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カヤ 1

 足元ばかりを見て歩いていた。
 カヤの頭の中には、自分のパンプスの底がアスファルトをこする音だけが響いている。
 靴のつま先の向こうを長い影が歩いていて、カヤが三歩を踏み出す間に、正確に二度、歩みを進めた。左肩から手の先まで火照っているのだけがはっきり分かるがそれ以外には何も考えられなかった。
 二人でいることがここ数日はなかった。前は、朝や放課後にはよく話しながら歩いていたが、それがなくなっても、別に付き合っているわけでもないカヤに何か言うつもりはなかった。ジュンヤの方もそうだろう。教室で二人で話すのは変わらず自然なのに、二人になることに怖れが生まれていることをカヤは自覚していた。
 それなのに今日帰りにジュンヤを待たせたのは、もう一月二八日になってしまっていたからだ。このままの状態で明後日を迎えるのは耐え難かった。
「ねえカヤ」鞄を左肩から右に持ち替えたところで隣のジュンヤが口を開いた。
 心臓が大きく一つ脈打って、うわんうわんと体中に響き渡る。その音が喉から漏れるかと思うほどだった。
 ジュンヤの声を何か月間も聞いていなかったような気がした。
「今日カヤんち行ってもいい?」
「え」
 耳を疑った。
 あんなことがあったのに。
 左手の熱が全身に回り始める。
「うん」
 嬉しい。
 すごく、嬉しい。
 世界が生まれ変わったようだった。それについてこられなかった足が歩き方を忘れて前につんのめる。
「おっと」
 視界が塞がったと思ったらカヤの肩がジュンヤの左手に支えられていた。
「ごめん」
「うん」
 カヤは顔を上げられず、足元しか見えなかった。

ジュンヤ 3

 カヤが僕を部屋に通してから階下に降りると、僕は立ち上がってカヤの部屋を見回した。
 まず目を引いたのは、この間まで僕が読んでいたのと同じ、革表紙の本の背表紙だった。何気ない風を装ってカヤが雑誌の間に挟み込んでいたけど、今年の誕生日プレゼントにくれるつもりの本だろう。それを覗き見るのに後ろめたい気持ちはもちろんある。カヤが今まさに準備している物を、去年の物と間違えているわけがないとも思う。
 深呼吸を一つ。
 机の引き出しを開けた。下敷き、プリクラ、などなど。本は入っていなかったから見なかったことにして閉じた。
 次はクローゼット。さっきカヤが入れていたコート、休日に会うと見るやつ、秋もの、バタン。見なかったことにする。
 収納。見なかったことに。
 そんなことを繰り返して自己嫌悪を大分ため込んだけれど、その甲斐なく本は見付からない。でも、先週この部屋に来た時に置き忘れたくらいしか、他に本の在り処を思い付けない。
 改めて部屋を見回す僕の目を捕らえるのは、やっぱり雑誌の陰に隠れている本なのだった。考えてみれば、一ページ目、二ページ目はもう見ているのだから、今見ても大丈夫だろう。それに、実は何日も前にカヤが作業を終えていて、それ以来中身を確かめていないということも考えられる。
 耳を澄ませてみる。まだカヤが上がってくる気配はない。
 そっと雑誌の束に近付き一番上の物を除けると、タイトルも作者も書かれていない革表紙が姿を現す。
 これは今年もらう分の筈だ、と頭の奥で囁きが聞こえる。恐る恐る、重量感のある表紙をめくり、ページを繰っていく。
 写真が出てきた。そこには、ピントが合っていないけれど、僕が写っている。
 今年もらう分だった。ついこの間、今年カヤに返す分を読み始めたので間違えようがない。つまり、結局失くした方の本は見付からなかったということだ。
 それでも僕は安堵している自分に気付いた。
 気を取り直すために深呼吸をしたところで、階段を昇る音が聞こえた。僕は慌てて本を元の状態に戻し、読みかけだったマンガをカヤの本棚から取り出して開いた。
 足音が近付くに連れて奥歯に力が入り背中に汗が滲み、マンガの内容はまるで頭に入ってこないけれど、なんとなくページをめくってみたりする。という工作は無駄で、そのまま隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえたのできっとトリくんが帰ってきたのだろう。
 そういえばカヤが降りてからずいぶん時間が経っている気がする。

カヤ 2

 リビングに入ってまず、カヤはソファに座り込んだ
 動ける気がしない。
 今まで体を動かしていたエネルギーが全部抜き出てしまった心地がした。
 両手で自分の頬を挟んでみると熱を持っている。目元も震えて涙が滲み出てくる。ジュンヤには気付かれなかっただろうか。気付かれていないわけはない。だがどう思われただろうか。
 まさかジュンヤの方からうちに来ると行ってくれるとは。
 カヤはそのことばかり何度も反芻して今でも他のことを考えられなかった。思い返す度に頬が緩む。二階の自分の部屋に待たせているのだから早くお茶を入れて向かうべきなのに体が言うことを聞かず、ソファに持たせかけた背中を起こす方法さえ忘れてしまったようだった。
 それなのに、リビングのドアノブを回す音に体が跳ね上がる。
「ただいま」
 振り向くとトリくんだった。
 応えもせずにまた体をソファに沈みこませる。
「ジュンヤさん来てるの」
「んー」うん、と言うのさえままならない。
 伝わったのか伝わらなかったのか、トリくんはキッチンへ向かうと、水を出したり電子レンジを鳴らしたり、ごそごそと何事かしてからリビングへと戻って来た。
「お姉ちゃん」
「んー」
「どうぞ」と差し出す手には、子豚がデフォルメされたイラスト入りのマグカップが握られている。
 姿勢を正してカップを受け取ると、湯気と共に甘い香りがカヤの鼻へと届いた。
「ココアだ」
「うん」
 照れくさそうに視線を外しながら隣に腰掛けるトリくん、小さい頃から恥ずかしがるポイントがつかめない。
 ココアをすするといつもよりも強い苦味が口の中に広がり、すぐ後に同じところが甘みで満たされる。
 カヤはその一口で落ち着いた。
「ありがと」
「うん」相変わらずのトリくん。
「ありがとう」左手をその頭に乗せてくしゃくしゃと髪を乱す。
 そこでカヤは自室に放置しているジュンヤのことを思い出した。
「まだあるの、これ」
 トリくんは頷く。
「もらってもいいかな」
 考えた様子を見せてからカヤと目を合わせ
「ごめん、おれの分しかない」
「そっか」
「そう」
「じゃあ自分で紅茶でも入れるかな」
「そうして」
「でもこれ飲み切ってからかなー?」
 トリくんはそこで、カヤのカップの柄に目を移すと、
「着替える」と言ってリビングを出た。

カヤ 3

 こうしてトリくんの部屋に三人でいることに、カヤは正直ほっとしていた。
 家でジュンヤと二人だと、何を話していいか分からない。
 ジュンヤもきょろきょろと視線が定まらないのは、同じように落ち着かないのだろうか。
「そのノートってどこかにまとめてるの」
「はい」
 とトリくんが立ち上がって本棚のガラス戸を開けると、几帳面に並べられた本が姿を表す。その左下の一角を数冊の革の背表紙が占めていた。
「ここです。この三冊が未使用の三冊で、こちらが使い切った分です」
 ノートたちをじっと見つめるジュンヤに、トリくんは一番左の一冊を抜き出して、差し出した。
「びっしりだね」
 ジュンヤはノートを開くとゆっくりとめくり始めた。
「これ面白いなあ。『人が物に名前を付ける度、付けられなかった名前たちの寄り合いが持たれる』だって」
 それを聞いてトリくんは、ジュンヤの手元に向けてた目を泳がせる。普段は話題の中心をじっと見て視線を外さないのに、照れると途端にどこを見ていいかわからなくなるのが可愛い。そして何に照れているのか全く分からないのがもっと可愛い。
「こういうの毎日書いてるんだね」
 トリくんは視線を外したまま頷く。
「カヤちゃんは」
「ん?」
「何に使ってるの、このノート」
「え」
「おじさんの教育方針で、作ったって、聞いたけど」と、ジュンヤは顔の向きだけでトリくんを示す。
 カヤは少し悲しくなった。
「んー。内緒」
「何、それ」ジュンヤが笑う。
 明後日には分かるのだから、言う必要はない。
「そろそろおれ」
 トリくんが立ち上がった。
「夕食の買い物に行きます」
「あ、そうなの」
「わたしが行くよ」
「いや、おれが行く」とトリくんはカヤの目を見つめた。
 今日はわたしの当番だよ、と言いかけてカヤはトリくんが気を遣っていることに気づいた。そして、気を遣っているということは、カヤの気持ちを分かっているのだとも気がついた。
「ん、ありがと」

ジュンヤ 4

「トリくんだ」
 僕と並んで靴箱を抜けたカヤが、学校のライトコートを指さして言った。
 確かに、その先では、薄暗い中、トリくんらしき人影がが誰かと話しているようだった。
「トリくんの方が先に来ているんだ」
「なんでそんなに嬉しそうに言うの」
 カヤは頬を膨らませた。
「嬉しいとか、そんなことはないよ」
「ほんとかな」
「あれ、なんだろう、なんかもめてる?」
 トリくんはこちらに背を向けていて表情は見えないが、強い調子で向かい合う二人に詰め寄っているように見える。
「ほんとだ」
「見に行ったほうがいいんじゃない」
「トリくん譲らないからな。でもどうしよう、お姉ちゃんが出て行って馬鹿にされちゃうってこともない?」
 それはあるかも知れないけど、でもせめて親しい人間くらいは行ったほうがいいんじゃないかと僕は思う。
 でもどうしてかそれをカヤに説くつもりにはなれなかった。
「僕は行くよ」
 一人でライトコートに向かうとカヤが追いかけてくるのが足音で分かった。
 近付くにつれ、言い争っているのがはっきりと聞こえてきた。トリくんが二人の男子のしたことを咎めているらしい。
 ちょうど僕が、あるいは僕達がコートの入り口に立ったところでトリくんが一歩を踏み出したので慌てた。
「トリくん、どうしたの」
 声をかけた時にはトリくんはもう男子の目の前にいて、その手から何かを奪い取っていた。僕の声に気づいてこちらを向いて見えたのは、革表紙のノートだった。
 僕は自分の体が一瞬強ばるのが分かった。
 他の二人も僕の方を向き、首元に目をやると無防備なトリくんの肩を一度小突いてから、足早にライトコートを出ていった。襟章を見て僕が三年だということが分かったのだろう。
「大丈夫?」
 僕はトリくんを気遣うように言ったけど、正直に言って右手に持っているノートが気になって仕方がなかった。
「どうしたの、トリくん」
「大丈夫。教室に戻る」
 すれ違いざまに目をやったノートが、僕がどこかで失くした誕生日プレゼントに見えたのは思い過ごしだろうか……。



 放課後、トリくんに呼ばれて廊下を歩く間に僕は今朝見たのがやはり、僕が学校に持ってきていたノートだと確信した。でも何故、昨日あそこを探した時には見付からなかったのだろう。
 トリくんはそんな僕の心中を知ってか知らずか、振り返りもせずにずんずんと前に進んでいって、階段を昇り始めた。階段を半分昇り、踊り場に着いたところで振り返る。
「これ、姉の本ですよね」
 そう言って取り出したのは、今朝男子二人から奪い取っていたノートだ。
 トリくんの目には心なしか怒気がこもっているように思えた。
「今朝、あの二人がこれを広げながら馬鹿にして笑っているのが見えました」
「トリくんは毎朝あそこにいるの」
 怪訝な顔をするトリくん。
「毎朝ではありませんが、それなりに。本を読むのに丁度いいんですよ、気持ちのいい空気で」
 それでも律儀に応えるトリくんに、ああ、やばいな、と僕は思った。
「きっと落ちていたのを拾ったんだと思います、そんなようなことを言っていました。お願いですから、姉を悲しませないでやってもらえませんか」
 瞬きもせず僕を見つめながらー―睨みながら?ーー言うトリくん、こんな表情は初めて見た。
 分かった、と言いかけて僕は、その言葉を口にすることができず
「ありがとう」というのが精一杯だった。
 トリくんはそれを聞くと、不服そうながら階段を昇って一年生階へと向かっていった。
 僕は何かがやばいな、と思いながら、それをうまく言葉にすることができないでいた。


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