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*この作品に出てくる組織、団体、人物等は全てフィクションであり、実在する組織その他とは一切関係ありません。


1.種子島上陸




種子島にて

 - 種子島ってこんなに寒かったっけ?


 空港で借りた車を走らせながら、宮坂は2年前の真冬に種子島に出張したときの寒さを思い出そうとしていた。

 今は4月下旬。ゴールデンウィークも近い。なのにダウンコートを着てちょうど良いくらいなのだ。今年は冷夏かもしれないとふと思う。仕事に直接の影響はないだろうが、健康管理に気をつけた方が良さそうだ。

 宮坂は今日から始まる仕事のスケジュールを頭の中でもう一度確認した。今日のうちに管理棟に出向いて、事務関係の手続きを全て済ませておかなければならない。明日の夜にはいよいよHTVが種子島に入港してくるから、明後日から忙しくなることだろう。

 国際宇宙ステーション(ISS)への物資の輸送を一手に引き受けていたスペースシャトルが退役することが本決まりになり、その後の会議でISSプロジェクトに参加している各国がそれぞれ自前の輸送船を開発してISSのための物資を輸送することが決まっていた。HTV (H-II Transfer Vehicle)はISSへの物資の輸送のために日本が開発した宇宙船だ。HTVを打ち上げるためにH-IIB型ロケットも新規に開発されていた。HTVの開発には10年以上の年月がかかったが、ついに今年の秋にHTVをISSに向けて打ち上げることが決まったのだ。HTVも、HTVを打ち上げるH-IIB型ロケットもどちらも初号機のコンビだった。今回のミッションに成功してHTV初号機が輸送船としての役目を果たすことができれば、その後は年に1回のペースでHTVをISSに向けて打ち上げる計画になっていた。スペースシャトルはHTVの打ち上げ後、今年の冬に最後のフライトをもって退役することになっている。

 宮坂も宇宙航空研究開発機構(JAXA) HTVプロジェクトチームの射場班の一員として、種子島で打ち上げのための準備作業を担当する。打ち上げまでほぼ半年、当分はつくばのオフィスと種子島を行ったり来たりすることになる。少なくとも打ち上げが無事に成功するまでは休みらしい休みは取れそうにないことを覚悟していた。宮坂ひとりに限ったことではなく、HTVプロジェクトチームのほぼ全員が休日返上で打上げに向けた準備作業に取り組んでいた。


 2日後の深夜、種子島 島間港。宮坂は車の中で熱い缶コーヒーを飲みながらHTVを乗せた船が到着するのを待っていた。

「宮坂、おまえ記録写真の撮影担当だろうが。もうすぐHTVが到着するから、コーヒーなんか飲んでないでカメラ持って外で待機してろ。」

 種子島宇宙センター(TNSC)で行う打ち上げ前準備作業の総責任者である佐々ファンクションマネージャーからどやされ、宮坂はしぶしぶ車を降りた。風が強いせいもあってかなり寒い。ダウンコートを着て来たのは正解だったようだ。

 港を見やると、明らかに港の照明とは違う瞬きが見えた。来た。次第にこちらに近づいてくる。HTVを乗せたトレーラーを筑波宇宙センター(TKSC)で見送ってから2週間、つくばでは毎日のように見慣れていた機体がすぐそこまで来ていた。宮坂はカメラを構え、夢中になってシャッターを切った。

 陸揚げ地点の近くには既に作業員が待機していた。船の接岸を待ってHTVが収納されたコンテナをクレーンで吊り上げようとするが、風が強くて船がなかなか安定しない。どうにかコンテナを港に吊り下ろしたときには接岸から既に数時間が経っていた。

 点検が終わった後でコンテナをトレーラーに積み替え、パトカーの先導でTNSCへと向かう。パトカーの後にHTVの開発メーカーである四菱重工の担当者の車とトレーラーが続き、宮坂たちの乗る車は一番最後に続いた。

 「宮坂、ちゃんと撮れてるだろうな。重要な業務記録だぞ」

 車を運転する砂山から念を押されたが、宮坂は実は一眼レフのカメラを使うのは今回が初めてだとは言い出せなかった。真っ暗な中でフラッシュも焚かずに撮ったのも心配だが、ともかく無事に撮れていることを祈ろう。

 HTVを乗せたトレーラーは島間港から南種子町の中心街に続く細い道を通り抜け、さらに幅の狭くなった山道を時間をかけて切り抜けてようやく種子島宇宙センター(TNSC)に到着した。到着した頃には既に夜が明けていた。


 そしてTNSCで打ち上げ準備作業が始まった。

 HTVは機体が非常に大きいため、機体を与圧部(人間が宇宙服を着なくても入れる区画)、非与圧部(大型の貨物を搭載する区画)と電気・推進モジュール(電子機器とスラスタ(推進系)が搭載されている区画)の3つに分けて種子島に運び込んでいた。輸送中に機体がダメージを受けていないことが確認できたら、次は3つに分かれた状態でそれぞれ試験を行って打ち上げ前の性能に問題ないことを確認しなければならない。問題ないことが確認できれば与圧部、非与圧部、電気・推進モジュールを一つにまとめる。このころになると曝露パレット(大型の貨物や宇宙実験装置を搭載して非与圧部に取り付ける。HTVがISSにドッキングした後でISSに装備されているロボットアームを使って非与圧部から曝露パレットを取り出し、貨物や宇宙実験装置をISSに移送する)が別便で種子島に到着する予定なので、曝露パレットを非与圧部に取り付けて動作確認を行う。この動作確認もパスすればいよいよHTVが打ち上げる時の形に組み上がる。

 HTVを組み上げた後もさらに試験を行って組み上げ後の姿で性能に問題ないことを確認し、問題なければ推進薬ををタンクに充填し、HTVをH-IIB型ロケットの担当者に引き渡してロケット先端部のフェアリングに収納してもらい、最後の最後に生物実験用のサンプル(鮮度を保つために打ち上げ直前にHTVに引き渡されることになっていた)を与圧部に収納してようやくカウントダウンまでこぎつけて、それから...。

 宮坂は作業スケジュールを眺めて、改めてため息をついた。衛星に比べると種子島上陸から打ち上げまで半年かかる作業というのはずいぶん長いが、それでも何回スケジュールを眺めてみても余裕はほとんどない。何か不具合が起きれば夜勤で対応するか、休日をつぶして作業するかしなければならないだろう。休憩時間がが減れば作業者はそれだけミスをしやすくなる。そもそも夜勤対応や休日出勤だけで済むかどうか。打ち上げ日が一度遅れると、打ち上げ後のHTVの軌道計算を全てやり直さなければならない。休憩時間を減らすのも打ち上げ延期もどちらも避けたかった...いや、筑波宇宙センター(TKSC)で1年間もかけて機能実証試験をしてきたんだ。不具合だって山ほど出てきたが、全て原因を究明して二度と再発しないように手を打ってきた。スケジュールに影響するほどの不具合はもう出てこないはずだ。宮坂は自分に言い聞かせるようにつぶやいたが、我ながら説得力がある言葉には聞こえなかった。

 「宮坂、そろそろタスクブリーフィングが始まるぞ。期待してるよ品質管理担当殿!」

 砂山からからかい混じりに声をかけられて、宮坂はあわてて立ち上がった。これから種子島で最初の作業(タスクと呼ばれている)を始める前の四菱重工の担当者との打ち合わせが始まろうとしていた。


 タスクブリーフィングを始めて間もなく、何となく違和感があることに気がついた。タスクの準備状況には問題ないのだが、目の前の打ち合わせ相手をしばらく見ていて違和感の正体に気がついた。四菱重工の担当者は全て、今までTKSCで見慣れていた作業着の上にお揃いの青いジャケットを着ているのだ。ジャケットの右肩の部分にはHTVのイラストと「SHOT」と書かれているワッペンが縫い付けられているようだが、SHOTとは何だろう? 気になったので、聞いてみることにした。

 「ああ、SHOTとは"Successive HTV launch site Operation Team"の略語ですよ。当社からいろいろな部署の人間がH-IIBロケットやHTVの打ち上げ前の準備作業のために種子島に来てますから、他の部署と区別するためにHTVの担当者用のジャケットを作ったんです。」

 四菱重工のHTVの打ち上げ準備作業の総責任者である五木が笑いながら教えてくれた。五木はHTVの設計から筑波宇宙センターでのシステム試験、そしてTNSCでの打ち上げ前準備作業まで一貫して責任者を務めていた。

 SHOTか。うまい略語を考えついたものだ。なんか格好良いし。宮坂は素直に感心した。自分たちも射場作業の担当者用にお揃いのジャケットを作っておけば良かったかなとちょっぴり後悔した。


 宮坂が竹崎荘に戻った頃には、先に戻った連中による飲み会が既に始まっていた。明日行われる記者会見のために種子島入りした虎尾プロジェクトマネージャーも既にご機嫌になってH-IIB型ロケットの中山プロジェクトマネージャーと何やら大声で話していた。

「よう、ご苦労さん。メシは残しといてやったぞ。何か問題はあったか?」

「いえ、特にありません」...プロマネに報告しなければいけないほどの大事はですけどね。

 HTVとH-IIB型ロケットのどちらの関係者も竹崎荘を定宿としていた。宮坂は知らなかったが、H-IIBに限らずロケットの関係者は種子島での打ち上げの時には伝統的に竹崎荘を定宿としているのだそうだ。HTVプロジェクトのメンバーもロケット打ち上げの経験者が大半を占めていたため、特に宿泊先をどこにするか話し合うこともなくロケットと同様に竹崎荘を定宿とする雰囲気が生まれていた。

 「宮坂君、なんで竹崎荘を定宿に決めたか分かる?」

 佐々が声をかけてきた。佐々も一緒に飲んでいる砂山も既に顔が真っ赤になっている。脇に転がっているのはたぶんビールと南泉(種子島特産の焼酎)の空き瓶だろう。

 「...H-IIBロケットのプロジェクトの人たちが竹崎荘を定宿にしてるからですか?」

 「それもあるけどね。ここ(竹崎荘)はある意味道場なんだよ。打ち上げまでの修行の場だな。」

  確かにそれはそうかもしれないと宮坂はふと思った。竹崎荘は種子島宇宙センター(TNSC)の入口近くにある。同じくTNSCの近くにある竹崎海岸まで散歩するのにちょうど良い距離だった。仕事場に近い代わりに、周囲には何もない。以前は歩いていける場所にリゾートホテルがあったが去年廃業し、建物だけが残っていた。バスも先月から運行を取りやめているので、買い物でも食事でも車で出かけるしか方法がなかった。夕食と酒盛りだけは(十分に)楽しめそうだが、TNSCと宿の間を往復するだけの毎日に耐えられない人には厳しい場所だろう。

 何はともあれ、メシと酒を腹に入れてからだな。

 この厳しい道場では、ぼやぼやしていると食いっぱぐれる危険があった。

 味噌汁を温め直して、冷蔵庫から今晩のおかずを取り出す。今日のメニューは刺身と天ぷらだったようだ。飯をよそい終わってさあ食うぞと言うときに、何か黒くて大きなものが天井から目の前にぽとりと落ちてきた。

 「...!!」

 宮坂は茶碗と箸を抱えたまま飛び上がった。ゴキブリか? それにしてはかなり大きい。よく見てみると、大きなクモがテーブルの上でじっとしていた。手のひらくらいのサイズはありそうだ。さらによく見ようとして恐る恐る近づくと、クモはいきなりテーブルを飛び降りてそのまま部屋の隅へと走っていった。一呼吸置いてからさらに壁を駆け上がり、鴨居の陰でようやく止まった。サイズからは考えられないほどの素早い動きだった。

 「お前はたけちゃんとは初対面だったか。大丈夫だよ、人間に向かってきたりしないから心配するな」

 にやにやしながら様子を眺めていた砂山がここでようやく声をかけた。

 「たけちゃん...て、あのでかいクモのことですか?」

 「そう。竹崎荘のヌシだからたけちゃん。何年も前から竹崎荘に住み着いていて、ここのヌシだと言われてるんだよ。たけちゃんが竹崎荘に現れるようになってからロケットの打ち上げは一度も失敗してない。守り神様なんだから大事に扱えよ」

 「大事に扱えと言われても、寝てるときにさっきみたいに天井から顔の上にでも落ちてきたらどうすりゃいいんですか!」

 「だから大丈夫だって。毒はないから」

 「そういう問題ですか!」

 虎尾も佐々も、近くにいた連中は皆にやにやしながらやりとりを聞いていた。「たけちゃん」も竹崎道場に入門してきた者が受ける試練の一つらしかった。


2.ジェットコースター・スケジュール




竹崎海岸のカニ


 これが3回目の対策会議だった。

 「原因が分かった以上、不良品を交換するしかないでしょ。このまま黙って何も対策を取らずに打ち上げるわけにはいかない。」

 対策会議のために急遽筑波宇宙センター(TKSC)から種子島まで出張してきた鈴松ファンクションマネージャー(電気系担当)はそう言いながらも顔を歪めていた。佐々も砂山も苦い顔つきだった。

 電気・推進モジュールに搭載されているトランスポンダ(通信装置)にはこれまでも度々泣かされてきていた。TKSCで実証試験をした時にも、性能がなかなか安定しなかったのだ。熱真空試験を行ったときにも試験データのばらつきが激しく、関係者一同がはらはらしながら試験結果を映し出すモニタを見守ったこともあった。ぎりぎりのところで性能規格はクリアできたので今まで改修をしないできたのだが、そのトランスポンダの性能が種子島に来て急激に悪化してしまった。今まで度重なる問い合わせにもろくな答えを寄越さなかった外国のトランスポンダのメーカーも、性能が急激に悪化したことを示すグラフを突きつけられて、ようやく正式に回答してきたのだ -「トランスポンダに使われている部品に製造工程で不純物が混入した可能性が高い。混入した不純物が原因でトランスポンダの性能が急激に悪化していると考えられる。今のままで性能が回復する見込みはないので、トランスポンダごと良品と交換することを推奨する。良品との交換には無償で応じる」と。

 幸いなことに4基あるトランスポンダのうち交換しなければならないのは1基だけだった。しかし、交換するためのトランスポンダの予備品がない。今までに行った予備試験で故障が相次いだため、HTVに搭載できるだけの性能を有する予備品が残っていないのだ。海外から良品を入手しようとすれば、この場で即座に手続きを始めても入手できるのは早くて数ヶ月後。打ち上げは数ヶ月のオーダーで遅れるだろう。できるだけ早く交換するとすれば、HTV2号機に搭載する予定で国内メーカーの四菱電機が作っているトランスポンダと交換する方法しか残されていなかった。国産品に交換するとしても、スケジュールに大きな影響が出るのは避けられないだろう。

 会議に出ている全員が知っているはずの事実ではあったが、宮坂は敢えて聞いてみずにはいられなかった。

 「鈴松さん、四菱電機のトラポン(トランスポンダを略してトラポンと呼んでいた)は今月中に納入されるんですよね。納入された後でさらに性能向上を目指してもう一度改修するって聞いてたんですけど、改修しないで種子島に送ってもらえませんか?」

 「君に言われなくてもさっきから考えてるよ。国産のトラポンと交換するか、それとも予備品を外国から大至急入手するかは虎尾さんに報告してから決める。佐々君、これから虎尾さんに報告するから一緒に来て」

 鈴松と佐々はTKSCにいる虎尾にテレビ会議で状況の報告を始めた。報告を聞いた虎尾の決断は早かった-「不良品のトラポンを四菱電機が製作したトラポンと交換する。予定していた四菱電機のトラポンの改修は行わない」。

 プロマネの決断で方針は決まった。ここまで決まれば、後はどうやって打ち上げ日程に影響しないように不良品を交換するかだけだ。

 既に鈴松も佐々も砂山もそれぞれ四菱電機や四菱重工の担当者に連絡を取り始めている。トラポンの交換のために必要な作業と工具の手配、交換後に性能を確認するために行う試験の種類や試験スケジュールを急いで決めていかなければならなかった。


 宮坂はへとへとになって竹崎荘に戻った。打ち上げスケジュールを守るだけでなく、トラポンの交換作業に問題がないか、交換した後でトラポンの性能を確認するために行う試験の内容に洩れはないか、交換した後で国産のトラポンに問題があることが分かったらどうするか? 決めて行かなければならないことはいくらでもあった。四菱重工や四菱電機の担当者と打ち合わせを繰り返した結果、種子島で行う試験の順番を大幅に組み替えることで何とか打ち上げ期日を守れそうな見込みがついた。ただし夜勤が最初の予定の倍の時間に増える。何とか休日を確保しようと思えば、夜勤の作業時間を増やすしかなかった。トラポンの交換作業と交換後の性能確認試験には品質管理担当として自分が立ち会うことになっているので、当分は種子島に詰めることになりそうだ。


 この時間になるとさすがに皆は自分の部屋に戻って寝ている。ビールと焼酎の空き瓶が部屋の隅にまとめて置かれていた。味噌汁を温め直すのも面倒になって冷たいまま茶碗によそっていたところで、宿のおばちゃんが出てきた。

 「あら、こんなに遅く帰ってきたの。ごくろうさま。おかずは冷蔵庫に入ってるから忘れずに食べてね」遅くなって帰ってきた場合には、宿の食事はセルフサービスの決まりだった。

 「ありがとうございます。 …ふーっ、疲れた…。」

 「大変そうだねえ。たまには休んだ方が良いよ。そうそう、明日の夜は満月だから竹崎海岸に行ってごらん。たぶん面白いものが見られるよ」

 「面白いもの?」

 「カニよ。いつも今時分になると満月の夜にカニがたくさん竹崎海岸に集まってくるの。砂浜が埋め尽くされて、すごいことになるんよ。行き先を間違えたカニがうちの土間にまで入ってくることもある。」

 ひょっとしておばちゃんに担がれてるのかと思ったが、明日はどうにか休みが取れそうだった。夜の海を見るのも気晴らしになるだろうし、行ってみるか。


 翌日の晩。梅雨入り間近の今の時期には珍しく、竹崎海岸は雲一つない良い天気だった。

 宮坂はデジカメと双眼鏡を首から下げたまま、砂浜を見渡せる場所に腰を下ろした。波が寄せては返す音が聞こえてくる。夜の砂浜は思っていたよりも騒々しかった。自分以外にこの砂浜に来ている者は誰もいないようだ。

 月の出を待ちながら海を眺めるのは初めてだった。街灯などどこにもなかったが、近くにある宇宙科学技術館を照らすライトのおかげで暗闇にはならなかった。

 月が昇ってきた。満月だ。

 目をこらして波打ち際を見てみたが、動くものの影は見えない。打ち寄せられた海藻が波打ち際で揺られているばかりだった。月がかなり高く昇るまで待ってみたが、何も動きはなかった。

 やっぱり担がれたかな? ま、夜の海を見られたから良いとするか。

 そろそろ帰ろうと腰を上げたときに、砂浜近くの草むらのあたりで何かが動くのが見えた。慌てて双眼鏡を構える。暗くて見づらいが、黒い塊がもぞもぞと動いているようだった。黒い塊は見ているうちにも次第に大きくなり、やがてゆっくりと波打ち際へと動き始めた。波打ち際に着くころには。黒い塊は砂浜いっぱいに広がっていた。このころになって双眼鏡でもようやく黒い塊が何なのかを見分けられるようになった。間違いない。カニの群れだ。これだけの数のカニの群れは見たことがなかった。カニは海からやってくるのではなく、陸地にいたようだ。いちどきに集まって、産卵のために海に向かうのかもしれない。

 月明かりに照らされて、カニたちは続々と海を目指して進んでいた。足下でも何匹かがちょろちょろしていた。見た感じは沢ガニに似ている。見ていると、カニたちは沖へは出ていかずに、波打ち際で両方のハサミを振り上げて踊っているようだった。よく見ると全身を震わせているようだ。波が何となく白っぽく見えた。カニたちが一斉に産卵をしているのかもしれない。

 宮坂はカニたちを踏みつけないように気をつけながら宿へと戻った。写真を撮るのをすっかり忘れていた。


 梅雨が明けたというのに空気がひんやりしていた。いつもの年だったら、日陰にいても焼け付くような暑さを感じるのだが。

 今年に限っては涼しい夏は好都合だった。ほとんどの作業はクリーンルームで行われるので、クリーンルームに入るためにはまず更衣室で白衣と帽子と防塵マスクとシューズを着用しなければならない。毎日新品の白衣とシューズが支給されるわけではないので、真夏の更衣室に入ると汗臭さで一瞬息が詰まることがあるほどである。今年は涼しいおかげで匂いもそれほどひどくはなかった。

 不良品のトラポンを良品に交換し、交換した後の性能確認試験でも性能に問題ないことが分かったので現場での作業に弾みがついていた。今日は1日かけてHTVを1つにまとめる予定だった。既に非与圧部の上に与圧部が結合されている。あとは電気・推進モジュールの上に非与圧部を載せて結合すればHTVが地上で初めて1つにまとまることになる。

 既に現場の作業者は位置についていた。今日の作業で最も重要な役目を果たすクレーン操作の担当者の緊張した顔も見える。佐々も砂山もそれぞれ作業を監督しやすい場所に立っていた。HTVが一つに結合された写真をJAXAのホームページに載せるため、広報担当者もわざわざTKSCからやってきてカメラを構えていた。宮坂も全体を見渡せる場所についた。四菱重工の現場作業の総責任者が作業の開始を指示した。

 クレーンの動作音がクリーンルーム内に響いた。与圧部・非与圧部は作業台からゆっくりと浮き上がった。そのまま10メートルほど上昇してからいったん停止し、向きを変えた。そして電気・推進モジュールへと近づいていった。非与圧部・与圧部が結合した状態では直径4.4メートル、高さが7メートルある。これだけ大きなものが宙に浮いてしかも動いているのを見るのは壮観だった。

 与圧部・非与圧部は電気・推進モジュールの真上まで来て動きを止めた。ここからはもっとも神経を使う。電気・推進モジュールの周りで作業者が待機した。少しの傾きもずれもなく決められた位置に非与圧部を下ろさなければならなかった。クレーンの動きが細かくなった。一度クレーンが動くたびに非与圧部と電気・推進モジュールの間の距離が計測され、細かい位置修正の指示がクレーン操作の担当者に伝えられた。指示の声とクレーンの動作音だけがクリーンルームに響き渡った。

 最後に、与圧部・非与圧部は音もなく電気・推進モジュールの上に載せられた。目を凝らして見つめていてもいつ載せられたのかも分からないほど静かでかすかな動きだった。すぐさま検査担当者たちが与圧部・非与圧部と電気・推進モジュールの間に隙間がないか、少しでもずれていないかを点検し始める。結果はOKだった。すぐさまボルト締め作業が始まる。ボルト締め作業が終われば電気配線や配管の結合作業だ。

 この日の夜遅く、与圧部・非与圧部と電気・推進モジュールを結合するための全ての作業が終了した。HTVは初めてまとまった1隻の宇宙船としてその姿を現した。周囲を作業台に囲まれているので、HTVだけの姿を写真に納められないのが宮坂にはとても残念だった。


 その日はなぜだか皆がそわそわしていた。

 毎日朝一番に朝会を開いて前日の作業の進捗と今日の作業予定を確認し合うのだが、今日は昼過ぎの作業にかなり余裕が設けられている。明日以降の作業を一部前倒しで入れても良いくらいなのに。そわそわしているのはJAXAだけではない。朝会に出席しているメーカー各社の担当者も何となく様子がおかしかった。

 朝会の終わり頃になって、砂山が真面目くさった顔で出席者全員に伝えた。

 「皆さん、ご存知だと思いますが今日は数百年に1回と言われている皆既日食が見られる日です。うちのプロマネからも歴史的なイベントなので手の空いている人はぜひ見ておくようにとのことでした。ちなみに、昼休みに竹崎海岸の辺りまで行けば日食が見られるそうです。…宮坂、今日の天気はどうだ?」

 そうか、そういえば今日が皆既日食の日だった。いきなり自分に話を振られて、宮坂は慌ててファックスで送られてきていた今日の天気予報を取り出した。

 「は、はい、今日は一日中曇り空だそうです。お昼頃も曇ったままですが、うまくいけば晴れ間が出てくるかもしれないそうです。」

 それを聞いた瞬間、朝会の出席者全員からため息が上がった。四菱重工の五木がため息をついて天を仰いだのがちょうど宮坂の座っている席から見えた。

 「ま、みなさん、お昼までに天気が良くなることを期待しながら作業を進めましょう。」

 最後まで真面目くさった顔の砂山の一言によって朝会はお開きとなった。


 さあ昼飯だという時になって、砂山から呼び止められた。

 「なにやってんだ。すぐ出ないと日食に間に合わないぞ。急いで車を出せ。カメラと日食グラスを忘れるなよ。」

 「竹崎海岸だったらメシを食ってからでも十分間に合いますよね? 砂山さんはメシを食ったんですか?」

 「俺はもう食った。竹崎海岸よりずっと日食がよく見えるスポットがあるんだよ。場所は教えるから、お前運転しろ。」

 砂山は地元種子島の出身なので、この辺りに詳しいらしかった。この人、いったいいつメシを食ったんだ。とりあえず大急ぎで握り飯を飲み込んでから駐車場に急いだ。

 砂山が指示した場所は確かに見晴らしの良い場所だった。遮るものが何もない。既に日食を見物にきたらしい地元の人たちが集まり始めていた。

 空は未だに曇ったままで太陽が出てこない。それでも皆既日食の予定時間が近づくと空が少しずつ暗くなり始めた。

 予定時間ジャスト。相変わらず曇ったままだが、辺りは夜のように暗くなった。遠くを走る車のライトがはっきり見える。気のせいか、さっきより涼しくなったような気がした。宮坂は真っ暗になった空に向けて夢中でシャッターを切り続けた。予定時間を過ぎて空が少しずつ明るくなって行く様子も忘れずにカメラに収めた。残念ながら皆既日食の太陽は最後まで見られなかったが、真昼間に夜のように暗くなった空を見るのは奇妙な感じだった。


 控室に戻ると、佐々が端末に向かって何やら報告書を作成しているところだった。

 「お疲れさん。日食の写真、うまく撮れた? …宮坂君、その格好で日食を見に行ったのか?」

 「え? あ…はい。」急いでいたので作業服を着たままだった。種子島に来てからずっと同じ作業服を着たきりだったので、そろそろ洗濯しなければならないと思い始めていたところだった。

 佐々の目がすっと細められた。まずい。これは大嵐の前兆だ。地雷を踏んでしまったか。砂山は何処かに行ってしまったらしく、姿が見えなかった。

 「業務以外の場所に作業服で出かけるとは何事だ。地元の人からどう見られるかをよく考えろ。JAXAの職員は種子島に遊びに来てるのかと思われるじゃないか! 今日から1週間、宿舎で謹慎しろ! 車の使用も禁止だ!」

 かくして宮坂は宿舎で謹慎処分を言い渡された。車の使用も禁止されたのでどこにも出られなかった。


 久しぶりに戻ったつくばも夏とは思えないほど涼しかった。

 H-IIBロケットのフェアリング(ロケット先端部)にHTVが無事収納されたのを見届けて、宮坂は一度TKSCに戻って来た。TKSCに戻ると、机の上に書類が山のように積まれていた。メールで来る用件なら種子島でも処理できるが、紙の束はTKSCのオフィスにいないとさばけない。出張旅費の請求をしないとそろそろ懐が寂しくなりつつあったし、種子島にいたときに取りそびれた休みも取りたかった。

 紙の束のどれから手をつけようかと考え始めたとき、葛城から声をかけられた。葛城は鈴松ファンクションマネージャーの直属の部下で、HTVに搭載されている電子機器の開発を担当している。

 「宮坂さん、これから対策会議をやるからちょっと出てくれる?」

 葛城の口調は何気なかったが、「対策会議」の言葉で宮坂は一気にだるさが吹っ飛んだ。HTVプロジェクトで「対策会議」といえば、何か不具合が起きたときの対策会議を指していた。宮坂は顔を引き締め、葛城の後について会議室へと向かった。

 会議室には既に鈴松が着席していた。口を一文字に引き結んでいる。鈴松に向かい合うようにして四菱重工と四菱電機の担当者が座っていた。こちらは困り切った顔をしている。一体何が起きたのか。

 話を聞いて宮坂は愕然とした。コネクタの絶縁処理に見落としがあったのだ。さらに悪いことに、このコネクタはロケットとHTVを接続するケーブルに使われていた。このまま何も対策を取らずに打ち上げれば、最悪の場合には打ち上げ直後にHTVの状態を示すテレメトリデータが全く送られて来なくなる恐れがあった。HTVの状態が全く分からなくなるということは、つまり、HTVはそこでご臨終ということだ。

 おまけにこのコネクタは特注品だった。コネクタをケーブルから取り外して改修し、またケーブルに取り付けるだけで相当の時間を食うことは容易に予想できた。

 「鈴松さん、葛城さん、品質管理担当として言いますけど、これは今からでもコネクタを改修するしかないと思います。HTVのテレメトリデータが全く取れなくなる可能性がある以上、危険を見過ごすわけには行きません。」

 「宮坂さん、本気で言ってる? 今からコネクタの改修を始めれば、打ち上げを延期するしかないかもしれない。俺はHTVの軌道計画も担当してるけど、打ち上げ2週間前のこの時期になって延期なんて言ったら軌道計算は全てやり直しだ。軌道計算をやってる連中は今だってほとんど寝てないんだ。軌道計算だけじゃない。アメリカのデータ通信衛星を利用する手続きもまたやり直さなければならない。全部いちからやり直しなんだ。今になって打上げ延期なんてあり得ない!」

 宮坂は葛城を正面から見据えた。

 「葛城さん、貴方はHTVプロジェクトを10年以上担当してきてるんですよね。その苦労をコネクタの不具合ひとつで一瞬でおじゃんにするつもりですか? ほとんど寝てないくらいが何ですか!」

 「何だと!」

 葛城は机を叩いて立ち上がった。宮坂も葛城を見据えたまま、勢い良く立ち上がった。二人はお互いに相手を睨みつけたまま、動かなくなった。

 「…そこまでにしときなさい。」

 鈴松が静かに声をかけた。

 「僕はこれから虎尾さんのところに報告に行ってくる。二人ともオフィスに戻るように。」

 葛城は宮坂を睨みつけたまま、机を思い切り蹴飛ばして会議室を出て行った。四菱重工と四菱電機の担当者も何やらもごもご言いながら退室していった。鈴松も虎尾に大至急ことの次第を報告するため、資料をまとめて退室した。後には宮坂だけが残された。このままオフィスに戻るのも癪だったので、図書室にでも行って時間を潰してくることにしよう。


 「…つまり、鈴松君の考えではコネクタの改修は避けられないということだね?」

 「はい。打上げ直後にミッションフェイル(失敗)する可能性が大です。コネクタを改修せずに打ち上げるのはリスクが大きすぎます。」

 同席していた佐々が異議を述べた。

 「鈴松さん、コネクタを改修しなければ必ず失敗するというわけでもないんでしょう? 打ち上げ間近のこの時期になって軌道計算からNASAとの調整まですべてをやり直す余裕はないですよ。やり直しにかかる時間も、担当者にかかる負荷も莫大です。」

 「佐々君の言うとおり、必ず失敗するとは言い切れない。今まで続けてきた調整を最初からやり直すことになればスケジュールインパクトは莫大だ。しかし、コネクタを改修しないままで打ち上げても何も起こらずに済むと言う保証もないよ。」

 虎尾は二人のやり取りを聞きながら窓の外を見やった。空には真夏の入道雲ではなく、どんよりとした黒い雲が広がっていた。

 「…鈴松君の言うとおり、コネクタは改修しよう。種子島にはいま砂山が残ってるはずだな。改修すべき場所を現地でもう一度確認して、大至急コネクタの改修スケジュールを決めるように。打ち上げ日の再設定はそれからだ。」

 佐々がふうっ…とため息をついた。打ち上げに向けて今まで国内だけでなくNASAとも調整を繰り返して来た結果が、いま一気に水の泡になろうとしていた。これで、いつになったらHTVを打ち上げられるのか予測がつかなくなった。


 HTVにはまだツキが残っていた。図面を細かくチェックしたところ、コネクタをケーブルから取り外さなくてもごく簡単な作業だけで改修できることがわかったのだ。また夜勤作業が増えたが、改修は数日のうちに完了した。打ち上げ日の変更は何とか回避できた。


 コネクタの改修が完了してから1週間後、JAXA内で行われた審査会によってHTVの打ち上げが正式に了承された。打ち上げ日は9月11日と正式に決定し、対外的にも公表された。

 打ち上げまであと1週間。

 この日は最後の貨物である生物実験用試料がHTVに搭載される日だった。生物実験のためにはできるだけ新鮮な試料をISSに送る必要がある。前の日に調整された試料がこの日の早朝にHTVのカーゴ担当に引き渡されていた。試料をHTVの与圧部に搭載すれば、全ての貨物がHTVに搭載されたことになる。

 この日はもう一つ、重要なものがHTVに搭載されることになっていた。「HTV」と刻印されたチタン製のプレートだ。

 虎尾がプレートを四菱重工の組み立て担当者に手渡す。担当者はプレートを与圧部ハッチのすぐ近くに取り付けた。HTVがISSにドッキングしてハッチが開かれた時、与圧部に入ってきた宇宙飛行士たちは真っ先にこのプレートを目にすることになるだろう。

 生物実験用試料とHTVの文字が刻まれたプレートを搭載した後、HTVの与圧部のハッチは閉じられた。もう地上でハッチが開くことは無い。次にハッチが開かれるのは、HTVがISSにドッキングしてからだ。

 与圧部のハッチが閉じられた後、H-IIBロケットのフェアリングからHTVにアクセスするためのドアも閉鎖された。虎尾たちHTVプロジェクトのメンバーにとって、この日が地上でHTVを自分の目で見た最後の機会となった。



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