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 スコッチを片手に、知り合って十五分以上隣に座っている奴がいれば、それで準備は完了する。夢は始まる。

 

 昔、隣りに住んでいた幼馴染には妹がいて、そいつは兄貴よりも数段ましな性格をしていたし、何より美人だった。

 

 彼女と最後に別れたのは二十一歳の春だったが、そのとき彼女は十七歳だった。年月が過ぎるのは早い。彼女は最後に、

「あなたと会えなくなることが何よりも寂しく感じる。」

 と言ってくれたが、僕にはそれが美人になる女の常套手段であることには気付いていたので、その手には乗らないぞ、と言ったような不敵な笑みをもらした。僕は、

「いつか必ず会えますよ。」

 と、彼女の母親の前で彼女と握手を交わした。僕はそれまでに、女性のことでは色々と手痛い仕打ちを受けていたので、どんなときでも防備を怠ることなく社交することが自分をも相手をも守る最善の手段だと決め込んでいた、訳だ。僕も少しずつ、狡賢くなり始めていたのだ。

 

 

 問題は、その年の冬だった。僕ら家族は、東に引っ越していた。その場所は、元居た場所よりも格段に寒く、妹も母親も弱り果て、疲れきって、僕ら一家はかつてないほどの不幸を味わいながら暮らしていた。僕は僕なりにそんな生活を楽しんでもいたのだが、特に母親の方は、黙っていれば、それで自分の人生の終劇を迎えよう、と言った沈調な面持ちで、よく何もない場所を虚ろに眺めていた。僕は生活よりも、そんなじめじめとした家族と一緒にいるのが嫌で、遊び場や溜まり場や、友だちの家を転々と渡り歩いていたが、ある日、ふと家に帰ってみると、郵便受けに一通の封筒が紛れ込んでいた。僕の知り合いに、僕に手紙を送りつけるようなマメな奴はいなかったし、遊びの誘い以外なら大抵中身は知れていて、借り出した音源や本の返却や、僅かばかりの借金の催促がそれだった。だが、宛名は確かに僕になっていて、その封筒の感じからそれはなんとなく、まともな手紙であるような気がした。差出人を確認すると、Mと打ってあった。それは、幼馴染のあの彼女だった。

僕は、朝方酔った足取りを急激に醒まし、いそいそと手紙の封筒を開け、中身を読んだ。手紙の出だしは丁寧な字体で、僕の名前が書いてあった(少なくとも最初の方だけは綺麗な字だった。)。特筆すべきは、その手紙の冒頭に、愛しのH様へと書かれていたことだったろうか。


愛しのH様へ

 

お久しぶりです。その後お変りありませんか?お手紙致します。

貴方が去ってから二つの季節が過ぎ去ろうとしています。そう夏と秋です。春の終りに貴方が去ってから、毎日は幼稚園児のいない幼稚園のようにただ心寂しく平和な時の中にあります。正直に、貴方がいなくって私は哀しいの。道で逢う度、時々、私に聞かせて下さっていた世にも面白い冗談と笑い話の数々、私、今でも忘れませんわ。あなたが、いなくなった隣りの家のその私の部屋で(むしろ小屋といった方が正しいのかも知れません。)私はただ、貴方が居なくなった寂しさを埋めるために、あの時の世にも面白い冗談を思い出して時を過ごしています。

最近、風の噂で、東に移ると言いながら実は私どもの家の近辺に住んでいらっしゃるということをお聞きしました。私、秘密は守れるはずの女ですの。だからもし、貴方がお嫌ではなかったら、私と会ってほんの少しずつだけお付き合いして頂きたいの。私は本気なのです。今までずっと幼馴染同士で、そんなこと言い出すような義理じゃなかったけれど、貴方が去ってしまってから、私、本当に大切なものが何か分かったような気がしますの。お願いですから、返事を下さい。貴方の愛をいつまでも待っています。

 

                                        貴方のMより 愛を混めて。

 

 

 

最後の字が間違っていたが僕はそのことは気にしないふりをした。どうしたって僕たちの間には冗談が溢れていた。彼女が僕のことを、愛を混めてどう思っているかは考えないようにしていたが、そんな風に書かれると僕としてもそれなりに好奇心や卑俗心をくすぶられるようなところがあったわけで、あわよくば、と言ったような期待を込めながら、返事を書いた。もちろん、母にも妹にも内緒のことだった。

 

 

 私の愛しのMへ。

 

 

 実は昨今、ちょうど私も同じことを考えていました。そんな折に貴女の手紙、もはやこれは運めいとしか言いようもないものと感じます。会いましょう。是非、会いましょう。それが貴女のためであり、私のためでもあるのです。私たちは運めいの中、密接に結び合った夫婦です。どうか、付き合う、などと、軽い言葉で私たちを形容せず、ただ恋人として不足のない相手だ、と私を名指しで呼んで下さい。私は必ず貴女の愛に応えられるはずです。いつ会いますか?

 十二月の一日などどうでしょう。寒さの中、我々は出会い、その後、冷え切った心を二人して温め合うのです。

 今、貴女に会えるなら、私は何を失っていい、とそう思える程の覚悟です。どうか、お返事を下さい。後生です。いつでも貴女を見守っています。

 

                                           貴女の恋人のHより 愛を混めて。


 

 僕は凍てついた並木道に、あの赤いポストを発見した。Mは本当に僕を愛しているのだろうか?それは直に会うまで分からないことだったが、手紙にしたためた奇妙に情熱的な僕の口調が快くもあった。僕にとって、女性への愛は、動物的衝動への都合のいい口実に過ぎなかったが、それを知るほどまでに彼女が穢れてはいないことを僕は熟知していた。少なくとも、半年前の彼女からは全くそんな素振りはなかった。僕にとって彼女は動物的衝動を向けるための異性などではなく、僕の隣りの家に住む別家の妹で、自分の妹よりも冗談の通じる扱いやすい玩具だった。彼女が僕に恋心を抱いていることなど、僕にとっては三文小説以下の出来事でしかなかったが、それでも、怠惰と退廃と貧窮を旨とした今の生活よりは格段に輝かしく希望に満ちた大きな事件であり、僕は半ば彼女への本気の恋を期待するような兆しもなきにしもあらずだった。

 返事はすぐに来た。

 

 愛しのH様へ。

 

 お手紙ありがとう。夜も眠れませんでした。元の家から少し遠くのイタリアンレストラン『ケチャップ』で三時に待ち合わせしましょう。いつか、貴方が好きだと言っていたパスタ一緒に食べましょう。それが私の夢でした。では、そのときに。貴方を待っているわ。

 

                                       貴方のMより 愛を込めて。

 

 

 

 かくして時はあまりにも早く流れた。ついにその日は来た。僕は時間どおりに、『ケチャップ』に訪れた。彼女は先に座ってコーヒーを飲んでいた。赤いダッフルコートが少女を感じさせた。それが彼女の一番得意な服なのだ。そして、それは愛して欲しいという本物のサインのように感じられた。僕が席につくと、彼女はすぐに視線を上げた。

「お待たせ。」

 僕はキザたらしく言った。彼女は、明かりが灯るように微笑んだ。その表情だった。その表情だ。僕がいつも女の子の中に侮蔑を以ってしか確認できなかったものは。僕はあの笑みを見る度に愛というものがどうしてこんなにも脆いものなのかと考えざるを得ないのだ。たかが、僕程度の人間が愛を得ていいはずもないのだ。まして、こんなにも美しい女性の愛を僕が得ることなど…。

僕は少し寂しくなった。彼女は話を始めた。

「昨日一晩、ずっと考えていました。どうして貴方にあんなに正直に思いを打ち明けたりしてしまったのだろう。本当にどうして私はこんなにも貴方を困らせてしまったのだろうって。貴方、私に幻滅したでしょう?」

「どうして?」

「どうしてって、それは私が、きっと貴方の想像よりもそんなには綺麗じゃないから。」

「綺麗なことが大事なのかい?だとしたら、僕には、そんなことはあまり関心のあることじゃないんだ。君はずっと可愛いよ。僕にとって君は綺麗というよりも可愛い存在なんだ。だから、顔を上げてごらん。僕が言ったこと分かるかい?」

「はい・・・。分かります。」

「それは良かった。我々は今日。そんなことを話に来た訳じゃないはずだ。今から話をすることはもっと大事なことだよ。いいかい?」

「はい。うん。分かったわ。」

「そう、いい子だ。君はいい子なんだよ、かけがえのない、ね。だから、僕たちは今まで以上にもっと仲良くなれるはずだ。意味は分かるね?」

「はい。私きょう、それを訊きに来たの。」


「君は本当にいい子だ。いいかい?僕たちは今日から恋人同士だ。だから、ここで二人だけの秘密とルールを決めよう。ルールは新しく増やしてもいいが、消すことは出来ない。また、心の中でどうしても打ち明けて置かなければならない秘密を伝えるのも、今日限りだ。今日だけは、告白すれば今までの罪も全て赦されるんだ。言っている意味分かるね?」

「はい。」

「よし、いいだろう。じゃあ、まずは君からだ。君の秘密を喋りたまえ。僕は恋人だからそれを聞く。そして、どんなことがあってもそれを赦すよ。さあ?」

「本当に、本当に打ち明けていいのね。」

「ああ。」

「七歳の頃、貴方の家の郵便ポストの泥団子入れたのは私よ。」

「え?あれはてっきり君の兄貴がやったもんだって。お袋さん謝りに来たぜ?」

「ううん。違うの。お兄ちゃんに頼んで無理やりに泥被ってもらったの。貴方のお母さんの大事な手紙汚してしまってごめんなさい。」

「・・・、いいさ。そんなことは。僕に実害はなかったし…そうか、他には?」

「十三歳の頃、貴方の妹の好きな男の子にラブレター渡してあげる代わりに、貴方の部屋、見せてもらったことがあるわ。男の子って皆、机の引き出しの裏側にエロ本を隠すものなの?うちのお兄ちゃんも同じ場所に隠してたわ。」

「え?ほんとに?マジであれ見ちゃったの?というか、お兄ちゃんも?」

「何驚いてるの?本当よ。ごめんなさい。でも私もとってもそういうことに興味があったの。でも、大丈夫。私、男の子ってそういうものだってよく知っているから。」

「そ、そうか。ありがとう。魂の底から感謝するよ。」

「それなりに、深い、のね?」

「ああ。思春期の男にとってエロ本は人生のバイブルなんだよ。」

「そうなの?私、そんなこともしらなかったわ。ごめんなさい。私、あなたの心…、じゃくて魂を傷つけたかしら?」

「いいんだよ。誰にでもあることさ。そういう魂を傷つけられる経験は男の生き様には付きものなんだよ。」

「かっこいいのね。男の人って。」

「ダンディズムだよ。そうか、でも、君のお兄ちゃんまでエロ本なんか持ってたって意外だったよ。あんなに取っ替え引っ替え女の子と手をつないで歩いていたのに。」

「そうね。でも、お兄ちゃんは…確かに、他の女の子から見たからカッコいい男の子だったかも知れないし。モテてたかも知れないけれど、別に愛されている人ではなかったわ。確かにほんと呆れるくらい取っ替え引っ替え、取っ替え引っ替えしてたけど。」

「そういうもんなのかな?そういうもんなんだろうか…?彼のためには身も心も捧げていそうな女性が四桁くらいまで簡単に集計できそうだったけれども…」

「そんなこともないわよ。お兄ちゃんは、あの人は与えられはしたけれど、欲しいものを手に入れられるような、そんな人じゃないのよ。それに、女ってそれほどでもないものよ。」


「そうか、そうなんだ。で、他には?」

「他?」

「そう他。」

「例えば?」

「今までに付き合ってた男の人数とか。」

「そんなのは、ないわ。」

「え?」

「いないわ。誰とも付き合ったことないの。だってそうでしょ?小さな頃からずっと貴方が好きで、そのせいで周りの男の子なんて皆ふって来たの。私、貴方の妹さえ、居なければ、もっと早く、貴方に告白していたわ。」

「え?妹が何かしたのか?」

「知らないの?貴方の妹、あの子、すごいブラコンで、私とお兄ちゃんが付き合うって言っただけで、もう絶対、悪魔のように黒々と燃え上がって呪いの言葉を呟き始めるわよ。まあ、そのくらい私のこと嫌いって考え方もあるけど。」

「そうだったの?すごく仲のいいものだって思ってたけど。」

「見た目はね。でも、何度も言うけど女ってそういうものよ。だからね、いま私すごく倖せだわ。ようやく好きな人に好きって言えるの。こんなことって本当は世の中であんまり起こらないことなんじゃないかしら。」

「そう、なんだ?」

「そうよ。私にとっては、モーゼが海割るよりも奇跡だわ。誰にも邪魔されずにこうして二人きりで会って貴方と話が出来るなんて。そして、貴方が私の恋人になってくれるだなんて。もう、本当に最高よ。」

 彼女の声は、店内にはち切れんばかりに響いた。

「じゃあ、ちょっと質問していい?」

「ええ。何?じゃあ、君は本当に誰とも付き合ったことがない?処女?真っ白?なんにもないの?」

「そうよ。何か悪いの?男の人って初めての女の子が好きなんでしょ?初めて誰かを愛するようなそんな子犬のような瞳で見つめられたいんでしょ?年中そんなことしか考えてないんだって、私のお兄ちゃん言ってたわ。貴方もそうでしょ?」

「うーん。そう言われれば、そうだ、としか言いようがないが。でも、どうだったかな?帰って僕のバイブルを開けてみないと分からないかも知れない。でも、初めてであろうとなかろうと、大切なのは本人たちの気持ちさ。愛し合ってさえいれば、大切なのは、お互いが同じ次元で生きていることそのものだからね。そのために、男の子は女の子を貰いに来るんだよ。ちょうど、僕が君を貰いに来たみたいにね。」

「凄いわ。あなた、凄いこと言うのね。同じ次元だなんて…とっても広いのね。それくらい広い心を持ってるってことね。私ちょっとだけ感動しちゃったわ。でも、安心して、私はまだ乙女よ。ちょっと意地悪で、料理が下手だけど、身体にも気遣いにも自信があるわ。だって、私はあのお兄ちゃんの妹なんですもんね。」



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