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 私が彼と出会ったのは、中学二年生になったばかりの春だった。
 暖かい日曜日の、午後の事だ。私はその時、人気のない公園のベンチに腰掛けて本を読んでいた。
 そろそろ帰るかと考え始めた時、公園の奥で数人が騒いでいるのに気付いた。どれも若い、少年の声だ。喧嘩だとすぐに判った。元気な事だと内心で呆れながらも、関わらないに限るとさっさと立ち去る事にした。彼等と私の間にはちょうど茂みがあって、恐らく向こうはこちらに気付いてもないだろう。
 ベンチに置いていた荷物を持った時、私は幾つかの声が近付いているのに気付いた。ぎょっとして、思わず顔が引き攣る。
 嫌な予感の通りに、茂みから飛び出して来た数人の少年とばちりと眼が合った――反射的に鞄を胸の前に持ち上げた私には構わず、彼等は一目散に出口へ駆けて行く。その姿が完全に見えなくなって漸く、私は肩から力を抜いた。
「た、助かった――のか? 何だったんだ、一体」
「おい、お前」
「うわ!」
 全く無防備だったところに声を掛けられて、私は文字通り飛び上がった。がばっと振り返ると、一人の少年が唖然としていた――見覚えのある顔だ。
「げっ……!」
 新しくクラスメイトになった少年だった。悪名高き彼の噂は、私も寡聞ながら聞き及んでいる。
 曰く、上級生十人を病院送りにしたとか、気に食わないからというだけの理由で同級生を殴ったとか、ヤバい人種とも付き合いがあるらしいとか、とかとかとか。
 とにかく、ちょっと見ないくらい札付きの悪である、らしい。
 勿論、そんな人間になどお近付きになりたくないので、友人達と同じように遠巻きにしていたのだが――まさか、こんな場所で会うとは。家で大人しくしていなかった自分を、私は悔やんだ。
「お前、あいつ等に何か因縁つけられて――」
 それが私を案ずる台詞だったと、後から思い出せば判るのだ。しかしその時には気付く事が出来ず、半ば無意識に足を引いた。――一歩下がった先には、地面がなかった。
「へ……?」
「あ、馬鹿!」
 そういえば近くに階段がと、思い出すのが遅過ぎた。奇跡のようなヘマをやらかした私は、そのままなす術もなく転がり落ちる――事には、ならなかった。
 ぐいと腕を引っ張られて、地面に放り出される。漸く顔を上げた私の前に、少年の姿はなかった。私を庇って代わりに落ちたのだと、理解するのに随分と時間が掛かった。
 彼は悪い噂ばかりの割に、きっちりと学校に通っていた。翌日登校した彼は松葉杖で歩いていて、全治二週間との事だった。平謝りする私にも、恐がらせたのはこちらだしと、軽く首を竦めるばかりだった。
 それから私は、彼とよく話すようになった。彼は本当に孤立していて、しかもそれを苦にも感じていないような性格だったから、クラスで彼に話し掛けるのは私一人だった。
 会話をするようになって、私は本当に何も見ていなかったのだと知った。彼は話題と機知に富んでいた。いつも授業中は居眠りばかりしていたからてっきりお馬鹿さんかと思っていたら、そうではなかったのだ。成る程、ぶっちぎりで学年一位だからこそ、学校側もあまり強くは出られないのだろう。喧嘩だって、少なくとも私の前では最初のあの時以外は一度もなかった。全くしないという訳ではないようだが、それでも一人歩きする噂の大半が誰かの悪意ある嘘だったのだろうと考えるようになった。
 彼は、犬や猫が好きだった。道を歩いている途中で野良猫と出くわすと、触ろうとする彼と触られまいとする猫とで熾烈な争いが繰り広げられる。それから甘いものが好物だ。放課後に行ったスイーツビュッフェで皿に山盛りのケーキを三回も持って来た時には、こちらが気持ち悪くなった。邦楽よりも洋楽が好きで、しかもロックよりクラシック。清々しいくらいに周囲の予想を裏切ってくれる。
 私の友人達は、彼と関わるようになった私に対して何も言わなかったし、特に私を遠ざけるような事もなかった。その代わりに、彼と関わろうとする事もなかった。
 まる二年間、一緒にいた。その間に、連絡先を聞く事は出来なかった。
 多分、訊けばあっさりと教えてくれただろう。けれど結局、卒業式のあの日にも、番号の一つも聞けずに、想いだって告げられないまま。
 早咲きの桜が散る頃に、私の初恋も終わった。

 

 

 あれから、五年。
 その間に幾つかの恋が始まって、同じだけの恋が終わった。今日から大人になる私は、着飾った姿でここにいる。
 一月の、寒い日だ。吐く息が白く凍る。冷えた指先を温めようと、必死に擦り合わせた。
 彼が来るかどうか、不安だった。どう考えても、この成人式で彼が誰かに会いたいと思うなんて想像が出来なかったからだ。だからもしも彼が来なかったら、きっぱりと諦める心算で、それで。
 すっと息を吸い込む。冷たい空気が胸に満ちた。
 私は見覚えのある、けれどあの頃よりも随分と大きくなった背中に駆け寄りながら、五年ぶりに彼の名を呼んだ。


この本の内容は以上です。


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