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序文

 2012年1月も半ば、迫り来るエントリーシート達の提出期限。そんな中、僕は「やらなければならないこと」を華麗に無視し、「全くやらなくていいこと」に己の持ちうる限りのパッションを注ぎ込んでいた。そんな、自棄っぱちの僕の生命がぎっしりと詰まった「全くやらなくていいこと」。月刊オパーリン王国2012年1月号、新年最初の一冊がここに完成した。代償の分だけ、自信を持って皆さんにお届けできる内容になっていると確信している。

 そういや、新年の挨拶がまだだったね。いやね、まず最初にどうしても「俺、頑張ったでしょ」と褒めてもらいたかったもんでね。あけおめ。年が明けてから早くも一カ月が経とうとしている訳であるが、皆さんはいかがお過ごしだろうか。皆さんの大切な一カ月が、この一年の滑り出しの一カ月が、順調かつ充実したものであったことを望む。そして、次の一カ月の間、忙しい日々の雑事の合間に、本誌がパラパラとめくられ、皆さんの息抜きの良き「つまみ」となってくれればなあ、と切に願っている。

 さて、前置きはこれくらいにして、今月号のラインナップを紹介しよう。まず第一に、新しい執筆者が加わってくれた。弦楽器イルカ氏、「連載」の欄に不定期新企画として「お前、悩んでんだろ?」を執筆していただいた。弦楽器イルカ氏について、記事執筆の経緯について少し書く。本誌ウェブ版を公開している「パブー」というサイトで、弦楽器イルカ氏は僕が小説を書き始めた当初から作品にコメントを下さっていた作家さんである。昨年の終わりに思い切って執筆を依頼したところ快諾して下さり、以後かなりの時間を掛けて企画を練り上げ「お前、悩んでんだろ?第一回」の掲載に至った。記事を読んだ後は是非とも「パブー」に足をを運び、弦楽器イルカ氏の作品を読んでみていただきたい。繊細な心情を描き出した素晴らしい作品ばかりである。

 次に、東町健太氏。今回で3回目の掲載である。今回は直前に東町氏のパソコンが故障するという惨事が発生し、「あわや休載か」と天を仰いだ。が、東町氏が奮闘下さり、(おそらく)漫画喫茶で新しく記事を執筆、掲載に至った。題は「生きてても無駄」、いつにも増して鋭い筆致の作品となっている。

 多良鼓氏。2回目の掲載、「今回どんな記事を書いてくれるのか」と楽しみにしていた。送られてきた記事の題は「アンパンマンとキリスト教」。果敢にも壮大なテーマに取り組んだ意欲作である。前作「没個性が産み出したトップアイドル」、アニメの次がキリスト教と幅の広さが伺える。

 最後に僕(オパーリン)。今月はとにかく沢山書いた。その上何を思い誤ったか、未完であった『存在と記憶の距離感』という小説まで完成させてしまい、それを全文掲載させたために今月号は異常なボリュームとなってしまった。この小説を途中まで既読の方は、最後だけチョッチョッと読んで、他の記事を読んでいただければ幸いである。その他、色々と書いたが、まあ読んでみてくれたまえ。

 では、この位で始まりの挨拶はお終いにしよう。月刊オパーリン王国、新年最初の一冊、どうぞお楽しみあれ。

(2012年1月18日)


オパーリン一ヶ月(日記より)

 オパーリン国王の動静。これを読めば王国全体で何が起こったのか、分かるでしょう。

 

・2011年12月21日

 23歳にしてまさかの寝小便を漏らす。原因不明。甚大なるショックを受ける。

 

・2011年12月23日(天皇誕生日)

 大分合同出版社説明会に参加。地元優先感を感じた、そうは言ってなかったけどね。

説明会に参加して思う事は、どこに行っても、説明される事と本当(と思われる)の事が一致しないということである。それは日本語の特性にも言える事なのだが、言葉の裏というやつである。つまり、説明されることと正反対の事を「事実」と思えば、入社後の「ミスマッチ」は解消されるのではないだろうか。

 

―追記―

 その後、大分合同新聞の「ミニ事件簿」という県内のほのぼのニュースを掲載するコーナーのイラストが一部の2ちゃんねらーに人気があり、特に猫のイラストが人気だとかいうまとめスレが載っていた。おお、何だか繋がっているな、と感じた。(2012年2月14日)

 

・2011年12月25日

 セクロスさせてくれる女もいないので、友人と牛角に行った。何故か父子家庭とおぼしき客が多かった。

 

2011年12月30日

 オパーリン作品集1『アダバナ』初版刊行。歓喜の余りに電話で友人を呼びつけ、出来たての冊子を押し付ける。友人「そんな事の為だけに呼びつけたのかよ」とは言わなかったが、困惑顔。

 

・2011年12月31日

 家族で祖母の家に帰る。松坂牛のすき焼きを食らう。美味。

 

・2012年1月1日

 昼過ぎに東町健太氏に電話で招集され、明治神宮に初詣。東町の計らいで、3年前に岡惚れしフラれた女性とも再開。相変わらず美しかった。その子は用事があり速攻でバイバイ。その後は、いつもの如く綾瀬駅前の「扇屋」で東町氏と飲んだくれる。

 

・2012年1月3日

 祖母の家に新年の挨拶へ。一族が揃う。名古屋コーチンのから揚げを食らい、皆で坊主めくりに興じる。毎年恒例の行事をこなし、満足して帰宅。

 

・2012年1月6日

 小学校時代の同級生達と飲み会。懐かしかった。もう一度小学生に戻って、超ド級の悪戯、反抗をかましたい。

 

―追記―

 今の僕の脳味噌のまま小学生に戻ったならば、ウザかった教師たちも楽々論破できるんだろうな。でも、そんな餓鬼がいたら先生はたまったもんじゃないだろうな。

 

・2012年1月8日

佐々木食品工業説明会に参加。

 

・2012年1月11日

 文芸春秋「語る会」に参加。『月刊オパーリン王国2011年12月号パブー版』刊行

 

・2012年1月12日

 レースフォーラム(合同説明会)に参加。退屈極まりなく、運営側が途中退場を禁じた事への反発心もあって、途中退場。そう感じたのは僕だけではなかったらしく、他にもバラバラと学生が帰宅していた。運営側は焦ったのか「帰らないでくださーい。どうしても帰る人は一言名前を告げてからにしてくださーい。」と声を張り上げていた。が、みんなガン無視で帰宅。頼もしきかな「ゆとり世代」。

 

・2012年1月14日

 講談社セミナー参加。週刊誌の企画書の作成体験みたいなのをして、僕は「内柴レイプ事件真相を本人が激白!」という企画を提出、公表では社員の人が「即採用」してくれた。この職場で働きたい、と強く思った。感想としては「現代社会においては、選ばれし数少ない者のみが、粛清、没個性化される事を免れるのだなあ」と思った。

 

・2012年1月18日

 新潮社説明会、マス読出版志望者会合参加。これについては、次月号(2月号)で詳細を記事にしようかな、と思っている。

 


「キャフェーで過ごす時間」 オパーリン

 たまには「エッセイっぽいエッセイを」と思って。いやね、自分で書いておきながら、自分の書いている文章を見返すと些か「エッセイと言うにはむさ苦し過ぎる」代物ばかりだなぁ、と思いましてね。もう少し徒然と、オサレっぽいものを書いたりましょうか、と思ったわけですよ。こっから本文ね。

 最近、出歩く機会が増えて、その空き時間にキャフェーへ行く事が多くなった。都会の喧噪の中で、静寂な、ゆったりとした一時を提供してくれるキャフェーというものは、まさにオアシスそのものである。

 洗練されたチェアーと時の刻まれたテーブル、照明は少し薄暗い程度がちょうど良い、音楽は、静かならば何でも良い(詳しくないのでこだわりはない)。アイスキャフェラッテを注文し、お気に入りの煙草を燻らせながら、手に馴染んだハンディーワープロをカタンカタンと(控えめに)打ち鳴らして執筆する。至極の一時である。ナルシー全開、己に酔いまくることこの上なし。あまりの陶酔に時の経つのも忘れ、会社説明会をすっぽかすこと幾たびか。いや、何も問題は無い。我が生涯に一片の悔いなし。

 と、色々と素晴らしいキャフェータイムの条件を挙げつらってきた。これらの条件はいずれも上質なキャフェータイムには欠くべからざるものである。が、その中でも特に一つ、絶対に欠かせない条件がある。そう「お気に入りの煙草」である。これが断然、いっちゃん重要である。竿が無ければ男ではないのと同じくらい、いやそれ以上に重要である。禁煙の喫茶店なんぞはもはや「キャフェー」とは呼べない。「カヘ」である。

 ところがどっこい。世の流れは「禁煙、嫌煙」まっしぐらである。それ自体が人権侵害甚だしく、特に現厚労大臣の小○山なんぞはもはや女権運動家どころかレイシストの域に達しておる、と僕は思うのである。が、煙草が嫌いな人にも煙草を愛する人と同様に人権が存している事も事実であり、そこに関しては僕とて何の依存もない。そして、その両者が互いに心地よく共存する為には、(嫌煙レイシスト達は頑なにそれを認めないが)ただ単に「分煙」を推進すれば良いだけの話である。嫌煙レイシスト達にはそんな簡単な話がなぜ分からないのか、僕には全然分からない。分かる人がいたら是非とも説明して欲しいものだ(分煙の行き届いたキャフェーで、分煙用のガラス越しに電話で話し合おうではないか)。嫌煙レイシスト、奴らの脳内には「憎しみ」と「差別」とがドス黒く渦巻いているに違いない。そして、思いやりの失われつつある社会にとっては、そういうドス黒い感情の方がよっぽど有害であると僕は思う。

 で、問題なのは「キャフェー」における煙草にまつわる現状である。着実に「カへ」が増えているのである。ス○バ等は最初から「カヘ」であることを知っているので死んでも入らないので問題ないのだが、近年ではスタバ以外にも「キャフェー」が「カヘ」に改悪されていることがあり、甚だ迷惑なのである。

 この間も、そうとは知らず間違って秋葉原の「カヘ」に入ってしまい、全席禁煙を食らい、350円すられた。その時はアイスカヘラテを一気飲みし、二分で店を出たが、さすが千代田区、と思った。せめて入り口に大きく「当店は嫌煙レイシスト様御用達のお店です」と明記しておいて欲しい。そしたら素通りするのだから。

 ただでさえ安い風俗に通う位しか楽しみのない哀れな素人童貞の、数少ない楽しみを、これ以上奪わないで欲しい。人権侵害どころではない、これはもはや立派な「いじめ」である。国ぐるみの「弱者虐待」である。

 そして、煙草吸いの側にも問題がある。まんまと嫌煙レイシスト共の策中にハマり、「本当は禁煙したい」等とぬかして飼い慣らされ、挙げ句の果てには禁煙し「やめられて分かった、さあ君たちも禁煙しよう」なぞとほざきだす始末である。俺は恥ずかしいよ。元喫煙者達よ、そして禁煙予備群の諸君、俺は恥ずかしいよ。君たちにプライドというものはないのか?もはや君たちには竿も金玉もない、君たちは去勢された犬だ。犬畜生に成り下がりやがって。貴様等のような奴がわんさかいるお陰で、奴らが増長するんだ。

 と、嘆いてばかりいても始まらない。俺もただ頭を垂れて肩身狭く「すいませんねぇ」なぞと萎縮してばかりいるつもりはない。理性あり、誇り高き愛煙家として徹底抗戦する。以下、具体的な行動規範を列挙する

1、俺はどれだけ値上げされようと頑として止めず、紫煙を吐き続ける。

2、生涯愛煙を貫き、多少なりとも喫煙が原因との疑いのある疾病を患った場合、責任として国民医療保険は一切使用せず、全額自費にて医療行為を受ける。それが無理なら、治さずに死ぬ。

3、将来、法的に喫煙が禁止された場合、潔く獄に入る。

 以上を持って「一愛煙家の闘争宣言」とする。って、全然エッセイじゃなくなっちまったじゃねえか。まあ、仕方がねえ、これが俺の性分ってもんでな。


「生きてても無駄」 東町健太

 先日、いつものようにぬらぬらと仕事をしているときのことだった。仕事はいい感じだった。最低な仕事だけど最高に順調だった。全体的に見て総括するなら微妙だった。完膚なきまでに完全に微妙だった。たとえるなら「40年以内にマグニチュード7クラスの地震が起きる確立は45%」という予報くらいに微妙だった。そんないつも通りの、まるでV6における長野の存在感のように冴えない日にその事件は起きた。

 そのときの仕事内容は物を右から左に動かすだけの、脳の溶解をぐんぐん促す素敵な作業。もはやおかゆのようになってしまった脳をタプタプいわせながら「えいやっ」と物を持ち上げた時、首筋にかなりファンタスティックな痛みが走った。全力で走った。結構な重さの物を持ち上げたことで、首の筋というか何かを痛めてしまったのだと思う。「あむでゅううっっ!!」わけのわからない叫び声をあげつつ僕はその場で崩れ落ちた。崩落、というよりは崩壊、そんな感じだった。

 それからは今に至っても首の痛みと戦う日々が続いている。この痛み、痛めたその日に比べればかなりおさまったものの日常生活にかなりの支障をきたしている。首を動かすと痛いから、後ろから話しかけられたりするとなかなか困る。普通に体ごと後ろを向けばいいのだけど、ついつい首を動かしてしまう。人間だもの。確かに同じ人間だけど相田みつおなんかに一緒くたにまとめられるとなんかむかつくね。そうして首を動かすと、首がまたフレキシブルに痛む。痛みで全身が固まる。あう。

 そうして痛む首を抱えながらの仕事、首をもっとも痛まないように変な姿勢で変な体勢をとりつつの仕事。それは僕の腰を無情に破壊した。もともと腰は以前から悪いのだけど、それがより凶悪な感じになった。もうもはや服を着る、ラーメンをたべる、土下座をする、といった日常のことまでかなり困難な状況になっていった。

そうして痛む腰と首を抱えながらの仕事、腰と首をもっとも痛まな以下略、今度はひざにまで激痛が走ってきた。駆け下りてきた。満身創痍プレイの始まりである。

 そんな私を救ってくれたのは市販の頭痛薬でした。一日9錠、朝昼晩食後3錠ずつ飲むと不思議と痛みがやわらぐのです。もう私はイブAがないと生きていけません。イブAのおかげで人生が変わりました。ありがとうイブA!

 しかしそんな僕の幸せも長くつづかなかった。なんでも頭痛薬は飲みすぎてはいけないらしい。というか死ぬらしい。そんな情報を入手してしまった。死の恐怖におびえふるえつつ僕は泣く泣く頭痛薬の服用を一日6錠に減らすことにした。知らぬが仏だな。知らなけりゃホントにホトケになってたけれど。

 「頭痛薬とウイスキーを一緒に飲むとね、ふわってなっていい感じだよ」

 そう高校生当時の僕に教えてくれたT君は信念の人だ。T君とは小学校から大学までずっと同じ学校に通っていて、お互いに気心の知れた仲だ。T君は幼い頃に聞いた「無駄なものなんて世の中にはない。無駄だって思うものこそが人生を豊かにするんだ」という手垢のつきまくって悪臭放つふざけた人生訓に感銘をうけた。そしてT君はより無駄なことを追及し、無駄な人生を歩むことを決めた。そんな無駄な信念を貫く人だった。そんなT君は周囲から当然理解されず、さまざまな迫害をうけ痛みをこうむった。結果として奇抜な頭痛薬の服用法をするようになったのだろう。

 T君は小学生のとき、お菓子の袋にはいっている「食べてはいけません」「DON‘T EAT!」と書いてある袋の中身を食べたらどうなるか、そんな無駄な研究をしたくなった。ただ自分で食べるのは怖かったので、彼の弟にかなり暴力に比重をおいた説得をし、大量に食べさせてみた。弟は二週間ほど入院した。T君の人生はこれで豊かになったかもしれないが、弟くんの人生はその分まずしくなった。

 T君の家には一匹の犬がいた。今は残念ながら亡くなってしまったのだが、とても人懐っこくてかわいい犬だった。T君はその犬が初めて家に来たとき、「自分が名前をつける!」と言い、譲らなかった。彼がその犬につけた名前は「キャット」だった。僕がT君の家に遊びにいくと「ワンワン」と元気よくほえながらキャットは僕を出迎えてくれたものだ。T君は自分の愛犬の人生も無駄なものにしてしまいたかったのだ。

 「真のアブラゼミを造る」と宣言して捕まえてきたアブラゼミにサラダ油に浸していたときもあった。意味はわからなかったがその行為が無駄であることはよくわかった。その「真のアブラゼミ」をキャットがつかまえて食べていたりした。

 ほかにもバッタとカマキリをセロハンテープでくっつけて新生物「カマッタ」をつくりだしたり、当時小学校の授業で使っていた友達の30センチものさしをヤスリでけずって28センチものさしに改造したりしていた。すべてが無駄な行為だった。

 高校生になってT君は一度、タバコをもっていた、と教師に咎められ二週間の停学処分になったことがある。しかしそれは正確ではなかった。T君がもっていたのはタバコではなく錦糸町までいって買ってきた合法ドラッグだった。T君は語った。「タバコは20歳未満が吸ったらいけないって法律があるよね。だから高校生がもってたらそりゃ停学にもなるだろ。でも20歳未満は合法ドラッグをキメたらいけないなんて法律はないじゃん。だから俺が停学処分はおかしいと思うんだよね。」もっともな意見だとは思ったが、何かを根本的に間違えている気がした。それをT君に伝えるのはなんかいやだったから何もいわなかった。

 いろいろ書いたがT君は実は勉強はとてもよくできる人間だった。うそのような本当の話だ。とりわけ数学的な思考回路はすさまじいものがあり、教師に数学オリンピックの出場を打診されていたほどだ。数学の天才は問題を見た途端、まるでパズルのようにその問題の答えがわかってしまうらしい。T君は「答えはわかるけど、途中式の書き方がよくわかんない」とぼやいていたことがあった。それを聞いてこいつは本当に天才かもしれないと思った。しかしT君は文系コースを迷わず選択した。天才のT君は古文や日本史で赤点をとって補習を受けていた。

 そんなT君であるが無事大学も卒業し、大手の銀行に就職した。大学時代、いっさい勉強をせず、マリファナばかり吸っていたT君がなぜ就職できたかはわからない。二十歳をすぎて突然ポケモンにはまり、五反田だかどこかのポケモンセンターに通いつめていたT君。そこでヒントを得たのだろう、ピカチュウと幼女が熱くねっとりからみあう新しすぎるジャンルのマンガを書いて同人誌にのっけたりしていたT君。そんな獣‥じゃないかポケモン姦マニアの彼でも就職はできたのだ。

 そんなT君は先日、銀行を辞めた。銀行には無駄がないかららしい。今T君は障害を持つ子供のために働く職に就きたい、と目標をさだめ勉強にはげんでいるらしい。

 T君は語る。「障害者ってさ、世の中の無駄じゃん。いなくていいじゃん。だってそんなの埋めちゃえばいいわけでしょ?そんな奴らの世話する仕事ってマジで無駄だよね。その無駄な感じがいいの。いなくていい感じがいいの。無駄と無駄があわさってより強固な無駄になるよね。ちなみに俺の目標にしてる人物はね、まあ俺なんかにはなれないけど、前総理やってた鳩山だから。あんなに無駄のかたまりみたいなやついなかったよね。本気で尊敬してる。あっ頭痛薬飲む?」

 障害者のために働くという彼のやってることは素晴らしいと思ったが、彼の理念は激しく間違えているとおもったが、それをT君に伝えるのはなんかすごくいやだった。

 なんか頭痛薬という単語から変なことを思い出してしまった。体中すでに痛いのに頭まで痛くなってきた。でも10代後半とかの時期に「自分探し」とかやりだして挙句「世の中のために役に立ちたいです」とか言っちゃうやつらも無駄さにおいてT君と変わんないなあとも思う。もう二十歳すぎてるのに自分のことを「~女子」「~男子」とかいっちゃうやつらの存在も無駄。そして電子書籍で雑誌とかつくっちゃうのも無駄。世の中なんでこんなに無駄が多いかなあと首をひねったら激痛で、あう。

 

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(↑オパーリンの感想)

 「たばこほど無駄なものはないけれどもね。無駄のようにみえるものを、どこまで許容し得るか・・・それが文化でしょう」これは池波正太郎の言葉である(『グレート・スモーカー』より)。この社会のおいては「いかに無駄をなくすか」が非常に重要な命題として我々の頭の中に刷り込まれてる。みんな、無駄をなくすことに「しゃかりき」になっている。みんな。このしゃかりきの努力が実り、もしこの社会に無駄なものが何一つ無くなったら、みんな最適化され、一切の無駄のない究極の人間になる。つまり、みんな同じ一つの形体に至るということである。無駄のない人間、それはみんな同じ顔、同じバストサイズ、同じチンチンの長さ、という事である。

 違う部分、共通から外れる部分、そんな所にこそ「僕」であり「貴方」である所以が宿っているのである。だから、人が誰かを愛する時、彼、彼女はその人の「無駄な部分」をこそ愛しているのである。つまり、無駄が無くなれば愛も無くなり、僕と貴方の間には何の違いも無くなる。そんな世界はまっぴらごめんだ。

 だからこそ、僕が僕であるために、貴方が貴方であるために、無駄を愛し、無駄な事をしよう。東町氏の文章を読んでそう感じた。

 


「アンパンマンとキリスト教」 多良鼓

 アンパンマンが自らの顔をちぎり、お腹を空かせている人々に分け与える。誰でも一度は見たことある光景だろう。このような姿は現実世界でもまれに見られる光景だ。もちろん顔をちぎることでは無い。すなわち、マザーテレサ等に見られる「自己犠牲による献身」だ。この自己犠牲による献身は、キリスト教の教義として非常に大切にされている。すなわち「神を愛し、隣人を愛せよ。」である。アンパンマンの作者であるやなせたかし氏が敬虔なクリスチャンということもあるだろうが、アンパンマンにおける正義は、キリスト教のそれと非常に似通っているように見えるのだ。

 しかし、ある一点、まったく異なっているところがある。それは「その正義を行う目的」という点だ。ここを強調することで、アンパンマンにおける自己犠牲とキリスト教における自己犠牲は全く異なっていることを、私は主張したい。

 キリスト教の教義は、上述したように「神を愛し、隣人を愛せよ。」これだけである。もちろん、どのようにすればよいかは細かく決められている(しかも宗派によっても違う)が、中心教義は全くこれだけなのである。では、キリスト教を信じ、この教義を遂行するのは何故か。簡単だ。「死後、神の国へ転生するため」だ。宗教は大きく「集団救済宗教(ユダヤ教・儒教など)」と「個人救済宗教(仏教・キリスト教・イスラム教など)」に分かれ、キリスト教は個人救済を目的とした宗教なのである。各人が、死後の世界の己を救うために、現世で隣人を愛するのである。

 対して、アンパンマンの自己犠牲はどうか。彼は自己犠牲に見返りを求めていない。現世でも、そして死後世界でもだ(あるかどうかは謎だが)。大体、アンパンマン自体が自己犠牲をそのままキャラクターにしたようなものだから、もはや自己犠牲そのものが目的となっているのは仕方が無い。では、自己犠牲によって達成される目的とは何か。アンパンマンは劇中で「みんなのことが大好きだよ」といったセリフを口にすることがある。この「みんな」には、ばいきんまん(片仮名ではなく平仮名)も含まれているのだ。その証拠に、ばいきんまんが悪さをしない時には素直にほめたり食べ物を分け与えていたりすることがある。あくまでも献身することが主目的であって、ばいきんまんをぶっとばすのはアンパンマン世界における道徳観念に反した時のみなのである。アンパンマンの自己犠牲による献身には「己の正義(それは作者の正義でもある)を貫く」という動機があり、それによって達成される目的は「他者を救う」それだけなのだ。正義を行う目的は、あくまでも他者のためであり、自分は含まれていないのだ。

 これらから、それぞれの活動目的が「自己」か「他者」かという点で、アンパンマンの自己犠牲とキリスト教の自己犠牲は異なっていると言える。この見解が非常に浅く突っ込みどころ満載なのは百も承知である。アンパンマンの活動も「己の正義を貫くことによって自らのアイデンティティーを守る」といったところまで還元してしまえば、「自己」を目的としているとも言える。正義とは考えるのも行うのも実に難しい。せめて、自然に献身を行うことができる成熟した人間になれるよう、努力を怠らないようにしよう。などと教訓にも駄文の言いわけにもならないことをほざいて、閉めとさせていただく。

 

追記1

 アンパンマンはキリスト教徒ではなくいわゆる「神」ではないかという突っ込みが来そうだが、その点についてもノーだと言わせていただく。キリスト教における神は全智全能であり、もはや人間が考える善し悪しのものさしでは測れない、測ってはいけない存在だとされる。アンパンマンが行う善行とは、「食べ物を分け与えること」「他人をいじめないこと」というヒューマニズム的なものであり、その点で人道的なものさしに押しこめられるものと言える。しかしキリスト教だと「異教徒は人ではないので殺してもいい」という神と聖書を絶対にする特別な道徳内での善行なので、アンパンマンの善行とは相いれないのだ。神の思し召しとは、「お前がもっと私に愛を示せるように手伝ってあげましょう」という意味合いのものなのである。

 

追記2

 なにか、キリスト教に対して悪いイメージを持っているような文章になったが、そういう感情は抱いていないことを申し上げておく。キリスト教における愛とはアガペーであり、無価値とも思える人間をも愛する無条件の愛である。そのような極端な思想に因る殉教は人々に激烈なエネルギーを起こさせ、その産物として我々が息づく近現代が作られたという歴史がある。そういう意味で、キリスト教とは良くも悪くも凄まじい宗教である、というイメージを持っていただけたら幸いである。

 

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(↑オパーリンの感想)

 アニメの次はキリスト教ときたか、しかもアンパンマンとの比較考察、やるな。と、多良鼓氏の幅の広さを感じながら読んだ。日本だから良かったものの、これをキリスト教万世な国で書いていたら、それなりにヤバい事になるのかもな、なんて思ったりもして。少し記事の内容に言及すれば、アンパンマンの自己犠牲の精神って、実際のところその根源がどこにあるのか分からないよね。「何のために彼は甘んじて食われるのか」っていうその部分、もうちょっと突っ込めば「何が楽しくて文句一つ言われずに食われられるのか」って言う事。彼のやる気の源が分からん。アホなのか、ドMなのか、メシアなのか。多良鼓氏の文章ではメシアとの相違点について言及されており、頷ける部分も多いので、やはりアンパンマンはドMか真性のアホなのだろうな、と思う。

 で、ドMの線は薄い様な気がする。あいつ、食われても悶えたり悦んだりしないもんね。というわけで、アンパンマンは真性のアホ、完全なる無垢とでも言おうか、そう言う感じだから、あんなに食われても文句一つ言わないんだろうね。

 で、キリスト教について。一括りに「キリスト教」と言っても本当に色々な宗派がある。最近では米共和党大統領候補だっけか、のロムニーさんがモルモン教徒(キリスト教の一宗派らしいよ)だっていう事がテレビで解説されてたな(歴代大統領は殆どプロテスタントらしい)。で、キリスト教について考える時には、そういった一個一個の宗派について考えてみるのも面白い。

 例えば、前大統領のブッシュが信じていたのは福音派と呼ばれる宗派で、この福音派については松島×町山の未公開映画を見るTVでやっていた(DVDにもなっている」)『ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~』という映画が面白い。信徒の親は子供を教育現場から隔離し(ダーウィンの進化論を教えさせないため)、自宅で創世記を教育する。福音派の洗脳キャンプに参加させる。などなど、原理主義と言われる宗教の香ばしさがビンビンと伝わってくる作品である。

 日本でもオウムを筆頭として、カルト宗教が問題視される事って結構あるんだけど、実際にはみんなよく知らないんだよね。その危険性を理解する為にも、教育課程の中に(カルトを含む)現代の宗教を扱う授業を行った方がいいと思うんだよな。被害にあう無垢な大学生とかも、未だにいっぱいいる訳なんだし。特に僕の所属している筑波大学の周辺なんて、やばいカルトがウヨウヨしている。そうだな、てっとり早くカルトの恐ろしさを知りたい人には園子温監督の『愛のむきだし』がおすすめ。これは超有名な某カルト教団をモデルにしている。

 ここまで熱心に危険性を説いてきたが、これを読んでいる大抵の人は「ふーん(私には関係ないや)」でやり過ごしてしまうんだろうと思う。「日本は(実質的には)無宗教の国」だなんてよく言われることだし、良し悪しは別としてそれは確かにその通りな面もある。だが、ここでは「宗教」の捉え方を少し僕なりにアレンジして、その点について考え直していきたいと思う。

 「宗教」というと、日本人は「無宗教」なのかもしれないが、「依存」といえばどうだろうか?自分の拠り所となるもの、自分が自分であることを支えてくれるもの。一流のサラリーマンなら自分の「キャリア」、社長や投資家なら「金」、キャバ嬢も「金」か、ヴィッチなら「男根」、教育熱心なママは「息子」ようするに「男根」なのかな。とまあ、人それぞれ色々あるんだろうけども、社会だったり、金だったり、恋愛だったり、大抵の人は自分という存在を支える為に何かに「依存」していると思うんだよね。「俺は俺、何にも頼らない」なんていう無頼派な人もいるんだろうけれども、そういう人はやはりどこか難儀な人生を送っている気がする。

 で、それぞれの人が「依存している対象」っていうのは、その人にとっては「信じられるもの」なのであって、ある意味宗教に近いというか、その人にとっての「宗教」なのだと思うんだよね。さしあたり日本人は「みんなと同じじゃなきゃ駄目」教の信者が一番多い気がするがね。

 ここからまとめ。大抵の人は自己、自我というものを維持する為には何らかの「宗教的なもの」が必要。ただ、その信心の対象が、人それぞれに違うことから問題が生じることがある。また逆に、みんなが余りに同じものばかり「信じる」と、同調圧力が生じて、マイノリティーの弾圧が起きたりもする。つまり、人が何かを「信じる」限り、問題が生じる。で、ここで「じゃあ、果たして自我なんて必要なの?」と言いだした人がいる。僕にはその発想は無かったので、その問題提起をされた時は相当なショックを受けた。そして、未だに「自我が必要かどうか」という問いに対して、僕の中では答えを出せないでいる。ちなみに、僕にその根源的な問いを投げかけたのは伊藤計劃という作家で、彼の『ハーモニー』という作品を読んでの事だった。

 



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