閉じる


<<最初から読む

5 / 8ページ

カヤ 2

 リビングに入ってまず、カヤはソファに座り込んだ
 動ける気がしない。
 今まで体を動かしていたエネルギーが全部抜き出てしまった心地がした。
 両手で自分の頬を挟んでみると熱を持っている。目元も震えて涙が滲み出てくる。ジュンヤには気付かれなかっただろうか。気付かれていないわけはない。だがどう思われただろうか。
 まさかジュンヤの方からうちに来ると行ってくれるとは。
 カヤはそのことばかり何度も反芻して今でも他のことを考えられなかった。思い返す度に頬が緩む。二階の自分の部屋に待たせているのだから早くお茶を入れて向かうべきなのに体が言うことを聞かず、ソファに持たせかけた背中を起こす方法さえ忘れてしまったようだった。
 それなのに、リビングのドアノブを回す音に体が跳ね上がる。
「ただいま」
 振り向くとトリくんだった。
 応えもせずにまた体をソファに沈みこませる。
「ジュンヤさん来てるの」
「んー」うん、と言うのさえままならない。
 伝わったのか伝わらなかったのか、トリくんはキッチンへ向かうと、水を出したり電子レンジを鳴らしたり、ごそごそと何事かしてからリビングへと戻って来た。
「お姉ちゃん」
「んー」
「どうぞ」と差し出す手には、子豚がデフォルメされたイラスト入りのマグカップが握られている。
 姿勢を正してカップを受け取ると、湯気と共に甘い香りがカヤの鼻へと届いた。
「ココアだ」
「うん」
 照れくさそうに視線を外しながら隣に腰掛けるトリくん、小さい頃から恥ずかしがるポイントがつかめない。
 ココアをすするといつもよりも強い苦味が口の中に広がり、すぐ後に同じところが甘みで満たされる。
 カヤはその一口で落ち着いた。
「ありがと」
「うん」相変わらずのトリくん。
「ありがとう」左手をその頭に乗せてくしゃくしゃと髪を乱す。
 そこでカヤは自室に放置しているジュンヤのことを思い出した。
「まだあるの、これ」
 トリくんは頷く。
「もらってもいいかな」
 考えた様子を見せてからカヤと目を合わせ
「ごめん、おれの分しかない」
「そっか」
「そう」
「じゃあ自分で紅茶でも入れるかな」
「そうして」
「でもこれ飲み切ってからかなー?」
 トリくんはそこで、カヤのカップの柄に目を移すと、
「着替える」と言ってリビングを出た。

カヤ 3

 こうしてトリくんの部屋に三人でいることに、カヤは正直ほっとしていた。
 家でジュンヤと二人だと、何を話していいか分からない。
 ジュンヤもきょろきょろと視線が定まらないのは、同じように落ち着かないのだろうか。
「そのノートってどこかにまとめてるの」
「はい」
 とトリくんが立ち上がって本棚のガラス戸を開けると、几帳面に並べられた本が姿を表す。その左下の一角を数冊の革の背表紙が占めていた。
「ここです。この三冊が未使用の三冊で、こちらが使い切った分です」
 ノートたちをじっと見つめるジュンヤに、トリくんは一番左の一冊を抜き出して、差し出した。
「びっしりだね」
 ジュンヤはノートを開くとゆっくりとめくり始めた。
「これ面白いなあ。『人が物に名前を付ける度、付けられなかった名前たちの寄り合いが持たれる』だって」
 それを聞いてトリくんは、ジュンヤの手元に向けてた目を泳がせる。普段は話題の中心をじっと見て視線を外さないのに、照れると途端にどこを見ていいかわからなくなるのが可愛い。そして何に照れているのか全く分からないのがもっと可愛い。
「こういうの毎日書いてるんだね」
 トリくんは視線を外したまま頷く。
「カヤちゃんは」
「ん?」
「何に使ってるの、このノート」
「え」
「おじさんの教育方針で、作ったって、聞いたけど」と、ジュンヤは顔の向きだけでトリくんを示す。
 カヤは少し悲しくなった。
「んー。内緒」
「何、それ」ジュンヤが笑う。
 明後日には分かるのだから、言う必要はない。
「そろそろおれ」
 トリくんが立ち上がった。
「夕食の買い物に行きます」
「あ、そうなの」
「わたしが行くよ」
「いや、おれが行く」とトリくんはカヤの目を見つめた。
 今日はわたしの当番だよ、と言いかけてカヤはトリくんが気を遣っていることに気づいた。そして、気を遣っているということは、カヤの気持ちを分かっているのだとも気がついた。
「ん、ありがと」

ジュンヤ 4

「トリくんだ」
 僕と並んで靴箱を抜けたカヤが、学校のライトコートを指さして言った。
 確かに、その先では、薄暗い中、トリくんらしき人影がが誰かと話しているようだった。
「トリくんの方が先に来ているんだ」
「なんでそんなに嬉しそうに言うの」
 カヤは頬を膨らませた。
「嬉しいとか、そんなことはないよ」
「ほんとかな」
「あれ、なんだろう、なんかもめてる?」
 トリくんはこちらに背を向けていて表情は見えないが、強い調子で向かい合う二人に詰め寄っているように見える。
「ほんとだ」
「見に行ったほうがいいんじゃない」
「トリくん譲らないからな。でもどうしよう、お姉ちゃんが出て行って馬鹿にされちゃうってこともない?」
 それはあるかも知れないけど、でもせめて親しい人間くらいは行ったほうがいいんじゃないかと僕は思う。
 でもどうしてかそれをカヤに説くつもりにはなれなかった。
「僕は行くよ」
 一人でライトコートに向かうとカヤが追いかけてくるのが足音で分かった。
 近付くにつれ、言い争っているのがはっきりと聞こえてきた。トリくんが二人の男子のしたことを咎めているらしい。
 ちょうど僕が、あるいは僕達がコートの入り口に立ったところでトリくんが一歩を踏み出したので慌てた。
「トリくん、どうしたの」
 声をかけた時にはトリくんはもう男子の目の前にいて、その手から何かを奪い取っていた。僕の声に気づいてこちらを向いて見えたのは、革表紙のノートだった。
 僕は自分の体が一瞬強ばるのが分かった。
 他の二人も僕の方を向き、首元に目をやると無防備なトリくんの肩を一度小突いてから、足早にライトコートを出ていった。襟章を見て僕が三年だということが分かったのだろう。
「大丈夫?」
 僕はトリくんを気遣うように言ったけど、正直に言って右手に持っているノートが気になって仕方がなかった。
「どうしたの、トリくん」
「大丈夫。教室に戻る」
 すれ違いざまに目をやったノートが、僕がどこかで失くした誕生日プレゼントに見えたのは思い過ごしだろうか……。



 放課後、トリくんに呼ばれて廊下を歩く間に僕は今朝見たのがやはり、僕が学校に持ってきていたノートだと確信した。でも何故、昨日あそこを探した時には見付からなかったのだろう。
 トリくんはそんな僕の心中を知ってか知らずか、振り返りもせずにずんずんと前に進んでいって、階段を昇り始めた。階段を半分昇り、踊り場に着いたところで振り返る。
「これ、姉の本ですよね」
 そう言って取り出したのは、今朝男子二人から奪い取っていたノートだ。
 トリくんの目には心なしか怒気がこもっているように思えた。
「今朝、あの二人がこれを広げながら馬鹿にして笑っているのが見えました」
「トリくんは毎朝あそこにいるの」
 怪訝な顔をするトリくん。
「毎朝ではありませんが、それなりに。本を読むのに丁度いいんですよ、気持ちのいい空気で」
 それでも律儀に応えるトリくんに、ああ、やばいな、と僕は思った。
「きっと落ちていたのを拾ったんだと思います、そんなようなことを言っていました。お願いですから、姉を悲しませないでやってもらえませんか」
 瞬きもせず僕を見つめながらー―睨みながら?ーー言うトリくん、こんな表情は初めて見た。
 分かった、と言いかけて僕は、その言葉を口にすることができず
「ありがとう」というのが精一杯だった。
 トリくんはそれを聞くと、不服そうながら階段を昇って一年生階へと向かっていった。
 僕は何かがやばいな、と思いながら、それをうまく言葉にすることができないでいた。

ジュンヤ 5

「これ、返すよ」
 言い放つ僕に、カヤの目は大きく見開かれて、それから涙が浮かび始める。
 僕の胸は高鳴っていた。
 それはカヤの想いを拒む緊張からではなくてその先のことにだった。
 動こうとしないカヤの腕を取り、無理矢理ノートをその手に握らせる。
 でも僕が手を離すとすぐに床へ落ちてしまう。
 クラスメイトがこちらを窺いながら居心地悪そうに教室を出て行っていた。
「じゃ」
 とだけ言うと教室を出て僕は玄関へと向う。
 カヤを気遣う気持ちはすっかり失せていた。
 間に合わない可能性がある。急がないといけない。
 一階に降りて靴箱の目当ての棚を覗くとあるのは外靴で一安心。
 僕は待った。
 大勢の生徒が帰って波が引いて夕日が差し込み始めて残っていた人がぽつりぽつりと帰る様子を、靴箱前の広場の椅子から眺めて待っていた。
 そのうちに、廊下の向こうから泣き声が聞こえてきた。
 この可能性を考えていなかった。僕はそれほど緊張していたのだ。
 廊下と僕のいる広場のぶつかるところを見ていると、案の定カヤが姿を現す。
 右手で眼鏡をずり上げながら顔を覆い、度々しゃくり上げている。
 そしてその左手は……しっかりと握っていた、トリくんの手を。
 ああ、やばいな、と僕は思った。
 それでも僕は躊躇わない。立ち上がると二人に近づいて前に立つ。
 トリくんのそういうところがいいのだ。そういうところがよくて、本をカヤに返し、飽きもせずこんなところで彼を待っていたのだ。
 そういう、大切な物を必ず守るというところが。
 先に立ち止まったのはトリくんだった。トリくんが腕を引っ張ってようやくカヤも足を止める。
 僕を睨むトリくんの瞳は獲物を狙う猟犬のようで僕はそれに射すくめられながら恐怖と、それとは別の何かに体を震わせた。この感覚を何と呼ぼう。
 僕が一足前に進んでもトリくんは微動だにしないがカヤはそこでようやく眼の前に立っているのが僕だということに気付いたようだった。気付いて僕へ勢いよく足を進め、トリくんに再び腕を引かれてバランスを崩す。
「トリくん」
 もう一歩前に出る。
 僕とトリくんの間は人一人も入らないほど近付いた。
 トリくんは何も応えない。
 僕はトリくんの左腕を掴み、払いのけようと腕を引くのを追いかけられず僕の右手はトリくんの腕を滑った。慌てて強く握るとようやくトリくんの腕は止まる。僕は暖かくて力強いその左手を握っていた。
「トリくんの名前を教えてよ」

この本の内容は以上です。


読者登録

北市真さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について