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 コンビニの蛍光灯は何故こうも煌々と眩しいのでしょうか。とっぷりと暗い外から入店したとたん、やあちゃんは光が目に刺さって痛くなりました。

 それなのに、あっちゃんときたら普段どおりです。入り口で立ち止まってしまったやあちゃんを追い越して、くりくりとした目で見上げてきます。

「やあちゃん。あっちゃんなー、おやつはポテチと『たけのこの山』がええと思うんや!」

 あっちゃんの隣で浮いているレジも首を縦に振りました。

「せや、それがええ。あとは『チョコタルト』も欲しいな~」

 どうも、この一人と一匹は遠慮を知らないようです。やあちゃんは溜息をつきました。

「それさ、全部食べきれるの?」

 訊ねると、あっちゃんが元気いっぱいに答えます。

「当たり前や! だって、やあちゃんがいるもん!」

 やあちゃんは肩が下がるのがわかりました。あっちゃんからは、すっかり大食漢に見られているようです。昔はそうでもなかったというのに何だか情けない気持ちになりました。

 うなだれていたらウッドゥが励ましてきます。

「ヤーチャンハ、マダ本調子ジャナインダヨ。ユックリ、ユックリ」

 彼女の潤んだ青い瞳に、焦った故に自分が起こした出来事を、やあちゃんは思い返しました。無意識に自己卑下してしまったことを反省しつつ、

「そうだね。まあ、少しくらいなら食べても太らないよね。これ以上」

 それから二人と二匹でコンビニのお菓子コーナーを物色しました。

 二匹というのは、〝善き音″のかたまりである〝ミュウ・モン″レジとウッドゥのことです。多くの人々は気がついていませんが、世界には〝善き音″と〝悪しき音″があり、この調和が取れているからこそ平和は保たれているのです。どちらかの音が多すぎると世界は簡単に駄目になってしまいます。

 そのために〝善き音″のかたまりである〝ミュウ・モン″たちは、その調和を取るべく自身の助けとなってくれる人を探します。それが〝歌い手″であり、やあちゃん及びあっちゃんのような人たちのことなのです。

 しかしながら、今夜はその使命を果たす必要もなさそうでした。

「なぁなぁ、やあちゃん。飲み物も買うてええ?」

 いつのまにか、あっちゃんが飲み物コーナーのガラス戸を開いています。その落ち着きのなさに呆れつつ、やあちゃんは言いました。

「買ってもいいけど……一本だけだよ。たくさん飲んだらトイレにいっぱい行くようになっちゃうしね」

 そんな正論にも、あっちゃんはふざけて身をくねらせます。

「きゃーっ、やあちゃん。えっちやー」

「せや、せやー! えっちやー」

 調子に乗ってレジまで真っ赤な身体をくねくねさせています。まったく、この一人と一匹は注意するたびに騒ぎだすから困ります。だんだん相手をするのに疲れてきたやあちゃんは、その場でしゃがみ込むと、お菓子コーナーから『じゃがピー』を買い物かごへ放りました。

 それを見たのか、棚を一つ隔てて声が聴こえてきます。

「ねぇねぇ。あれってさ、歌手のヤーチャンじゃない?」

 無遠慮で甲高い声。やあちゃんの心臓がどきっと跳ねました。だけれど、声はそれだけではありませんでした。

「ホント? でも、言っちゃ何だけど……太いよ?」

 さらなる胸の痛みが襲いかかってきます。頭の中も、くわん、くわん、と鳴り響き、今にもその場で倒れ込んでしまいそうでした。

 そこを、あっちゃんが飲み物を抱えて走ってきました。

「やあちゃーん。いちおうなー、あっちゃん、『パヤリース』買うてきてん」

 それを聞いたのか、棚の向こう側でひそひそと会話が続けられます。

「えっ、ホントにヤーチャン?! うそ。私、昔は大ファンだったのに」

「人は変わるもんだねぇ……」

 振り返れば棚の隙間から覗く口元。真っ赤なルージュが惹かれた唇の横には、深いしわが刻みこまれていました。二人とも、三十代半ばと言ったところでしょうか。よくよく考えてみれば、やあちゃんも現在二十八歳なのですから、そのファンも歳を取って当然です。

 変わったのは、やあちゃんだけではありません。

「あの頃は、本っ当に美少年、って感じでぎゅううっと抱き締めたいくらいだったのになァ」

 元ファンの女性は両腕で自分の身体を抱き締めています。しかし、その腕はぱっとすぐに解かれて、身体の横へと流されました。

 そうして、もう一人の女性が口元を引きつらせるのです。

「今は、ちょっと近寄りがたいカンジだね。まー、関係ないんだけど……」

 その言葉の内に、ちらりと覗くもの。それがやあちゃんの胸をいっぱい締めつけました。

 やあちゃんはふらりと立ち上がると、隣で足踏みをしているあっちゃんに向き直ります。

「あっちゃん、もういい? そろそろ出よう」

 自分でもぶっきらぼうな口調だとはわかっていました。おそらくは、あっちゃんもわかったのでしょう。目をぱちくりさせています。ただ、これまでの付き合いから気を遣うことを覚えたのか、こっくりと頷いただけでした。

 そのまま二人並んでお会計に向かいます。レジスターをぴっぴっと鳴らす男性が作業の一環といった様子で「1215円になります」と告げてきました。やあちゃんはお財布から千円札を二枚引き抜いて渡します。そして差し出されたお釣りをさっさとお財布に入れました。

 あっちゃんとレジ、それからウッドゥはそんなやあちゃんを傍でじっと見つめています。その視線に気づきながらも、やあちゃんは足先を出口に向けました。

「早く。急いで」

 そう急かしたのと、元ファンの女性が「あの子、お子さんかしら?」と言ったのは、ほぼ同じタイミングでした。やあちゃんは早足でコンビニを後にしました。


 自動ドアを抜けると、明るすぎるコンビニから一刻も早く離れるべく自転車のスタンド

を蹴りあげます。サドルに座った瞬間、前のかごにビニール袋が入れられました。

 あっちゃんがそこから顔をひょっこりと見せます。

「もうっ。やあちゃん、なんでそないに早足なんっ? あっちゃん、置いてく気かー?」

 ぷうと頬を膨らませる素直なところが、やあちゃんには羨ましく感じられます。あっちゃんは言いたいことをひとしきり言いきると、トタタタと後ろに回りました。

 自転車がかすかに揺れます。

「やあちゃんの自転車、ぼろいな~っ」

 あっちゃんがきゃいきゃいはしゃぐので、自転車がぎしぎしと軋みはじめます。やあちゃんはほんの少しだけ苛立ちました。自転車のペダルを力いっぱい踏むと、スピードを上げて走らせます。冷たい向かい風が頬を固くさせました。

 背後であっちゃんが喋り続けています。

「なぁなぁ~っ、スピード速ない? おまわりさんに違反切符切られるで~」

 やあちゃんは声を荒げました。

「自転車に違反切符なんてないよ。あっちゃんは本当にばかだなぁ!」

 それに、あっちゃんはいつものように質問攻めで対抗してきます。

「むうう。やあちゃん、何か怒ってるでー。何でやー、どうちてなんやー! あっちゃんのことがそんなに嫌いなんかー、憎いんかー? あっちゃんは親切で言うただけなのに、何でそないに言うんやー、いじめなんかー、交通事故と見せかけて振り落とそうとして」

「うるさいな、ちょっと黙っときなよ!」

 やあちゃんはあっちゃんの問いをすべてシャットアウトしました。そうすると、あっちゃんのお喋りがぴたっと止まります。それと同時に夜の空気が肺に入ってきました。身体の芯から冷えきり、頭もすっかり冷静さを取り戻します。

 そして自分の先ほどの言葉にまた嫌悪感を催すのでした。ああ言いだしたあっちゃんがしつこいのは確かですが、それでもあそこまで怒鳴る必要なんてなかったはずです。

 安全のために前方へ注意するものの、気になるのは背中にしがみついているあっちゃんのことでした。腰に回された手が、やあちゃんのパーカーのすそをきゅっと握りしめています。

 信号が赤に変わりました。やあちゃんは車道の前で両足を地面につけます。同時に視線をちらりと後ろへ向けました。

 あっちゃんから、亜麻色の小さな頭を背中に押しつけられています。

「おい、見るなやー。あっち向いとれやー」

 と、抗議するのはレジ。あっちゃんが泣いているのをやあちゃんに見せたくなかったようです。やあちゃんのふくふく丸い腕をぽかぽかと叩いてきます。

 特別痛いものではありませんでしたが、やあちゃんは眉をひそめました。

「……ちょっと休もうか? それとも、早く家まで戻る?」

 あっちゃんが頭をちょっとだけうつむかせました。それを返事として受けとめて、やあちゃんは自転車を近くのお店のそばに止めます。普段なら営業妨害と怒られるところですが、既にシャッターが下ろされており、辺りはしんと静まっていました。

 あっちゃんは自転車から降りると、すぐにどこかへ行ってしまいました。きっと泣いているところを見せたら困らせると思ったのでしょう。やあちゃんは一瞬追いかけようと身を屈めましたけれど、すぐ思いなおしてシャッターに背を預けました。ぼこぼことしていて、背中が痛くなります。だからポケットから煙草とライターを取り出しました。

 しゅぼっとライターを点けて、くわえた煙草の先を炎に近づけます。先っぽが赤々と光り、夜の街に灯るネオンが白く煙りました。煙草の煙は、空っぽのお腹を満たしてくれます。

 やあちゃんが煙草を吸い始めたのは、歌手活動を休止してからのことでした。やることが何もなくて、ただただ怠惰に過ごす日々。休止した頃はちょうど真冬だったので、外へ出るときはいつも厚手のコートを着て、つばの広い帽子を目深に被っていました。それだけでは周囲に有名人だとばれそうなものですが、外出するのは夜と決めていたので充分だったのです。それも行き先はいつも人通りの少ない通りでしたから。

 やあちゃんは、ついと目線を変えます。まだ開いているゲームセンターの入り口近くで若者たちが談笑していました。だぼだぼの半そでパーカーにサイズが大きいズボン。かかとを踏みつぶしたスニーカーはひしゃげています。

 あの頃、彼らのような若者はやあちゃんにとって一番のコンプレックスでした。十八歳、つまり彼らと同い年くらいだったので、日々を面白おかしく消費している彼らが何だかとても輝いて見えたのです。もちろん今は違います。でも、あの頃は、彼らのように「今」を楽しくやっている人々に憧れていました。だからでしょうか。いつもお腹の奥にひりひりするような痛みを抱えながら、遠くから彼らを見つめていたのです。

 それが今では保護者のように「親御さんはどうしているのかな」なんて考えているのですから、時の移ろいとは不思議なものです。やあちゃんは二本目の煙草を取り出しました。

 と、そこで、あっちゃんがゲームセンターから出てきました。戦利品なのかキラキラのカードを両手に何枚も握りしめています。そして、そのカードに負けないくらいの笑みを顔に張りつかせていました。

 やあちゃんは口から煙をぷわぁと吐き出しました。それから口をもぐもぐさせて、あっちゃんが来るのを待ちます。わずか0.3秒ほどのことでした。

 ゲームセンターからかっ飛んできたあっちゃんは、ニコニコ顔で報告してくれます。

「あんなー、音ゲーで一プレイにつきカード一枚出てくるキャンペーンがあったんや。そんで、そん中にレアカードがあんねん。だからな、あっちゃん、ちょっとやってん」

「さっきまで泣いてたのに?」

 あっちゃんの鼻のあたりが赤くなりました。

「そ、それは忘れとき。ゲームやったら、ちょっぴり元気になれてん! 見て」

 そう言って目の前にキラキラのカードを出されました。近すぎてよく見えませんが、おそらくはレアカードの一種なのでしょう。やあちゃんは煙草の煙をごくりと飲み込みました。

「あっちゃんって、単純だよね……」


 そうすると、あっちゃんから腕を振りかざされます。

「どーいうことやー! あっちゃん、繊細な乙女やねんでー」

「せや、せやー。あっちゃんに謝れー!」

 レジも相変わらずあっちゃんの味方をしています。やあちゃんは助けを求めるようにウッドゥを見やりました。彼女は青い頬をかすかに朱に染めています。

「ヤーチャン、アッチャン達ト一緒ダト楽シイネ!」

 それに、やあちゃんは少しだけ賛成しました。確かにあっちゃんたちと一緒にいると飽きることがありません。よく笑うし、気がついたら怒っているし。それに、ちょっと目を離した隙に泣きだします。そんな一人と一匹がいると、つられてこちらまで同じ表情になってしまうのです。それが、やあちゃんにとって何よりも楽しいことでした。先ほどの口振りからするとウッドゥもそうなのでしょう。彼女が昔みたいに笑うようになったのも、あっちゃんとレジに出会ってからですからね。

 その彼女に微笑みかけて、やあちゃんは再び自転車にまたがりました。あっちゃんも後ろに飛び乗ったのを確認してからペダルを漕ぎ出します。

 二人と二匹は夜の街をすいすい駆け抜けました。閉店時刻も近付いているのか、お店の明かりも消えていきます。閉じられるシャッターのガラガラした音が寂しげに聴こえました。

 それでも、まだまだこれからのお店もあります。例えばスナックであるとか、そういった水商売のお店です。やあちゃんはあの香水臭い特有の雰囲気が苦手であまり訪れたことはありませんけれど、仕事に疲れたおじさまたちはこぞって入っていきます。

 それを見届けたのか、あっちゃんからこんなことを訊ねられました。

「どおして、おっちゃんとかはキャバクラが好きなん?」

「それは奥さんと上手くいっていないからだよ」

「どおして、奥さんと上手くいかへんの?」

「仕事で疲れて、おべっかなんか言えないからさ」

 やあちゃんがそう言うと、あっちゃんは「そおかぁ~」と納得したように呟きました。これでは、実は適当に返事をしていただなんて明かせません。やあちゃんはすうと深呼吸しました。夜の澄んだ空気を吸い込むと、何故だか自分もきれいになれるような気がしたのです。

 そうしているうちに街を抜けて暗い通りにやってきました。灯りといえば、ぽつぽつと続く街路灯のみ。場所によってはそれすら消えかかっていたりしています。ただ、それもほんの一部です。目につくからといって、ほんの一部がそれらの代表のように感じられるのは何故なのでしょう? 昔から、やあちゃんは同じような場面でそう考えてしまいます。そして、その度に同じ答えに辿り着きます。

 きっと、人はすべてを背負い込むことができないのです。だからこそ、何か一つだけにすがって、納得したふりをしている。

 ふと「さっきのあっちゃんはどうだったのかな」だなんて疑問が浮かびました。そろそろ、一番の危険地帯――古いトンネルへ差しかかるといったときでした。

 やあちゃんは特に怖がりという訳ではありません。ですが、このトンネルに入るのだけは苦手でした。古いために明かりもなく、短くも長くもないこのトンネルが。

 車輪は止まらず、するりとトンネルの内へと向かいます。すると周囲が完全に真っ暗になりました。それでいて車輪がカラカラ音を立てるのはいやに響くのです。

「ここ、怖いな~っ。どおしても通らなあかんのー?」

 あっちゃんがきんきん声で叫びました。それにレジも応じます。

「せや、せやーっ。なんでこないに怖いところ通るんやーいじめかー? お前、オレが嫌いやから怖がらせたろ思うてるんやろー」

「そんな訳ないだろ。大体、二人とも自動車でいつも通ってるってのに、どうしたのさ」

 やあちゃんが教えると、二人が「えーっ」とハモリました。そう、やあちゃんも自動車で来るときは何とも思わないのです。ただ自転車で通る際は心構えが必要なのでした。

 何故なら、このトンネルには――。やあちゃんが物思いに耽るところで、前から缶がからころ鳴りながら向かってきました。自転車のライトに照らされて、銀色の側面がきらりきらりと暗闇に輝きます。鼻をくすぐるのは麦臭い独特の香り。

「ビールやっ」とあっちゃんが両足をびいんと伸ばしました。何をそんなに驚いているのかと振り向こうとして、やあちゃんは、視界の隅に現れた影に気づきました。

 何かを求めるように伸ばされた手。おぼつかない足取り。影はやあちゃんたちに近づいて、近づいて、……交差すると追い抜いていきました。

 そうしてわずかな残り香から彼が何なのかを悟ります。

「何や、酔っ払い! 驚かすなっ」

 あっちゃんが、やあちゃんのぷよぷよしたお腹を、背後からぎゅむと抱え込みました。それに、やあちゃんは、

「怖かったの?」

 と訊ねてみましたが返ってきたのは、

「やあちゃんの、そーゆーとこ。よくないでー」

 なんていう指摘でした。そんな他愛ないやり取りをしているうちに、缶の音はすっかり遠くなっていました。遠ければ遠いほど、甲高いように聴こえるのは、きっと、トンネルと言う空間のせいです。トンネルの中は窮屈で、いつもは何でもないように感じるものに気を取られてしまいます。いえ、気を取られたほうが不安は薄まるのでした。

 やがて再び車輪の音だけがトンネルの暗闇に響き渡ります。それが、この静かな暗闇で自分が動いている証のように、やあちゃんは感じていました。

「お化けが出そうで嫌やなー」

 と、レジが言っているのが聴こえます。やあちゃんも、お化けのように不確かなものに怯えていました。それが何なのか……彼にはまだわからないのです。

 しばらくするとトンネルの出口が見えてきました。暗がりに浮かぶ夜空の青さ。それを受けて青く揺らめく道路に、照らす街路灯。ほのかな灯りに、あっちゃんが安堵して息をつくのが聴こえます。ただ、やあちゃんの本当の恐怖はここからです。


 本当の本当に入り口の目の前まで来て、彼は自転車を停めました。心臓はどっ、どっ、と鼓動を打ち、『早く立ち去れ』と急かしています。それなのに、やあちゃんは恐る恐る横を見ると、過去にあったものを見ようと目を見開きました。

「ヤーチャン、早ク出ヨウヨ」

 ウッドゥがしがみついてきたときには、彼の瞳にそれは映っていました。

 ひしゃげた青いヘルメットと、寄り添うように添えられた花束。青白い光に照らされながら、暗い闇の中から一生出ることのないものたち。

「いやっ」とあっちゃんがやあちゃんの背中に頭を押しつけます。

 レジが牙をかちかち鳴らしながら叫びました。

「こんなん見たら、あっちゃん怖がるやろー! はよ出ぇ、はよー!」

 しかし、やあちゃんは自転車から降りるとヘルメットの前に立ちます。後ろで、あっちゃんが前屈みになってハンドルを抑えていました。

「やあちゃん、どおちたんやー?」

 あっちゃんの質問にも答える気が起きません。やあちゃんは、ぼうっとそのヘルメットを見つめて――十字を切りました。でも、やあちゃんはこのヘルメットの持ち主のことを何も知りません。過去に来たとき、手紙が添えられたこともありましたが、流石に中身を読むことまではできませんでした。

 それなのに、どうして、こんなにも胸を締めつけるのでしょうか。

 やあちゃんが祈りを終えて振り返ると、あっちゃんも前屈みのまま両手を合わしていました。レジや、ウッドゥもです。彼らも真剣な面持ちで祈っています。

 それに、やあちゃんは何故か笑みが漏れました。それから二人と二匹は再び自転車に乗り、トンネルから抜けました。古い街路灯の温もりが、彼らの身体をふわりと包みます。

 今夜は車もなく、人通りも少ないようでした。だから、やあちゃんは空を見上げます。街路灯の灯りが夜空を照らして、星をすっかり隠してしまっていました。

 いいえ。お店の電飾や、家々の明かり――先ほど赴いたコンビニの明かりも――とにかく人が集まる場所の光が、夜空の星を見えなくしているのです。

「星は……」やあちゃんは無意識のうちに語り始めました。あっちゃんが顔を上に向けたのが、背中越しに伝わってきます。

「星は街中からは、見えないのかなぁ」

 震える声で夜の暗がりへ訊ねました。それでも夜の闇は街路灯の灯りに照らされて、やあちゃんの目からはよく見えません。霧のように散ってしまって、まるで初めから無かったように感じられます。それは、あのトンネルのことも同じでした。

「闇は抜け出した途端に、忘れられてしまうのかなぁ……」

 やあちゃんは、自分があの頃の自分とは違うことに気づいていました。辛くて悲しかった頃。だけれど、今は違っていて。違うから、あの頃の気持ちを上手く思い出せないのです。

「過去は、救い出せないのかなぁ」

 前へ進もうとしても、今のやあちゃんが恵まれていても、あの頃の自分は闇の中に佇んだまま。まるで別人のように青白い顔をして、トンネルから夜空をただ見上げている。

 やあちゃんの瞳から、中途半端に温かいものが流れました。

 あっちゃんからは背中に耳をくっつけられていました。彼女は余計なことは何も言わずに、ただやあちゃんの言葉の断片を聴いていてくれました。あのお喋りなレジですら一言も喋りません。そのことが、今のやあちゃんにとって、ありがたく感じられるのでした。

 そろそろマンションが前方に見えてくるはずです。そして二人と二匹は、その屋上に上がって夜景を一緒に見る予定でした。

 

「きゃー、ちれいちれいやぁーッ」

 あっちゃんが屋上のフェンスに顔をくっつけて言いました。その頬は真っ赤に輝き、瞳も街中の星を映しています。やあちゃんはそれを見守りながら微笑みました。

 つい、と夜景に目を向けます。そこに広がるのは地上に舞い降りた星たち。赤や、青や、白色のLEDやらが夜の街に散らばっていました。

「オレの火ィとどっちがきれいやー?」

 レジがあっちゃんの頬に擦り寄って訊ねると、あっちゃんは、

「そんなん、この夜景にちまってるやないかぁ~」

 と正直に答えていました。やあちゃんはがく、と肩を落とします。ただレジはそれ以上にショックを受けたのかしっぽをシュンと下げていました。

 あっちゃんときたら、少しお世辞を言えたらいいものを。やあちゃんは白い息を夜景に向けて吐きつつ、そんなことを思いました。そろそろ夜に冷え込むようになってきたので、冬物の服をあの部屋から発掘しなければなりません。

「ネェネェ、ヤーチャン。モウ少シ近クデ見ヨウヨ」

 ウッドゥが魚のヒレのような手で、ぺたぺた顔に触れてきます。その手は外の空気のせいか冷たくて、頬をヒリヒリと乾燥させました。

 やあちゃんは、ちょっとだけウッドゥの頭を撫でてやります。心地よかったのか、ウッドゥの大きな瞳が細められました。二人の間に温もりが生まれます。

 少しだけフェンスに近づいてから、しばらく夜景を見つめていました。

 あっちゃんも最初こそ「わあ」とか「きゃあ」などと騒がしかったのですが、だんだんと言葉少なになっていきます。それと一緒にレジも口を閉じていました。よくよく見てみると、二人は買ってきたお菓子をむさぼっているようです。

 街中では車が作る光の行列が、ゆっくりと流れていきました。その間を縫うように取り付けられた信号機が闇の中での道しるべとなっています。そして道路のそばに立ち並ぶ店のけばけばしい電飾や、ライトアップされた看板などが暗がりに浮かび上がっているのでした。

 こんな真夜中なのに、眠らない街。やあちゃんはいつも考えていることを思い浮かべました。どうして人間は闇を恐れるのだろう。自分たちで作り出した明かりにすがりついて、眠らずにいるのだろう。そこまでして朝を待たなければならないのか?


 ずっと、ずうっと昔。子供のころに見た夜景は素晴らしいものでした。子供は、夜は眠らなければならない。だから、夜に灯る明かりが美しく感じられたのです。滅多に触れられないものを、掴めたような気がして。でも、それは間違いなんだと大人になって気づきました。

 夜に灯る明かりは、とんでもなく陳腐なものです。自然の摂理に反して、夜の闇を追いやってしまいます。それも人が他の生き物よりも怖がりだからです。

 それだから、明かりを灯して朝を待つ。眠る太陽を呪って、目を突き刺す凶暴な灯を闇へ打ち込む。そうしなければ、闇の中に自分が存在していることを示せないから。

 きっと他の生き物から見れば、人類って滑稽なんだろうな。やあちゃんは、いつしか、そんなことを考えるようになってしまったのです。

 自分だって、その人類の一員だというのに。

「人間嫌いの人間って一番始末に負えないよね」

 その言葉を聞いたウッドゥが、やあちゃんを見上げてきました。その瞳が不安に揺れているのを知っていても、やあちゃんはどうしてもどうしても思ってしまうのです。

「ぼくは、あの街中の星に近づくことができない。闇の中で、ただ朝を待っている」

 やあちゃんを瞳に映しながら、ウッドゥは不思議そうに小首を傾げました。

「朝ヲ待ツノハ素敵ナコトダヨー? 朝陽ハ、キラキラシテテ綺麗ダヨー」

 確かに、とやあちゃんも頷きます。朝陽は、今でも素直に「美しい」と感じることができるものの一つです。ただ、それは朝陽だからこそ美しいのです。

 やあちゃんはウッドゥの頭を少し乱暴に撫で上げました。アウ、とウッドゥがその手にしがみついてきます。ちょっぴり痛そうにしていたので、やあちゃんも反省しました。

 今夜は、何だか感情を上手く抑えることができないようです。そのことを恥ずかしく思って、やあちゃんは口をぎゅっとつむりました。そして、ウッドゥへの返事を考えます。彼女のために、きちんと意味の通る答えを。

 やがて、やあちゃんは言葉一つ一つを噛みしめるように言いました。

「朝は夜とは違うよ。朝がくれば、夜は消えてしまう」

「ドーイウコト?」

 それに対して、やあちゃんはようやく見つけた答えを告げます。

「夜と朝は、一緒に存在できないってことさ」

 もはや交わらない時間。戻れない自分。その事実が、やあちゃんをこんなにも苦しめているのでした。ウッドゥはそれを聞いて、悲しそうに俯くだけです。

「ごめん」と謝るものの、やあちゃんは他に何も言えませんでした。

 二人から離れて、あっちゃんとレジがきゃいきゃいとお喋りしています。その先には街の明かりが明滅しながら星や月をどこかに追いやっていました。

 時代が変われば、空模様も変わってしまう。それらは、二度と見つけることはできないのでしょうか……。やあちゃんは街を遠くに感じつつ、見えなくなったものに想いを馳せました。

 

「やあちゃん、今夜はここでねんねするんやー」

 あっちゃんがそんなことを言い出したので、やあちゃんは物思いに耽るのをやめました。ちょっとだけ目を見開くと、こう返します。

「どうして? けっこー寒いよ?」

 あっちゃんが口を尖らせました。

「寝袋くらいあるやろー? やあちゃんちなんやから取ってきいー」

「いや、でも」

「取ってきいー」

 あっちゃんの語気が強まります。同時にその場に座り込んで、頭をぎゅう~っと押さえました。こうなってくると彼女がテコでも動かないことを、やあちゃんは知っています。

 力なく肩を落として「わかったよ」と言います。それに、あっちゃんは顔を上げてにへらと笑いました。その笑顔の周りをレジが火の粉を振りまきながら舞っています。

 あっちゃんの真ん丸い頬がオレンジ色に輝いていました。やあちゃんは「やれやれ」とウッドゥを連れて自分の部屋へ戻ります。屋上から下の階へ戻る手段は、階段しかありません。

 真っ暗な廊下を渡り、自分の部屋へ向かいます。天井でぽつぽつと灯る蛍光灯たちは、壊れかかった街灯のある道を思い起こさせました。

「ヤーチャン、ウッドゥガイルヨ」

 やあちゃんの耳元でウッドゥがそっと囁きます。冷たい吐息、けれどかじかむ耳たぶは何故か熱くなりました。彼女の小さな身体を手のひらで覆うと、笑い声が耳のそばで響きます。

 部屋に戻ってから、ごみ溜めの下に埋もれていた寝袋を取り出し、また屋上へ上がりました。その最中も空気は冷たく、指先までジンジンと痺れるようでした。

 かちゃりと屋上へ続く扉を開ければ、相変わらず街を眺めるあっちゃんの後姿があります。

「持ってきたよ」

 無造作に寝袋を投げると、あっちゃんがくるりと振り返りました。寝袋がどさっと置かれた音に、レジが耳をふさぎます。

「ちょっと乱暴やないんー? お前、やっぱオレのこと嫌いなんやろー」

「さてね」やあちゃんは言うと、寝袋の準備をしはじめたあっちゃんに視線を移しました。

 彼女は慣れた手つきで、寝袋に入り込むと「ぬくぬく!」と笑います。

「ぱぱと森で眠ったことを思い出すで!」

 その満面の笑みに、やあちゃんも思わずつられてしまいました。

「パパは、結構アウトドアだったんだね」

「ちょおアウトドアやったで。世界中を旅してたんや」

 あっちゃんが寝袋から顎をしゃくってレジを呼びます。呼ばれたレジは空中にオレンジ色の軌道を描きながら、彼女の頬のそばへ降りていきました。

 嬉しそうな顔で横たわると、しっぽを丸めて、すっかり眠る体勢です。

 そんな彼を見つめながら、あっちゃんはふっと表情を無くしました。

「そんでな、ぱぱは言ってたんや。後悔したときは夜空を眺めながら眠るとええ、って」



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