閉じる


愛しい、あなたに

「おはよう」

 私が病室に顔を出すと葵は必ずそう言った。どんな時間でも、その日初めて顔を出すのであればそう言う。一度だけ理由を聞いたことがあったが、彼はなんとなく、と答えるだけだった。でもいつだったか、窓から見える中庭できゃいきゃいと遊ぶ小児科の子どもたちを愛おしく見つめながら、葵は、

「おはようと言うだろう。そうするとなんだかまた新しい一日が始まるみたいで――」

 そこまで言いかけた瞬間、彼の口から真っ赤な花が咲くように、血が噴き出した。まっ白な掛け布団や壁、クリーム色のカーテンに飛沫したそれは毒々しく、色の白くて美しい葵から出たものだとは到底考えづらいような色をしていた。彼は指を震わせながら手招きして私を呼ぶ。くぐもった音が彼の腹からせりあがってきて、あれよと言う間に彼は吐しゃ物と血の混じったものをまた吐き出した。ごぼごぼと、不吉な音が間近でするのだが私は何もできず、ただ震える葵の手を握った。驚くほど冷たかった。空いていた手で西日の差し込むカーテンを閉める。この時間の強い陽光は体によくないと言っていたのに、と後悔がふつふつと湧き上がってくる。彼の背をさすりながら、廊下にむかって叫ぶとほどなくして看護婦たちが走りよってきて洗面器やらなにやらが運び込まれ、いつの間にか部屋の外にはじき出されていた。待合室の、中からスポンジが出てしまっている古い長椅子に腰掛けてから、自分の手が葵の血で汚れているのに気づいた。生暖かかったはずのそれが、どんどん温度を失っていくのが怖くて、私は声を抑えて泣いた。

 

「おはよう」

 金木犀の花が秋を謳い、悲しくなっていく景色に彩りを添え始めたころ、仕事帰りによると、彼は珍しく上半身を起こして本を読んでいた。優雅な午後であったが、私は似つかわしくなく絶句したまま扉から先に一歩を踏み出せないでいる。彼が読んでいた本がフランス語で書かれたものだからではない。大学の講義をしていて、海外の書物を原文のまま読む生徒はざらにいる。驚くべきことではない。そうではない。彼の左目はガーゼを幾枚も重ねた上から包帯をぐるぐると巻いてあり、まったく機能していなかったからだ。葵は平然と右目だけで本を読んでいる。親指がなくなってしまった左手で、丁寧に頁をめくる。その音だけが、緩やかな午後の時間を有する部屋にわずかに響いた。ずっと立ちすくんでいる私を見つめ、うっすらと彼は微笑んだ。

鴎四朗、まるでひょっとこみたい。おかめは僕かな」
「……」
「今朝突然ね」
「今朝」
「そう、ぼやぼやして見えないと常日頃思っていたのだけれども、島田さんのおしりが大きいなあなどと思っていたら溶けてしまって。驚いたよ。血のように目玉も流れてしまうのだから」


「痛かったか」
「どうかな。最近はどこがどう痛いのかもよくわからなくなってきてしまって。それに島田さんのおしりが左目の最後なんて、浮かばれないよ」

 体格のよい看護婦長を思い出した。四十を過ぎたころの彼女はまるでこの病棟の母親のようで厳しく、そして優しい。以前、葵が血を吐いて私が慌てふためいていたときもいち早くかけつけてくれ、しっかりしなさいと背中を叩いたのが島田さんであった。

 まだ驚いている私を見て葵はくつくつと笑い、また目を本に戻す。彼は何事もなかったかのようにそこにいて、何事もなかったかのように本をめくる。確実に体を失いながら。

「でもねえ」

 呆けている私を見かねたのか、彼はため息をつきながら風でゆれるカーテンを見つめている。やっと正気を戻したからか、私は室内が金木犀の香りで一杯になっていることに気づいた。夏、窓をあけてすぐある緑の木々が何かわからないまま見つめていたが、金木犀だったのだろう。中庭を遊んでいるらしい子どもたちの楽しげな声が、沈黙を満たす。薄い遮光カーテン越しの陽光が優しく床を照らしていた。葵は陽光に直接当たることができず、あたるとたちまちに体調が悪くなる。病気の原因が、陽光にあたることで活発になるからかもしれなかった。

「片目だけでよかった。この右目がなくなるときは、鴎四朗の顔を焼き付けてからにしたい」
「ばかなことを言うな」

 不謹慎ながらも葵の左目がなくなってよかったと思う。首を傾げなければきっと、彼の左側に座る私の涙は死角になって見えないだろうから。


 数日後、学校が早く終わったので梨を買って持っていき剥いてやった。彼が入院してからもうすぐ一年が経とうとしている。その間、私は彼のために様々な果物を剥いた。リンゴ、梨、甘夏、桃、プラム、柘榴――。いつも料理は葵がやってくれていたから、包丁を持つことなど全くできなかった私が、今ではリンゴをうさぎのように切ることもできるようになった。梨の皮も、細く長く、最後まで千切れることなく剥くことができ、その様を首をひねって右目で見ていた葵は、やはりくつくつと楽しげに笑うのだった。

「鴎四朗は本当に上手になったね。料理もちゃんとやっているの」
「誰も作ってくれないからな。お前が早く治ってくれないと」

 彼は答えず、私が剥いた梨をひとかけらしゃりしゃりと食べて「ありがとう」と言うのだった。もうひとかけら差し出すが、君が食べてと、彼は少し無愛想に断った。黙って梨をほおばる。みずみずしく、酸味と甘みがちょうどよかった。秋だな、というと、秋だね、と答える。それ以上は何も言えなかった。治るなどと、簡単に口にせねばよかったと今更ながらに後悔する。本心から発した言葉でも、どうしようもないことがある。それは病気とともにいる本人が、わかりたくないぐらいわかっていることだろう。

 不意に葵は梨を吐き、痙攣を起こした。寝台から転がり落ち、その衝撃で前からゆるくなっていたらしい上の前歯が二本と下の前歯が一本抜け落ちた。


 最初は、左足。次は、右腕。

 朝、蒲団から飛び出している足が――葵は見かけによらず寝相が悪く、よく腹を出してくだしてばかりいる――赤く腫れていたのでそれを言うと、彼は少し痛いと訴えたのだった。葵の足はくるぶしあたりから赤く腫れていき、腫れが引いたと思ったら紫色から茶色に変色していった。暫くして歩けないほどの激痛が彼を襲い、入院してもその症状は改善されず、むしろ悪くなっていったようだった。痛すぎて感覚がおかしいと、嘔吐を繰り返す日もあった。

 色が変わっていくにつれて痛みは消えていったがそれと同時に感覚さえもなくなっていった。そして、最終的に葵の足も腕も、まるで溶けるようにして千切れていった。レントゲンをとると、体の内部でも臓器の異変がいくつが見つかったのだが、手立てがないという。部位はそれぞれで、進行も痛みもまちまちだ。原因はわからない。感染性のある病気ではないとの判断が下された。それに葵の生活を見ていても、同じような症状をきたしているような人物と接する機会はまるでないし、もし感染性があったとしても潜伏期間が長すぎるとのことだ。唯一救いだったのはその点で、感染しないことがわかってから毎日彼のもとに見舞った。原因がわからない。それなのに、確実に細胞が死んでいく。彼を救うのは痛み止めのモルヒネ。それ以外に手立てがなかった。

 

 冬至を過ぎてすぐに、葵が重病室に移された。病院の、もっとも医局に近い部屋で窓が北向きについているから日当たりが悪く、いつもひんやりした部屋だ。それは暗に、もはや葵の病状が上向きにはならないことを示していた。それに冬も深まる中で、葵の顔色は日に日に青白くなっていくようで、私は困惑した。暇なときとはいえ、大体が学校終わりに見舞いに行っていたし、前の部屋は西向きに窓がついていたから遅くならない限りは、いつもあたたかな光に包まれた部屋だった。だからか彼の顔色はそう悪く見えなかったが、重病室に移ってからというもの包帯の間から見える葵の頬は確実に生きているものの色からは遠ざかっていく。

葵」

 冬季休業が始まった日の午後、まだ早い時間に葵の部屋へ行った。部屋に入る前に医局で持ち込むものがチェックされ、外套と襟巻きをはずしてから体中に消毒剤のはいった霧吹きを向けられる。すうすうしたまま部屋へ踏み込むと、葵はもう起き上がる元気もないようで、寝たままゆっくりと顔だけをこちら向けた。

彼の右目ももうほとんど機能しておらず、右足も膝から下がなくなった。今は点滴と流動食とで命を繋いでいるが、食事をするとすぐに吐き出してしまうから、もともと痩身だったが、より拍車がかかったように見える。

「おはよう」
「おあ、よお」

 歯もほとんど抜け落ちてしまい、上手く発音ができないと照れくさそうに笑う。


「今日からやっと休みだ。毎日お前のところに来られるよ。何、家の心配はしないでいい。大家さんがなんだかんだと世話をしてくれるし、葵のことも心配していたよ。早く帰って来い。お前の御飯が食べたいよ」

 もう聞き飽きたであろう励ましの言葉を、もう到底無理だと本人が一番わかっているであろう励ましの言葉を、あえて言う。もう、それしか言えなかった。葵は相変わらず微笑んでいたが、不意に右目に涙を浮かべた。

「葵、」
「かえい、たい、かえい、たい、おうしろ、お、かえい、たいお、」
「葵」

 彼が入院して初めて帰りたいと叫び、泣いた。葵の薄い肩に手を置き、もう一つの手で包帯ごしに額を撫でる。彼の涙は青白い頬を伝い、きらきらと光った。私の涙も彼の包帯に染みる。抱きしめてやりたい。けれども、葵にはもう抱きしめられるだけの力も残っていないだろう。きっと折れてしまう。そっと、彼の額に唇で触れた。

 

 先生や看護婦たちの計らいで、大晦日は葵の病室に宿泊した。その頃になると葵の体調もある程度安定しており気分のいいときは枕を背もたれにして、雪が降る様を眺める。ただ、呼吸器官の衰弱が著しく、物々しい補助具をつけたままであった。しんしんと冷える中、私たちは身を寄せ合ってただじっとしていた。彼は言葉すくなで――きっと何かを言葉にしようとしても、言葉にならないことが嫌なのだろう――穏やかに外を眺めている。ひゅうひゅうと、苦しげな呼吸音だけが病室に響いていた。

 部屋の隅においた火鉢がたまに爆ぜると、二人してびくりとし、くすくすと笑った。島田さんが私に気を使ってか、網と餅をもってきて火鉢で焼いてくれたりもした。嗅覚ももう機能しないはずの葵だったが、うらやましげに私を見つめて口だけを動かし「おいしそうだ」と言うのだった。

 面会時間以降に病室にいたのははじめてだったが、消灯された室内がまるで暗闇であり恐怖した。ほぼ視覚が機能していないだろう葵は、常にこの暗闇にいるに違いない。ああ、とため息が漏れる。暗い中、彼が痛みでもぞもぞと動くのが布擦れの音でわかる。かすかなうめき声と苦しげな呼吸。背中が痛くなる簡易の寝台からおき、葵の枕元の小さなランプに火を手探りでいれた。美しかった彼の面影はもうほとんど失われ、包帯でぐるぐる巻きにされたまるで木偶が転がっているようである。補助具が呼気で湿る様子を見てまだ生きていると、安心する。

 葵はかろうじて包帯の隙間からでている右目をうっすらと明け、目だけで微笑んで見せた。肩を動かし、起こしてほしいと訴えるので戸惑ったが従った。まるで羽のように軽い体だったが、本人は鉛のように重い痛みを感じているに違いなかった。補助具が外れたので直そうとすると、いやいやをして顔をそらす。

「つけないとだめだろう」
「だあ、じょぶ」

 互いの口から出る息が白い。医局に火をもらいに行こうかと思ったが起きていると知られると何を言われるかわからないので、葵を支えながら膝たちになる。床も驚くほど冷えており、びくりとなったが悟られないように笑顔を作る。

「おお、しろお」
「うん?」
「お、ぼ、えて、る、きょねん、の、し、よ、う、がつ」
「ああ。二人で餅を作ろうとして失敗したなあ。水が足りなかったのと、もち米がおおかったので、なあ」
「ふ」

 彼が声にならない笑い声をあげた。

 去年の正月は二人で暮らしていた長屋で、餅をつこうとしたのが失敗した。あまりにも大笑いをしたからか、心配した大家さんがやってきて一緒に笑った。大家さんは小柄な初老の婦人だったが、男二人だけで暮らすことを訝しがりもせず、葵が入院してからも何かとよくしてくれる方だった。

 葵は訥々と、その後もいくつかを懐かしく語った。春、夜に花見をしに行ったこと。夏、砂浜で日がな一日海を眺めていたこと。秋、電車を乗り継いで深山幽谷へ紅葉狩りをしに行ったこと。冬、深夜に月を眺めながら散歩をしたこと。それだけではない。毎日繰り返される日々そのものが、もはや今の私たちには思い出だった。講義がおわりバス停から少し離れた長屋に疲れを背負ったまま歩いていたが、古びた玄関が見え、橙色の電燈が見え、そして葵の姿が見えたとき、疲れがすべて吹き飛ぶ気がした。幸せな日々だった。耐え切れず、叫ぶように言葉がほとばしった。

「思い出など、私はいらない。ただ、お前と生きる一日がほしい」
「おおしろ、お」

 葵はゆっくりと首を振り、右目で私を捉えた。白濁し、視界もほぼ奪われているはずのその瞳はランプの明かりのせいか不思議なほどどこまでも澄んでおり、出会ったころと変わらない葵を思わせた。思い出を語ったからだろうか。いや、葵は、いつもいつまでも、きっと葵だ。たとえ身が滅びようとも、葵は葵なのだ。妙な確信が駆け抜けていく。目の前に横たわる葵が、病にかかる前の葵に見えてくる。

 黒々とした髪に健康的な肌、淡く散るそばかす、少し位置の違う耳、首筋にある二つのほくろ、形の綺麗な爪、少しまがった薬指、本人が気にしていた脹脛と変わらぬ細さの太股、人差し指の長い足の指。照れたように笑う顔、困ったように笑う顔。私に怒ったことなど一度もなかった

「鴎四朗、そんな悲しい顔しないで」

 葵の指が、いつのまにか流れていた私の涙を掬う。

読者登録

こんにゃくさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について