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2月28日のおはなし「梵」

 ボン。ブラフマン。ビッグ・バン。宇宙のはじまりの音が聴こえるか。

 それが宇宙飛行士マイク・スペンサー(通称ミック)の最期の言葉である。ミックはルナ・ステーションの船外活動中に、恐らく微小なデブリ(宇宙塵)との接触が原因と見られる移動装置の故障に見舞われ、救出活動も虚しくみなの見守る中、徐々に遠ざかり宇宙空間の闇に吸い込まれていった。

 ミックは剽軽な男だった。いつでも軽口を叩いたり、ちょっとしたいたずらを仕掛けたりしてみんなを笑わせていた。遠ざかりながらもミックはのべつまくなしにいろいろとまくしたてていたので、こういうのは不謹慎かもしれないが、我々の別れは実になごやかであたたかいものだったと言うこともできる。ミックの相手をしていたのは主に通信士のベッキーだったが、彼女は日頃からミックと特に仲がよくいつも冗談を言い合い、からかい合っていた。

「オーケー、みんな。そう大騒ぎするな」一切の救助活動が無駄に終わり、ただ見守るだけとなった時にミックはまず言った。「いや、違うか。ミヤケが一人で喋ってるのかな」
 ミヤケは学生時代に応援団に所属していたとかでやたら声の大きい日本人だ。
「違うわミック」ベッキーはすかさず切り返した。「いまイチローがランニングホームランを決めたのよ。ごめんねテレビを切るわ」

 もちろんテレビもついていなければ、ベースボールの試合なんか知ったことではない。それどころか
その時にはもう、コントロールルームは静まり返っていた。ついさっきまで喉をからすほど叫んで、次から次に指示が飛び交っていたのが嘘のようだ。全員が遠ざかりつつあるミックをただ茫然と見守り、喋るべき何も思いつかなかったからだ。誰かが何かを言おうとして、咳き込み、言葉を続けられなかった。胸が詰まって言葉にならないからだ。そういうときも通信士のベッキーは空気をほぐすように落ち着いた口調で話をする。

「ミック、そこから何が見える? あなた、何かすごい景色を独り占めしてるんじゃないの?」
「ベッキー」ミックがため息をつく。「ぼくはいまちょうどアイスクリーム・パーラーでミントチョコを買うところだったんだぜ。おっといけない。眠ってしまっていたみたいだ。起こしてくれてありがとう! ええと何だって? ここから何が見えるか、だって?」

 そして、それからしばらくミックの実況中継が続く。ルナ・ステーションにいても見えるようなおなじみの風景が、ミックの手にかかると抱腹絶倒のファンキーなスペクタクルに変わる。
「月面には何がいるんだっけ、ミヤケ。サルだっけ」
「ウサギだ」ミヤケが吠えるような声で答える。「サルじゃない」
「そうだ。ウサギだ。ここからもちゃんと見えるよ。歴代のプレイメイトも勢ぞろいしている。おーっと、うわっ。いきなりアレをはぎ取った。プレイメイトの一人の水着を。けっこう大きなピンク色の。んー。これはぼくの口からは言えないな。あのウサギ、かなりのワルだね」

 コントロールルームに笑いは起きないが、その場に居合わせる全員が、目をしばたたきながらぎゅっと結んだ口元に懸命に笑みを浮かべようとしている。それが礼儀だからだ。ミックの最後のジョークに対する礼儀というものだからだ。何も喋れない士官たちに代わってベッキーが巧みに相手をする。
「ミック、いけないわ。わたしたちの子どもが起きてしまいそうなの」
「わお! 気をつけなきゃね。ぼくは教育にはうるさいんだ」ミックはすぐに反応する。「ところで、それって、どの“わたしたち”?」

 ミックはサービス精神たっぷりに喋り続けた。喋り続けただけではない。自分の位置がはっきりわかるように、腕や脚を広げたり角度を変えたりして、太陽の反射光が我々に届くように工夫をしていた。そうしなければわかりづらいまでにお互い遠ざかっていたからだ。そのおかげで我々は本当に長い時間にわたってミックを見つめ続けることになった。最初肉眼で姿を見ることができたミックは、やがて肉眼では捉えきれなくなり、メインスクリーンに拡大して映しても小さく輝く点に過ぎなくなった。声は、
意外なほど届き続けた。

「おっと、大変だ」ミックはかなり遠ざかったところで言った。「おまえたち、大宇宙の闇に呑み込まれそうになっているぞ!」
 もちろんそれはジョークだ。ミックから見れば確かにそう見えるかもしれないが、本当に大宇宙の闇に呑み込まれつつあるのは、言うまでもない。ミック本人なのだ。
「大丈夫よ、心配しないでミック」そんな時もベッキーは軽口で返す。「これ、コマーシャルに入るところだから」
 訓練の成果でベッキーの声はハキハキとしてとても明るく元気づけられる。けれどもコントロールルームのいる全員が、ベッキーの頬をはらはらと流れ続ける涙に気づかないわけにいかない。


「ええと。そっちはまだ聞こえているのかな?」
 その時、ミックがいままでと少し違ったトーンで言った。我々は身を乗り出し耳をすませた。
「こっちは無音になった。ベッキーのジョークが聞こえなくてさびしいよ」しばらく間があいた。はあ、はあ、というミックの大きな息づかいがやけにはっきりとコントロールルームに響いた。「これは罰ゲームかい? ぼくは喋り過ぎたのかな?」
 コントロールルームの全員が「ノー」「ミックもっとしゃべってくれ」と口々に言った。

「大事な時にくだらないことばかり言って悪かった。静かだ。とても静かだ。相手がいないとぼくはしゃべれないよ。みんな聞こえてるか?」
 コントロールルームの全員が「イエス」「みんな聞いているぞ」と大声で言った。
「聞こえてなくても誰かがこの声を拾うだろう。そいつのためにしゃべろう。ぼくはマイク・スペンサー。月軌道周回基地のルナ・ステーションのクルーだ。船外活動をしていて宇宙空間に放り出された。仲間は全力を尽くして救助に取り組んでくれた。でも運悪くぼくは仲間から遠ざかりつつある」

 誰かが嗚咽を漏らし、こらえられなくなった何人かがすすり泣きはじめた。その間もベッキーは小さな声で「ミック? ミック?」と呼びかけ続けている。再び通信がつながることを期待しているのだ。

「ぼくはいまたったひとりだ」ミックがとても素直な調子で言う。しばらく間があく。大きく深呼吸でもしているような気配がある。「ぼくから見える月もほとんど夜の側だ。縁が光っているけどあれも間もなく見えなくなるだろう。そうなると本当にすごい闇に包まれることになる。声も聞こえない。何かに触ることもできない。本当にぼく」

 声が途絶えたので、我々はとうとう通信が途絶えたのだと思って、思わず「ミック!」「ミック!」と叫んだ。けれどもそれは通信の終わりではなかった。
「ぼくは、本当に、孤独だ」ミックの声が泣いていた。コントロールルームでもあちこちで号泣する声が聞こえて来た。「誰もいない。何も聞こえない。見えるのは月と、星だけだ。太陽も隠れてしまった。ぼくを照らす太陽もない。みんなにも、もうぼくは見えていない。おや。あれは何だ」

 そしてミックの最後の中継が始まった。

「月面に何かがある。みんな。聞こえるか。聞いてくれ。月の裏側に何かある。地球から見えないところに。足跡だ。巨大な。巨大な足跡だ。踏みしめる音が聞こえる。わかるか、ミヤケ? ボンだよ。サンスクリットのブラフマン。宇宙の真理がここにある。本当の沈黙の中でしか聞こえない音だ。あの巨人のステップは宇宙の始まりの音だ。みんなこっちに回り込んだら月面の足痕を見逃すな。ボン。ブラフマン。ビッグ・バン。宇宙のはじまりの音が聴こえるか」

 それが通信の最後の部分だった。後になって、誰かはそれをミック一流の最後のジョークだといい、誰かは人生の終わりにミックが大きな真理に到達したのだと言った。どちらだとしてもそれはとても偉大なことだとみんなは思った。でもそんな話が出ると決まってベッキーは言った。「だめよ。わたしは納得しないわ。ミックのオチを聞くまではね」

(「月面の足跡」ordered by shirok-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)


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著者 : hirotakashina
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