目次
私はひきこもりであるというアイデンティティー
ひきこもり生活をさらに快適に
ひきこもりはひとつの個性、生活スタイル
世の中に"自立"している人間なんていない~障害者自立支援法
自分は甘えているのではないかという強迫観念
お金を稼ぐという能力
日本の将来~現在すでに国の体(てい)をなしていない
政治力、権力、マスコミ、発信力、そして「民意」を「操作」すると言われる電通という会社
あえて言いたい、小出氏に対する「人気」について
自分の歳
家族
「治りたいを手放す」~あるラジオ番組への投稿より
短気は損気か?
日本というシステムの再構築~官公庁、国の中枢部などのNPO法人化、未来を見据えて
私はもちろん、大橋巨泉氏や山口瞳氏と同じく非武装中立論者です
私たちが求めているもの
自然であるということ
私が今までに観た「男はつらいよ」の最高傑作「第32作口笛を吹く寅次郎」
匿名の言論は無視しよう!
パーソナリティー障害~おもに私の幼稚さについて
二・二六事件(1936年2月26日~)
資本主義は終わった!!~内橋克人、ラトゥーシュなどに学ぶ
伝統・文化というもの、そして革命
私は愛されている~おとなになるということ
初恋
再度、竹下景子さんをマドンナ役に迎えての「男はつらいよ 知床慕情」
ひきこもりこそがサバイバル~情報を遮断することの重要性
徒労
哲学的結論
ヒヨコちゃんこと峰由樹さんの魅力(文化放送「くにまるジャパン」月曜日など)
ラジオの思い出
人の役割
格好をつけるのはやめよう~思想的流行
仏壇買わなきゃ
懲りないメディア・評論家ー「鳩山イラン事件」に思う、真の国益とは何か
資本主義の結末、それは富の偏在だったー地球は有限であることを知るという哲学
今世紀は水をめぐって戦争が起きる?
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二・二六事件(1936年2月26日~)

2月26日と聞いてまず思い浮かぶのは二・二六事件である。 勉強不足だが、以下ウィキペディアより。
「二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。」
という事件だった。 平成の今、まるで関係ないことは分ってはいるものの、同じような「維新」という政党が、一部か多くか知らないが国民の間で台頭しているらしい。まあそれ以上は書くまい。それこそ妄想だと言われるだけだろう。


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資本主義は終わった!!~内橋克人、ラトゥーシュなどに学ぶ

元々は古い言い草だがあえて今こそ、 いまだからこそ、

資本主義を終わりにしよう!

かと言って共産主義でもなく。。。。
どうも政治家、ことのほかTPP参加派の政治家などは いまさらのように右肩上がりの経済成長の時代に見切りをつけられないようだ。 何の幻想を追い続けているのか? もちろん昔を忘れられないのは理解できる。 しかし少なくとも政治家たるものは未来を見据えなければいけない。 もうとうに経済成長や経済のグローバリゼーションの時代は終わったのである。 そんなことも認識できない人間は今すぐ政治家をやめるべきである。 たとえばの話、 人口減少や高齢化が今すぐに止められなければ、 もう経済成長など夢見るべきでない。 また、 TPPは米による事実上"古い"資本主義復権を狙ったものに過ぎない。 今や脱原発も含めて新しい「哲学の大転換」の時だ。 参考 NHK クローズアップ現代~FEC自給圏(内橋克人氏)

“自給力”

 ~食とエネルギーを自給する暮らしの可能性~

http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3108&html=2
「何か一種のノスタルジアといいますかね、郷愁、昔こうだった、自給自足の生活ということではないと思うんですね。 そうではなくて、未来を先取りした姿、日本にとってですね。 私たちの生活にとって基本的なところ、これを先取りした、始まっている未来だと、こういうふうに私はね、拝見しましたね。

●自給の広がり 背景には生活の不安

(こういう人々が増えているのは)基本的には日々の生活の不安、不安社会ということだと思いますね。 一つは例えば働くっていうことに関して、どういう現状か、日本を支えてきたような多くの雇用の場が今、アジアその他海外にどんどん出ていく、そしてそれにさらに、中小企業は今、集団でアジアの諸国に出てしまうということで、雇用の空洞化ということが新しい段階に入っているわけです。 どうやって私たちは働いていくのかという。 しかも働くことと、生きがい、働きがい、それがきちんと一致して、しかも社会の役に立つという、社会的有用労働ですね、それを満たしたいという欲求、そういうものがあって、人々はここに集まっていく、もちろん、グローバル化ですよね、それによって、日本の食というものが危機に立っている、農、農業、そして食ですね。 それを安定的にみずからの力できちんと確保していくという、そういう意思の表明、極めて力強いというふうに私たちは見なければならないと思います。

●今 必要なのは“FEC自給圏”

グローバル化ということを非常に礼賛しますけれども、世界の資源とか食料の事情というのは、大変にかく乱要因、気象条件もそうですが、マネーが大量に流れ込んで、値段が上がるというふうに、非常に不安な状況になってますよね。 そういう中で、どういうふうにして、自分に必要な基礎的な生存条件というものを国内で、あるいは一定の地域内で確保するかと、こういう時代になっている。 それを私は、私なりのことばでFEC自給圏の形成ということを言ってきたんです。 FECというのは、FとEとC、Fは農業、あるいは食料ですね、食料の基本になる農業、それを含めたF。 Eはエネルギーですね、エナジー、これも地域社会の中で自給できる。 Cはケア、これは人間関係、介護その他を含む、それを一体として、一定の地域内で自給圏を形成していくことが、新たな雇用の機会、これを作るんだと、新しい基幹産業がFEC自給圏によって生まれてくるでしょうということ。

食一つ見ても、安い国から買えばいいんだ、海外から買えばいいんだと、この考え方はもう通用しません。 エネルギーについていえば、例えば太陽光発電、あるいは小水力、風力発電、その他、これすべて、ITあるいはハイテク、極めて高度の技術、これを背景にして組み合わせて、例のスマートグリッドという発想もそうですね、地域間で自給をうまくバランスを取っていくという、エネルギー、電力エネルギーですね、こういう時代に入っているわけで、今はまさに雇用を大きく作り出す、生み出す、そういう自給圏の場所なんですね。

今ですね、日本は森林大国世界第2位ですね、先進国の中で、しかしその森林がそのまま朽ちていく、なかなか手入れができない。 そこへどうするか、再生のために、というと、木材チップですね、これをその発電の燃料として利用するという、新たなバイオエナジーですね、バイオエネルギーというのも、あるいは菜の花プロジェクトもそうです。

いろんな形で、燃料とかエネルギーを供給していきましょうという、これがEですよね・・・・・・」

経済の成長は人を幸せにしない 経済哲学者・ラトゥーシュ氏に聞く

2010年7月13日14時36分 http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007130317.html
「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長は、それが続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ」

 資源や環境の問題が深刻化する中で、「持続可能な成長」という考え方が国際的に広く受け入れられるようになった。だがラトゥーシュ氏は、「持続可能な成長」は語義矛盾だと指摘する。「地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ」

 世界経済が長期不況にあえぎ、日本でも貧困問題が深刻化しはじめた。経済成長こそが貧困を解決するという経済学の「常識」が力を得ていく中、「脱成長」は旗色が良くないようにも見える。

 この点に関してはラトゥーシュ氏も、今の社会システムのままでマイナス成長に転じても事態はかえって悪化するだけだ、と認める。

 「より本質的な解決策は、グローバル経済から離脱して地域社会の自立を導くことだ。『脱成長』は、成長への信仰にとらわれている社会を根本的に変えていくための、一つのスローガンだ」

 物質的な豊かさを達成した「北」の国々だけでなく、「南」の貧しい国も成長を拒否すべきなのだろうか。

 「北の国々による従来の開発は、南の国々に低発展の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方による成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道を作っていけるようにしなければならない」


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伝統・文化というもの、そして革命

元々あった少子高齢化問題や農林水産業などをはじめとした産業の自滅に近い経済状況、官僚制度の事実上の崩壊とも言える現象や政治に対する不信感、さらに重なるように起きてしまった東日本大震災と福島第一原子力発電所の「事故」、そうした日本のすべての行き詰まりは、たとえば談合や天下りに代表されるようなその文化が原因だというのはある意味理解できる。しかしそれは日本だけに限らない。世界の主な先進国どこもがそうだろう。それはたまたまの経済の世界的な高度成長の終焉や為替の変動も主因だろう。

だからこそ震災・原発事故を機にいわゆる哲学の転換が必要だと叫ばれているが、どこの伝統・文化がそうであるように、あるいは哲学がそうであるように、簡単には変わることなく続いてきたからこその「伝統・文化」なのである。たとえば「和をもって尊しとなす」のこころ。右とか左とかに関係なく、この精神的文化と言うべきこのような日本人のこころは21世紀の現在でもまだ生きていると言っていいだろうと思う。いいとか悪いとかではなく、つまり伝統・文化あるいは哲学というものはそういう風に何代にもわたって、あるいは何世紀にもわたって人々のこころに変わることなく根付くものなのだろうと思う。

そしてもちろん、あるときには革命的にその伝統・文化あるいは哲学が変わらなければならないことがある。原子力発電所事故に伴い世界的に言われるのは、いわゆる再生可能エネルギーへの転換であろうと思う。確かにエネルギーの「革命」は急がれている。

しかし一般論として言うならば、文化・伝統などというもの、それは「変わらなければならない」と言うよりは、ごく自然と変わって行くものであろうかと思う。私は「革命的に」と書いたが、それはむしろ水が高きから低きへとごくゆったりと流れが変わるように、あるいは静かに吹いていた風が、何かの拍子に知らぬ間にその向きが変わるように、ごく当り前で自然なことであるような気がするのだ。

たとえば世界的に見れば、産業革命と言われるものなどのように、後世の歴史家などから振り返って見てみたら「あああの時に革命が起こっていたのだな」とでも人々は思うのではないだろうか。


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私は愛されている~おとなになるということ

突然真夜中に妹のことを考えた。 正確に言えば私は、 彼女が今どこでどうしているのか知らない。 と言うのも、 訳は知らないが彼女はこの家とは別に一人でアパートを借りていて、 行ったり来たりしているからだ。 とにかくその妹の心中を想像した。 もしかしたら彼女は、 自分は家族からと言うか誰からも愛されていないと感じているのかもしれない。 いや考えようによっては人は誰もがそう感じながら生きているのかもしれない。 たとえば私もそうだった。 よく私は、家族の誰からも嫌われているのだという一種の妄想に似た「誤解」をしていた。 しかし私は昨夜分った。 なぜ分ったのかはよく分らない。たとえば年老いた父親は確かに私のことを愛してくれている。 そして母親も妹も。 私は今はじめて、 なぜかそう感じている。 不思議なものだ。 パーソナリティー障害で幼稚でこどもだった私は(パーソナリティー障害の特徴のひとつは幼稚だということだ)、 少しおとなになれたような気がする。


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初恋

私はまだ高校生だった。同じ高校の別のクラスのさゆりちゃんという名前も容姿も実に可愛らしい女の子に恋をしていた。そして、彼女と私はなぜか偶然にも同じ町内に住んでいた。ある夕方家の近くではじめてのデートをした。別に何でもないプラトニックなデートだ。なぜか私はひとりで彼女を待ちながらも、安い双眼鏡で好きな星を眺めるのに夢中で、ちょうどそこへ彼女が来たので、私は得意げに彼女に星の解説をした。もちろん彼女だって興味深そうに相槌を打ってくれた。そのうちそれにも飽きたので彼女が自分の家に案内してくれた。そして両親に私を紹介してくれる。そしてなぜか私はすぐに帰るのだが、ところで、と私は彼女の苗字を知らなかったので彼女の父親に尋ねるのだが、見たこともない難しい漢字で私はその字がどうしても読めない。

そこで私はうなされるように夢から目覚めた。

やれやれ。また大昔の夢か。

実際には私も彼女も(たぶん)互いに好きだったのだが、奥手の私は女の子とどうやって付き合えばいいのか見当もつかなかったし、彼女の方も積極的には迫ってくるような子ではなかった。要するに私たちはまともに言葉も交わしたこともなく高校時代を終え、それぞれ別の大学に進んだ。それだけのことだ。あえて言うとすれば、私と同じクラスに居た女生徒と同じクラブに居たさゆりちゃんは、あるとき私たちのクラスの化学の居残り実験授業の机に座って私たちの実験を黙って見ていたのと、3年生の文化祭の夕方のフォークダンスの時間に、私は男友達とぶらぶら歩いていたのだが、さゆりちゃんたちがなぜか私たちの後ろを付いてきて、私が振り向くと彼女は恥ずかしそうにしていた。

それでも私は彼女を誘えなかった。今にして思うと我ながら実に不思議な行動だった。

要するにコンプレックスの塊だった私の青春時代はそんな風に過ぎて行った。

 

だいぶ前に、同窓会の名簿で私は彼女が結婚したらしいことを知った。

実家には一度も訪ねて行ったことがないが、高校時代当時に一度だけ匿名で年賀状を出したことがあった。

そんな淡い恋らしきものだった。

 

 

 



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