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公案とは何か

 覚りに向けた修行として間違いなく役立つものの一つに、観(=止観)がある。観を完成させたとき、同時に人は心解脱を完成させるからである。

 ただし、観は人によっては難しい修行方法である。何をどうしてよいか、まるで見当がつかない人もあるだろうからである。そこで、公案を援用する方法が考え出された。

 公案が考え出され、一定の成立を見たとき、実はそれは勘違いによるものであった。黎明期の公案は、仏と目される師の振る舞いを公案化し、その真意を問うた。そして、その問いに正しく答えることができる者は、師と全く同じ境地に立ったと認められるゆえに、公案を解くことすなわち覚りだと考えられたのである。

 しかしながら、そのような公案を提示した師が、実は覚りに達していなかった。その時代、その地域において仏が出現しなかったので、そのことが誰にも判断できず、また公案を提示した者が自分は覚っていたと見なし、勘違いしていたゆえに、いわば偽の公案が千年以上にわたって世を席巻する結果となったのである。

 ところが、そのようないわば誤った経緯があるにも関わらず、驚くべきことに最終的に到達した地点においては素晴らしい公案が案出・提示された。その一つが、(久松真一氏の)基本的公案である。この公案は、間違いなく真の意味の公案であり、解ければ心解脱の完成を見ることは間違いない。

 さて、この(久松真一氏の)基本的公案に限り、しかもこの公案が観(=止観)の代替として為し遂げられた場合に限り、公案は観の一方法と位置づけられ、この公案は公案として成立することになる。そうでない場合には、基本的公案といえども公案としては成立しない。これは、久松真一氏が慧解脱していなかった(つまり仏ではなかった)ことによる誤謬と混乱であるが、それでも言葉としてつくり出された基本的公案自体は素晴らしい成果である。

 くり返し言うが、公案はある程度まで観の代用品となるものであるが、代用品はどこまで行っても代用品に過ぎない。したがって、公案で覚りに近づくことができるなどと安直に考えてはならない。たとえば、精神統一をしたいのに、精神集中で代用するようなものである。円を描きたいのに、多角形で代用するようなものである。これは、本来まるで本質を欠いた行為なのである。


 ただ、公案を解く過程においてそれが観になる場合があるということである。公案が観に化けたのではない。公案を解いているつもりで、実は観を実践してしまったということである。この場合に限り、公案は観を援用するものとして働いたと認められる。たとえば、書き方の練習をしていたら、それが臨書になったようなものである。

 このようなことが起こるのは、取り組んだ公案がまるで曖昧な表現を持ち、しかもより本質的なことを提示しているからである。

 「一円の公案」は、これらの事情をすべて勘案し、意図して、作ったものである。それゆえに、この公案に取り組む人は、公案を解いているつもりで自然と観(=止観)を為すことができる。こころある人は、挑戦して欲しい。たとえ通過するに至らなくても、それは決して無駄な修行にはならないであろう。少なくとも、言葉がもつ不可思議に触れることができるであろうからである。

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「一円の公案」の提示

一円の公案:

  『もし人にお金を与えるならば、一円が最もすぐれている。これはなぜであるか?

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公案に取り組む心構え

 何事も、目的を見失ってはならない。しかしながら、人は目的を見失いがちである。


 たとえば、山のように字の練習をしたからといって、書の達人になれるとは限らない。ある者は、癖字になるだけである。

 心構え正しからざると、同じことをしても結果は正反対となる。ある人は見事に目的を果たし、ある者は悲惨な結末となる。

 公案に取り組むこともそうである。ある人は、公案によって観を為し遂げ、心解脱を果たす。しかし、ある者は、公案に心が転ぜられ、迷妄の網にがんじがらめになってしまう。あるいはまた、心が邪であると、せっかく公案が解けても、味わうべき〈特殊な感動〉を味わうことができず、その公案への取り組み自体が無意味になってしまう。

 さて、公案に取り組む心構えとして最も大事なことは次のことである。

  『公案は、本来、真実のやさしさを追求する一手段であり、それ以外のいかなる目的も存在しない。』

 このことを忘れない限り、修行者が公案に転ぜられることは決してないであろう。公案に転ぜられることがなければ、どんなに時間がかかっても構わない。むしろ、解けたときにまさしく〈特殊な感動〉を生じるであろうからである。

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あとがきに代えて

 公案を援用した修行は、ある人々にとって取り組みやすいものであろう。その一方で、公案でも何でもないものを解いて、それで覚った(悟った)気になる愚か者も現れる。果ては、愚かであることが仏の特質であるかのように吹聴する者さえある。もちろん、覚りの道は賢者の道であり、愚かさとは正反対のものである。

 巷に、公案と称して溢れているものは、そのほとんどが公案とは呼べないものである。私が知る限りにおいて、公案と呼べるのはたった一つしか見当たらない。人々がそれに取り組めば問題ないが、その公案は余りにも高度である。初学の者に限らず、こころある修行者でも、誰もその公案を通過できないだろうとさえ思える程である。

 そこで、私自らが公案を作り、仏縁ある修行者に提示することを思いついたのが3年ほど前のことである。それが、この「一円の公案」である。なお、この公案は、最後の一関たる先の公案の前に取り組むのに相応しいレベルの公案として作った。

 そして昨年、一人が見事この「一円の公案」を解き、私は彼に初期の心解脱を認定した。それから8ヶ月以上経過するが、彼は間違いなく心解脱者としての生活を送っている。つまり、この公案を解けば心解脱が認定できることはおそらく確かである。

 この事実に鑑み、世に広くこの公案を提示することを思い立った。また、玉石混淆の公案が巷に溢れている状況下で、真の公案について理解ある者が極めて少ないと感じられることも著作の動機となった。

 こころある人は、公案の真実を知って、覚りに近づいてほしい。本書を手に取って読むことは、その一つの切っ掛けとなる筈である。「一円の公案」を解き、さらに最後の一関を通過したならば心解脱が完成することは間違いない。それは不還の完成である。

 例によって、この本は必要があれば適宜拡充して行くつもりである。コメントやメールなどで読者の感想や意見があれば歓迎したい。

     2012年2月6日 著者記す                   

 


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心解脱

 観は、真実の真相を知るための方法である。これ以外の方法によって真実の真相を知ることはできない。それゆえに、観は修行者が当然行うべき重要な修行の一つだと言われる。そして、公案は観の一手段となり得るものである。ただし、公案は観そのものではない。公案に取り組むことが観(=止観)になる場合があるということである。その場合に限り、公案に取り組むこともまた真実の真相を知る手段となるのである。

 ところで、真実の真相を知ることは何の役に立つのであろうか。結論を先に言えば、それは名称(nama)からの解脱に役立つのである。名称(nama)とは、ユング心理学の用語を借りれば個人的無意識のことであると考えて大過ない。この名称(nama)からの解脱を果たした人を、「心解脱者」と呼ぶ。

 心解脱者は、名称(nama)作用によって起こる世間のさまざまなことがらに翻弄されることがなくなり、人間関係にまつわる苦悩から脱れた境地である。なお、これは完全な解脱ではないが、一定の条件下において解脱と同じ境地と見なすことができるものであり、輪廻を脱しているという点において解脱の一種であると認められるものである。よって、心解脱者を不還とも呼ぶ。

 心解脱者は、自分が解脱したという明確な覚知が無いかも知れない。しかしながら、心解脱者が社会生活を送ると、自分が世間のさまざまな煩労からすでに解放されていることを実感するであろう。経済的なことについても、人間関係においても、自分を縛りつけるものが基本的に無くなっていることを事あるたびに知ることになるからである。

 また、心解脱者にもいわゆる好相が現れることがあるようである。カッシー長老の報告によれば、肉髻を生じつつあると言う。もちろん、こんなものは解脱の証とはならない。大人になると髭が生えるようなものに過ぎない。それでも、自分が根底において苦を大きく減じたことをいろいろな形で実感することになるのは間違いないことである。心解脱者は、何があろうとも、何が起きようとも、揺らぐことのない堅固な心を獲得する。これは一つの安らぎである。

 このようなことから、心解脱は覚りの一つの階梯であると知られるのである。

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認定書の例(ぼかしあり)



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