼差しを向ける。しかし、ルイがそれを聞いて満足することはないのだ、と思った。

彼は常に完璧で、完璧であることに慢心していない。更に次の完璧に向かっている。

ヒカルとは正反対だ、と思った。今を生きることに精一杯で、少しも周囲が見えていなかった彼女のことを、彼はもっと蔑んでも仕方の無い状況だと言える。でも、ルイは何も言わない。

 

「最初で最後」

その宣言が覆されることはないのだろうな、と思った。

「そうだ」

彼は平坦な口調で言った。もう、そのことには興味がないという風情だ。

「それなら」

ヒカルは俯きながら、言う。

「それなら・・・私がルイを追いかけるね」

それを聞くとルイの青灰色の瞳がこちらを向いた。先ほどまでずっと外を向いていた彼が、こちらに視線を向けたので、ヒカルはどきり、と胸を音鳴らせて茶の目を見開いた。

彼の目元は少し朱いような気がするが、それは桃の花の反射なのか、車内の光の加減なのか判別できなかった。

しかし、彼は明らかに、ヒカルの今の言葉に何かを思ってこちらに興味を向けたのだ。彼女の何が、彼を動かしたのかわからない。ヒカルは慌てる。こういうやり取り・・・特に、ルイとの会話が往復することはほとんどなかったので、次に何を話して良いのか、頭の中が白くなって声にならなかった。

どうやって言葉を出していたのだろうかと考えてしまう。自分の些細な言葉が彼の誇りを傷つけてしまったのだろうか、と思うと、ヒカルは狼狽えて視線を彷徨わせた。

「もう一度」

彼は確かに聞こえていたはずなのに、彼女に向かって繰り返すことを命じた。

「え?」

「もう一度、言え」

命令しているのに、懇願に聞こえる。自分は、それほど大それたことを言ってしまったのかと思うとヒカルの額には汗が浮かぶ。まだ肌寒い季節だというのに。

「あの、私・・・」

「言えよ」

ルイが彼女の方に向かって体を傾ける。息を呑むほど美しい彼の顔が近付いて来て、ヒカルは背を反らした。これほど近くに寄ることはなく、ただ、気圧されてしまう。

「・・・私が・・・ルイを追いかける・・・」

同じ様に繰り返すことはできなかった。常に冷涼としている物静かな貴公子が、瞳の縁を赤くして、ヒカルににじり寄っているのだ。ルイは本当はとても激しい人間だ。アルディ家の者は、同じだ。けれども、ルイは遺伝子操作されて生まれて来たこととは別に、彼の魂はアルディ家そのものだと思う程に純粋培養されて育っている。誇り高く、孤独であったとしても欲しいものは必ず手に入れる。そういう気性の激しさが見え隠れする。それを隠し通すことが、成長することなのだとシャルルや教育係のミシェルから言われているようであったが、ルイは時々・・・こうしてヒカルに怒りをぶつける。怒りというより、溜め込んでいた激しい感情の吹き出し口がヒカルに向かっているのだと思われた。

 

 

 

■21

 

彼はそれを聞くと、ヒカルに手を伸ばそうとした。細く長い、神経質そうな指先が彼女に伸びてくる。

その時に見せたルイの表情に、ヒカルは驚いて身を固くした。

なぜ、怖がっていたのだろうかと思ってしまう程に、そこには恐ろしさや冷たさは全く存在しなかった。

彼の整った顔の眉は寄せられ、唇は何かを堪えるように強く結ばれているが、それすら堪えられないように薄い唇を震わせながら少し開き、浅い呼吸を繰り返している。

初めて見る顔だった。

伶俐で、何事にも動じないルイの顔が苦悶に満ちている。

 

・・・頼りなく儚げで、そして何かを強く求めているルイの様子に、ヒカルは声を失う。

 

ルイの物憂げな綺麗な両眼が、ヒカルに向かっている。見事な黄金の髪の下にある美貌は、シャルルの若いころにとてもよく似ている。金の髪でなければ、そのものと言っても差し支えないほどに。

 

「ヒカル」

 

触れるか、触れないか。

彼の温度がヒカルと混じりそうになった瞬間。

彼女は呼吸を止めた。

目を閉じて構える事もできない。

彼の整った美しさの中に潜む、ヒカルが言葉にすることができない焔のようなものがヒカルの纏っている空気を焼く。

彼はすべてを遵える者であるのに、手をのばす。いいや、彼が手をのばせば・・・ヒカルは抗うことができないのではないのかと思ってしまう。

 

そんな瞬間に、車が止まったので、彼は我に返ったようですぐに腕を引いた。

アルディ家の用意する自家用車の停車にはそれほど震動を感じることはなかったが、今回ばかりは・・・慣れた車であるのに、それが大きく傾いだように感じる。

ヒカルは持っていた花束を取り落としそうになり、慌てて体制を整えた。

桃の花は、彼女の膝の上で傾斜に堪えていた。ヒカルは安堵の吐息を洩らし、そしてルイに視線を戻すが、その時には既に彼はいつものルイ・ドゥ・アルディであった。

正面を見て、何かをにらみ返すようにじっと何かを考えている。長い睫が頬の上に影を作り、彼が神から愛されて地上に降りてきた天使のように感じた。

少年から青年になろうとしている彼の横顔には、固い決心が甦っている。

彼は、この家の当主になるために、日々研鑽を積んでいる。シャルルを越えて、この家を奪うために。彼が奪われてきたものを全部、取り戻すために。

 

ヒカルにはそれが良いことなのかどうなのか、わからない。

ルイが生きる目標を持っていることを喜ぶべきなのに、彼の行く方向が取り返しのつかない路ではないのかと思ってしまう。

しかし、それはヒカルの思うところであり、彼の選択はまったく違っている。

それを咎めることができない。咎めることは、できないのだ。

 

「・・・オレが、怖いか」

彼は小さな声でそう言った。シャルルとよく似た顔立ちの少年は俯いたままで言った。

ヒカルは慌てて首を横に振った。

「怖くない。怖くなんか、ない」

なぜ、彼がそんなことを言い出すのか、ヒカルには全く理解できなかった。

彼が恐ろしいと思ったことはない。ただ、彼に触れてはいけない気がするから、彼に近寄れないのだ。でも、彼はこの屋敷の中で、年齢も近い。

彼女には家に招くような友達はいない。

アルディ家が借宿であることをヒカルは忘れたことはなかった。

学友を呼べと言われたけれども、必要ないと言い続けた。

東洋人の彼女が、フランスでも屈指の名門の家に住み、そして贅沢を浴びるように暮らしていると言われて困るのはヒカルではなくシャルルやルイなのだから。

だから、年頃の少女が好むことをヒカルはいつも放棄している。

その彼女が、催し事に招かれてひとり心細い思いをしていたのに、ルイが付き添ってくれた。それは彼にとっては本意ではないことかもしれないけれども、ヒカルはルイがいてくれるだけで安心できた。

ヒカルは茶色の瞳で、彼を見上げた。車内に座って居るのに、彼の視線はヒカルとそれほど変わらない。足が長く、骨格がヒカルと異なっているからだ。顔が小さく、そして整っている。この国の誇るべき人物のひとりであることは間違いのない事実であった。

そして、彼はそれを自覚している。それでいながら慢心せずにひたすら努力している。それを人に見せていないだけだ。彼は、常に心を配っている。

どう在るべきなのかいつも考えている。

その彼に恐ろしいかと言われて、ヒカルは締め付けられるような全身の痛みを感じる。

異質な存在なのは、ヒカルの方だ。彼女の方こそ、忌み嫌われても仕方が無い存在なのに、ルイはヒカルに自分が怖いのかと訊く。いつまでも変わらないでいられるとは思わない。

彼女もいつかは・・・ここを出て行くことになるだろう。でも、いましばし、この家に居たい。桃の花がそう思わせるのだろうか。魔を祓う役割なのに、邪な願いは祓ってくれないのか。

退魔の効果があるといわれている桃の花を前に、ヒカルは胸が詰まった。彼にそう言わせているのは自分なのだ、とわかっていたから。

■22

 

普段は決して停車の揺れなどは気にすることはなかったのに。

ヒカル・クロスは、話の途中で到着してしまったことを残念に思ってしまう。

シャルルに用意してもらった桃華の衣装は彼女の肌を淡く美しく見せているのに、彼女の顔は浮き立つ表情で満ちることはなかった。

ルイと一緒にいると、なぜか、苦しくなる。

惨めになるのではなく、ただ、もの悲しくなるのはなぜなのだろう。

彼に感じるのは確信ではなく、いつも「そうなのかもしれない」という疑問ばかりであった。しかし、ルイはいつもヒカルに対して確信しか持っていないようである。

この違いは何なのか。何なのであろうか。

それを考える余裕をルイは与えてくれない。

彼はいつも拒絶しているが、今日は少し、何かが違う。

そう思ったのに・・・もう、この空間は終わってしまう。

ドアが開き、それがヒカル・クロスの側から開かれたので、ルイはこのまま降車せずに別の場所に行ってしまうことを知った。彼女を送り届ける義務は果たすが、車から降りて彼女の手を取りアルディ家の屋敷の中まで出て行くつもりはないということのようだ。決して彼女を尊崇しているわけでもなく、誰かが見ていなければ・・・彼は彼女を出先のように紳士然として取り扱うことはないのだと知って、ヒカルはまた言葉を失ってしまう。

ヒカルはわかっていた。彼に、優しくされたいのだ。

だから、自分は惑っている。

そんなヒカルに対して、ルイは同調することはない。

憐れむこともない。

彼は、ヒカルのような生き方をしない。

だから。

ルイはいつもヒカルに冷然としている。

 

扉を開くと車内の暖房が風になっていく。ヒカルの頬に冷気が入り込んで、そして風と一緒に手元の華の匂いや生気が奪われていくような気がした。

「行け」

彼は言った。

華の精霊が、ヒカルにそう告げているのかもしれないと思ってしまう。

「あの・・・」

ヒカルはやはり声にならない。このまま、彼をどこかに行かせてしまうのが、いけないことのように思えた。いいや、違う。

ルイを行かせたくないのだ。

自分が引き留めようとするのなら、彼は逃げてしまう。

ヒカルは自分の中にある問答に目を向ける余裕はなかった。

ルイが顎を上げてヒカルに消えろと無言で指示している。

彼女は遵うしかなかった。

彼は、星辰の子だ。誰も彼に逆らえない。

 

ヒカルは、自分の非力さを悔やんだ。ルイといつか距離を近くすることができると思っていた。

だから、今日の出来事はとても嬉しかった。

それが正直な気持ちであった。

彼は、いくらそれが周囲への目があってのことだという理由からでもヒカルを丁寧に扱った。

それから・・彼は、ヒカルを真っ先に見つけた。

会場から逃げ出して、自分の世界に閉じこもっていたのに、彼はそれを責めることもせずにいてくれた。

 

ヒカルはアルディ家の者ではない。

それを寂しく思うのに、そうではない振る舞いをした時に、それを理由にしてしまっていた。だから、ルイは何も言わない。

・・・忠告するのは、相手がそれを聞き入れるからであり、そのことによって忠告した本人に応えることが聞き入れた証拠になる。

けれども、ヒカルにはそれは求められなかった。

 

・・・ルイに期待されていないと感じると、途端に萎れてしまう自分自身が何とも脆弱すぎて、心が砕け散ってしまいそうになってしまう。

 

自分がそれほどまでに失望するのは、彼に期待しているからだ。

彼女を理解してくれていると思いたかった。自分では、何も努力していないのに。

だから、彼女は降車を促されて酷く狼狽しているのだ。ひとりで行けと言われているから。

「あの、ルイは・・・?降りないの?」

わかりきっていることなのに、言ってしまう。

「立ち寄り先がある」

彼は既に前を向いていた。

ヒカルが体を捻り脚を外に向けた時にかえられた言葉は既に冷たく素っ気ない。

いつもの彼の声であった。

「戻ってくる・・・?」

「ここはオレの戻ってくるところではない」

彼の言葉に、彼のすべてが含まれていると思われた。

まだ年若い彼が、そう言い切ってしまえるだけの絶望を、彼女が与えているのだと思うと戻って来て欲しいとそれ以上言えなくなってしまった。

彼女は途切れがちに言う。

「待っているから。ルイを、待っているから」

■23

 

降車するのではなかった、と思った。

ルイ・ドゥ・アルディがどれほどいやな顔をしても、彼が外に出てヒカルの手を取り、降車を促すまで動かないでいれば良かった、と思った。

そうしなければ、彼は行ってしまう。

彼が唯一逆らえないのが、アルディ家の命令だけだ。

しかも、当主からの直々の命令のみが、彼を支配する。彼はすべてを遵える子という名前を持っているのに、たったひとりだけ、彼が従属させることができない人物がいる。それがシャルル・ドゥ・アルディだ。

父として越えられないということではなく、彼がアルディ家の頂点に君臨するからルイは敢えて抗おうとしているのだ、と主張し続けているのだろうと思われた。もっと深いところで、彼らはヒカルの目に見えない速度で闘い続けているが、それを決してやめることはしないし、諦めることなどはまったく考えていないようだった。

 

ヒカルは哀しい顔をした。本当に哀しかった。

・・・彼が外出をして気を紛らわせる姿をヒカルは見ることはないのだと思った。

なぜなら、ヒカルがルイといればルイは決して安らぐことはないのだとわかっているから。

何度も、何度も、それを実感するような場面に遭遇した。

だからヒカルは声を限りに言った。それが正しいことなのかどうなのかはわからない。

でも、言った。

 

「ルイ。ルイの場所は、ここだから・・・。

ないと言うのであれば、ここに作ろう。ルイの場所を、作ろう」

ヒカルの声は聞こえていたのかどうなのか、わからなかった。

ルイはただ前を向いて、彼女の降車を確認すると、どこか別の場所を運転手に指示しだした。

どこを指定しているのか、彼女には聞こえなかった。けれども、運転手が聞き返すこともなかったところを見ると、来訪履歴が残っている場所なのだろう。

・・・どこが、彼の帰る場所なのだろう。

ヒカルの見送りをしないままに発車させようとしているルイに、

ヒカルは反射的に腕を動かした。

彼が急にこちらを向いて、ヒカルに投げて寄越したものがあるからだ。

「ヒカル」

彼が、ヒカルに向かって桃の花束を投げて寄越したので、彼女は腕を開き、自分と上着と同じ色をした塊を受け取るために下を向いた僅かな瞬間。

・・・ルイは既に扉を閉めろと命じ終わっていた。

彼女の目の前で、申し訳なさそうに目礼をした運転手が扉を閉めた。

この家では、ヒカル・クロスとルイの命令権には優劣があり、順序が存在する。

ヒカルはこの家ではあくまでも滞在者でしかないし、ルイはシャルル・ドゥ・アルディの唯一の息子なのだ。

シャルルとミシェルの父、つまりルイの祖父は多くの弟と妹を持っており、更に彼らの子がアルディ家の頂上を狙っていたり、影響が強い者も多く存在することはヒカルも知るところであった。

その中で最もアルディ家の当主に相応しいとされておりながら、まだ後継者として認められていないものの、ルイは間違いなくアルディ家の御曹司であり、星辰の子と言われて社交界で熱烈な信奉者の多い存在であった。

その彼が帰るところはここではないのだ、と言う。将来、ここが彼の拠点となることはかなりの確率で実現すると言うのに。

彼は、それでもこの場所は違うと言う。

それなら・・・彼はここを帰る場所にすれば良いのに、と思った。それはまったく自分の独りよがりな願いそのものであったけれども。

いつまでも、このままで居られないことはわかっていた。

しかし、どうしても彼には戻って来て欲しかった。

・・・きっと、自分がここを去ったら彼はもう少し長い時間、この館に居ることを選んだかもしれない。

しかし、シャルルとの溝が埋まっていない。ある日突然、和解するというのは考えられないことであった。

それに、教育係のミシェルとの方が、彼は過ごす時間が長かった。本当の父子であるシャルルとルイの時間は、数えるほどの瞬間しか存在しない。

「ルイ!」

ヒカルは車に近寄った。よく磨き込まれた車体の中で、ルイが腕を組んで、綺麗な指先をこちらに見せていた。

彼は、完璧だ。

改めてそう思った。こういう仕草ひとつとっても、芸術品のように滑らかで厳かだ。

けれども、どこか虚無を抱えている彼の横顔を見て、ヒカルは腕の中の桃の花束とともに、彼に駆け寄る。

危ない、と運転手がウインドウを開けて、離れるように声をかけたが、ヒカルはそれでも彼に向かって顔を屈めた。

「このお花、飾っておくわね。萎れたら、かわいそうだから。ルイに見て欲しくて咲いている花だから、きっと帰ってきて」

しかし、彼からの返事はなかった。

彼女が車から離れると、すぐに去って行ってしまった。

見えなくなるまで彼女が佇んでいると、寒風がルイを追いかけるかのように、急にヒカルの足元を駆け抜けて行ったので、彼女は体を竦めた。

その時に、手持ちの花束から僅かに桃の甘い芳香が漂ってきて、ヒカルはようやく自分の胸元に視線を向ける。

 

■24

 

そこにあるのはルイの為に贈られた桃の花であった。退魔の効果があると言われている。それをヒカルに投げつけたルイは、ヒカルに去れと言っているのかもしれない、と思った。ヒカルは胸にそれを埋めるように押し当てた。そうすれば、彼の心が少しはわかるようになるのかもしれないという呪いめいた仕草出会ったが、ヒカルは意識していない。

祈りながら何かをするというのは、そのものに自分の願望が表れるものなのだと聞いたことがあった。言葉もそうだ。自分の発した言葉には責任を持たなければならない。そうシャルルに教えられて、ヒカルは言葉を選ぶようになった。計算するのではない。人に告げる言葉というものがいかに重たいものであるのかを、常日頃忘れないようにして生きる、という意味だ。

それでも、ルイに捧げる言葉というものは、いつも突発的で、うまく説明できないことが多かった。なぜなのだろうか、と思う。かけがえのない大事な存在であることには変わらないのに、彼の前では、言葉を出すことに躊躇いを感じている。

それは、自分が彼の心がわからないからなのだ、と改めて思った。

彼がここまで一緒に来てくれたこと感謝することを後回しにして、彼女はルイが素気なく彼女を取り扱ったと歎いている。自分はいつから、そんな風にして贅沢に慣れてしまったのだろうか、と思った。

 

せっかく、シャルルが用意してくれた豪奢な衣装もヒカルの心を慰めることはなかった。防寒を考慮してあるとはいえ、寒空の下で立ち尽くしていれば足元から冷え上がるものを意識しないではいられなかった。

このままでは、花が本当に萎れてしまう、と思った。寒さに強い種であることは知っていたが、暖かい室内でどれほどの処置をすれば長く咲いていられるのだろうかと思った。切り束ねられたままで放置していれば、どちらにしてもすぐに花は命を終えてしまう。

いつ戻るかわからないルイのためには、できるだけ長持ちさせてやりたいと思った。

この花は、ルイに捧げられたものだ。ヒカルは、ただ預かっただけ。

気を取り直して、ヒカルは迎えに出迎えた者たちには自分で持ち運ぶから、と言ってそのまま花束を持って歩く。上着は部屋で脱げば良いからそのままにしておいて欲しいと頼む。

今、誰かに何かを預けたり託したりする気持ちになれなかった。

彼女はどこまで行っても、ルイとはわかり合えないのだろうか。

そう思った時。彼女は、自分の胸元にある桃の花束に視線を向ける。

焦げ茶色の枝に可憐な花を付けているそれらは、この時のために用意されたものであることを知らせていた。密集して花を咲かせているそれらは観賞用であり、こうして近くで眺めるように整えられた花だと思った。

それなら尚更、ルイが足を止めて見るに足りるほどの美しい花束を自分が持っていてはいけないと思ってしまう。

この家の者は薔薇を所縁の花として愛でる傾向が強いが、桃の花はそれにも劣らないほどに美しく透明感があり、そしてどこか希望を思わせる花であるのだ、と思う。

淡く愛々しい花であったが、その葉は落とされている。乾燥していない葉は青酸化合物を含むからだ。

ルイが片手で簡単に投げつけて寄越したが、ヒカルには両手で抱えなければ形を崩してしまうほどに重みがあった。それは、ルイとヒカルの違いなのだと思った。

彼は何事にも完璧であまり苦闘している様子を見せることはない。しかし、それは何事にも彼にとっては容易いことであるからではなく、苦悶している様を人に見せることを避けているからなのだとヒカルは知っている。

だから。

「余興だ」と彼は言ったけれども。

 

彼がヒカルを探すのは、簡単であったはずはない。彼に何も告げずに、彼女は外に出てしまったのだから。

彼女はあの場所にあって、自分の振る舞いについて承知していたのに、それでも逃げ出してしまった。

・・・自分が、異端者であることを思い知らされるばかりであったからだ。

どれほどシャルルがヒカルを大事に扱ってくれていても、彼が傍に居なくて、そして彼の行き届かない場所ではヒカルを見る眼差しはとても冷たいものしか存在しない。

彼がヒカルを探すのは、簡単であったはずはない。彼に何も告げずに、彼女は外に出てしまったのだから。

彼女はあの場所にあって、自分の振る舞いについて承知していたのに、それでも逃げ出してしまった。

・・・自分が、異端者であることを思い知らされるばかりであったからだ。

どれほどシャルルがヒカルを大事に扱ってくれていても。

彼が傍に居なくて、そして彼の行き届かない場所ではヒカルを見る眼差しはとても冷たいものしか存在しない。

他国籍の少女が、シャルル・ドゥ・アルディの威厳を利用して敬われているとすれば、周囲は気に入らないどころではないだろう。

口さがない者の言葉に耳を傾ける必要は無いのだ、とシャルルは言う。

けれども、ルイはそうではないと考えている。彼にはまったく意味の無いものであるかもしれないが、ルイの立場で出席しなければならない会合については、彼は時間を取るようにしているし、ヒカルの知らないところでは・・・彼が何かに出席するたびに彼の信奉者が増えるような状況であった。

ルイの目的はひとつしかない。アルディ家の当主になることだ。彼はそのために生まれて来た。

 

■25

 

胸の中で、乾燥した木肌で包まれた枝が桃の花を振り落とそうとする。もともとはひとつの木から生まれたものなのに、枝と花は各々にだけ与えられた役割を果たそうとしていた。

その様が、とても・・この家の者たちに重なるものが多かったので、ヒカルはますます、腕に力を入れる。

この花を、ルイが決して道端に捨てるようなことをしなかったことに感謝した。

そして、切なさで胸が押し潰されそうな重さと痛みを感じながらも、それでも桃の花に囁く。その声が、きっとルイに届くと信じながら。

そして。

彼女はもうひとつ、気がついていた。

その花束から、ひと枝、抜き取られていたことに。

ヒカルの目の前で車の扉が閉められる時に、ルイに少し間があったことを思い出した。

 

枝の数を知っていたわけではない。しかし、散乱しないように縛められた束が、僅かに緩いのだ。

彼女はしばし立ち止まり、そして無言になった。

それが、何を意味しているのか、理解しようとして桃の花を見続ける。

日本では、桃の節句として愛おしまれている花であった。

そして、もし、両親が生きているのであれば、きっとそうしたであろうというようなことをアルディ家の中で繰り返されて、そしてヒカルは自分の厄災を祓う者がもう存在しないのだと歎いてばかりいた。

けれども。

ルイは持ち帰らないで、それをヒカルに投げ寄越した。

でも、無視しているわけではない。疎んじているわけではない。

その代わりに・・・彼はひと枝だけ持ち帰った。

そして、彼の傍に置くことを許したのだろうか。それとも、許さないから、持ち帰ったのだろうか。

・・・どちらにしても、彼は帰ってくる。

そう思った。

帰る場所はここではない、と言い切った彼であったけれども。

もともと一束であった花を持ち帰ることについて、彼は意味の無いことだとしていないように感じる。なぜなら、アルディ家の花たちは、外に持ち出されることもなかったし、彼の行為のように、分配されることもなかったから。

この家の花は皆、分けることを許可されていない。それはアルディ家の者も同じであった。

一輪だけ持ち去ることを許されているのはヒカルだけであった。

最初の、最高の状態の薔薇をシャルルの元に摘んでいくことを許されているのは、アルディ家の中だけで、ヒカルだけだ。ルイにはそれは許可されていない。

同じ様に、この敷地に持ち込まれたものは、どんな花でも分配してはいけないとされていた。それなのに、彼は・・・花を分けてヒカルに投げた。それが知られれば、ルイは咎められることも、わかっていながら。

 

だから、これは彼からのメッセージなのだと思った。

決して、独りよがりではないと思う。いいや、そう思いたい。

 

「ルイ」

ヒカルは呟いた。魔を祓う花が、彼の心に張っている愁いという名前の膜を振り払ってくれるように、と祈った。

 

祈りは誰かのためにするものだよ、という声が聞こえる。

 

それは、シャルルでもなく、ミシェルでもなく・・・深く愛おしむような低い男性の声に聞こえた。ヒカルの願望かもしれないけれども。

それは、確かに・・・・彼女の節句を喜ぶ父の声であるように思えた。

 

ヒカルは顔を上げると、足速に温室に向かった。まずは、この花たちに栄養と水を遣り、刺激を取り除いてやらなければならない。

シャルルに教わった花の保存方法が、ここで役に立った。

 

・・・捨てろと言うのであれば彼はヒカルに命令しないで他のものに言う。そうした方が確実に実行できるからだ。

 

彼女は胸に抱いた花を更に抱きしめた。

観桃会に、彼が来てくれて・・・そして、彼女を見つけ出し、その褒賞を彼女に寄越してくれた。彼は「ヒカルの都合の良い考え方だな」と言って冷笑するだろう。それでも良い、と思った。それでも良いから、彼がヒカルに与えてくれた大事な花を枯らしてはいけないと思った。

枝ごと持ち帰ったので、きっと繊細な薔薇よりもずっと日持ちするだろう。ルイの住む別邸の居間はガラス張りで、長い時間日照を確保できる。そこなら、温室と同じ効果があり、きっと桃花たちも長く生きられるだろう。

切り落とさなければ、もっと長く生きられたかもしれない。でも、ここに来て・・・アルディ家の中でもう少しだけ命を永らえて欲しいと思った。

それはまさしく、自分自身そのものであると思ったからだ。

薔薇にはなれない。でも、薔薇の家の中で生きることを許された。

だから、それを感謝し、精一杯生きて・・・そして、この家の者たちに降りかかる哀しいことを少しでも和らげることのできる存在になるのであれば。ヒカルは、また笑顔でルイを出迎えることができると思った。彼が望んで居なくても、彼女だけは「この家はルイの場所なのだ」と言い続けたかった。

 

 


花蕾 後編

■26

 

・・・・今頃、泣いているのだろうか、と思った。

しかし、それは考えても確認することもないと決めていたので、彼女の泣き出しそうな顔を思い浮かんだが、すぐに消去することにした。

ヒカル・クロスはどれほど傷ついても決して涙を見せない。

それがルイを苛立たせる。何にでもすぐに従う従順な人形のようであると思っていると彼女はかなり強かであり自我が強すぎる部分がある。

しかし、またすぐに彼女の姿が浮かぶ。

彼は薄い形の良い唇を僅かに歪めた。

先ほど、出発しろと命じた運転手からは、ヒカルが追いかけてきそうな気配がして危険だと言われ、それでも従えと言うと今度はヒカルが泣きそうだった、と報告する。

この家の誰もが、ヒカルを主人か同等と看做していることが苛立たしい。

次の主人が誰であるか承知しているのに、それでもヒカルを気遣う周囲は、ルイの不興が自分の不利益になることも理解している。その上で、ルイに苦言を呈すのだ。

主従関係を簡単に破ってしまうヒカルのことを慕っている者も多いが、ルイをはじめとする親族の中には良い顔をしない者も多い。彼女が簡単に踏み越えてしまうもののうちの大半は、長い年月をかけて人々が築き上げてきたものであるからだ。

アルディ家の後継者について疑義があると言われて以来、それが解決しないままになっているのはヒカル・クロスの存在もあるのだと思わざるを得ないと口にするものが増えてきた。

つまり、この家の滞在者でしかないひとりの少女が、この家の行く末に影響しかねない存在なのだと認める者が出てきたということである。

自分と同じ、誰かの意思が働いて生まれて来たというだけで、何故これほどまでに違う扱いを受けなければならないのかまったく賛同しかねる事態である。

 

・・・これから教育係のミシェルに報告を兼ねた打ち合わせをすると伝えてあった。

ミシェルのことだから、この状況に居合わせていたのであれば、冷笑を浮かべてルイがまたヒカルという小石程度の存在に気を取られているのだと言うのだろう。

ヒカルの問題ではなく、意識しているルイの問題なのだとミシェルは言う。しかし、彼がどれほど無視したり、冷淡に扱ったりしてもヒカルは次に会うときにはまったく忘れてしまったかのように振る舞う。それが苛立たしい。近寄らなければそれだけで良い話で、互いに距離がある状態のほうが彼女も毎回消沈するような顔をして別れることもないのだろうに、と思う。

車内に残った、花の香りがルイの何かを奪っていく。そうだ。ヒカルはいつもルイから何掠め取るばかりだ。惨めな感情しか持ち合わせておらず、それでいて決して屈しない。どれほど萎れても、結局は自分の思い通りにしてしまい、自分の納得のいくような考え方をして事実を歪曲させてしまう。彼女はまったく矮小でルイはそれにつき合う理由も義理もなかった。

彼は長い脚を組んで、そして静かに走り出した車の中で、背凭れに体を預けた。彼女の降車を助けなかったのは、そのまま館に残ろうと言い出すに違いないと思ったからだ。それは的中して、ヒカルはまた自分の話を通そうとしている。

彼の帰る場所はあそこではない、と言ったことに動揺していた。ルイがそう決めたのだから、そうなのだ。

彼は見事な金髪の下で、青灰色の上品な双眸をゆっくりと瞬かせた。シャルル・ドゥ・アルディの若い頃によく似ていると言われるが、彼とシャルルは髪の色が違うし、遺伝子操作されてきたルイにはシャルルが持っていないものも内含している。

同時に、シャルルが持っているものでルイが持っていないものがある。それがヒカル・クロスだ。いつか、あの娘がルイの配偶者候補になることはわかりきっていることだった。たまに優しくしてやれと言われるが、ルイにはそんなつもりはなかった。他の子女にはできることであっても、ヒカルにこれ以上ルイの尊厳を奪われるつもりなはない。

彼女がどう思ったとしても、ルイにはただ邪魔な存在である。これほどあからさまに彼女のことを避けているというのに、ヒカルはまったく気にしていない。いや、幾度も変わらずに接近しては自ら沈んで引き下がる。それを幾年も繰り返しているのに、少しも学習しない。

彼女の無頓着というか、無感覚の部分についてはルイは呆れるばかりであったが、彼女の状況からすると、そうしなければうまく生きていけないという本能というか、生存欲求がそうさせるのだろうかと思った。

しかし、彼女の母親もなかなかに強かな人物であったのだから、その娘のヒカルは気質を受け継いでいたとしても不思議はない。

・・・ルイはそういう感情を抑制することができるのに、ヒカルはこれほど技術の粋を集められた中で生まれた命であるというのに、自然のままに生まれて来たのかと思うと・・・彼との違いについて、彼女の方がより優れていると無言でシャルルが主張しているようで、更に彼女には苛立ちが剝き出しになってしまう。

 

他の者には演じることができる優しさというものを、ヒカルには見せることはできなかった。あの家で、円滑に過ごすためにはヒカルの心を捉えておくことが肝心であることはわかっていることだ。ミシェルにも何度も忠告され、最後には「命令でないと傾聴しないのか」とまで言われた。しかし、ルイはヒカルのことになると容赦がなくなってしまう。思わずしてそうなってしまうというより、必要が無いと感じるのだ。

 

なぜ、あの娘だけが特別扱いなのか。理解に苦しむ。

そして、己の感情ににも。

離れて暮らしていれば少しは許容できるかと思った。しかし、こうして都合で顔を合わせると、その年月も距離もまったく無視してヒカルはいつもの通り、少し昂揚しすぎだと眉を顰めたくなるほど頬を赤くしてルイにしきりに近付こうとする。他の者よりも、考えていることが更にはっきりとわかる部分が、こういうところなのだ。ルイと家族になりたいと言い放つ彼女は、その意味がわかっていない。彼と彼女が家族になることは永遠にないのだ。ルイはヒカルを対等な人間と思えなかったし、ヒカルも別の意味でルイを対等と見ていないのだから。そもそも、家族という定義が彼と彼女では違っている。

 

 

■27

 

ルイは溜め息をついた。彼女のことを考えることはやめると自分で宣言したのに、その通りにプログラムが走らない。計画通りにいかないことに対しては容赦が無いルイであったが、何より自分の中の感覚が厄介なのだと思わざるを得なかった。彼には感情がないようにヒカルは言うが、そうではない。ただ自分の中で抑制しているだけで、ヒカルが放棄している努力研鑽のひとつであった。他者に簡単に感情を曝け出してはアルディ家の当主などは務まらない。

 

来た路を戻り、そして分岐する場所から違う路に入る。そのまま少し走らせればアルディの館は見えなくなるくらい、距離が空いた時に。

ようやく、ルイは手元に置いたひと枝に目を遣った。桃の枝は桜と違っていて、より寒さに耐えられるようになっている。光をふんだんに浴びて花をたくさん付けた枝であった。ヒカルはこれらの様に感歎していたが、ルイは心の中で嘲笑していた。

この枝に密集するように咲いた桃の花は、観賞用に整えられたものだ。実を付けることもなく、枯れてしまえば捨てられ、接ぎ木もされない。そしてこれほどまでに花が密接していれば次の開花の季節まで持ちこたえたとしても、花を間引きしなければ生きられない。

まるで、ルイやヒカルの命のようではないか。誰かの意図がそこで作用しているのだから。それらを見て感激の声を上げるヒカルは実に滑稽だった。しかし、淡い紅色の衣装に身を包んで、桃の木の下で物思いに耽る彼女を見て、興味を注ぐ者たちが少なからず存在したことをルイは見逃さなかった。

あの館で早々に退出しなければ、ヒカルは好奇の眼差しの中でまた困り果てて余計な行動を起こしてしまうのだろうと容易に想像できる。

彼女の姿を最初に見つけたのがルイであったのではない。最初から・・・彼女がどこにいるのか知っていたに過ぎない。

ひとり同伴の者から離れて歩き回る者といえばヒカルしかいないのだから。あの場所に集う者たちは、ひとりで行動するように教育されていなかった。ルイと同じ様に。この国で将来は要職に就く者たちである。能力が劣っているかどうかということを見極める場所ではなく、顔を合わせて見知りおくことが必要とされていた。それなのに、ヒカルはその場所を放棄してひとり庭に出てしまうという暴挙に出た。

最初は放置しておこうと思っていたが、冷え込んできたことと、館の中でだけ自由に過ごすことを許された者たちが、相手を一番に探し出せた者を勝者として・・・桃の花を捧げる名誉を与えると言ったものだから、周囲が沸き立ちはじめたのを知り、ルイは面倒なことになったと思ったのだ。

桃の花言葉は様々に存在するが、そこで紹介されたものはたったひとつだけであった。

「私はあなたのとりこです」

つまり、皆の面前で自分の意中の相手に想いを告げ、告げられた相手はそれを受け取らなければならないという一方的かつ非合理的な罰を受けなければならないのだ。誰もが、ルイに目を遣った。確かに、彼はその中の幾人かに自分を恋人にして欲しいと懇願されてまったく相手にしなかったという経緯があった。

必要があって恋愛の真似事をするのであれば、それなりに収穫がなければならない。しかし、そのような場所での余興の上で誰かの思いを受け止め、微笑み、そして手を取るということに意味がないと感じたルイは、やむなく、そういった関係を気にしないでいられる相手としてヒカルを選んだ、というわけだ。彼女はこれらの経緯を知らない。ずっと外に居たからだ。

そして、皆が帰りがけにヒカルに対して羨望の眼差しを向けていたことも、彼女は気がつかないでいたことだろう。桃の花束を受け取った理由も、その意味も、鈍感な彼女は察知することはできないままであった。

その花を、ルイが受け取るべきだと主張したものだから、彼の憤慨は極限に達した。

 

冷たい扱いだと周囲に言われても、彼はヒカルに徹底して同じ態度しか取らない。

彼女は愛翫動物だ。愛でられていると本人は感じても、それは蔑まれて平等ではないことを受け入れているだけにすぎない。だから、彼女の我が侭は彼女の願う通りに叶うことが多いが、それはヒカルが誰とも対等ではないからだ。

それなのに。甘やかされて拒絶されたことのない無知な贖罪の娘は、それが自分の生き様であり、真理であると勘違いしたまま生きている。少しも疑問に思わないで。

 

彼女は、あの花の言葉を知ったのなら。

自分がルイ・ドゥ・アルディに対して求愛しているのと同義の行為をしていたことに気がつくだろう。

その時になって、ようやく知るのだ。なぜ、ルイが嫌悪した顔でいたのかを。

心を絡め取られているのはルイの方だとヒカルは傲然と言ったのだ。

そして、帰ってこいと命令する。彼は星辰の子と呼ばれて、すべてを遵える立場にある人間であるというのに、自分に遵えと光の娘は言う。永遠の光という名前の少女は、何も知らないのに、彼に重さを感じさせ、苦しみを与える。

ヒカルに桃の花を捧げられて、それはルイのための花だからと言われた時。

彼女をそのまま車に引き込んで、そのままミシェルの待っていることも無視して・・・彼女が驚き涙を流してやめてくれと懇願したとしても、彼の激情を浴びせてしまおうか、とさえ思った。

ミシェルが面白おかしくいうところの・・・かっとなって我を忘れそうになった、ということなのだろう。ルイには経験がないことであったが、他の人間にはそういった瞬間が訪れるらしい。

しかし・・・次からは、「らしい」という曖昧な言い方はもう使えないと思った。彼は確かに、ヒカルによって経験させられたからだ。彼女は掠め取るのと同じくらい、他者に不快なものを残していく。

 

 

■28

 

何もかもが気に入らなかった。

そして、彼女に自分が花束を突き返したことも、ルイは苛立っていた。自分自身に。これも彼の誇りを酷く傷つけていた。

 

・・・彼女は自分の中のものを揺らしていく。

だから、彼は彼女と同じ場所で時間を過ごさない。ヒカルによって乱されるのは迷惑この上ないことで、それ以上の意図はない。しかし、自分が何を感じ、何を見聞きしてきたのかをミシェルに報告することになっているルイは今回のことをどのように報告するのか、事項を選別し始めていた。全部を語るつもりはない。そうすれば、ミシェルはまた嘲ら笑って、だからルイは後継者になれないのだと諫めるのだろうから。彼は確かにアルディ家の頂点に君臨するために生まれたが、誰かの思い通りになるために行動しているわけではない。

いつか、必要があれば・・・ミシェルでさえも彼の敵になるのであれば、攻撃も躊躇わないで行うことができる。そして、それに備えなければいけない。

 

彼は深く息を吸い込んだ。

無言のままで思考に耽る。

 

誰にも話しかけられず、なんのストレスも感じない時間は最近では貴重になってきた。彼はひとりきりになりたいと何度も願うが、考えることは無数に存在し、彼はそれを許諾してきた。何も考えず、ヒカルのようにぼんやりとしながら桃の花を見上げる時間はルイには存在しない。

 

彼は理知的な青灰色の瞳で、自分の手にあったひと枝の花を改めて見つめた。今回の催しの手土産にしては何とも無骨であったが、こういうものを喜ぶ者が多いのだと学習した。ただ、それだけだ。

ひと枝だけ取り除いたのは、ミシェルへの報告であった。ルイはそう説明をすることに決めていた。自分がいつの間にか、それを抜き取って残りをヒカルに投げ渡したという描写は削除することにする。そのことについて何か言及することもない。

それで、思考を止めれば良いのに。次に考えることはたくさん存在する。そして彼は同時に様々なことを考えることができるし、ひとつのことに対する思考の処理時間も非情に短い。それなのに、繰り返しヒカルのことを考える。考えるのをやめようと思っているのに、その思考が彼に遵わない。彼の中の、唯一の武器であるものが、彼の操作を拒む。

なぜ、これほど自分の中にあるものが自分を阻害するのか。

ルイは無表情のままで桃の花を見つめる。退魔の効果があると言われている花だ。

・・・しかしそれは実のことを指し示し、これは実を結ぶことはない。こうしているだけでもあと数時間で萎れてしまうだろう。

不老不死の象徴でもあり蟠桃と呼ばれ、花は神々の食糧となる桃の神樹は、実を結ぶまでに三千年かかると言われている。ヒカルの母国である日本では、黄泉比良坂で悪鬼を退けたとされていた。

しかし、ルイはそれほどの年月をかけてアルディ家に上りつめるつもりはなかったし、彼の命が長く続くという保証はなかった。優性の遺伝子を多く持っている彼は遺伝子操作されており、その寿命が長いという予測は立てられていない。だから、彼は早く結婚して、子を作れと言われている。すべてにおいて急かされているルイの路を阻むようなことばかりをするヒカルを滅することは得策ではないと思うからこそ放置しているだけで・・・近いうちに、彼女が決してルイに近寄らないように吶喊することも予定に入れなければならないのだろう。

しかし、彼は考えていた。

遠ざけることができないのであれば。懐に入れて、シャルルの弱点を握ってしまう方が・・・更に道程が短くなるのではないのか、と仮説を立てた。

どれほど手を振り払っても寄ってくる娘をシャルルはこよなく愛している。そのような感情は必要ではなく、次の世代に引き渡す準備をするべき立場のものが、彼の孤独を癒すためにひとりの少女を愛でている。しかし、ルイと同じようにヒカルもいつまでも幼いままではいられない。今日のように、同伴したふたりは一体どういう関係なのかと詰められる場面も増えるだろう。

どれだけひた隠しにしていても、ああして公式の場所に派遣しているからには彼女の存在を利用しようとする他家の者も増えて行く一方だ。

それに、彼女は預かり人であるからという理由も、間もなく使えなくなる。

遺伝子開示制限年齢が近付いているからだ。彼女はこのままこの国で成人すれば、自分の身体に眠る秘密を知ることになる。日本ではまだ法制の整備中であるから成人するころには一度彼女を日本に戻して時間を稼ぐ手筈をシャルルは整えるはずだ。

そして、ヒカルはやがて、シャルル・ドゥ・アルディの側面を幾つも知ることになる。その時に、アルディ家を離れて彼女の実家のクロス家に戻られては分が悪いのだ。彼女の肉体は一部でも構わないからここに保存されなければならない。

そのために・・・彼女の心をこの場所に留めておく手段は幾つか考えていた。

彼は思考に耽る。ヒカル・クロスのことを考えると苛立つと認めているのに、それでも様々な未来を考えて・・・そしてそれが終わらないうちに、ミシェルの元に到着するのだろう。

 

しかし。

・・・彼の頭の中で幾通りも考えている未来の中には、ヒカルとルイが各々別の路を行く場面は入っていなかった。

彼はもう一度、桃の花を見つめる。

実にならない花。操作された花の造り。そして、その花は「私はあなたのとりこ」という意味がある。

 

■29

                                   

ヒカルは、ルイが捧げたと考えるのだろうか。

結果的に、彼がそれをヒカルに渡して、愛を求めたことに対して、彼女は返事をするのだろうか。

 

自分が愛を乞う・・・ルイはひとり微笑んだ。

それは甘い痛みに痺れる喜びからくるものではなく、ただ底のない、深い昏さしかない微笑みであった。

なぜ、彼が求めなければならないのだ。求めるのは、ヒカルの方だ。ルイに愛して欲しいと懇願し、彼無しでは生きられないと言わせる。

その時に、シャルルは打ちのめされるだろう。彼が注いできたものは独りよがりで生産性のかけらもなく、その一方で彼女がもたらす利益を享受するために手元に置いていたわけなのだから。

 

・・・だから、今日のところは譲ってやっただけだ。

 

ルイは考え直した。

おそらく、ヒカルは今頃は館に入って手にした桃の花を保存するためにあれこれと調べ物をしているころだろう。

そして、それをルイからなのだと言ってシャルルにも分配するのだろうと思われた。彼女のことだ。そうやって気を回しているつもりだろうが、ルイはそんなことはしない。父であるシャルルも、ルイにそのようなことを求めてはいない。

 

彼女は、すべてのものを分かつものなのだろう。

花を別ち、この家の者を別つ。

それなのに、去ろうとしない。

まったく、苛立たしい娘である。

しかし。

ルイは、手の中の枝を見つめる。強く振れば花は枝から離れて落ちてしまうだろう。それくらい、脆くて儚い命が彼の手の中にあった。

 

けれども。

・・・彼は、そっと反対側の手で花を覆った。

ヒカルの声を思い出す。

これは、ルイのために咲いた花なのだから、と言った。

それなら。

 

ルイは思う。

それなら、ヒカルは誰のために咲くのか・・・

 

もう考えるのをやめると決めてから随分と時間が経過していたのに、彼はそのままじっと枝を見つめたままで物思いに耽っていた。

ミシェルに対する言い訳を考える一方で。

この花を永らえさせるのも悪くはない、と思い始めていた。

それから、これは気紛れなのだ、と自分の中で確認する。

ルイ・ドゥ・アルディには気紛れなどは決して存在しないと言うのに。

 

その花に重なったヒカルの笑顔と笑い声が、彼の思考を阻む。

彼が手にした枝は、半分以上がまだ蕾のままであった。

彼女なら、それはいのちが蕾んでいるのだ、と言うのだろう。

 

今日は特別だぞ、と彼は呟く。

健やかに、魔が寄ってくる隙も無いほどに愛されるようにと願う日は、ヒカルにくれてやることにした。

 

それから、彼は少し顔をあげる。

打ち合わせの後はアルディ家に戻るので待機しておくように、と運転手に声をかけて、それきり目を瞑り、黙り込んでしまった。

しかし、眠っているわけではない。また、思考の海に潜ることにしたからだ。

それでも。

彼の中で、ヒカルの声が響く。彼女がそう言ったわけではないから、それはルイ・ドゥ・アルディの想像だ。

それなのに、はっきりと聞こえるのは彼の何が作用しているのか。

認めたくないから、それは考えないことにする。

脚を組み直し、手に乗せた桃の枝をそっと彼の隣に並べる。そこは、先ほどまでヒカル・クロスが座っていた場所であった。

 

仙桃の色彩を纏った、茶色の髪の茶色の瞳の少女の声と姿で、ルイに囁く声に沈み、思考に溺れることに没頭した。

けれども。星辰の子の中で、それはずっと繰り返し再生され続けた。

 

・・・私はあなたのとりこ・・・

 

彼の掌の中で、花蕾はヒカル・クロスの声で彼にそう囁いていた。

 

(FIN)


君影草〜muguet〜2012 前編

01

 

ヒカル・クロスが最初に知らせてあった戻りの予定から大幅に時間が経過していると言うのに、彼女は戻ってこなかった。

予定というのは遂行するから予定なのだ。それが守れない時には、理由がつきものである。そして、ルイ・ドゥ・アルディの予定はいつも狂うことはなかった。変更が生じたとしても、それは想定内のことで、修正というには至らない程度のことばかりであったから。

けれども、ヒカル・クロスの予定は彼とは同じにならない。

部屋を別々に取ると言い出し、ひとりでクロス邸に向かうと言い張る彼の婚約者の浅慮に溜息を漏らすことをやめようと思っていたが、彼は溜息をひとつ、漏らした。

部屋に戻り体を休めたらルイの部屋に来るように、というメッセージを彼女の部屋に置いたのだが、フロントで言付けることにした方が確実だったようだ、と内心舌打ちをしていた。

どうも、戻って来ては居るようなのだが、部屋に入らずにどこかを歩き回っているらしい。想像はついたが。

 

彼が遅れてこのホテルに到着したのは、予定時間より遅れていた。パリを発つときに天候不良が影響したからだ。その旨、連絡を入れようと思ったが、彼女は外出中であるという。戻ってくる時間までには到着したものの、今度はヒカルが部屋に戻っていないと聞き、彼はその間、仕事を済ませることにした。

けれども、プライベートであるので、メールチェックだけしかしない。業務上どうしても必要な場合には、各々の分野でルイが指名したものに判断を任せることにしていた。何でも把握しないと納得しない時代を経て、彼はある程度裁量権を他人に委ねることを学んだ。

 

・・・あの大惨事に巻き込まれてから。

彼の運命は変化した。

予定していた方向と違うベクトルになった。

けれども、求めるものはひとつであった。ヒカル・クロスとの結婚は・・・予定通りだった。

 

時差の影響もあるが、夜がやって来ても彼はひとり静かに耽り事に時間を費やしていた。幾時間も黙ったままでも平然としていられる彼は、それでも、時折・・・ラップトップに乗った細く長い指先の動きを止めて、外の景色に目を遣った。ここはインペリアルスイートであるから、このホテルの最高の視界なのだ、と言われていた。見下ろす苑は豊かな緑が広がり、草の匂いがここまで届きそうなほど鮮やかであった。

 

・・・昏くなって来たので、自動調光による間接照明が淡く灯り始めた。外の夕暮れは、ヒカルの両親が消えた海のある空を思い出させるが、それが今日の大気状態が似ているからなのだと考えて・・・ルイはまた煙草を口に銜える。

 

口煩く、ヒカルが断煙を推奨するので、彼は彼女の前ではあまり煙草を吸わない。あの事故で肺を一部損壊し、器官にも炎症を負ってしまったので、昔ほどではなくなったが、彼の肉体はあの時よりもっと若々しい。それはヒカルのもたらした再生治療によるものであったが、それ以上に、彼の努力の証が現れていた。完璧な健康管理に、節制、適度な運動に筋力・骨力・視力や体温など細部に渡る調査・・・自分の身体さえ、実験観察のような扱いしかしないルイであったが、ヒカル・クロスはそれを見て、いつも哀しそうな顔をする。自分の方こそ、穿刺痕が消えない体をルイに見られるのが恥ずかしいと言って、明るい場所では彼に裸体どころか露出の多い服などを着て肌を晒すことのなくなってしまった彼女の顔を思い起こす。

 

一足先にヒカルが日本に到着していた。そして、今日はクロス家との会合があったはずで、終了予定時間はとうに過ぎており、話が弾んで長引くような心躍る時間ではなかったのだろうということをあわせて考えると、彼女はこの敷地のどこかで、ひとり物憂い顔で過ごしているのだろうな、と思った。

部屋に戻ることもしないで、何をしているのだろうかと思うが、それはルイも同じであった。

 

完全なるプライベートの時間として、彼はあらゆる仕事を処理した後、来日した。それでも急を要する案件はあったし、セキュリティ上の問題から連絡先や行動予定を逐次教えるようにというアルディ家の督促のメールに辟易して、受信拒否を行ったところであった。

 

忘れたわけではないのだろうが、彼女からの連絡が途絶えて、二十時間以上経過している。ヒカルの知らせてあった予定は大まかなものであったのでルイは呆れて溜息をつき、もっと詳細なものを知らせるようにと言ったところ、彼女は肩を竦めて笑い、「頻繁に連絡する」と約束したと言うのに、早速このような有様になっていたので、ルイは苦笑いも浮かばなかった。会合の最中には連絡を取ることが出来ないであろう、と配慮してこちらから連絡することもしなかったが、それにしても彼女のルイに対する扱いには溜息も漏れるというものであった。

 

彼は星辰の子と呼ばれているのに、誰もを遵えることができる者であるのに、ヒカルだけは彼の言うことを聞かないのだ。そして、彼女を彼はただひとりの妻とすると決めて久しかった。間もなく、それが実現する。だから、待つし待てるのだ。彼女が来日し、その話題になれば決して穏やかな話し合いにならないとわかっていながらもクロス家に赴く理由は、ルイとの結婚について報告と相談をしているのだから。

 

ヒカルは成人しているし、なんら問題がないが、彼女の中では大問題のようだ。やはり、納得のいく婚姻でなければ、アルディ家が監護権を取得したことによる利益搾取により、ヒカルを籠絡したのだと言い張るに違いない。法的根拠も何もなかったが、今後、彼女の細胞から遺伝子操作したワクチン作成や、再生医療への阻みになるような不穏な話は極力避けたかった。こういう業界の噂というものは侮れない。どれだけ実績を積み検証論文を発表してもその出所が正しいものではないと知ると、すぐに倫理観や宗教的価値観を持ち出す輩が大勢存在するのは事実であった。

 

彼は煙草を口に銜える。そして、薄ぼんやりと発光する室内を遠い眼差しで見つめた。

彼の私邸やパリでの生活からするととても広いとは言えない空間であったが、何より、ここは杜のような苑が見える。完全な静寂の中でしか落ち着くことのできない彼のことを配慮し、ヒカルがここにしようと言ったので、それに応じたまでのことだ。

たったひとりで使用しようとするので、肩書きのたくさん付いた者たちが入れ替わりに彼に挨拶しにやって来たが、彼はプライベートであることを理由にあれこれ詮索したがる文化の国の住人達に無表情に接した。

人との会話は彼には必要ではない。ただ疲労しかもたらさない会話に意味は存在しない。

 

エントランスの正面は来客の応接用の居間になっており、各部屋が続きの間になっているが、採光と設計の関係で、窓は並列であっても部屋に対して斜めであった。左側がマスタースペースと呼ばれている場所で、ビジネススペースがあり、簡易キッチンもある。そしてその奧がバスルームと主寝室であった。対極にゲストルームやゲスト用のバスルームなどがあり、複数人で使用できるものの、そこを使う予定はなかった。

ヒカルが別の部屋を取ったからだ。結婚前だからという理由で部屋を別にするというのは、アルディ家の者には通用しない。なぜなら、結婚一ヶ月前には新婦の家で過ごすことが義務づけられており、結婚式当日には神の前で永遠を誓う花嫁の腹には別の命が入っていることは多々あったからだ。けれども、ヒカルはそれを良しとしない。どうもそういったところでは拘りがあるようであった。

けれども、彼女は「苑が見えるから」という理由でひとり別の部屋を予約してしまう。彼女に彼女の日本滞在の手配を任せるのではなく、こちらでやってしまえば良かったと思ったが、彼は後悔に時間を使わず、次の思考に入ることにしていた。後悔は学べば教訓になり経験になるが、これでヒカルへの対応やヒカル自身が変わることはあり得なかったからだ。

 

彼は煙草を吸い終わると、灰皿に投げ入れて、首元に手を遣り、タイを緩めた。

同じ姿勢でいたので、シャワーを浴びて血液循環や筋肉の緊張をほぐす必要があった。彼の体は以前より更に引き締まったが体脂肪が少ないための弊害も理解していた。フェンシングと乗馬で鍛え上げた肉体は、緊張の緩和を必要としていた。


02

 

「あっ」

彼女がルイの姿を見つけて、小さく声を漏らしたので、タオルで水気を拭き取っていた手を止めた。バスルームを出る時に、エントランスから人の気配と、ルイ、と彼を呼ぶ声が聞こえたので、ヒカルが戻って来たのだと知り、彼はバスルームから出てきたところにヒカルと遭遇したのだ。彼が計算していたよりも、一秒にも満たない僅かな差があった。ヒカルが彼より先に相手の姿を見つける結果になった。

この場所に入って良いと許可されている者はヒカルしか居ない。別のスイートに部屋を取っている彼女と彼は名前が違うのに居住地が同じであったので、きょうだいでもなく、夫婦でもない彼らは、一体どんな関係なのか不思議な顔をしている者も居たが、それでは接客業として不合格としか言いようがなかった。

 

昨日は結局、イケダ家に宿泊したらしいので、ヒカルはこのホテルの部屋には足を踏み入れていないようだった。そして、どうやら、彼女は自分の部屋に立ち寄らずにルイの部屋にやってきた様子であった。・・・外出着のままであることと、夜風に当てられて、彼女の髪が少し乱れていたことから推測できた。隠しピンで留めた両脇の髪にほつれが見える。彼女の髪は癖が強くうねりがあるので、風に長時間あたっていればそんな風に乱れてしまう。

アルディ家の籍に入ろうという者の所作ではない、と言おうとして、彼はそれをやめる。それなら、事実婚で良いとまた、彼女が言い出すからだ。それでは意味が無かった。

そして一瞬見ただけで、彼女がなぜ遅い時間にやってきたのか判った。

彼女の顔は、腫れていた。そして目元は赤かった。泣いていたようであったが、それをルイに見咎められるのを避けるために、彼女は長時間、この庭園を漫ろ歩いていたらしい。

 

彼女がクロス邸を出た時刻はそれほど遅くなかったはずであった。その位は、調べようと思えばいつでもできることであった。けれども、彼女が指定した時間を守れなかったからと言って、ヒカルを詰ったりすることはしない。彼女自身が承知していることであり、ルイには彼女が陽気な状態で戻ることはないだろうという予測を立てていたから。

だから、煮えくり返った憤慨を内に秘めて、彼は無表情になる。彼の表情が乏しいからと言って、ルイが何も感じていないということではない。ただ、感情を露わにして良い時ではないと判断しただけのことである。諍いをするつもりはないが、それでも彼女の鈍感さに辟易することがあった。

「戻ったか」

彼がそう言うと、ヒカルは顔を赤らめて、横を向いて視線を反らす。彼の皮膚は彼女の細胞から再生されたものであるし、今更ルイの裸体を見て恥じらう彼女に付き合ってはいられない。本当は居間、彼女をこの場に立たせたままで事の次第の報告を聞きたいと思ったし、彼女が彼に連絡を取らなかった言い訳をするための時間を確保するかどうか思案していると、ヒカルは前者の報告を始めた。ルイがあまりにも無言でいるので、ヒカルはそれを、クロス家とアルディ家の話し合いの結果報告を待っているだと思ったようだ。

 

「・・・明日、もう一度行く」

「門前払いではなかったようだが」

彼が知りたいのは結果だけである。もう一度行く、ということは今日の話し合いは失敗に終わったということだ。彼女の苦悶に満ちた顔つきから、明日は改めて親族の団欒を楽しもうという時間にはならないのだろう。そしてそれはかなり高い確率で発生する直近の未来であった。

「・・・ちょっと行き違いがあって」

ヒカルが苦し紛れにそう言ったので、ルイは美しい金色の眉を持ち上げた。濡れているので前髪が下がってきているので、彼のきつい視線はヒカルに届かなかったようだが、彼女は身を固くして、唇を明けたり閉じたりしていた。何をどう言っても、クロス家のことを良く言えない結果しか持ち帰れなかったこと哀しんでいるようであった。だから、ルイを同席させるか、代理人を連れて行けと言ったのに。彼女はひとりで行くと言って、そしてひとりで傷ついて帰ってきた。

・・・まだ、帰って来るだけマシなのだろうか。

そのまま拘束されて、ヒカルが戻らないで日付を越えるようであれば、彼はすぐさま法的手段に訴えるための準備をしていた。ラップトップを起動状態にしてあるのは、そのためだ。彼がヒカルと連絡を取らないで待てるのは、24時間きっかりであった。

 

彼の視線の前では、彼女は隠し立てすることはできないのだと諦めたようで、手に提げていた小さな鞄をビジネスチェアの上に置いた。こつり、と底鋲の音がする。

そして、彼から逃れるようにカウンターの上に置かれているミネラルウォーターの入ったペットボトルに手を伸ばした。きっと、飲まず食わずであっただろうから、水分補給を必要としているのはヒカル・クロスの方であったのに、彼女は一番端のそれを手に取ると、今度はルイに近寄って来て、はい、と小さな声で水を差し出したので、無言で受け取るが、この沈黙を破るのはルイではなく、ヒカルからでなければならない。彼女の浮かない顔を見たくてオフを取ったのではない。実利を重んずるわけではないが、彼女の成果が皆無であることについては承服しかねた。なぜ、彼女はルイを頼らないのか。ルイの前で歎かないのか。明らかに疲弊しているというのに、彼女は何も語らない。それが美徳と思っているのかもしれないが、ルイにはそれが単なるやせ我慢にしか思えない。

 

・・・だから。

ほんの一瞬前までは、彼女から報告を始めなければ口を開くつもりはなかったのだが、ヒカルがカウンターの向こうに回り込み、薄暗いキッチンの中で、水を勢い良く出し手を浄め始めたので、彼はやむなく、次の手に移ることにした。

 

「ヒカル」

返事がない。彼はむっとした。無口であることと無感情であることは別である。

彼女が俯いていたのは幸いであった。冷凍されそうなほど冷たく鋭い眼光で、彼は恋人を睥睨していたから。彼の恋人であっても、彼のファム・ファタルであったとしても、意思の疎通を放棄する者にルイ自ら歩み寄るつもりはない。

彼女は、黙ったままで暫く念入りに手を擦っていたが、それが時間稼ぎであるのは明白であった。これでルイが彼女に結果を尋ねることを忘れると思ったのだろうか。まったく浅はかな人だ、と思った。

やむなく彼から切り出すことにする。少し挑戦的に。そうでもしなければ、彼の憤慨は鎮まらない。ヒカルを泣かせたいわけではないが、彼女は傷つくことがわかっていながら手を翳してしまう傾向にあるようであった。

「ヒカルの口から聞くのと、オレが今から電話して確認するのと、どちらを希望する?」

ヒカルが水を止める。同時に、ルイは渡されたペットボトルの蓋を開けて飲み下した。乾きを感じている体は・・・水分だけが欲しいわけではない。

 

彼は、ヒカル・クロスを改めて見つめる。彼女の選んだ上質のワンピースは暗がりの中でくすんで見えた。髪を緩く編み込んで清楚な令嬢風であるが、彼女は言い出したら諦めないという精神の持ち主だった。人に迎合しているようでいて、実はそうではない。彼女もわかっていることであったが、彼は彼女より彼女のことがわかっていた。

 

大きな茶色の瞳が、幾度も瞬く音が聞こえるような、そんな間が暫く続いたが、ようやくヒカルは渋々言った。

「絶縁を角度で、クロス家の権利を全部放棄しろと言われた。それは構わないのだけれども・・・」

顔を曇らせながら言う彼女に、それでアルディ家はそうですかと言うわけはないだろう、と言いそうになり、彼は薄い唇を横に引いた。彼女のことになると、どうも自制が利かなくなる。普段、人のことを悪く言わないヒカルがこういう言い方しかできないのであれば、相当のことを言われたのだろうと感じる。やはり、自分が同行した方が、と思ったがそれでは火に油を注ぐ結果になるだけであった。アルディ家とクロス家の確執は、もはや修復不能な状況に発展している。彼と彼女の結婚は打開策にはならなかった。

「ヒカルの細胞の使用権を主張してきたのだろう?・・考えそうなことだ」

ルイは鼻先で軽く笑う。アルディ家に刃向かう者は誰でも容赦しない。それがヒカルの父の実家であったとしても、だ。そしてヒカルを思い悩ませる者も許さない。彼女を独占して良いのは彼だけだ。

 

強かなクロス家の者を嗤っても、彼らは自分達の理論が正しく正義だと思っている。正義とは何なのだろうか。自分の都合の良いことが正義というのであれば、ルイはいくらでも正義をでっち上げるつもりだった。ヒカルが彼の妻になるのであれば。クロス家の男子であったカズヤ・クロスが風来坊であったことを恥じ、若くして結婚したことにより、彼らの家族は断絶状態であったのに。それでも、唯一の女の孫であり、カズヤ・クロスの忘れ形見であるヒカルのことを、ヒカルの祖父はこよなく愛していた。だからこそ、あのフランスの華は表立って反論することもしなかったのだが、ルイは違う。・・・やられたら、やり返す。そして倍返しだ。これは家訓であり、誇り高いアルディ家の象徴のような教えであった。誇り高く、好戦的で、欲しいものは手段を選ばず手に入れる。それでどんなに孤独であると歎いても、それでも手に入れる。特に、彼はそれが顕著であった。

 

これで彼女が諦観気味になり、事実婚で良いとまた話を蒸し返す方が面倒であった。このことについてはルイにしては長い時間をかけてヒカルにウイと言わせたのだから、今更、引き下がるつもりはない。彼の予定は、必ず訪れる未来なのだから。式はランスで行い、その後に当主として就任する。親族会ではもう誰も彼に口答えする者は居ない。フランスの華の実子でなかったとしても、より相応しい者を当主に据えると言った者たちが、それを覆すことを赦さない。それに、ヒカルがクロス家と決別してしまえば、予定通りの結果になるのだ。クロス家との別離が結婚許可の交換条件であったのだから。ヒカルの情に訴えるような者はもう、必要ではない。けれども、ルイのように諦めることができないヒカルは今でも何とか和解できないかと足掻いている。彼女がそれで諦めるのであれば、と思って黙ってやりたいようにさせてきたが、そろそろ・・・限界であった。彼女は彼だけを見ていれば良いのに、何もかもを捨てて・・・身体一つで嫁いでくれば良いだけの話なのに。なぜ、彼女は些事に拘るのだろうか。

 

「イケダ家は、何も言わなかったのだけれどもね」

彼女は淡く微笑んでそう言った。何事にも大らかというか大雑把な母方の実家は、ヒカル・クロスの結婚を祝福した。彼女をパリに送り出した時、クロス家はヒカルの引き取りを拒否したのだ。それを知っているからこそ、彼女の好きなように行動しろという方針を貫くらしい。彼女は、母方の実家に赴く時には朗らかになる。それなら、両方手に入れるのはやめて、片方だけで満足しろと言いたかったが、それも言うのをやめた。

ヒカルが家族に拘りを持っているのは今、始まったことではないからだ。

 


03

 

彼は溜息混じりに言った。それで彼女の心が軽くなるとは思わなかったが。

「これで筋は通した。日本式のやり方には辟易するが。・・・ヒカルは成人しているし、問題はない」

彼は繰り返さないのに、繰り返し言う。彼女はできることは全部試した。それで納得できないのであれば・・・一体、何がしたいのか理解出来なかった。

彼のファム・ファタルのすべてを理解しているとは思わない。彼の理解を求めてヒカルが生きているわけではないからだ。それが、時折、たまらなく苛つく。ようやく手に入れた運命の人であるのに、ヒカルが自分と違うことを見せつけられるからだ。彼は優遺伝子操作されて生まれて来た。様々な能力が備わっており、何れも平均を大きく上回る。彼が星辰の子と呼ばれるのはそれ故だ。誰も手が届かない星々でさえ、彼に跪く。だからだ。彼に手を伸ばすことが出来るのは、永遠の晄という名前のヒカルだけである。・・・いつになったら、わかるのだろうか。

ルイがそう言うとヒカルはまた俯いた。彼女は思い切りが悪い。逆に、瞬時に判断する潔さというか無鉄砲さも持っている。わかり合えない者とは、どこまでも交わらない。捻れた絲を解きほぐすより、切断してしまった方が解決できることもあると考えられないのだ。さらに追い打ちをかける。彼女を追いつめない程度に。

「血が繋がっていてもそれを根拠にして理解することはできない。それはヒカルが一番よくわかっていることだろう」

彼女は大きく溜息をついた。肩で何度も深呼吸している。これで怒り出さない彼女は神経が通っていないとしか思えない。彼女を泣かせたり怒らせたりすることを目的としているわけではないが、鬱屈したものをため込んで、ある日突然膨張しきって弾けてしまう方が厄介だった。

面倒だな、とは思ったが、彼女を無視しきれない。それは、彼の中の血が、彼女を呼ぶからなのか・・・自分の持ち得ないものを彼女が損なわずに持ち続けていることにたいする嫉妬なのか、判別の難しい混濁に、ルイは口調を険しくすることで誤魔化しているのだ。それは自分でも良くわかっている。

 

「そうだね」

ヒカルは、小さく返答した。その通りだ、と言わないところがまた憎らしい。ルイの意見は尊重しているけれども、全部を受け入れるわけではないという拒絶に聞こえる。

 

彼はペットボトルを握りつぶしそうになり、カウンターに乱暴に置くと、キャップを放り投げた。からん、と乾いた軽い音がして、キャップが転がる音がして、ヒカルは我に返ったようだ。

「ヒカル」

彼は大股で彼女に近寄ると・・・肩にかけていたバスタオルを取り上げた。そして、彼女の両手の上にそっと置いた。このまま、夜の苑を彷徨ったように、何時間も立ち尽くして考え事に溺れるのはヒカルの勝手であったが、彼はそれに付き合うつもりはない。軽く包むと、ヒカルの両手はあっという間に見えなくなってしまう。それほど彼女の手の平は華奢であった。濡れたその指には、間もなく彼と同じ指輪が輝くことになる。それより前の段階で、この世でひとつしかないエンゲージリングによって、彼女は彼の唯一なのだと皆に周知することになるのだ。

軽く包んだ上からでも、彼女が指の先にまで注意を払って赴いたことがわかった。

若い娘らしく宝飾品で飾り立てることもしていない。爪は綺麗に整えられていたが、華美な装飾はひとつもなかった。

その彼女の指先は、タオルの上からでもわかるほど、細かく震えていた。それが寒さからではないことは承知している。

 

ルイは腕を伸ばし身を屈めて、彼女の背に回ってただ・・・小さなこどもの世話をするように彼女の手の平を拭いてやる。先ほど、必要以上にヒカルが手を擦りあわせていたように、彼も彼女の手の甲や指先、手首に至るまですべてを包んで、撫で続けると・・・やがて彼女の震えは遠のいていく。

 

ようやく、会えたのだ。彼女を待ち、煙草を幾本も吸い、待つ自分を倦んで仕事をしようかと思ったものの、プライベートであるからというヒカルの声が聞こえてきてその手を止めて、また煙草を吸っていたとは、口が裂けても言うつもりはなかった。

 

彼女の背の温度を胸に感じる。シャワーを浴びた後の湿気なのか、それとも彼女に触れているからなのかわからなかったが、彼は確実に、彼女の肌や香りに安堵を覚えているのだ。口惜しいが、それは認めている。彼女の肌は彼を慈しみ、癒し、そして眠りに誘う。誰とも眠ることができないのに、彼女とは眠れる。それが今回のオフを取る為に、幾日も触れておらず、連絡も途絶えがちであった果てに、こんな風にしてでしか彼女を抱くこともないのだと思うと、また・・・苦しくなる。なぜ、彼女は彼の胸に飛び込んでこないのか。恋人との逢瀬より、もっと大事なものがあると言い切るヒカル・クロスの神経が理解できない。

 

彼は彼女の髪や白い項に視線を落としながら、そっと言った。ヒカルは背中を向けていたが、彼の視線を感じているらしい。少しも、こちらを向かない。

「濡れたままにするな」

ルイは彼女の耳に、形の良い唇を近付けて囁く。すると、ヒカルは全神経を背後のルイに向けていたのに、耳元で囁かれるとは思っていなかったようで、ぴくりと肩を揺らした。ルイはそれを無視して、無言でタオルの上から彼女の両手を包み込んだ。

 

無理矢理に彼女をこちらに向かせることはしない。ヒカルから、ルイの胸に飛び込んで来るべきだ。何が「そうあるべき」なのかという定義は曖昧であるのに、ルイはそう固く決めていた。ヒカルの耳や項が薄暗い居間からの明かりでもわかるほどに、ほんのりと桜色に染まっていく様子を鑑賞しながら、彼は彼女の次の行動を待つ。

 

「誠意を込めて、説明すればわかり合える。諦めるのは・・・はやいと思うの」

彼女の口調は少し掠れていて、どこか慌てていた。何に気を削がれているのか彼はすぐにわかって、薄い唇の端を持ち上げる。

 

彼の青灰色の視線の下には、彼女の着ているワンピースの留め釦が見える。背面にひとつだけ、薔薇の飾り釦のついている清楚というより飾り気のない服であった。濃いチャコールグレーの色や布の風合いはヒカルの茶色の髪や瞳が映えた。彼女のためだけの、世界で一枚しかないオーダーメイドである。ルイが出入りしていたパリの店で注文したものであるが、そこの店主は彼女のイメージだと言って持ち込んだ布から買い取り、作らせたものであった。膝が隠れる程度の長さの、七分丈のそれは豪奢ではなかったが彼女の柔らかい印象を表現するに足りるツールであった。靴も飾り気のないもので、幅広の踵もそれほど高さがないが底面が深い光沢のある褐色が張られており、日中日が射し込むと真赭色に見える凝った品である。鞄も最高級のものであったし、どれ一つをとっても、遜色のない品を用意させたつもりであった。それでも、クロス家ではヒカルに及第点を与えない。これが一番気に入っているので、着ていこうと思う、と言った時には何も言わなかった。似合うとも綺麗だよとも言わなかった。しかしそれで十分だったようだ。いつも何かしら注文をつけるルイが何も言わなかったので、ヒカルは上機嫌でルイと別れて一足先に来日した。そして、見事に、予想通り、萎びて帰って来た。

 

しかし、それでも・・・ヒカルがどんなに傷ついても、ルイは満足であった。

チェスやフェンシングで勝った時は昂揚感など感じない。当然の結果だと思うだけであったし、無敗の彼の前では誰も彼に勝とうとは思わない。ルイに挑戦できるだけで幸せだと思っている輩を叩きのめしても全く満足できない。

それなのに、ヒカルが・・・傷ついてやって来る場所が、自分の部屋でもなくイケダ家の親族の元でもなく・・・ルイの部屋であったことに彼は勝利を味わった時以上の何かを、感じている。

 

彼は彼女の背を自分の胸で包みながら、頬を寄せた。身を屈め・・・彼女の頬に自分の顔を押し当てる。馴染んだ彼女の肌の質感を感じ、彼は双眸を細めた。

彼女の頬が朱に染まっているというのに、それでも冷えた温度を感じ、彼は静かに言った。

 

なぜ、夜の苑などを徘徊するのか。

真っ先に、ここに来なかったことを彼女が後悔すれば良いのにとさえ思った。

「・・・夜風は良くない」

彼はそう言って、彼女の頬に自分の唇を押し当てる。まだ、再会のキスどころか、抱擁もない非情な彼の恋人に向かって、ルイは自分の本心をぶつけることはしないと、改めて己を縛めていた。

本当は、今すぐ・・・彼女を詰り、憤りを露わにし、そしてなぜ彼女は自分だけを見ないのか問い詰めたい衝動が大きくなっていくというのに。


04

 

完全に乾燥している状態とはほど遠い前髪が、軽く重みを主張しながらヒカルに触れると、彼女は身を縮ませた。しかし、ルイは更に、広い胸を彼女の背に押し付ける。湿った体に、布の感触があった。それから、ヒカルの体が僅かに揺れる震動も感じる。彼女が朗らかに、この服にしようと思うけれどもルイはどうかしら、と答えを求めているわけでもないのに、嬉しそうに尋ねた時のことを思い出す。彼女はいつも万華鏡のように、くるくると表情を変える。でも、ある面だけは決して見せない。そこに近付くだけで、ぴたりと動きも思考も止めてしまう。

 

・・・身を縮ませているのは、彼女だけではない。ルイもだ。それに気がつかないヒカルに、自分も同じだとは決して言わない。先ほどまで冷熱のシャワーで全身を和らげてきたばかりなのに、また・・・彼の体が強ばる。

彼の無言の圧迫に、ヒカルが戸惑いながら彼の名前を呼んだ。

「ルイ・・・」

少し身動ぎする。二の腕を動かして、彼と重ねた手の平から逃れようと試みるヒカルの手首を自分の長い指先で縛める。けれども、彼はそれを無視して、ヒカルの首筋や顳顬に自分の頬を滑らせた。頬摺りではない。彼の愛撫が始まったのだとヒカルが感じたので、彼女は身を固くしたのだ。しかし彼は止めるつもりはない。連絡をいつまでも寄越さなかったヒカルへの罰であった。

ヒカルが溜息混じりに顎を僅かに上げるが、すぐに我に返って俯く。彼は彼女の耳の淵を軽く啄んだ。すると、彼女は敏感に反応し、真っ赤になって、ただ、困ったように眼を瞑ってしまう。

 

自分の胸を彼女に傾けるが、彼女は呼吸を忘れてしまったかのように乱れては深呼吸を繰り返す。初めて陸に上がった魚の姫のように、彼女は彼の僅かな仕草で乱れ始める。髪に唇を押し当てるだけで、彼女は震える。次に、何がどうなるのかわからないからだ。背後からの彼の懲罰が次にどこに与えられるのか彼女には見えないから。だから余計に皮膚の感覚に敏感になる。

こめかみに、髪の上に・・・そして耳に、頬に、項に・・首筋や肩にまで、彼は唇を乗せていく。

それでも、彼女はただじっと、それを受け止めて耐えているだけである。

やがてルイが飽きて、ヒカルに部屋に戻れと言うのだろうと思っている。

 

・・・苛つく。

 

彼は彼女がルイに向き直り、自分から抱いて欲しいと懇願するまで続けるつもりであった。彼女は彼のことを理解していない。いや、男というものを理解していない。彼と彼女は同じ過程で生まれてきたが、それでもまったく違っていた。彼女は生まれてくる過程で怒りや歎きを削ぎ落とされてきたのではなく単に表現方法を知らないだけである。感情の激しい者は疎まれる。起伏の激しい者は浮き沈みに溺れる傾向が強い。自分を憐れみ、自分だけの世界に籠もることで己を守ろうとするが、それでは本当に己を救う事は出来ない。

それは、ルイが一番よく知っていることだった。経験したことがあるから。後悔はしない。学習したのだ。もう二度と、同じ路には行かない。

 

ルイは彼女の手首を縛めたまま、体を傾けて届く範囲のすべての肌にキスをした。

二の腕の内側を、ヒカルの腕に重ねる。腰を押し付け、彼女が逃げ出さないようにする。彼の片手で充分なほどの細さしかないヒカルの両手首は、少し力を入れただけで音を立てて折れてしまいそうであった。この手が、彼の背に回された最後の夜は一体いつだったのか。ルイの辛抱も極限まで来ていた。ヒカルを優先させることにしたプライベートの時間であったが、ルイがヒカルの言い成りになるということではない。

 

彼は空いた方の手で、ヒカルの項の上にある留め具に指を伸ばした。飾り釦であったが着脱が楽なように少し角度をつけて摘み上げると簡単に釦が外れる設計になっていた。ルイの考案したものであった。だからよく知っている。どうすれば、彼女に触れられるのかということを。それまでひとつの薔薇の形であった釦が真ん中から割れて、ぷつんという音がした。そして、更に釦を引き上げると一気に・・・背のファスナーが開いて彼女の白い背が現れた。

 

ルイ、と彼女は彼を窘める声を出そうとしたが、それは掠れていてまったく声になっていなかった。首を竦めて背を丸めるが、それは逆効果で彼女は強制的に殻を脱がされる蛹のような格好になった。

悶えれば悶えるほど、彼女は露わになっていく。彼女の感情もこんな風にしてはぎ取ることができれば、余程扱いが楽になるだろうか。いや・・・捥いでも彼女は内に深く隠してしまって決して見せないのだろう。

 

クロス家の名前も利益も権利も必要ではない。そう言ったが、彼女はウイと言わなかった。独占に近い状況の医療器具や医療施設など、医療業界に多数の功績を残しているクロス・グループを蔑ろにすることはできない。より安価で安全で、即効性のある薬や利用方法を確立しようとするのであれば、避けて通れないのだ。アルディ家がこれから開発しても、それはすぐに実用化されるわけではない。クロス・グループが権利侵害を逐一訴えるからだ。

 

だから憤って、もう縁を切ると言い放ったとしても、それは永遠の話ではないのだと互いがわかっているのだ。だからこそ、歩み寄ろうとしているものの、それが難航している。苛立っても、仕方の無い状況なのに、彼女は、あの家の者たちに気に入ってもらえる格好になっただろうかと浮かれて出掛けていく。

たったひとりで。そして、ひとりで悲しみを埋めて戻ってくる。

 

象牙色の肌理の細かい肌が見えた。昏い色の服を着ていたので、その白さが際立っていた。彼女を包む肌着は細い肩紐でつり下がっているだけであった。暗い場所であったので、今の照明によって彼女の躰の曲線が透けて見える。

・・・手を伸ばし、広げて、彼女の肩胛骨に触れると、彼女はまた鳴動する。これが初めてではないのに、緊張しているヒカルに、ルイは苦い笑いを浮かべていた。彼女の服をすべて引き破いてしまっても構わなかった。この服はもう二度と、着せない。今日のことを思い出して暗澹な表情を浮かべるくらいであるならば、値段は関係ない。世界で一枚しかない服であれば、それさえ廃棄してしまえばもう思い出すためのきっかけは消滅するのだから。

彼は更に指を伸ばし、彼女の肩から腕に移り、そしてルイだけの蛹のために殻を剥いでやる。勢いよく力任せに引いては駄目だ。そっと、押すように・・・服と肌の中に手を差し入れて、脱がせていく。もう二度と着せはしない。だから、最後の感触を覚えておけとヒカルに心の中で命じていた。

 

彼女の肌着はワンピースと対照的であった。縁取りが華やかであったが、面にレースや刺繍が乗るとその上に着る服に形が出てしまうので、内側に細かい刺繍が施されている。裾が翻ることはないが、動きが楽なように少しふわりと広がる設計になっているキャミソールドレスはヒカルの浮き立つ期待そのものを表しているようであった。限りなく透明で透けているのに、それは彼女の肌ではない。

 

彼女の心の中そのものであった。

ルイは、目に見えないものや根拠のないもの、証明できないものは信用していない。ましてや、人の心というものも信じていない。だから、ヒカルを娶るのだ。彼女を結婚という枷で拘束しなければ、こうして殻を脱ぎ捨てるかのように、いともあっさりと彼女は何もかもを放棄して逃げていくのだから。

だから、こうして捕まえておかなければ彼女は自分の部屋に行くと言い張る。・・・彼を蔑ろにする者は赦さない。たとえ、それが彼のファム・ファタルであったとしても、だ。

 

彼女に振り回されるつもりはない。今まで付き合ったのだ。今度は・・・ヒカルがルイに付き合う番だ。

彼は静かに、ヒカルの服を矧ぎ落とした。細心の注意を払って。


05

 

ヒカルを自由にしてやるつもりはない。ルイはヒカルの手首を掴んだまま、もう片方の手に神経を集中させて、彼女の肌着の釦を外す。彼女の肌を晒す。彼の青灰色の瞳の前で、全てを曝け出して、涙すれば良いのだ。彼女がかなり動揺しているのもルイにはすべて予定の範疇であった。

「ルイ、あの・・・」

ヒカルの声は震えていた。部屋に響くがすぐに拡散してしまう彼女のか細い声を無視して、彼は俯き、彼女の肌に自分の肌を合せる。額を擦りつけて、獣が自分の存在を主張するかのように・・・彼女にルイの痕跡を残していく。彼女がルイの存在を忘れて連絡を寄越さないのであれば、忘れられないようにするだけだ。自分の肌を見る度に、ルイを思い出せば良いだけの話であった。

「・・・今夜、ここに来た理由は?」

それでも抗おうとする彼女に、囁いた声は沈着な彼でも少し驚くほど掠れていた。顎を引き、背を軽く屈めて彼からの攻撃に少しでも備えておこうとする姿勢が彼の悋気を誘う。誰に嫉妬するわけでもないが、彼女の強情を越えた頑なさがルイの焔を煽るのだ。それさえ気がついてないヒカルは、身を竦ませるのにそこから逃れようとしない。ルイが諦めて離れるのをじっと待っているだけである。

その様子に苛立ったルイは、今度は彼女の腰を腕に抱いて、力を入れ、彼女が彼から離れようとした距離を一気に縮めた。

返事をしろという意味だ。ヒカルは踵を浮かせながら、彼の腕に手をあてて白状した。

「ルイの顔を見たかったから」

最後の語尾は消え入りがちであった。そんな一言すら彼女は羞恥で身を染める。幾時間も庭園を放浪して、彼を待たせた罪を贖うどころか、彼女はルイの言葉や行動に困惑し、その意味を考えようとしない。

酷く腹立たしい扱いを受けた、とか。

心地好い会話はなかった、とか。

他人を否定するような言葉は、彼女は紡がない。それなのに、傷ついたと主張する。言葉もなく無言で彼に救いを求めるが、彼はそれほど気優しくない。なぜ、やり返さないのだと呆れるばかりである。

 

・・・しかし、彼女が落胆しているのは、過大な期待を持っていたからだとヒカル自身は知っているのだ。だから、失望しているのだとわかっているのに・・・彼女は誰にも見せない表情をルイにだけは見せにやってくる。これを苛立たしい傲慢だと突き放すこともできたし、彼は大体においてそのように対応している。けれども。彼女だけは、彼はいつもの通りに振る舞うことはしない。できないのではなく、そうしない。

部屋の明かりが灯っていることも、彼がこちらに入っていることも知っているのに、それでもなお連絡を寄越さず一人考えに耽る彼の恋人は、彼のことを少しも理解しようとしない。

 

彼女が痛ければ、彼も痛いのだ。

彼女が苦しければ、彼も苦しいのだ。

 

だから、これは懲らしめなのだ。彼女のことを困らせ、彼は問い続ける。なぜ、彼の部屋に来たのか彼女の口から言わせた。次は・・・これからどうするか、だ。

恥ずかしそうに顔を俯かせて、それでも神経をこちらに向けているヒカルの肩に軽く唇をあてていく。その時に、彼女の手首にあったルイの手が動き、ヒカルの指先を求めた。・・・水気を含んで重くなったタオルは冷え始めており、彼女の手の上には不要の物体となったので、ルイが軽く払いのけたからだ。そして・・ゆっくりと、自分の指を・・・一本一本、彼女の指に絡めていく。細く長い指先が、彼女の指に入り込み、そしてぎゅっと彼女の手を握ると、ヒカルの指先は屈み、そして僅かに震えながらも、彼の懐抱に応えて自分も指に力を入れる。

そして、彼は次に、ヒカルの服を完全に奪い取ることに専念した。

彼女が部屋に戻れないように。

 

・・・歎きに酔う時間は終わりだ。

これからはルイのために時間を使う。彼が決めたから。

 

彼女の腕に残る布の撓みが煩わしかったので、払った。ただ、それだけだ。緩やかに、慣れた手つきで彼が彼女の服を乖離させようとするので、ヒカルは軽く腕を体に引き寄せて、抗おうとしたがそれは逆効果であった。彼女とルイの足元にそれが落ちる音が、合図であった。

大きな手の平でヒカルの肌を静かに撫でながら、彼はヒカルの腕から肘、そして再び手首を廻り、指先に到着してまた指を絡める。親指の腹で、彼女の手の甲を擦ると、彼女はそれだけで呼吸を乱し始めた。

 

そこで一番、効果的に囁いてやる。

「・・・オレの顔を見るだけ?」

それから、彼は剝き出しの上半身を彼女の背に押し当てた。腕も同じ様に、彼女の腕に乗せる。以前より更に締まった体の筋が彼女の柔らかい肌の質感と対照的であった。筋肉の重みによって、彼女はまったく身動きが取れない。

 

ルイはしばし無言であった。そしてそのまま、待つ。彼女からの返事を待った。それがなければ、次を始めはしない。

彼に返事をするまでは、彼女を解放するつもりはないのだと知ると、ヒカルは本当に消えてしまいそうな声で、言った。

 

「そう。ただ、顔を見るだけで良かったの・・・」

軽く結ばれた髪の狭間から見える項が赤かった。耳まで赤い。自分が何を望んで、何を願っているのかを口に出すことは廉恥の極みなのだと思っているらしい。

しかし、彼は他の誰とも違う。ルイ・ドゥ・アルディを目の前に、彼女は何も隠すことができないはずなのに、彼に逆らう。だから、許せない。

 

その言葉を聞いて、彼は冷笑した。そして、次に自分の微笑みを更に嗤う。

誰かを自分の思いのままに動かすことは簡単で、すでに飽き飽きした手順であったはずなのに、彼は自分が微笑んでいることに気がついた。

それから、満足していることにも。

・・・ヒカルのたったひとりが、己であることを確認したから。


06

 

ルイは腰を彼女に押し付ける。すると、ヒカルは背を反らせて深く溜息をついた。それなのに、彼女は身を捩らせても決してルイに向かって体を預けることはしないヒカルの躰に、更に彼は自分を傾けた。そして、彼女の頬に唇を押し当てる。・・塩辛い味だった。涙を零したな、とすぐにわかるほどに。だから彼女は明るい場所を避けて俯いてばかりいるのだと指摘すれば、彼女はきっと「そうではない」と言うに違いない。

「顔を上げろ。・・・俯くのは、やめろ」

彼は静かに言う。彼女は隠そうとする。涙も、怒りも、歎きも。けれども、それは彼女ひとりのものではない。そして隠しても、癒えないし消えないし満たされないことは承知しているのに、繰り返す。だから、彼は顔を上げろと言う。

 

ヒカルは溜息を漏らした。ルイの言葉の意味をわかっていると言うのに。それなのに、従おうとしない。彼は終わらない彼女の歎きを倦んで、心の中で舌打ちすると、端整な顔を寄せて彼女の唇に自分の唇を重ねた。

最後にキスを交わしたのは、いつであったのだろうか。

彼女は彼に会ってもキスを捧げない。恥じらいからなのだろうが、ここには誰も居ないというのに。

ルイとヒカルだけなのに。

・・・彼の愛を求めて彼に飛び込んで来るべき永遠の晄は、彼に近付くことを躊躇っている。いつもそうだった。

右手で彼女の顎を捉えて彼の方を向かせると、彼女が抗うので、ルイは更に力を入れて躰を伸ばし、彼女の唇に自分の唇を重ねていく。けれども、浅く軽く啄むだけのキスを繰り返す。彼女の呼吸が乱れ、躰が更に硬くなる。軽いキスであるから、拒むこともできたはずであった。まだ・・逃げられる。まだ、拒める。彼女は自分で切り上げることができると高をくくっているのであれば、それは誤りだ。始めるのは彼だ。彼女ではない。そして終わらせるつもりもない。

順番も優劣も存在しない。けれども、ルイの方が何倍も何十倍もの長い時間、彼女を見てきたのだから。彼女が彼の視線に気がつかなかった間も、彼は彼女を見つめていたのだから。だから、今更、見ないで欲しいと彼を拒み抗うことは赦されない。

 

彼女は一度は躰を固くするが、彼の口吻によってやがて力が抜けていく。なぜ、そんな風にしてでしか彼女は始めることができないのだろうか。青灰色の瞳を伏せて彼女の睫を感じるほどに彼の顔を近く寄せて唇を重ねる。彼女の温度を感じる。彼女の湿りを感じる。彼の脳が痺れる。・・・ヒカルを感じて、彼はこの軽い口吻だけで自分に痺れが走っていることを感じる。

 

ヒカルが眉を寄せてそれでも唇が震えているが、それすらルイは奪って彼女に自分を重ねていた。両手の自由を奪われ、肩に力を入れて緊縛されたままになっているヒカルがやがて力を失っていくその瞬間を・・・待つ。

 

そしてすぐにそれはやって来た。苦しくなった彼女の強ばりが解けて、僅かに唇を開いた時が来たので、彼はそこに入り込む。ヒカルが驚いて逃げる。逃げ場がないのに逃れようとするので、彼はそんな愚かしいヒカルの逃走の試みを挫いてやる。

徐々に抑えていた激しさを放出させていく。もう、この段階で彼女は逃げられない。抗っても逆らっても・・・彼女は彼から離れられない。貪るだけの、情欲だけが先行する激しさでは彼女は怖じ気づくだけだ。

耐えて待つだけで終わるつもりはない。

桜色をしたヒカルの唇から自分の薄い唇を離すと・・・やがて、彼はゆっくりと言った。彼女の茶色の瞳を覗き込みながら。溜息の出るほど・・・魅惑的な声でヒカルに囁く。小さく。ヒカルだけに聞こえるように。

彼がそれを言ってしまえば、もう、彼女はここで話を切り上げることは不能となる。既に彼女は戻れない。彼女の部屋に戻り、ひとり眠ることは赦さない。

 

「・・・オレはヒカルの顔を見るだけで、終わらせるつもりはないけれど」

それだけ言うと、彼はヒカルを抱き上げる。返事は待たない。彼女の悲鳴を待つ前に、彼は動き出した。身を竦ませたヒカルの足が宙に浮き、驚いた拍子に全身の力が抜けてしまったようだ。抗うこともなく彼女はあっさりと彼の胸と腕の中に捉えられてしまう。

「ルイ・・・私・・・・」

ヒカルが彼を見上げた。けれども、彼は返事をしなかった。彼女が驚愕から抜け出し、次に困惑で小さくなる。透けた肌着だけしか着ていないことも、彼女がルイの胸の中にいることも、彼女の声をルイが聞き入れようとしないことも、彼女は承知しているのに・・・ルイに向かって、彼を求めはしない。

 

今はプライベートだ。仕事ではない。いつもの彼ならば、部屋に帰るかどうか彼女に決めさせる。選ぶのは自由で、去る者は追わない。無理強いはしないが彼女の肯定を聞くまでは動かない。それがルイだから。

けれども、今宵は彼女に選択権はない。

彼女の赤らんだ顔が、ルイの胸に触れる。

・・・それが、彼女の無言の返答であったと見なし、彼はゆっくりと歩き始めた。

 

主寝室に連れて行くまで、長い道のりではなかったが、そこに至るまでに規則正しく歩く。彼女が怯えないように、彼女が逃げ出さないように。縛り付けて彼女を蹂躙するつもりはないが、彼はこのまま彼女を帰すほど粋狂ではない。彼女は彼に永遠の愛を誓った。今度は、皆の前で・・・神の前で誓わせる。そのために、ここに来たのだから。成果が何もなく戻って来た彼女を労るほど、彼は優しくはない。

 

暗がりには慣れていた。主寝室に入ると、彼は部屋の明かりを点けることなく、彼女をベッドの上に横たえる。膝をつき、眼を瞑る彼女を近くで眺める。遮音や遮光が徹底された静寂を用意させた。彼女の呼吸だけが聞こえるように。彼が眠るための完全な闇と無音の他に、もうひとつ、必要になった。それが、ヒカルだ。それを容易く言うつもりはない。

 

彼女は闇の中で、自分の視界が暗くなったので、少し安堵したようだ。その先を知っているのに、彼女はルイに躰を晒すことを恥じている。

ヒカルから提供されたルイの肉が、彼女を呼ぶのかもしれないが、彼女は彼を呼んだりしない。強く惹かれるのは、ヒカルなのだろうか。彼女を求めるのは彼の中の彼女の細胞がそうさせるのだろうか。

 

一夜限りの享楽だけ、と割り切る相手に不自由したことはなかった。けれども、どれほど遅くなろうとも、朝を迎えようとも、彼は相手の前で眠ったことはない。誰かの温度を感じると、それだけで彼の神経が休まらない。だが、ヒカルとこうして眠るようになって・・・彼は、それ以来、誰とも重なることはなかった。

それが、今は・・・彼女が傍らにいないと、眠れない。声を聞かないと、眠れない。

幾年も離れていたことがあった。しかし・・・今、同じ事を繰り返せと言われても同じ事はしない。

 

それまでは。

単なる行為でしかないと考えていた。

・・・・それまでは。

 

ヒカル承知しているのに、ルイへの連絡を自分の都合で断つ。

約束を反故にする。期限を守れない。それがどれほど彼の日々を乱しているのか、わかっているはずである。彼女は最大限に活用することを知らない。ルイが短い時間しか滞在できないものの、日本にやって来たのは、クロス家との問題を解決するためである。それなのに、彼女は自分ひとりで達成できると楽観視していた。そして、傷ついて帰ってくる。

彼の忠告は、一度きりだけであった。

彼女が何に期待しているのか、知っていたから。

 

だから彼女を慰めるためという理由で彼女を抱くのではない。眠りたいから。

それだけであった。そう思うとした。

 

愛しているから抱きたいとは言わない。寂しかったから肌を感じたいと言わない。

ルイは卑怯になることを楽しんだ。

歎いている彼女につけ込んで、彼女の予定を乱す。彼女が彼にそうしたように。

 

そうでなければ、憤りを彼女に降らせて蹂躙し没我の瞬間を味わい、彼女が受け入れるかどうかは関係なく、彼女を彼の証で一杯にし、ヒカルをまた怯えさせることになっても構わないと決めてしまいそうであったから。


君影草〜muguet〜2012 後編

07

 

ルイが彼女の脇に膝を突き、体重をかけると、ベッドが軋んだ。ひとりでは広すぎるベッドであった。彼女を横たえてなお広すぎる寝台に彼女を置いてルイはじっと彼女を見つめる。

昏い闇の中で、彼女は白く淡く浮かび上がっていたが、彼女はすぐに身を起こそうとするので、彼はヒカルの肩を軽く押し、シーツの波に押し戻した。僅かな力で良かった。

「ルイ、私、外から戻ったばかりで・・・」

「だから?}

彼は顔を寄せて躰を屈めた。ヒカルはルイとの距離が近いことを感じ、両肘を曲げて自分の胸にあててルイの接近を阻む。猥らな格好をしているという自覚があるらしい。泣きはらした瞳に、久しぶりの彼女の香りに・・・薄衣のような肌着し身に纏っていない彼女の剝き出しの腕や鎖骨が隆起しているのが見える。

 

幾度彼女を抱いても、彼女はこうして初めて抱き合った時のような仕草を見せる。彼の躰を知り、彼女は全てを見せたというのにヒカルはそれでも身を竦ませるのだ。

彼を求め、彼に願うのであれば、ルイはもう少し優しくしてやるつもりであった。けれども、彼女は彼を見ようとしない。ここから逃れられないと知ると、ただ嵐が通り過ぎるのを待っているだけの彼女が、どうあっても彼の思い通りにいかないことを知ると、彼女の肩に手を掛けた。

手を伸ばし彼女の髪に指を絡める。夜風に乱れた髪が更に乱れていく。指先にいくつか留めピンの感触があったが、彼はそれらを潜り、彼女の額やこめかみや耳の付け根などをなぞって弄ぶ。

茶色の髪が広がり、自分の額を彼女に額に重ねる。

まだ髪が濡れていたので、彼女の額にも湿りが移る。

自分を重ねても、彼の薫りを彼女の刷り込んでも、ヒカルは彼に染まらない。いつも同じように・・・昔と同じ様にいつもはにかんで微笑むばかりである。それが気に食わない。

 

ルイは彼女の上に乗る。もう、いい加減に諦めれば良いのに、彼女はそれでもルイを頼らない。求めない。彼が居ないと眠れないと言わない。

彼は静かにヒカルと距離を詰めていく。

彼女の肩紐を外し、脱がせていく。性急にはしない。彼女が怯えるからだ。餓えているのは自分の方だ、とルイは認めていない。

ヒカルが羞恥で身動ぎした瞬間を狙い、彼女の腰から足先まで一気に滑らせて引き剥がした時、衣擦れの音がして広い寝室に広がった。捥いだ衣はそのまま床に捨てる。もう二度と、彼女に身につけさせることもない。それを身につける度にまた気を落とし、自分の疎かにしているものが他にあることに気がつこうとしない愚かな行為を繰り返すから。

 

彼女が部屋に戻れないということを知り、戸惑ったように顔を横に向けたので、ルイは薄く嗤う。

床に落ちた服を身につけることはしない。彼女の着替えがここにない以上は、ヒカルは部屋にそのままで戻ることは出来ない。

 

手数がかけたが、その後は間を置かずにルイは指先を動かしていく。

「服は明朝届けさせる」

・・・彼女から部屋に戻りたくないと言わせるための様々な策も、彼の一言で、すべて・・・無に帰す。

それから次の手順に移る。

・・・彼女の全てを取り去る。何もかも。

ルイが他人の服を脱がせてやることは皆無だった。それを過程として愉しむこともない。慈しみ労りながら誰かを温度を交えることは彼にはあり得ないことであった。労りや慈しみは必要ではなかったし、誰かにそれを与えることも必要でなかったから。

それを無頓着に受け止めるヒカル・クロスが本当にわかっているのか、と感じる瞬間である。

もし、享楽に溺れるような娘であれば、彼はこうして彼女の衣を剥きながら肌の合わせまでに時間をかけることはしなかった。躰を開き、心で受け入れ、文字通り身も心も彼に捧げてもよいという瞬間そのものも、過程も彼は愉しむ。

 

だから、最初は軽く触れる。柔らかく素っ気なく。

啄むように軽い口吻を繰り返し、彼女の耳埵や首の筋に舌を這わせる。彼だけしか知らない肌の白い部分も含めて、彼はそっと彼女の冷えた躰を擦り続けた。

ヒカルが、ルイのことしか考えられなくなるまで。余計な雑念で煌散らすヒカルを抱くつもりはなかった。

貪り抉るだけの合歓は簡単だ。しかし、それではヒカルの心はこちらを向かない。

彼女のたったひとりであるのは確かにルイであるのかもしれないが、彼女がルイと一緒に居るときに、彼だけを見つめているわけではないのだ。彼と違って。ヒカルは彼だけではない、様々なことに惑い愁い、そして哀しんで、ルイの知らないところで勝手に傷ついている。

 

彼の特別であることを有り難がれ、と言っているのではなかった。彼に特別は存在しない。唯一しか存在しない。

ヒカルは、彼の唯一なのだ。生涯、たったひとりしか娶らない。誰にも誓わない。誰かの人生を背負うつもりもなかったし、彼の生すべてが誰かに理解できるとも思わないし、肩代わりできるものでもない。

 

徐々に熱を帯びていくヒカルの肌の感触や、溜息の数を加算しながら、彼は自分の焔を感じる。何も感じないわけではない。彼も人の血肉で包まれているから。

こうして恋人を裸体にしていく行為が、彼の炎を燻らせる。

 

しばらくすると、彼女の怯えによる震えは引いていき、彼女が瞳を明けたので、ルイと目が合った。闇でもわかる。彼女の茶の瞳が彼を見つめた。

「ルイ・・・・」

そこで、ヒカルは強ばらせていた腕を伸ばし、静かに、彼の背中に腕を滑らせたので、彼は手を止める。

彼女が何度か唇が空気を求めて苦しそうに息をしたので、ルイは彼女の瞳を更に近いところで覗き込んだ。

 

ぴくり、と躰が動く。

ヒカルが、身を起こして彼の肩にキスをしたからだ。背中に回された手の平に力が入る。

 

背中を擦り、彼の背中にある彼女の息吹を感じ取るかのように、懐かしそうに肌を愛おしんだ。

彼の背中は彼女によって再生されたものである。だからなのだろうか。

それは彼の目的が達成された瞬間であった。

 

ひとりで歎き、ひとりで愁い、ひとりで悩むヒカル・クロスは、今・・・彼を見つめている。そして、彼女はただ愛撫を受けるだけではなく、肌を重ねることに同意した。

彼女が自分からこうして彼の肌なに触れることはない。ただ激しい恋風を受け止めるだけで彼女はいつも、ルイに対し稚拙な往返しかしない。

「ありがとう、ルイ」

彼女は彼の背に腕を回しながら、掠れた声で言った。そして、彼女は彼の肩に貌を擦りつけたが、その睫は湿っていた。

 

ようやく、か。

 

ルイは眉を僅かに動かした。表情を動かさない彼が、何も感じていないのではないことを毎回、こうして時間をかけて伝えないと伝わらないのであるならば、諦めて放置しておくこともできるのに。

なぜ、彼は繰り返すのか・・・。

 

彼が必要だと言い、彼を求めればそれだけで済むのに。

彼女はいつも、ひとりで片付けようとしている。

もう、これは個人の問題ではないのだ。両家の問題であり、ひいては世の理を揺るがすことになる。これから・・・激動の時代がやって来る。それに備えなければならない。彼女ひとりではどうにもならないことがあり、家族の情愛だけでは解決できない問題が絡んでくる。

それでも、ルイに迷惑をかけたくないというヒカルの気持ちが空回りし、解決できる問題も解決できなくなって拗れてしまうこともあるのに、彼は結局・・・彼女をひとりで行かせた。

そうしなければならなかったあの時と違っている。

 

彼女の気持ちを尊重した結果がこれだ。

 

ルイは確かに苛立っていた。彼女がいつまでも彼ひとりを見つめないからだ。彼がいなければ生きていけないと渇望するはずであったのに、彼女はひとり哀しみに沈んだから。

それなのに・・・餓えているのは、彼の方であると知らしめるような行為を彼女の前で広げてしまったから。

 

「・・・muguetの香りがしたから」

彼は理由にならない言葉だとわかっているのに、それだけ呟いた。

彼女の髪からは、すずらんの高雅な香りが漂っていた。庭を漫ろ歩いていた時間の長さを知る。

 

すずらんは、幸福の象徴だとも言われている。けれども、それだけではない意味も、ある。場合によっては死に至るほどの毒を持っているからだ。

彼を蝕む毒がゆっくりと循環していくのを感じる。

そうだ。

彼女は、晄の速度でもって彼を激しく悶えさせもするし、こうして一瞬で憤りを霧散させてしまう。


08

 

彼女が憂えていた項目は複数であったことは瞭然であった。おそらく、彼は彼女と居ると幸せになれないと考えているのだろうと推測された。幸福の定義は人によって違うし、幸福そのものについて考える必要のない場合もある。

ルイの場合には・・・それしかないからだ。ヒカルと歩むこれからが、それしか残っていない路だからやむを得ずそうしているのではなく、全てを捨てて、その道だけを選び取った。

 

「ヒカルは散漫すぎる。オレだけ見ていれば良い」

ルイはそう囁く。ルイのことだけを考えて生きていけばヒカルはもっと楽になるだろう。けれども、それではヒカル・クロスではなくなってしまう。人形を愛でることはしない。言うとおりにしないことに苛立っているのに、彼に黙従することは望んでいない。まったく、矛盾するものについてルイは考えを及ばせるが、未だ回答は出ていない。ひとつ事実を追えば、ひとつ変化していくからだ。

 

またひとつ、彼女の頬に唇を押し当てて、小さな声で言う。その声量だけで十分であった。

「ヒカル・・・勝手に傷つくな。オレの知らないところで・・・傷つくな」

抗えないように、命令する。見えないところで、知らないことで傷つくのであれば、包み隠さず癒えることのない傷をさらけ出せ、と彼は命じる。ルイは星辰の子だ。だから、何もかもを遵える。数多の星々を引き寄せることが出来るのに、ヒカルは時折彼から隠れる。それが苛立たしい。

これがつまらない独占欲であることも承知していた。

これまで。

誰かを独り占めしたいと強く欲することはしなかった。誰も、彼にとってはそれほど必要ではなかったから。

傷つけても傷ついても、それは本人の問題であった。ルイを執着する者には冷淡に扱った。

拒絶するほど強い感情を感じた者も居ない。しかし、ヒカルは相反する同時の感情を彼に与え続ける。ひとつの命題だけではなく、ひとつ片付けたと思ったら、すぐさまもうひとつ発生させる。この掛け合いをいつまで続けるのだろうかとさえ思う時間すらないほどに、頻繁に。

 

彼の言葉に、うん、と小さく幼子のような返事をしたヒカルの声も小さかった。瞼が大きく震え、彼女は涙を堪えているのがすぐにわかった。先ほど、震えを除去したというのに、彼女はまた新しい震えに酔いしれる。

「ありがとう・・・ルイが居てくれて、良かった」

涙を堪えながらの返事は、震えていた。声が詰まり、唇を噛みしめている。

もう、だいじょうぶだから、と彼女は繰り返したが、繰り返す度に語尾は小さくなっていく。呆れてしまうほど強情なヒカルの強がりに、それでも、躊躇はなかった。

 

たまたま、居たのではない。

 

彼女が求めるのはルイ・ドゥ・アルディだけであることを確認知るために、やって来たのだから。とても捻出できそうもない時間を創り上げて、彼はここに居る。バカンスや浮かれるために日本に来たのではない。彼女を妻にするために、ここに居るのだ。完璧な生にする。彼の望んだものはすべて、手に入れる。それがどれほど、誰かを何かを傷つけることもあるかもしれないが。

 

「・・・怖がるな」

彼は震える彼女の返事を待たずに、そのまま彼女の躰に自分を重ねる。

細い肩を押さえ、彼女を捕まえる。それは陵辱に近い。彼女に赦しは求めない。それでも、彼女は全てが終わると満ちた眠りを貪る。ルイを置いて。彼女は背を丸めて眠る。ルイを拒絶するかのように。ルイの思い通りにはならないと訴えるかのように。

 

だから、肩を押さえ、彼女を固定する。彼女が誰にも見せない内腿の深くを開かせるために、片脚を割り入れて羞恥で脚を閉じようとする彼女の狭間に入り込み、彼は自分を主張する。彼女が拒んでも・・・中断しない。それに幾度もその機会は与えた。ひとり部屋に戻り、自分の眠りだけを貪ることもできたはずである。それなのに、ヒカルはルイの部屋に来た。それがどういうことか、思い知り学ぶ必要がある。

そう思った。

 

今度は、深い口付けをする。幾度も、幾度も。その都度、彼女の呼吸が乱れると彼に痺れが走る。ひとつの神経を共有しているかのように、彼女が何を思い、何を感じ、これから起こる長い夜に震えているのか・・・彼はわかっていた。

「あの・・・それなら・・・シャワーを使わせて」

「後にしろ」

彼は即答した。躰を浄めたいというのであれば彼女を解放しただろう。けれども彼女はそうではなく、時間を置けばルイはヒカルから興味をなくすだろうと浅はかな計画を立てている。そのつもりは・・・ない。

彼女の鎖骨をひと撫ですると、今度はそれが先ほどの慰撫と違うことを知らしめるために、彼女の白い柔らかな丘に手の平を伸ばし、そして指を軽く曲げて揉み込む。

唇を重ね、彼女の平穏を奪う。乱れるヒカルは普段のヒカルと違っていた。扇情的で挑戦的で・・・無防備な姿が、彼の淫欲を誘う。誰かに見せることのない、彼女の暗の部分であり、そしてルイはそれを知っている。

猥らで、貪婪で・・そして自分の中には決して誰も入れない人が、彼の妻になる。

アルディ家の花嫁に相応しいではないか、と彼は嘲笑する。

 

精神が脆いものか、意志の弱い者しか迎え入れないアルディ家の歪んだ欲望は、いつも成就しない。新しい血を入れても、強靱な魂を持つ者は誕生しない。そして、いつも心弱い者だけしか生き残らない。生命力と精神力は反比例するのかと思う程に、うまくいかないから・・・ルイを誕生させたのだ。

 

彼は口吻を繰り返す。いつが始まりで、いつが終わりなのかわからない程に、それは始まったから。彼女の裸身を愛おしむ。愛でるだけの存在ではなく、彼を苛立たせ歎かせ呆れさせる人物は、彼の中に眠る、征服者としての種を目醒めさせるのだ。

ルイを刻み、彼だけだと何度も思わせる。そのために・・・抱く。

理由はいくらでもあった。彼女を妻にするための理由はいくつも挙げられる。

しかし、一時の享楽ではない。これからは、彼女だけがルイの熱情を受け止めるのだ。それ以外には誰とも肌を重ねない。そうする必要もなかったし、そうする理由もなかった。

滾りを感じる。

 

・・・ただ、一言、彼女だけに愛慾の情を感じるのだと言えば良いのだろうか。

 

何でもひとりで抱え込んでしまう。何でもひとりで解決しようとする。

それができる人であれば、彼は愛したりしない。彼自身がそうであるから、同じ者は隣に置かない。妻にするのは、ひとりだけだ。ルイ・ドゥ・アルディという男の妻として刻まれる名前は、ひとつだけだ。

それに拘っているつもりはないが、ここ何代もの当主が、妻を複数娶る傾向にある。事実上、同時であったこともあったし、絶え間なく妻という称号を持つ者を据え置くことにしていた者も居る。

神に敬虔であることは求められない。神に誓うという行為に対する権利があるかどうか、だけだ。

 

一夜、ヒカルを抱くのにこれだけの労力が必要となる。彼の時間、彼の忍耐。すべてが、彼女だけが自由に使うことが出来る。その逆は、あり得ないのに。

 


09

 

生真面目すぎる、とミシェルに言われる事があるが、それはヒカルも同じであった。彼女はいつもルイの愛弄を交わすことも焦らすこともせずに、そのまま受け止めるが、次にどうすれば良いのかわからないという状態であった。

・・・もっと男というものを知って来いと言ったが、それは彼女が決してそうしないと確信していたからだ。そうしないとわかっているのに、そう言ってしまうのはなぜなのか、その時には理由を知らなかった。でも、今は違う。

余所見せずに、ルイだけを偏に受け止める彼女は、いつもルイにだけ自分を開く。

そういうヒカルだからこそ、彼もこうしてパリから日本にやって来てまで、彼女を待とうと思ったのだ。

 

彼は彼女に愛の言葉を余り多くは囁かない。自国ではそれは珍しい事だと窘められるが、彼は余り多くを語らない。愛している、とか。好きだ、とか。そういう陳腐な言葉で片付けられないほど重いからだ。

しかし、ルイはヒカルがひとりで先に日本に行くと決まった時に、彼女にはっきりと言った。

ヒカル以外の誰かは必要ではない、と。

彼女は少し驚いていた。そして次に、満面の笑みを浮かべて、ありがとう、と言った。ルイはそこで胸の痛みを感じる。彼女は、私も同じよ、とは言わなかったからだ。

人は、誰かと想いが通じ合うとそこで終結してしまうと考えがちで、その先にも煩悶があるのだというところまで考えに及ばずに恋愛に没頭する傾向がある。

 

彼女の躰が温かくなり、次に熱を帯びて、湿りが始まる。ルイはいつもと違う、彼女の芳香に眼を細める。首筋に、肩に、腕の内側に、彼は唇を近付けて軽く吸うと都度、ヒカルは跳ね上がる。時折小さく声を漏らすのに、それを押し殺すように唇を噛む仕草を鑑賞する。

「ルイ・・ルイ」

彼女が彼の名前を呼び、締まったルイの腕に自分の手の平を添える。止めて欲しいという合図ではなく、それは肯定なのだ。

磁器を思わせる白い膨らみに顔を埋め、彼女を貪る。時折、彼女の躰が躍り上がるが、ルイの腕の下では逃れることはできない。腿の内側を撫で上げ、腰を引き寄せ、彼女をきつく抱きしめる。そして、彼は彼女の上に重なり、また抱きしめた。

「ヒカル」

囁きは、いつしか掠れた声になっていた。呼吸を乱して喘ぐヒカルからの返事はない。いつも、彼女は受け止めるだけで彼に何かを返すことはない。ただ、ルイの重さに耐えかねて彼女は眉を寄せて顔を横に向けるが、彼は彼女の唇を追い掛けて、甘美で扇情的で濃厚なキスを繰り返すので、結果的にヒカルは息苦しさが増すばかりであった。躰の強ばりは消えたが、ヒカルは忘我を懼れている。

ルイは軽く、彼女の髪に自分の指を泳がせる。ただこうしているだけなのに、満たされるのはなぜなのだろう。先ほどまでの苛立ちが、引き汐のように引いていく。首筋に唇を這わせるだけで、彼の躰が熱くなる。徐々に、ヒカルが身を捩りながら彼を求める自分の願いに戸惑いながらもそれを受け入れる様を愉しむ。

誰も知らない、ヒカルの乱れをひとりで、味わう。

 

だから、彼は続けて彼女に囁く。感謝の言葉はいらない、と。彼女から奪うだけしかできないと昔、言った。それは今でも同じだ。ヒカル・クロスという人物の家族も、国も、過去も、何もかもを奪って、彼は彼女を手に入れる。そして、身体も。すべてを奪い、自分の中に閉じ込めてなお、満たされない。彼女の心が手に入らないからだ。

 

「何手も先を読もうとするからだ。だから、傷つく」

ヒカルが何か言おうとしたので、彼はそれを唇で塞ぐ。彼女のことだ。煩憂する自分の気を紛らわせるために、彼女をルイが慰めていると思っているのだろう。

彼女の考えていることが手に取るようにわかるのに、ルイの考えていることをヒカルは理解していない。何かを感じることがあるようだが、それから先には進まない。

苛立ちが出てしまったのか、かなり激しい求めであったが、ヒカルはそれにおずおずと応じる。彼女を抱き寄せながら、ルイはこのまま、もう少し力を込めたら彼女は砕け散ってしまうのではないのだろうかと思った。

「・・・先を読むのは、誰にでもできることだ」

彼は彼女にそう諭した。愛を交わすことは怖いことではない。曝け出すのは恐ろしいことではない。実際、彼と彼女はすでに何も纏っていない状態で抱き合っている。ルイがこれほど餓えていることを、ヒカルは、まだ、わかっていない。淫欲の捌け口ではない。彼と彼女はこれから幾夜もこうして過ごすのだから。そのために理由は必要ではない。誰かの同意も賛成も祝福も必要ではない。それなのに、欲深なヒカルは自分達の婚姻に正当な承認を求めて、迷走しているのだ。

・・・わかっている。ヒカルが躍起になっているのは、ヒカルの実家の同意がなければ、ルイの当主就任への欠格条項にあたるかもしれないと思っているからだ。

後々まで禍根を残すことはわかっている。けれども、自分のことよりルイの悲願を達成することの方が大事だと考えているヒカルが・・・そうしたいのだと口にしないから、彼はそれは必要ではない、と伝える機会がない。彼女の考えていることは大体わかっているし、かなりの確率で当たっているのだが、それでもヒカルから口にしないことを先回りして言うつもりはなかった。それでは、自分自身と会話していることと同じである。人形を妻にするつもりはない。

 

だから、幾手も先を読めたとしても、それが一通りではないことを承知していなければ、軌道修正はできないのだ。問題は、そこに行き着くためにどうするのかという結果をもたらす過程を考えることと、過程から導き出される結論が的確かつ適切であったかどうかということだ。前者は未来を、後者は過去を考察する。幾手も先、というのは未来のことばかりではない。今まで歩んできた過去から推し量れる現在と未来を推測することなのだから。

 

その先はどうしようと考えながら睦む夜は、いらない。

未来を憂え、手元にある事実だけで紡ぎ出す未来は暗澹たるものであるのだと歎くだけならそれはまったくの無駄である。ルイが居ながら、それはあり得ない。彼は星辰の子だ。これくらいの課題を解決できないようであれば、この先の未来は更に荒んだものになるのは目に見えて明らかだ。

未来を歎くだけ、も。

未来を根拠のない希望で満たすことも、も。

それは人によって違う。けれども、ルイは更に自分で望んだ未来にすることができる。できる、でのはない。そうするのだ。

互いに傷ついて可哀想だと言いながら嘗め合うだけの夜は、いらない。

そこで、ヒカルが茶色の瞳を見開いた。こぼれ落ちんばかりの大きな瞳で、彼の顔を覗き込んでいたので、ルイは唇を閉じた。彼女は乱れた掠れた声で、ルイに尋ねる。

「・・・ルイなら、どうするの・・・」

彼の腕の中で彼女がそう言ったので、ルイは嗤う。幾手も先を見るのは皆ができることで、だからこそ、彼女だけしかできないことを為し遂げろと言っているのに。

彼女の無垢な身体が桜色に染まり、彼の愛を受け入れている最中でさえ彼の考えを聞きたがる。既に彼を幾度も受け入れて、何もかもを知っているはずであるのに、いつもこんな風に初めてルイを知るかのように振る舞う彼女を、どう蹂躙しようか考えているというのに。彼女は、それでも尋ねるのだ。

愚かしい娘だと思うが、それでも手放すつもりはない。彼は、彼女によって再生された。そして、もう幾年も思ってきた未来を実現させる。今更、止めるつもりはない。彼女は、彼が諦めろと言っても、決して諦めない。どんなに満身創痍になっても、他人の為に行動することを厭わない。これほど不愉快な想いをしながらも足繁く通うのは、すべてルイとヒカルの未来のためだ。どんなにルイがもう止めろと言っても、彼女は自分のできることはすべて行ったと感じるまでは繰り返す。何度も、傷ついても繰り返す。ルイは決して繰り返さないのに、ヒカルは繰り返すのだ。

「オレは」

そこまで言ってから、彼女に深く口付けする。溜息を彼女に流し込む。彼女の指先が震え、身体が揺れて、脊が反れる。口吻ひとつでこれほど乱れる彼女の躰を抱きながら、彼はそっと唇を離す。何も考えずにただ、ルイに委ねれば良いのに。

彼はヒカルに回答した。

目の前の、彼の一手に向かって。

「・・目の前にある手を最高の一手にする。・・・最初で最後にするために」

そう言って、彼は彼女に身体を乗せた。重みでベッドが軋んだが、まったく気にしなかった。

問答の時間は終わりだ。彼は、始める。長い夜を始める。

この言葉の意味がわからなくても良い。彼女を手に入れるために、いつも彼が幾手も先という考えではないことを伝えたから。それだけで良かった。彼女の未来には場合分けは必要ないのだ。ひとつしかないから。だから、目の前の「手」が最高の・・・・そして揺れることのない礎となって、それを積み上げて行く。それが、ルイのやり方だ。常に最高の一手を用意する。そして、その次がないように最後にする。・・・未来永劫。これは、彼が死ぬまで続く。ヒカルが逝っても、彼が生きている限り続くのだ。彼女の心は永遠に手に入らない。それでも良い。こうして、彼をたったひとりだと定めたことをヒカルが後悔しないように、生きる。

すずらんの匂いが立ち上る。ヒカルの体温が上がっているからだ。彼は自分の腕を絡め、彼女の躰に自分を埋めていく。深く、激しく。普段の彼から考えられないような程の強い熱情を滾らせて、ヒカルを抱きしめた。

 

ヒカル。オレに、溺れてみろ。そしてそれでも・・・懼れるのであれば、もっと激しく抱き、何もかもを吹き飛ばしてやろう。

 

彼はそう決めて、ぎゅっと眼を閉じたヒカルにそう囁いた。

彼女が彼を蔑ろにした罰を、今、贖ってもらう。

そう思ったのに。彼は、彼女の口から愛しているという言葉を聞くために、幾度も彼女を啼かせる。猥啾で涙させる。陳腐で無価値だと思えた言葉であったのに、ヒカルの唇からそれが漏れて、赦しを乞うまで・・・彼は彼女の躰に自分を沈めていく。

海に潜る。晄の渦に浸る。そして、彼で満たす。

彼にとっての永遠の晄は、星の煌めきを霞ませるほどに強く発光する。けれども、それはルイという彼女の唯一の人だけに見せる秘密なのだ。

 

彼はヒカルの尖る果実を含みながら、彼女の脚から腰に手を伸ばし、彼女を開かせた。ヒカルが腕を伸ばし、彼の身体にしがみつく。堪えきれない震えが熱を呼び込む。そして、彼はそれが思い描いた通りの最高の一手であることを確認し、薄く嗤った。ヒカル、これからだ。覚悟しろよ、と呟きながら。


 

10 Louis

 

彼女が寝返りを打ち、身体を丸くしたので、それを合図にルイは身体を起こした。

それまでは彼の腕枕で胸に顔を埋め、静かに眼を閉じていたが、やがてヒカルが規則的な呼吸を始め、身体を動かしたので彼は腕を持ち上げ、彼女の様子を眺めていた。

ルイが眠っていることを確認して、安心したのだろうか。

彼は眼を瞑っていただけだ。ヒカルが眠るより前に、彼が意識を失うことはない。

ヒカルは迂闊だな、と彼は嘲笑した。

 

深い眠りに入ると彼女はこうして眠る。幼い頃に両親が突然消息不明になった時の心的外傷ゆえである。どんなに満たされた眠りでも、これは昔から変わらなかった。そうでなければ自分を護れなかったのだろう。大人達の思惑に翻弄されながらも、パリに行くと決めた時の彼女はまだ本当に幼かった。

 

・・・・ルイは細く長い指先を彼女の髪に絡める。

彼女はルイがこうすると落ち着くと言う。指先で眠っているヒカルの頬や目尻に残る涙の軌跡を思い出しながら、軽くなぞる。彼の恋人は強情である割に、涙をよく零す。本人は、泣かないと決めているが、涙を零すばかりが泣くという行為ではない。彼女はいつも泣きそうな顔をして何かを堪えてばかりいる。それを溜め込んで、ひとり深く憂える。

そうして生きてきたが。

・・・彼に頼ることはしないが、最近は、ぽつりぽつりと自分がどう思っているのか話すようになって来た。幼い時から人の顔色ばかり窺って生きているヒカルには劃期的進歩とでも言っても良いような変化であった。

 

彼女はまったく眼を醒ます様子はなかった。汗ばんだ身体を横たえて、身体を丸くし、ぐったりとしたまま泥眠に墜ちていた。

 

・・・少し激しくしすぎたか、と思ったが、後悔はしていない。

 

一度、顔を洗いにバスルームに行き、化粧は拭い落としたようであったが、その後、シャワーを使うと言った彼女を引き摺り、もう一度ベッドに沈めた後は・・・彼女は今に至るまで、寐台から立ち上がることはできなかった。

 

彼は締まった腹筋に力を入れて、静かに身を完全に起こした。

間もなく夜明けの時間であった。今日は仮眠することもないだろう。ヒカルは今日もクロス家に行くと言っていたが、彼も同行するつもりであった。プライベートとはいえども時間は限られている。このことだけのために、時間を割く予定にはしていない。世間一般の恋人達の余暇にすることもないが、ヒカルには少し気晴らしが必要であった。どこか、人気の少ない場所に連れて行き、落ち着いたら・・・何もしなくてもどこにも行かなくても、部屋に籠もりきりで一日中抱き合っていたい。必要なのは恋人としての甘い時間ではなく、十分に話し合うだけの時間であった。

そこで彼が嗤う。

・・・一日中、ヒカルを抱いていたいと思うのは恋人同士の世間一般的な時間の過ごし方そのものではないか、と気がついたからだ。

 

どんなに親密になっても、そんな風に時間を過ごしたいと言われても、彼は首を縦に振ったことはなかった。プライベートを一緒に過ごそう、とねだられてもウイと言わなかった。

それなのに。自分の変化を嘲笑う。ヒカルの来日に同行してまで、自分は彼女とそれほどにしてまで居たいのか・・・と思うと自らの誇り高さを切り売りしているようで屈辱だと思っただろう。・・・これまでの彼であれば。

しかし、見えないところで苛立つより、近いところに置いて苛立つ方がまだ精神衛生上、好適であると思われた。適しているかどうかは問題ではない。彼女の傍で、彼女を労るのはルイだけなのだとヒカルに思い知らせるためには必要な処置であった。

 

・・・そこで、彼はまた気づく。

 

自分が、ヒカルと過ごしたいと思っているのだ。

自分が、ヒカルを慰めたいと思っているのだ。

 

微睡む彼女の白い背中に毛布をかけてやった。

こどものように無防備な状態である彼女の背中は小さかった。

彼の情炎に灼かれたヒカルは、疲弊しきって少しも目醒める気配がない。身体中に鬱血した痕が残り、彼女の上で華開いていた。茶の髪は乱れ、留めピンは散らばっている。シーツは湿り、ルイとヒカルの零した雫が点在していた。

 

それは極めて淫猥な眺めであるのに、どこか・・・清らかで淫靡とは無縁で・・・愛おしかった。

床にはふたりが身につけていたものすべてが散在しており、彼女が目醒めたら、着る物がないと慌てるだろうと思った。

彼女が眼を醒ますまでに用意しておけば良かった。このホテルを予約することに同意したのはこの苑に多種のすずらんが植わっており、時期的に満開の時期を迎え、毎年の催し物となるほどの規模であるからだ。

 

・・・彼は身体を屈めてヒカルにキスをする。眠っている彼女の顔は幼かった。

そして、その時のルイの表情が、余りにも和らいだものであるので、それを見た者はいつものルイ・ドゥ・アルディとの違いに驚愕することだろう。幸せに満ちて、そして彼は優しい笑みを浮かべているのだから。いつも孤独で寂寥感に溢れた彼の横顔とは違っている。けれども、それはヒカルにしか見せない顔だ。いや、ヒカルさえ知らない、彼の貌である。

 

彼は立ち上がると、クローゼットにあった予備のバスローブを取り出した。予備とはいっても、彼女に最初から使わせる予定であったので、それをそのままヒカルの眠っている場所から一番遠く離れた場所に置く。ぱさり、と乾燥した音がしたが、ヒカルはまったく気がつく様子はなかった。

 

彼女の声が嗄れるほど彼はヒカルを貪った。しばらくは目醒めないだろう。日中緊張した上に、夜中までひとり歩きをし、今に至るわけだから疲弊の度合いは相当なものであると思われた。それでも、彼女はかなり早起きで、これは長年の習慣から来るものであった。今でも、朝早く、その朝の最高の状態の薔薇を用意する習慣は変更されていない。彼女の中に染み付いたものは、消えて無くなることはない。

ただ、今は日本に居るのでそうしないだけだが、ある一定時間を経過すると規則正しく目が覚めるのは変わらないらしい。時差の影響が出ているので、日本時間の早朝に目醒めるとは限らないが、彼女はそこも調整できるようであった。

 

涙を流し、ルイにもう赦して欲しいと懇願し泣く様は官能的で彼を煽った。

そして彼女が息も絶え絶えになって、ルイにしがみつく力さえ失って、これ以上は無理だろうという極限まで彼女を離さなかった。

・・・慈しみ大事に扱うことも考えるが、そうはしない。彼女の「永遠」が誰なのか、何なのかを刻み込み続ける。もう、どこにも行かないように。・・・どこにも、行けないように。彼以外の誰かにヒカルを抱かせるつもりはない。未来永劫、彼女は彼の伴侶としてあり続けるのだ。

・・・どういう風に行動すれば、優しいと言われるのかは理解している。けれども、彼女にはそうしない。優しいと思われなくても良いと思っているからだ。ヒカルがルイにとって、媚びたり自分を偽ったりすることを必要とする相手であれば、選ばなかった。彼の激しい憤りを受け止め、時には受け流し、そして自分の主張を覆すことのない頑固な人を、彼はこよなく愛しているのだ。誰よりも。何よりも。・・・自分よりも。口惜しいがそれは事実であった。

 

他者から見れば、良縁であると言われるが、ルイが日本国籍の妻を持つことは最良であるというわけではない。旧家同士の縁組みが一般的であるのに、またもや、東洋人を妻に据え置くことに難色を示す者が皆無であるとは言わない。でも、それを言わせない自信があった。彼女が時期アルディ家当主となるルイの配偶者として必要であるというのは、明らかなのだから。親族会のどんな条件も大抵は呑んできたが、これだけは譲らない。もしこれで難航するのであれば、すべてを捨てて、分家を作って新しい系図原簿を作る。そう言い切ったルイに逆らう者は居なかった。

 

・・・結局、彼女を部屋に戻すことはなかった。

彼女が戻った時に、驚かせようと思い、ルイの部屋に来るようにと残したメッセージと伴に、すずらんのアレンジメントを小さなバスケットに入れたものを部屋に用意させたのだが、彼女はそれを見ることもなかった。

すずらんは幸福の象徴であるが、昨晩はそんな気分にもなれないのだろうと思ったからだ。

そして、朝には早起きをしたヒカルが庭園ですずらんを摘み取れるように手配をしておいたが、この様子では目醒める時間にはすべての蕾が開花してしまうだろう、と思った。

 

彼はひとり、苦笑する。

ベッドから滑り降り、完璧な比率の身体の上にローブを羽織り、彼は彼女を見下ろしていた。

彼女の為に行動し、彼女の為に次の手を考える。それなのに、彼女を抱くためには幾手も先を考えない。

・・・これはもう、ヒカルに溺れているとしか言いようのない事態であった。

 

そしてルイは彼女の髪から浮き出している留めピンを、取り除き始めた。

髪を引いて彼女を起こさないように。手遊びのつもりであった。

シーツの上に散らばっているそれらを静かに集めるが、そこで、ふと、手を止めた。青灰色の双眸で彼女を見つめ、そして金の髪を掻き上げると溜息をついた。

彼女のことばかりを考えている自分を愚かしいと思ったが、それでも・・・彼女には必要なことであると思うと、仕方が無いなと思う。

 

しばらく、ヒカルをひとりにする。

けれども、彼女が目醒める前に、戻る。深い眠りに入ったことを彼女の呼吸音で確認すると、ルイはローブを軽く羽織ったままでそのまま別室のバスルームに向かった。目醒めた時に、彼女がひとり残された時に感じる寂しさを、彼女が味わえば良いのにと思う一方で、彼女はまだ目醒めないという確信もあった。

そして、彼は彼女を一人残して、どこかに行くようなことがないとヒカルが信じていることも、知っている。

だから。

 

彼女の眠りを妨げないように。

彼は、次の行動に移った。

その足取りに迷いはなかった。

 

まだ、起きるなよ、ヒカル。

 

そう命じながら。彼は、使うつもりのなかった、別室のバスルームに足を運んだ。

 


11

 

ヒカル・クロスが難しい貌をして主寝室から出てきた時、彼は既に外出用に着替えを済ませていた。煙草に手を伸ばし、銜えたそれに火を付けるところに、ヒカルが出てきた。

正確に言えば、ヒカルの目醒めた気配を感じたので、煙草を吸う気になったというのが正しい。彼女が何を切り出すのか、わかっていたから。

癖の強い彼女の髪は、幾度か撫で付けたようであったがかなり乱れていた。寝乱れた様子を見せるのは恥ずかしいが、やむを得ないというような表情で主寝室から出てきたヒカルに、彼は煙草の煙を吐き出しながら、素っ気なく言った。

「シャワーぐらい、浴びたらどうだ」

彼女は大きめのローブの中で、身を縮ませて戸惑っていた。サイズが合わないのは仕方がない。けれども、その貌が余りにも幼くて、無防備であった。恋人の寝起きの顔を愉しむ者も居るが、彼はそうではなかった。いつ、何時何があるかわからないので、身なりには配慮すべきだと考えている。けれども。ヒカルの顔は晴れやかで困惑と疲労が残っているものの、愁いは残っていなかった。

その代償に、彼女の躰には濃淡様々に彼の残した刻印が残っているはずであった。

朝の白い陽光が射し込んできている部屋の眩しさに、ヒカルは眼を細めて何度も瞳を瞬かせていた。

 

ビジネスデスクと椅子が置かれているそこで、しばらくメールチェックをしていた。けれども、その他に今日の予定を書き込んでおくことにする。それから昨日の報告も。

彼の行動予定は系図原簿とリンクしており、体調管理を今でも必要とする彼に課せられた日課であった。それが厭わしいとは思わないが、昨晩の出来事を、どう表現を変えて書いても「ヒカル・クロスと共寝」という事実しか書き込めないことに苦笑いする。

彼はラップトップ上のプログラムを一時、スリープ状態にさせる。

「おはよう、ルイ」

彼女は小さくそう言った。気恥ずかしさが先行しているようだ。プライベートの時間、ルイの方が早起きしたことはなかった。だから、今回の寝坊に罪悪感を感じているようであった。もっと早く起きていれば、ルイと過ごす時間も増えたわけだから。

・・・そう思うのであれば、深夜に帰ってくるという行為を反省しろ・・・彼は心の中でそう思うが、口に出さなかった。彼女と過ごす時間が惜しくて、眠らなかったのだとは言わない。

「間もなく朝食の時間だ。その格好でいるのか?」

彼は冷たくそう言った。彼女がシャワーも浴びずにこちらに顔を出した理由も知っているというのに、敢えて嬲るようにそう言ってのける。

目醒めた時に、ルイが居ないので、ヒカルは慌てて起き出したのだろう。

そして、一度はバスルームを開く音がしたので、そこで・・・自分の有様に気がついて、そしてこちらに赴いたわけだ。

わかりやすい行動しかしない彼の恋人をルイは鼻先で遇った。素っ気なく抑揚なく返事をするが、それはヒカルが羞恥で畏縮しているからだ。だから、いつも通りにする。

「ルイは、眠らなかったの?」

おずおずと尋ねるヒカルに彼は即答した。

「正確に言えば、眠れなかった」

そのいらえに、ヒカルが今度は笑った。ヒカルの用意した部屋では眠れないと彼が抗議したからだ。どれだけ素晴らしい部屋であったとしても、彼は眠れない理由があって、それがヒカルのせいだとルイが責めているから。だからヒカルは苦笑いを浮かべるのだ。

 

彼女は素直に謝罪する。

「・・・留めピン、散らばったままだった。・・・ごめんなさい」

彼女は自分の髪留めがルイの気に触って眠れなかったのだ、と信じて、そこで謝罪した。ルイは否定しない。確かに、彼女の癖の強い髪を留めるためのピンは点在し、彼の眠りを妨げた。それは事実だが、それだけではない理由があったことをヒカルに教えてやる必要は無かった。

気にするな、とは言わなかった。今後、彼と共臥をするのであれば、それは配慮して欲しいことであったからだ。けれども、彼女をバスルームに入れることをせずに、引き摺るようにしてベッドに戻したのは、他ならぬルイであったので、そのことについて責められると話が長くなると思い、黙って居ただけであった。

 

そして、そこで、ヒカルは遠慮しがちに、言いたいことがなかなか言えない様子であったが、やがてぽつりと言った。自分の髪をつまんで、彼に差し出しながら。

「ルイ、これ・・・」

もっと近くに寄って来いよ、と思いながら・・・彼はヒカルに応じる。

 

彼女の髪には、すずらんが散っていた。今朝、最高の状態のすずらんである。

まだ朝露を受けて湿っており、先ほど括り付けられたことが明白であったそれらに、ヒカルが驚いて顔を出したのだ。

・・・彼女を驚かせる、というのは至極簡単だが、思った手順で驚かないこともある。彼女が一度自分でチャージした部屋に戻れば、こんな手間が増えることもなかったのに。しかし、どこにも立ち寄らずにルイの部屋に来たのだから、これは必要不可欠な変更であると言える。

「オレを寝不足にした仕返し」

彼がそう言ったので、ヒカルの顔は一瞬で真っ赤になった。昨晩の媾合のことを言っているのかと思ったらしい。その場に立ち尽くしたままなので、彼は追い打ちをかけた。

「アルディ家の家訓では、やられたら・・・倍返しだ。ヒカル」

 

彼が自ら選んだすずらんの華を、彼女の髪にそっと括り付けたのは先ほどのことだ。それでも彼女は目醒めなかったが、高雅で甘美な香りが、彼女の目覚めを促した。いくつか留めピンに絡めるだけで良かった。彼女の茶の髪によく映えて陽光の下ではかなり・・・花嫁の髪飾りに近くなるだろう。

そしてそれは思った通りであった。彼女は化粧もせず、目醒めたばかりで、目元が朱に染まっているがそれでも美しかった。

広がった茶の髪に点在するすずらんの華が、合歓で与えられた艶香を含むヒカルに清らかさを付加していた。

 

彼女は感涙に耐え、少し俯いていた。

 

ルイは黙って、その様子を観察していた。彼女はいつも無垢で純真で涜したくなるほど透明だ。いくら、彼で満たしてもそれが変化しない。

 

あの薔薇の苑で最高の状態の薔薇を探す彼女と同じであった。場所がどこでも同じだ。ヒカルは・・・いつもの通り、彼女の微笑みを届ける。最高の状態の薔薇が欲しいのではない。それを届けるヒカルが・・・欲しい。

 

ヒカルは次にビジネスデスクから少し離れた、部屋の中央に設置してある応接用のローテーブルの上にあるものを発見したようであった。

素っ気ない挿花であった。昨晩、彼が飲み干したペットボトルに水を入れて、そこにすずらんを活けてある。それだけであった。けれども、茎が細く束にするには相当量が必要なそれが、ぎっちりとボトルの口を塞いでいたのでヒカルは絶句していた。

薔薇を摘む習慣のある彼女は、茎の細い華奢なすずらんをこれだけの束にすることが、どれだけ大変な作業であることを知っているからだ。

彼女がそれを凝視していることを知り、彼はヒカルに話しかけた。

「花瓶はあとで持って来させるが、それまで保たないだろうな」

「うん・・」

彼女の、感極まった声が響く。朝摘みの花を、ルイから捧げられたヒカルは感激のあまりに声が詰まり、そしてルイにありがとう、と言った。

そうだ。彼が、誰かの為に眠らないで花を摘む。そして、戻って来てまだ眠っている恋人の髪にそれを絡め、目醒めの時にどんな反応をするのか、待つ。それは、誰にも行わないことである。誰にも・・・そう、ヒカル・クロス以外には。

彼女は誰かに祝福されたいと願っている。自分の両親がそうであったように。けれども、皆に祝ってもらえる環境ではない。それでも・・・それでも、ルイの元から離れることはできないのだ。それを知って、彼女はそれでも・・・ルイの傍に居るということの覚悟をして欲しかった。

エロイーズのように・・・彼の祖母のように、壊れてしまうような者は必要ではない。ヒカルは、そうならないように遺伝子操作されて生まれて来た。ルイと同じだ。だからこそ、彼女の未来も見渡せるのだ。安心したいから安全な者を選ぶのではない。同じ時間を多く共有した者だからこそ、彼の何もかもを今、曝け出せる。彼は誰かのために・・・眠らずに花を摘み取る。

誰かと時間を過ごすことなどは考えていなかったのに。彼は、ヒカルのために・・・・こうして彼らしくないことをする。

 

「ルイ、私、頑張るね。今日が駄目なら、明日がある。昨日が駄目だったのなら、今日が何か変わるかもしれない」

ヒカルの言葉に、彼は嗤う。まったく意味の無い根拠のない決意表明であった。けれども、それが彼女の精一杯であるのだと思う。

「楽観的過ぎるのも、良くない傾向だな」

彼はそっと言った。横を向いたので、前髪が揺れる。どういうわけか、居心地が悪かった。ヒカルに見られていることで・・・どうにも、平静を失いそうになる。

彼の素っ気ない態度に、ヒカルは動じることもなく、そうだね、と彼女は笑っただけであった。

「ルイ。・・・今日、昼頃には戻る予定だから、その後、庭を散歩して・・すずらんを一緒に観ない?それから・・・」

髪にすずらんを散らしたままで、彼女はそう言ったので彼は冷笑する。ひとりで行かせるつもりはなかった。何のために、彼が朝から外出用の服装をしているのか、彼女はまったくわかっていない。

「まずは、することがあるだろう」

それで、ヒカルはようやく気がついたようであった。彼女がまだ、昨晩の名残を残したままであることに。彼女が、まだ・・・・何も用意できていないことに。

いつもの彼女であれば、顔を赤らめて何が起こったのかを反芻し、そして薄暗がりに飛び込むことであろう。けれども、今日の彼女は違っていた。

ヒカルは自分のこれからの予定をそこで初めて考え始めたようだ。

溜息を漏らし、途方に暮れる様は、彼の予想通りであった。

「服は間もなく届く。荷物ごと。行き来するのは時間の無駄だ」

ルイがそう補足してやると、彼女は安堵した表情を見せていた。彼に抜かりはない。手配済みのことを告げるのはやや退屈であったが、彼女が次に何を着るのか・・・それは尋ねてみても良い事項だと思った。

眠れないのか、眠らないのか・・・彼は少なくとも、このプライベートと言っている期間、いつもと違う自分を見つめることになった。それが良いことなのかそうではないのかは判別をつける必要もないが・・ただ、彼女の笑顔と寝起きの顔を最初に見るという風景を、日本で見ることが出来た。それだけでも収穫だと思うことにする。


12 君影草〜muguet

 

ルイが彼女から視線を外し、メールとニュースのチェックのためにラップトップのスリープ状態を解除し、報告書のウインドウを非表示にしたところで、ヒカル・クロスは言った。

「バスルームを使わせてね」

間もなく、朝食や彼女の部屋の荷物が届くはずであった。その時に寝乱れた姿で応対させはしない。彼女も心得ているようで、すぐに準備するために気持ちを切り替えているようであった。

アルディ家のしきたりを熟知しているヒカルには、ひとつひとつ彼の習慣について教え込む必要が無い。だから楽だというのではなく、返ってそれが無言の了解を強制していることになっている。気難しいルイの、不機嫌な朝に付き合うことができる者は居ない。だから、彼は誰とも夜を越さないことにしていた。気まぐれに見えるようで、各々に意味がある行動について説明をしなければならない時ほど億劫な時間はないからだ。

ヒカルは、髪に残っているすずらんの花のついたピンを丁寧に取り外しながらバスルームに向かおうとして、そして何かを思いついたように足を止めた。

ルイは気がつかないふりをしていた。彼女の姿が見えなくなるまで、自分の神経が彼女に向いていることなど、彼女は気がつかない。そしてそうしている自分を悟られるくらいなら、最初から見ないことにするという程には彼の誇りは存在し続けているのだから。

灰皿に入れた煙草から煙が僅かに上っていく。朝日の中で、それは靄のようであったが、すぐに霧消した。まるで、彼の憂いのように。跡形もなく、消えて行った。

 

今日の行動予定を立て直し始める。彼女に同行するだけではなく成果を出して戻ってくるつもりだ。たとえ、どんなに詰られたとしても彼女は彼と居る事で、自分の考えを貫くことを改めて決意するだろう。もう、彼女ひとりの問題ではないのだ。

 

考えに耽るルイの耳に、軽い走音が聞こえた時には、それは突然降り注いできたので、顔を上げた時には、もう・・・彼は彼女に捕らえられていた。

「ルイ」

ヒカルの声が聞こえて・・すずらんの微香を感じる、と思った時には彼女の唇が彼の薄い唇に重なっていた。

朝日を背にして、彼の掛けている椅子が軋む。目の前が、彼女の茶色の髪で広がり、すずらんが目の端で揺れていた。

軽い口付けであったが、ヒカルからキスをすることはなかったので、ルイは少しばかり驚き、今度は彼が身を固くする。

彼女には理屈は通らない。思いついた時に、思いついた行動を実行する。

 

・・・昨晩、あれほど彼女を蹂躙したというのに、彼女はそれでも変わりなく、いつものように彼に微笑む。

思考の途中で強制的に呼び戻されたので、彼の頭はまだ痺れていた。ヒカルのキスひとつで・・・彼は思考の浮沈を中断させられる。

ヒカルは自分の都合で彼を振り回す。

けれども・・・抗えない。

彼女の唇は甘く、柔らかく、そして慎ましかった。歓楽で戯れるような、そんな口吻ではない。ただ、あたたかく、優しい。

彼女の閉じた睫が僅かに震え、頬が羞恥で染まっている。彼はそれを見るとそっと青灰の双眸を閉じて彼女の温度だけを感じる世界に入り込む。

 

ヒカルが顔を上げると、そこには既に眼を開いて、気恥ずかしそうにルイの顔を覗き込んで微笑んでいた。

彼女の笑顔が見たくて、自分が何をしたのかを知る。

夜明けの苑に彷徨い出て、彼女が夜にひとり歩いた路を辿り、許可を得てすずらんを摘み取る。普段の彼では絶対にしないことであった。

涙が見たいのではない。ただ・・・微笑んで、こうしてルイにだけはにかんだ顔を見せるヒカルを、彼のファム・ファタルに定めてしまったのだから。

 

すずらんは、別名「君影草」と言う。・・・古くは「君懸草」と言い、項垂れる花瓣が誰かを恋い焦がれる様に似ているとか、懸想する自分自身の胸を押さえる姿に似ているとか・・・様々に言われている。けれども。

今、まさしく彼女は自分の頭を垂れて、彼に向かって唇を落とした。

その様は、まさしく・・・彼女の髪に散り、デスクの上で華開くmuguetそのものであった。

 

彼の永遠の晄は、淡く笑う。まるで、すずらんの花のように。

「まずは、したいことをしてみた」

彼女はルイに囁く。けれども、自分でそう言ったのに、自分の言葉に羞恥を感じ、彼女は落ち着かなさそうに唇を噛んだ。ルイの顔を覗き込んだかと思うと、彼女は急に視線を反らす。まったく理解できない人だ、と思ったが、それは嫌悪ではなかった。萎れていたかと思えば急に希望に満ちる。彼女の感情は目紛しく変化するが、決してルイに感情を剝き出しにすることはなく、いつも一歩引いている。

それなのに、今朝に限っては・・・彼女は自ら彼に唇を寄せてきた。

 

ルイが何も言わないでいると、気まずくなったのか、少し早口で彼女は当初の目標を口にする。

「次のやることは・・・シャワーよね」

彼女は頬を朱くして、肩を竦め、顔を横に向ける。

・・・けれども、それより先に、ルイがヒカルの手首を掴んで引き、ヒカルが驚いて自分の方に手を引こうとしたものの彼の力に負けてルイの膝の上に乗った。

ルイ、と困惑したヒカルの声が耳元で聞こえるが、彼は彼女の手首を掴んだままでそれを無視する。

彼女から仕掛けてきたのだ。

彼女が、ルイを訪ねて来たから。彼は彼女を帰さなかった。それに彼女が反撃したのだと思った。・・・ヒカルからのキスで、少なからず彼は驚いた。心を揺らされた。それは今までにないことで、彼はそれに対して報復する権利がある。

予期せぬことには対応できる余裕を持っているつもりであった。

けれども、彼女は乱暴に彼に入り込んできて、掻き回していく。彼の予定も、予測も、何もかも。

だから、彼は彼女の襲来に受けて立つ。それが、家訓だからだ。

 

彼は彼女に囁いた。綻びながら。その表情に、今度はヒカルが驚く番であった。

彼はいつも無表情に近いが、こうして笑むこともできる。いつも、必要が無いからそうしないだけだ。

 

「ヒカル、倍返しには全然、足りない」

彼女の腰を抱き、腕を伸ばして彼女の顎を捕らえ、引き寄せる。こんな軽いキスで終わるつもりなのかと思うと、ヒカルの稚拙さに呆れるばかりであった。そして・・・ルイの端整な貌に、彼女は眼を伏せながら顔を寄せる。ルイに促されるままに身体を屈めて、彼に唇を重ねる様は・・・花嫁との誓いのキスをする時のように厳粛で静かで清らかであった。

彼は顔を上げて、膝上の彼女と重なる。

煙草の味と混じり、彼女の唇を味わいながらも彼は彼女の腰と背中を強く抱きしめた。次に彼女の唇に浸る。幾度も、幾度も。

そして彼女が彼の首に腕を回し、熱を帯びてくる様を感じながら、彼は・・・微笑んだ。

彼女が、愛している、と彼に囁いたからだ。

 

彼に首を傾けるすずらんのような恋人の仕草に、ルイはただ・・・昂揚する。どんなに難解な数式を解いても、どんなに強敵と言われる相手を打ち倒しても、味わうことのできない満足感がそこにあった。

 

来訪者を知らせるチャイムが鳴ったが、ルイもヒカルもそれにすぐさま応じることはなかった。激しく抱擁していたからだ。ヒカルが身体を離そうとしても、彼は赦さなかっただろう。そして、彼はヒカルを抱きしめながら、彼は心の中で言った。ああ、オレもだ。ヒカル。穢してしまいたいと思う程に。誰にも関心の無かった彼が、唯一執着する相手として認めざるを得ない。しかし、それが口惜しい。苛立つ。けれども、突き放すことは出来ない。

 

彼女の手には、先ほど自分の髪から解したすずらんの花が握られていた。

花嫁のブーケには華奢すぎるが、彼女は既にルイの妻である。誰にも誓わなくても、彼と彼女の中では、ふたりはすずらんの花に誓いを立てた者同士であった。

 

彼女に、ずっと言わせ続ける。思わせ振りな行動も、彼女を不安にさせるような言葉も・・・必要があればその都度、生み出す。けれどもそれだけにはしない。彼女を繫いでおくために、彼はこうして自分の時間を割いて彼女のために行動する。

来日することも、クロス家に同行することも・・・彼女のためにすずらんを摘み取ることも、彼には苦ではなかった。

 

憎らしいが愛おしい。乱してみたいが清らかなままで居させたい。相反する愛のパラドクスに、彼はただ、艶笑する。

解けそうで解けない難解なこの問題を解けたのなら・・・彼はどこに行くのだろうか。どこに、行き着くのだろうか。

 

滾る情火に灼かれながらも、ヒカルのキスを受けながら・・・彼は青灰色の瞳を閉じた。

 

これからの困難は、彼にとってはさほど難しいことではなかった。乗り越えられない問題ではない。しかし、それはヒカル・クロスという永遠の晄が存在するから乗り越えられるのだ。

 

これを愛と言うのであれば。

確かに・・・・

彼は愛し愛され、そしてその歓びで今、微笑んでいる。

 

君影草の花言葉は、「幸福」・・・・

 

彼女がこうして彼にキスを落とす限り。

彼は、すずらんの花を捧げ続ける。

薔薇だけではなく、世界中の彼の知るすべての花を捧げる。

 

最愛の人と、これからを歩むために必要なものは用意する。

最愛の人が彼に微笑むのであれば、彼は何でもする。

束縛と言われても良い。干渉と言われても良い。ただ、必要だからだ。

 

・・・ああ、参ったな。

 

彼は嗤う。

彼はもう、彼女に倍以上の仕返しをしなければならないほど・・・彼女に夢中なのだ。

 

今日の行動予定の書き出しをどのように書くか、彼は考え始める。

どの項目にも、ヒカル・クロスの名前を記載することになりそうであった。

 

 

FIN

 



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