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目次

海賊ブラッド

Ⅰ. 運命の使者
Ⅱ. カーク大佐の竜騎兵
Ⅲ. 裁判長閣下
Ⅳ. 奴隷市
Ⅴ. アラベラ・ビショップ
Ⅵ. 脱走計画
Ⅶ. 海賊
Ⅷ. スペイン人
Ⅸ. 叛逆流刑囚
Ⅹ. ドン・ディエゴ
XI. 孝心
XII. ドン・ペドロ・サングレ
XIII. トルトゥーガ島
XIV. ルバスールの英雄気取り
XV. 身代金
XVI. 罠
XVII. カモ
XVIII. ミラグロッサ
XIX. 邂逅
XX. 盗賊、海賊
XXI. ジェームズ王
XXII. 敵意
XXIII.人質
XXIV. 戦争
XXV. ルイ王
XXVI. ムッシュー・ド・リバロール
XXVII. カルタヘナ
XXVIII. ムッシュー・ド・リバロールの名誉
XXIX. ウィリアム王
XXX. アラベラ号最後の戦い
XXXI. 総督閣下

訳者あとがき
名誉革命とバッカニア達の時代
サバチニと剣侠映画
短編集紹介
ラファエル・サバチニ長編リスト

番外編: ジェレミー・ピットの恋
(The Chronicles of Captain Blood より)

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Ⅰ. 運命の使者

 医学士に加え他の幾つかの学士号を持つピーター・ブラッドは、パイプを燻(くゆ)らせながら、ブリッジウォーターの町のウォーター・レーンを見下ろす自室の窓敷居に置かれた箱植えゼラニウムの手入れをしていた。

 

 厳しい非難の目が向かいの窓から彼をにらんだが、気づかぬふりをした。ブラッドの注意は自分の作業と眼下にある小路を流れる群衆に向けられた。それは今日の午後早くに公爵[註1]の軍僧であるファーガソン師[註2]が、神徳よりも大逆の鼓舞を多量に含んだ説教を聞かせていたキャッスルフィールドに向かう、本日二度目の行進だった。

 

 このまとまりのない興奮した集団は、帽子に緑の枝を挿し、手に手に馬鹿げた武器を持った男達を中心に構成されていた。何人かは本物の鳥撃銃を担ぎ、剣を振り回している者もいた。しかし大半は棍棒で武装するか、あるいは大鎌でこしらえた、実際の威力はさて置き見た目は禍々しい巨大な矛を引きずっていた。織工、醸造者、大工、鍛冶屋、石工、煉瓦職人、靴直し、この即席の兵士達の中には、ありとあらゆる職種の者がいた。ブリッジウォーターはトーントン同様、率先して町中の成年男子を庶子公爵への奉仕に提供し、武器を持てるだけの若さと壮健さを持ちながら従軍を拒否する者は、誰であれ臆病者かパピスト(旧教徒野郎)[註3]の烙印を押されたのであった。

 

 だが武器を持つ事が可能なだけでなく、その取り扱いも訓練を受けて熟練しており、そして確実に臆病者でもないがパピスト(旧教徒)であるピーター・ブラッドは、その暖かな七月の夜、何事も起こってはいないかのように、無関心にゼラニウムを眺め、パイプを燻らせていた。他にひとつ、彼が行った事があった。彼はその戦争熱に浮かされた熱狂者達の背に、ホラチウス[註4]の句――この詩人が度の過ぎた熱狂について書いた最初の節――を投げかけた。

 

「クオ、クオ、スケレスティ・ルイティス?(いずこへ、いずこへ、兇漢どもよ、押し寄せるのか?)[註5]」

 

 母方の父祖であるサマセットシャーの冒険家達から受け継いだ激烈で恐れ知らずの彼の血が、この叛乱の熱狂的かつ狂信的な興奮の最中にありながら冷たいままでいるのは何故なのか、かつて父親によって平穏な学問生活の枷を押し付けられた荒れ狂う魂が、この乱気流の真っ只中で静かなままでいるのは何故なのか、疑問に思う者もいるだろう。この自由の旗――ミス・ブレイクの女学校の生徒であるトーントンの乙女達が織り、バラッド[註6]にも歌われているように、マスグローブ夫人等がモンマスの軍旗に必要な色の為に絹のペチコートを引き裂いて提供した旗――の下に集結したあの男達を、彼がどのように見ていたのかは明白である。そのラテン語の一節、丸石の敷かれた道路を騒々しく進んで行く彼等の背に向けて馬鹿にしたように投げつけた詩句が、彼の内心を如実に物語っていた。彼にとって、あの者達は邪悪な狂乱と共に己の破滅へと突進する愚者であった。

 

 そう、彼等がこの叛乱を起こす際に掲げた大義名分である嫡出の話に騙されるには、彼はあのモンマスという輩と、その生みの母である可愛い褐色の尻軽女[註7]について、あまりに多くを知り過ぎていた。彼はブリッジウォーターの四ツ辻に貼り出された馬鹿馬鹿しい宣言を既に――それがトーントンや他の町で公表された時に――読んでいた。『大君チャールズⅡ世[註8]の崩御により、イングランド、スコットランド、フランス及びアイルランドの王位とそれに属する統治権と領土とが、チャールズⅡ世陛下の御子息にして法の定めし相続人、最も輝かしくも高貴なる御生まれにあらせられるモンマス公爵ジェームズ殿下に正統に継承され移譲された事を公表するものである。』

 

 更なる宣言が公表された時には、彼は笑わずにいられなかった。『ヨーク公ジェームズ[註9]はまず先王を毒殺し、そして直ちに王位を簒奪し、王権を侵害したものである。』

 

 それが真っ赤な嘘に過ぎないのを、彼は知っていた。ブラッドは、このジェームズ・スコット――先頃、自分は神の恩寵によりてイングランド国王その他の地位に就いたジェームズⅡ世であると宣言した人物――が約三十六年前に誕生した場所であるネーデルラントで人生の三分の一を過ごし、くだんの人物の本当の父親に関する当地の噂を聞いていた。嫡子――チャールズ・スチュアートとルーシー・ウォルターの形式にのっとった秘密結婚による――どころか、余はイングランド王也と宣言したこのモンマス公が、亡き国王の庶子ですらない可能性まであったのだ。破滅と大惨事以外に、このグロテスクな要求の結末に待ち受けるものがあるだろうか?イングランドがこのようなパーキンの類[註10]を鵜呑みにする可能性があるなどと、どうしたら期待できるのだろうか?にもかかわらず、彼の荒唐無稽な要求を支持する為に、少数の紋章持ち[註11]のホイッグ党員に扇動された西国[註12]の馬鹿どもが武装蜂起に誘い込まれたのだ!

 

「クオ、クオ、スケレスティ・ルイティス?」

 

 彼は笑いと溜息を同時に吐き出した。しかし他者を恃まず己を恃む人間の常としてブラッドも無闇な同情はせぬ性分であった為に、笑いが溜息を凌駕した。彼は極めて独立独歩の人間であった。逆境が彼にそのようにあれと教えたのである。彼と同じ洞察力と知識を有した、彼より情にもろい人物ならば、この情熱的で単純なプロテスタントの羊達が畜殺場――妻や娘や恋人や母親に見送られ、正義、自由、信仰を守る為に出陣するのだという虚妄を土台にして呼び集められたキャッスルフィールドの集合地――に向かう様を見て涙したかもしれない。

 

 何故ならば、彼を含むブリッジウォーター市民は全員、数時間前に知らされていたのである。モンマス軍は今夜、敵を強襲するつもりであると。モンマス公はセッジムーアで現在野営しているフェバーシャム[註13]指揮下の国王軍に対し、奇襲攻撃を行うはずであった。ブラッドはフェバーシャム伯の方もその情報は掴んでいるであろうと推測したが、もしこの仮定が間違っていたとしても、少なくともそれは彼の責任ではない。国王軍の指揮官ともあろう者が、自分専門分野に関して、それほどお粗末な手腕であるとは彼には思えなかったのだ。

 

 ブラッドはパイプから灰を落とすと、窓を閉める為に後ろに下がった。その時、道の向かい側に目を向けた彼の視線は、ようやく非難を込めて自分を見つめる視線と交差した。二対の目はピット家の娘達、ハンサムなモンマス公を崇拝する事にかけてはブリッジウォーターで一番の、気だてが優しく情にもろい二人の老嬢達であった。

 

 ブラッドは微笑して頭を下げた。この婦人達とは懇意にしており、その片方は一時期は彼の患者であったからだ。しかし彼の会釈は無視された。その代わりに彼女達は彼に冷たい軽蔑の視線を返した。ブラッドの薄い唇に浮かんでいた微笑はやや広がり、やや陽気さが減じた。彼はその敵意の理由を理解した。それはモンマスがあらゆる年代の女性達を惑わす為にやってきてから、この一週間、日毎につのっていた。察するに、このピット家の姉妹は、若く壮健な男でありながら大義に貢献するであろう軍事教練から距離を置いている彼を蔑んでいるらしい。志ある男達がプロテスタントの擁護者たるモンマス公の許に結集し、彼を正統なる王座に就ける為に血を流そうとしている時に、ブラッドは今宵もいつもの夜と変わりなく、静かにパイプをふかしてゼラニウムの世話をしているのだ。

 

 もしブラッドが辞を低くして婦人達とこの問題について議論をしていたならば、自分は既に放浪と冒険は存分に経験しており、今は自分のおさめた学問によって元来予定されていた堅実な職に従事しているのだと力説していたかもしれない。自分は戦争ではなく医学に従事する人間なのだと。治療する者であって、殺害する者ではないのだと。だが彼にはわかっていた。このような時局にあっては、気骨ある男ならば一人残らず武器をとる義務があると彼女達は言うだろう。彼女達は、船乗りを職業とし、ある船――その若者にとっては運の悪い事に、この情勢下にブリッジウォーター港に錨を下ろしていた――の航海士を務めている、甥のジェレマイアを例に挙げる事だろう。彼は既に正義を守る為に舵棒をマスケット銃に持ち替えていた。しかしブラッドは他者の理解を欲する類の男ではなかった。先に述べたように、彼は己を恃む男であった。

 

 窓を閉じてカーテンを引き、蝋燭に照らされた快適な室内に身を向けると、家政婦のバーロウ夫人がテーブルに夕食を広げていた。彼は夫人に向かって述懐した。

 

「この界隈の気難しい御婦人達からは、お見限りのようだね、私は」

 

 彼は彷徨の間も決して失われなかったアイルランド訛により金属的な響きが和らげられた、心地よい活気に溢れた声をしていた。それは魅惑的になだめすかすように訴える事も、服従を強いるよう命ずる事も可能にする声であった。実際、この男の個性の少なからぬ部分を占めているのは、その声であった。残りの要素は長身で贅肉のない痩せた体とジプシーのように浅黒い肌、その浅黒い顔の水平な黒い眉の下に位置する、驚くほど青い目だった。高い鼻梁を挟んだきらめく瞳と精悍な鼻は、非凡な洞察力と揺らぐ事無き不遜を示しており、引き締まった唇と調和していた。職業柄、黒衣を着てはいるが、それは現在の職業である堅実な医師よりも、かつて彼がそうであった冒険家特有の伊達振りからくる優雅さが感じられた。彼のコートは見事なキャムレット織で、銀糸で縁取られていた。手首にはメクリンレースのひだ飾りが、そして喉元にはメクリンレースのクラバットが結ばれていた。彼の豊かで黒い鬘(かつら)はホワイトホール宮殿に集う人々にも劣らぬほど入念にカールされていた。

 

 彼に会い、その明らかな本性を見てとった者は、半年前に偶然のめぐり合わせによって流されてきた小さな田舎町で、このような男がどれほどの間大人しくしていられるものだろうか、彼がその人生のスタート時に免許を取得した職業をどれほどの間続けていられるだろうか、と訝しんだ事だろう。ここに到るまでの、そしてこの後の彼の経歴を知る者には、それが長続きすると信じるのは難しいだろうが、しかしそれでも運命の悪戯さえなければ、彼はこの平穏な暮らしを続け、サマセットシャーという停泊所での医師生活に腰をすえて取り組んでいたかもしれない。可能性はあった。恐ろしく低いものではあるが。

 

 彼がアイルランド人医師を父とし、探検家のフロビッシャー一族[註14]に連なる血を引いているサマセットシャーのレディから生まれたという事実が、幼い頃から顕著であった冒険好きな性分の理由と言えるかもしれない。この蛮性は、並はずれた平和主義の気質であったアイルランド人の父親を恐れさせた。彼は少年に自分の高潔な職業を継がせようと早くから心に決め、そして飲み込みが早く、知識を求める事に奇妙なほど貪欲であったピーター・ブラッドは、ダブリンのトリニティー・カレッジ[註15]で二十歳の時にバカラウレウス・メディシナエ(医学の学士号)を取得する事で父を満足させた。彼の父親が満足のうちに世を去ったのは、それからわずか三ヶ月後であった。母はその数年前に亡くなっていた。かようにしてピーター・ブラッドは数百ポンドの財産が遺され、それを元にして彼は世界を見る為に旅立ち、その期間は己に染みついた彷徨する精神の手綱を解き放ったのである。奇妙なめぐり合わせが、彼をフランスと戦争中のネーデルラント軍に身を投じるように仕向けたが、この選択に到る要因は海に対する彼の偏愛にあった。彼は高名なデ・ロイテル[註16]の下で重用され、その偉大なネーデルラントの提督が落命した地中海における戦闘に参加した。

 

 ナイメーヘンの和約[註17]後の、彼の行動は定かではない。しかし詳しい経緯は不明だが、彼がスペインの刑務所で二年を過ごした事は確かである。釈放後に彼がフランス軍に仕官してネーデルラントを支配するスペイン軍と戦う事になったのは、この経験が影響しているのかもしれない。三十二歳になった頃、ようやく冒険にも飽き、怪我の不養生によって健康を損なった彼は、突然の里心に襲われた。彼はナントからアイルランドに向かう船に乗った。しかし彼の船は荒天によってブリッジウォーター湾に流され、航海の間に病の悪化したブラッドは、そこが母の故国であったという縁もあり、陸に上がる事を決意した。

 

 かくして1685年1月、彼は十一年前にダブリンから旅立った時とほぼ同じ資産を持って、ブリッジウォーターに到着したのである。

 

 自分の健康を急速に回復させたこの土地を気に入り、最早一生分の冒険を経験したと考えた彼は、そこに居を構えて今まで持ち腐れにしていた医学の専門知識を役立てようと心に決めた。

 

 それが六ヶ月後、セッジムーアの戦いが行なわれる夜までに彼の経験してきた全て、もしくはその主な部分であった。

 

 緊迫した情勢など全くお構いなしに、その夜のブリッジウォーターを騒然とさせていた動向に無関心なブラッドは、騒音に耳をふさぎ、さっさと床に就いた。彼は十一時前には既にのんきに眠っていた。ご存知のように、その時刻、モンマスは馬を馳せていたのだが、しかしこの叛乱勢力の首魁は正規軍との間に横たわる湿地帯を避けて迂回し、ブリストル街道沿いに移動していた。これもまたご存知のように、叛乱軍の数における優勢――ひょっとすると、正規軍の統制力に対する不利を相殺できていた可能性もあるほどの――と、敵の寝込みを襲う奇襲攻撃から生じる利点は、彼がまごついて好機を逃した事によって、フェバーシャム伯と実際に交戦する前に全てが失われてしまっていた。

 

 両軍は午前二時頃に激突した。ブラッドは大砲の遠い轟きにも眠りを乱される事はなかった。四時になる前には悲惨な戦場を覆うもやの最後のひと切れを追い散らす太陽が昇り、彼は穏やかな眠りから目覚めた。

 

 彼はベッドにきちんと座り、目をこすって眠気を払い意識をはっきりさせた。強打の音は我が家のドアに響くものであり、そして人声は支離滅裂に彼を呼ぶものであった。彼を叩き起こした騒音の正体はこれであった。誰かが産気づいたのかと考えて、彼は階下に行く為にベッドガウンと室内履きに手を伸ばした。踊り場で彼は、起き抜けの見苦しい姿でひどく取り乱したバーロウ夫人と危なくぶつかりそうになった。ブラッドは安心させるような言葉をかけて雌鶏そこのけに騒ぐ彼女をなだめると、自らドアを開けた。

 

 そこには早朝の黄金の斜陽を浴びて、息を切らした必死の眼差しの男と湯気を立てた馬がいた。埃と汚れにまみれ、ダブレット(上衣)は乱れて千切れた左袖が胴衣からぶら下がるという有様で、その若者は話し出そうとしたものの、なかなか言葉が出てこぬ様子であった。

 

 ブラッドは会釈すると、それが向いに住む老嬢姉妹の甥であり、世間の熱狂によって既にあの叛乱の渦に引き込まれている若き航海士、ジェレマイア・ピットである事に気づいた。この船乗りの騒々しい到来によって目覚めさせられた街路は活況を呈し、幾つものドアが開き、窓々の格子は不安と好奇心に駆られて突き出された頭の為に掛け金を外されていた。

 

「落ち着きたまえ」ブラッドは言った。「無闇に急かさないでくれ」

 

 しかし興奮した面持ちの若者は警告を意に介さなかった。彼は突然大慌てで、息を切らしながら途切れ途切れに話し始めた。

 

「ギルドイ卿です」彼はあえぎながら言った。「怪我をしてるんです…川の側のオグルソープの農場に……俺はそこに運んで…それで…貴方を呼びに……来て!来てください!」

 

 彼はブラッドを掴んで、ベッドガウンとスリッパ姿の医師を力ずくで引きずって行きかねない勢いだった。しかしブラッドは、そのあまりにも必死な手から身をかわした。

 

「大丈夫だ、行くよ」と彼は言った。ブラッドは心を痛めていた。彼がこの辺りに居を構えて以来、ギルドイ卿は彼にとって非常に友好的で寛大な後援者だった。そしてブラッドはその恩を返す為にできる限りの事をしたいと心から願っていたが、その機会がこのような形で訪れたのを悲しく思った――何故なら彼は、あの向こう見ずな若い貴族が公爵の密使を務めていた事をよく承知していたのである。「大丈夫だ、行くよ。だが、まずは服を着て身支度をする時間をくれたまえ」

 

「ぐずぐずしてる暇はないんです」

 

「落ち着きなさい。すぐに行く。いいかい、慌てずに行動した方が時間を無駄にしないで済むんだ。中に入って……椅子に座りなさい……」彼は居間のドアを開け放った。

 

 ピット青年は招待をはねつけた。

 

「ここで待ちます。お願いだから急いでください」ブラッドは服を着て診察道具のケースを取ってくる為に引っ込んだ。

 

 ギルドイ卿の傷の正確な状態についての質問は、彼等が患者の許に向かうまで保留された。ブーツをはきながら、彼はバーロウ夫人に自宅でとれないであろう夕食等の、今日の仕事についての指示を与えた。

 

 機嫌の悪い雌鶏のように、彼の後で不平を言うバーロウ夫人を残し、ようやく再び外に出ると、彼は戦況を知る為にあわてて服をひっかけ駆けつけてきた不安げな近在の人々――主に婦人達――に取り囲まれたピットを目にした。彼が提供できるニュースは、朝の空気を乱す悲嘆と共に読まれる類のものであった。

 

 服とブーツを身に着け、診察道具のケースを小脇に抱えて戸外に出たブラッドは、涙ぐみながらすがりつく二人の叔母に閉口し、押しのけるようにして逃れてきたピットが手綱をとって鞍に登る姿を目にした。

 

「こっちです、先生」彼は叫んだ。「後ろに乗って」

 

 ブラッドは無駄口をきかずにその言葉に従った。ピットは馬に拍車をかけた。野次馬達は道を開け、かくして、二人乗りの馬の尻上で同乗者のベルトに密着し、ピーター・ブラッドは彼の長い長いオデッセイ(漂泊の旅)に出発した。ブラッドが単なる叛乱軍の負傷した紳士の使者としか思わなかったこのピット青年、彼こそが、まさしく真の運命の使者だったのである。

 

 

 

 

[註1]:モンマス公ジェームズ・スコット(1649年4月9日 - 1685年7月15日)

後の英国王チャールズⅡ世がオランダ亡命時代に愛人ルーシー・ウォルターとの間にもうけた庶子。モンマス公、ドンカスター伯、タインデイル男爵の称号を持つ。プロテスタント。

 

[註2]:ロバート・ファーガソン(1637年 - 1714年)

スコットランドの長老派教会(プロテスタントの一派)牧師。モンマス公の国王宣言を起草した。チャールズⅡ世およびヨーク公ジェームズ暗殺未遂事件である1683年の「ライハウスの陰謀」にも関与しているとされている。仇名は"the plotter (陰謀家)"。

 

[註3]:papist 「英国国教会よりも教皇(Pope)に信仰上の忠誠心を寄せる人」という意味で、イングランドにおいてローマン・カトリックを(主に蔑視のニュアンスで)呼ぶ際の言葉。

 

[註4]:クィントゥス・ホラチウス・フラックス(BC65年 - BC8年)。ローマの詩人。

 

[註5]:ホラチウス『Epodi (しょうか)頌歌』第7歌より、自滅しつつあるローマ帝国を嘆いた詩。

 

[註6]:"The glory of the west, or, The virgins of Taunton-Dean Who ript open their silk-petticoats, to make colours for the late D. of M's army, when he came before the town, a song."

 

[註7]:モンマス公の生母ルーシー・ウォルター(1658年没)を指す。

同時代人の作家ジョン・イヴリン(1620年 - 1706年)はルーシーを評して"a brown, beautiful, bold but insipid creature(褐色の、美しい、奔放な、しかし退屈な女)"と書き残している。ルーシーは生涯正式な結婚をせずに複数の有力な男性の間を渡り歩いた女性だった。

 

[註8]:チャールズⅡ世(1630年5月29日 - 1685年2月6日)

清教徒革命により斬首刑に処されたチャールズⅠ世の息子。革命勃発前の1646年に英国を脱出し亡命生活を送る。クロムウェルの死後に復古王政の国王として帰国し、イングランド及びスコットランド、アイルランド王として即位した(在位1660年5月29日 - 1685年2月6日)。十三人の愛妾との間に十四人の庶子をもうけたが、正嫡はいなかった。

 

[註9]:英国王チャールズⅡ世の弟(1633年10月14日 - 1701年9月16日)、後の英国王ジェームズⅡ世(在位1685年2月6日 - 1688年)。ヨーク公、オールバニ公。カトリック。

 

[註10]:叔父リチャードⅢ世により王位継承権を剥奪された初代ヨーク公リチャードは1483年に幽閉されて以後は生死不明のまま消息を絶ったが、約十年後に「生きていたヨーク公」を詐称するパーキン・ウォーベックという男が支持者を集め武装蜂起を試みて失敗、1499年に絞首刑に処された。

 

[註11]:スコットランドのキャンベル氏族の族長であったアーガイル伯爵アーチボルド・キャンベル(1629年 - 1785年)等の、ヨーク公即位反対派(ホイッグ党)を指すと思われる。

 

[註12]:West Countryはコーンウォール、デボン、ドーセット、サマセットを中心とした英国南西部を指す。ブリストル、グロスターシャー、ウィルトシャーの一部を含む場合も有。

 

[註13]:第二代フェバーシャム伯ルイス・ド・デュラス(1641年 - 1709年)

 

[註14]:ヨークシャー地方出身の16世紀の探検家・海賊、サー・マーティン・フロビッシャーの一族を指すと思われる。

 

[註15]:正式名称はThe College of the Holy and Undivided Trinity of Queen Elizabeth near Dublin(ダブリンにおけるエリザベス女王の神聖にして分かたれざる三位一体大学)。1592年創立。英語圏最古の大学のうちの一つ。創設者はイングランド女王エリザベスⅠ世。

 

[註16]:ミヒール・デ・ロイテル (1607年3月24日 - 1676年4月29日)

第二次、第三次英蘭戦争で活躍したオランダ(ネーデルラント)の名将。1676年にシチリア島のカターニャ沖海戦で戦死。オランダの紙幣に肖像が採用されていた時期もあった。

 

[註17]:オランダ侵略戦争の講和条約。1679年にネーデルラント連邦共和国のナイメーヘンで締結された。


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Ⅱ. カーク大佐の竜騎兵

 オグルソープの農場はブリッジウォーターから1マイルほど南、川の右岸にあった。蔦に覆われた基部の上方にはテューダー朝時代の灰色の建物がのぞいていた。その建物を目指して、朝の陽光にきらめくパレット川の岸辺にある、アルカディア(理想郷)的な平和にまどろむような芳しい香りの果樹園を通り抜けて進むブラッドには、ここが争いと流血によって苦悶する世界の一部であると信じるのは難しかった。

 

 ブリッジウォーターから馬を走らせる途中、二人は橋上で戦場から逃れてきた先陣の兵士達に出会っていた。彼等は疲弊し、希望を失い、多くの者は負傷し、全ての者が恐怖に苛まれ、なけなしの力を振り絞って、あの町が彼等を匿ってくれるであろうという虚しい期待から避難所を求めて急ぎつつも、思うに任せずよろめき歩いていた。疲労と恐れで虚ろになった目が、やつれた顔から馬を進めるブラッドとピットを哀れっぽく見上げ、かすれた声が容赦ない追撃が迫っているぞと警告を叫んだ。しかしピット青年は手綱を緩める事なく、続々と集まってくるセッジムーアの総崩れからの哀れな逃亡者達の脇を通って、埃まみれの道を全速力で馬を走らせた。やがて彼は横道にそれて、露を帯びた牧草地を渡る小道に入った。彼等はここですら、ドラグーン(竜騎兵)の赤いコートを警戒し、何度も恐る恐る振り返りながら広い牧草地を散り散りに逃げる敗残者達に出くわした。

 

 しかしピットが馬首を南に向けフェバーシャムの本営に近づくにつれ、敗残の兵士達と戦闘の残骸に妨げられぬようになり、やがて彼等はシードル(林檎酒)生産の最盛期も間近な、熟した林檎のたわわに実る平和な果樹園の中を走っていた。

 

 ようやく彼等が中庭の踏み石の上に降り立つと、暗い顔をしたヨーマン(農場主)のベインズが取り乱した様子で彼等を迎え入れた。

 

 広々とした板石舗装の広間で、ブラッドはギルドイ卿――非常に長身で浅黒い若い紳士であり、顎と鼻が目立っていた――が、丈高い方立(ほうだて)仕切り付きの窓の下で、ベインズ夫人とその器量良しの娘の世話を受けながら籐の寝椅子に横たわる姿を見つけた。彼の頬は鉛色で、目は閉じられ、青ざめた唇からは苦しげな弱々しい呼吸と共にうめき声がもれていた。

 

 ブラッドは彼の患者を見つめ、しばし静かに立っていた。彼はギルドイ卿のような前途有望な若者が、一文の値打ちもない山師の野心を助ける為に、身の破滅となるような危険を冒した事を嘆いた。この勇敢な若者に好意と敬意を抱いていたが故に、ブラッドは自らの患者として対面した彼に嘆息した。それから彼は診察の為に跪き、ずたずたにされた貴人の脇腹をむき出しにする為にダブレット(上衣)と肌着を引き裂くと、水とリンネルと治療の為に必要な諸々を要求した。

 

 半時間後、竜騎兵連隊の兵士達が農場に踏み込んできた時、彼は未だ治療に集中していた。兵士達の接近の予兆であった蹄の音にも遠い叫び声にも全く集中を妨げられなかった。彼は易々と動じるような性格ではなく、また自分の作業に没頭していたという理由もあった。しかし意識を回復したギルドイ卿は少なからぬ不安を見せ、荒事慣れしたジェレミー・ピットは衣装箪笥に隠れた。ベインズは不安げであり、彼の妻と娘は震えていた。ブラッドは彼等を励ました。

 

「何を恐れる事がある?」彼は言った。「ここはキリスト教徒の国だ、そうだろう?クリスチャンならば、傷ついた者にもそれを匿う者にも、無体な事などするはずがない」彼は未だキリスト教徒に対して幻想を抱いていた。彼は自分で調合したコーディアル(薬草酒)のグラスを持ち、ギルドイ卿の唇にあてがった。「気をお静めなさい、若様。これ以上悪い事など起きませんよ」

 

 そうするうちに、兵士達はやかましい音を立てながら、広間の石畳に踏み込んできた――ジャックブーツ(軍用ブーツ)をはきタンジール[註1]連隊のロブスター・コート(真紅の軍服)をまとった丁度1ダースの騎兵達は、コートの胸に多量の金モールをつけた頑強で浅黒い男に率いられていた。

 

 妻と娘が再び不安で縮みあがる間も、ベインズは半ば反抗的な態度でその場から動かなかった。長椅子の端にいたブラッドは、侵入者達を吟味する為に肩越しに振り返った。

 

 その士官は命令をわめいて部下達に警戒待機させると、手袋をはめた手を剣の柄頭に置き、身動きの度に調子良く拍車を鳴り響かせながら、尊大な足取りで進み出た。彼はヨーマン(農場主)に対して自らの権力を誇示した。

 

「私はホバート大尉、カーク大佐[註2]の竜騎兵連隊所属である。貴様、謀反人を匿っているな?」

 

 ベインズは、そのこれ見よがしの威嚇に恐怖した。それは彼の震える声に表れていた。

 

「わた……私は謀反人を匿ってなどおりません。こちらのお怪我をなさった紳士は…」

 

「自分の目で確かめる」大尉は長椅子の方へ踏み出すと、灰色の顔をした患者をにらみつけた。

 

「この有様では、どういう次第で何故傷を負ったかを尋ねるまでもないな。忌々しい謀反人が一匹、それで充分だ」彼は竜騎兵達に命じた。「こいつを連行しろ」

 

 ブラッドは長椅子と騎兵達の間に立ちはだかった。

 

「人道において貴君に訴える!」怒りを含んだ声で彼は言った。「ここはタンジールではなく、イングランドだ。この紳士は傷を負っている。動かせば命にかかわるのだぞ」

 

 ホバート大尉は面白がった。

 

「おお、この手の謀反人の命には配慮するとも!充分にな!我々がこいつを連行するのは、こいつの健康の為にはどうだろうな?ウェストンからブリッジウォーターまでの道路沿いには絞首台が置かれていてな、こいつも他の連中と同様に、そのうちの一つの世話になるだろうよ。カーク大佐も納得してくださるだろうよ、秩序に逆らう馬鹿どもの末路を子々孫々の代まで思い知らせてやれるんだから、こいつらも多少の役に立つってな」

 

「君は裁判もなしに絞首刑を行っているのか?どうやら私は間違っていたようだな。我々が今いるのはタンジールらしい。君の連隊にふさわしい土地だ」

 

 大尉は激した目で彼を見つめた。彼はブラッドの乗馬靴の爪先から鬘(かつら)の天辺までを、じろじろと見つめた。彼はその無駄のない俊敏そうな体躯、尊大な落ち着きがうかがえる顔と、身に帯びた威信ある雰囲気に気づき、ブラッドが自分と同じく軍人であるのを悟った。大尉の目は細くなった。彼には思い当たる節があった。

 

「貴様、一体何者だ?」彼は詰問した。

 

「私の名はブラッドだ――ピーター・ブラッド、お見知り置きを」

 

「なるほど――なるほどな!そうだ!そういう名前だった。貴様、前にフランスに仕官していたな?」

 

 ブラッドが驚いたとすれば、それは彼の狙い通りだった。

 

「如何にも」

 

「覚えているぞ――五年かそこら前、貴様はタンジールにいたな」

 

「そうだ。私は貴君の連隊長を知っていた」

 

「だろうな、貴様は旧交を温められるかもしれんぞ」大尉は不快な笑い声を上げた。「何故ここにいた?」

 

「この怪我をした紳士の為だ。私は彼を治療する為に呼ばれたのだ。私は医者だ」

 

「医者だと――貴様が?」その嘘――と、彼は思った――に対する嘲りが、激しい怒鳴り声を響かせた。

 

「メディシナエ・バカラウレウス(ラテン語で『医学士』)」ブラッドは言った。

 

「フランス語でまくし立てるな、まったく」と、ホバート大尉がさえぎった。「英語で話すんだ!」

 

 ブラッドの微笑は彼を苛立たせた。

 

「私はブリッジウォーターの町で開業している医者だ」

 

 大尉は冷笑した。「それが庶子公爵の腰巾着の為に、ライム・リージスを通ってここまできたと」

 

 今度はブラッドが冷笑する番であった。「もし君の知力に君の大声と同じだけの値打ちがあったなら、親愛なる大尉、君ももっと出世していただろうにな」

 

 一瞬、大尉は絶句した。彼の顔は真紅に染まった。

 

「貴様には、首を吊るのに充分なだけの値打ちがあるかもな」

 

「然り。貴君は如何にも絞首刑執行人らしい容貌と作法を備えているな。だが君がここで私の患者相手に君の天職を実践しようすれば、君は自分の首にロープをかける事になるかもしれんぞ。この方は君が首を吊るせる類の人ではないし、尋問が許される人でもない。この方は裁判を受ける権利があるし、その審理を行う権利があるのは、彼と同じ階級の方々だ」

 

「彼と、同じ、階級?」

 

 大尉はブラッドが強調した三つの言葉によって、あっけにとられた。

 

「無論、誰であれ、余程の愚か者か野蛮人以外の者は、絞首台行きを命じる前に彼の名前を尋ねただろうがな。こちらの紳士はギルドイ卿だ」

 

 そして卿自身が、弱々しい声で語り出した。

 

「私はモンマス公爵と自分の関係を隠すつもりはない。私は己の行動の結果から逃げるつもりはない。しかし、叶うならば、それは裁判を――私と同じ階級の者による審議を受けてからにしたいのだ。この医者が言ったように」

 

 弱々しい声は途絶え、後には沈黙が続いた。大概の空威張り屋と同じく、ホバート大尉も実際は相当な小心者であった。貴族階級である事を告げられて、彼は内心動揺していた。卑屈な成り上がり者である彼は称号に対し畏怖心を抱いていた。そして彼は、自分の連隊長に対しても畏怖心を抱いていた。パーシー・カーク大佐は粗忽者に対して甘くはなかった。

 

 身振りによって彼は部下達を制止した。そうせざるを得なかった。彼の逡巡を見て取ったブラッドは、大尉の考慮すべき事柄を指摘する為に更に付け加えた。

 

「貴君も知っているだろう、大尉。ギルドイ卿には、もし卿が市井の罪人のような扱いを受けたならば、カーク大佐に物申すようなトーリー党[註3]側の御友人や御親類がある事を。慎重に行動したまえ、大尉。さもなくば私が言ったように、貴君は明朝には自分の首を吊る為の縄をなう事になるぞ」

 

 ホバート大尉は虚勢による侮蔑と共に警告を無視したが、しかしその言葉に従って行動を起こした。「長椅子を持ち上げろ」彼は言った。「その上に寝かせたまま、ブリッジウォーターに運ぶんだ。私が処遇を決定するまで、拘置所に入れておけ」

 

「卿は長旅に耐えられないかもしれない」ブラッドが抗議した。「動かしていい容態ではないんだ」

 

「お生憎様。私の任務は謀反人の捕縛なんだ」彼は身振りで命令の駄目押しをした。二人の部下は長椅子を持ち上げると、それを運び出す為に揺すぶった。

 

 ギルドイ卿はブラッドに向かって弱々しく腕を伸べようとした。「先生」彼は言った。「借りができてしまいましたね。もし私が生き延びる事ができたならば、きっとお返ししましょう」

 

 ブラッドはその答の代りに一礼し、そして兵士達に「慎重に運ぶんだ」と命じた。「卿の御命がかかっているんだぞ」と告げた。

 

 貴人が運び出された途端、大尉は俄然、勇み立った。彼は農場主を責め立てた。

 

「他にはどんな謀反人を隠している?」

 

「誰もおりません。卿は…」

 

「当面、卿については我々が取り扱う。この家の捜索が終わってから、少しばかり貴様と相談しよう。もし貴様が嘘をついたのなら……」彼は命令をがなり立てる為に言葉を切った。部下の竜騎兵四名が外に出た。しばし後、隣の部屋で彼等が騒々しく動き回る物音が聞こえた。一方、大尉はピストルの台じりで羽目板を叩きながら広間を探索していた。

 

 ブラッドは長居した処で益はないと判断した。

 

「君が立ち去ってくれれば、さぞ良い一日になるだろうな」彼は言った。

 

「私が立ち去るまで、ここを離れるなよ」大尉は彼に命じた。

 

 ブラッドは肩をすくめ、座った。「うんざりさせる男だね、君は」彼は言った。「君の連隊長もよく我慢できるものだ」

 

 しかし大尉は取り合わなかった。彼は小さな一束の樫の葉がピンで留められた、汚れた埃まみれの帽子を拾い上げる為に身を屈めた。それは不運なピットが隠れている洋服箪笥の近くに落ちていた。大尉は意地の悪い微笑を浮かべた。彼は部屋を隈なく見渡し、まずは小馬鹿にしたように農場主に視線を向け、それから背後に隠れた二人に、そして最後に、内心とは裏腹の無関心な態度で足を組み座っているブラッドに向けられた。

 

 それから大尉は洋服箪笥の方に踏み出し、そのどっしりしたオーク材の扉の片翼を引き開けた。彼は中でちぢこまっていた男のダブレット(上衣)の衿を掴んで、力任せに引きずり出した。

 

「こいつは一体何者だ?」彼は問うた。「もう一人の貴族か?」

 

 ブラッドは、ホバート大尉が逃した別の犠牲者の代わりに裁判なしで絞首刑にされた不運な若い航海士が、先程この大尉が話した絞首台の一つを飾る姿を脳裏に描いた。即座に彼は、この若者の階級のみならず、一族まるごとをでっち上げた。

 

「左様、おっしゃる通りだ、大尉。こちらはピット子爵、君の連隊長の妹であり、かつてはジェームズ陛下の王妃に侍女として仕えていた尻軽女のモル・カーク[註4]を妻にしている、トーマス・ヴァーノン男爵の従弟にあらせられる」

 

 大尉とピットは両者共に息を呑んだ。だが次に、ピット青年が慎重に平静を装ったのに対し、大尉は突然剣呑な宣告をした。ホバートは再び自分の捕虜を見つめた。

 

「奴は嘘をついているな?」彼は若者の肩を掴み、その顔をにらみつけて詰問した。「でたらめに決まっている、神かけて!」

 

「君がそう信じるのなら」ブラッドは告げた。「彼の首を吊って、その後で我が身に何が起こるか確かめてみるといい」

 

 大尉は医者、次に自分の捕虜に狷介な視線を向けた。「くそっ!」彼は若者を部下達に突き出した。「ブリッジウォーターに連れて行け。こいつを拘束しろ」彼はベインズを指差して言った。「そいつには謀反人を匿えばどういう事になるか教えてやらねばならん」

 

 わずかの間、混乱があった。ベインズは騎兵達の拘束する腕の中でもがき、猛烈に抵抗した。怯えた女性達は、更に大きな恐怖の種によって静められるまで金切り声を上げ続けた。大尉はその場を横切り大股で歩いた。彼はその少女の肩を掴んだ。金色の髪に青い瞳をした愛らしい娘は、その竜騎兵の顔を懇願するように哀れっぽく見上げた。彼は嫌らしい視線を返すと、両目をぎらつかせ、片手で少女の顎を掴み、残忍な接吻で彼女を身震いさせた。

 

「こいつは、ほんの手付だ」彼は不気味な微笑と共にそう言った。「大人しくしておいで、謀反人ちゃん、この荒くれ達の手を煩わせんで済むようにな」

 

 そして彼は卒倒寸前に怯えさせた少女を苦悩に苛まれる母親の腕に残して、再び勢いよく身を離した。彼の部下達は二人の虜囚を手早く拘束し、にやにや笑いを浮かべながら命令を待っていた。

 

「そいつらを連れて行け。ラッパ兵に世話を任せろ」彼の燻(くす)ぶった目は、再び震え上がっている少女を探した。「私はしばらく滞在するぞ――ここを探索する為にな。ここには未だ、他の謀反人が隠れているかもしれん」思い出したように、彼は付け加えた。「それと、こいつを連れて行け」彼はブラッドを指し示した。「さっさとしろ!」

 

 ブラッドは思案していた。彼は診察道具のケースに入っている、ホバート大尉に対して有益なオペを行なえそうなランセット(両刃メス)の事を考えていたのである。有益、というのは、人類にとっての益という意味であるが。いずれにせよ、この竜騎兵は見るからに多血性であり、瀉血が必要だ。チャンスを作り出すには障害があった。隠し金か何かの作り話で大尉の気を逸らせないだろうかと、彼は話の腰を折って、一か八か興味を引くような話題を展開しようと決めた。

 

 彼は時間稼ぎに努めた。

 

「確かに私にとっては渡りに船だな」彼は言った。「ブリッジウォーターは私の行き先なのだから、君達に連行されなくとも、どの道自分で行くはずだった」

 

「貴様の行き先は拘置所だ」

 

「ああ、まったく!冗談はやめてくれたまえ!」

 

「それとも絞首台に直行する方がいいか。遅かれ早かれ世話になるんだしな」

 

 乱暴な腕がブラッドを掴み、そして頼みの綱の(両刃メス)ランセットは、手の届かないテーブル上に置かれたケースの中だった。強く敏捷な彼は竜騎兵の腕をねじり上げたが、しかし兵達はすぐさま再び彼を締め上げ押し倒した。彼を地面に押さえつけると、兵達はその手首を後ろ手に縛り、足を掴んで再び乱暴に引っ張った。

 

「連行しろ」ホバート大尉が命じ、待機していた他の騎兵達に指示を出す為に振り返った。「この家を捜索しろ。屋根裏から地下室まで全てだ」

 

 兵士達は室内に通じるドアから出て行った。ブラッドは竜騎兵の手でピットとベインズの待つ中庭に押し出された。広間の入り口からホバート大尉を振り返った彼のサファイアの瞳は燃え上がっていた。ブラッドの唇は、彼がこの厄介事から生き延びる事ができた時にホバートにしてやるつもりの脅し文句で震えた。幸いにも彼は、それを口に出せば自分が生き延びるチャンスを失うであろう事を思い出した。現在、国王軍は西国を支配しており、西国は勝者によって戦争の最悪の惨禍を受けるべき敵国と見なされていた。この情勢下においては、一介の騎兵も生死を司る神に等しかった。

 

 果樹園の林檎の木の下で、ブラッドと不運な彼の仲間達は、それぞれ騎兵達の鐙革にきつく結ばれた。それから進軍ラッパの鋭い号令によって、小隊はブリッジウォーターに向けて出発した。彼等が出発してから、この地は竜騎兵達に征服された敵国なのだという、ブラッドの忌まわしい憶説には完全なる確証が与えられた。打ち壊され投げ捨てられた家具の木材が割れる音がし、粗野な男達の怒声と笑声が聞こえた。それは、この謀反人の捜索が、略奪と破壊の口実以上の何ものでもないのだと告げているようであった。最後に全ての物音を圧し、痛切な苦しみによる、かん高い女の叫び声が聞こえた。

 

 ベインズは歩みを止め、もがきつつ、血の気が失せた顔を振り向かせた。その結果、鐙革に結ばれたロープに足をとられた彼は、騎兵が手綱を引き、口汚く悪態を吐いて剣の平で彼を打ちすえる前に、1、2ヤードを成す術もなく引きずられる事となった。

 

 香気に満ちた芳しい七月の朝、たわわに実った林檎の樹の下を足を引きずるようにして歩いていたブラッドに、その思いはもたらされた。人類とは――彼が長い間そう疑っていた通り――神の最も下劣な創作物であると。絶滅すべき最悪の種の治療を己の職と定めるのは、愚か者だけであろうと。

 

 

 

 

[註1]:もしくはタンジェ。モロッコ北部にある都市。1662年のチャールズⅡ世とポルトガル王女カタリナとの結婚により一時的に英国領になっていたが、アラウィー朝モロッコとの戦いの末に1682年に放棄された。タンジール市を守る駐屯部隊として派遣されていたロイヤル竜騎兵連隊は本国に帰還し、モンマスの乱勃発の際にはその鎮圧にあたった。

 

[註2]:パーシー・カーク大佐(1646年 - 1691年)

1680年に第二タンジール連隊隊長を務め、1682年にはタンジール連隊隊長兼イングランド領タンジール総督に就任し、現地での専横な振舞いにより悪名を残している。本国に帰還後も、セッジムーアの戦いの残党狩りにおいて千人以上の敗残兵を裁判を待たずに殺害する等の非道を行った。

 

[註3]:ヨーク公ジェームズ即位賛成派をトーリー党と呼び、現代イギリス政界における保守党の源流となっている。対立勢力であるヨーク公即位反対派のホイッグ党は自由党の源流。

 

[註4]:モル・カークはパーシー・カーク大佐の妹。ホワイトホール宮殿の侍従でチャールズⅡ世の寝室担当だったジョージ・カークの娘であり、彼女自身もヨーク公ジェームズ妃の侍女を務めていたが、ヨーク公、モンマス公、マルグレイヴ伯爵らと次々と関係を持つ極めて身持ちの悪い女性だった。


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Ⅲ. 裁判長閣下

 それからピーター・ブラッドが大逆罪の罪状で裁判にかけられるまで二ヶ月足らず――正確な日付を記せば、それは9月19日の事であった。この罪状について彼が無実であったのは今まで記してきた通りだが、しかし起訴された時点での彼が謀反を働きかねない状態であった事に疑いの余地はない。この二ヶ月間の非人間的で言語に絶する投獄生活は、既に彼の心をジェームズ王とその臣下達に対する冷たく激しい憎悪に変えていた。このような状況にあっても尚、彼が未だ完全に意志を保っていたという事実は、彼の持つ不屈の精神を示すものと言えるかもしれない。この完全に潔白な男にとっては悲惨以外の何ものでもない境遇ではあるのだが、彼には幸いとして勘定に入れるべき事が二つあった。一つ目は、彼が裁判にかけられたという事自体。二つ目は、彼の裁判がその前日ではなく、その日に行なわれた事である。彼を憤激させた、その一日の遅れの中にこそ――彼には知る由もないのだが――彼にとって絞首台をまぬがれる唯一のチャンスが存在していたのであった。

 

 運命の女神の好意がなければ、戦いの翌日に、満員になったブリッジウォーターの拘置所から囚人を半数に減らそうという意図により無作為に選び出され、血に飢えたカーク大佐によって市場で即座に首を吊られた者達の中に、彼が加わっていた可能性は大であった。このタンジール連隊の大佐は、同様のやり口で全ての囚人を処分しようとしており、そのような戦地臨時軍法会議に対してミューズ司教[註1]が強硬な介入によって歯止めをかけていなければ、捕虜の大部分が虐殺されていたかもしれない。

 

 それでも尚、セッジムーアの戦いの一週後には、カークとフェバーシャムは全く裁判の体をなさない略式裁判の後に百人を超える捕虜を処刑しようと企んでいた。街道に設置された絞首台に囚人達を運ぶ為には、何台もの護送車が必要とされた。彼等は自分達が如何なるやり口でその囚人達を捕縛したのかも、自分達が如何に多くの罪なき生命を奪ったかも、意に介してはいなかった。とどのつまり、うすのろどもの命なぞに何の意味があるというのか?死刑執行人はロープと斧と、死体に塗るタール[註2]を煮る大鍋の扱いで大わらわだった。その吐気を催すような細部の描写は割愛しよう。我々の関心は結局の処、モンマスの叛徒達よりもピーター・ブラッドの運命にあるのだから。

 

 処刑をまぬがれた彼は囚人の陰鬱な集団に加えられ、二人一組で鎖につながれて、ブリッジウォーターからトーントンまでを行進させられた。歩いて進むにはあまりにも酷い傷を負った者達は、恐ろしく混み合った荷車で運ばれたものの、彼等は衣服も身につけられず怪我が化膿するに任せられていた。多くの者は幸運にも途上で死亡した。この苦しみを幾らか和らげる為に、ブラッドが医術を用いる権利を迫った際、彼は煩いという理由により鞭で脅された。仮に今、彼に後悔する事があるとしたら、それは彼が実際にはモンマスに与していなかったという事だ。それは勿論、非論理的であった。しかし彼のような境遇の男に論理性を期待するのは、無理な相談というものだ。

 

 その惨い行進におけるブラッドの鎖仲間は、彼の只今の不幸の周旋人というべきジェレミー・ピットであった。この若い航海士は、平民逮捕の後に彼の囚人仲間となっていた。それ故に、彼等は偶然にもぎゅう詰めの刑務所内で、七月、八月、九月と、暑さと悪臭の為に窒息しそうな日々の間を鎖でつながれていた。

 

 ニュースの断片は外界から拘置所の中にも漏れてきた。そのうちの幾つかは、慎重に真偽を検討しなければならぬ類のものであった。モンマス公の死に関する話がそれにあたる。それは公爵の為に、そして彼が支持者達に公言していた信仰上の主張の為に罰せられている人々の間に、最も甚だしい狼狽を引き起こした。多くの者が、そのニュースを信じる事を頭から拒絶した。モンマスに似た男が公爵の身代わりとなって自首をし、本物のモンマスはシオンの再興[註3]をもたらさんとして、バビロンと戦う為に生き延びた、などという荒唐無稽な物語が既に広がり始めていた。

 

 ブラッドはモンマスの訃報を聞いた時と同様の無関心で、その物語を聞き流した。だが、これに関連して耳にした恥ずべき事柄については到底無関心ではおられず、その報は彼がジェームズ王に対して抱きつつあった軽蔑を助長するのに役立った。国王陛下はモンマスとの会見に同意していた。王にモンマスを許すつもりがなかったとすれば、これは思想信条に関わらず、実に酷い、そして忌まわしいものであった。何故ならその会見を行うについて他の目的があったとすれば、それは不運な甥が惨めに許しを請うのをはねつける事で得る、邪悪で狭量な満足より他にはないのだから。

 

 後日、彼等はモンマス公の後に――実際には、前に、であると思われるが――叛乱勢力のリーダーとなったグレイ男爵[註4]の消息を聞いた。彼は既に四万ポンドで自身の恩赦を購っていた。ピーター・ブラッドにとって、これが最後の1ピースとなった。遂に彼はジェームズ国王に対する軽蔑をあらわにした。

 

「ほう、この国の王座に座っているのは随分と卑劣で汚い人物らしいな。もっと前から彼についてこれくらい詳しく知っていたら、私が今ここにいる理由も事実無根ではなかったかもしれないな」それから彼はふと思い出し「そう言えば、ギルドイ卿は何処にいると思う?」と尋ねた。

 

 話し掛けられたピット青年は、何ヶ月もの拘禁生活の間に船乗りらしい濃い日焼けがすっかり薄れた顔を彼に向けた。彼の灰色の目は丸くなり、もの問いたげであった。ブラッドは彼に答えた。

 

「勿論、オグルソープの農場でのあの日から、一度も卿を見ていない。で、連行された他の貴人達は何処にいる?――この忌々しい叛乱の真の主導者達は。グレイの一件は彼等の不在の説明になる、私はそう思う。彼等は身代金を支払って己自身を取り戻す事ができるだけの富豪だ。ここで絞首刑を待っているのは、その貴人達に従ったに哀れな者達だけ、彼等を導いた功のある者達は自由放免だ。好奇心をそそられる上に、啓蒙的でもある常道の逆転だな。全くもって当てにならない世の中だ!」

 

 そう言って笑った後、彼は怒りを含んだ軽蔑という精神状態に落ち着き、そして彼が裁判を受ける為にトーントン城の大広間に足を踏み入れた時には、その思いに浸り込んでいたのである。彼と共にピットとヨーマン(農場主)のベインズが召喚された。彼等三人は一緒に裁かれる予定であり、そして彼等の事件は、その凄惨な日に行われる裁判の皮切りとなるはずであった。

 

 その広間では、傍聴席――その大部分が婦人で占められた野次馬により混雑していた――にまで緋色の布が掛けられていた。至極自然に、流血を求める自らの心を反映する色を選んだ首席判事の愉快な計らいの結果が、これであった。

 

 演壇の上端は、緋色のローブと分厚く黒い鬘(かつら)を着けた中央裁判所から派遣されてきた国王直属の裁判官[註5]五名が占めており、その中央に座っているのが、ヴェム男爵ジェフリーズ[註6]であった。

 

 囚人は監視の下で列をなして入ってきた。触れ役が、違反した者は投獄の罰に処すると言い渡した上で沈黙を要求し、そしてざわめきが次第に静まった時、ブラッドは興味をもって陪審を構成する十二人の善良なる男達を見つめた。彼等は善にも良にも見えなかった。彼等は怖れ、不安げであり、隣人のポケットに手を入れて捕えられた泥棒と変わらぬ惨めさであった。彼等は十二人の動揺した男であり、それぞれが皆、この処の首席判事が振るう血に飢えた裁きの剣と、己が良心の壁との間で板ばさみになっていた。

 

 ブラッドの落ち着いた慎重な視線は彼等の上を通り過ぎて裁判官達へと移り、別して裁判長を注視した。ジェフリーズ裁判長の悪名は、本人の到着に先んじてドーチェスターから届いていた。

 

 ブラッドは、繊細な美貌を備えた楕円形の顔をした、長身で痩せた四十手前の男を眺めた。眠たげな目の下には、その目の輝きと貴族的な物憂さを強調するような、病か不眠による黒いくまがあった。顔は非常に青白く、厚い唇と、やや高いが目立つほどではない頬骨上の紅潮が、より色鮮やかに見えた。その顔の完璧さを幾分損なっていたのは、唇であった。その鼻孔の繊細さ、黒く涼やかな目の柔和さ、青白い額の気高い落ち着きと矛盾する、とらえ難いが否定し難い欠陥が、そこに潜んでいた。

 

 医者としてのブラッドは裁判長閣下を格別の興味を持って考察し、彼が著しい苦しみが伴う病に蝕まれている事、にもかかわらず、驚くほどに乱れ、堕落した生活を送っている事――恐らくはそれが病の原因であると洞察した。

 

「ピーター・ブラッド、挙手せよ!」

 

 出し抜けに、彼は罪状の認否を問う耳障りな声によって自分の立場に引き戻された。彼の服従は機械的なものであり、そして判事補佐はピーター・ブラッドを、最も輝かしく最も優れたる君主、ジェームズⅡ世、神の恩寵によりてイングランド、スコットランド、フランス及びアイルランドの王に定められた、最高位にして生まれながらの主君に対する不実なる叛逆者であると宣告する、無闇に長い訴状を単調に読み上げ続けた。それによれば、彼の心には神に対する恐れはなく、代わりに悪魔の扇動に駆り立てられ誘惑され、愛と真実、そして主君たる国王に帰すべき当然至極の忠順を失い、王国の平和と平穏を乱して戦争を起こそうとし、主君たる国王をその地位、名誉、帝国の頂点たる称号から退ける為に謀反を起こしたのであり――そして同様の夥しい罪状が全て読み上げられると、その最後に彼はギルティ(有罪)かノットギルティ(無罪)かを申告するよう求められた。彼は尋ねられた以上の事を答えた。

 

「私は完全にイノセント(潔白)だ」

 

 彼の右手前でテーブルを前にしていた、尖った顔の小男が跳び上がった。それは判事補佐のポレックスフェン氏[註7]であった。

 

「被告人はギルティ・オア・ノットギルティ(有罪か無罪か)?」この短気な紳士は厳しい口調で問うた。「どちらかを言葉通りに答えよ」

 

「言葉通りに、ね?」ピーター・ブラッドは言った。「では――ノットギルティ(無罪)」次に彼は判事席に向かい、自ら演説した。「言葉通りであるかという問題について、畏れながら裁判長閣下に申し上げるが、先程読み上げられた私を評する言葉の中には弁明せねばならぬようなギルティ(罪)は一切ない。健康はおろか生命にすら甚大な危険を及ぼす悪臭を放つ拘置所に、二ヶ月以上の拘禁を強いられた程度の事を我慢できぬという忍耐の美徳を欠く罪を除けばの話だが」

 

 彼は更に論じようとしたが、しかしこの時点で裁判長閣下が穏やかに、幾分悲しげな声で異議を差し挟んだ。

 

「よいかな。我々は一般的かつ通常通りの裁判を執り行わねばならぬ故、被告人の言をさえぎらねばならぬ。恐らく被告人は、裁判の形式について無知なのであろうな?」

 

「単に無知であるだけに留まらず、閣下、これまで無知であるのに大変満足していた。私は幸いにも、そのような知識とは無縁のままに過ごしてきたのだ」

 

 かすかな微笑が、ほんの一瞬、思いに沈んだ表情を照らした。

 

「信じよう。被告人答弁の段階で、被告人の主張は全て聞かれるであろう。しかし被告人の今の発言は形式に則っておらず、妥当ではない」

 

 その表面的な同情と思い遣りにうながされたブラッドは、それから後は要求された通りに、自分は神とその王国によって裁かれるであろうと答えた。判事補佐はそれに続けて、彼に良き救けをくださるようにと神に祈り、アンドリュー・ベインズに挙手して答弁を行うよう要求した。

 

 無罪を主張したベインズの次に、判事補佐はピットに確認を求めたが、大胆にもピットは己の有罪を認めた。裁判長はそれを受けて意気込んだ。

 

「うむ。よきかな」彼はそう言い、四人の緋色の同僚は頷いた。「もし皆が、この被告人の仲間である二人の謀反人と同様に頑固であったら、彼等の裁きはいつまでも終わらぬであろう」

 

 法廷中を震えあがらせた、その非人間的な冷たさで差し挾まれた言葉に続いて、ポレックスフェン氏は立ち上がった。おそろしく冗長に、彼は三人の男に共通の罪状を述べ、そして最初に起訴される予定となっているピーター・ブラッドのみに適用される罪状を述べた。

 

 国王側証人として召喚された唯一の目撃者は、ホバート大尉であった。彼は自分がギルドイ卿と、この三人の被告人を発見し捕縛した顛末をきびきびと証言した。連隊長の命令に従って、彼は即座にピットの首を吊っていたはずだが、しかしピットが貴族階級であり配慮の必要な人物であると信じるように仕向けたブラッド被告の嘘により抑止されたのだと。

 

 大尉が証言を終えた時、ジェフリーズ男爵は横目でピーター・ブラッドを見た。

 

「被告人ブラッドは証人に質問があるか?」

 

「否、閣下。彼は何が起こったかを正確に話した」

 

「被告人のような輩の常である言い逃れをせず、自ら罪を認めるのは喜ばしい事だ。そして私は、かように告げよう。法廷において、言い逃れには何の益もない。何故なら我々は常に、最終的には真実へと到るのであるから。それを肝に銘じるように」

 

 ベインズとピットが同じく大尉の証言の正確さを認めると、緋をまとった裁判長閣下は安堵の溜息を漏らした。

 

「これで我々は大いにはかどる。神の御名において、我々には成すべき事が数多くあるのだからな」彼の声音には、最早寛大さは跡形もなかった。情の感じられないきしむような声であり、それを発する唇は蔑みに歪んでいた。「ミスター・ポレックスフェン、この三名の悪徒の邪悪なる叛逆の罪は――当人が公の場でその罪を認めた事により――立証され、これ以上の審議は不要である」

 

 ピーター・ブラッドの声は歯切れよく響きわたり、その声音には半ば笑いが含まれているように思われた。

 

「畏れながら裁判長閣下に申し上げる、しかしながら、審議するべき事は未だ残っている」

 

 彼に目を向けた裁判長閣下はその図太さにあっけにとられ、それから次第にうっすらと怒りの表情を浮かべた。緋色の唇が苦々しげになり、その無慈悲な線は表情全体を変貌させた。

 

「この期に及んで如何にするつもりだ、悪徒よ?無駄な言い逃れで我々の時間を浪費するつもりか?」

 

「私には閣下が先程お約束くださったように、陪審諸君にお聞かせすべき被告人答弁における主張がある」

 

「ほう、では申すがよい、悪党め。申すがよい」裁判長閣下の声は鑢(やすり)のようにざらついていた。話しながら彼は身をよじり、一瞬、その容貌が歪んだ。青い静脈が浮いた繊細な青白い手で、彼はハンカチーフを唇に、次に額に当てた。ピーター・ブラッドは医者の目で観察し、男爵を破壊しつつある病の痛みが彼を苛んでいると判断した。「では申すがよい。しかしあの自白の後に、一体何の被告人答弁が残されているというのだ?」

 

「御自身で審判なされよ、閣下」

 

「私がここに座っているのは、その為にだ」

 

「そして貴方達もそうするべきだ、紳士諸君」ブラッドは判事達から陪審達へと視線をめぐらした。後者は彼の青い瞳の自信に満ちた閃きを受け、落ち着かなげになった。ジェフリーズ男爵による虐待に等しい告発は、既に彼等の意気をくじいていた。彼等自身が叛逆罪で起訴された被告人のようなものであり、男爵は既にこれ以上はないというほどの苛烈さで、彼等の罪を責め立てていた。

 

 ピーター・ブラッドは、不適に、図太く、背筋を伸ばし、沈着に、そしてむっつりと立っていた。彼は綺麗に髭をそり、そしてカールは落ちていたものの慎重に梳いた鬘(かつら)を着けていた。

 

「ホバート大尉は彼の知る処を――彼がウェストンでの戦闘後、月曜の朝にオグルソープの農場で私を発見した事を証言した。しかし彼は、私がそこで何をしていたかについては話さなかった」

 

 再び裁判長は口を挟んだ。「ほう、被告人は一体、謀反人一味と共に何をしていたというのだ、そのうちの二名――ギルドイ卿と、ここにいるもう一人――は既に自らの罪を認めているのだぞ?」

 

「それが、私が閣下に発言の許可を求めている事だ」

 

「何なりと申すがよかろう。そして主の御名において、願わくば手短に。やれやれ。被告人のような叛逆者の犬どもめの発言権の事で一々煩わされていたら、私は春期の巡回裁判までここに座り続けねばならぬだろうからな」

 

「裁判長閣下、私は私の職業である医者として、ギルドイ卿の傷を治療する為にそこにいたのだ」

 

「何だと?被告人は我々に、自分が医者であると主張しているのか?」

 

「ダブリンのトリニティー・カレッジの卒業生だ」

 

「これは驚いた!」ジェフリーズ男爵は突然声を高め、陪審席に視線を送りつつ叫んだ。「なんと厚かましい悪党もいたものだ!目撃者は数年前にタンジールで被告人を見知っており、被告人がフランス軍所属の士官であったと証言した。陪審員諸君は、この被告人が証人の発言は真実であると認めるた言葉を既に聞かれたであろうか?」

 

「そう、彼はそう証言した。だがしかし、私が話している事は同じく真実だ。それはこういう次第だ。数年の間、私は軍人であった。しかしそれ以前の私は医者であり、そして私は昨年の一月から再び医者に戻り、ブリッジウォーターで開業したのだ。それについては、百人の目撃者を連れてきて証言させる事も可能だ」

 

「そのような事で我々の時間を浪費する必要はない。被告人は、その卑しい口によって自らに有罪を宜告した。私が被告人に尋ねるのは只一つ、ブリッジウォーターの町で平穏に医者として暮らしているはずの者が、一体どのような次第でモンマス公爵の軍と共にいたのだ?」

 

「私はモンマス軍とは無関係だったのだ。証人はその点を供述しなかったが、私は証人が言わぬであろう事をあえて宣誓証言する。私はあの謀反には一切与してはいない。私はあの冒険を邪悪な狂気と見なしていた。私は閣下に尋ねたい」(彼のアイルランド訛りは一層強調された)「パピスト(旧教徒)として生まれ育った私が、プロテスタント(新教徒)の擁護者の軍で何をしていたというのか?」

 

「汝がパピストであると?」裁判官は一瞬、表情を曇らせた。「むしろ女々しいジャック・プレスビテル(長老教会派信徒)[註8]のように見えるがな。よいか、私はな、プレスビテリアン(長老教会派)の臭いならば40マイル先からでもわかるのだ」

 

「では、閣下がその鋭い鼻をもってしても四歩先のパピストの臭いを嗅ぎわけられぬ事に対して、驚愕する許しをいただきたい」

 

 傍聴席に笑いのさざ波が起きたが、裁判長の凄まじいひとにらみと廷吏の声によって、直ちに鎮められた。

 

 ジェフリーズ男爵は机上へ更に身を乗り出した。彼はハンカチーフをきつく握ったまま、レースの泡から生えたように繊細な白い手を上げた。

 

「差し当たり、汝の信仰については置くとしよう」彼は言った。「だが、心せよ」威嚇するような人差し指が彼の言葉のリズムをとった。「覚えておくがいい、人を欺く為に偽りの主張をする事を許す信仰はない。汝は貴重な不滅の魂を持ち、それと等しい価値を有するものは、この世の何処にもない。天上と地上の偉大なる神を思うのだ、汝と我々と全ての人々が、最後の日にどなたに裁かれるのか、汝は全ての偽りの報いを受けるであろう、そして永遠の炎の中で正義の一撃が汝を打ち、汝が全ての真実を包み隠さず話し、そして真実以外の何も話さぬと申し出ぬ限り、汝は地獄の業火の中に落とされるであろう。汝にその理由を告げよう、それは神に偽りはないからだ。その上で、私は被告人に正直に答えるように命じる。どのような次第で、この叛逆者達と行動を共にした?」

 

 ピーター・ブラッドは驚きのあまり、一瞬、呆然と彼を見つめた。この男は信じ難くも現実離れした、誇大妄想的な悪夢の裁判官だった。それから彼は返答の為に己を取り戻した。

 

「その朝、私はギルドイ卿を救助する目的で呼び出され、それに応じる事が己に課された職業上の義務であると考えた」

 

「それで、応じたと?」裁判長は、今や恐ろしい様相――その顔は白く、その歪んだ唇は彼が求めてやまぬ血のように赤かった――で、邪悪な嘲りを込めてブラッドをにらみつけた。それから自制をしたが、あたかも大層な努力の末のような様子であった。彼は溜息をついた。裁判長は穏やかで物悲しい調子に立ち戻った。「主よ!何たる時間の浪費か。だが私は忍耐し、被告人に付き合おう。被告人を呼び出したのは何者か?」

 

「ピットだ、彼が証言するだろう」

 

「ほう!ピットが証言すると――自身が叛逆者であると自白したピットがな。その目撃者は?」

 

「同じく、ここにいるベインズが答えるだろう」

 

「善良なるベインズは、何よりもまず、自分自身の為に供述せねばならぬであろう。彼が己の首を絞首刑から救うのは大変な難事であろうが。いい加減にせよ。被告人の目撃者は彼等のみか?」

 

「あの朝、私がピットの馬の後ろに乗るのを見た、ブリッジウォーターの住民達を連れてくる事もできる」

 

 ジェフリーズ男爵は微笑した。「それは必要なかろう。よいか、私はこれ以上の時間を浪費するつもりはない。ただこの問いに答えよ。被告人があくまでも言い立てる通りに、ピットが被告人を呼ぶ為にやってきたとして、その時、ピットの自白によって確認されたように、被告人は彼がモンマスの支持者であった事を承知していたか?」

 

「私は承知していた」

 

「被告人は承知の上と!ほう!」ジェフリーズ男爵は、すくみ上がっている陪審に目をやると、短い、突き刺すような笑いを発した。「それにもかかわらず、被告人は彼に同行したと?」

 

「負傷したひとりの人間を救助する為に、己の神聖なる義務としてだ」

 

「汝の神聖なる義務、そう申すか?」突如として再び彼の憤激が燃え上がった。「神よ!蝮(まむし)の裔(すえ)[註9]のはびこる世である事よ!汝の神聖なる義務とはな、悪漢よ、それは汝の王と神に対するものだ。だがそれは置こう。彼が被告人に救助を望むと告げたのは、誰であったか?」

 

「ギルドイ卿――そうだ」

 

「そして被告人は、ギルドイ卿が戦いで傷を負った事を、そして彼がどちらの側で戦ったかをも承知していたか?」

 

「知っていた」

 

「そして被告人は、自らが国王陛下の正真にして忠実なる臣民であるかのように主張するにも拘わらず、彼を救助する為に向かったのか?」

 

 ピーター・ブラッドは一瞬、自制を失った。「私の務めは、閣下、彼の政治信条に対してではなく、彼の傷に対するものだ」

 

 傍聴人席から、そして陪審席からも、彼に賛同するざわめきが起こった。それは恐ろしい裁判官を余計に激怒させたに過ぎなかった。

 

「イエスよ!この世に汝ほど恥を知らぬ悪党がいるであろうか?」彼は陪審に向けた白い顔を勢いよくめぐらせた。「陪審の紳士諸君、願わくば、この叛逆者である悪徒の恐るべき態度を心に留め、そして同時にこの種の者達の精神が如何に邪悪にして非道なるものであるかを感得していただきたい。被告人は己の口から、十二回の絞首刑を宣告されるに値する証言を行った。その上に、尚も追求すべき事がある。答えよ。もう一人の叛逆者ピットの身分についての嘘によりホバート大尉を欺いた時、被告人は一体、何の権利があって干渉したのか?」

 

「裁判なしで彼が首を吊られる恐れがあった為、それを防ごうとしたのだ」

 

「彼のような悪党が首を吊られたとて、被告人に何の関わりがあるというのだ?」

 

「正義は全ての忠実なる臣民の関心事だ。何故ならば、王の信任を受けた者によって犯された不正義は、王の威厳をいささかなりと汚すからだ」

 

 それは陪審に向けられた鋭く痛烈な一撃であり、そしてそれは、筆者が思うに、この男の知性の鋭敏さ、大いなる危険が迫り来る瞬間にあっても揺らぐ事なき冷静さを示すものであった。相手がどのような陪審であろうとも、全ての者が彼の意図した通りの印象を受けたはずだ。それは、この哀れで臆病な羊達に対してすら有効であったかもしれない。しかしドレッド・ジャッジ(恐怖の裁判官)の存在がそれを打ち消した。

 

 彼は大きくあえぎ、それから荒々しく身を乗り出した。

 

「天上の主よ!」彼は激発した。「これほどまでに偽善的で厚顔な悪党が、未だかつて存在したであろうか?だが逃しはしない。私には見えるぞ、悪党め、私には汝の首に縄が巻かれた姿が見えるのだ」

 

 そう語ると邪悪にほくそ笑み、彼は再び椅子に背を預けて落ち着きを取り戻した。それはさながら幕が下りたかのようであった。全ての感情が彼の青白い顔から再び消え去った。穏やかな憂愁が再び彼を覆った。一瞬の間を置いて語り出した彼の声は柔らかく、優しいとすら言えるものであったが、それでも彼の発する一言一句は静かな法廷に鋭く響いた。

 

「私個人の感情について言えば、そもそも私は人を苦しめる事を楽しんだり、ましてや、その者が地獄で永遠の罰を受けるのを歓喜するような性質ではない。私がこのように言葉を尽くしたのは、被告人に対する深い思い遣りが故だ――被告人が自らの不滅の魂について懸念するようにうながし、頑強にも偽りと言い逃れに固執する事によって天罰が下されるのを確かにしてはならぬと悟らせる為であった。しかし被告人に対するあらゆる骨折りは尽くされ、慈悲と慈愛は尽き果てた。それ故に、私には最早、被告人にかける言葉はない」彼は再び、物思わしげな美貌を陪審に向けた。「紳士諸君、私は法の名において、一個人としてではなく、裁判官としての諸君等に告げねばならない。もしある者が国王陛下に対する謀反に加わっているとすれば、もう一人の者――実際には謀反に加担していない者――がそれを承知の上で受け入れ、匿い、慰め、あるいは彼に対する援助を与えた場合、そのような者は実際に武器を携えた者と何ら変わりない叛逆者である。我々は、諸君等に如何なる法が適用されるべきかを示すにあたって、我々の宣誓と良心とに拘束されている。そして諸君等は、我々に諸君等の評決を答申し、事実により証明された真実を述べるにあたって、諸君等の宣誓と良心とに拘束されている」

 

 そのように告げた上で彼は説示に進み、第一に謀反人を匿った事実によって、第二にその傷を治療し謀反人を助けた事実によって、ベインズとブラッドが両者共に叛逆の罪を犯しているという概要を述べた。彼はそれに、正統なる君主にして正当なる統治者、神に定められし国王に対するへつらうような言辞と、非国教徒と――彼自身の言葉によれば――王位継承のより正統な権利である嫡出の詐称という、この王国において最も卑劣なる主張を厚顔にも行ったモンマスに対する罵詈雑言を織り交ぜて演説した。「イエスよ!このような蝮(まむし)の裔(すえ)が我等の間にはびこる事を、決して許すべきではない」彼は突然、粉飾された表現に熱狂し大声を発した。それから自分の発揮した狂暴性によって消耗したかのように椅子の背に沈んだ。一瞬、彼は動きを止め、再び唇を押さえた。それから不快な様子で身じろぎをした。またしても彼は痛みに顔を歪ませ、何度かうなり声を上げ、ほとんどしどろもどろな言葉によって、評決を検討する為に陪審を下がらせた。

 

 ピーター・ブラッドは、過激に冒涜的で、ほとんど猥褻な罵りというべき長広舌を超然とした態度で聞いていたが、その言葉が彼を驚かせたのは、後になって思い返した際であった。彼はその男に、その男の心と身体の間で起きている反応に、そして陪審を脅しつけ抑圧して流血を強制するやり口に呆然としており、自分の命が危機に瀕している事すら失念していたのであった。

 

 その判断力を奪われた陪審員達の不在は短いものだった。評決は、三名の被告人全員が有罪。ピーター・ブラッドは、緋色に飾られた法廷を見回した。束の間、白い顔の泡沫が眼前をうねるように感じた。それから我に返った彼は、大逆罪で有罪となり宜告された死刑を免れる為に、何か申し開きがあるかと尋ねる声を知覚した。

 

 彼は笑った。そして彼の笑いは、法廷の死のごとき静寂の中で奇妙に耳障りに響いた。何もかもが、あまりにグロテスクだった。このような正義のまがい物が、物思わしげな目をして緋衣をまとったジャック・プディング(道化)によって、彼自身がまがい物――残忍で陰湿な執念深い王の腐敗した手先――であるような男によって執り行なわれているとは。彼の笑いは、そのジャック・プディングの厳粛を揺るがす衝撃を与えた。

 

「笑うのか、下郎めが。貴様は首にロープをかけて、突として行く事になった常世の入口に立っているのだぞ?」

 

 ブラッドは報復した。

 

「疑いなく、私の置かれた境遇は閣下のそれより笑うにふさわしいものだからな。何故ならば、私には閣下が判決を下す前に言うべき事がある。閣下の御目には、私――その唯一の罪が慈善を行ったという事だけの潔白な男――が首の周りにロープを巻いた男に見えているようだ。閣下、貴方は裁判長として、私の身にこれから起こる事をお話しになられた。私は医者として、閣下の御身にこれから起こるであろう事をお話ししよう。そして私は、自分の境遇と閣下のそれとを交換するのは御免こうむると申し上げる――閣下が私の首に巻きつけたこの縄と、閣下が御自分の御体の中に入れている石とを交換するのは御免こうむると。閣下が私に運命づけた死は、首席判事であらせられる閣下が自らに運命づけた死に比べれば、陽気な別れの辞のようなものだ」

 

 灰色の顔をし、唇をひきつらせて、裁判長閣下は硬直したように座していた。そしてピーター・ブラッドが話を終えた後、十数えるほどの間、その麻痺した法廷には物音ひとつしなかった。ジェフリーズ男爵を知る全ての者が、これを嵐の前の静けさと見なして激発に備え身を引き締めた。しかし何も起こらなかった。

 

 ゆっくりと、かすかに、その灰色の顔に血色が戻っていった。緋をまとった身体は剛性を失い、前傾した。裁判長閣下は話し始めた。抑えられた声で、そして手短かに――このような場合における彼の常よりもはるかに手短かに、そして唇が語る間にも思いは別の処にあるような、完全に機械的な調子で――ピーター・ブラッドの発言については一切触れず、彼は形式通りに死罪を宣告した。それを宣告すると、彼は疲れ切った背を椅子に沈めた。彼は半ば目を閉じ、その額には汗が光っていた。、

 

 囚人達は列をなして退出した。

 

 ポレックスフェン氏――裁判の進行を担当する法曹という立場にありながら、心底ではホイッグである人物――は、陪審員の一人が同輩の法曹に耳打ちするのを聞いた。

 

「たまげたね、あの浅黒いならず者は閣下を脅えさせた。ああいう男が首を吊られねばならんとは残念だな。ジェフリーズを震え上がらせる事ができるような男なら、さぞ大物になっただろうに」

 

 

 

 

[註1]:ピーター・ミューズ(1619年 - 1706年)

神学者、聖職者。クロムウェル時代も王党派としてスチュアート王家の為に活動し、王政復古後はオックスフォード大学長や各地の高位聖職を歴任する。モンマスの乱当時はウィンチェスター大司教。

 

[註2]:当時の英国では重罪人は処刑後に見せしめの為に死体を街道にさらされたのだが、その際にはコールタールを塗って腐敗防止処理をしていた。

 

[註3]:旧約聖書にある、ユダヤ人(シオンの子ら)のバビロン捕囚からの開放と神殿再建の故事より。

 

[註4]:フォード・グレイ(1655年 - 1701年)

第三代ヴェルケ男爵。ライハウス陰謀事件に関与しロンドン塔に幽閉されたが、脱出。その後モンマスの乱の指導者の一人となるが、敗走後は同志達を国王側に売って生き延びた上に1686年6月には地位も回復した。モンマスの乱当時は男爵だったが、ウィリアム王の治世中には国家の重職に就き、初代グレンデール子爵及び初代タンカービル伯爵の位を得た。

 

[註5]:巡回裁判は中央の国王裁判所から派遣された裁判官による臨時裁判であり、「王座裁判所」「民訴裁判所」「財務裁判所」及び上級法廷弁護士から選ばれた裁判官が地方を巡回する。

 

[註6]:ヴェム男爵ジョージ・ジェフリーズ(1645年 - 1689年)

通称「首吊り判事」。1683年に高等法院首席判事(最高裁判所長官に相当)となり、ライハウス陰謀事件や、カトリック陰謀事件沈静化後に行われたタイタス・オーツの偽証罪に関する裁判を担当した。

ジェームズⅡ世の即位後、モンマスの乱の戦後処理において、主犯・従犯を問わず、裁判の体を成さない裁判で夥しい人民を死罪や南洋送りに処した苛烈な「Bloody Assizes(血の巡回裁判)」によって英国史に名を留めている。彼自身はプロテスタントだった。1685年に大法官の地位に就くが、名誉革命により失脚、暴徒からの保護を求めて自らロンドン塔への拘留を希望し、獄中で死亡。死因は腎臓病。

 

[註7]:ヘンリー・ポレックスフェン(1632年 - 1691年)

イングランドの上級法廷弁護士、インナー・テンプル(法曹院)幹部員。カトリック陰謀事件ではダンビー伯の弁護人を担当し、様々な政治的重要事件において法律顧問を務めた。ジェームズⅡ世の逃亡後、イングランドに上陸したオレンジ公ウィリアムが王位宣言する際に法的な裏付けを与えて貢献し、ナイト爵に叙された。英国の根本法「権利の章典」作成にも関わっている。

 

[註8]:プロテスタントの一派であり、カルヴァンの理想に従い、司祭を置かず信徒の長老と牧師によって教会を運営する長老制をとる。

 

[註9]:新約聖書マタイによる福音書23章より。「蛇よ、蝮の裔よ、汝等いかでゲヘナの刑罰を避け得んや。」


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Ⅳ. 奴隷市

 ポレックスフェン氏は正しくもあり、同時に間違ってもいた――大抵の人間が思い描くよりも、はるかに有りふれた状況にあった。

 

  偏りのない明確な思索の下では、彼は正しかった。すなわち、その物腰と言葉によってジェフリーズのような恐怖の権化を怯ませる事ができる男には、その天与の器量に任せて、己自身を材料として大いなる運命を築き上げるのを可能にすべきであろう、という考えである。固定観念の下では、彼は――理には適っているのだが――間違っていた。すなわち、ピーター・ブラッドは絞首刑に処さねばならぬ、という前提である。

 

 既に記したが、オグルソープ農園への救難行の結果として彼に訪れた苦難には――未だ彼はそれを認知してはいなかったろうが――二つの幸運が含まれていた。一つは彼が裁判にかけられた事自体。もう一つは、彼の裁判が9月19日に行われたという事にあった。18日までに巡回国王裁判で下された判決は、文字通り、かつ迅速に執行されていた。しかし19日の朝、ジェフリーズ男爵宛の書状を携えた国務長官サンダーランド伯[註1]の急使がトーントンに到着し、その書状には、一千百人の叛徒を王の南海プランテーションがあるジャマイカ、バルバドス、もしくはリーウォード諸島のいずれかに労働力を供給する為に流刑にするべし、という畏れ多くも有難い陛下の御意が記されていた。

 

 この君命は勿論、慈悲心に基づいて下されたものではない。チャーチル男爵[註2]は、大理石像に負けず劣らず無情な国王陛下の思し召しを伝えたに過ぎない。一連の大規模な絞首刑の執行が、貴重な有価物の著しい浪費である事は既に認識されていた。プランテーションでは奴隷が緊急に必要とされており、健康で頑強な男には少なくとも10ポンドから15ポンドの価値があるはずだった。そして宮廷には、陛下に対する奉仕に対して何がしかの報奨を求める多くの紳士達がいた。ここに、そのような要求を片付ける為の元手のかからぬお手軽な方法があった。有罪判決を受けた謀反人の一部をその紳士達に下げ渡し、彼等がそれを売り払って利益とすればよいのだ。

 

 サンダーランド伯の書状は、人肉に関する国王の気前良さを詳細に記録している。千人の叛徒が約八人の廷臣達の間で分配されるように、更に追伸には、それとは別に百人以上を王妃の為に確保するよう求めた指示もあった。この囚人達は、直ちに英国王のプランテーションに送られる予定となっており、速やかに現地への輸送が遂行され、各々が割り当てられた場所に無事入るのが確認されて後、十年間をその地で刑に服す事になっていた。

 

 ジェフリーズ男爵の秘書が残した資料には、かの首席判事が酔いに任せた狂乱から、この夜、陛下が説き伏せられてしまった筋違いな温情処置に対して如何に激しく立腹したが記されている。王がその決定を再考するようにと、彼が手紙によってうながしたのも後世に伝わっている。しかしジェームズ王は己の決定に固執した。これは如何にも彼にふさわしい、大きな価値――彼がそれから得る間接的利益を別として――のある温情処置であった。このような形での助命は、囚人達にとっては死が生き地獄に替えられたに過ぎない事を彼は知っていた。多くの者が西インド諸島で送る奴隷生活の悲惨な境遇の中で苦しみに斃れるであろうし、それすら生き残った仲間にとっては羨望の的となるだろう。

 

 かくしてピーター・ブラッド、ジェレミー・ピット、アンドリュー・ベインズは、判決文に記された通りに首を吊られて四肢を裂かれる代わりに、ブリストルに運ばれて約五十人の他の囚人達と共にジャマイカ商人の船に乗せられる事となった。ハッチ(船倉口)の下での密集した監禁、栄養不良と汚れた水により病が発生し、十一人が死んだ。その中には、ただ慈悲に従って行動したという罪により、かぐわしい香りの林檎園に囲まれた静かな住まいから暴力によって無理やり引き離された、オグルソープの不運なヨーマン(農園主)も含まれていた。

 

 囚人達の死亡率は、ピーター・ブラッドの存在がなければ更に高かったかもしれない。当初、このような扱いによって人々をいたずらに死なせている事に対するブラッドのいさめと、彼に薬箱を使わせ病人の世話をする時間を与えるようにという主張に対して、ジャマイカ商船の船長は罵りと脅しで応じた。だが商品である奴隷達のあまりにも多大な損失により、自分が責任を追及されるかもしれないと思い至ったキャプテン・ガードナーは、遅まきながらピーター・ブラッドの技能に頼る事にした。ブラッド医師は喜び勇んで仕事にとりかかり、その巧みな看護と囚人達の環境改善によって病気の蔓延を食い止めた。

 

 十二月の半ば近く、ジャマイカ商人はカーライル湾に錨を下ろして、四十二人の生き残った謀反人達を上陸させた。

 

 この不運な囚人達が、自分は未開の蛮地に送られるのであろうと想像していたのならば――彼等の大部分がそう思っていたであろうが――彼等が舷側に待機中のボートに慌ただしく押し込まれる前にちらりと見た光景だけで、その先入観を修正するには充分であった。彼等が目にしたのは、西洋の建築様式の家々で構成されているが、ヨーロッパの都市で当たり前に見られるような乱雑さのない、充分に立派な規模の町だった。教会の尖塔は赤い屋根の上に他を圧するようにそびえ、狭間から砲口を突き出した要塞が広い港の入口を護り、そして、この町を見下ろすゆるやかな丘上に建つ総督官邸が君臨するように広大な姿を表していた。この丘はイングランドの四月の丘のように鮮やかな緑であり、激しい雨季が終わったばかりのこの日は、イングランドの四月の日の様であった。

 

 海に面した石畳の広場には、自分達を引き取る為に整列している赤いコートを着た民兵の姿が見え、そして集まってきた――彼等の到着を見物しようと出てきた――群衆は、女性が少なめで多数の黒人が含まれている事を除けば、服装も物腰も自国の港の群集と大差ないのが見て取れた。

 

 防波堤に並ばされた彼等を検分する為にやってきたスティード総督は、短躯で恰幅の良い、赤ら顔の紳士であり、夥しい金のレース飾りで重たくなった青いタフタの服をまとい、少し足を引きずって、頑丈な黒檀の杖に寄りかかっていた。その後ろを、バルバドス民兵隊大佐の制服を身に着けた背が高く肉付きの良い男が、体を揺すぶるようにして歩いていたが、総督より頭一つは高い位置にある、その男の大きな黄ばんだ顔には、むき出しの悪意が浮かんでいた。その側に、彼の粗野とは奇妙に対照的な、肩肘を張らぬ若々しく優雅な身ごなしで、流行の乗馬服を着たほっそりとした若い婦人がやってきた。緋色の弧を描く駝鳥の羽飾りが付いた、灰色の帽子の広いつばが卵形の顔に陰を落としていた。北回帰線の気候が影響を残していないその顔は、非常に繊細な白さであった。彼女の肩には赤茶色の巻き毛が掛かっていた。大きく見開かれたハシバミ色の瞳には率直さが表れており、常ならば彼女のみずみずしく若い口もとに宿っているはずの茶目っ気は、今は同情心によって抑圧されていた。

 

 ピーター・ブラッドは、 ある種の驚きと共に、このような場所にはひどく場違いに思える清々しい顔を、我知らず凝視していた。そして自分が彼女に見つめ返されているのに気づいて居心地の悪い気分になった。彼は自分の惨めな姿を意識して、いたたまれなくなった。何日も洗っていない悪臭を放つもつれた髪と見苦しい黒い顎鬚、もとは素晴らしかった黒いキャムレット織の上下は、虜囚となった今はぼろぼろになり案山子も恥らう有様で、彼はあのような優美なな目に見つめられるにふさわしい状態ではなかった。にもかかわらず、その見開かれた目は、ほとんど子供のような驚きと哀れみで彼を見つめ続けた。その瞳の主が同伴者の緋色の袖に触れる為に手を伸べると、男は不機嫌そうにぶつくさ言いながら、大きな太鼓腹を揺すぶり彼女と向き合った。

 

 その女性は彼を見上げて懸命に話しかけていたが、大佐は明らかに彼女の話をろくに聞いてはいなかった。垂れ下がった肉付きの良い鼻を挟んで狭い間隔で並んでいる、邪気を含んだ小さな両眼は、彼女の上を素通りして、ブラッドの横に立つ頑丈な金髪のピット青年に視線を定めた。

 

 総督も同様に足を止めると、しばしの間、その三人は立ち話をしていた。彼女が声を低めた為に、ピーターにはそのレディの言葉が全く聞き取れなかった。彼の許まで届いた大佐のどら声は不明瞭であった。だが総督の方は、声を落とすような気遣いもなければ不明瞭さもなかった。自分が機知に富むと信じ込んでか、彼は持ち前のかん高い声を、その場の全員に聞こえるように響かせた。

 

「とはいえ、我が親愛なるビショップ大佐。まずは君が、この可憐な小さな花束から、自身の値付けで最初の者を選ぶべきだな。その後に残りを競りに送ろうではないか」

 

 ビショップ大佐は頷いた。彼は返答の為に声を張り上げた。「大変結構ですな、閣下。しかし残念ながら、こやつ等はひ弱そうで、プランテーションでは大した働きをしそうにない」底意地の悪い小さな両目が再び囚人達に視線を走らせると、彼等に対する蔑みによって、その顔に浮かぶ悪意は深まった。それは彼等がもっと良好な状態ではない事に苛立っているようであった。それから彼はジャマイカ商人の代表であるキャプテン・ガードナーに、こちらに来るように合図し、そしてしばしの間、彼の要請により作成されたリストを見ながら、ガードナーと共に立ち話をした。

 

 リストを払いのけると大佐は叛逆流刑囚達に歩み寄り、彼等を凝視し唇をすぼめていた。サマセットシャーの若い航海士の前で足を止めると、大佐は彼を品定めする間留まった。それから彼は若者の腕の筋肉を指で触り、それから歯を点検する為に口を開くよう命じた。彼は再び粗野な唇をすぼめ、そして頷いた。

 

 彼は肩越しにガードナーへ話しかけた。

 

「こいつを15ポンドで」

 

 船長は狼狽の表情になった。「15ポンド!そりゃアタシがこいつに付けた値段の半分にもなりませんよ」

 

「それは私が支払うつもりでいた値段の倍だ」大佐は不興げに言った。

 

「しかしこいつは安くても30ポンドはするはずですよ、大佐」

 

「その値段ならば黒人奴隷を買える。こういう白豚は長生きしないものだ。こやつ等は重労働に耐えられんからな」

 

 ガードナーはピットの健康、若さと活力を言い立てた。彼が論じているのは人間についてではなかった。家畜についてであった。繊細な若者であるピットは、無言のまま身じろぎひとつしなかった。ただ頬の紅潮だけが、自制を保つ為の内心の努力を示していた。

 

 ピーター・ブラッドは、忌まわしい値切りの押し問答に吐き気を催した。

 

 その背後で、囚人達の列に沿ってゆっくりと歩きながら、あのレディが総督と何やら会話を交わしていた。総督は自慢たらしく得意げな笑みを浮かべ、片足を引きずりつつ彼女の横を歩いていた。彼女は大佐が行っている、不快極まりない取引を意識していないようだった。彼女は関心がないのだろうか?ブラッドはいぶかしんだ。

 

 ビショップ大佐は次に進む為に踵を返した。

 

「20ポンドまでは支払う。それ以上は1ペニーたりとも出さんが、それでもお前がクラブストンからせしめられる金の倍になるはずだ」

 

 話を打ち切る意向を察したキャプテン・ガードナーは、溜息をついて屈服した。ビショップは既に列の先に進んでいた。ブラッドに対しては、その隣のひ弱な青年と同様に、大佐は蔑みを込めた一瞥しか与えなかった。しかし次の男、セッジムーアで片目を失った、ウォルヴァーストンという名の中年の巨漢が大佐の興味を引き、再び値段交渉が始まった。

 

 ピーター・ブラッドは明るい陽射しの下に立ち、芳しい香りの空気を吸い込んだが、それは彼が今までに呼吸した事のある、どんな空気とも異なっていた。それはログウッドの花とピメント、そして杉の芳香の入り混じった、奇妙な香気で満たされていた。彼はその風変わりな芳香に誘われた埒もない思索に我を忘れた。ブラッドは会話をする気分ではなく、その側に無言で立つピットもまた同様であった。ピットは、これまでの苦難の数ヶ月を共に助け合ってきた、既にその指導に心酔し、生命の維持を頼るまでになっていたこの男から、遂に引き離されようとしているのだと思い悩んでいた。全身に染み渡る孤独と苦痛の感覚は、それに比べれば今まで耐えてきた全てが取るに足らぬ事のようにすら思えた。ピットにとって、この別れは彼に課されたあらゆる苦難の痛烈なるクライマックスであった。

 

 他の買い手達がやってきて、囚人達を品定めしては通り過ぎていった。ブラッドは彼等に注意を払わなかった。買い手達は列の終端まで進んだ。ガードナーは、ビショップ大佐が奴隷を選び終えるまで待っていた大勢の買い手達に向けて、売り込み口上をがなり立てていた。彼の番が終わった時、対面に目をやったブラッドは、あの少女がビショップと話しながら、手にした銀柄の鞭で列を指し示しているのに気づいた。ビショップは彼女が指す方向を見る為に手庇(てびさし)を作った。それからゆっくりと、巨体を揺すぶりながら、彼はガードナーを伴い、あのレディと総督を従えて再び歩み寄ってきた。

 

 一同は、大佐がブラッドの真横にくる位置まで進んだ。大佐はそのまま通り過ぎようとしたが、あのレディが鞭でその腕を叩いた。

 

「私が言ったのは、この人の事よ」彼女は告げた。

 

「こいつか?」嘲るような口調だった。ピーター・ブラッドは、ダンプリング(茹で団子)の中に沈んだ干し葡萄のような、黄ばんだ肉付きの良い顔の中に食い込んだ、一対のビーズに似た茶色い目をいつの間にか見入っていた。彼はその蔑みが込められた品定めの恥辱により、徐々に顔に血が上るのを感じた。「ふん!骨と皮じゃないか。何に使えるというんだ?」

 

 彼が背を向けようとした時、ガードナーが口を挟んできた。

 

「こいつは痩せてるかもしれませんが、タフですぜ。タフで健康だ。こいつ等の半分が病気になって、もう半分も病気になりかかってた時、この罪人はぴんしゃんしたまんまで、仲間の治療をしたんですよ。こいつがいなけりゃ、もっと沢山がくたばってたはずでさぁ。15ポンドで如何ですかね、大佐。お買い得ですよ。こいつはタフですぜ、閣下――痩せちゃいますが、タフで強い。それに、この暑さにだって耐えられますよ。ここの気候くらいじゃ死にやしません」

 

 スティード総督はクスクス笑った。「聞いたかね、大佐。姪御さんを信用したまえ。女というのは、男の品定めの仕方をよく心得ているものだ」そして彼は自分の機知に満足して笑った。

 

 しかし笑ったのは彼ひとりだった。大佐の姪の顔には苛立ちの影がよぎり、大佐はといえば、総督のユーモアに注意を払うには、この取引の検討に熱中し過ぎていた。彼はやや唇を歪め、しばし顎を撫でていた。ジェレミー・ピットは、ほとんど息をするのを忘れていた。

 

「こいつに10ポンド支払おう」ようやく大佐が言った。

 

 ピーター・ブラッドは、この申し出が拒絶される事を祈った。理由を説明しようにも、自分がこの粗野な獣(けだもの)の所有物に、そしてあのハシバミ色の目をした若い娘のある種の所有物になるのだという考えに、猛烈な嫌悪を感じたからとしか言えないのだが。しかし彼をその運命から救うには、嫌悪以上のものが必要だった。奴隷は奴隷であり、自分の運命を定める力を持ってはいない。ピーター・ブラッドは10ポンドという不名誉な金額で、ビショップ大佐――侮蔑的な買い手――に売り渡されたのである。

 

 

 

 

[註1]:第二代サンダーランド伯ロバート・スペンサー(1641年 - 1702年)

ジェームズⅡ世統治時代の北部担当国務大臣兼枢密院議長。ウィリアム王時代にもホイッグ党の纏め役として内政改革に手腕を発揮した。

 

[註2]:初代マールバラ公ジョン・チャーチル(1650年 - 1722年)

ヨーク公ジェームズ配下の軍人であり、ジェームズの即位後は男爵位を叙されてモンマスの乱鎮圧の任務にあたった。セッジムーアの戦いにおける国王軍の圧勝は主にチャーチルの功績と言われている。名誉革命の際にはジェームズ王を裏切りオレンジ公ウィリアムを擁立し、マールバラ伯爵に叙された上に新体制では枢密顧問官に任ぜられた。スペイン継承戦争においてイングランド陸軍最高司令官兼同盟軍最高総司令官として数々の軍功を立て、マールバラ公爵に陞爵(しょうしゃく)された。

 

第二代サンダーランド伯ロバート・スペンサーの孫チャールズと初代マールバラ公ジョン・チャーチルの娘アンの結婚により両家の血筋は結ばれた。この家系の末裔には英国首相ウィンストン・チャーチル(1874年 - 1965年)や元英国皇太子妃ダイアナ・スペンサー(1961年 - 1997年)がいる。



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