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── 目次 ──

注記) 本書は、無料です               【2012.07.04版】

1章 修行
     修行とは何か                      1,165文字
     修行の目的とは何か                    385文字
     修行において大事なこと                  591文字
     修行には終わりがある                   547文字
     修行が足りない?                     800文字

2章 修行の実践
     修行方法の紹介                       553文字
     観による修行の実践                  1,620文字
     公案を援用した修行の実践                 871文字
     念仏による修行の実践                    563文字
     経典を読む修行の実践                   885文字
     談論による修行の実践                 1,160文字
     省察による修行の実践                   653文字
     何もしないことが修行になることがある          548文字
     功徳を積むことがすなわち修行              821文字

3章 修行の注意
     修行者が陥りやすい落とし穴             1,085文字
     修行が修行でなくなってしまうとき            818文字
     修行が進まないように感じるときには          638文字
     誤った修行は地獄行きになる?             612文字

付録
     聖求について                      2,199文字
     三つの解脱                         628文字 

[更新履歴]

 2012年01月30日  第1版完成。
 2012年01月31日  2章に一節を加えた。 「念仏による修行の実践」
 2012年02月01日  1章-「修行には終わりがある」に加筆。
 2012年02月04日  1章に一節を追加した。 「修行が足りない?」
 2012年02月14日  付録に「三つの解脱」を追録した。
 2012年02月22日  全体的に拡充した。
 2012年07月04日  2章-「公案を援用した修行の実践」を拡充した。

はじめに

 釈尊がこの世に現れて覚り、仏となって、人々に覚りの道を説いた。それによれば、人は誰でも修行によって覚ることができ得ると言う。そして、それを達成したならば、一切の苦悩を終滅した無上の楽しみに住することができるとも言う。釈尊は、その境地をニルヴァーナと呼んだ。

 しかし、実際にその目的地に到達できなければ、どんな素晴らしい境地も絵空事に過ぎない。そこで、修行の具体的な方法が問われた。ところが、釈尊は覚りの修行法などと言うべき固定的な方法は存在しておらず、ただ正しく遍歴せよと説くだけである。これでは、修行者が何をどうしてよいか分からず途方に暮れるのも無理もない。

 ただし、如来の言葉に嘘いつわりはなかった。私は、実際に覚りの道を歩んで解脱を生じ、仏となって、釈尊が説くようにこの覚りの道には固定的な修行法など何一つ存在していないことを知ったからである。仏は、あればあると説き、無ければ無いと説くのである。

 ただ、ヒントはある。観によって覚りに近づくと説かれるからである。また、功徳を積むことによって解脱が起こるとも説かれる。そして、それが本当のことであることを私は身を以て知っている。私は観を為すことよって覚りに近づき、自ら積み上げた功徳によって確かに解脱したからである。

 本書は、いく冊かの前著に続き、『修行』についてその真実を明かしたものである。私(=SRKWブッダ)の実体験にもとづき、また細君(涼風尊者)の身に起こった一種不可思議なる解脱のありさまにもとづき、この本を書いた。

 こころある人は、本書を読んで円かなやすらぎを求める心を起こし、仏になる道、すなわち仏道を歩んでほしい。

修行とは何か

 修行とは、もちろん覚りを得るための修行のことである。人は、修行によって覚りに近づき、ついに覚るのである。

 しかしながら、これだけでは修行の本質が分からないであろう。以下に、説明を加えたい。

 修行とは、覚りの役に立つ行為の総体であり、それを為すことで覚りに近づき、また達することができるものである。ただし、修行は固定的なものではない。なんとなれば、同じように修行しても、心構え一つで正しい修行にもなれば、地獄へ落ちる悪行ともなるからである。そこで、さらに修行の詳細が問われることになる。

 さて、本来、心構えの正しさが修行に先立つべきものである。と言うのは、心構えが正しければ、何を為そうともそれらがすべて覚りに向けた修行となると信じられるからである。ある意味では、正しい心構えを持つために為し遂げるべきもの──それが修行だと言えなくもない。

 心構えについて説明するには、字が上手くなろうとして練習することが譬えになるであろう。このとき、心構えが正しければ、練習を重ねて達筆になり目的を達成することができる。しかし、心構えに問題があると、練習しても癖字になってしまうだろう。それどころか練習すればするほど癖字はひどくなるかも知れない。そして、一旦癖字になった人が達筆になろうと思っても、先ず癖字を直し、さらに心構え正しく練習を重ねて達筆にならなければならない。これは口で言うほど簡単なことではない。先だって癖字を直すのは、本当に大変なことだからである。

 そこで、いかにして最初から心構え正しくあるかが探究されるべきである。一体、何をどう点検すれば心構え正しきことが確証されるのであろうか。また、心構えに欠けるところがあることが分かったとき、それをどのようにして修正すればよいのであろうか。これらについて述べたい。

 心構え正しき人は、その根底の求めが正しい。根底の求めが邪だと、心構えは正しくならない。これが答えである。

 この根底の正しい求めを聖求しょうぐと呼ぶ。すなわち、聖求ある人はそのまま道を歩めば必ず覚りに達すると断言できるのである。──聖求の何たるかについては、付録を参照されたい。

 問題は聖求がない場合である。その場合には、聖求を抱くところから始めなければならない。そのためには、仏道についての疑惑を去らねばならない。疑惑を去るとは、覚りなど無いなどという誤った考えを正すことである。そのためには、善き人々に親近しんごんすることが具体的な方法として挙げられよう。出来るならば、仏や阿羅漢に親近するのがよい。解脱を果たした人の振る舞いを見て、解脱が本当のことで、ニルヴァーナが虚妄ならざるものであると微かにでも覚知したならば、疑惑を去ることができるであろうからである。

 それが出来ない環境であれば、──通常はそうであろうが──経典を読誦することが勧められる。聡明な人は、経典を読誦することによって聖求を培うことができるであろうからである。

 まとめておこう。

  『聖求あり、心構え正しき人が、すべて行為を修行と為す。』

修行の目的とは何か

   修行の目的とは何であろうか?』

 この問いには、次のように答えなければならない。

  『円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に近づき、達することが修行の目的である。』

 なぜこれが目的であるかと言えば、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)が人の究極の目的地であると知られるからである。ここに至れば苦悩がない。ここに至れば憂いがない。──からである。

 もし、これ以外の目的地があると言うならば、彼は人ではない。人ならば皆、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)こそが目的地だと知るからである。

 誰もがしあわせになりたい。誰もが楽しくありたい。誰もがくつろいでいたい。誰もがやさしくしてほしい。誰もがやさしくありたい。──と思うであろう。それらがすべて完全に達成されている境地がニルヴァーナに他ならない。それでニルヴァーナは最上の楽しみであり、最高のしあわせであると説かれる。


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