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いつかの食卓

 「おふくろの味」といわれて、思い浮かぶ料理があるのは幸せだと思う。

 初めて一人暮しをすることになった時、いくつかのおかずの作り方を母に習った。本当は、洗濯機に柔軟剤を入れるタイミングとか、ししゃもの焼き時間とか、 教えてもらいたいことは他にもあったが、そんなことは必要な時に電話で聞けばいい。しかし、煮物や炊き込みごはんの作り方は耳で聞いただけでは分からない。火加減や水加減、だしの色や野菜の切り方は実際に見て覚えたかった。

 他の家庭の味をごちそうになったことは何度もあるが、母の味よりもおいしいと思ったことは少ない。

 小学生の時、仲の良い友人の家に一晩泊まったことがある。彼女の家庭はアメリカ暮しが長く、毛足の長い立派な犬を飼っていた。

 

 朝、見知らぬ部屋で目が覚め、「ああそうか、昨日はここに泊まったんだ」と寝ぼけた頭でリビングへ行くと、友人の母親がハムエッグを作っていた。これが驚くべ きハムエッグであった。 フォークでプツンと割ると、黄身がとろーっとあふれ出し、みるみる白身へハムへと流れていく。半熟の黄身というものを食べたのは、この時が初めてだった。それは、わが家の固いハムエッグよりも遥かにおいしく、感激しながら食べたのを覚えているが、一緒に食べた野菜スープは母の方が上手だった。

 外食が嫌いな父のために、その昔は毎晩四品も五品も作っていた母だが、結婚するまでは一切料理をしたことがなかったらしい。そのせいか、実家には料理の本がたくさんあった。

 幼い頃の記憶の中に、夕方近くのリビングで母が料理の本をめくっている風景がある。その隣りで、私は本ではなく母の顔を見ていた。家族のために慎重に献立を練っている母。一度、母に怒られたことがある。味付けに失敗し、夕のおかずを流しに捨てる母の顔をじっと覗いた時だった。確か、小学校低学年の頃だったと 思う。普段はにこやかな母が、無表情のまま、「人の顔をそんなにじっと見るもんじゃない」と小さく言った。怒鳴られたり、ひっ叩かれたりしたこともあったが、その時より怖い母を見たことは、後にも先にもない。私が人と面と向かって話すのが苦手なのは、あの日の母の顔を見てしまったせいかもしれない。

 

 少し前に実家へ帰った時、久しぶりに母の本棚を覗いた。たくさんの料理の本の中に、その懐かしい本はあった。

  「向田邦子の手料理」。三角巾にエプロン姿の本人が華やかに表紙を飾るその本は、わが家の食卓を随分と助けてくれた。かみなり豆腐や牛乳スープ、クレソン 炒飯などのレシピと共に、向田邦子の食(暮し)へのあくなき好奇心と美意識が詰まっている。この本で「向田邦子」という名を覚えたのは、おそらく小学生の 頃 だったが、それから数年後の十六歳の夏休みに、ドラマ「阿修羅のごとく」の再放送を見るまで、彼女が脚本家で、すでに故人だということは知らなかった。昭和一ケタ世代の向田邦子は、旅行中に飛行機事故で亡くなり、生きていたら私の祖母と同じくらいの歳だった。

 夏期講習の宿題をサボり、深夜にコソコソと見た「阿修羅のごとく」は、昭和の四姉妹の物語である。何年か前に、森田芳光監督による映画版も公開されている。

オリジナル版の中でよく覚えているのは、地味で神経質な三女の滝子(オリジナル版ではいしだあゆみ、映画版では深津絵里が演じている)が自宅で慣れない化粧をし、遊園地のピエロのような顔になってしまったところへ、恋人の勝又が訪ねてきて慌てるシーンである。部屋へ入れてくれと頼む勝又に、滝子は自意識が邪魔をして応えることができない。ピエロの風船が破裂してしまいそうなくらい、熱のこもったシーンだが、二人の間に言葉は少ない。しかし、その静けさが ドアを隔てた二人をより近づかせている。沈黙ほど饒舌なものはない、などと気取ったことは言えないけれど、それまで見ていたテレビドラマでは感じたことの ない上品さだった。

  今となって振り返ると、十代の私にどこまで理解できていたのか分からないし、今でもきっと半分も分かっていないと思うのだが、三十年も前に書かれたドラマ が、当時は影も形もなかった人間の目の前にいま広がり、感情の誤差もなくしみ込んでいく。以前、脚本家の三谷幸喜が何かのインタビューで、「僕は未来に作品を残そうとは思っていない。後世の人が僕の作品を見て、おもしろいと思わなくてもいい。僕はあくまで、僕と同じ時代に生まれた人たちのために作品 を作る」というようなことを話しているのを読んだことがある。彼の作品にはコメディが多く、笑いは生ものであると考えると、この言葉にはとても説得力があるような気がするのだが、現代のコメディにも世紀を越える日がくるかもしれない。三谷幸喜の書いた舞台「笑の大学」を見た伊丹十三は、「これはすでに古典だ」と言ったという。

 

 何年も食べてきたはずのわが家の料理だが、一人暮しを前に習ったあの時から、そろそろ二年が経とうかという今も、母の煮物にはまだまだ及ばないような気がする。あの時も、私は鍋ではなく母の顔を見ていたのだろうか。


すてた

 罪悪感がないと言えば嘘になる。これでも多少は心苦しく思っている。思ってはいるが、仕方がないと言い聞かせ、「でもやはり」と踏みとどまる前に次のものへと手を伸ばす。
 私はいま、捨てる鬼と化している。毎日、情け容赦もなくものを捨てている。というのも、近々引っ越しを控えているからなのだが、エコだなんだと言われるこの時代に、自分がとんでもなくワルいことをしているように思えて後ろ暗い。ならば捨てなければいいのだが、一人暮しとはいえ、引っ越しはかなりの重労働だ。梱包するのも自分なら、ほどくのもまた自分である。とりあえず新居へ運んでみて、置き場や使い道がなければ処分するというような無駄足は踏みたくない。元々、持ち物はかなり多い方である。この際、荷物を減らして暮しをシンプルにするのも悪くない。

 そう思ってしまったのがいけなかった。

 まず目をつけたのは、前回の引っ越しの時から一度も開けていない小さな箱だった。中には、中学生や高校生の頃に友人からもらった手紙がこんもりと入っている。多感な年頃にやりとりをしたそれらの手紙は、なんとも青々しいものばかりだった。一通一通読み返し、ふと気がつくと、読み終えた手紙が二つの山に分かれている。私は無意識のうちに、残す手紙と残さない手紙、つまり「捨てるか捨てないか」を選別していた。無意識に、といっても、元をたどれば荷物を減らすために取り出した箱である。古い手紙は捨てよう、と思っていたのは確かだが、懐かしく読み返しながらも、頭のどこかで「これは捨てるか捨てないか」と考えていたのかと思うと我ながら恐ろしい。その上、捨てる手紙かどうかが一目で分かるように、読み終えた手紙をきっちりと二手に分けているところなども、目を背けたくなるような浅ましさである。

 私はこんなに非情なやつだったのかと、その場でぐったりとうなだれてしまった。しかし、弱気になったのも束の間、今度は「じゃあ、これから一生、人からもらったものを全て背負って生きていくのか。そんなことできるのか?」という、明らかに虚勢を張った考えが浮かんでくる。そんなことをしているうちは、荷物を減らすことなどできるわけがない。シンプルな暮しというもの自体が胡散くさく思えて、ばかばかしくなってしまった。


 私の父は、本当によくものを捨てる人間だった。といっても、自分のものではない。人の持ち物を許可なく勝手に捨てるのだ。「おかしいな、さっきまでここに置いてあったはずなのに」と思ったものは、大抵ごみ箱の中で見つかる。父は、リビングなどの家族がみんなで使うスペースに、個人的なものを置いておくことをとても嫌っていた。自分に関係のないものが目の届くところにあるのが耐えられないのだ。耐えられないからといって捨てなくもいいじゃないかと怒りたくもなるのだが、父は年老いた両親にわがままいっぱいに育てられた一人っ子である。捨てられないようにするには、抗議よりも、私物が父の目に入らないように管理することが一番有効であった。

 終戦の年の秋に生まれた父には、兄弟がいない。しかし、祖父母にとって父は初めての子どもではなかった。父が生まれる前に、死産したり、乳児の時に亡くなったりした子どもが四人いたらしい。なぜ父だけが生き残り、今でもずぶとく生きながらえているのかは分からないが、父の兄弟たちがあまりにも早くその生涯を終えたのには理由がある。それには、祖父のある趣味が大きく関わっていた。

 祖父は、大の引っ越し好きだった。新しい住まいを見つけると、すぐに借りて移り住んだ。祖母は黙って家財をまとめ、重い荷物を背負って祖父を追いかけるしかなかった。妊娠中も産後もおかまいなしに引っ越しは続いたようで、戦中・戦後の食糧難や栄養不足も重なり、祖母と子どもに強いられた負担は相当なものだったのだろう。ある子はお腹の中で、ある子は生まれてからまもなく、その力が尽きてしまった。

 生きていれば、父には二人の兄と二人の姉がいた。その中で、父のすぐ上の兄の名前が、これがひどい。捨てるに太いと書いて、「捨太」といった。すてた。なんて残忍な名前だろう。こんなことを言うのも何だが、彼だけは早くに人生の幕を下ろして正解だったかもしれない。こんな名前で送る一生に絶望しない人間がいるだろうか。

 一体どういうつもりで命名したのだろう。祖父を墓から掘り起こして問い詰めるわけにはいかないが、よっぽど子どもの成長に期待できなかったのだろうか。あるいは、引っ越しの準備でもしながらつけた名前だったのかもしれない。


 先日、実家の押し入れで一枚の葉書を見つけた。差出人は、あの引っ越し魔である。宛名には、当時五歳の父の名前が書いてあった。人の手紙を読むのはあまりいい趣味ではないなと思いながら、こっそりとひっくり返してみると、そこにはひらがなの大きな字で、


 
きょうはてんきのよい きもちのよいにちようびです
 あたらしいおうちで まっています


と書かれていた。

 私は祖父に会ったことがない。私が生まれる十年も前に、祖父は他界している。それは、初めて見る祖父の字だった。
妻に古い家の始末を任せ、一足先に単身新居へと移った祖父は、休日にふと筆を取る。家の中に荷物はまだほとんどない。そのがらんとした部屋の中に、きもちのよい陽が当たり、風が通っていく。窓の外で、見知らぬ親子が赤や黄色の落ち葉を拾って集めている。そんな情景の浮かぶような、立派で繊細な字だった。 幾度も住まいを替え、わが子の多くを先立たせてしまった祖父にとって、父が唯一の息子であった。

 

 

 


この本の内容は以上です。


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