閉じる


特異点の存在

「おい、瑚珠」
 老刑事にそう呼び止められたのは、女性刑事・大倉瑚珠警部補が警視庁捜査一課特殊犯5係の刑事の頃だった。
 その時のたった一人の上司、5係の係長は鈴谷警部。警視庁捜査一課の大部屋の中で、プラモデルやフィギュアや熱帯魚の水槽で作られた壁を作り、その中で執務と言いながらプラモデルを作っていたりする。
 なんて不真面目なと思うのだが、瑚珠が上げた書類は必ずいつの間にかびっしり訂正点と問題点を的確に指摘する書き込み付きで戻ってくる。
 これはそんな、現在の特殊急襲部隊SATや人質救出部隊SITも存在しなかった頃の話である。
 そのころ鈴谷は有能な立てこもり犯対策の交渉人でもあり、それどころか不可解な事件や解決困難事件を幾つも処理してきた。
 「解決」でないとことが興味深い所で、世の中には解決が解決にならない事件がある。本職の警察官だけがため息混じりに思ってしまうような事情の事件。立件しても検事が困るしかないような事件。
 そのなかには防衛省のスパイ事件もあれば、密かにいくつかの政治家のスキャンダルにかかわるものもある。
 鬼手仏心、捜査のメスに手加減はいらない、というのが公式だし正しいあり方が、現実にはそうも行かない事情がある。そこで昔は公判時に弁護士と裁判官と検事が示し合わせて配慮をしたこともあり、またそのためにそののちに裁判員制度、それも密かに導入された公安裁判員制度なんてものを生み出すのだが、当時はそんなものはなく、歴戦の一課の刑事たちも所轄の刑事も、ただため息を吐くか、タバコを吸うしかない事件が、稀ではあるがあった。
 たとえば政治家の裏金で数億の使途不明金が出てきて、これは疑獄事件だと意気込んで立件しようとしたら、その金が全てその政治家が一人の少女の命を救うための最先進医療のためにつぎ込んでいて、しかもその政治家はその金をかき集めた罪を全面的に認めたなんてことがあった。
 確かに不正献金を受けまくった政治家だが、その献金は全て少女の手術のために費やしたのだ。
 なんでも彼が一時関係した女性の娘ということらしい。
 不正献金を受けるのは罪だ。不正に使わなくても。
 でも、その政治家を立件したら、少女の手術は挫折する。
 でも立件せねばならない。間接的に少女の命を断つことになるとしても。
 こうなると、刑事たちはため息と共にタバコを吸うしかない。
 で、その事件の顛末は、というと、結局「鈴谷扱いになった」としか、みな答えない。
 立件したのか、立件して不起訴になったのか、それも知られないまま、その事件は葬られたという。
 いつもそういう事件というファイルを吸い込むゴミ箱として、5係は「リサイクルビン」と呼ばれる。
 コンピュータの画面に表示される「ゴミ箱」の名をとって。
 しかし実質は解決不能事件をすっかり吸い込んで葬るブラックホールである。
「瑚珠、鈴谷には気を付けろよ」
「なんでですか」
「本当は鈴谷と会う前に言っておくべきだったんだが。あいつは秘密でも未解決事件でも何でも吸い込んじまうなか、奴が吸い込めなかったものがある。それには触れるなよ。それは地獄だからな」
「秘密ですか」
「いや、秘密ではないんだが」
 それを言いかける彼に、同僚が「やめとけよ」と声にするのだが、それと同時に「すいません、トイレいってきますー」と鈴谷警部が出てきたので、みな書類仕事に戻って、その話は立ち消えになってしまった。


執務の風景


 瑚珠は書類をノートPCで書いていた。
 鈴谷は相変わらず、コンプレッサーを使ってエアブラシでプラモを吹きつけ塗装している。マイペースどころか勤務規律違反、懲戒ものだと思うのだが、一課長も、さらには刑事部長までもが「鈴谷は仕事は人一倍してるし、第一、鈴谷は鈴谷だからねえ」と苦笑するのみだ。
「瑚珠くん、ありがとうね、秋葉原の買い出し」
「いえ、万世橋署に用がありましたので」
「その途中で不審者見つけて職務質問したら手配犯だったしねえ。外に出ておみやげ捕まえてくるなんていい心がけすぎるよ。君そういえば警察学校の生徒時代に早くも歌舞伎町で2年間も潜伏していた手配犯見つけたってマスコミに取り上げられるほど有名だったね」
「目あたり捜査は得意ですので」
「それで逮捕術も優秀だからねえ。ほんと、僕のところ、特殊犯5係にはもったいないよ」
 鈴谷はヘラヘラとしながら今度は乾かしていたエッチングパーツのプライマーの乾き具合を見ている。
「そういえば鈴谷警部はいつお帰りになられるんですか? 私が朝来ればすでにいるし、いつも上がるときは見送りなさるし。
 まさか帰宅してないんですか」
「いや、ちゃんと帰宅してるよ」
 そうよね。
「やっぱり年に4・5回は官舎の部屋に帰らないとね」
 は?
「4・5回って」
「残り361日はここで過ごしてる。ここ、とてもいいよ。お気に入り。
 当直用の暖かいシャワーもあるし、寝心地良いソファで眠れる」
 瑚珠はのけぞった。
「じゃあ、ご家族は」
「いないよ」
「いないんですか」
 そこに1課長が顔をのぞかせた。
「昔はいたのさ」
「その話はナシってことで」
 鈴谷はヘラヘラしながら、とどめた。
「鈴谷、もういいんじゃないのか」
「よくありませんよ」
 鈴谷は笑って答えるが、目は笑っていない。
 そのとき、すぐに他の刑事から課長!と声がかかり、課長はすぐに去っていった。
「警部、ご家族って」
 気になって瑚珠は聞いた。
「ああ、昔、僕に嫁さんがいたの。
 こんな僕にだよ。そりゃびっくりってもんだ。
 それでも10年続いたけどね、結局最後は離婚」
「離婚って」
 鈴谷警部は手元においた小さなプリクラの写真を見つめた。
 瑚珠には小さ過ぎてその顔が見えない。
「だらしなかったんだよ。僕が」
 プラモデルを山と積んでいる今もだらしないと思うのだが。
「気づくのが遅かった。だから、反省して、最後は握手して微笑みながら離婚」
 瑚珠は理解できず、どう言っていいか分からなかった。
「でも、仲よかったんですよね、きっと。鈴谷警部はマメですから」
「それも結果的に見れば、よくはなかったのさ」
「丁寧ですし」
「それもね」
「それに」
 瑚珠が言い募るその時、鈴谷警部が声のトーンを落とした。
「それ以上は話さない。君がそれでも聞くようなら」
 鈴谷は言った。
「僕は君と二度と口をきかない」
 ものすごい拒絶の鋭さの声だった。
 瑚珠は、これまでの女性とはいえ刑事、それも強行犯係の刑事人生があっても、こんな鋭い拒絶を聞いたことがなかった。
 まさに刃の鋭さだった。
「すみません」
「ごめんね。僕らの目は前に向いてついてるんだ。前を向かなきゃね」
 鈴谷はゴメンネといったが、その目は鋭く、ぞっとさせる迫力があった。
 とてもプラモデルいじりを公務中に行う不真面目警部のものとは思えない。
 瑚珠はPCの液晶に目を転じたが、頭は「なんだろう」という疑問でいっぱいだった。
 だが、所轄の刑事から登用されてせっかく配属された捜査1課なので、そのたった二人の係での仕事を地獄の日々にしたくなかったのが正直なところだった。
 瑚珠はそれを頭から追いやって仕事に戻った。


無理の要請

 その日の午後だった。
「鈴谷、取調べをやってほしい容疑者がいるんだ」
 現れたのは同じ捜査1課でも1係、殺人事件担当の刑事だ。
「でもこっちの仕事のほうが忙しくて」
「そう言うなよ。お前だって覚えているだろう?」
「いいえ」と鈴谷は即答した。
「つれないなあ。あいつだよ。茂手木恵一(もてぎ・けいいち)。お前と同じ大学の出身で、最近は科学コメンテータで活躍中だった」
「だから嫌なんです」
「いやって言っても、茂手木は鈴谷でないと一切話さないと言うんだ。なあ、頼まれてくれよ」
「1係には僕よりはるかに優秀な取調官が揃っているはずでは」
「だから、それがお前じゃなきゃダメなんだ」
 鈴谷はなおも抵抗したが、最後に言った。
「じゃ、調書は一緒の係の瑚珠くんに書いてもらいますが」
「ありがとう!」
 1係長はほんとうに深々と頭を下げた。


取調室の前に

「茂手木は秘書の女性に言い寄り、それを拒絶されたことで逆恨みして犯行に及んだものと思われます。
 しかし殺害手段が不明です。
 検死では心臓麻痺、しかし薬物残留も外傷、電撃痕もなし。心臓だけが止まったということで、病死扱いになりかけてました」
 取調前の打ち合わせをする。
「それを寸前の所で1係が状況証拠から容疑を固め、あとは自供させそれを裏付けるという手はずだった。だが一向に茂手木は口をわらない」
「それで私達に取り調べが」
「我々特殊犯5係は君も知ってのとおり、警察内の便利屋だ。便利に使われるのは仕方がない。
 まあ、給料分働けってことだ」
 鈴谷は諦めた顔だった。


取調室の倒立

 茂手木は取調室で堂々と足を組んでいた。
 ふてぶてしいにもほどがある、と瑚珠は不愉快になったが、鈴谷は冷静だった。
「やあ、鈴谷。お前を待っていたよ」
 鈴谷は席についた。
「待たれる筋合いはありませんが」
 密かにやっぱり鈴谷も不機嫌だったらしい。
「鈴谷、まだあの彼女のことを気にしてるのか?
 そうだろうな。
 お前はそういうところはすごく強情だからな」
「それをこの場で聞くつもりはありません」
 鈴谷は拒絶したが、席にはついた。
「あなたを取り調べる容疑は殺人ということですが」
 鈴谷が聴取をはじめる。
「そんなことより、お前のことを聞きたかった。
 お前たち夫婦に俺はずっと憧れていたからな」
「それについてお話することは一切ありません」
 鈴谷はさらに拒絶した。
「確か出会いは大学生時代。
 当時まだ珍しかったネットで知り合って恋に落ち、実際に会って、そのまま交際を続けていったんだな。
 初めて会ったのは彼女の実家のある北海道だ。
 地下街で待ち合わせて、二人で会ったときは手をとりあって、まるで映画のシーンのように喜び合った。
 二人共、運命を信じていた。
 それに当時の鈴谷、お前は緊張のあまり、その日は東京から飛行機で行った千歳から札幌で、1時間も前に着いて、時間を潰してその出会いの瞬間に期待して、胸をふくらませていた。
 鈴谷が彼女出会いに旅立つにあたって、千歳への航空券を購入した時、旅行会社の保留音が平井堅の『kiss of life』だった。鈴谷はそれに、世の中の仕組みを知る思いだった。
 恋が世の中を動かしていると、鈴谷は学んだんだ」
 鈴谷は応えない。
「デートの最中、鈴谷は緊張のあまり、コーヒーしか飲めなかった。
 鈴谷はその日、実は朝から晩まで、アイスコーヒー以外何も喉を通らなかった。
 それほど緊張していた。鈴谷にとって、それほどに嬉しく、そして希望に満ちた日だったんだ。
 それまでの鈴谷は、沈鬱な日々だったから、喜びはあまりにも大きかった」


「話は弾んだ。まるで夢の様なひとときだったんだろう。二人はずっと話し続けた」
 鈴谷は表情を固くしている。
「その彼女のはじめてのキスは、そのデートでだった。二人共それまでキスをすることもなかったため、体験なしの初めてのキスは不器用で歯と歯がガチガチとぶつかり合った。工事中の街並みの薄暗い所での突然のあまりにも幼いキスだった」
 応えない。
「そして鈴谷は大学在学中に国家公務員試験1種に合格した。
 いわゆるキャリア警察官僚として未来を嘱望されたが、それでも鈴谷は彼女との結婚を決めていた。
 国家1種合格者の研修の間も、彼女と鈴谷は一緒の時間を大事にしていた。
 二人はその研修の合間に、ついに結婚を彼女の友人のいる役所に届け出た。
 その結婚の前日、北海道苫小牧の港の岸壁に座り、出港準備をしているフェリーを眺め、初夏の暖かく柔らかな風を受けながら、二人は二人の運命の永遠を誓った。
 そして、札幌近郊のショッピングモールの中の宝石店で結婚指輪を買った。一番安いものだったが、鈴谷はそれがあまりにも大切に思ったために、指にすることは少なかった。大事なものとして鈴谷は机の中にしまっていた。
 まだ忘れていないんだよな、その結婚祝いに食べた本場のジンギスカンの味。
 鈴谷の人生で一番美味しいジンギスカンだった」
 鈴谷は顔を強張らせたまま、応えない。
 瑚珠はこれじゃ逆だと思った。
 黙秘しているのは容疑者の茂手木ではなく、取調官の鈴谷の方だ。
 鈴谷さん、それでいいんですか、と瑚珠は合図を送ったが、鈴谷はこのままでいいと合図した。
「そして警察官僚として警部補待遇で警視庁に入る。
 とはいえ研修では制服を着ての交番勤務もあった。
 彼女はお弁当を毎日鈴谷に届けた。
 結局それは最後まで途切れなかった。
 警察仲間にいかに茶化されようとも、鈴谷と彼女の関係はまさにアツアツだった。
 そして二人は引っ越して、警察官舎、警察官家族の宿舎の部屋に住むことになった。
 官舎は狭かったが、それでも鈴谷と彼女はその官舎をいくつしむように使った。
 何もない部屋に、安物だったが家具を置き、安物だったが食器を揃え、それを空色のカーテンを引いて飾って、初めての二人の家にした。
 引越しのとき、彼女の愛した猫も一緒に引越した。
 北海道から東京まで、長い旅を鈴谷と彼女はその猫と共にフェリーでした。
 そして官舎は通常はペット飼育禁止だが、忙しい鈴谷は、なんとかペットを飼えるようにと官舎の管理委員会に働きかけて『ペット友の会』とそのルールをつくり、官舎での子犬と猫の飼育を可能にした。
 全国でも珍しい、ペット飼育可の官舎がそこで生まれた」
「何でもご存知で」
 鈴谷は皮肉を込めた。
「そりゃそうさ。君たち夫婦は本当にお似合いだったんだから。
 その引越を共にした猫はその新生活に忙しい二人を見送るように天寿を全うしたが、その後二人は保健所で命を失う寸前だった猫を2匹飼い始めた。
 鈴谷の家庭は、その猫たちと夫婦の本当に温かい家庭だった」
 鈴谷は応えない。
「今でも奥さんの描いた官舎でのペット飼育の手引きのイラストはそのまま官舎で受け継がれている。
 彼女はそういう可愛い物を描いたり作るのが好きだった。
 そして鈴谷もそれがとても好きだった。その可愛さに涙をながすほど、鈴谷は内心がナイーブだった。
 それを彼女はよく支えた。
 まさに愛に満ちた夫婦だった。
 二人の買っていた本棚を合併して、二人の本棚にした。
 何冊もの本が、二人が別々だった頃にそれぞれが買っていたものだった。
 まさに趣味も共通していた。二人はそれを処分せず、本棚の中で寄り添わせた。
 二人は海にも、山にも、博物館や美術館、映画にも行った。
 遊びに行くときも、仕事に行くときも、いつも二人で出かけていた。
 まるでジュブナイルに描かれる高校生のカップルのように、二人は水彩の絵のような淡い日々を、季節のなかを、ジブリ映画のキャラクターのように楽しみ、愛しあった。
 他人のヤッカミすら入る余地なく、二人はぴったり寄り添っていた」
 瑚珠はPCでメモしながら聞いていたが、これをメモをしていいのかとも戸惑った。
「官舎の風呂場の排気口の格子の修理とか、そういう小さな事でも、二人でできることができたら、それで二人は幸せを深く感じていた。
 一つ一つ、幸せは日々次々と積み重なっていった。
 もちろん、喧嘩もあった。夫婦だからといっても、違う人間であることは変わりない。
 それでも必ず最後には二人は互いを許しあい、仲直りし、結婚生活を深めていった。
 厳しいやりとりも、互いを愛するがゆえの事だった。
 だから、二人は常に本気で相手を思い、本気で愛していた」
 鈴谷は応えない。
「彼女とのその熱愛夫婦ぶりを、叩く馬鹿もいた。
 でも、鈴谷はそれを敢然と無視し、彼女に知らせなかった。
 どっちみち警察官僚なんて出世レースのために何でもするやつもいる。
 馬鹿げた警察官僚同士の誹謗中傷もある。
 そしてそのレースの中で有利なようにと、有力者の係累と姻戚関係を結ぶ奴もいる。
 警察部内ではそういう結婚でなければ結婚の意味はないというものもいる。
 それでも鈴谷は彼女との結婚を少しも揺るがさなかった。
 そして、そんななかでも寄り添う鈴谷夫婦の姿は、周りの気持ちも温めていた」
 鈴谷は口を真一文字に引きむすんで、少しも応えない。
「今時珍しいほどの良い夫婦だった。鈴谷も彼女もやさしく、また行いもよかった。
 二人共、近所の人々への挨拶も欠かすことがなかった。
 二人の間には子供こそ出来なかったものの、近所の子供の遊び相手を夫婦でやっていた。
 子供たちにもよくなつかれ、周囲もみな鈴谷夫婦を愛していた」
 瑚珠は鈴谷の横顔を見た。
 きっと可愛い奥さんだったんだろうな。
 瑚珠はその二人が睦まじく暮らす姿を想像して、心が温まった。
「そして鈴谷は、FBIなみの広域捜査権を持つ特任広域捜査官に志願し、その第1期生として選抜され、錬成研修を受ける。
 Nナンバーといまでも呼ばれる、特別に優秀な捜査官がその課程で育てられた。その後制度自身は政局の混乱のあおりで廃止されたが、今でもNナンバーは警察の中でどころか、公安関係、防衛関係を含めて特別の扱いを受ける。
 その合格までの間、研修中は連絡禁止だった。
 それでも鈴谷は音信不通とならぬよう、公衆電話の符丁で鈴谷は妻に愛を伝えた。
 そして鈴谷はNナンバーを取得、特任広域捜査官資格を得た。
 そんななか、阪神・淡路大震災が起きた。
 Nナンバーとなった鈴谷は必死だった。
 当時、警察の指揮系統を守り、被災地の治安を守るために、Nナンバーが総動員された。
 鈴谷がどれだけの警察官を指揮して救難に当たり、いくつの人命を救い、いくつのさらなる二次災害、三次災害を未然に防いだかわからない。
 当時、要請主義ですぐには動けない自衛隊の代わりに、警察はその間を埋める凄まじい働きをした。
 消防・自衛隊との連携連絡は当時率直に言えばスムースではなかった。
 そこで鈴谷は粉骨砕身という言葉がふさわしい、力いっぱいの仕事ぶりだった。
 それを指揮するはずの国、特に関連官庁の集中する霞が関も当時は地獄の戦場で、前例のない都市大規模地震のために、ハンコもなければ書類もない口頭での命令と指示で、その時国が動いていた。
 手探りで、しかも急がなくてはならない対策に、鈴谷はすべての力を使った。
 ちょっと前だったら、和製ジャック・バウアーと言われていただろうという猛烈な働きだった。
 そのために、奥さんも随分働いた。
 鈴谷が阪神震災のことで心を痛めていた時、奥さんは随分鈴谷の心を癒そうと頑張った。
 そして鈴谷も、それを理解して一層奮励した。
 しかし、奥さんはその中で、一人いる中」

 その突然、だった。

 修羅場に慣れた瑚珠も、その状況が理解できなかった。
 一瞬のうちに取調室の壁に吹っ飛んで打ち付けられた茂手木が、ぶうと鼻血を吹いて倒れていた。

 鈴谷が一瞬の閃光のように、凄まじい速さで茂手木を殴り飛ばしていたのだ。

「鈴谷警部!」
「鈴谷さん!」
 驚く立ち会いの刑事の前で、鈴谷は突然の鋭い殴打に気を失っている茂手木を背に、平然と席を去った。
「取り調べの引き継ぎお願いします。私は取調べ中の容疑者殴打という服務規定違反行為の懲戒のための始末書を書きますので」
 そう言う鈴谷は怒りも、悲しみも、なんの感情も顔には表していなかった。
「わかった。すまない」
 鈴谷と瑚珠は1係の刑事と交代になった。



読者登録

米田淳一さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について