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不可捨(すつべからず)   著:あやまり堂

結論を言えば、僕はそれをまだ捨てられないでいる。
けれどそれを捨てなくちゃいけないことは、よくよく知っている。

捨てなくちゃ、僕はきっと、このままずるずると、
中学や高校生の当時と同じ幼稚さで、これからの人生を送ることになるだろう。

夢とか、恋の思い出とか、僕の童貞とか。

要するに、そういった「無知だったころに抱いていた憧れ」の数々を、
一つずつ捨てて行くことで、人は大人になって行くのだろう。
現実を知って、自分の才能の限界を弁えて、分相応に生きて行く。

ほどほどの会社に就職して、全然おもしろくない仕事を
与えられるまま、こなしながら、
感動することもない、といって嘆くほどでもない程度の収入を得て、
ささやかな人生を歩んで行く……そこで、きっと、夢なんて捨てきることができる。

宇宙飛行士になるという夢は、とっくに、中学で、理科と数学が出来なかった頃に捨てた。
部活で打ち込んだ、水泳の国体選手とか(それさえオリンピックという夢を捨てた後だ)、
あとは漫画家になることとか、歌手とかバンドとか詩人とか小説家とか。

そういった夢を全部捨てて会社に所属、数年経って、
同僚が企画する合コンか、大学同窓会とか地元自治体の企画するお見合いパーティか何かで、
かわいいところもある、という程度の女性と知り合うだろう。
そこで相手も同じような感想を僕に対して抱きつつも、とりあえず流れで交際することになり、
相手の三十歳の壁か何かで結婚が決り、
やがてラブホテルで少しの軽蔑を浴びつつ(というのも、きっと僕は緊張で失敗するからだ)、
とにかくセックスして童貞を捨てるだろう。

それでその時になれば、昔の恋の記憶なんて全然、どこかへ捨て去っているはずだし、
とにかく、そんなふうにして、僕はひとつひとつ捨てながら、
「自分自身の人生」を見つけることになるのだろう。
だから、そういう「幼稚な憧憬」というようなものは、
順番に、一つずつ、時にはまとめて、捨てる。
捨てなきゃこの社会の大人として生きて行けない。


ところで――。

奈良には今も、大安寺という古い寺がある。
南都七大寺に数えられ、奈良時代には興福寺と並び称されたほどの大きな寺である。

だが都が平安京に移ってからは振わず、火災などに遭うなどしてさびれていた。
しかし、さかのぼれは「大官大寺」や聖徳太子の時代にまでつながるような、
伝統ある大寺であることは事実だ。
そのため、寺では都が遠くなってからも有力貴族を味方につけようと様々に働き、
寛弘四年(1007年)には御堂関白こと、藤原道長を寺へ招くことに成功している。

だがそれも、十年後の寛仁元年(1017年)、大火によって伽藍を全焼させ、
以後は見る影もなくなってしまったのである。

「これではいけない」

というので、名は残っていないが数代に渡って時々の別当や僧住たちが駆け回り、
時には唯一焼け残った本尊の釈迦如来像を持ち出すなどして、各方面で寄進を募ること数十年、
永久四年(1116年)までには、
何とか金堂、回廊、重塔さらに鐘楼などを再建することに成功するのである。

だが。

この永久当時の別当が、私利私欲にきたない男だったからいけない。
せっかく、娘を都の蔵人の妻にすることにも成功したのに、
「寄進された品々を着服しているのではないか?」
と勘づかれて、結局、蔵人との関係が破談、
ついに、往事の威勢を取り戻すところまではできなかったのである。
今もその伝統の割に、知る人はそれほど多くない。
すくなくとも興福寺や、東大寺ほどに、奈良の寺として名を売ることはできなかった。
無残な話である。

……。

まったく関係ない話を書いていた。

僕はこの大安寺の話を、いつか小説にしようと思って、資料を集めて、
ある程度の構想までまとめていたのだけれど、
やっぱりどうしてもうまく小説にするところまでできていなかった。

要するにこの構想もまた、僕は捨てることができないでいる。
今も。

そしてたぶん明日も明後日も、僕はずっと、全然捨てられないでいるだろう。



(了)

ウミトハネ     著:雨森

妹がそのチケットを手に入れたのは僕が十歳、妹が五歳の時だった。
「にいちゃん、うみからこれあげる」
僕に両手でさしだしたチケットは『やくそくけん』と書かれてあり、僕がそれがどういう意味で書かれたのかを妹に聞くと、まだ幼い妹は、
「うみはにいちゃんとけっこんするの。そのやくそく」
そんな事を言ってきた。当時もう思春期に入りかけだった僕は、この妹の『やくそくけん』を笑顔で受け取りながら内心ではおかしな戸惑いも感じていた。
両親は、妹の宇美が生まれてすぐに離婚し、僕たち兄妹は母の祖父母に引き取られ、育てられてきた。母は実家である祖父の家にほとんど顔も出さず、宇美が幼稚園生になった年に知らない人と再婚して、それ以来顔を見ていない。
僕たちの親代わりとなった祖父母はやさしかったが、それも宇美のあの病気が発症するまでの話だった。
それは宇美が九歳になった時に始まった。
「兄ちゃん、背中が凄くかゆいんだけど」
そう言って僕に背中を見せた。妹のシャツをまくって背中を見てみると肩甲骨の上に小さな傷ができており、それが赤く腫れていた。
「傷みたい。触るなよ?」
そう言い付けたものの、宇美はたびたび背中のかゆみを訴え、そのたびに僕に泣きついてきた。
ある日、僕が部活から帰るといつものように飛び出てくる宇美の顔が見えない。いぶかしんで宇美の部屋に行くと、宇美はベッドにもぐりこんで泣いている。
「おい、どうしたんだ?」
ベッドの傍まで歩み寄る僕に宇美はいつもかゆみを訴えている背中を見せた。
翅だった。
妹の背中の肩甲骨の上に、それぞれ二枚の虫の翅が生えていた。
現代でも難治とされる慢性上皮石灰翅腫という病気だった。
妹は何度も手術をしたが、取り除くたびに翅が生えてきた。翅が生える以外は特に問題になる症状がない事を理由に祖父母が宇美に治療を諦めるように言ってきたのは宇美が十二歳の時だ。もちろん、医療費が嵩んで家計が苦しかった事を知っていた僕と宇美は、それ以上祖父母を苦しめるつもりはなかった。

五年が過ぎた。宇美は十七歳、兄の贔屓目じゃないがとても美しい少女だった。
だが、背中に虫の翅が生えている妹に近寄る異性はいなかった。 ――というより、妹の方が異性を遠ざけていた。高校一年のときに彼氏ができたとはしゃいでいたが、それもほんの一時期の事だった。たとえ兄でも男である僕には言えなかったのだろう。だが僕には薄々だが気付いていた。宇美は恋人にその翅を見せたのだ。そしておそらく手酷い振られ方をした。
宇美がそうやって苦しい青春を送っている中で、だが僕の方はなぜか幸福だった。今から考えればこの美しい妹を何年も一人占めにできたのだと素直に思えるが、当時の僕にはその幸福を素直には受け入れられなかった。僕は何度も妹にデートを薦めたり、僕の大学の友達で信頼できる奴を紹介したりした。
だがそれが逆効果だったのか、宇美は頑なに異性との接触を拒んだ。
「私にはおにいちゃんがいるから、大丈夫よ」
僕はそんな妹に困惑顔をしてみせながらも、内心では無上の喜びがあった。
四年が経ち社会人になっていた僕は、祖父母の家を出て二人暮らしを始めていた。
宇美は大学三年生で相変わらずの男嫌いだが、それなりに充実した生活を送っているようだった。僕はいつまでも妹と一緒に暮らすのだと思い込んでいた。あいつの背中の翅を受け入れてやれるのは僕だけ、そんな陶酔めいた思いに浸っていた事にも気付かなかった。
ある日、宇美は彼を連れてきた。
石間くん。以前僕はいつものようにデートをすすめた僕と同じ大学のサークル出身の後輩だった。もちろん、僕の前に異性を連れてくるなんて始めての事であり、僕は緊張した。
「宇美さんと交際させて頂くことになりました」
出会いというのは一面で難しく、一面でなんともあっけないものだ。その石間という男は既に宇美と僕だけの秘密だった『そのこと』を知っていた。
「お兄さんにお許しを頂ければ宇美さんと結婚をと考えています」
若い癖にずいぶんと堅苦しい事をいうこの男を、僕は「こいつ、いい奴だから」と褒めた。内心では静まりようのない後悔の嵐が吹き荒れている事を妹は知りもしない。
石間は結局宇美の外見に惚れただけではないのか、体が目当てで背中の翅を見ないフリしてるだけだろう。夜になると僕の妄想は大波となって揺れた。そして朝になると静まった。
僕は石間と宇美の結婚を許した。結局僕の思いとは、僕を狂人にさせる類のものではなかったのだ。朝を迎えたとき、僕は必死で自分をそう納得させた。
宇美は八年前に石間と結婚して、今では一児の母だ。
どことなく僕に似ている。夫である石間と宇美が生まれたばかりの甥を見てそう言って笑った時の事は今でも昨日の事のように覚えている。六歳になる甥には、まだ翅は生えていない。たぶんきっと生えない。
そして去年、宇美にさらに嬉しい知らせがあった。 持病である慢性上皮石灰翅腫の再発を抑える新薬が厚生省から認可されたのだ。石間の後押しもあって、宇美は最後の手術に臨み、その背中の翅と決別した。

「それ、おにいちゃん持っててよ」
麻酔から醒めたばかりの白い顔のまま、宇美は僕に言った。取り除かれた宇美の翅は乾燥して小さく縮んでいた。
「バカゆうな、こんなものいらないよ」
そういって断ったが、宇美の頼みもあり結局その翅はビーカーに密閉されて今僕の部屋にある。それを見るとなぜか僕は、いつも妹の結婚式を思い出すのだ。石間は僕に向けたスピーチでこんな事を言った。
『お兄さん。宇美をずっと守って下さってありがとうございます。これからは宇美を守る仕事を僕にも分けて下さい。きっとこれからは僕とお兄さんが両翼に、宇美を守る天使の両翼になるでしょう』

僕は今も一人でいる。
宇美を僕をつなげていた虫の翅は取り除かれ、僕の心にも一応のケリがついた、そのつもりだった。今年の秋には石間くんと宇美にもう一人家族が増えるそうだ。その知らせを聞いたとき、自分の事のように嬉しかった。
でも宇美の翅が入ったビーカーと一緒に、あのチケットがクローゼットの中にある事を、さて宇美は知っているだろうか。『やくそくけん』 僕はそのチケットを後生大事に持って、一体どうしたいのか、兄として妹の幸せを祈っていたいのか。
それを僕はまだ捨てられないでいる。

<終>

きみがはじめて恋をするとき、色とりどりの光の乱舞を見るだろう   著:太友 豪

耳の奥にへたくそなハーモニカの音がこびりついている。
 僕と三島くんの出会いは幼稚園にまでさかのぼる。僕は幼稚園児の時から社
交性に乏しかった。
 一人砂場でダムを造っていた僕に猫除けの網を投げつけ、ドロップキックし
てきた元気のよい男の子が三島くんだった。
 三島くんは当時としてはとても珍しいストロングスタイルのいじめっ子だっ
た。気にくわなければ殴るし、特に理由がなくても蹴る。
 三島くんとのつきあいは、二十年の長きにも渡ったわけだけれども、なぜ彼
が僕に目をつけたのかは今もよくわからない。
 三島くんのいじめスタイルは、「こいつは俺だけのオモチャ」型だった。
 そんなわけで、ずいぶんひどい目に遭わされたけれど、僕は三島くん以外の
人間のいじめられたことがない。
 殴られたの蹴られたりだのは、三島くんを見返したくて始めた実践空手の道
場でさんざん経験した。
 僕も三島くんも、この地域の平均より少しだけ下の世帯収入の家の子だっ
た。わかりやすくいえばはっきりと貧乏ということだ。
 僕はぼんやりと生きて、中学を卒業するまで人を好きになったことがなかっ
た。僕も男だから頭の芯がじんじんとしびれるような欲望は起きている時間の
ほとんどは感じ続けていたけれど、それと恋を間違えるほど僕の頭は鈍っちゃ
いなかった。当時はね。
 三島くんは、僕よりも速く頭の芯の痺れが、脳みそ全体に及んでしまった。
 可哀想に、中学生の三島くんは恋を知ってしまった。相手はブラスバンド部
に籍を置く犬童(いんどう)さんだった。イヌという時が入っている姓だった
けれど、全体的な印象は猫っぽかったと思う。結局僕は彼女とは一度も話さな
いままだったから性格については保証できないけれど。
 僕たちの通う公立中学校のブラスバンド部は、もちろん楽器の貸し出しを行
っていた。けれど、僕も三島くんも金管楽器のビカビカが怖くて近づけなかっ
た。当時の僕たちは、カラス並みだった。
 けれども、三島くんは勇気を出した。彼は、家から手垢やホコリでスモーク
グレーになったハーモニカを持ってきたのだ。「ブルースハープっていうん
だ、ドイツ産だぜ」などと三島くんはいっていた。
 ブラスバンド部の主な活動場所は後者の西端。僕たちの通っていた中学校の
校舎には両端に避難用の外階段が備え付けられていた。
 三島くんは二階と三階のあいだの踊り場で孤独にラブソングを送り続けた。
 ブラスバンド部からしてみれば、開いた窓の外から調子外れな童謡なんかが
聞こえてくるのだから堪ったものではないだろう。
 外階段の下でしゃがんでいると階段を下りてくる女子のスカートの中身がち
らりとのぞくことがあるのを気づいた僕は、そんな三島くんを地上から応援し
ていた。ちなみに中学の僕は点から降り注ぐ色とりどりの光の乱舞を心から堪
能したとだけいっておこう。
 ……どういうわけか三島くんは自信に満ちあふれていた。力一杯ハーモニカ
を吹くものだから、地上の僕までその音色が届いてきたものだ。
 三島くんの恋の行方については言わずもがな。基本的に暴力的で傲岸不遜
で、自分の家のことを馬鹿にする人間を力で押さえてきた三島くんの失恋はあ
っという間に全校中に知れ渡った。
 当時は誰もがそれを笑い話にした。
 けれど今日、その話をする三島くんの家族の顔には懐かしむような優しい笑
みが浮かんでいる。
 東京で、通り魔から他人を守ろうとして巻き添えを食って三島くんは死ん
だ。
 ちょうど三年前の今日のことだ。僕のポケットには、熱にあぶられ元がなん
だったのかわからないほど変形した金属のかたまりがある。
 HOHNER社のブルースハープの共鳴板。
 火葬される直前の三島くんの手に強引に握らせたせいか、普通なら溶けて流
れてしまうはずのものが残ってしまったのだ。
 僕は、三島くんの家族の目を盗んでちっぽけな金属のかたまりを喪服のポケ
ットに滑り込ませたのだ。普通なら親族しか列席しないお骨上げの席に僕がい
たのは、三島くんの友達は僕だけで、僕の友達も彼だけだったからだ。
 たった一人だけの僕の友達の、誇るべき最初の失恋の証。
 それを僕はまだ捨てられないでいる。

この本の内容は以上です。


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